照る日曇る日第151回
満州帝国の影の支配者といわれた甘粕は、超天皇主義者であったとおなじくらいに、超合理主義者でもあった。
本書の371pには満映理事長時代の甘粕は東条に満州情勢を報告するために一時帰国した折の挿話が書かれている。甘粕は、国民精神総動員などと書かれたポスターや宮城を電車が通る時に帽子を脱いで頭を下げる人々を見て、「こんなバカなことをさせる指導者は人間の心持ちがわからない人たちです。国に対する忠誠は宮城の前で頭を下げる下げないで決まるわけではありません」といったそうだ。
そこで「そういう精神指導は誰がやっているのでしょう」と武藤富雄がみえすいたことを訊ねると、「そりゃ軍人と彼らに迎合する人たちですよ。軍人というものは人殺しが専門なのです。人を殺すのは異常な心理状態でなければできないことです。一種の気ちがいです」
と軍人である己の本質を見据えた発言をしている。
関東大震災の戒厳令下、東京憲兵隊渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長甘粕正彦は、東京憲兵隊長の小山介蔵、その上司の憲兵司令官の小泉六一の名に従って大杉栄、伊藤野枝、大杉の甥の宗一を「一種の気ちがい」となって拷問、凌辱、殺戮した。
著者は発見された死因鑑定書やさまざまな聞き取り調査に基づいて殺害の直接の実行犯は甘粕ではなく、彼の命令に従った部下であったと主張しているようだが、仮に100歩譲ってそうだったとしても、主義者撲滅と抹殺を熱烈に唱えていた当時の彼が、このおぞましい犯行を主導・教唆・加担したことは間違いないだろう。
1945年8月20日、青酸カリを服毒した甘粕の最期を看取ったのは当時満映の映画監督をしていた内田吐夢であった。
「体温はまだ残っていた。テーブルの上の灰皿からシガーの最後の煙がゆらゆらと立ち上がって、永井荷風の「濹東綺譚」の本の頁に三通の遺書がはさんであった。人間が自分の股倉の中で死んでいくのは決していい気持のものではなかった」(409p)
♪西暦2008年8月31日「夏の思い出」をじっと聴いている我が息子よ 茫洋
Sunday, August 31, 2008
Saturday, August 30, 2008
イサク・ディネセン著「アフリカの日々」を読んで
照る日曇る日第151回
「アフリカの日々」を読んでいて、これはいつかどこかで見聞きした話だなと思っていたら、やっぱりロバートレッドフォードがかっこよく死んでいったあの愛と哀しみの「アウト・オブ・アフリカ」の原作だった。しかし映画ほどあまっちょろくはない。映画はメロドラマだが、こちらは文字通り土着のアフリカへのつきせぬ共感と愛そのものが美しく正確な文章で淡々と綴られていく。
作者はデンマーク人女性というので驚くが、独立前のケニアには英国やフランスンなど多くの西欧人が入植していたという。白人の植民地にはもちろん土着のスワヒリ族、マサイ族がソマリ族、それにアラブ人が連れてきたソマリ族も住んでいて、雄大な大自然を舞台に様々な国籍、人種の人々がほとんど神話的な物語を営んでいたようだ。そこでは太鼓が打ち鳴らされて村人たちの激しいダンスが始まり、ライオンやキリンや牛や馬たちが部族の族長たちと戦い、神々と人間たちと動植物が渾然一体となって不可思議な交歓を楽しむ。
もとより愛と音楽もかけては入ない。
レッドフォードに相当する人物は、この小説には登場しないが、強いていえば彼女に空から見るアフリカの素晴らしさを満喫させて結局は飛行機事故で墜落氏を遂げたデニスだろうか。映画では野宿する2人のテントに鳴り響いたモーツアルトの23番のピアノコンチエルトが印象的だったが、デニスは、「ベートーベンもあんな風に俗悪でなければ我慢するんだけど」と著者に語るような実にものの分かった男だった。
私はいまちょうどベト氏の全作品を聞き終わったところだが、この人はバッハやバロックの時代の音楽家、あるいはハイドンやモーツアルトに比べても成り上がり者の音楽で、それは必ずしも悪口ではないのだが、やはりお上品さなぞ微塵もない音楽と言わざるを得ない。
2人がライオンを撃つところ、2人がアフリカの大空からバッファローを見るところは素晴らしい。
それはそうとアフリカの老人は知恵がある。「ベニスの商人」のシャイロックの言い分はまったく正しいというのだ。(これは私も同感)問題は血であるが、老人はアントニオの胸に真っ赤に焼けたナイフを差し込めば血は1滴も出ないし、一ポンドになるまで計りながら少しずつ切り取れば苦痛は激しく正確にカットできると主張するのだが、少年時代の演劇でアントニオを演じた私にはことのほか興味深かった。
♪ウイルスに冒されし傷は深くしてブログの夏はとく去りにけり 茫洋
「アフリカの日々」を読んでいて、これはいつかどこかで見聞きした話だなと思っていたら、やっぱりロバートレッドフォードがかっこよく死んでいったあの愛と哀しみの「アウト・オブ・アフリカ」の原作だった。しかし映画ほどあまっちょろくはない。映画はメロドラマだが、こちらは文字通り土着のアフリカへのつきせぬ共感と愛そのものが美しく正確な文章で淡々と綴られていく。
作者はデンマーク人女性というので驚くが、独立前のケニアには英国やフランスンなど多くの西欧人が入植していたという。白人の植民地にはもちろん土着のスワヒリ族、マサイ族がソマリ族、それにアラブ人が連れてきたソマリ族も住んでいて、雄大な大自然を舞台に様々な国籍、人種の人々がほとんど神話的な物語を営んでいたようだ。そこでは太鼓が打ち鳴らされて村人たちの激しいダンスが始まり、ライオンやキリンや牛や馬たちが部族の族長たちと戦い、神々と人間たちと動植物が渾然一体となって不可思議な交歓を楽しむ。
もとより愛と音楽もかけては入ない。
レッドフォードに相当する人物は、この小説には登場しないが、強いていえば彼女に空から見るアフリカの素晴らしさを満喫させて結局は飛行機事故で墜落氏を遂げたデニスだろうか。映画では野宿する2人のテントに鳴り響いたモーツアルトの23番のピアノコンチエルトが印象的だったが、デニスは、「ベートーベンもあんな風に俗悪でなければ我慢するんだけど」と著者に語るような実にものの分かった男だった。
私はいまちょうどベト氏の全作品を聞き終わったところだが、この人はバッハやバロックの時代の音楽家、あるいはハイドンやモーツアルトに比べても成り上がり者の音楽で、それは必ずしも悪口ではないのだが、やはりお上品さなぞ微塵もない音楽と言わざるを得ない。
2人がライオンを撃つところ、2人がアフリカの大空からバッファローを見るところは素晴らしい。
それはそうとアフリカの老人は知恵がある。「ベニスの商人」のシャイロックの言い分はまったく正しいというのだ。(これは私も同感)問題は血であるが、老人はアントニオの胸に真っ赤に焼けたナイフを差し込めば血は1滴も出ないし、一ポンドになるまで計りながら少しずつ切り取れば苦痛は激しく正確にカットできると主張するのだが、少年時代の演劇でアントニオを演じた私にはことのほか興味深かった。
♪ウイルスに冒されし傷は深くしてブログの夏はとく去りにけり 茫洋
Monday, August 18, 2008
平野啓一郎著「決壊」を読んで
照る日曇る日第150回
この節は自分を独り静かに滅却できない人間が通りすがりの人間を無差別に殺害する殺人事件が流行しているが、この小説でもその種のテーマをなんのてらいもなく取り扱っている。これは一昔も二昔も前にはやった小説作法における「主題の積極性」なるもののお色直し再登場?ではないじゃろか。
しかしいずにせよ殺人事件の真実を明らかにすることは法律家の手に余るので古来多くの作家や心理学者や研究家がその因果関係を深層まで下降してあれやこれやとろんぴようしてきた。ホームズやポアロやくりすていなどが活躍する専門的な文芸じゃんるすらあるが、けっきょくなぜジキルやハイドが不可解な殺人事件を起こしたのかを素人にもよくわかるように解明してくれた作物はドストエフスキーの罪と罰以外にはなかったというても過言ではない。
こんかいこの若き俊英が鋭意取り上げた無差別テロルも、悪魔のような殺人鬼やら国会図書館の調査員やらフジテレビの人気女子穴や、京都警察署の刑事やら鋭くきれる高校生や交際相手の陰部の写メールやらあほばかクレーマーママやら浮気する主婦やら2ちゃんねるの書き込みやら残虐なぶり拷問やら携帯ごっごやら田舎のじいさんばあさんやらぷーる教室に通う少年等々が上下2巻にまたがって次々に登場して、これでもか、これでもかとばかりにあれやこれやの悲劇や惨劇や社会正義の演説や精神心理の最新御託やらマスコミ評論家のあほばか解説の限りを尽くすのだが、この某宮中外殺人事件がいったいどうして起こったのかはついに解き明かされることはない。
ただいかにも「真実らしい」事実や情報や解釈や想像や推察やら断定やら教条やら著者の主観的なあまりにも主観的な思い付きが陸続と登場し、結局は全山雷動して鼠一匹も現われないままにいたずらに原稿料を稼ぎまくる文字数だけは膨大な「小説らしきもの」は終わってしまう。
既存の情報やデータをいくらさかしらに「コピペ」したところで、現代も、人間もその本源はおろか片鱗すら描き得ないという好個のサンプルだろう。致命的なのは、登場人物のほぼ全員の生活と生命の精髄が描かれず、まるで著者手作りのでくの坊のように、バリ島の亡霊のように、不出来な操り人形のやうに気色悪く揺曳していることである。
なんのことはない、決壊しているのは自分自身の小説世界であることは、その哀れな結末を読めば自明である。少しはドスト氏のラスコーリニコフの肖像なぞを研究してから筆を染めてほしいものである。
なお著者は、単なる小説の単なる興味本位の筆のすさびであるとはいえ、共犯の少年を流行の精神鑑定にかけ、これまたいま大流行の「広汎性発達障害」なる代物と恣意的に結びつけてくだらない三文小説の座興の種にしている(下巻348p)が、現今のようにこの障害の定義が大混乱し、いまや猫も杓子も発達障害視されている不透明な状況において、このようなとれんでぃ用語を登場人物に仁義も切らずに刻印すること自体が、この小説の風俗小説としての本質を雄弁に物語っているのではないだろうか。
♪耕君のため巨大な蓮の葉と花を贈ってくれた「木」さんに感謝すありがとう 茫洋
この節は自分を独り静かに滅却できない人間が通りすがりの人間を無差別に殺害する殺人事件が流行しているが、この小説でもその種のテーマをなんのてらいもなく取り扱っている。これは一昔も二昔も前にはやった小説作法における「主題の積極性」なるもののお色直し再登場?ではないじゃろか。
しかしいずにせよ殺人事件の真実を明らかにすることは法律家の手に余るので古来多くの作家や心理学者や研究家がその因果関係を深層まで下降してあれやこれやとろんぴようしてきた。ホームズやポアロやくりすていなどが活躍する専門的な文芸じゃんるすらあるが、けっきょくなぜジキルやハイドが不可解な殺人事件を起こしたのかを素人にもよくわかるように解明してくれた作物はドストエフスキーの罪と罰以外にはなかったというても過言ではない。
こんかいこの若き俊英が鋭意取り上げた無差別テロルも、悪魔のような殺人鬼やら国会図書館の調査員やらフジテレビの人気女子穴や、京都警察署の刑事やら鋭くきれる高校生や交際相手の陰部の写メールやらあほばかクレーマーママやら浮気する主婦やら2ちゃんねるの書き込みやら残虐なぶり拷問やら携帯ごっごやら田舎のじいさんばあさんやらぷーる教室に通う少年等々が上下2巻にまたがって次々に登場して、これでもか、これでもかとばかりにあれやこれやの悲劇や惨劇や社会正義の演説や精神心理の最新御託やらマスコミ評論家のあほばか解説の限りを尽くすのだが、この某宮中外殺人事件がいったいどうして起こったのかはついに解き明かされることはない。
ただいかにも「真実らしい」事実や情報や解釈や想像や推察やら断定やら教条やら著者の主観的なあまりにも主観的な思い付きが陸続と登場し、結局は全山雷動して鼠一匹も現われないままにいたずらに原稿料を稼ぎまくる文字数だけは膨大な「小説らしきもの」は終わってしまう。
既存の情報やデータをいくらさかしらに「コピペ」したところで、現代も、人間もその本源はおろか片鱗すら描き得ないという好個のサンプルだろう。致命的なのは、登場人物のほぼ全員の生活と生命の精髄が描かれず、まるで著者手作りのでくの坊のように、バリ島の亡霊のように、不出来な操り人形のやうに気色悪く揺曳していることである。
なんのことはない、決壊しているのは自分自身の小説世界であることは、その哀れな結末を読めば自明である。少しはドスト氏のラスコーリニコフの肖像なぞを研究してから筆を染めてほしいものである。
なお著者は、単なる小説の単なる興味本位の筆のすさびであるとはいえ、共犯の少年を流行の精神鑑定にかけ、これまたいま大流行の「広汎性発達障害」なる代物と恣意的に結びつけてくだらない三文小説の座興の種にしている(下巻348p)が、現今のようにこの障害の定義が大混乱し、いまや猫も杓子も発達障害視されている不透明な状況において、このようなとれんでぃ用語を登場人物に仁義も切らずに刻印すること自体が、この小説の風俗小説としての本質を雄弁に物語っているのではないだろうか。
♪耕君のため巨大な蓮の葉と花を贈ってくれた「木」さんに感謝すありがとう 茫洋
Sunday, August 17, 2008
続 五味文彦・本郷和人編現代語訳「吾妻鏡」第3巻を読んで
照る日曇る日第149回&鎌倉ちょっと不思議な物語143回
いっぽう弟の義経を憎みその殲滅をはかろうとした頼朝は、文永3年1186年4月8日に京で捕らえた静御前を鎌倉八幡宮に召し、白拍子の名手として知られる彼女の踊りを強いた。
よし野山 みねのしら雪 ふみ分けて いるにし人の あとぞこいしき
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
の「黄竹の歌」2曲を、彼女自身による歌唱と舞踏、工藤祐経(後に曽我兄弟による仇討ちで富士巻狩りで殺される)の鼓、畠山重忠(後に北条氏の陰謀で殺される)の銅拍子(現代のシンバル)による伴奏で御前演奏したのである。
「黄竹の歌」というのは中国の清商曲、呉声歌のレパートリーであるが、当代一流の美しきシンガーソングライター静は、前者は古今和歌集の壬生忠岑、後者は伊勢物語第32段からの本歌取りを試み、自分の夫への純愛を限りなく称揚することによって、対極にある権力者の非人間性と政治的無節操を真正面から批判してのけたのだった。
その内容も内容だが、当時彼女は妊娠7ヶ月の身重であったから、このパフォーマンスは文字通り命がけの公演であったのである。
頼朝は激怒したが、妻政子によって「あなたの伊豆時代の私への恋情を想起せよ」といさめられ、ようやく矛を収めた。が、同年7月29日になって、誕生した義高の子息を安達新三郎に命じて由比ガ浜の海に捨てさせた。
静は赤子をひしと抱きしめ何時間も泣き続けたが、母の磯禅師が強引に奪い取って新三郎に引き渡したという。
同病相哀れむではないが、こんな憂き目をみた静に対して、大姫は温かい同情を寄せていたようだ。「吾妻鏡」5月27日の条には、静が病からの回復を祈るために南御堂(勝長寿院)に籠っていた大姫を訪ねて芸を披露して、褒美をもらったと記されている。
9月16日、静と磯禅師は暇を賜って帰洛したが、政子と大姫は多くの貴重な宝物を与えたという。
頼朝が由比ガ浜を訪れたのは、翌文治3年1187年の7月23日のことだった。夏の海浜を散策しながら、孤独な関東の王は、己が圧殺した甥のはかない命に思いを致したのだろうか。
♪世界一速き男の脇見かな 茫洋
♪観衆を見物しつつゴールせり 茫洋
いっぽう弟の義経を憎みその殲滅をはかろうとした頼朝は、文永3年1186年4月8日に京で捕らえた静御前を鎌倉八幡宮に召し、白拍子の名手として知られる彼女の踊りを強いた。
よし野山 みねのしら雪 ふみ分けて いるにし人の あとぞこいしき
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
の「黄竹の歌」2曲を、彼女自身による歌唱と舞踏、工藤祐経(後に曽我兄弟による仇討ちで富士巻狩りで殺される)の鼓、畠山重忠(後に北条氏の陰謀で殺される)の銅拍子(現代のシンバル)による伴奏で御前演奏したのである。
「黄竹の歌」というのは中国の清商曲、呉声歌のレパートリーであるが、当代一流の美しきシンガーソングライター静は、前者は古今和歌集の壬生忠岑、後者は伊勢物語第32段からの本歌取りを試み、自分の夫への純愛を限りなく称揚することによって、対極にある権力者の非人間性と政治的無節操を真正面から批判してのけたのだった。
その内容も内容だが、当時彼女は妊娠7ヶ月の身重であったから、このパフォーマンスは文字通り命がけの公演であったのである。
頼朝は激怒したが、妻政子によって「あなたの伊豆時代の私への恋情を想起せよ」といさめられ、ようやく矛を収めた。が、同年7月29日になって、誕生した義高の子息を安達新三郎に命じて由比ガ浜の海に捨てさせた。
静は赤子をひしと抱きしめ何時間も泣き続けたが、母の磯禅師が強引に奪い取って新三郎に引き渡したという。
同病相哀れむではないが、こんな憂き目をみた静に対して、大姫は温かい同情を寄せていたようだ。「吾妻鏡」5月27日の条には、静が病からの回復を祈るために南御堂(勝長寿院)に籠っていた大姫を訪ねて芸を披露して、褒美をもらったと記されている。
9月16日、静と磯禅師は暇を賜って帰洛したが、政子と大姫は多くの貴重な宝物を与えたという。
頼朝が由比ガ浜を訪れたのは、翌文治3年1187年の7月23日のことだった。夏の海浜を散策しながら、孤独な関東の王は、己が圧殺した甥のはかない命に思いを致したのだろうか。
♪世界一速き男の脇見かな 茫洋
♪観衆を見物しつつゴールせり 茫洋
Saturday, August 16, 2008
五味文彦・本郷和人編現代語訳「吾妻鏡」第3巻を読んで その1
照る日曇る日第148回&鎌倉ちょっと不思議な物語142回
7月下旬に発注された賃労働が本日午前にやっと終了。午後3時から30分間の由比ガ浜海水浴を楽しむ。今日は大潮であった。昨日より波風少ないが、なぜか遊泳注意の黄色い旗が翩翻とひるがえっていた。
この頃は愛用のデジカメは海には持っていかないことにしている。細かな砂塵がレンズというよりCCDに付着して画面を汚すからだ。修理はこれでもう4回目になる。機種は富士のファインピクスだがこの会社とこのFX-F30という機種に構造的な欠陥があるのだろうか?
それはさておき、源頼朝と政子の長女大姫と義経の妾、静は史上稀に見る悲劇の女性である。
木曽義仲の長男義高と政略結婚させられた大姫は、にもかかわらず夫を愛するようになる。ところが義仲が京から追われるように放逐され、頼朝の子範頼と義経の連合軍によって一敗地にまみれ、寿永3年1184年に近江の粟津で殺されると日本のロメオとジュリエットの運命は一変する。
政子の懇望むなしく義高は冷酷非情の男頼朝によって暗殺され、これが愛娘の生涯癒えないトラウマとなった。あまつさえ頼朝は大姫を京の後鳥羽天皇の妃として入内させようとはかるが、このことがますます彼女の心の病を亢進させる原因となった。
大姫はその後13年間生きたが心はたえず死んだ恋人の元にあり、恨みは暗殺者頼朝の胸に永久に刻まれた。
頼朝と政子はおのが政治的野心愛する娘の生きがいを奪ったことを後悔し、毎晩杉本観音から巡礼古道を通って逗子の岩殿寺までお百度参りを行なって回復を祈ったが、建久9年1197年7月14日、大姫は二十歳の若さではかなくもこの世を去った。
巡礼古道は堤一族の開発によって山もろとも鎌倉霊園に造成されてしまったが、岩殿寺は健在である。
♪健ちゃんが卑猥といいしモミジアオイ臆面もなく赤く咲きけり
7月下旬に発注された賃労働が本日午前にやっと終了。午後3時から30分間の由比ガ浜海水浴を楽しむ。今日は大潮であった。昨日より波風少ないが、なぜか遊泳注意の黄色い旗が翩翻とひるがえっていた。
この頃は愛用のデジカメは海には持っていかないことにしている。細かな砂塵がレンズというよりCCDに付着して画面を汚すからだ。修理はこれでもう4回目になる。機種は富士のファインピクスだがこの会社とこのFX-F30という機種に構造的な欠陥があるのだろうか?
それはさておき、源頼朝と政子の長女大姫と義経の妾、静は史上稀に見る悲劇の女性である。
木曽義仲の長男義高と政略結婚させられた大姫は、にもかかわらず夫を愛するようになる。ところが義仲が京から追われるように放逐され、頼朝の子範頼と義経の連合軍によって一敗地にまみれ、寿永3年1184年に近江の粟津で殺されると日本のロメオとジュリエットの運命は一変する。
政子の懇望むなしく義高は冷酷非情の男頼朝によって暗殺され、これが愛娘の生涯癒えないトラウマとなった。あまつさえ頼朝は大姫を京の後鳥羽天皇の妃として入内させようとはかるが、このことがますます彼女の心の病を亢進させる原因となった。
大姫はその後13年間生きたが心はたえず死んだ恋人の元にあり、恨みは暗殺者頼朝の胸に永久に刻まれた。
頼朝と政子はおのが政治的野心愛する娘の生きがいを奪ったことを後悔し、毎晩杉本観音から巡礼古道を通って逗子の岩殿寺までお百度参りを行なって回復を祈ったが、建久9年1197年7月14日、大姫は二十歳の若さではかなくもこの世を去った。
巡礼古道は堤一族の開発によって山もろとも鎌倉霊園に造成されてしまったが、岩殿寺は健在である。
♪健ちゃんが卑猥といいしモミジアオイ臆面もなく赤く咲きけり
Friday, August 15, 2008
宇苗満著「幻の鎌倉」を読んで
照る日曇る日第147回&鎌倉ちょっと不思議な物語141回
今日は敗戦記念日なのに、今年11回目の海水浴。風波強く全身砂まみれになった。
同じ由比ガ浜の海なのに、毎回様子が違うので飽きることがない。
さて本書だが、著者は鎌倉新宗教の一方の旗頭である一遍についての逸話を掲げている。
一遍上人が鎌倉に入ろうとして巨福呂坂切通しにやって来たのは弘安5年1282年3月1日のことだった。ところがちょうどそのとき蒙古来襲の戦死者供養のために円覚寺を建築中だった執権の北条時宗がやってきて一遍上人一行と鉢合わせをしてしまう。
当時ちょうどこの地点に関所があり、一遍は警護の武士によって棒で何度も打たれたがいささかもひるむことなく入鎌を目指したが、時宗はそれを許さなかった。
その夜、一遍は工事中の円覚寺から離れた建長寺に独り向かった。境内には仏光国師(無学祖元)が座禅を組んでいたので、一遍は「踊り跳ねて伏してだにもかなはぬを、居眠りしてはいかがあるべき」と詠んだところ、仏光国師は「踊り跳ね庭に穂拾う小雀は、鷲の棲家をいかが知るべき」と返したという。
これによって一遍上人は大悟し、一同が野宿しているところに引き返した。現在の光照寺がその法難霊場であるというのだが、これはいかにもまことしやかにしてたぶん根も葉もない史実であろう。
ちなみに光照寺は実在し、時宗遊行寺派の名刹であるから一遍とは深いつながりをもっている。まゆつばなのは大悟うんぬんの一条である。
何と言っても63年間戦争しなかったのだ 戦後日本に三度乾杯 茫洋
今日は敗戦記念日なのに、今年11回目の海水浴。風波強く全身砂まみれになった。
同じ由比ガ浜の海なのに、毎回様子が違うので飽きることがない。
さて本書だが、著者は鎌倉新宗教の一方の旗頭である一遍についての逸話を掲げている。
一遍上人が鎌倉に入ろうとして巨福呂坂切通しにやって来たのは弘安5年1282年3月1日のことだった。ところがちょうどそのとき蒙古来襲の戦死者供養のために円覚寺を建築中だった執権の北条時宗がやってきて一遍上人一行と鉢合わせをしてしまう。
当時ちょうどこの地点に関所があり、一遍は警護の武士によって棒で何度も打たれたがいささかもひるむことなく入鎌を目指したが、時宗はそれを許さなかった。
その夜、一遍は工事中の円覚寺から離れた建長寺に独り向かった。境内には仏光国師(無学祖元)が座禅を組んでいたので、一遍は「踊り跳ねて伏してだにもかなはぬを、居眠りしてはいかがあるべき」と詠んだところ、仏光国師は「踊り跳ね庭に穂拾う小雀は、鷲の棲家をいかが知るべき」と返したという。
これによって一遍上人は大悟し、一同が野宿しているところに引き返した。現在の光照寺がその法難霊場であるというのだが、これはいかにもまことしやかにしてたぶん根も葉もない史実であろう。
ちなみに光照寺は実在し、時宗遊行寺派の名刹であるから一遍とは深いつながりをもっている。まゆつばなのは大悟うんぬんの一条である。
何と言っても63年間戦争しなかったのだ 戦後日本に三度乾杯 茫洋
宇苗満著「幻の鎌倉」を読んで
照る日曇る日第147回&鎌倉ちょっと不思議な物語141回
今日は敗戦記念日なのに、今年11回目の海水浴。風波強く全身砂まみれになった。
同じ由比ガ浜の海なのに、毎回様子が違うので飽きることがない。
さて本書だが、著者は鎌倉新宗教の一方の旗頭である一遍についての逸話を掲げている。
一遍上人が鎌倉に入ろうとして巨福呂坂切通しにやって来たのは弘安5年1282年3月1日のことだった。ところがちょうどそのとき蒙古来襲の戦死者供養のために円覚寺を建築中だった執権の北条時宗がやってきて一遍上人一行と鉢合わせをしてしまう。
当時ちょうどこの地点に関所があり、一遍は警護の武士によって棒で何度も打たれたがいささかもひるむことなく入鎌を目指したが、時宗はそれを許さなかった。
その夜、一遍は工事中の円覚寺から離れた建長寺に独り向かった。境内には仏光国師(無学祖元)が座禅を組んでいたので、一遍は「踊り跳ねて伏してだにもかなはぬを、居眠りしてはいかがあるべき」と詠んだところ、仏光国師は「踊り跳ね庭に穂拾う小雀は、鷲の棲家をいかが知るべき」と返したという。
これによって一遍上人は大悟し、一同が野宿しているところに引き返した。現在の光照寺がその法難霊場であるというのだが、これはいかにもまことしやかにしてたぶん根も葉もない史実であろう。
ちなみに光照寺は実在し、時宗遊行寺派の名刹であるから一遍とは深いつながりをもっている。まゆつばなのは大悟うんぬんの一条である。
何と言っても63年間戦争しなかったのだ 戦後日本に三度乾杯 茫洋
今日は敗戦記念日なのに、今年11回目の海水浴。風波強く全身砂まみれになった。
同じ由比ガ浜の海なのに、毎回様子が違うので飽きることがない。
さて本書だが、著者は鎌倉新宗教の一方の旗頭である一遍についての逸話を掲げている。
一遍上人が鎌倉に入ろうとして巨福呂坂切通しにやって来たのは弘安5年1282年3月1日のことだった。ところがちょうどそのとき蒙古来襲の戦死者供養のために円覚寺を建築中だった執権の北条時宗がやってきて一遍上人一行と鉢合わせをしてしまう。
当時ちょうどこの地点に関所があり、一遍は警護の武士によって棒で何度も打たれたがいささかもひるむことなく入鎌を目指したが、時宗はそれを許さなかった。
その夜、一遍は工事中の円覚寺から離れた建長寺に独り向かった。境内には仏光国師(無学祖元)が座禅を組んでいたので、一遍は「踊り跳ねて伏してだにもかなはぬを、居眠りしてはいかがあるべき」と詠んだところ、仏光国師は「踊り跳ね庭に穂拾う小雀は、鷲の棲家をいかが知るべき」と返したという。
これによって一遍上人は大悟し、一同が野宿しているところに引き返した。現在の光照寺がその法難霊場であるというのだが、これはいかにもまことしやかにしてたぶん根も葉もない史実であろう。
ちなみに光照寺は実在し、時宗遊行寺派の名刹であるから一遍とは深いつながりをもっている。まゆつばなのは大悟うんぬんの一条である。
何と言っても63年間戦争しなかったのだ 戦後日本に三度乾杯 茫洋
Wednesday, August 13, 2008
Tuesday, August 12, 2008
Monday, August 11, 2008
Sunday, August 10, 2008
Saturday, August 09, 2008
Friday, August 08, 2008
利尻・礼文島にて その1
♪ある晴れた日に その32
――今月の5日から7日まで生まれて初めて北海道の利尻島と礼文島を旅行した忘れ形見に
電車に乗り飛行機に乗りてから船に乗り 利尻礼文の海山に着きたり
利尻には利尻夏蝉、礼文には礼文夏蝉 ひがなジジッと鳴きおり
利尻富士は富士よりうるわし 利尻山より落つる水うまし
大太鼓利尻の夜を揺るがせて 老若男女みな踊りたり
沓形の港に霧は深くして今日のウニ漁中止ならんか
♪ニシンども浜に押し寄せ村人を歓喜させたるかの日なつかし 茫洋
――今月の5日から7日まで生まれて初めて北海道の利尻島と礼文島を旅行した忘れ形見に
電車に乗り飛行機に乗りてから船に乗り 利尻礼文の海山に着きたり
利尻には利尻夏蝉、礼文には礼文夏蝉 ひがなジジッと鳴きおり
利尻富士は富士よりうるわし 利尻山より落つる水うまし
大太鼓利尻の夜を揺るがせて 老若男女みな踊りたり
沓形の港に霧は深くして今日のウニ漁中止ならんか
♪ニシンども浜に押し寄せ村人を歓喜させたるかの日なつかし 茫洋
Monday, August 04, 2008
桐野夏生著「東京島」を読んで
照る日曇る日第146回
おそらくは東シナ海にある孤島東京島に吹き寄せられた日本や中国やフィリピン人たちが繰りひろげる真夏の夜の夢のような一場の戯画であるが、メンデルスゾーンの夢幻世界と違うのはそれがまぎれもなく私たち現代人に親しい夢魔の世界であることだ。
東京島はロビンソンクルーソーが漂流した絶海の孤島の比喩でもあり、日本やアジアの国々や国民が直面している政治的、経済的、社会的、文明史的状況の象徴であり、男と女の性的関係の極限状況の縮図でもある。
遭難や緊急一時避難やらで余儀なくこの狭い東京島に暮らすことになったそこいらにうよいよしている私のようなくたびれ果てたフリーターや大工見習いや主婦やライターや学生や歌手やダンサーたち。それらはみんな普通の人々である。
彼らは人工の衣装や文明文化を奪い去られて原始に還る。おのがじしの肉体と思想だけに依拠せざるを得なくなる。
徹底的に解体されて原子に還る個、結合されて原始的宗派や党派として再組織化されていく共同性の中の個。それらの共同体の内部と外部ではじまる分裂と敵対と戦いが、はるか彼方のスペースシャトルから俯瞰遠望された21世紀の生物化学実験、iPS細胞を使った生命文化の再生実験のように精密に描写される。
著者は、時代閉塞の現状にあえぐわたしたち現代人のいくつかのサンプルを拉致し、プレパラートに乗せて人類黎明期の人工舞台に放ち、そのやっさもっさの行状をするどく見据えようと試みようとした。
この文学的シミュレーションが大きな成功を収めたとはお世辞にもいえないが、物語の結末にどこかからある種の微光が差してくるところに、著者の未来への強い思い入れを感じないわけにはいかない。
♪わが子ながら毎日よく働いたね 施設のボーナス一四六〇円 茫洋
おそらくは東シナ海にある孤島東京島に吹き寄せられた日本や中国やフィリピン人たちが繰りひろげる真夏の夜の夢のような一場の戯画であるが、メンデルスゾーンの夢幻世界と違うのはそれがまぎれもなく私たち現代人に親しい夢魔の世界であることだ。
東京島はロビンソンクルーソーが漂流した絶海の孤島の比喩でもあり、日本やアジアの国々や国民が直面している政治的、経済的、社会的、文明史的状況の象徴であり、男と女の性的関係の極限状況の縮図でもある。
遭難や緊急一時避難やらで余儀なくこの狭い東京島に暮らすことになったそこいらにうよいよしている私のようなくたびれ果てたフリーターや大工見習いや主婦やライターや学生や歌手やダンサーたち。それらはみんな普通の人々である。
彼らは人工の衣装や文明文化を奪い去られて原始に還る。おのがじしの肉体と思想だけに依拠せざるを得なくなる。
徹底的に解体されて原子に還る個、結合されて原始的宗派や党派として再組織化されていく共同性の中の個。それらの共同体の内部と外部ではじまる分裂と敵対と戦いが、はるか彼方のスペースシャトルから俯瞰遠望された21世紀の生物化学実験、iPS細胞を使った生命文化の再生実験のように精密に描写される。
著者は、時代閉塞の現状にあえぐわたしたち現代人のいくつかのサンプルを拉致し、プレパラートに乗せて人類黎明期の人工舞台に放ち、そのやっさもっさの行状をするどく見据えようと試みようとした。
この文学的シミュレーションが大きな成功を収めたとはお世辞にもいえないが、物語の結末にどこかからある種の微光が差してくるところに、著者の未来への強い思い入れを感じないわけにはいかない。
♪わが子ながら毎日よく働いたね 施設のボーナス一四六〇円 茫洋
Sunday, August 03, 2008
レオニード・ツィプキン著「バーデン・バーデンの夏」を読んで
照る日曇る日第145回
新潮社のクレストブックは用紙や装丁がどことなく西欧の文学書のにおいをほのかながらも伝えているので、たまに手に取るが、この本はタイトルに惹かれて読んでみた。なんとなく私の愛してやまない「旅の日のモーツアルト」を連想したのだが、驚いたことに登場した主人公はロシアの文豪ドストエフスキーその人であった。
私は行ったことがないが、バーデンバーデンは南ドイツの温泉町で、かつてミヒャエル・ギーレンをシェフとしていた前衛音楽の演奏に長けた渋いローカル・オーケストラを擁する街である。
古くからヨーロッパの貴族やお金持ちが保養や避暑に出かけたらしいが、ドストエフスキー夫妻もこの町に出かけ、最後の一カペイカまで賭博に投じる場面がこのドキュメンタリー的私小説のかなりの部分を占めている。
著者は文学趣味を持つ旧ソ連の科学者だが、バーデンバーデン、ドレスデン、パリを流離うドストエフスキー夫妻の旅を史実に即して追いながら、著者自身のドストエフスキー発見の内面の旅がピアノのフーガの連弾のようにめまぐるしく交錯しながら描かれ、文豪への熱烈な愛と献身に貫かれた遁走曲は、1881年1月28日の文豪の死の床の感情を抑えた、しかし感動的な描写でその絶頂に達する。
エドワード・ラジンスキーの「アレクサンドル2世暗殺」でも詳しく叙述されていたように「カラマーゾフの兄弟」を書き上げたばかりのドストエフスキーは、書棚の下に転がり込んだ愛用のペンを探そうとしてかがんだときに肺を傷つけ、そこからの出血が原因で無念の突然死を遂げてしまう。
昨日の赤塚不二夫と同じくらい、早すぎた無念な逝去であった。
なおこの本は、2004年に亡くなったスーザン・ソンタグによって「最も美しく感動的でユニークな作品」と絶賛されてはじめて世に出たが、「ドストエフスキーを愛すること」という彼女の序文も心に深く沁みる。
幼虫をトイレに捨てたる息子かな 茫洋
新潮社のクレストブックは用紙や装丁がどことなく西欧の文学書のにおいをほのかながらも伝えているので、たまに手に取るが、この本はタイトルに惹かれて読んでみた。なんとなく私の愛してやまない「旅の日のモーツアルト」を連想したのだが、驚いたことに登場した主人公はロシアの文豪ドストエフスキーその人であった。
私は行ったことがないが、バーデンバーデンは南ドイツの温泉町で、かつてミヒャエル・ギーレンをシェフとしていた前衛音楽の演奏に長けた渋いローカル・オーケストラを擁する街である。
古くからヨーロッパの貴族やお金持ちが保養や避暑に出かけたらしいが、ドストエフスキー夫妻もこの町に出かけ、最後の一カペイカまで賭博に投じる場面がこのドキュメンタリー的私小説のかなりの部分を占めている。
著者は文学趣味を持つ旧ソ連の科学者だが、バーデンバーデン、ドレスデン、パリを流離うドストエフスキー夫妻の旅を史実に即して追いながら、著者自身のドストエフスキー発見の内面の旅がピアノのフーガの連弾のようにめまぐるしく交錯しながら描かれ、文豪への熱烈な愛と献身に貫かれた遁走曲は、1881年1月28日の文豪の死の床の感情を抑えた、しかし感動的な描写でその絶頂に達する。
エドワード・ラジンスキーの「アレクサンドル2世暗殺」でも詳しく叙述されていたように「カラマーゾフの兄弟」を書き上げたばかりのドストエフスキーは、書棚の下に転がり込んだ愛用のペンを探そうとしてかがんだときに肺を傷つけ、そこからの出血が原因で無念の突然死を遂げてしまう。
昨日の赤塚不二夫と同じくらい、早すぎた無念な逝去であった。
なおこの本は、2004年に亡くなったスーザン・ソンタグによって「最も美しく感動的でユニークな作品」と絶賛されてはじめて世に出たが、「ドストエフスキーを愛すること」という彼女の序文も心に深く沁みる。
幼虫をトイレに捨てたる息子かな 茫洋
Saturday, August 02, 2008
続々安田次郎著「走る悪党、蜂起する土民」を読んで
照る日曇る日第144回&鎌倉ちょっと不思議な物語140回
室町幕府は京の花の御所にあったが、関東の政務は鎌倉公方4代目の足利持氏が関東管領の上杉憲実と共に執り行っていた。鎌倉公方の御所は私の住まいから5分の浄明寺にあり、その旧蹟には写真のような鎌倉青年団作成のおおきな碑が建っている。
1438年永亨10年6月、足利将軍義教に逆らって兵を挙げた持氏は、斯波、一色の軍勢に敗れて鎌倉永安寺に武装を解いて恭順の意を表していたが義教は許さず、翌年の2月にこのいまはなき廃寺を十重二十重に取り囲んだ憲実の兵の前で息子の義久とともに自刃して果てた。これを永亨の乱という。
持氏が死んだ永安寺は基氏に続く2代目鎌倉公方足利氏満の菩提を弔うために鎌倉二階堂紅葉が谷に創建された禅寺で、名刹瑞泉寺のすぐ近くにあった。
公方は毎年2月に参詣することになっていたので、その2月の梅の季節に持氏が亡くなったのもなにかの宿縁であろう。わが愛読書の「鎌倉廃寺事典」によれば、「結城合戦絵巻」に悲劇の将足利持氏が自刃するさまが描かれているようだ。
翌年持氏の遺児安王丸、春王丸を擁して結城氏朝が幕府に反旗を翻した。持氏を殺して鎌倉の主となった上杉憲実にたいする反感もあって茨城の結城城には関東の名だたる武将が参集して頑強に戦ったが、武運つたなく1441年嘉吉元年結城氏朝は戦死し、安王丸と春王丸も京に送られる途中で殺された。
これが結城合戦であるが、名門大守護の結城氏がこうして没落してくれたおかげで、その部下の末裔であった今川氏や織田氏が戦国の世に活躍の場を得ることができたともいえる。
♪一日に二匹の蝉を拾いけり 茫洋
室町幕府は京の花の御所にあったが、関東の政務は鎌倉公方4代目の足利持氏が関東管領の上杉憲実と共に執り行っていた。鎌倉公方の御所は私の住まいから5分の浄明寺にあり、その旧蹟には写真のような鎌倉青年団作成のおおきな碑が建っている。
1438年永亨10年6月、足利将軍義教に逆らって兵を挙げた持氏は、斯波、一色の軍勢に敗れて鎌倉永安寺に武装を解いて恭順の意を表していたが義教は許さず、翌年の2月にこのいまはなき廃寺を十重二十重に取り囲んだ憲実の兵の前で息子の義久とともに自刃して果てた。これを永亨の乱という。
持氏が死んだ永安寺は基氏に続く2代目鎌倉公方足利氏満の菩提を弔うために鎌倉二階堂紅葉が谷に創建された禅寺で、名刹瑞泉寺のすぐ近くにあった。
公方は毎年2月に参詣することになっていたので、その2月の梅の季節に持氏が亡くなったのもなにかの宿縁であろう。わが愛読書の「鎌倉廃寺事典」によれば、「結城合戦絵巻」に悲劇の将足利持氏が自刃するさまが描かれているようだ。
翌年持氏の遺児安王丸、春王丸を擁して結城氏朝が幕府に反旗を翻した。持氏を殺して鎌倉の主となった上杉憲実にたいする反感もあって茨城の結城城には関東の名だたる武将が参集して頑強に戦ったが、武運つたなく1441年嘉吉元年結城氏朝は戦死し、安王丸と春王丸も京に送られる途中で殺された。
これが結城合戦であるが、名門大守護の結城氏がこうして没落してくれたおかげで、その部下の末裔であった今川氏や織田氏が戦国の世に活躍の場を得ることができたともいえる。
♪一日に二匹の蝉を拾いけり 茫洋
Friday, August 01, 2008
続 安田次郎著「走る悪党、蜂起する土民」を読んで
続 安田次郎著「走る悪党、蜂起する土民」を読んで
照る日曇る日第143回&
盂蘭盆には死者のために経を読み、供物や手向け水を供える。風流(ふりゆう)、風流踊り(盆踊り)はほんらいは死者の供養のためのダンスだが、これらは室町時代に日本全国で流行し、芸能化・娯楽化の道をたどっていたと著者の安田次郎氏は書いている。
応永30年1423年船津村の風流踊りは「吾妻鏡」の朝比奈三郎義秀の活躍の場面を脚色して村人総出で踊ったそうだ。
私の家の近くに朝比奈切り通しがあるが、この難所は鎌倉幕府の侍所長官和田義盛の剛勇無双を謳われた息子、朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたという伝説で知られている。
そして和田氏がかの悪名高き北条氏に陰謀に抗して和田合戦を引き起こしたとき、義秀は総門を単身突破して幕府の南庭に乱入したと「吾妻鏡」は伝えているが、彼らはこの有名なシーンを再現したのであった。
道野辺の桜の幹に止まらせぬ飛べずにもがく油蝉
生まれつき障碍のある油ゼミ桜の幹に止まらせてやりぬ
照る日曇る日第143回&
盂蘭盆には死者のために経を読み、供物や手向け水を供える。風流(ふりゆう)、風流踊り(盆踊り)はほんらいは死者の供養のためのダンスだが、これらは室町時代に日本全国で流行し、芸能化・娯楽化の道をたどっていたと著者の安田次郎氏は書いている。
応永30年1423年船津村の風流踊りは「吾妻鏡」の朝比奈三郎義秀の活躍の場面を脚色して村人総出で踊ったそうだ。
私の家の近くに朝比奈切り通しがあるが、この難所は鎌倉幕府の侍所長官和田義盛の剛勇無双を謳われた息子、朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたという伝説で知られている。
そして和田氏がかの悪名高き北条氏に陰謀に抗して和田合戦を引き起こしたとき、義秀は総門を単身突破して幕府の南庭に乱入したと「吾妻鏡」は伝えているが、彼らはこの有名なシーンを再現したのであった。
道野辺の桜の幹に止まらせぬ飛べずにもがく油蝉
生まれつき障碍のある油ゼミ桜の幹に止まらせてやりぬ
Wednesday, July 30, 2008
2008年文月茫洋詩歌集
2008年文月茫洋詩歌集
♪ある晴れた日に その31
現実を知れば知るほど身軽に動けぬこの矛盾をいかにすべきや
わが名と同じ亡羊という歌人を見出したり致し方なく今日よりは茫洋とせむ
Only connectただつながれといいしは英国文人E.M.フォスター
かまくらのはちまんさまのげんじいけしろはすにむかいてあかもさきおり
中国銭を鋳りて生まれし鎌倉大仏
品川のホームに聳える超高層神なき真昼にガラス輝く
こんな監獄で働いて何がうれしいのかよ超高層に蠢く死せるアリたち
こらあ父にアホ笑いするなと怒鳴りつけ自閉症の息子に投げしは春樹訳「熊を放つ」上下巻
今日もまた自閉の息子が描いている関東平野全線路線図
ムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムク
実存は本質に先行するや否やと考え込みしは30年前
沿線の紅いカンナの命かな
セオリーの真白きパンツをはきこなす背高き女性の尻のかたちよ
山手線停まるやいなや突入す若き男のさもしき心よ
妻は大蛇を我は子蛇を見き 同じ日の朝と夜とに アマグモをあめぐもと呼びしNHKを切る
ファッションを扱う小さな広告代理店ありませんかと問いかける女子大4年生
たった一度も授業に出なかったくせに試験日はいつですかと尋ねる女子大生
あと一日出席足らぬ学生の哀願を心を鬼に退けて去る
息を吐くと布袋腹が出る この中には何が入っているのだろう
ダガーナイフに罪はない ダガーで刺すやつが悪い
アフリカ人も中国人もフランス人もブラジル人も日本人も浮かんでいるよ由比ガ浜の海
翡翠飛びニイニイ鳴き今日からは私の夏だ
今度の戦争のためにでっかい戦車が通れる道路を作っているんですと道路工夫語る
二十年苦楽を共に働きしが住友不動産原宿ビルに変わり果てたり
ファンドなどと英語でカッコつけてるが我利我利亡者の仕事なりけり
♪ある晴れた日に その31
現実を知れば知るほど身軽に動けぬこの矛盾をいかにすべきや
わが名と同じ亡羊という歌人を見出したり致し方なく今日よりは茫洋とせむ
Only connectただつながれといいしは英国文人E.M.フォスター
かまくらのはちまんさまのげんじいけしろはすにむかいてあかもさきおり
中国銭を鋳りて生まれし鎌倉大仏
品川のホームに聳える超高層神なき真昼にガラス輝く
こんな監獄で働いて何がうれしいのかよ超高層に蠢く死せるアリたち
こらあ父にアホ笑いするなと怒鳴りつけ自閉症の息子に投げしは春樹訳「熊を放つ」上下巻
今日もまた自閉の息子が描いている関東平野全線路線図
ムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムク
実存は本質に先行するや否やと考え込みしは30年前
沿線の紅いカンナの命かな
セオリーの真白きパンツをはきこなす背高き女性の尻のかたちよ
山手線停まるやいなや突入す若き男のさもしき心よ
妻は大蛇を我は子蛇を見き 同じ日の朝と夜とに アマグモをあめぐもと呼びしNHKを切る
ファッションを扱う小さな広告代理店ありませんかと問いかける女子大4年生
たった一度も授業に出なかったくせに試験日はいつですかと尋ねる女子大生
あと一日出席足らぬ学生の哀願を心を鬼に退けて去る
息を吐くと布袋腹が出る この中には何が入っているのだろう
ダガーナイフに罪はない ダガーで刺すやつが悪い
アフリカ人も中国人もフランス人もブラジル人も日本人も浮かんでいるよ由比ガ浜の海
翡翠飛びニイニイ鳴き今日からは私の夏だ
今度の戦争のためにでっかい戦車が通れる道路を作っているんですと道路工夫語る
二十年苦楽を共に働きしが住友不動産原宿ビルに変わり果てたり
ファンドなどと英語でカッコつけてるが我利我利亡者の仕事なりけり
Tuesday, July 29, 2008
安田次郎著「走る悪党、蜂起する土民」を読んで
照る日曇る日第142回
足利尊氏の執事として権力をほしいままにした高師直は、四条畷の激戦で楠木正行を戦死させ、一時は尊氏の弟直義が逃げ込んだ尊氏邸を大軍で十重二十重に取り囲んだほどの勢いを見せた。
師直は夜な夜な貴族の家に忍び込んで評判の娘を誘拐してはその貞操をほしいいままに蹂躙していた典型的なバサラ大名で日本史上有数の好色な武人だった。
あるとき美人の誉れ高い出雲守護佐々木塩冶判官高貞の妻に横恋慕した師直だったがまったく相手にされない。いつもならお得意の夜這いと暴力に訴えるのだが、考えた挙句に「兼好と云ける能書の遁世者を呼び寄せて」ラブレターの代筆を頼んだ。「徒然草」の兼好法師はどうやら当代一のゴーストライターとして知られていたらしい。
ところがせっかくの名文なのに高貞の妻は開封すらせずに捨ててしまったので、師直は怒り狂って「今日よりその兼好法師、是へよすべからず」と出入り差し止めにしてしまったという。
兼好にすれば、彼女が読んでくれさえすれば色男になびかせる自信もあっただろう。彼女が読まないのに自分を首にした師直に対しては頭にきたのではないだろうか。
しかし権力者の要請にこたえて恋文を書いてしまう吉田兼好の姿は、独立不羈な「徒然草」の世界を知るものにとってはいささか意外の感もしないではない。
今日もまた自閉の息子が描いている関東平野全線路線図 茫洋
足利尊氏の執事として権力をほしいままにした高師直は、四条畷の激戦で楠木正行を戦死させ、一時は尊氏の弟直義が逃げ込んだ尊氏邸を大軍で十重二十重に取り囲んだほどの勢いを見せた。
師直は夜な夜な貴族の家に忍び込んで評判の娘を誘拐してはその貞操をほしいいままに蹂躙していた典型的なバサラ大名で日本史上有数の好色な武人だった。
あるとき美人の誉れ高い出雲守護佐々木塩冶判官高貞の妻に横恋慕した師直だったがまったく相手にされない。いつもならお得意の夜這いと暴力に訴えるのだが、考えた挙句に「兼好と云ける能書の遁世者を呼び寄せて」ラブレターの代筆を頼んだ。「徒然草」の兼好法師はどうやら当代一のゴーストライターとして知られていたらしい。
ところがせっかくの名文なのに高貞の妻は開封すらせずに捨ててしまったので、師直は怒り狂って「今日よりその兼好法師、是へよすべからず」と出入り差し止めにしてしまったという。
兼好にすれば、彼女が読んでくれさえすれば色男になびかせる自信もあっただろう。彼女が読まないのに自分を首にした師直に対しては頭にきたのではないだろうか。
しかし権力者の要請にこたえて恋文を書いてしまう吉田兼好の姿は、独立不羈な「徒然草」の世界を知るものにとってはいささか意外の感もしないではない。
今日もまた自閉の息子が描いている関東平野全線路線図 茫洋
Sunday, July 27, 2008
続々 網野善彦著作集第17巻「日本」論を読んで その3
続々 網野善彦著作集第17巻「日本」論を読んで
照る日曇る日第141回
「百姓」とは文字通り百の職業・職種の民を指すのに、いつのまにやらそれが「農民」だけを意味し、都市の商工業者や漁民や山民を排除し、あまつさえ差別するようになったと網野は執拗に説いた。
たとえば養蚕業者は稲作農耕とは無関係なのに、いまなお養蚕農業というカテゴリにー取り入れられ、農民の仲間とされているのは果樹農家という用語と同様に奇妙な話である。
養蚕の原料となる桑は漆と同様弥生時代以降全国で生産され、主に女性の手で生産・販売された。それは稲作のそれが主に男性によって担われたことと好一対をなしていると網野はいう。
女性はまゆや糸や絹を自らの宰領で商人に売り渡して自らを飾り、自らの収入とし、夫の家業の農業が不振な年には、ルイス・フロイスが安土桃山時代に証言しているように、「妻が夫に高利で貸し付けていた」。
その後わが国で発達した工業制工業の時代にあって、富岡の製糸業や綾部の郡是製糸などが花形産業として活躍するようになるが、その主要な担い手はやはり2000年以上の養蚕・製糸の技術を持つ女性たちであった。
それにもかかわらず、彼女たちの力量は正当に評価されずに「女工」とさげすまれ、かずかずの哀史がいたるところの野麦峠で繰り返されるようになったのはどうしてだろうか。
このように遠い昔の歴史を掘り返してみると、社会の中で女性の占める位置がもっとも高くなったのが現代であるとは、いちがいに言えないようである。
二十年苦楽を共に働きしが住友不動産原宿ビルに変わり果てたり 茫洋
照る日曇る日第141回
「百姓」とは文字通り百の職業・職種の民を指すのに、いつのまにやらそれが「農民」だけを意味し、都市の商工業者や漁民や山民を排除し、あまつさえ差別するようになったと網野は執拗に説いた。
たとえば養蚕業者は稲作農耕とは無関係なのに、いまなお養蚕農業というカテゴリにー取り入れられ、農民の仲間とされているのは果樹農家という用語と同様に奇妙な話である。
養蚕の原料となる桑は漆と同様弥生時代以降全国で生産され、主に女性の手で生産・販売された。それは稲作のそれが主に男性によって担われたことと好一対をなしていると網野はいう。
女性はまゆや糸や絹を自らの宰領で商人に売り渡して自らを飾り、自らの収入とし、夫の家業の農業が不振な年には、ルイス・フロイスが安土桃山時代に証言しているように、「妻が夫に高利で貸し付けていた」。
その後わが国で発達した工業制工業の時代にあって、富岡の製糸業や綾部の郡是製糸などが花形産業として活躍するようになるが、その主要な担い手はやはり2000年以上の養蚕・製糸の技術を持つ女性たちであった。
それにもかかわらず、彼女たちの力量は正当に評価されずに「女工」とさげすまれ、かずかずの哀史がいたるところの野麦峠で繰り返されるようになったのはどうしてだろうか。
このように遠い昔の歴史を掘り返してみると、社会の中で女性の占める位置がもっとも高くなったのが現代であるとは、いちがいに言えないようである。
二十年苦楽を共に働きしが住友不動産原宿ビルに変わり果てたり 茫洋
Friday, July 25, 2008
続 網野善彦著作集第17巻「日本」論を読んで
照る日曇る日第140回
私たちは、そも何のために、何に忠義立てして、重厚長大な国家という鎧兜を身にまといたがるのだろうか。恐らくは己の魂に自恃がないからだろう。
と、これは私のひとりごと。
それにしてもこれから日本はどこへ行くのだろう。私たちは日本をどうすればいいのだろう。
今を去ること遠くない時代に、この国の理想は「東洋のスイス」であると語った人もいた。
またある痴人は、日本という国家を解体し、アジアの南極にすることが生涯の夢であるという。特定の国家権力と戦力がない永世中立世界万民公有自由通商地域にしようというのである。さうしてそれが実現不可能ならば、廃藩置県ならぬ「廃国立県」を行なって江戸時代の昔に戻ろう。「統一と団結」から「孤立と自由」へ、「集権」から「分散」へ向かおうというのである。
思うに、少なくとも沖縄・東北・北海道はいますぐ独立すべきだろう。そのほうがけっきょくお互いの仕合せになるだろう。さもなければこの奇妙奇天烈な国家は、勝手に暴走して人民をまたしても鉄のくびきで緊縛し、最後にはお得意の「自衛のための侵略戦争」をおっぱじめるにちがいない。
と、わが親しき三年寝太郎は、このときばかりは目を山猫のようにらんらんと光らせて熱く語るのであった。
♪あと一日出席足らぬ学生の哀願を心を鬼に退けて去る 茫洋
私たちは、そも何のために、何に忠義立てして、重厚長大な国家という鎧兜を身にまといたがるのだろうか。恐らくは己の魂に自恃がないからだろう。
と、これは私のひとりごと。
それにしてもこれから日本はどこへ行くのだろう。私たちは日本をどうすればいいのだろう。
今を去ること遠くない時代に、この国の理想は「東洋のスイス」であると語った人もいた。
またある痴人は、日本という国家を解体し、アジアの南極にすることが生涯の夢であるという。特定の国家権力と戦力がない永世中立世界万民公有自由通商地域にしようというのである。さうしてそれが実現不可能ならば、廃藩置県ならぬ「廃国立県」を行なって江戸時代の昔に戻ろう。「統一と団結」から「孤立と自由」へ、「集権」から「分散」へ向かおうというのである。
思うに、少なくとも沖縄・東北・北海道はいますぐ独立すべきだろう。そのほうがけっきょくお互いの仕合せになるだろう。さもなければこの奇妙奇天烈な国家は、勝手に暴走して人民をまたしても鉄のくびきで緊縛し、最後にはお得意の「自衛のための侵略戦争」をおっぱじめるにちがいない。
と、わが親しき三年寝太郎は、このときばかりは目を山猫のようにらんらんと光らせて熱く語るのであった。
♪あと一日出席足らぬ学生の哀願を心を鬼に退けて去る 茫洋
Thursday, July 24, 2008
網野善彦著作集第17巻「日本」論を読んで
照る日曇る日第139回
日本について考えたり、議論する前に、日本という言葉とその内容にこだわらなければなるまい。「日本」という称号が歴史に初めて登場するのは7世紀末の689年制定の飛鳥浄御原令からであり、ほぼ同じ頃に「天皇」なる称号も誕生したと著者はいう。
すると、倭の国の王が存在したことはあっても、神武から天智までの天皇は存在せず、「縄文・弥生時代の日本人」などはそれ自体が形容矛盾でありナンセンスな表現であることになる。
「日本」にしても「天皇」にしても、それは始まりと終わりのある単なるひとつの歴史的存在にすぎないのに、私たちはそれらが格別に重要・重大な名称や存在であるかのように錯覚しているのではないだろうか。
日本と日本国の明確な定義すらできていないのに、日本人論だの日本文化論だの日本国民国家論がにわかに成立するわけがないとも、著者はいう。
著者によれば、日本、日本と一口にいうが、日本が孤立した島国で一元的に水田稲作に特化した瑞穂の国であり、万世一系の日本民族という単一民族が作り上げた単一国家であるなどという幻想は、とっくの昔に打ち砕かれている。
縄文人、弥生人の昔はさておくとしても、列島にかろうじて成立したのは本州西部を基盤とした倭人が住む「ヤマト国家」だけであって、もともと北海道はアイヌ王国、沖縄は琉球王国、東北と九州南部は完全な別国家であった。
それだけではなく、本州本体の東部は源頼朝が確立した「関東国家政権」であり、京の西部政権とは別の政治的経済的文化圏を構成していた。ヤマト国家ですら異質で敵対的な要素を内部にはらんだ2重権力国家であった。それらを長い時間をかけて名目だけのパッチワーク&アマルガム体制にもちこんだのが現在の日本国と日本民族なのである。
それなのに私たちはどうして誰一人確証できない日時に「建国記念日」を祝ったり、陰気な短調の和旋律を無理矢理起立して唱和するひつようがあるのだろうか?
私たちは毎日服装を取り替えるように、いつだって国名や国歌や象徴天皇制を自由に改変・改廃してもいいのである。
今度の戦争のためにでっかい戦車が通れる道路を作っているんですと道路工夫語る 亡羊
日本について考えたり、議論する前に、日本という言葉とその内容にこだわらなければなるまい。「日本」という称号が歴史に初めて登場するのは7世紀末の689年制定の飛鳥浄御原令からであり、ほぼ同じ頃に「天皇」なる称号も誕生したと著者はいう。
すると、倭の国の王が存在したことはあっても、神武から天智までの天皇は存在せず、「縄文・弥生時代の日本人」などはそれ自体が形容矛盾でありナンセンスな表現であることになる。
「日本」にしても「天皇」にしても、それは始まりと終わりのある単なるひとつの歴史的存在にすぎないのに、私たちはそれらが格別に重要・重大な名称や存在であるかのように錯覚しているのではないだろうか。
日本と日本国の明確な定義すらできていないのに、日本人論だの日本文化論だの日本国民国家論がにわかに成立するわけがないとも、著者はいう。
著者によれば、日本、日本と一口にいうが、日本が孤立した島国で一元的に水田稲作に特化した瑞穂の国であり、万世一系の日本民族という単一民族が作り上げた単一国家であるなどという幻想は、とっくの昔に打ち砕かれている。
縄文人、弥生人の昔はさておくとしても、列島にかろうじて成立したのは本州西部を基盤とした倭人が住む「ヤマト国家」だけであって、もともと北海道はアイヌ王国、沖縄は琉球王国、東北と九州南部は完全な別国家であった。
それだけではなく、本州本体の東部は源頼朝が確立した「関東国家政権」であり、京の西部政権とは別の政治的経済的文化圏を構成していた。ヤマト国家ですら異質で敵対的な要素を内部にはらんだ2重権力国家であった。それらを長い時間をかけて名目だけのパッチワーク&アマルガム体制にもちこんだのが現在の日本国と日本民族なのである。
それなのに私たちはどうして誰一人確証できない日時に「建国記念日」を祝ったり、陰気な短調の和旋律を無理矢理起立して唱和するひつようがあるのだろうか?
私たちは毎日服装を取り替えるように、いつだって国名や国歌や象徴天皇制を自由に改変・改廃してもいいのである。
今度の戦争のためにでっかい戦車が通れる道路を作っているんですと道路工夫語る 亡羊
Tuesday, July 22, 2008
プロムス2008はじまる
♪音楽千夜一夜第40回
この夏もロンドン恒例の音楽祭プロムス2008が始まった。第114回目のヘンリーウッド・プロムナードコンサートの開幕である。
これからおよそ2ヶ月間毎日毎晩何千何百というコンサートをライブ中継で聞くことができると思うと、なにがなしにうれしくなる。
初日はおなじみロイヤルアルバートホールからの中継で、ルイジ・ビエロフラーベック指揮BBC響によるリヒアルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」(クリスチン・ブリュアー独唱)、モーツアルトの「オーボエ協奏曲」(ニコラス・ダニエル独奏)などを聴いたが、オーボエがよい音を出していた。指揮者は昔から三流の人だが、三流だってべつに悪くはない。私もようやくそういう悟りの境地に達しました。
しかし何千マイルを隔てて聴くこの巨大ホールの音の素晴らしさは、有楽町駅前や渋谷区神南の最悪音響犬小屋空間の比ではない。なによりも音楽を愛するロンドン市民の心の鼓動に触れるよろこびがある。
そのほかのプログラムは、これまでにピエール・ローラン・エマールの素敵なシューマンのピアノ曲やチョンミュンフン指揮ラジオフランス響によるサンサンスの交響曲オルガン付きなどを聴いたが今年もなかなか楽しめそうだ。
ともかくソロもオケも世界各国から古参、新進気鋭のめぼしいものがどんどんやってくるので連日のプログラムから眼を離せない。内田光子とアルゲリッチのピアノはいつも素晴らしいが、去年は長年にわたって低迷を続けていたポリーニが久しぶりに光彩陸離たる演奏をやってのけたのでちと驚いた。どっこいミラノの孤高の天才はしぶとく生き延びていた。どうか今年も世界一うるさいロンドンの聴衆と惰眠をむさぼる小生のロバの耳を驚かせてほしいものだ。
なおプロムスにはクラシックだけでなく詩の朗読プログラムもたくさんある。
♪翡翠飛びニイニイ鳴き今日からは私の夏だ 茫洋
この夏もロンドン恒例の音楽祭プロムス2008が始まった。第114回目のヘンリーウッド・プロムナードコンサートの開幕である。
これからおよそ2ヶ月間毎日毎晩何千何百というコンサートをライブ中継で聞くことができると思うと、なにがなしにうれしくなる。
初日はおなじみロイヤルアルバートホールからの中継で、ルイジ・ビエロフラーベック指揮BBC響によるリヒアルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」(クリスチン・ブリュアー独唱)、モーツアルトの「オーボエ協奏曲」(ニコラス・ダニエル独奏)などを聴いたが、オーボエがよい音を出していた。指揮者は昔から三流の人だが、三流だってべつに悪くはない。私もようやくそういう悟りの境地に達しました。
しかし何千マイルを隔てて聴くこの巨大ホールの音の素晴らしさは、有楽町駅前や渋谷区神南の最悪音響犬小屋空間の比ではない。なによりも音楽を愛するロンドン市民の心の鼓動に触れるよろこびがある。
そのほかのプログラムは、これまでにピエール・ローラン・エマールの素敵なシューマンのピアノ曲やチョンミュンフン指揮ラジオフランス響によるサンサンスの交響曲オルガン付きなどを聴いたが今年もなかなか楽しめそうだ。
ともかくソロもオケも世界各国から古参、新進気鋭のめぼしいものがどんどんやってくるので連日のプログラムから眼を離せない。内田光子とアルゲリッチのピアノはいつも素晴らしいが、去年は長年にわたって低迷を続けていたポリーニが久しぶりに光彩陸離たる演奏をやってのけたのでちと驚いた。どっこいミラノの孤高の天才はしぶとく生き延びていた。どうか今年も世界一うるさいロンドンの聴衆と惰眠をむさぼる小生のロバの耳を驚かせてほしいものだ。
なおプロムスにはクラシックだけでなく詩の朗読プログラムもたくさんある。
♪翡翠飛びニイニイ鳴き今日からは私の夏だ 茫洋
Monday, July 21, 2008
由比ガ浜で泳ぐ
♪バガテルop69
夏は海に限る。昨日も今日も夕方近くの由比ガ浜で消夏した。
今年は南風に吹き寄せられた赤い海草が海岸近くにうごめいているのが気になるが、少し沖に出れば消えうせてしまう。昔はこうやって泳いでいると体にボラだのがこつんこつんと体当たりしてきて心地よかったものだが、最近はあまりそういう体験がなくなった。
けれど海は海だ。
泳いでいると、ここが吾等人類の発祥地であると体感できる。
毎日のように日替わりで起こる人殺し事件も、それらを朝から狂ったように報道しているマスコミも、それらすべての原因をおのれ一人が分かったつもりでしたり顔にロン評しているさかしらな人たちや目前に迫った仕事の締め切りなんぞもすべて忘れはて、寄せては返す相模湾の穏やかな波にぽっかりと浮かんでいた。
それから陸にあがって寝転んでいると、日本人だかブラジル人だかよく分からない若者たち数人がサッカーの模擬戦をしていて危ないので、「馬鹿者、こんなところでサッカーなどやめろ」と注意したが、「済みません、済みません」と口先で言うだけでいっこうにやめない。
良識は無理だとしても、最低限の常識さえ持ち合わせない手合いが日々増殖しているようだ。家に帰ってからピエール・モントウー八〇翁指揮ロンドン響の演奏でラベルを聴いていると、おおいに清了されちまった。
♪アフリカ人も中国人もフランス人もブラジル人も日本人も浮かんでいるよ由比ガ浜の海
夏は海に限る。昨日も今日も夕方近くの由比ガ浜で消夏した。
今年は南風に吹き寄せられた赤い海草が海岸近くにうごめいているのが気になるが、少し沖に出れば消えうせてしまう。昔はこうやって泳いでいると体にボラだのがこつんこつんと体当たりしてきて心地よかったものだが、最近はあまりそういう体験がなくなった。
けれど海は海だ。
泳いでいると、ここが吾等人類の発祥地であると体感できる。
毎日のように日替わりで起こる人殺し事件も、それらを朝から狂ったように報道しているマスコミも、それらすべての原因をおのれ一人が分かったつもりでしたり顔にロン評しているさかしらな人たちや目前に迫った仕事の締め切りなんぞもすべて忘れはて、寄せては返す相模湾の穏やかな波にぽっかりと浮かんでいた。
それから陸にあがって寝転んでいると、日本人だかブラジル人だかよく分からない若者たち数人がサッカーの模擬戦をしていて危ないので、「馬鹿者、こんなところでサッカーなどやめろ」と注意したが、「済みません、済みません」と口先で言うだけでいっこうにやめない。
良識は無理だとしても、最低限の常識さえ持ち合わせない手合いが日々増殖しているようだ。家に帰ってからピエール・モントウー八〇翁指揮ロンドン響の演奏でラベルを聴いていると、おおいに清了されちまった。
♪アフリカ人も中国人もフランス人もブラジル人も日本人も浮かんでいるよ由比ガ浜の海
Saturday, July 19, 2008
コクーンの建築
勝手に建築観光31回
9/11の同時多発テロ以降も、コクーンニングcocooniningの思想はしぶとく息づいている。
私たちはその証左を渋谷東急文化村のシアターコクンや埼玉県大宮市の商業施設コクーン新都心といったネーミング、さらには最近新宿西口に建設中の東京モード学園コクーンタワーや北京五輪メーン会場の建築デザインにもその格好の例を見出すことができる。
北京国家体育場は、プラダ青山店やドイツのワールドカップのメイン競技場、ロンドンのテートモダン美術館などを設計したスイスの有名な建築家デユオ、ヘルツォーク&ド・ムーロンによるものであり、すでに「鳥の巣」の愛称で親しまれている。
またモード学園のコクーンタワーは、名前どおりの繭とも見え、直立させた鳥の巣のようにも見えるが、北京と新宿のいずれもがけっして内に閉じこもらず、外部に向かって威圧的に聳えているようだ。
9/11の同時多発テロ直後のコクーンニングcocooniningの思想が、ともかく安全無害な隠れ家に逼塞しようという温和で後退的な負の姿勢であったのに対して、およそ10年を経て建てられたこの2つの巨大建築では、己の領分と身の安全をしっかりと守りながら、外部世界(先進西欧諸国や競合専門学校)に対して激しく自己を誇示しつつ攻め込み、切り込む姿勢をするどく表明している。
遠くから眺めるその姿は、「繭」や「巣」という平和的な名称とは裏腹に、盾と矛を備え、和戦両様にすばやく対応する現代戦士の象徴のように、私には映るのである。
♪ダガーナイフに罪はない ダガーを持つやつが悪い 茫洋
9/11の同時多発テロ以降も、コクーンニングcocooniningの思想はしぶとく息づいている。
私たちはその証左を渋谷東急文化村のシアターコクンや埼玉県大宮市の商業施設コクーン新都心といったネーミング、さらには最近新宿西口に建設中の東京モード学園コクーンタワーや北京五輪メーン会場の建築デザインにもその格好の例を見出すことができる。
北京国家体育場は、プラダ青山店やドイツのワールドカップのメイン競技場、ロンドンのテートモダン美術館などを設計したスイスの有名な建築家デユオ、ヘルツォーク&ド・ムーロンによるものであり、すでに「鳥の巣」の愛称で親しまれている。
またモード学園のコクーンタワーは、名前どおりの繭とも見え、直立させた鳥の巣のようにも見えるが、北京と新宿のいずれもがけっして内に閉じこもらず、外部に向かって威圧的に聳えているようだ。
9/11の同時多発テロ直後のコクーンニングcocooniningの思想が、ともかく安全無害な隠れ家に逼塞しようという温和で後退的な負の姿勢であったのに対して、およそ10年を経て建てられたこの2つの巨大建築では、己の領分と身の安全をしっかりと守りながら、外部世界(先進西欧諸国や競合専門学校)に対して激しく自己を誇示しつつ攻め込み、切り込む姿勢をするどく表明している。
遠くから眺めるその姿は、「繭」や「巣」という平和的な名称とは裏腹に、盾と矛を備え、和戦両様にすばやく対応する現代戦士の象徴のように、私には映るのである。
♪ダガーナイフに罪はない ダガーを持つやつが悪い 茫洋
Friday, July 18, 2008
コクーンの歴史
ふあっちょん幻論第22回
繭には家蚕と野蚕の2種があるが、そのいずれにも不可思議な効能が秘められていることは古代の中国でよく知られていた。
紀元前2600年頃のある日、当時の中国の皇帝の妃西陵が1つの繭を誤って湯の中に落としたことが絹の誕生につながった。そして絹を着ることは美しさだけでなく、心身の健康のために役立つことが分かったのである。
わが国の絹織物は、応仁の乱がようやく終わった焼け跡の西陣を産地として作られはじめたが、明治2年に政府が大阪、のちに京都に開設した舎密局が絹やカイコを近代科学の観点から研究し、これが大きく産業振興に役立った。
さらに1930年代に蛹・糞・繭などカイコの生活史を徹底的に研究した結果、繭やそれを原料とする絹はたんぱくのかたまりで抗菌性があり、絹のガーゼを患部に当てるだけでさまざまな効果があるということが広く知られるようになった。
では最近のカイコ・絹情報をいくつかご紹介しておこう。
カイコは糸を作る際にCO2取り込む。いまはやりの「環境に優しい」生物なのである。
家蚕は「春嶺鐘月」という蚕からとるのが普通だが、京都の老舗呉服商「誉田屋源兵衛」では、皇室の「紅葉山御養蚕所」でしか飼育されていなかった日本原種の希少蚕「小石丸」を使って1着100万の絹織物を生産している。
絹産地である山形県米沢市「クレッシェンド・ヨネザワ」の生地はことのほかシャネルに愛され、毎年のように発注されている。
デザイナーの岡正子は、ハイテク新合繊の自在さと繊細な絹の美しさの両立をめざして糸加工から染めや織、仕上げの精錬加工に至る伝統技術とハイテクノロジーのハイブリッドに挑戦している。
日本伝統のカイコ技術は、海外にも進出している。
インドは生糸生産が年1万4千トンで中国に次いで世界2位の蚕大国だが、JICA国際協力事業団は12年にわたってインドにおける飼育研究を指導した結果、丈夫で長い生糸の生産に成功し好評を博している。この改良型は07年に6700トンまで増産されたが、肝心の日本生糸は年産400トンに急落しているのが残念。
日本・中国のカイコは年2回孵化するが、暑いインドでは5回である。しかしもちろん2化性の方が糸は丈夫で長く、高品質である。
カイコの食草はクワだけだと思っていたが、クヌギ、コナラ、クリも食べるという。今度試してみよう。チョウも複数の植物を食草にしているからこれは考えてみれば当然のことだった。
♪息を吐くと布袋腹が出る この中には何が入っているのだろう 亡羊
繭には家蚕と野蚕の2種があるが、そのいずれにも不可思議な効能が秘められていることは古代の中国でよく知られていた。
紀元前2600年頃のある日、当時の中国の皇帝の妃西陵が1つの繭を誤って湯の中に落としたことが絹の誕生につながった。そして絹を着ることは美しさだけでなく、心身の健康のために役立つことが分かったのである。
わが国の絹織物は、応仁の乱がようやく終わった焼け跡の西陣を産地として作られはじめたが、明治2年に政府が大阪、のちに京都に開設した舎密局が絹やカイコを近代科学の観点から研究し、これが大きく産業振興に役立った。
さらに1930年代に蛹・糞・繭などカイコの生活史を徹底的に研究した結果、繭やそれを原料とする絹はたんぱくのかたまりで抗菌性があり、絹のガーゼを患部に当てるだけでさまざまな効果があるということが広く知られるようになった。
では最近のカイコ・絹情報をいくつかご紹介しておこう。
カイコは糸を作る際にCO2取り込む。いまはやりの「環境に優しい」生物なのである。
家蚕は「春嶺鐘月」という蚕からとるのが普通だが、京都の老舗呉服商「誉田屋源兵衛」では、皇室の「紅葉山御養蚕所」でしか飼育されていなかった日本原種の希少蚕「小石丸」を使って1着100万の絹織物を生産している。
絹産地である山形県米沢市「クレッシェンド・ヨネザワ」の生地はことのほかシャネルに愛され、毎年のように発注されている。
デザイナーの岡正子は、ハイテク新合繊の自在さと繊細な絹の美しさの両立をめざして糸加工から染めや織、仕上げの精錬加工に至る伝統技術とハイテクノロジーのハイブリッドに挑戦している。
日本伝統のカイコ技術は、海外にも進出している。
インドは生糸生産が年1万4千トンで中国に次いで世界2位の蚕大国だが、JICA国際協力事業団は12年にわたってインドにおける飼育研究を指導した結果、丈夫で長い生糸の生産に成功し好評を博している。この改良型は07年に6700トンまで増産されたが、肝心の日本生糸は年産400トンに急落しているのが残念。
日本・中国のカイコは年2回孵化するが、暑いインドでは5回である。しかしもちろん2化性の方が糸は丈夫で長く、高品質である。
カイコの食草はクワだけだと思っていたが、クヌギ、コナラ、クリも食べるという。今度試してみよう。チョウも複数の植物を食草にしているからこれは考えてみれば当然のことだった。
♪息を吐くと布袋腹が出る この中には何が入っているのだろう 亡羊
Thursday, July 17, 2008
コクーンの時代
♪バガテルop68
2001年9月11日の同時多発テロ以降、世界は変わった。
人々の心に疑心暗鬼が忍び込み、お互いがお互いを無邪気に信じることが出来なくなった。信頼と無垢の時代が終焉したのである。
この年の冬、米国社会では「コクーンニングcocoonining」とか「コクーンニング消費」という言葉が流行した。Cocoonとはチョウやガやカイコが作る繭のことで、繭の中には蛹が入っている。まるで小鳥がぬくぬくと巣の中で眠っているようだということで、「巣ごもり消費」という言葉も生まれた。
いつ殺されるかわからないような危険な場所に出かけず、家族が家内で身を寄せ合って過そう。安全を確保し、家族の絆とささやかな幸せを確認しようとする自己完結的な生活と消費行動がその年のクリスマスには顕著だった。これがその後世界中に流行し、一世を風靡した「癒しとヒーリング」志向のはじまりではなかっただろうか。
「癒されたい」とか「癒された」という甘っちょろい用語が、その用語の使用者の精神の退廃と堕落をあますところなく証明していることはさておくとしても……。
ちなみに01年のクリスマスには、わが国でもクライスラー「愛の喜び」などのヒーリング音楽CDや32000円の銀製スプーンセット、12000円の日比谷花壇の本物のツリーが売れ、DVD、大画面プラズマTV、ホームシアター元年となった。ソニーのプレステに対抗してマイクロソフトの新型ゲーム機「Xbox」発売されたのはその翌年のことだった。
「コクーンニングcocoonining」の元になったロン・ハワード監督のSF映画「コクーン」は1985年に公開されていた。映画宇宙のからやってきたアンタレス星人がフロリダのプールの中に沈めた巨大な繭が、じつは生命の力を回復させる驚異的な能力を持っていて、瀕死の老人たちを救うというあらすじである。
確かに繭には玄妙なエネルギーがある。私の郷里は養蚕業の盛んな口丹波であるが、少年時代の毎日のおやつはカイコの蛹であり、こんがりと炒ったあの素晴らしく美味な蛋白質を摂取することによって貧しい日々の糧を補っていたことを懐かしく思い出す。
コクーンの生命力はアジアの片隅の農村で数多くの勤労青少年とルンペンプロレタリアートを救済していたのである。
♪たった一度も授業に出なかったくせに試験日はいつですかと尋ねる女子大生 茫洋
2001年9月11日の同時多発テロ以降、世界は変わった。
人々の心に疑心暗鬼が忍び込み、お互いがお互いを無邪気に信じることが出来なくなった。信頼と無垢の時代が終焉したのである。
この年の冬、米国社会では「コクーンニングcocoonining」とか「コクーンニング消費」という言葉が流行した。Cocoonとはチョウやガやカイコが作る繭のことで、繭の中には蛹が入っている。まるで小鳥がぬくぬくと巣の中で眠っているようだということで、「巣ごもり消費」という言葉も生まれた。
いつ殺されるかわからないような危険な場所に出かけず、家族が家内で身を寄せ合って過そう。安全を確保し、家族の絆とささやかな幸せを確認しようとする自己完結的な生活と消費行動がその年のクリスマスには顕著だった。これがその後世界中に流行し、一世を風靡した「癒しとヒーリング」志向のはじまりではなかっただろうか。
「癒されたい」とか「癒された」という甘っちょろい用語が、その用語の使用者の精神の退廃と堕落をあますところなく証明していることはさておくとしても……。
ちなみに01年のクリスマスには、わが国でもクライスラー「愛の喜び」などのヒーリング音楽CDや32000円の銀製スプーンセット、12000円の日比谷花壇の本物のツリーが売れ、DVD、大画面プラズマTV、ホームシアター元年となった。ソニーのプレステに対抗してマイクロソフトの新型ゲーム機「Xbox」発売されたのはその翌年のことだった。
「コクーンニングcocoonining」の元になったロン・ハワード監督のSF映画「コクーン」は1985年に公開されていた。映画宇宙のからやってきたアンタレス星人がフロリダのプールの中に沈めた巨大な繭が、じつは生命の力を回復させる驚異的な能力を持っていて、瀕死の老人たちを救うというあらすじである。
確かに繭には玄妙なエネルギーがある。私の郷里は養蚕業の盛んな口丹波であるが、少年時代の毎日のおやつはカイコの蛹であり、こんがりと炒ったあの素晴らしく美味な蛋白質を摂取することによって貧しい日々の糧を補っていたことを懐かしく思い出す。
コクーンの生命力はアジアの片隅の農村で数多くの勤労青少年とルンペンプロレタリアートを救済していたのである。
♪たった一度も授業に出なかったくせに試験日はいつですかと尋ねる女子大生 茫洋
Tuesday, July 15, 2008
ミクシィ2周年
♪バガテルop67
早いものである。このSNSを畏友やわらかなひかりさんのお導きで開始してから今日で丸2年が経った。その間幾多の見知らぬ友人各位とお近づきになり、かつまた旧友諸賢と久闊を叙す楽しみにめぐり合えたことはまことに近来の快事であった。
やわらかなひかりさん、そしてマイミクの皆々様ありがとうございます。
2年という時間は私にとっては節目の区分である。ライブ通いにしろ、映画見物にしろ、○○にしろ取り付いてから丸2年の間は無我夢中になるが、3年目に入るとだんだんマンネリになり、もう見るのも行くのも面倒くさくなる。いつだったか「恋は2年が命」という珍説が取りざたされたが、人間の飽きっぽさを考えると十分に頷ける考えだ。
だからというわけでもないが、私のSNS通いも当初のういういしさと意気込みを急激に失いつつあるようだ。
しかし先日糸井某コピーライターが「私は吉本隆明さんになんでもいいから10年間ひとつのことを続けたら1人前になれると言われたので10年間毎日ブログを続けてきました」と語っていたのを聞いて、それを言うやつもスゴイが、言われてやる奴も超スゴイ」と思い、もう少しぐあんばってみようかと思い直しているところです。
ついでに私の初めての日記を再録して2周年の記念にすることにしよう。
2006年7月15日
昨夜、近所の和泉橋の傍の木の葉に1匹だけ平家蛍が点滅していた。 一昨日、妻は大蛇を、僕は小蛇を見た。
真っ暗な路上に寝そべるそいつは全身が縞々で装飾されているようだったが明かりが不足して品種は確認できなかった。 今日の午後、散歩道でムラサキシジミを発見。珍しいことだ。 玄関先のパンジーに巣くうツマグロヒョウモンの五齢の幼虫は妻が嫌がるのでその大半を駆除したが、2匹だけは飼ってあげることにした。 妻は大蛇を我は子蛇を見き 同じ日の朝と夜とに アマグモをあめぐもと呼びしNHKを切る
♪ファッションを扱う小さな広告代理店ありませんかと問いかける女子大4年生 茫洋
早いものである。このSNSを畏友やわらかなひかりさんのお導きで開始してから今日で丸2年が経った。その間幾多の見知らぬ友人各位とお近づきになり、かつまた旧友諸賢と久闊を叙す楽しみにめぐり合えたことはまことに近来の快事であった。
やわらかなひかりさん、そしてマイミクの皆々様ありがとうございます。
2年という時間は私にとっては節目の区分である。ライブ通いにしろ、映画見物にしろ、○○にしろ取り付いてから丸2年の間は無我夢中になるが、3年目に入るとだんだんマンネリになり、もう見るのも行くのも面倒くさくなる。いつだったか「恋は2年が命」という珍説が取りざたされたが、人間の飽きっぽさを考えると十分に頷ける考えだ。
だからというわけでもないが、私のSNS通いも当初のういういしさと意気込みを急激に失いつつあるようだ。
しかし先日糸井某コピーライターが「私は吉本隆明さんになんでもいいから10年間ひとつのことを続けたら1人前になれると言われたので10年間毎日ブログを続けてきました」と語っていたのを聞いて、それを言うやつもスゴイが、言われてやる奴も超スゴイ」と思い、もう少しぐあんばってみようかと思い直しているところです。
ついでに私の初めての日記を再録して2周年の記念にすることにしよう。
2006年7月15日
昨夜、近所の和泉橋の傍の木の葉に1匹だけ平家蛍が点滅していた。 一昨日、妻は大蛇を、僕は小蛇を見た。
真っ暗な路上に寝そべるそいつは全身が縞々で装飾されているようだったが明かりが不足して品種は確認できなかった。 今日の午後、散歩道でムラサキシジミを発見。珍しいことだ。 玄関先のパンジーに巣くうツマグロヒョウモンの五齢の幼虫は妻が嫌がるのでその大半を駆除したが、2匹だけは飼ってあげることにした。 妻は大蛇を我は子蛇を見き 同じ日の朝と夜とに アマグモをあめぐもと呼びしNHKを切る
♪ファッションを扱う小さな広告代理店ありませんかと問いかける女子大4年生 茫洋
Monday, July 14, 2008
真夏のマーラーこの身に浴びて
♪音楽千夜一夜第39回
まだ梅雨だというのにどんどん気温が上がって30度を超えた。まるで真夏のようである。
夏にはマーラーの音楽がよく似合う。ニイニイやウグイスが鳴き、カワセミが笑い、赤いカンナが微風に揺れる風景の中で第10番のアダージヨを聞いているところだ。
ロンドンのBBCのネットラジオはクラシック音楽を伝統的に大切にしているのでじつにうれしい。クラシックだけでも数多くのチャンネルがあり、ポッドキャスティングで24時間オンエアしているが、ここ1週間は6月にロンドンのセントパウロ教会などで開催されたゲルギエフ指揮ロンドン交響楽団の演奏によるマーラーの交響曲の全曲演奏を楽しんだ。
一昨日は7番、昨日は8番、そして今晩はこれから9番の放送があってチクルスの輪を閉じるのである。
ゲルギエフの演奏は全盛時代の若き小澤を遥かに凌ぐ精力的なものであり、フォルテッシモでは音響最悪のバービカンセンターを揺るがすような轟音を響かせるが、アダージオになれば一転して精妙で優雅な演奏を聴かせる。ヤンソンス、ラトルと並んでいまもっとも旬の指揮者であろう。(ただし残念ながらこの3人ともいずれも私の好みではないが)
ロンドンでのライブは大盛況だったようである。毎晩のように聴衆の大喝采が沸き上がり、それがスピーカー越しに伝わってくるが、演奏が終わってもロンドンの聴衆はわが国のそれとは違ってすぐにブラボーのドラ声を張り上げることがない。
終曲の余韻をしみじみとかみ締め、感動が胃の腑にずしりと落ちる。私たちは終演後の静寂こそが至高の音楽であることを知っているはずだ。
それからおもむろに三々五々両手を打ち合わせ、あちこちで歓声が上がるようになる。よい演奏の場合は、それが時を経るごとに頻度と強度を増していき、やがてそれがシャンシャン7拍子の拍を刻むにいたって歓声と賛嘆は堂に満ちる。また指揮があまりにも素晴らしい場合には、聴衆と演奏家はともに床をどんどん踏み鳴らすことによってその演奏を称える。
また演奏がよくない場合には、演奏直後にブー!の罵声を遠慮なく浴びせかけ、拍手のひとつだって呉れてやることはない。以前パリのシャンゼリゼ劇場でダニエル・バレンボイムがパリ管を振った「ドン・ジョバンニ」では、終演後の毀誉褒貶の嵐が耳を聾せんばかりに凄まじく、賛否が真っ二つに分かれた両派が猛烈なブー!とブラボー!を舞台に向かって10分間以上も浴びせ続けたが、その間作法どおりに右手を垂れて聴衆の評価に身を晒しているバレンボイムはなかなか格好よかった。
演奏家も聴衆も真正面から音楽に向き合っている真剣さと清々しさがそこにはあった。
このような姿こそが、長い歳月と経験を経て世界中で確立された古典音楽鑑賞の奥ゆかしい流儀作法ではなかったのではないだろうか。
ところが昨今のわが国のコンサート会場では、演奏の是非などに無頓着のブラボー屋が跋扈し、演奏がまだ終わらないうちに不気味な蛮声を張り上げる。会場で携帯を切らずに会話する無神経な輩に加えて、こういうアホ馬鹿聴衆が異常なまでに増殖してきた。なかには場内で殴り合いをする豪の者まで登場している。まことに情けなく嘆かわしい事態である。
最近TDKからムラビンスキーやベームの来日公演のライブ録音CDが出回っているが、それに耳を傾けるに、70から80年代前半までのわが国の聴衆が演奏家に示す品格ある反応は、世界のお手本であったと思わずにはいられない。
それがどうしてこのように無様に崩れ去ったのであるか。この現象は音楽以外の領域におけるボンサンスの崩壊に見合っているような気もするが、少しは歌舞伎の立見席を見習って欲しいものである。
山手線停まるやいなや突入す若き男のさもしき心よ 茫洋
まだ梅雨だというのにどんどん気温が上がって30度を超えた。まるで真夏のようである。
夏にはマーラーの音楽がよく似合う。ニイニイやウグイスが鳴き、カワセミが笑い、赤いカンナが微風に揺れる風景の中で第10番のアダージヨを聞いているところだ。
ロンドンのBBCのネットラジオはクラシック音楽を伝統的に大切にしているのでじつにうれしい。クラシックだけでも数多くのチャンネルがあり、ポッドキャスティングで24時間オンエアしているが、ここ1週間は6月にロンドンのセントパウロ教会などで開催されたゲルギエフ指揮ロンドン交響楽団の演奏によるマーラーの交響曲の全曲演奏を楽しんだ。
一昨日は7番、昨日は8番、そして今晩はこれから9番の放送があってチクルスの輪を閉じるのである。
ゲルギエフの演奏は全盛時代の若き小澤を遥かに凌ぐ精力的なものであり、フォルテッシモでは音響最悪のバービカンセンターを揺るがすような轟音を響かせるが、アダージオになれば一転して精妙で優雅な演奏を聴かせる。ヤンソンス、ラトルと並んでいまもっとも旬の指揮者であろう。(ただし残念ながらこの3人ともいずれも私の好みではないが)
ロンドンでのライブは大盛況だったようである。毎晩のように聴衆の大喝采が沸き上がり、それがスピーカー越しに伝わってくるが、演奏が終わってもロンドンの聴衆はわが国のそれとは違ってすぐにブラボーのドラ声を張り上げることがない。
終曲の余韻をしみじみとかみ締め、感動が胃の腑にずしりと落ちる。私たちは終演後の静寂こそが至高の音楽であることを知っているはずだ。
それからおもむろに三々五々両手を打ち合わせ、あちこちで歓声が上がるようになる。よい演奏の場合は、それが時を経るごとに頻度と強度を増していき、やがてそれがシャンシャン7拍子の拍を刻むにいたって歓声と賛嘆は堂に満ちる。また指揮があまりにも素晴らしい場合には、聴衆と演奏家はともに床をどんどん踏み鳴らすことによってその演奏を称える。
また演奏がよくない場合には、演奏直後にブー!の罵声を遠慮なく浴びせかけ、拍手のひとつだって呉れてやることはない。以前パリのシャンゼリゼ劇場でダニエル・バレンボイムがパリ管を振った「ドン・ジョバンニ」では、終演後の毀誉褒貶の嵐が耳を聾せんばかりに凄まじく、賛否が真っ二つに分かれた両派が猛烈なブー!とブラボー!を舞台に向かって10分間以上も浴びせ続けたが、その間作法どおりに右手を垂れて聴衆の評価に身を晒しているバレンボイムはなかなか格好よかった。
演奏家も聴衆も真正面から音楽に向き合っている真剣さと清々しさがそこにはあった。
このような姿こそが、長い歳月と経験を経て世界中で確立された古典音楽鑑賞の奥ゆかしい流儀作法ではなかったのではないだろうか。
ところが昨今のわが国のコンサート会場では、演奏の是非などに無頓着のブラボー屋が跋扈し、演奏がまだ終わらないうちに不気味な蛮声を張り上げる。会場で携帯を切らずに会話する無神経な輩に加えて、こういうアホ馬鹿聴衆が異常なまでに増殖してきた。なかには場内で殴り合いをする豪の者まで登場している。まことに情けなく嘆かわしい事態である。
最近TDKからムラビンスキーやベームの来日公演のライブ録音CDが出回っているが、それに耳を傾けるに、70から80年代前半までのわが国の聴衆が演奏家に示す品格ある反応は、世界のお手本であったと思わずにはいられない。
それがどうしてこのように無様に崩れ去ったのであるか。この現象は音楽以外の領域におけるボンサンスの崩壊に見合っているような気もするが、少しは歌舞伎の立見席を見習って欲しいものである。
山手線停まるやいなや突入す若き男のさもしき心よ 茫洋
Sunday, July 13, 2008
石井宏著「天才の父レオポルド・モーツアルトの青春」を読む
石井宏著「天才の父レオポルド・モーツアルトの青春」を読む
照る日曇る日第138回&♪音楽千夜一夜第38回
メイナード・ソロモンの浩瀚なモーツアルト伝の訳者として知られる石井宏氏が自身の企画と構想によるモーツアルト家の物語全5部の執筆に乗り出した。
本書はその序論であるが、天才の父親レオポルトの生誕から天才児の誕生の瞬間までを「史実をベースにした小説」というユニークなスタイルで叙述している。
1791年、レオポルトは欧州中世の封建的な伝統を色濃く受け継ぐ南独アウクスブルク近郊の貧しい製本屋マイスターの息子として生を享けた。鋭い頭脳と強い意志の持ち主だったレオポルトは、貴族社会の一角になんとかして食い込もうと、父親の死後母親の嘆願を退けてザルツブルクの大学に進学したが、何者かの陰謀に巻き込まれてエリートへの階段から転落してしまう。
母親からも絶縁されて天涯孤独の身の上になったレオポルドは、小さな伯爵家の使用人兼楽士家業に身をおとすが、親切な老人の庇護のおかげでザルツブルクの大司教付き宮廷オーケストラの4番バイオリニストの席にありつく。レオポルドの職業音楽家への道、天才児モーツアルトの教育者としての遠大な道はここからはじまったのである。
産んでは死なせ、死なせては産んだ数多くの子供たちのなかからかろうじて残ったのが姉ナンネルとその弟ウオルフガングのたった2人のきょうだいだったが、彼らの愛と憎しみの物語はまだ語られてはいない。興味深いのはモーツアルトの授乳を母乳にせよと命じたレオポルドの決断で、おそらくはそれが彼の夭折を救ったのだった。
本書の第5章で詳しく取り上げられている「レオポルド・モーツアルトのヴァイオリン教則本」の内容は、今日ではもはや常識となったことが述べられているが、当時としては画期的だったと思われる。
「モルト・アレグロはアレグロ・アッサイよりもほんのわずか遅いが、アレグロよりも速い。(中略)アダージョ・カンタービレと指定されている箇所では、けっして俗悪な装飾音を付け加えたり、長く音をひっぱったりして歌わせ過ぎてはてはいけない」(適当に引用)などというくだりを読むと、逆に当時の演奏の実態がうかがえるし、同じザルツブルク生まれのカラヤンのレガート奏法のことなどが思われて複雑な感慨が沸く。
レオポルド・モーツアルト指揮ザルツブルク宮廷オーケストラの演奏は、もしかすると現代の演奏に近かったかもしれないという気がしてくるのである。
♪セオリーの真白きパンツをはきこなす背高き女性の尻のかたちよ 茫洋
照る日曇る日第138回&♪音楽千夜一夜第38回
メイナード・ソロモンの浩瀚なモーツアルト伝の訳者として知られる石井宏氏が自身の企画と構想によるモーツアルト家の物語全5部の執筆に乗り出した。
本書はその序論であるが、天才の父親レオポルトの生誕から天才児の誕生の瞬間までを「史実をベースにした小説」というユニークなスタイルで叙述している。
1791年、レオポルトは欧州中世の封建的な伝統を色濃く受け継ぐ南独アウクスブルク近郊の貧しい製本屋マイスターの息子として生を享けた。鋭い頭脳と強い意志の持ち主だったレオポルトは、貴族社会の一角になんとかして食い込もうと、父親の死後母親の嘆願を退けてザルツブルクの大学に進学したが、何者かの陰謀に巻き込まれてエリートへの階段から転落してしまう。
母親からも絶縁されて天涯孤独の身の上になったレオポルドは、小さな伯爵家の使用人兼楽士家業に身をおとすが、親切な老人の庇護のおかげでザルツブルクの大司教付き宮廷オーケストラの4番バイオリニストの席にありつく。レオポルドの職業音楽家への道、天才児モーツアルトの教育者としての遠大な道はここからはじまったのである。
産んでは死なせ、死なせては産んだ数多くの子供たちのなかからかろうじて残ったのが姉ナンネルとその弟ウオルフガングのたった2人のきょうだいだったが、彼らの愛と憎しみの物語はまだ語られてはいない。興味深いのはモーツアルトの授乳を母乳にせよと命じたレオポルドの決断で、おそらくはそれが彼の夭折を救ったのだった。
本書の第5章で詳しく取り上げられている「レオポルド・モーツアルトのヴァイオリン教則本」の内容は、今日ではもはや常識となったことが述べられているが、当時としては画期的だったと思われる。
「モルト・アレグロはアレグロ・アッサイよりもほんのわずか遅いが、アレグロよりも速い。(中略)アダージョ・カンタービレと指定されている箇所では、けっして俗悪な装飾音を付け加えたり、長く音をひっぱったりして歌わせ過ぎてはてはいけない」(適当に引用)などというくだりを読むと、逆に当時の演奏の実態がうかがえるし、同じザルツブルク生まれのカラヤンのレガート奏法のことなどが思われて複雑な感慨が沸く。
レオポルド・モーツアルト指揮ザルツブルク宮廷オーケストラの演奏は、もしかすると現代の演奏に近かったかもしれないという気がしてくるのである。
♪セオリーの真白きパンツをはきこなす背高き女性の尻のかたちよ 茫洋
Saturday, July 12, 2008
稲村ガ崎の海岸にて
稲村ガ崎の海岸にて
鎌倉ちょっと不思議な物語138回
とうとう稲村ガ崎の浜辺に出た。こいらの海岸は年々砂浜が後退し、海水浴ができなくなっているが、サーファーたちはそんなことなど委細構わず年がら年中波に寝そべり、波と戯れている。
彼らの中には海難に無知で無関心な輩もたくさんいるようで、毎年沖に流されて救助を求めたり、中には長谷川なんとかさんというモデルの恋人や北野武監督の映画の主人公のように溺れ死んでしまう人もいる。
「ビッグ・ウエンズディ」という映画を見れば、サーフィンと死は隣り合わせであることがよく分かる。七里ガ浜では十二の御霊を奪った恐ろしい波だ。そんな荒波に挑むサーフアーは、心の中のどこかで死を希っているのではないだろうか。
太宰治が心中を図った岸壁もこの近くだ。けれども誰かのように無闇に死にたくなっていきずりの赤の他人を殺すくらいなら、どうぞこの海岸から補陀落島めざして単身渡海してもらいたいものである。
岬の上に立って沖を眺めていると、今日は相模湾からなかなか良き波が押し寄せているようだ。ところで鎌倉幕府の三代将軍実朝が編んだ「金塊和歌集」に、この稲村ガ崎の見越の崎に登った人のこんな歌が載っている。(ちなみに見越の崎の直下は、天に奇跡を祈った新田義貞の軍勢が、大量のアサリを踏み潰して上陸した地点である。)
鎌倉の見越の崎の岩崩の君が悔ゆべき心は持たじ 読み人知らず
また恐らく同じ場所から実朝本人が詠んだのは、
大海の磯もとどろによする波われて砕けて裂けて散るかも
という有名な歌で、その後段の鋭い客観的な観察眼が、明治の子規の「写生」という視点に引き継がれ、それが短歌改革に結実した。まるで北斎の神奈川沖裏をセザンヌが模写したような犀利なリアリズムが感じられる。右大臣実朝の感性は、私たちの時代のそれであった。
しかし私がもっとも愛する実朝の歌はこれではなくて、
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
である。ここには己の死すべき運命を哀しくも悟達した貴族的精神のニル・アドミナリな白い輝きがある。
♪沿線の紅いカンナの命かな 茫洋
鎌倉ちょっと不思議な物語138回
とうとう稲村ガ崎の浜辺に出た。こいらの海岸は年々砂浜が後退し、海水浴ができなくなっているが、サーファーたちはそんなことなど委細構わず年がら年中波に寝そべり、波と戯れている。
彼らの中には海難に無知で無関心な輩もたくさんいるようで、毎年沖に流されて救助を求めたり、中には長谷川なんとかさんというモデルの恋人や北野武監督の映画の主人公のように溺れ死んでしまう人もいる。
「ビッグ・ウエンズディ」という映画を見れば、サーフィンと死は隣り合わせであることがよく分かる。七里ガ浜では十二の御霊を奪った恐ろしい波だ。そんな荒波に挑むサーフアーは、心の中のどこかで死を希っているのではないだろうか。
太宰治が心中を図った岸壁もこの近くだ。けれども誰かのように無闇に死にたくなっていきずりの赤の他人を殺すくらいなら、どうぞこの海岸から補陀落島めざして単身渡海してもらいたいものである。
岬の上に立って沖を眺めていると、今日は相模湾からなかなか良き波が押し寄せているようだ。ところで鎌倉幕府の三代将軍実朝が編んだ「金塊和歌集」に、この稲村ガ崎の見越の崎に登った人のこんな歌が載っている。(ちなみに見越の崎の直下は、天に奇跡を祈った新田義貞の軍勢が、大量のアサリを踏み潰して上陸した地点である。)
鎌倉の見越の崎の岩崩の君が悔ゆべき心は持たじ 読み人知らず
また恐らく同じ場所から実朝本人が詠んだのは、
大海の磯もとどろによする波われて砕けて裂けて散るかも
という有名な歌で、その後段の鋭い客観的な観察眼が、明治の子規の「写生」という視点に引き継がれ、それが短歌改革に結実した。まるで北斎の神奈川沖裏をセザンヌが模写したような犀利なリアリズムが感じられる。右大臣実朝の感性は、私たちの時代のそれであった。
しかし私がもっとも愛する実朝の歌はこれではなくて、
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
である。ここには己の死すべき運命を哀しくも悟達した貴族的精神のニル・アドミナリな白い輝きがある。
♪沿線の紅いカンナの命かな 茫洋
Friday, July 11, 2008
薔薇は薔薇
♪バガテルop66
むかしペンギンブックスからアメリカ現代詩の要約本がでていた。もちろんまともに読んだことなど一度もなかったが、たまたま開いたページにカニンガムだかカニングハムという人の短い1行詩があって、時折そしていまも印象深く思い出す。
それはたしかこういう詩だった。
A rose is a rose is a rose is a rose is a rose is a rose is a rose
おしまいが…で終わったのか、それともピリオドで終わったのかもう覚えていないが、まずはイメージの核にひとつの単語、すなわち一輪の薔薇があって、それが隣に並ぶもうひとつの薔薇に等格で接続しながらひとつの文章に置き換えられ、続いて「薔薇は薔薇也」というその文自体が新たな薔薇に値すると形容され、以下中心軸を基点として次々に大輪の薔薇がウオルト・ディズニーのファンタジー映画か万華鏡のごとくに花開き、そのめくるめく華麗なイメージの渦にのみこまれていくようだった。
で、それに触発されて私が作ったのは
ムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムク
チンはチンはチンはチンはチンはチンはチンはチンはチンはチン
補注その1 ムクは今は亡き我が家の無垢な犬。槿の下に棲んだ尨毛の犬だった。
補注その2 チンは朕、狆、陳、珍、沈、チンなど。
♪実存は本質に先行するや否やと考え込みしは30年前 茫洋
むかしペンギンブックスからアメリカ現代詩の要約本がでていた。もちろんまともに読んだことなど一度もなかったが、たまたま開いたページにカニンガムだかカニングハムという人の短い1行詩があって、時折そしていまも印象深く思い出す。
それはたしかこういう詩だった。
A rose is a rose is a rose is a rose is a rose is a rose is a rose
おしまいが…で終わったのか、それともピリオドで終わったのかもう覚えていないが、まずはイメージの核にひとつの単語、すなわち一輪の薔薇があって、それが隣に並ぶもうひとつの薔薇に等格で接続しながらひとつの文章に置き換えられ、続いて「薔薇は薔薇也」というその文自体が新たな薔薇に値すると形容され、以下中心軸を基点として次々に大輪の薔薇がウオルト・ディズニーのファンタジー映画か万華鏡のごとくに花開き、そのめくるめく華麗なイメージの渦にのみこまれていくようだった。
で、それに触発されて私が作ったのは
ムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムクはムク
チンはチンはチンはチンはチンはチンはチンはチンはチンはチン
補注その1 ムクは今は亡き我が家の無垢な犬。槿の下に棲んだ尨毛の犬だった。
補注その2 チンは朕、狆、陳、珍、沈、チンなど。
♪実存は本質に先行するや否やと考え込みしは30年前 茫洋
Thursday, July 10, 2008
ジョン・アーヴィング著「熊を放つ」を読む
照る日曇る日第136回
「ガープの世界」、「ホテル・ニューハンプシャー」の作家ジョン・アーヴィング26歳のデビュー作を読む。
ビンテージ・オートバイを無軌道にぶっ飛ばしてあっけなく事故死する青年、第二次大戦のどさくさまぎれに爆死させたはずの不倶戴天の敵によって捕らえられ、小便壷にさかさまに首を突っ込まれて殺されてしまう青年、ひとつオートバイに跨り、ひとつテントで性交する若い男女、ヒーツィング動物園のアジア・クロクマをウイーンの街に脱走させる青年、友がノートに書き付けた箴言を座右の銘として中央ヨーロッパのど真ん中をさすらう主人公―どこをとっても後年のアーヴィングを彷彿させるわくわく大冒険といきあたりばったり人生という2つの主題がほとんど変奏なしに(そこが後年の作と違う)ライブで奏でられる。
訳者の村上春樹は、アーヴィングはバルザックの再来であると規定しているが、それをいうなら主観性100%で自己中バルザックのよみがえりであろう。
アーヴィングにとって、文学とは時空を超えためくるめく物語の奔流であり、主人公の死さえもいともたやすく呑み込んでしまうおびただしい生の蕩尽なのである。
それにしても、オーソン・ウエルズまたはヴィクトリオ・デ・シーカの祖父、ヘルムートバーガーが悲運のヒーロー、ジークフリート・ヤヴォトニク、アル・パチーノのハネス・グラフ、アーヴィン・カシュナー監督による「熊を放つ」を、コロンビア映画が映画化しなかったことがまことにくやまれる。
♪こらあ父にアホ笑いするなと怒鳴りつけ自閉症の息子に投げしは春樹訳「熊を放つ」上下巻 茫洋
「ガープの世界」、「ホテル・ニューハンプシャー」の作家ジョン・アーヴィング26歳のデビュー作を読む。
ビンテージ・オートバイを無軌道にぶっ飛ばしてあっけなく事故死する青年、第二次大戦のどさくさまぎれに爆死させたはずの不倶戴天の敵によって捕らえられ、小便壷にさかさまに首を突っ込まれて殺されてしまう青年、ひとつオートバイに跨り、ひとつテントで性交する若い男女、ヒーツィング動物園のアジア・クロクマをウイーンの街に脱走させる青年、友がノートに書き付けた箴言を座右の銘として中央ヨーロッパのど真ん中をさすらう主人公―どこをとっても後年のアーヴィングを彷彿させるわくわく大冒険といきあたりばったり人生という2つの主題がほとんど変奏なしに(そこが後年の作と違う)ライブで奏でられる。
訳者の村上春樹は、アーヴィングはバルザックの再来であると規定しているが、それをいうなら主観性100%で自己中バルザックのよみがえりであろう。
アーヴィングにとって、文学とは時空を超えためくるめく物語の奔流であり、主人公の死さえもいともたやすく呑み込んでしまうおびただしい生の蕩尽なのである。
それにしても、オーソン・ウエルズまたはヴィクトリオ・デ・シーカの祖父、ヘルムートバーガーが悲運のヒーロー、ジークフリート・ヤヴォトニク、アル・パチーノのハネス・グラフ、アーヴィン・カシュナー監督による「熊を放つ」を、コロンビア映画が映画化しなかったことがまことにくやまれる。
♪こらあ父にアホ笑いするなと怒鳴りつけ自閉症の息子に投げしは春樹訳「熊を放つ」上下巻 茫洋
Wednesday, July 09, 2008
大館次郎の最期
鎌倉ちょっと不思議な物語137回
極楽寺から中村光夫旧居跡を過ぎて稲村ガ崎に向かって歩いていくと、もう少しで海に出る左手の窪みに史跡「十一人塚」がある。
ここは1333年わずか133騎で鎌倉幕府打倒に立ち上がった新田義貞と幕府軍の激戦場である。同年5月19日、藤澤から進軍した義貞の一族の部将大館次郎は極楽寺坂から攻め上ったが、鎌倉幕府方の守將・大佛陸奥守貞直の軍勢と一進一退を繰り返すうちに貞直の家來本間山城左衞門の部隊によって10名の部下と共に壮絶な討ち死にを遂げた現場である。
大佛貞直の軍勢は、いまは廃寺となった霊山寺の大門に大挙して篭っていたのである。
お墓にはたくさんの花が供えられていたが、その大館次郎の遺族の方が近くに住んでおられ、朝晩のお参りを欠かされないという。そう聞けば、今からちょうど675年前のその日の惨事が、まるで昨日のことのように感じられるのであった。
ところが、北鎌倉に住んだ澁澤龍彦の小説「髑髏盃」の登場人物は、「この十一人塚に眠っているのはおそらく無名の兵の亡骸で、大館次郎の墓はかならずや極楽寺の裏山にある。その証拠には極楽寺には大館次郎が討ち死にしたみぎりに所持していた鞍や鐙などの遺品が残っている」と自信満々主張している。
いずれが真実かにわかには断定できないが、こんど極楽寺を尋ねたら、住職に伺ってみることにしよう。
♪こんな監獄で働いて何がうれしいのかよ超高層に蠢く死せるアリたち 茫洋
極楽寺から中村光夫旧居跡を過ぎて稲村ガ崎に向かって歩いていくと、もう少しで海に出る左手の窪みに史跡「十一人塚」がある。
ここは1333年わずか133騎で鎌倉幕府打倒に立ち上がった新田義貞と幕府軍の激戦場である。同年5月19日、藤澤から進軍した義貞の一族の部将大館次郎は極楽寺坂から攻め上ったが、鎌倉幕府方の守將・大佛陸奥守貞直の軍勢と一進一退を繰り返すうちに貞直の家來本間山城左衞門の部隊によって10名の部下と共に壮絶な討ち死にを遂げた現場である。
大佛貞直の軍勢は、いまは廃寺となった霊山寺の大門に大挙して篭っていたのである。
お墓にはたくさんの花が供えられていたが、その大館次郎の遺族の方が近くに住んでおられ、朝晩のお参りを欠かされないという。そう聞けば、今からちょうど675年前のその日の惨事が、まるで昨日のことのように感じられるのであった。
ところが、北鎌倉に住んだ澁澤龍彦の小説「髑髏盃」の登場人物は、「この十一人塚に眠っているのはおそらく無名の兵の亡骸で、大館次郎の墓はかならずや極楽寺の裏山にある。その証拠には極楽寺には大館次郎が討ち死にしたみぎりに所持していた鞍や鐙などの遺品が残っている」と自信満々主張している。
いずれが真実かにわかには断定できないが、こんど極楽寺を尋ねたら、住職に伺ってみることにしよう。
♪こんな監獄で働いて何がうれしいのかよ超高層に蠢く死せるアリたち 茫洋
Tuesday, July 08, 2008
阿仏尼の母性愛
鎌倉ちょっと不思議な物語136回
三好達治が住んでいた家を過ぎて、江ノ電の踏切を渡ったところに阿仏尼の旧居跡がある。
鎌倉時代の歌人阿仏尼は、藤原定家の子為家の側室となったが、息子冷泉為相への資産相続を鎌倉幕府に訴えるために京を下り、極楽寺に程近いその名も雅な月影が谷に住み、その旅行記と当地での暮らしぶりを「十六夜日記」に記した。
京を発ったのは神無月の十六夜だったのでその名がつけられたのである。
彼女は、「東にて住む所は、月影の谷とぞいふなる。浦近き山もとにて、風いと荒し。山寺の傍らなれば、のどかにすごくて、波の音、松の風絶えず」と綴り、都からのおとずれがいつしかおぼつかなくなってしまった、と訴えている。
いまもあまり人影のない一角であるから、700年前の昔はさぞや寂しい谷戸だったろう。ここで彼女が山寺と書いているのは、たぶん極楽寺の七堂伽藍のひとつであろうが、すでに亡失した霊山寺の可能性もわずかだが、ある。
鎌倉時代は御家人のみならず女性を含めた民衆の訴訟が急増した時代だった。正妻を退け、愛する息子の権利を勝ち取った阿仏尼の墓は、鎌倉に現存する唯一の尼寺英勝寺にある。
ゆくりなくあくがれ出でし十六夜の月やおくれぬ形見なるべき 阿仏尼
♪品川のホームに聳える超高層神なき真昼にガラス輝く 茫洋
三好達治が住んでいた家を過ぎて、江ノ電の踏切を渡ったところに阿仏尼の旧居跡がある。
鎌倉時代の歌人阿仏尼は、藤原定家の子為家の側室となったが、息子冷泉為相への資産相続を鎌倉幕府に訴えるために京を下り、極楽寺に程近いその名も雅な月影が谷に住み、その旅行記と当地での暮らしぶりを「十六夜日記」に記した。
京を発ったのは神無月の十六夜だったのでその名がつけられたのである。
彼女は、「東にて住む所は、月影の谷とぞいふなる。浦近き山もとにて、風いと荒し。山寺の傍らなれば、のどかにすごくて、波の音、松の風絶えず」と綴り、都からのおとずれがいつしかおぼつかなくなってしまった、と訴えている。
いまもあまり人影のない一角であるから、700年前の昔はさぞや寂しい谷戸だったろう。ここで彼女が山寺と書いているのは、たぶん極楽寺の七堂伽藍のひとつであろうが、すでに亡失した霊山寺の可能性もわずかだが、ある。
鎌倉時代は御家人のみならず女性を含めた民衆の訴訟が急増した時代だった。正妻を退け、愛する息子の権利を勝ち取った阿仏尼の墓は、鎌倉に現存する唯一の尼寺英勝寺にある。
ゆくりなくあくがれ出でし十六夜の月やおくれぬ形見なるべき 阿仏尼
♪品川のホームに聳える超高層神なき真昼にガラス輝く 茫洋
Monday, July 07, 2008
三好達治と極楽寺界隈
鎌倉ちょっと不思議な物語135回
鎌倉も完全に市場経済とメディア戦略の格好のターゲットと化しており、昨日までは寂れて道行く犬猫すら見向きもしなかった支那蕎麦屋があほばかテレビ局の番組にたった一度取り上げられただけで千客万来の賑わいを呈しているのにはあきれるほかはない。
それまで閑古鳥が鳴いていたときにはたった1人のお客にも最敬礼して迎えていた店の主が、「うちの営業は11時半から。入口にちゃんと書いてあるでしょ」などと偉そうに早くから来訪したお客を追っ払っている浅ましい姿を見るのは、あまり気持ちのいいものではない。
極楽寺の近くに成就院というお寺があって、それまではろくにお客が来なかったので、般若心経の文字の数だけアジサイを植えたところ全国から観光客が殺到するようになったという。
その数はいくらかと聞くと、たった262字というからたいしたものではない。「262本のアジサイのある寺」、ではなく「般若心経の文字の数だけアジサイを植えた寺」と企画・宣伝するところに電通的な知能犯の智謀を感じて不愉快だが、極楽寺だけは間違ってもアジサイ寺的マーケティングのとりこにならずに時代と共に静かに滅んでいくような気がする。
さてその昔、極楽寺界隈には詩人の三好達治が住んでいた。彼の「半日閑歩」には極楽寺の前に桶屋があると書いてある。桶屋と客がこんな会話をしていたと三好は書いている。
―あなたはお風呂もなほしますか。
―ええ、風呂桶の修繕もいたしますよ、どちらさまです。
―姥ヶ谷の停留所の前の山の上だがね。
―存じてゐます、箱風呂ですね、四角な。
―へへん。
―この前一度直しに上がったことがあります。
この桶屋はもうとっくの昔になくなったと思っていたが、現地を歩いてみると、じつはシステムバス屋さんに姿を変えて現存していることがわかった。
♪中国銭を鋳りて生まれし鎌倉大仏 茫洋
鎌倉も完全に市場経済とメディア戦略の格好のターゲットと化しており、昨日までは寂れて道行く犬猫すら見向きもしなかった支那蕎麦屋があほばかテレビ局の番組にたった一度取り上げられただけで千客万来の賑わいを呈しているのにはあきれるほかはない。
それまで閑古鳥が鳴いていたときにはたった1人のお客にも最敬礼して迎えていた店の主が、「うちの営業は11時半から。入口にちゃんと書いてあるでしょ」などと偉そうに早くから来訪したお客を追っ払っている浅ましい姿を見るのは、あまり気持ちのいいものではない。
極楽寺の近くに成就院というお寺があって、それまではろくにお客が来なかったので、般若心経の文字の数だけアジサイを植えたところ全国から観光客が殺到するようになったという。
その数はいくらかと聞くと、たった262字というからたいしたものではない。「262本のアジサイのある寺」、ではなく「般若心経の文字の数だけアジサイを植えた寺」と企画・宣伝するところに電通的な知能犯の智謀を感じて不愉快だが、極楽寺だけは間違ってもアジサイ寺的マーケティングのとりこにならずに時代と共に静かに滅んでいくような気がする。
さてその昔、極楽寺界隈には詩人の三好達治が住んでいた。彼の「半日閑歩」には極楽寺の前に桶屋があると書いてある。桶屋と客がこんな会話をしていたと三好は書いている。
―あなたはお風呂もなほしますか。
―ええ、風呂桶の修繕もいたしますよ、どちらさまです。
―姥ヶ谷の停留所の前の山の上だがね。
―存じてゐます、箱風呂ですね、四角な。
―へへん。
―この前一度直しに上がったことがあります。
この桶屋はもうとっくの昔になくなったと思っていたが、現地を歩いてみると、じつはシステムバス屋さんに姿を変えて現存していることがわかった。
♪中国銭を鋳りて生まれし鎌倉大仏 茫洋
Sunday, July 06, 2008
続1945年の鎌倉文士
鎌倉ちょっと不思議な物語134回
1945年昭和20年2月、横光利一の弟子、清水基吉はその作品「雁立」で芥川賞を受賞した。
当時清水が転居した亀ヶ谷切通し下には小林秀雄と島木健作が住んでいた。
あるとき小林から正宗白鳥を訪問するので酒を工面できないかと頼まれ、雨中首尾よく手に入れた1升瓶をかかえて帰る途中、小林の家のそばの暗渠に落ちて台無しにしてしまい面目丸つぶれであった。清水は「モオツアルト」の原稿に呻吟していた小林を頻繁に訪ねて孤高の評論家を苛立たせたので、とうとう出入り禁止となった。
病床で長編を書いていた島木は敗戦直後に入院先で亡くなった。
翌46年9月、川端康成の推挽で出版された「雁立」を風呂敷に包んで極楽寺に住む同じ横光門下の第7回芥川賞受賞作家中山義秀宅を訪問した清水は、中山から祝盃を受けたが、そのうちに酔っぱらってきた義秀は、やにわに押入れから日本刀を取り出すと、「なんだこんなもの!」と言うなり鞘を払って献本20冊が入った風呂敷包みを一刀両断にした。
1948年清水は海蔵寺の本堂で祝言を挙げた。披露宴は亀ヶ谷の自宅で行なわれたが、主客ことごとく泥酔し、狂乱の限りを尽くし、反吐を吐くもの、縁側から転げ落ちるもの、庭土の上に寝込むものなどで眼も当てられぬ騒ぎであったという。
昭和60年、長谷の旧前田侯爵邸が鎌倉市に寄付されると鎌倉文学館が誕生したが、初代館長永井龍男の没後2代目館長に就任したのが最後の鎌倉文士清水基吉だった。
以上、「鎌倉朝日」に清田昌弘氏が連載している「かまくら今昔抄」6月1日号からまるまる引用しました。
♪かまくらのはちまんさまのげんじいけしろはすにむかいてあかもさきおり ぼうよう
1945年昭和20年2月、横光利一の弟子、清水基吉はその作品「雁立」で芥川賞を受賞した。
当時清水が転居した亀ヶ谷切通し下には小林秀雄と島木健作が住んでいた。
あるとき小林から正宗白鳥を訪問するので酒を工面できないかと頼まれ、雨中首尾よく手に入れた1升瓶をかかえて帰る途中、小林の家のそばの暗渠に落ちて台無しにしてしまい面目丸つぶれであった。清水は「モオツアルト」の原稿に呻吟していた小林を頻繁に訪ねて孤高の評論家を苛立たせたので、とうとう出入り禁止となった。
病床で長編を書いていた島木は敗戦直後に入院先で亡くなった。
翌46年9月、川端康成の推挽で出版された「雁立」を風呂敷に包んで極楽寺に住む同じ横光門下の第7回芥川賞受賞作家中山義秀宅を訪問した清水は、中山から祝盃を受けたが、そのうちに酔っぱらってきた義秀は、やにわに押入れから日本刀を取り出すと、「なんだこんなもの!」と言うなり鞘を払って献本20冊が入った風呂敷包みを一刀両断にした。
1948年清水は海蔵寺の本堂で祝言を挙げた。披露宴は亀ヶ谷の自宅で行なわれたが、主客ことごとく泥酔し、狂乱の限りを尽くし、反吐を吐くもの、縁側から転げ落ちるもの、庭土の上に寝込むものなどで眼も当てられぬ騒ぎであったという。
昭和60年、長谷の旧前田侯爵邸が鎌倉市に寄付されると鎌倉文学館が誕生したが、初代館長永井龍男の没後2代目館長に就任したのが最後の鎌倉文士清水基吉だった。
以上、「鎌倉朝日」に清田昌弘氏が連載している「かまくら今昔抄」6月1日号からまるまる引用しました。
♪かまくらのはちまんさまのげんじいけしろはすにむかいてあかもさきおり ぼうよう
Saturday, July 05, 2008
E.M.フォスター著「ハワーズ・エンド」を読む
照る日曇る日第135回
若干31歳にしてこのような傑作を書いたE.M.フォスターは栄光の大英帝国が今まさに黄昏ようとする瞬間に立ち会った旧世紀の文人だった。
「インドへの道」と並ぶ彼の代表作「ハワーズ・エンド」は、フォスターが巻頭に掲げた有名な序辞only connectが象徴しているように、絶望的なまでに相反する異質なものを「ただ繋ごう」とする架橋の意思と熱情の物語である。
開明的な女主人公マーガレットと保守的な夫のヘンリー・ウイルコックス、ヴィクトリア王朝と社会主義、貴族と平民、富める者と貧しき者、知識人と民衆、都市と郊外、島国と大陸、不遜と謙虚、鉱物と植物、自動車と馬車、天国と地獄、精神愛と肉欲、親と子、神秘と卑俗、国家と個人、商業と農業、金融資本主義と人文主義、教養と無秩序、科学と文芸、詩的精神と散文的リアリズムなどがいたるところで対立し、お互いがお互いを攻撃し、それぞれがそれぞれを防御しようと試みる。
その結果、旧世界の階級秩序は随所で引き裂かれ、いくたの悲鳴があがり、勝者は驕り、敗者は絶望の淵に沈み、男と女の戦いははてしなく繰り広げられていく。
けれども神を捨て、神に見捨てられた産業革命時代の人間たちの悲喜劇を終始静かに見守っていたのはロンドン郊外の「古くて小さくてなんとも感じがいい赤煉瓦の家」、ハワーズ・エンドであり、ヘンリーの亡き妻ウイルコックス夫人であった。
ハワーズ・エンドには美しい牧場と屋敷と一本の楡の巨木があり、その巨樹の下にケルトとの精霊が棲んでいる。地霊はウイルコックス夫人の魂の故郷であり、彼女の偉大な魂は物語の女主人公マーガレットに相伝されている。
そうしてこの聖なる地と精霊と魂とが三位一体となってばらばらになって空中分解していた異質な人々をおごそかに結びつける。骨肉相食む近親相克や男と女の嵐のような騒乱を鎮めがとつぜん終わりを告げ、物語の登場人物はすべてこの聖別された場所に集い、そして別れて行くラストシーンは感動的ですらある。
「オンリー・コネクト。ものみな手と手を取り合いて繋がるべし。」
これこそが1970年90歳で死んだE.M.フォスターの私たちへの遺言であった。
吉田健一の訳はたぶん名訳なのだろうが、惜しむらくは彼が翻訳家としてではなく、作家として翻訳しているために語義の解釈が曖昧であり、小林秀雄のフランス語ほどでたらめではないが、ところどころ意味不明の迷訳がある。
おそらく2人とも安酒を喰らいながらのアルバイトのやっつけ仕事だったのだろう。できうべくんばたとえば村上春樹のような若手による、もっと正確で、誠実な翻訳で読みたかった。
♪Only connectただつながれといいしは英国文人E.M.フォスター 茫洋
若干31歳にしてこのような傑作を書いたE.M.フォスターは栄光の大英帝国が今まさに黄昏ようとする瞬間に立ち会った旧世紀の文人だった。
「インドへの道」と並ぶ彼の代表作「ハワーズ・エンド」は、フォスターが巻頭に掲げた有名な序辞only connectが象徴しているように、絶望的なまでに相反する異質なものを「ただ繋ごう」とする架橋の意思と熱情の物語である。
開明的な女主人公マーガレットと保守的な夫のヘンリー・ウイルコックス、ヴィクトリア王朝と社会主義、貴族と平民、富める者と貧しき者、知識人と民衆、都市と郊外、島国と大陸、不遜と謙虚、鉱物と植物、自動車と馬車、天国と地獄、精神愛と肉欲、親と子、神秘と卑俗、国家と個人、商業と農業、金融資本主義と人文主義、教養と無秩序、科学と文芸、詩的精神と散文的リアリズムなどがいたるところで対立し、お互いがお互いを攻撃し、それぞれがそれぞれを防御しようと試みる。
その結果、旧世界の階級秩序は随所で引き裂かれ、いくたの悲鳴があがり、勝者は驕り、敗者は絶望の淵に沈み、男と女の戦いははてしなく繰り広げられていく。
けれども神を捨て、神に見捨てられた産業革命時代の人間たちの悲喜劇を終始静かに見守っていたのはロンドン郊外の「古くて小さくてなんとも感じがいい赤煉瓦の家」、ハワーズ・エンドであり、ヘンリーの亡き妻ウイルコックス夫人であった。
ハワーズ・エンドには美しい牧場と屋敷と一本の楡の巨木があり、その巨樹の下にケルトとの精霊が棲んでいる。地霊はウイルコックス夫人の魂の故郷であり、彼女の偉大な魂は物語の女主人公マーガレットに相伝されている。
そうしてこの聖なる地と精霊と魂とが三位一体となってばらばらになって空中分解していた異質な人々をおごそかに結びつける。骨肉相食む近親相克や男と女の嵐のような騒乱を鎮めがとつぜん終わりを告げ、物語の登場人物はすべてこの聖別された場所に集い、そして別れて行くラストシーンは感動的ですらある。
「オンリー・コネクト。ものみな手と手を取り合いて繋がるべし。」
これこそが1970年90歳で死んだE.M.フォスターの私たちへの遺言であった。
吉田健一の訳はたぶん名訳なのだろうが、惜しむらくは彼が翻訳家としてではなく、作家として翻訳しているために語義の解釈が曖昧であり、小林秀雄のフランス語ほどでたらめではないが、ところどころ意味不明の迷訳がある。
おそらく2人とも安酒を喰らいながらのアルバイトのやっつけ仕事だったのだろう。できうべくんばたとえば村上春樹のような若手による、もっと正確で、誠実な翻訳で読みたかった。
♪Only connectただつながれといいしは英国文人E.M.フォスター 茫洋
Friday, July 04, 2008
ある家庭の光景
ある家庭の光景
♪バガテルop66
「雨だ雷だ」と大騒ぎするアホ馬鹿天気予報官のおかげで長男は施設に行くのをやめてしまいました。
彼は施設が好きだし、普段は朝早くから起きだして行くのを楽しみにしています。いたって勤勉な彼ですが、彼は雷が大きらいなのです。
放送局のお兄さん、お姉さん、お願いですからガセ雷警報だけは止めてください。彼が一日休むと、それだけ施設の収入が減るのですよ。
その日の晩御飯のあとでどういうわけだかお汁粉が出てきました。ふだんはあまり手を出さない彼ですが、両親がチンした熱い奴をフウフウ吹きながらおいしそうに飲んでいるのをみたからでしょう、「僕も食べます」と珍しくリクエストしました。
「熱いから気をつけるんだよ。まずフウフウしてから、スプーンで上下に混ぜるんだよ。そうするとさめるからね」とお父さんがアドバイスしますと、彼は父親から言われたとおりに、銀の匙を熱い液体の中にそおっと差し入れ、ゆっくりゆっくり上下に動かしています。いつまでもいつまでも動かしています。
中学の理科の実験で、フラスコの中に入ったナトリューム溶液を、透明なガラス棒で撹拌するように、細心の注意を払いながらかきまぜているその姿は、まるで瞑想する僧侶のようでした。
両親は、思わずお汁粉を飲むのをやめてその姿に見入っていましたが、突然母親が「まあほんとうに、なんて無垢な子なんでしょう」と感に堪えたように呟きました。
父親も「うん、そのとおりだね。僕もいまそう思った」と応じましたら、母親は、「それなのにあなたって人は、そんな良い子を怒鳴りつけたりして……」と恨めしそうに夫をにらんだので、その父親は「そうだ、こうしてはいられない。仕事、仕事、締め切り、締め切り」とモグモグ言いながら、蟹の横這いのように書斎に逃げ込みました。
♪わが名と同じ亡羊という歌人を見出したり致し方なく今日よりは茫洋とせむ 茫洋
♪バガテルop66
「雨だ雷だ」と大騒ぎするアホ馬鹿天気予報官のおかげで長男は施設に行くのをやめてしまいました。
彼は施設が好きだし、普段は朝早くから起きだして行くのを楽しみにしています。いたって勤勉な彼ですが、彼は雷が大きらいなのです。
放送局のお兄さん、お姉さん、お願いですからガセ雷警報だけは止めてください。彼が一日休むと、それだけ施設の収入が減るのですよ。
その日の晩御飯のあとでどういうわけだかお汁粉が出てきました。ふだんはあまり手を出さない彼ですが、両親がチンした熱い奴をフウフウ吹きながらおいしそうに飲んでいるのをみたからでしょう、「僕も食べます」と珍しくリクエストしました。
「熱いから気をつけるんだよ。まずフウフウしてから、スプーンで上下に混ぜるんだよ。そうするとさめるからね」とお父さんがアドバイスしますと、彼は父親から言われたとおりに、銀の匙を熱い液体の中にそおっと差し入れ、ゆっくりゆっくり上下に動かしています。いつまでもいつまでも動かしています。
中学の理科の実験で、フラスコの中に入ったナトリューム溶液を、透明なガラス棒で撹拌するように、細心の注意を払いながらかきまぜているその姿は、まるで瞑想する僧侶のようでした。
両親は、思わずお汁粉を飲むのをやめてその姿に見入っていましたが、突然母親が「まあほんとうに、なんて無垢な子なんでしょう」と感に堪えたように呟きました。
父親も「うん、そのとおりだね。僕もいまそう思った」と応じましたら、母親は、「それなのにあなたって人は、そんな良い子を怒鳴りつけたりして……」と恨めしそうに夫をにらんだので、その父親は「そうだ、こうしてはいられない。仕事、仕事、締め切り、締め切り」とモグモグ言いながら、蟹の横這いのように書斎に逃げ込みました。
♪わが名と同じ亡羊という歌人を見出したり致し方なく今日よりは茫洋とせむ 茫洋
Tuesday, July 01, 2008
あるカミキリムシの死
あるカミキリムシの死
♪バガテルop65
昼間榎の葉っぱにとまっていたいまでは希少種となったゴマダラカミキリが、午後道路で車に轢かれて死んでいた。私はその美虫薄命、諸行無常に哀れを感じ、終日心身が深い憂愁に閉ざされるのを覚えた。
とつくにのいにしえの死より、向こう三軒両隣の死にたての死、見知らぬ人間よりは最愛の虫や花や獣の横死に対して、激しく胸を引き裂かれるのは私だけだろうか。
すぐる大戦の膨大な死者に対してはかろうじて一掬の涙を注ぎ、平成の御世のちっぽけな駄犬や昆虫の死にかくも夥しい涙を流すとは、まことに不条理な話であるが、そこが神ならぬ身の至らなさ、情けなさ、往々にしてそういうけしからぬ事態が出来するのである。
もっと不思議でけしからぬのは、私が実在の人間や動植物の死に対するよりも、映画やドラマや小説の中に出てきた仮想人物に対して激しく喜怒哀楽することである。
ブランコを漕ぎながら♪命短し恋せよ乙女などと下手な歌を歌っている志村喬の虚構の死に対してあれほど激しく慟哭できるならば、なぜアウシュビッツや真珠湾や広島長崎や、戦艦大和やらガダルカナルの密林に消えた無数の人々の死に対して、もっと激しく嗚咽し、もっともっと大量の涙を流さないのか? それが物事の真実と釣り合った人間らしい感情の適切な発露であるはずだ。
にもかかわらず、私は歴史上の巨大な悲劇に対してはいちじるしく涙を惜しみ、空想上の、ある意味では笑うべき瑣末な悲劇に対しては、惜しみなく浪漫的な感情を放出してやまない。なんという情念の鈍感さ。 なんという理性と感覚のアンバランスであることよ。
いずれにせよ、私(たち)はみずからの動物脳から発する喜怒哀楽の感情、とりわけ涙という塩辛い水分を信用したり、過大な意義を与えてはならない。
現実を知れば知るほど身軽に動けぬこの矛盾をいかにすべきや 茫洋
♪バガテルop65
昼間榎の葉っぱにとまっていたいまでは希少種となったゴマダラカミキリが、午後道路で車に轢かれて死んでいた。私はその美虫薄命、諸行無常に哀れを感じ、終日心身が深い憂愁に閉ざされるのを覚えた。
とつくにのいにしえの死より、向こう三軒両隣の死にたての死、見知らぬ人間よりは最愛の虫や花や獣の横死に対して、激しく胸を引き裂かれるのは私だけだろうか。
すぐる大戦の膨大な死者に対してはかろうじて一掬の涙を注ぎ、平成の御世のちっぽけな駄犬や昆虫の死にかくも夥しい涙を流すとは、まことに不条理な話であるが、そこが神ならぬ身の至らなさ、情けなさ、往々にしてそういうけしからぬ事態が出来するのである。
もっと不思議でけしからぬのは、私が実在の人間や動植物の死に対するよりも、映画やドラマや小説の中に出てきた仮想人物に対して激しく喜怒哀楽することである。
ブランコを漕ぎながら♪命短し恋せよ乙女などと下手な歌を歌っている志村喬の虚構の死に対してあれほど激しく慟哭できるならば、なぜアウシュビッツや真珠湾や広島長崎や、戦艦大和やらガダルカナルの密林に消えた無数の人々の死に対して、もっと激しく嗚咽し、もっともっと大量の涙を流さないのか? それが物事の真実と釣り合った人間らしい感情の適切な発露であるはずだ。
にもかかわらず、私は歴史上の巨大な悲劇に対してはいちじるしく涙を惜しみ、空想上の、ある意味では笑うべき瑣末な悲劇に対しては、惜しみなく浪漫的な感情を放出してやまない。なんという情念の鈍感さ。 なんという理性と感覚のアンバランスであることよ。
いずれにせよ、私(たち)はみずからの動物脳から発する喜怒哀楽の感情、とりわけ涙という塩辛い水分を信用したり、過大な意義を与えてはならない。
現実を知れば知るほど身軽に動けぬこの矛盾をいかにすべきや 茫洋
Sunday, June 29, 2008
2008年水無月茫洋詩歌集
♪ある晴れた日に その30
つめは死んでからも伸びるというムクの爪何センチになりしか
知恵遅れで脳障害で自閉症の息子が弾いているショパンのワルツ作品164の2
白皙の美青年天に召されディオールとシャネルの左に座すかな
去年の今日は蛍舞いたり今年の蛍はどうしているかな
父母逝きてたったひとつの慰めはもはや訃報に怯えぬことなり
ちんぽこを7つ並べて砲射する我らの姿は珍なるものかな
イージスを全部競売で叩き売り社会福祉施設に入金せよ
老人も障碍者も死にかけておるというに外国人に大盤振る舞いするものかな
もっとちゃんとしつけて欲しかった特に食事のマナーといわれてしまい赤面するしかない私
死刑まで国にゆだねてよろしいのか巨悪なんぞは心のままに討ち果たすべきでは
どのオケで何度聴いてもつまらない真面目だけがとりえの指揮者ブロムシュテット
長男を突然死で喪いし母親よ赤いセーターのろのろ動く
崩落の危険はいずくにもあり我が庵にもわが心にも
たまさかの狭心症の発作は意外に苦しい母もきっとこれで死んだのだろう
じゃあねと言いあいて別れたのだがそれが永訣の時であった
親というはげに因果なるものよ25にもなりし息子の所業をわがことと詫ぶ
栗の花にダイミョウセセリがとまる日よ女子大生泣き蛍地に墜つ
丸の内線の四谷三丁目こそうれしけり地獄より出て3丁目に着く
ホラ泣くぞホレ泣けよとばかりズームアップするカメラマンの下種な心
アジアには絶対旅行したいですとほざく日本人お前はアジア人ではないのか
白いポロを着たらルリタテハがついとやってきて右肩にとまったよ
お前もっと大局を見ろなどと上司から言われ素直に頷きし日もありしが呵呵
毒喰わばさろうてご覧と鳥兜がいうた
太刀洗にひとつ落ちたるタイヤかな
岩煙草煙草忘れし星の使者
いずみ橋蛍1匹拾いけり
♪くたびれてしなびてよどみてゆきなやみくちはてそうなわたしのじんせい 茫洋
つめは死んでからも伸びるというムクの爪何センチになりしか
知恵遅れで脳障害で自閉症の息子が弾いているショパンのワルツ作品164の2
白皙の美青年天に召されディオールとシャネルの左に座すかな
去年の今日は蛍舞いたり今年の蛍はどうしているかな
父母逝きてたったひとつの慰めはもはや訃報に怯えぬことなり
ちんぽこを7つ並べて砲射する我らの姿は珍なるものかな
イージスを全部競売で叩き売り社会福祉施設に入金せよ
老人も障碍者も死にかけておるというに外国人に大盤振る舞いするものかな
もっとちゃんとしつけて欲しかった特に食事のマナーといわれてしまい赤面するしかない私
死刑まで国にゆだねてよろしいのか巨悪なんぞは心のままに討ち果たすべきでは
どのオケで何度聴いてもつまらない真面目だけがとりえの指揮者ブロムシュテット
長男を突然死で喪いし母親よ赤いセーターのろのろ動く
崩落の危険はいずくにもあり我が庵にもわが心にも
たまさかの狭心症の発作は意外に苦しい母もきっとこれで死んだのだろう
じゃあねと言いあいて別れたのだがそれが永訣の時であった
親というはげに因果なるものよ25にもなりし息子の所業をわがことと詫ぶ
栗の花にダイミョウセセリがとまる日よ女子大生泣き蛍地に墜つ
丸の内線の四谷三丁目こそうれしけり地獄より出て3丁目に着く
ホラ泣くぞホレ泣けよとばかりズームアップするカメラマンの下種な心
アジアには絶対旅行したいですとほざく日本人お前はアジア人ではないのか
白いポロを着たらルリタテハがついとやってきて右肩にとまったよ
お前もっと大局を見ろなどと上司から言われ素直に頷きし日もありしが呵呵
毒喰わばさろうてご覧と鳥兜がいうた
太刀洗にひとつ落ちたるタイヤかな
岩煙草煙草忘れし星の使者
いずみ橋蛍1匹拾いけり
♪くたびれてしなびてよどみてゆきなやみくちはてそうなわたしのじんせい 茫洋
Saturday, June 28, 2008
きのう見た夢
♪遥かな昔、遠い所で第73回
昨日久しぶりに見たのは白い大きな蛇の夢だった。
私が例によって異境の地で途方に暮れて彷徨っていると、(いつも見る夢だ。いつも出てくる場所だ)路地の奥まった小さなアゴラの右側に、土蔵を改造した商店とも半分壊れた土蔵とも見える一種の祝祭的空間があった。
腰にひらひらだけまとったアラビア風の土民が笛を吹いている。聴いたこともないわびしく哀しくどこか懐かしい旋律を奏している。
私が「いかなる神ならむ、いかなる祭祀ならむ」といぶかしみながら祭壇の前に立ち、目を挙げると、その眼の少し上の位置にオオサンショウウオに似た面妖な貌をした真っ白な大蛇が横たわっていて、うろんな眼つきで私を睨んだ。
美白の外貌なのに眼だけは黒々と、また爛々と輝いている。こいつが大蛇であるとはすぐに見当がついたが、胴体や尻尾は奥のほうにとぐろを巻いていてどれくらいの大きさなのかはまったくわからない。
しかし薄暗い空間の奥にじっと眼を凝らせば、蒼白の大蛇のとぐろの上に横たわっているのは、灰色と薄緑が混じった色をした4羽の白鳥であった。
かつては白鳥と呼ばれたであろうその大型の鳥は、いまや死せる黒鳥となってその4本の長い首と風呂敷のようにぺっちゃんこになった紫色の胴体を、冷たい血管が透き通るような大蛇の皮膚の上に静かに横たえているのだった。
思わず身震いした私が、なおもその異様な光景に見入っていると、そのオオサンショウウオに似た白い大蛇が美白の分厚い唇をぶよぶよと動かしながら、なにやら呟いたようだったが、何を言うておるのか聞き取れなかった。
そこで私が「えっ」と聞き返すと、そいつは、もういちど確かにこう言うたのだった。
「眼は、動くまなこなり。」
父母逝きてたったひとつの慰めはもはや訃報に怯えぬことなり 茫洋
昨日久しぶりに見たのは白い大きな蛇の夢だった。
私が例によって異境の地で途方に暮れて彷徨っていると、(いつも見る夢だ。いつも出てくる場所だ)路地の奥まった小さなアゴラの右側に、土蔵を改造した商店とも半分壊れた土蔵とも見える一種の祝祭的空間があった。
腰にひらひらだけまとったアラビア風の土民が笛を吹いている。聴いたこともないわびしく哀しくどこか懐かしい旋律を奏している。
私が「いかなる神ならむ、いかなる祭祀ならむ」といぶかしみながら祭壇の前に立ち、目を挙げると、その眼の少し上の位置にオオサンショウウオに似た面妖な貌をした真っ白な大蛇が横たわっていて、うろんな眼つきで私を睨んだ。
美白の外貌なのに眼だけは黒々と、また爛々と輝いている。こいつが大蛇であるとはすぐに見当がついたが、胴体や尻尾は奥のほうにとぐろを巻いていてどれくらいの大きさなのかはまったくわからない。
しかし薄暗い空間の奥にじっと眼を凝らせば、蒼白の大蛇のとぐろの上に横たわっているのは、灰色と薄緑が混じった色をした4羽の白鳥であった。
かつては白鳥と呼ばれたであろうその大型の鳥は、いまや死せる黒鳥となってその4本の長い首と風呂敷のようにぺっちゃんこになった紫色の胴体を、冷たい血管が透き通るような大蛇の皮膚の上に静かに横たえているのだった。
思わず身震いした私が、なおもその異様な光景に見入っていると、そのオオサンショウウオに似た白い大蛇が美白の分厚い唇をぶよぶよと動かしながら、なにやら呟いたようだったが、何を言うておるのか聞き取れなかった。
そこで私が「えっ」と聞き返すと、そいつは、もういちど確かにこう言うたのだった。
「眼は、動くまなこなり。」
父母逝きてたったひとつの慰めはもはや訃報に怯えぬことなり 茫洋
Thursday, June 26, 2008
小国寡民
小国寡民
照る日曇る日第134回&♪バガテルop64
萩原延壽著「精神の共和国」によれば、1946年に敗戦による栄養失調で死んだ河上肇の絶筆は、
「冬暖かにして夏涼しく、食甘くして服美しく、人各々その俗を楽しみその居に安んずる小国寡民のこの地に、無名の一良民として、晩年書斎の傍らに一の東籬を営むことが出来たならば、地上における人生の清福これに越すものはなからうと思ふ。私は日本国民が之を機会に、老子の所謂小国寡民の意義の極めて深きを悟るに至れば、今後の「日本人は従前に比べ却って遥かに仕合せになるものと信じている」
というものであった。
小国寡民は、老子の「小国寡民、その食を甘しとし、その服を美しとし、その居に安んじ、その俗を楽しむ。隣国相望みて、鶏犬の声聞ゆるも、民、老死に至るまで相往来せず」に由来するそうだが、萩原氏とともに私は、敗戦後のわが国から、この老子と河上の後世への遺言がいつの間にか虹の彼方にはかなく消えうせたことを悲しむ。
全世界を敵に回して絶望的な戦いを戦い、すべての資源と武器を失って敗れた大日本帝国の臣民がたどるべき道は、極東のこの小さな島国にひっそり閑と閉塞し、グリムの童話の誇大妄想にとりつかれたかの蛙のごとく破裂した夜郎自大な愚かさを何世紀にもまたがって反省し、世界人民に迷惑を掛けず、いついつまでもおのれを殺して逼塞隠遁し、かの美空ひばりの歌のやうに穏やかに、謙虚に生きていくことであったろう。かつて7つの海を制覇した栄光の大英帝国が、誇りを失うことなく胸に手を当てながら悠々と黄昏ていったように。
さうして、吾等が理想の小国寡民にとって最強の武器とは、皮肉なことに戦勝国が吾等に呉れたパンドラの箱たる憲法第9条であったのだが……。
アジアには絶対旅行したいですとほざく日本人お前はアジア人ではないのか 茫洋
照る日曇る日第134回&♪バガテルop64
萩原延壽著「精神の共和国」によれば、1946年に敗戦による栄養失調で死んだ河上肇の絶筆は、
「冬暖かにして夏涼しく、食甘くして服美しく、人各々その俗を楽しみその居に安んずる小国寡民のこの地に、無名の一良民として、晩年書斎の傍らに一の東籬を営むことが出来たならば、地上における人生の清福これに越すものはなからうと思ふ。私は日本国民が之を機会に、老子の所謂小国寡民の意義の極めて深きを悟るに至れば、今後の「日本人は従前に比べ却って遥かに仕合せになるものと信じている」
というものであった。
小国寡民は、老子の「小国寡民、その食を甘しとし、その服を美しとし、その居に安んじ、その俗を楽しむ。隣国相望みて、鶏犬の声聞ゆるも、民、老死に至るまで相往来せず」に由来するそうだが、萩原氏とともに私は、敗戦後のわが国から、この老子と河上の後世への遺言がいつの間にか虹の彼方にはかなく消えうせたことを悲しむ。
全世界を敵に回して絶望的な戦いを戦い、すべての資源と武器を失って敗れた大日本帝国の臣民がたどるべき道は、極東のこの小さな島国にひっそり閑と閉塞し、グリムの童話の誇大妄想にとりつかれたかの蛙のごとく破裂した夜郎自大な愚かさを何世紀にもまたがって反省し、世界人民に迷惑を掛けず、いついつまでもおのれを殺して逼塞隠遁し、かの美空ひばりの歌のやうに穏やかに、謙虚に生きていくことであったろう。かつて7つの海を制覇した栄光の大英帝国が、誇りを失うことなく胸に手を当てながら悠々と黄昏ていったように。
さうして、吾等が理想の小国寡民にとって最強の武器とは、皮肉なことに戦勝国が吾等に呉れたパンドラの箱たる憲法第9条であったのだが……。
アジアには絶対旅行したいですとほざく日本人お前はアジア人ではないのか 茫洋
Wednesday, June 25, 2008
Tuesday, June 24, 2008
♪ある晴れた日に その29
♪ある晴れた日に その29
短い午睡から醒めるともはや無用の人間になったような気がした。
白いポロシャツを着て、朝比奈の滝まで行ったが、誰にも会わなかった。
ハンミョウたちは、道案内ができないので退屈そうだった。
今日は大雨のあとなので、滝からは白い水がじゃぶじゃぶじゃぶじゃぶ湧いて出た。
いつまでもいつまでも湧いて出た。
藻屑蟹を呼んだが、1匹も出てこなかった。
初夏だというのに、コナラの樹上には1羽のゼフィルスも飛んでいない。
そのかわりにとでもいうように、
尾羽打ち枯らしたルリタテハが私の右肩にひょいと止まってしばらく遊んで
やがて青い青い空の高みに飛び去った。
♪白いポロを着たらルリタテハがついとやってきて右肩にとまったよ 茫洋
短い午睡から醒めるともはや無用の人間になったような気がした。
白いポロシャツを着て、朝比奈の滝まで行ったが、誰にも会わなかった。
ハンミョウたちは、道案内ができないので退屈そうだった。
今日は大雨のあとなので、滝からは白い水がじゃぶじゃぶじゃぶじゃぶ湧いて出た。
いつまでもいつまでも湧いて出た。
藻屑蟹を呼んだが、1匹も出てこなかった。
初夏だというのに、コナラの樹上には1羽のゼフィルスも飛んでいない。
そのかわりにとでもいうように、
尾羽打ち枯らしたルリタテハが私の右肩にひょいと止まってしばらく遊んで
やがて青い青い空の高みに飛び去った。
♪白いポロを着たらルリタテハがついとやってきて右肩にとまったよ 茫洋
Monday, June 23, 2008
萩原延壽著「精神の共和国」をわが田に引く
照る日曇る日第133回
「頼むところは天下の輿論、目指す讐は暴虐政府」と遺言して、亡命の地フィラデルフィアで若い命を散らしたのは、わが敬愛する孤高の自由思想家、馬場辰猪だった。
その馬場を「我が党の士」と呼んだのが福沢諭吉で、福沢は彼が身につけていた「気品」をなによりも愛惜したのであった。
「君は天下の人才にしてその期するところ大なりといえどもわが君におきて忘るることあたわざるところのものは、その気風品格の高尚なるにあり。君の気品は忘れんとして忘るるあたわざるところにして、百年の後なお他の亀鑑なり」(追弔詞)と福沢が称えた馬場の気品とは、「知識や思想に命をかよわす強靭な精神のちから」であった。
福沢が西南戦争を率いた西郷南州の行動にみた国民抵抗の精神、明治政府に出仕することを潔しとしない旧幕の遺臣栗本鋤雲の進退に感じた「痩せ我慢の精神」は、いずれも彼がいう「気品」にかかわっている。
気品とは「学問のすすめ」以来、慶応義塾を創立した福沢がもっとも頻繁に口にした「精神の独立」の別名でもある。
馬場、福沢死して1世紀、軽々に「品格」を口走る平成人輩の胸中に、そもいくばくの「気品」ありや?
穏健な保守の論客にして心の奥底で真の革新を夢見ていた、なんだか懐かしく不可思議なインテリゲンチャのことを、私は大仏次郎の「天皇の世紀」が未完で終わったあと、朝日新聞で長期連載された「遠い崖」を読んで、はじめて知ったのだった。
そしていつまでも続いて欲しいと願っていたあの素晴らしいアーネスト・サトウの物語がついに終わってしまったときはがっかりしたものだった。
さてこれで荻原延壽氏の全著作を読んでしまったことになるが、本当にもうこれでおしまいなのだろうか。なんだか名残惜しいことだ。
長男を突然死で喪いし母親よ赤いセーターがのろのろと動く 茫洋
「頼むところは天下の輿論、目指す讐は暴虐政府」と遺言して、亡命の地フィラデルフィアで若い命を散らしたのは、わが敬愛する孤高の自由思想家、馬場辰猪だった。
その馬場を「我が党の士」と呼んだのが福沢諭吉で、福沢は彼が身につけていた「気品」をなによりも愛惜したのであった。
「君は天下の人才にしてその期するところ大なりといえどもわが君におきて忘るることあたわざるところのものは、その気風品格の高尚なるにあり。君の気品は忘れんとして忘るるあたわざるところにして、百年の後なお他の亀鑑なり」(追弔詞)と福沢が称えた馬場の気品とは、「知識や思想に命をかよわす強靭な精神のちから」であった。
福沢が西南戦争を率いた西郷南州の行動にみた国民抵抗の精神、明治政府に出仕することを潔しとしない旧幕の遺臣栗本鋤雲の進退に感じた「痩せ我慢の精神」は、いずれも彼がいう「気品」にかかわっている。
気品とは「学問のすすめ」以来、慶応義塾を創立した福沢がもっとも頻繁に口にした「精神の独立」の別名でもある。
馬場、福沢死して1世紀、軽々に「品格」を口走る平成人輩の胸中に、そもいくばくの「気品」ありや?
穏健な保守の論客にして心の奥底で真の革新を夢見ていた、なんだか懐かしく不可思議なインテリゲンチャのことを、私は大仏次郎の「天皇の世紀」が未完で終わったあと、朝日新聞で長期連載された「遠い崖」を読んで、はじめて知ったのだった。
そしていつまでも続いて欲しいと願っていたあの素晴らしいアーネスト・サトウの物語がついに終わってしまったときはがっかりしたものだった。
さてこれで荻原延壽氏の全著作を読んでしまったことになるが、本当にもうこれでおしまいなのだろうか。なんだか名残惜しいことだ。
長男を突然死で喪いし母親よ赤いセーターがのろのろと動く 茫洋
Saturday, June 21, 2008
万歳! ドイツ・ハルモニア・ムンディ創立50周年
♪音楽千夜一夜第37回
ワーグナー・バイロイトコレクションはデッカレーベルから発売されていて、旧ドイツグラムフォンやフィリプスで出たものも一括しているが、なんといっても1枚当たり300円以下の低価格がうれしい。
ところがそれを大幅に下回る?バジェットプライスが目の前にならんでいた。ドイツ・ハルモニア・ムンディ創立50周年記念50枚組み消費税込み5790円の超廉価版である。私はすばやく電卓を取り出しメガネをかけて計算してみた。なんと@115円80銭ではないか!
これを買わずにいらりょうかとばかり、掌にずしりと重い1パックをむんずとわしづかみにしてレジに向かった私は、その日の午後のしがない賃労働を終えてから家に帰ってさっそくパンドラの箱を開いてみた。
するてえと、出てくるは出てくるは、バロックやら古楽の名曲名演奏の数々が。
アストルガのスターバト・マーテルからはじまって、ペルゴレージ、デユランテのマグニフィカト、ヴィヴエのレクイエム、リュリ、ラモー、ゼレンカ、ペレストリーナ、パーセル、ラスス、モンテヴェルディ、マショー、ヴィバルディ、バッハ、ヘンデルのいつか聴きたいと思っていたあれやこれやがじゃんじゃん飛び出してきたではないか。
たたいまカメラータ・ケルンのバッハのオーボエコンチエルトを聴いたばかりだが、うっとおしい梅雨の暗雲を吹き飛ばすような胸のすく演奏でした。
クイケン・トリオの音楽の慰め、レオンハルトのゴルドベルグ、鈴木秀美のチエロソナタ全曲も楽しみ。それに大好きなゼレンカのミサ曲やスカルラッティのカンタータ、ヨハネ受難曲なんて秘曲?も入っている。
演奏者はアルフレッド・デラーやターフェルムジーク、ホグウッド、プチット・バンド、ビルスマなどは知っているが、そのほかは初めての団体や演奏家ばかりだが、もうなんだっていいや。なんせ50枚だもんね、115円だもんね。
♪岩煙草煙草忘れし星の使者 茫洋
ワーグナー・バイロイトコレクションはデッカレーベルから発売されていて、旧ドイツグラムフォンやフィリプスで出たものも一括しているが、なんといっても1枚当たり300円以下の低価格がうれしい。
ところがそれを大幅に下回る?バジェットプライスが目の前にならんでいた。ドイツ・ハルモニア・ムンディ創立50周年記念50枚組み消費税込み5790円の超廉価版である。私はすばやく電卓を取り出しメガネをかけて計算してみた。なんと@115円80銭ではないか!
これを買わずにいらりょうかとばかり、掌にずしりと重い1パックをむんずとわしづかみにしてレジに向かった私は、その日の午後のしがない賃労働を終えてから家に帰ってさっそくパンドラの箱を開いてみた。
するてえと、出てくるは出てくるは、バロックやら古楽の名曲名演奏の数々が。
アストルガのスターバト・マーテルからはじまって、ペルゴレージ、デユランテのマグニフィカト、ヴィヴエのレクイエム、リュリ、ラモー、ゼレンカ、ペレストリーナ、パーセル、ラスス、モンテヴェルディ、マショー、ヴィバルディ、バッハ、ヘンデルのいつか聴きたいと思っていたあれやこれやがじゃんじゃん飛び出してきたではないか。
たたいまカメラータ・ケルンのバッハのオーボエコンチエルトを聴いたばかりだが、うっとおしい梅雨の暗雲を吹き飛ばすような胸のすく演奏でした。
クイケン・トリオの音楽の慰め、レオンハルトのゴルドベルグ、鈴木秀美のチエロソナタ全曲も楽しみ。それに大好きなゼレンカのミサ曲やスカルラッティのカンタータ、ヨハネ受難曲なんて秘曲?も入っている。
演奏者はアルフレッド・デラーやターフェルムジーク、ホグウッド、プチット・バンド、ビルスマなどは知っているが、そのほかは初めての団体や演奏家ばかりだが、もうなんだっていいや。なんせ50枚だもんね、115円だもんね。
♪岩煙草煙草忘れし星の使者 茫洋
Friday, June 20, 2008
ワーグナーとアーネスト・サトウ
♪音楽千夜一夜第36回
先般タワーレコードで購入したバイロイト音楽祭におけるワーグナーの楽劇、オペラライブシリーズ33枚は名曲、名演奏の一大コンピレーションで、とりわけベームの「トリスタンとイゾルデ」「ワルキューレ」のそれは聴き応えがあった。しかし諸事多端にとりまぎれ、まだ「ニーベルングの指輪」の残りと「パルシファル」はまだ聴きそびれている。聴き終わるのが待ち遠しいような、聴いてしまいたくないような複雑な気持ちだ。
いま読んでいる荻原延寿氏の本にアーネスト・サトウの音楽マニアぶりの話が出ているが、明治12年7月16日にサトウは同じ駐日英国大使館員のチエンバレンとベートーヴェンのハ短調交響曲の最初の2楽章を連弾して楽しんだりしている。場所は泉岳寺の向かいの下宿であるからあの運命のダダダダーンを耳にした人たちは驚いたことだろう。
そのサトウが生まれて初めてワーグナーの音楽に接したのは、彼が1883年にロンドンに帰国していたときである。ちょうどワーグナーの弟子のハンス・リヒターが英国におけるワ氏音楽の普及とバイロイトの資金集めのためにやってきて、前半に「ファウスト序曲」、「トリスタンの死」、「ジークフリートの死」、「同葬送行進曲」、後半にベ氏のその「ハ短調交響曲」を演奏した。
サトウは大いに感動したようで、「桁外れなほど壮大で神秘的ななにか、じつに意表をつく効果の数々、このワ氏の音楽に比べるとあの素晴らしい旋律と活気にあふれたベ氏の音楽さえ色あせてくる。まるで自分の神々がより強大な権力によって突然玉座から放り出されたような感じを受けた」(荻原延寿「精神の共和国」)と書いている。
永井荷風と同様、聴くべきところは精確に聴いているようだ。
しかしそれほど強力な印象を受けたにもかかわらず、サトウはついにバイロイト音楽祭には行かなかった。
彼の朋友チエンバレンの弟でワ氏の娘エヴァと結婚したヒューストン・チエンバレンが熱烈なワグネリアンだったから、当然何度も招待されたはずなのにとうとう祝祭劇場詣でをしなかったのは、そのヒューストンが狂信的な反ユダヤ主義者でありナチ賛美者であったからだと伝えられる。
♪どのオケで何度聴いてもつまらない真面目だけがとりえの指揮者ブロムシュテット 茫洋
先般タワーレコードで購入したバイロイト音楽祭におけるワーグナーの楽劇、オペラライブシリーズ33枚は名曲、名演奏の一大コンピレーションで、とりわけベームの「トリスタンとイゾルデ」「ワルキューレ」のそれは聴き応えがあった。しかし諸事多端にとりまぎれ、まだ「ニーベルングの指輪」の残りと「パルシファル」はまだ聴きそびれている。聴き終わるのが待ち遠しいような、聴いてしまいたくないような複雑な気持ちだ。
いま読んでいる荻原延寿氏の本にアーネスト・サトウの音楽マニアぶりの話が出ているが、明治12年7月16日にサトウは同じ駐日英国大使館員のチエンバレンとベートーヴェンのハ短調交響曲の最初の2楽章を連弾して楽しんだりしている。場所は泉岳寺の向かいの下宿であるからあの運命のダダダダーンを耳にした人たちは驚いたことだろう。
そのサトウが生まれて初めてワーグナーの音楽に接したのは、彼が1883年にロンドンに帰国していたときである。ちょうどワーグナーの弟子のハンス・リヒターが英国におけるワ氏音楽の普及とバイロイトの資金集めのためにやってきて、前半に「ファウスト序曲」、「トリスタンの死」、「ジークフリートの死」、「同葬送行進曲」、後半にベ氏のその「ハ短調交響曲」を演奏した。
サトウは大いに感動したようで、「桁外れなほど壮大で神秘的ななにか、じつに意表をつく効果の数々、このワ氏の音楽に比べるとあの素晴らしい旋律と活気にあふれたベ氏の音楽さえ色あせてくる。まるで自分の神々がより強大な権力によって突然玉座から放り出されたような感じを受けた」(荻原延寿「精神の共和国」)と書いている。
永井荷風と同様、聴くべきところは精確に聴いているようだ。
しかしそれほど強力な印象を受けたにもかかわらず、サトウはついにバイロイト音楽祭には行かなかった。
彼の朋友チエンバレンの弟でワ氏の娘エヴァと結婚したヒューストン・チエンバレンが熱烈なワグネリアンだったから、当然何度も招待されたはずなのにとうとう祝祭劇場詣でをしなかったのは、そのヒューストンが狂信的な反ユダヤ主義者でありナチ賛美者であったからだと伝えられる。
♪どのオケで何度聴いてもつまらない真面目だけがとりえの指揮者ブロムシュテット 茫洋
Thursday, June 19, 2008
篠田節子著「ホーラ 死都」を読む
照る日曇る日第132回
エーゲ海の孤島パナリア島に眠る死と亡霊の都ホーラを舞台にした「カルチャー×ホラー×ラブストーリー」である。
基本は壮年建築家と閨秀バイオリニストの許されざる恋の物語であるが、そこに観光名所やらギリシャやヴェネツイアやオスマントルコの歴史やらキリスト教との宗教&文化衝突やら沈没船から引き上げられた悪魔のヴァイオリン銘器だのその呪いだのがてんこ盛りに盛り込まれたサービス精神満点の娯楽読み物である。
料理にたとえると松花堂弁当か具の多いラーメンライスのようなものだろうか。すぐに腹いっぱいになるが食べた瞬間にどんな味だったか忘れてしまいそう。
しかし知性も教養も向学心も品格もある女流作家の作品だけに、最近の痴呆的ヤン・グーどものあほばか日本語とは2らんく上の読ませる文体と文章で磨き上げてあるのがなによりである。
死刑まで国にゆだねてよろしいのか巨悪なんぞは心のままに討ち果たすべきでは 茫洋
エーゲ海の孤島パナリア島に眠る死と亡霊の都ホーラを舞台にした「カルチャー×ホラー×ラブストーリー」である。
基本は壮年建築家と閨秀バイオリニストの許されざる恋の物語であるが、そこに観光名所やらギリシャやヴェネツイアやオスマントルコの歴史やらキリスト教との宗教&文化衝突やら沈没船から引き上げられた悪魔のヴァイオリン銘器だのその呪いだのがてんこ盛りに盛り込まれたサービス精神満点の娯楽読み物である。
料理にたとえると松花堂弁当か具の多いラーメンライスのようなものだろうか。すぐに腹いっぱいになるが食べた瞬間にどんな味だったか忘れてしまいそう。
しかし知性も教養も向学心も品格もある女流作家の作品だけに、最近の痴呆的ヤン・グーどものあほばか日本語とは2らんく上の読ませる文体と文章で磨き上げてあるのがなによりである。
死刑まで国にゆだねてよろしいのか巨悪なんぞは心のままに討ち果たすべきでは 茫洋
Tuesday, June 17, 2008
よしもとばなな著「サウスポイント」を読む
照る日曇る日第131回
今晩は蛍が4箇所に8匹いた。そのうち3匹がもつれ合いながら谷間の蒼穹に消えていく姿はまことに美しかった。それで私はなんとなく宮崎と坂口という死刑囚のことを思った。
鳩山という法相は大量の蝶類を殺戮してきたので、人類もわりあい抵抗なく死に追いやることができる人ではないかと私は確信している。ともかく蛮勇の持ち主である。たいしたもんだ。
さて本書である。
昔この人は吉本ばななであったのに、いつからひらかなに変えたのだろうか。高島流かそれとも新宿の母だか銀座の母に占ってもらったんだろうか。いずれにしても、私は姓名判断に頼る奴はきらいだし、にやまひろし、とかかまやつひろし、とか、なだいなだとか姓名をぜんぶひらくやつはきらいだ。きらいだきらいだ、全部きらいだ。
どうしてきらいなのか我ながら理由が分からないので、あとでゆっくり考えてみようと思うが、たぶん考えても分からないだろうし、それにその「たぶんあとで」、はないだろうな。人生ってそういうものだ。いまこそそれを考えるべきとき、実行するべきとき、と思っていたって結局はずるずるずるずる一日のばし、二日のばししているうちに10年、20年が過ぎていってしまう。人生ってそういうもんだ。
ばななはハワイが好きらしい。とりわけオアフ島ではなく、ハワイ島の南端のサウスポイントの黄昏に魅惑されているらしい。そこには人々を父母未生以前の原初の状態に還元してくれる精霊が宿っていて、現代の苦難に生きる人々の心身を洗濯し、解放してくれるらしい。
ばななは多少スピリチュアルな世界に影響を受けているようで、そこのところは気に喰わないが、たとえば村上龍のような大きな小説から遠く離れて、小さな小説の小さなよろこびと小さな悲しみをきりきりと生き、切々と抱きしめるところが樋口一葉のようで涙ぐましい。
>私はあの日、サウスポイントではっきりとそれを見た。
海と空、天界とこの世、風と潮、いろいろなものが美しく混じり合って溶けていたあの地点で、私はこの世を支配している力がもたらす、また別の裂け目を見たのだ。ふたつの世界の巨大な力が混じるところを。この世には別の世界をかいまみせるたくさんの裂け目があり、それに感応する魂を抱いている限りは、まだこうしていろいろなものをただ見ていたい、愛する人たちを助けていたい、そう思った。きっとこの場所は、たまに人間にそんな不思議な力を見るのを許してくれる、とっても稀で、厳しくして優しいところなのだろう。(p233)
この前段がいささか紋切り型のばなな流であるけれど、後段の「そう思った」とぬけぬけとためらいもなく言い放つところが、ばななの真骨頂である。そこにはこの魂の単純明快さと強さときよらかさが息づいており、世界と未来への天真爛漫な信頼が輝いている。
前作の「まぼろしハワイ」と違って今回はプロットの構成や時間軸の構築の仕方に技術的な難があるけれど、その破綻を覚悟してあえて突き進んでいるところにこの小説家の勇気と良心が認められる。
♪崩落の危険はいずくにもあり我が庵にもわが心にも 茫洋
今晩は蛍が4箇所に8匹いた。そのうち3匹がもつれ合いながら谷間の蒼穹に消えていく姿はまことに美しかった。それで私はなんとなく宮崎と坂口という死刑囚のことを思った。
鳩山という法相は大量の蝶類を殺戮してきたので、人類もわりあい抵抗なく死に追いやることができる人ではないかと私は確信している。ともかく蛮勇の持ち主である。たいしたもんだ。
さて本書である。
昔この人は吉本ばななであったのに、いつからひらかなに変えたのだろうか。高島流かそれとも新宿の母だか銀座の母に占ってもらったんだろうか。いずれにしても、私は姓名判断に頼る奴はきらいだし、にやまひろし、とかかまやつひろし、とか、なだいなだとか姓名をぜんぶひらくやつはきらいだ。きらいだきらいだ、全部きらいだ。
どうしてきらいなのか我ながら理由が分からないので、あとでゆっくり考えてみようと思うが、たぶん考えても分からないだろうし、それにその「たぶんあとで」、はないだろうな。人生ってそういうものだ。いまこそそれを考えるべきとき、実行するべきとき、と思っていたって結局はずるずるずるずる一日のばし、二日のばししているうちに10年、20年が過ぎていってしまう。人生ってそういうもんだ。
ばななはハワイが好きらしい。とりわけオアフ島ではなく、ハワイ島の南端のサウスポイントの黄昏に魅惑されているらしい。そこには人々を父母未生以前の原初の状態に還元してくれる精霊が宿っていて、現代の苦難に生きる人々の心身を洗濯し、解放してくれるらしい。
ばななは多少スピリチュアルな世界に影響を受けているようで、そこのところは気に喰わないが、たとえば村上龍のような大きな小説から遠く離れて、小さな小説の小さなよろこびと小さな悲しみをきりきりと生き、切々と抱きしめるところが樋口一葉のようで涙ぐましい。
>私はあの日、サウスポイントではっきりとそれを見た。
海と空、天界とこの世、風と潮、いろいろなものが美しく混じり合って溶けていたあの地点で、私はこの世を支配している力がもたらす、また別の裂け目を見たのだ。ふたつの世界の巨大な力が混じるところを。この世には別の世界をかいまみせるたくさんの裂け目があり、それに感応する魂を抱いている限りは、まだこうしていろいろなものをただ見ていたい、愛する人たちを助けていたい、そう思った。きっとこの場所は、たまに人間にそんな不思議な力を見るのを許してくれる、とっても稀で、厳しくして優しいところなのだろう。(p233)
この前段がいささか紋切り型のばなな流であるけれど、後段の「そう思った」とぬけぬけとためらいもなく言い放つところが、ばななの真骨頂である。そこにはこの魂の単純明快さと強さときよらかさが息づいており、世界と未来への天真爛漫な信頼が輝いている。
前作の「まぼろしハワイ」と違って今回はプロットの構成や時間軸の構築の仕方に技術的な難があるけれど、その破綻を覚悟してあえて突き進んでいるところにこの小説家の勇気と良心が認められる。
♪崩落の危険はいずくにもあり我が庵にもわが心にも 茫洋
Monday, June 16, 2008
平成蛍日記
平成蛍日記
♪バガテルop61&鎌倉ちょっと不思議な物語133回
ここ数日私は毎日毎晩ほたるがりに熱中していた。
「かり」ったって狩るのではない。遠くからそおおっと平家蛍の点滅を見守っているのである。
蛍という昆虫はかなり行動半径は広いのだが、不思議なことに毎晩同じ場所に宿る。
♪蛍の宿は川端柳、とはよく歌ったものだ。
川端柳の同じ葉っぱにおよそ1週間から10日滞在してうまくいったら交接してこの世に別れを告げるのである。
昨夜は雌雄2匹が楽しみながら前後左右に移動しながらゆっくり交接するのをうっとりと眺めていた。
1週間前はたくさん飛翔していたが、ここ数日は2匹か4匹になってきた。あと数日で当地の蛍の季節は終わりを告げることだろう。
たまさかの狭心症の発作は意外に苦しい母もきっとこれで死んだのだろう 茫洋
♪バガテルop61&鎌倉ちょっと不思議な物語133回
ここ数日私は毎日毎晩ほたるがりに熱中していた。
「かり」ったって狩るのではない。遠くからそおおっと平家蛍の点滅を見守っているのである。
蛍という昆虫はかなり行動半径は広いのだが、不思議なことに毎晩同じ場所に宿る。
♪蛍の宿は川端柳、とはよく歌ったものだ。
川端柳の同じ葉っぱにおよそ1週間から10日滞在してうまくいったら交接してこの世に別れを告げるのである。
昨夜は雌雄2匹が楽しみながら前後左右に移動しながらゆっくり交接するのをうっとりと眺めていた。
1週間前はたくさん飛翔していたが、ここ数日は2匹か4匹になってきた。あと数日で当地の蛍の季節は終わりを告げることだろう。
たまさかの狭心症の発作は意外に苦しい母もきっとこれで死んだのだろう 茫洋
Friday, June 13, 2008
松浦理英子著「犬身」を読む
松浦理英子著「犬身」を読む
照る日曇る日第131回
私は犬が好きだ。かつて息子が天園のハイキングコースの茶屋近辺をねぐらにしていた野良犬を拾ってきたときも一目見るなり大いに気に入って、もっとも新しい家族の席を占めたのだった。
いらい二十年近く生活を共にしたが、日々新鮮な驚きがあり、愛犬ムクのおかげで我が家は無上の幸せを味わうことができたのであった。最晩年の老犬は両目の視力を失い、体力も臭覚も衰え、餌が目当てで同棲したドラネコに食物を奪われ、大好きな散歩に外出しても歩くのがやっとというていたらくで、飼い主の息子が帰宅するのを待っていたように一声上げて絶命したわけだが、その最後の瞬間もムクは私たちの心と共にあったと確信している。
そんな犬とのうるわしき交歓を堪能した私も、松浦理英子さんの犬に寄せる熱烈な思いと強烈な想像力には遥かに及ばないと知った。
本書の女主人公は、愛する女性の愛犬になる夢を抱き、あれよあれよという間にその途方もない夢を実現してしまう。いったいどのような魔法を使ってそれが可能になったのかは、この本を手にとって読んでいただきたいが、ともかく人間が犬に変身したり、女主人に忠誠を誓うその犬が人間語を解したり、ヒロインの数奇な運命に巻き込まれて異常な体験をしたりする非現実的で不条理極まりない物語を、いかにも真に迫って本当の話のように描いてしまう作者の強烈な想像力と驚くべきは筆力には脱帽せざるを得ない。
私だってこのムクが人間だったら、ムクが言葉を話せたら、と思ったことは何度もあったが、この私が犬になってムクと会話したり愛し合ったりしようとは夢にも思わなかった。松浦理英子さんはこの境界をいともたやすく飛び越えて、人畜同体世界に侵入し、人畜運命共同体という前人未踏の交信領域を開拓することに成功したのであーる。
♪じゃあねと言いあいて別れたのだがそれが永訣の時であった 茫洋
照る日曇る日第131回
私は犬が好きだ。かつて息子が天園のハイキングコースの茶屋近辺をねぐらにしていた野良犬を拾ってきたときも一目見るなり大いに気に入って、もっとも新しい家族の席を占めたのだった。
いらい二十年近く生活を共にしたが、日々新鮮な驚きがあり、愛犬ムクのおかげで我が家は無上の幸せを味わうことができたのであった。最晩年の老犬は両目の視力を失い、体力も臭覚も衰え、餌が目当てで同棲したドラネコに食物を奪われ、大好きな散歩に外出しても歩くのがやっとというていたらくで、飼い主の息子が帰宅するのを待っていたように一声上げて絶命したわけだが、その最後の瞬間もムクは私たちの心と共にあったと確信している。
そんな犬とのうるわしき交歓を堪能した私も、松浦理英子さんの犬に寄せる熱烈な思いと強烈な想像力には遥かに及ばないと知った。
本書の女主人公は、愛する女性の愛犬になる夢を抱き、あれよあれよという間にその途方もない夢を実現してしまう。いったいどのような魔法を使ってそれが可能になったのかは、この本を手にとって読んでいただきたいが、ともかく人間が犬に変身したり、女主人に忠誠を誓うその犬が人間語を解したり、ヒロインの数奇な運命に巻き込まれて異常な体験をしたりする非現実的で不条理極まりない物語を、いかにも真に迫って本当の話のように描いてしまう作者の強烈な想像力と驚くべきは筆力には脱帽せざるを得ない。
私だってこのムクが人間だったら、ムクが言葉を話せたら、と思ったことは何度もあったが、この私が犬になってムクと会話したり愛し合ったりしようとは夢にも思わなかった。松浦理英子さんはこの境界をいともたやすく飛び越えて、人畜同体世界に侵入し、人畜運命共同体という前人未踏の交信領域を開拓することに成功したのであーる。
♪じゃあねと言いあいて別れたのだがそれが永訣の時であった 茫洋
Wednesday, June 11, 2008
Tuesday, June 10, 2008
岡田暁生著「恋愛哲学者モーツァルト」を読む
照る日曇る日第130回
―18世紀がどれほどはちゃめちゃで、ぶっ壊れていて大胆でエッチで絶望的で、でも優美で比類ないバランス感覚と人間愛にあふれていて、少し哀しげだけど微笑みを忘れず、しかし途方もなくラディカルで、人間観察においてぞっとするほど冷酷かつ徹底的でそしてどれだけ現代的であるか、つまりモーツアルトの音楽そのものであるか。
という著者の言葉を、著者がゲーテやスタンダールやカントやヘーゲルやラディゲやキルケゴールやアドルノなどの文学者・哲学者の思想を自在に引用しながら、「後宮からの脱走」、「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」「魔笛」という5つのオペラの登場人物たちの愛の試練の分析を通じて明らかにしていく、なかなかに興味深い音楽哲学書である。
「後宮からの脱走」におけるフィナーレで高貴な太守はひっそりと身を引き、その結果2組の恋人たちは船に乗ってトルコを去っていく。これはいちおうの愛の勝利ではあるが、けっして完璧ではなく、ある和解の不在をそれとなく示唆している、と著者はいう。
「フィガロの結婚」のあまりにも神々しいフィナーレはまるで夢の中の花火のようにあっけなく過ぎ去ってしまう。かつてあれほど愛し合った伯爵夫妻の愛は、おそらくもはや復活しないだろうし、フィガロとスザンナの若い愛もどうなることやら誰にも保証できない。けれど、とりあえず狂乱の一日を終わらせてやろうじゃないかと、モーツアルトは一気につじつま合わせの第4幕の終曲に突入するのである。
「ドン・ジョヴァンニ」は騎士長の死からはじまり主人公の英雄的な地獄落ちに終わる死のドラマであり、ドン・ジョヴァンニという永遠のドンファンによっておおいに活性化された貴族や農民たちの恋愛は、彼の死と共に死んでしまう。
つまり愛の共同体という視点から見たとき、「後宮からの脱走」はとりあえずその建設であり、「フィガロの結婚」はその再建であったが、「ドン・ジョヴァンニ」はそれらすべてを破壊してしまった、と著者はいうのである。地獄落ちととってつけたようなフィナーレの間には、橋の架け様もない深い断絶が生じているのである。
その結果、「コシ・ファン・トゥッテ」の世界では、恋人たちはもはや絶対的権威が存在しない世界を生きなければならない。何が起きようがもう絶対悪のせいにはできず、頼れる庇護者・後見人・王様も悪魔もいない世界において、カントのいうように「未成年状態から脱して大人として自立すること」が恋人たちに課せられた課題になる。
女も、男も、世の中も、所詮はこんなもの。アドルノのいう「絶対主義と自由主義の間の一種逆説的な均衡状態」こそが「コシ・ファン・トゥッテ」を特徴付ける礼節の世界、英国流のゼントルマンの世界であると著者はいうのである。
モーツアルトは最後の作品「魔笛」では、一転して清く正しく美しい愛の世界を描き出す。散文化されたオペラの世界は、ふたたび一つの宇宙として神話化され、フィナーレではありとあらゆる音楽形式がめまぐるしく呼び戻され、最後はまるでベートーヴェンの第9のフィナーレを先取りするようなオラトリオ的な交響が世界にこだまする。
しかしベートーヴェンやワグナーと違って、モーツアルトはロマン派や恋人たちが大好きな感動フィナーレを冷徹に排除する。「いつの日か全人類が本当に子供のように無邪気に互いに仲良く暮らしていける日が来るかもしれない」という希望がほんの一瞬つかの間にきらめいて、フィナーレはあっという間に終わってしまうのである。
♪太刀洗にひとつ落ちたるタイヤかな 茫洋
―18世紀がどれほどはちゃめちゃで、ぶっ壊れていて大胆でエッチで絶望的で、でも優美で比類ないバランス感覚と人間愛にあふれていて、少し哀しげだけど微笑みを忘れず、しかし途方もなくラディカルで、人間観察においてぞっとするほど冷酷かつ徹底的でそしてどれだけ現代的であるか、つまりモーツアルトの音楽そのものであるか。
という著者の言葉を、著者がゲーテやスタンダールやカントやヘーゲルやラディゲやキルケゴールやアドルノなどの文学者・哲学者の思想を自在に引用しながら、「後宮からの脱走」、「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」「魔笛」という5つのオペラの登場人物たちの愛の試練の分析を通じて明らかにしていく、なかなかに興味深い音楽哲学書である。
「後宮からの脱走」におけるフィナーレで高貴な太守はひっそりと身を引き、その結果2組の恋人たちは船に乗ってトルコを去っていく。これはいちおうの愛の勝利ではあるが、けっして完璧ではなく、ある和解の不在をそれとなく示唆している、と著者はいう。
「フィガロの結婚」のあまりにも神々しいフィナーレはまるで夢の中の花火のようにあっけなく過ぎ去ってしまう。かつてあれほど愛し合った伯爵夫妻の愛は、おそらくもはや復活しないだろうし、フィガロとスザンナの若い愛もどうなることやら誰にも保証できない。けれど、とりあえず狂乱の一日を終わらせてやろうじゃないかと、モーツアルトは一気につじつま合わせの第4幕の終曲に突入するのである。
「ドン・ジョヴァンニ」は騎士長の死からはじまり主人公の英雄的な地獄落ちに終わる死のドラマであり、ドン・ジョヴァンニという永遠のドンファンによっておおいに活性化された貴族や農民たちの恋愛は、彼の死と共に死んでしまう。
つまり愛の共同体という視点から見たとき、「後宮からの脱走」はとりあえずその建設であり、「フィガロの結婚」はその再建であったが、「ドン・ジョヴァンニ」はそれらすべてを破壊してしまった、と著者はいうのである。地獄落ちととってつけたようなフィナーレの間には、橋の架け様もない深い断絶が生じているのである。
その結果、「コシ・ファン・トゥッテ」の世界では、恋人たちはもはや絶対的権威が存在しない世界を生きなければならない。何が起きようがもう絶対悪のせいにはできず、頼れる庇護者・後見人・王様も悪魔もいない世界において、カントのいうように「未成年状態から脱して大人として自立すること」が恋人たちに課せられた課題になる。
女も、男も、世の中も、所詮はこんなもの。アドルノのいう「絶対主義と自由主義の間の一種逆説的な均衡状態」こそが「コシ・ファン・トゥッテ」を特徴付ける礼節の世界、英国流のゼントルマンの世界であると著者はいうのである。
モーツアルトは最後の作品「魔笛」では、一転して清く正しく美しい愛の世界を描き出す。散文化されたオペラの世界は、ふたたび一つの宇宙として神話化され、フィナーレではありとあらゆる音楽形式がめまぐるしく呼び戻され、最後はまるでベートーヴェンの第9のフィナーレを先取りするようなオラトリオ的な交響が世界にこだまする。
しかしベートーヴェンやワグナーと違って、モーツアルトはロマン派や恋人たちが大好きな感動フィナーレを冷徹に排除する。「いつの日か全人類が本当に子供のように無邪気に互いに仲良く暮らしていける日が来るかもしれない」という希望がほんの一瞬つかの間にきらめいて、フィナーレはあっという間に終わってしまうのである。
♪太刀洗にひとつ落ちたるタイヤかな 茫洋
Monday, June 09, 2008
五味文彦著「躍動する中世」を読んで その2
照る日曇る日第129回
昨日酷評した「躍動する中世」であるが、細部の記述はとても勉強になる。
以下は本書の落ち穂拾いである。
京の祇園社は外部からやってきて祟りをなす天竺の神牛頭天王、婆梨采女を祭った。
中世人はことのほか童、子供を大切にした。
宇佐八幡宮の八幡神が東大寺や春日社、神護寺、石清水寺に祭られるとともに、神仏習合が深化していった。由比若宮は源氏の基礎を築いた源頼義が由比ガ浜に石清水八幡宮を勧請したことにはじまる。同じ八幡神でも若宮であった。本地は十一面観音である。
頼朝はまず由比ガ浜の鶴岡若宮を祖宗を崇めるために小林卿に移し、毎年元旦に参詣したがこれが本邦の初詣のはじまりである。頼朝は1187年に鶴岡八幡宮で放生会を行なったがこれが山野河海にいくる自由民の支配と殺生を業とする武士の支配に直結したのである。
白拍子の起源は信西入道で、彼がいくつかの舞の手を創作し、磯禅師に伝え、これが娘で義経の妾である「天下の名仁」静に伝承された。静が頼朝夫妻の前で舞ったのは文治2年1186年4月8日であった。
鎌倉の和賀江島を築いたのは勧進上人の往阿弥陀仏と長谷大仏をつくった浄光の二人である。建長4年1252年8月に完成したと伝えられる大仏は当初は木造の釈迦如来と記されているが、現存するのは金銅の阿弥陀仏である。
1214年二日酔いに苦しむ実朝に良薬として抹茶を勧めたのが栄西であった。茶は養生の仙薬なり。延命の妙術なり。本邦の喫茶はここにはじまる。
一遍の踊念仏である踊躍歓喜は身体と宗教の一致である。当時の放下の禅師にはササラ太郎、夢次郎、電光、朝露などがいた。
宝治合戦1247年の際に頼朝の法華堂に立て籠もった三浦一族は浄土宗に帰依する武士の行なう法事讃にもとづいて念仏を唱えつつ全員自害を遂げた。三浦泰村を滅ぼし名門足利氏を失脚させ幕府官僚制を確立し、建長寺を設立して禅門を擁護した。北条一門と得宗の外戚、得宗に仕える御内人から構成される秘密の会議、寄合も時頼の創設で、北条一門の出世コースは引付衆→評定衆→寄合衆であった。
武士の伸長は、11世紀後半に白川天皇が源義家と平正盛を院殿上人として登用したことにはじまる。平正盛の子忠盛は貴族にも取り立てられ平家興隆の基礎を築いた。
中世都市の3つの典型は中央政治都市の京、境界港湾都市の博多、宗教異界都市の奈良であり、それぞれ人・物・精神がその基軸をなしていた。
鎌倉将軍は関東武士団連合に擁された王であり、実朝のように善政・徳政にもとづく新政策を打ちだし親裁権を行使して連合を疎外しようとすれば退けられたのである。幕府政治の本質は談合であり、これがいまなお現代に続いている。
♪ちんぽこを7つ並べて砲射する我らの姿は珍なるものかな 茫洋
昨日酷評した「躍動する中世」であるが、細部の記述はとても勉強になる。
以下は本書の落ち穂拾いである。
京の祇園社は外部からやってきて祟りをなす天竺の神牛頭天王、婆梨采女を祭った。
中世人はことのほか童、子供を大切にした。
宇佐八幡宮の八幡神が東大寺や春日社、神護寺、石清水寺に祭られるとともに、神仏習合が深化していった。由比若宮は源氏の基礎を築いた源頼義が由比ガ浜に石清水八幡宮を勧請したことにはじまる。同じ八幡神でも若宮であった。本地は十一面観音である。
頼朝はまず由比ガ浜の鶴岡若宮を祖宗を崇めるために小林卿に移し、毎年元旦に参詣したがこれが本邦の初詣のはじまりである。頼朝は1187年に鶴岡八幡宮で放生会を行なったがこれが山野河海にいくる自由民の支配と殺生を業とする武士の支配に直結したのである。
白拍子の起源は信西入道で、彼がいくつかの舞の手を創作し、磯禅師に伝え、これが娘で義経の妾である「天下の名仁」静に伝承された。静が頼朝夫妻の前で舞ったのは文治2年1186年4月8日であった。
鎌倉の和賀江島を築いたのは勧進上人の往阿弥陀仏と長谷大仏をつくった浄光の二人である。建長4年1252年8月に完成したと伝えられる大仏は当初は木造の釈迦如来と記されているが、現存するのは金銅の阿弥陀仏である。
1214年二日酔いに苦しむ実朝に良薬として抹茶を勧めたのが栄西であった。茶は養生の仙薬なり。延命の妙術なり。本邦の喫茶はここにはじまる。
一遍の踊念仏である踊躍歓喜は身体と宗教の一致である。当時の放下の禅師にはササラ太郎、夢次郎、電光、朝露などがいた。
宝治合戦1247年の際に頼朝の法華堂に立て籠もった三浦一族は浄土宗に帰依する武士の行なう法事讃にもとづいて念仏を唱えつつ全員自害を遂げた。三浦泰村を滅ぼし名門足利氏を失脚させ幕府官僚制を確立し、建長寺を設立して禅門を擁護した。北条一門と得宗の外戚、得宗に仕える御内人から構成される秘密の会議、寄合も時頼の創設で、北条一門の出世コースは引付衆→評定衆→寄合衆であった。
武士の伸長は、11世紀後半に白川天皇が源義家と平正盛を院殿上人として登用したことにはじまる。平正盛の子忠盛は貴族にも取り立てられ平家興隆の基礎を築いた。
中世都市の3つの典型は中央政治都市の京、境界港湾都市の博多、宗教異界都市の奈良であり、それぞれ人・物・精神がその基軸をなしていた。
鎌倉将軍は関東武士団連合に擁された王であり、実朝のように善政・徳政にもとづく新政策を打ちだし親裁権を行使して連合を疎外しようとすれば退けられたのである。幕府政治の本質は談合であり、これがいまなお現代に続いている。
♪ちんぽこを7つ並べて砲射する我らの姿は珍なるものかな 茫洋
Sunday, June 08, 2008
五味文彦著「躍動する中世」を読んで その1
照る日曇る日第128回
小学館の「日本の歴史」の第5巻、新視点中世史「躍動する中世」である。
著者によれば中世社会の特徴は次の5つであるという。
1) 疾病や飢饉が襲い来るなか、ひたすら神仏にすがり、これが中世人の政治・経済・文化・社会に大きな影響を与えたこと。例白川、鳥羽、後鳥羽院の熊野詣、平清盛の厳島神社詣、頼朝の鶴岡八幡宮詣と彼らの神託政治。応仁の乱にはじまる国際的な政治変動、長禄・寛正の疾病や飢饉などは15世紀の寒冷期(小氷期)の影響が大である。
2) 当時の内外情勢によって国内の地域社会の原型がつくられた。
3) 貴族・武士・庶民などさまざまな身分の諸階層にイエが形成され、主従関係を柱にしながらも、ウジではなく、イエを媒介とする多様な人間・社会関係が醸成された。
4) 古代律令国家における権力が弛緩し、分権化した。中央では寺社・権門が、地方では開発領主など自立した地域権力が形成されて多重権力状態になり、内乱も起こった。
5) 中世人は権力に頼らず、自力による救済を求め、各地で強訴や一揆、訴訟が起こったために中央権力はその対応に追われ自滅の道をたどったが、やがて応仁の乱を経て分権的社会から集権的社会へと変遷していく。
以上、身も蓋もない総括であるが、中身は充実していて、ことに前半の章は力作であるが、後半の最後のほうは雑多な情報を脱兎のごとく書き飛ばしてある。締め切りに追われて描き飛ばしたのだろう。
全体の構成も中途半端であり(特に最後の時代設定の項)、同じ著者による前著「王の記憶」に比較すると完成度はさほど高くない。時折加えられる網野善彦への上っ面の小出しの批判というより悪口も不愉快だ。批評するなら故人の存命中に本人の目の前で徹底的にやってほしかった。
♪毒喰わばさろうてご覧と鳥兜がいうた 茫洋
小学館の「日本の歴史」の第5巻、新視点中世史「躍動する中世」である。
著者によれば中世社会の特徴は次の5つであるという。
1) 疾病や飢饉が襲い来るなか、ひたすら神仏にすがり、これが中世人の政治・経済・文化・社会に大きな影響を与えたこと。例白川、鳥羽、後鳥羽院の熊野詣、平清盛の厳島神社詣、頼朝の鶴岡八幡宮詣と彼らの神託政治。応仁の乱にはじまる国際的な政治変動、長禄・寛正の疾病や飢饉などは15世紀の寒冷期(小氷期)の影響が大である。
2) 当時の内外情勢によって国内の地域社会の原型がつくられた。
3) 貴族・武士・庶民などさまざまな身分の諸階層にイエが形成され、主従関係を柱にしながらも、ウジではなく、イエを媒介とする多様な人間・社会関係が醸成された。
4) 古代律令国家における権力が弛緩し、分権化した。中央では寺社・権門が、地方では開発領主など自立した地域権力が形成されて多重権力状態になり、内乱も起こった。
5) 中世人は権力に頼らず、自力による救済を求め、各地で強訴や一揆、訴訟が起こったために中央権力はその対応に追われ自滅の道をたどったが、やがて応仁の乱を経て分権的社会から集権的社会へと変遷していく。
以上、身も蓋もない総括であるが、中身は充実していて、ことに前半の章は力作であるが、後半の最後のほうは雑多な情報を脱兎のごとく書き飛ばしてある。締め切りに追われて描き飛ばしたのだろう。
全体の構成も中途半端であり(特に最後の時代設定の項)、同じ著者による前著「王の記憶」に比較すると完成度はさほど高くない。時折加えられる網野善彦への上っ面の小出しの批判というより悪口も不愉快だ。批評するなら故人の存命中に本人の目の前で徹底的にやってほしかった。
♪毒喰わばさろうてご覧と鳥兜がいうた 茫洋
Saturday, June 07, 2008
オタマよ 元気で!
♪バガテルop60&鎌倉ちょっと不思議な物語132回
2月に誕生したオタマを自宅に持ち帰り大事に育てていましたが、今日もとの住処に放してやりました。
万が一そこのオタマが全滅したときに備えて毎年十数匹持ち帰っているのですが、結局共食いをして2匹だけになりました。そのかわりとても敏捷で強靭な生命力をもっています。既に小さな手足も生えています。
ややれやれこれで半年近いオタマの親役の仕事が終わりました。あと2週間、どうか鳥や蛇や悪いやつらに襲われずに元気なカエルになっとくれ。
もっとちゃんとしつけて欲しかった特に食事のマナーといわれてしまい赤面するしかない私 茫洋
2月に誕生したオタマを自宅に持ち帰り大事に育てていましたが、今日もとの住処に放してやりました。
万が一そこのオタマが全滅したときに備えて毎年十数匹持ち帰っているのですが、結局共食いをして2匹だけになりました。そのかわりとても敏捷で強靭な生命力をもっています。既に小さな手足も生えています。
ややれやれこれで半年近いオタマの親役の仕事が終わりました。あと2週間、どうか鳥や蛇や悪いやつらに襲われずに元気なカエルになっとくれ。
もっとちゃんとしつけて欲しかった特に食事のマナーといわれてしまい赤面するしかない私 茫洋
Thursday, June 05, 2008
網野善彦著作集第7巻「中世の非農業民と天皇」を読む
照る日曇る日第128回
宇治の平等院に参拝したついでに宇治川を眺めると、その流れの急であることにいつも驚く。
もののふの八十氏河の網代木に
いざよう波の行方しらずも
と、かつて柿本人麻呂が詠んだ宇治川では、網代をかける古代の漁民たちが歴代の天皇に贄(ニエ)として氷魚を献上していた。そしてこの贄人と天皇の関係は大化以前にまでさかのぼると網野氏はいう。
往古においても、源平決戦の宇治川の戦いで佐々木高綱と梶原景季が先陣争いをしていたときにも、この川の贄人集団は京の賀茂上下社に属していたが、鎌倉時代の中期に入ると、この集団は奈良の春日社、松尾社にも関係をもつようになった。
しかし弘安7年1284年、叡尊の申請により、賀茂社、春日社、松尾社の反対にもかかわらず、宇治川の網代を停止せよという院宣が発せられて網代はいったん破却されたが、贄人集団はその後も長く権閥への抵抗を続けた、と著者は指摘し、彼ら漁民の果敢な戦いの中に中世自由民の不屈の面魂を認めるのである。
律令国家における天皇の山野河海に対する支配権は、このような贄人集団の権利縮小とともに弱体化しつつも、中世を通じて生きつづけ、近世以降においても海国日本を基層部で支える天皇制としてしたたかに生き延びている。
鎌倉大仏を造った中世鋳物師は、供御人の身分と通行自由権を得て全国を遍歴した。
寿永元年1182年東大寺の大仏は勧進上人重源と宗の鋳工陳和卿によって軌道に乗るが、このときに草部是助を惣官とする東大寺鋳物師が誕生し、承歴3年1079年から蔵人所に所属していた燈炉供御人と呼ばれる鋳物師たち(河内国が拠点)と合同した職人集団が、その後の仏像鋳造などを先導していくことになる。
やがてこれらの先行グループから後継者があらわれ、鎌倉建長寺梵鐘を製作した物部姓鋳物師や丹治久友、広階友国、藤原行恒などの鎌倉新大仏鋳物師が登場するが、彼らはいずれも畿内に活動拠点をもっていた。
しかし南北朝・室町期を迎えると、彼らは内部分裂を繰り返しながら、諸国の守護を頼るようになり、しかも偽文書や由来書をでっちあげて偽の権威付けによる組織維持にうつつをぬかすようになって堕落する。
かつて彼らは、それが天皇の支配権に直属するかりそめの自由にすぎなかったにせよ、専門的な技術をもつ職人であり、アルチザンであり、芸能人、自由人であったが、もしかすると西欧流のギルドに発展したかもしれない彼らの「自由への道」はここで完全に閉じられ、逆に一種のカースト的な閉鎖組織に転落してしまうのである。
♪イージスを全部競売で叩き売り社会福祉施設に入金せよ 茫洋
宇治の平等院に参拝したついでに宇治川を眺めると、その流れの急であることにいつも驚く。
もののふの八十氏河の網代木に
いざよう波の行方しらずも
と、かつて柿本人麻呂が詠んだ宇治川では、網代をかける古代の漁民たちが歴代の天皇に贄(ニエ)として氷魚を献上していた。そしてこの贄人と天皇の関係は大化以前にまでさかのぼると網野氏はいう。
往古においても、源平決戦の宇治川の戦いで佐々木高綱と梶原景季が先陣争いをしていたときにも、この川の贄人集団は京の賀茂上下社に属していたが、鎌倉時代の中期に入ると、この集団は奈良の春日社、松尾社にも関係をもつようになった。
しかし弘安7年1284年、叡尊の申請により、賀茂社、春日社、松尾社の反対にもかかわらず、宇治川の網代を停止せよという院宣が発せられて網代はいったん破却されたが、贄人集団はその後も長く権閥への抵抗を続けた、と著者は指摘し、彼ら漁民の果敢な戦いの中に中世自由民の不屈の面魂を認めるのである。
律令国家における天皇の山野河海に対する支配権は、このような贄人集団の権利縮小とともに弱体化しつつも、中世を通じて生きつづけ、近世以降においても海国日本を基層部で支える天皇制としてしたたかに生き延びている。
鎌倉大仏を造った中世鋳物師は、供御人の身分と通行自由権を得て全国を遍歴した。
寿永元年1182年東大寺の大仏は勧進上人重源と宗の鋳工陳和卿によって軌道に乗るが、このときに草部是助を惣官とする東大寺鋳物師が誕生し、承歴3年1079年から蔵人所に所属していた燈炉供御人と呼ばれる鋳物師たち(河内国が拠点)と合同した職人集団が、その後の仏像鋳造などを先導していくことになる。
やがてこれらの先行グループから後継者があらわれ、鎌倉建長寺梵鐘を製作した物部姓鋳物師や丹治久友、広階友国、藤原行恒などの鎌倉新大仏鋳物師が登場するが、彼らはいずれも畿内に活動拠点をもっていた。
しかし南北朝・室町期を迎えると、彼らは内部分裂を繰り返しながら、諸国の守護を頼るようになり、しかも偽文書や由来書をでっちあげて偽の権威付けによる組織維持にうつつをぬかすようになって堕落する。
かつて彼らは、それが天皇の支配権に直属するかりそめの自由にすぎなかったにせよ、専門的な技術をもつ職人であり、アルチザンであり、芸能人、自由人であったが、もしかすると西欧流のギルドに発展したかもしれない彼らの「自由への道」はここで完全に閉じられ、逆に一種のカースト的な閉鎖組織に転落してしまうのである。
♪イージスを全部競売で叩き売り社会福祉施設に入金せよ 茫洋
蛍の光
蛍の光
鎌倉ちょっと不思議な物語131回
昨日の夜、ことし初めてのヘイケボタルの輪舞を目撃した。
去年は6月4日に4匹、おととしは6月3日におよそ10匹出現しているから、もしやと思ってバスから降りて走っていくと、少なくとも7匹の蛍たちが雨上がりの滑川を高く、低くゆらゆら揺れながら飛翔していた。
それにしてもこの劣悪で過酷な自然環境のなかで、養殖ですらない天然自然のヘイケボタルが、毎年毎年数はまちまちであっても、決まったように同じ時期に姿を現すことは、それ自体ほとんど奇跡のように思われてならない。
蛍は普通は晴れた無風の日の夕方7時過ぎに飛び始め、およそ1時間で樹木の葉に止まってその日の求愛活動を終えるのだが、きのうは午後9時近くになっていたにもかかわらず、かなりダイナミックに飛び回っていた。
滑川に架かる小さな橋の下にいる雌雄の2匹は後になり先になって30センチくらいの光の輪を残しながらさかんに求愛の輪舞を繰り返すさまを、私は欄干によりかかりながらうっとりとして見飽きることなくいつまでも眺めていた。
きっと誰にも分かってもらえないと思うけれど、あまり面白くもなかった人生を泣いたり笑ったりしながら長らく続けてきて、結局こういう昆虫の無心の踊りを眺めているときが、私のもっとも幸福な瞬間なのである。そして私は、これ以上のよろこびと、こういってよければ快楽を、人生と世の中に対してもはや求めようとはけっして思わないのである。
すると、無限に続くかと思われる輪舞を踊っていたうちの1匹が、あきらかに私をめがけてまっすぐ飛んできた。
かつてこの橋のたもとにはウクレレショップがあって、そのオーナーと私はたった一度だけこの橋に出没する蛍の話をしたことがあった。それは既に蛍には遅すぎる7月のことで、結局彼は毎晩自分のアパートから滑川を眺めていたにもかかわらず、その翌年の冬に急な病を得て亡くなってしまった。
あれからもう5年くらいは経つのだが、こうして再びこの橋の上に立ち、年々歳々精霊の再来のように漆黒の空から降臨してくれるケイケボタルを見るたびに、私は鎌倉長谷生まれと言っていたあのドンガバチョに似たウクレレ製作者のことを思い出す。
♪ひいふうみい 七つも踊っていたよ ことしのほたる 茫洋
鎌倉ちょっと不思議な物語131回
昨日の夜、ことし初めてのヘイケボタルの輪舞を目撃した。
去年は6月4日に4匹、おととしは6月3日におよそ10匹出現しているから、もしやと思ってバスから降りて走っていくと、少なくとも7匹の蛍たちが雨上がりの滑川を高く、低くゆらゆら揺れながら飛翔していた。
それにしてもこの劣悪で過酷な自然環境のなかで、養殖ですらない天然自然のヘイケボタルが、毎年毎年数はまちまちであっても、決まったように同じ時期に姿を現すことは、それ自体ほとんど奇跡のように思われてならない。
蛍は普通は晴れた無風の日の夕方7時過ぎに飛び始め、およそ1時間で樹木の葉に止まってその日の求愛活動を終えるのだが、きのうは午後9時近くになっていたにもかかわらず、かなりダイナミックに飛び回っていた。
滑川に架かる小さな橋の下にいる雌雄の2匹は後になり先になって30センチくらいの光の輪を残しながらさかんに求愛の輪舞を繰り返すさまを、私は欄干によりかかりながらうっとりとして見飽きることなくいつまでも眺めていた。
きっと誰にも分かってもらえないと思うけれど、あまり面白くもなかった人生を泣いたり笑ったりしながら長らく続けてきて、結局こういう昆虫の無心の踊りを眺めているときが、私のもっとも幸福な瞬間なのである。そして私は、これ以上のよろこびと、こういってよければ快楽を、人生と世の中に対してもはや求めようとはけっして思わないのである。
すると、無限に続くかと思われる輪舞を踊っていたうちの1匹が、あきらかに私をめがけてまっすぐ飛んできた。
かつてこの橋のたもとにはウクレレショップがあって、そのオーナーと私はたった一度だけこの橋に出没する蛍の話をしたことがあった。それは既に蛍には遅すぎる7月のことで、結局彼は毎晩自分のアパートから滑川を眺めていたにもかかわらず、その翌年の冬に急な病を得て亡くなってしまった。
あれからもう5年くらいは経つのだが、こうして再びこの橋の上に立ち、年々歳々精霊の再来のように漆黒の空から降臨してくれるケイケボタルを見るたびに、私は鎌倉長谷生まれと言っていたあのドンガバチョに似たウクレレ製作者のことを思い出す。
♪ひいふうみい 七つも踊っていたよ ことしのほたる 茫洋
Wednesday, June 04, 2008
丸山健二著「日と月と刀」を読む
照る日曇る日第127回
きらきらと旭日が徳をほどこす光でもって夜を中和させ 恐るべき精力を投入しながら 闇の呪縛をみるみるうちに解いてゆく
というゴシックで印刷された冒頭部から始まり、
碧眼の住職の口からほとばしる深い感嘆の声が屏風絵の世界に響き渡り
その音声が草庵を囲む壮大な花咲く園の全体にあまねくこだまし
数万本 数十万本にも及ぶ夜桜をふるわせながら
はなむけの音波となって
刀にも草鞋にも頼らずに済む
生い立ちの解明や自己の陶冶に苦しめられなくて済む
新たなる旅立ちを始めたばかりの無名丸の後をどこまでも追いかけてゆく
というこれまたゴシック体で印刷された結語で終わる、上下巻912頁になんなんとする長大な歴史絵巻物風ビルダングスロマンである。
引用文にも出てきたが、「陶冶」という懐かしい言葉が丸山健二の文学にはもっともふさわしいような気がする。
陶冶とは、陶器を焼くがごとく、鋳物を鋳るがごとく、人間の持って生まれた性質を円満完全に発達させることをいうが、丸山は己の人格を陶冶するために筆を選び、文華を究め、生きるよろこびと苦しみをあますところなく味わうために文学という一筋の道を歩き続けるのだ。柔道や剣道や僧の修行と同じような「道」としての文学道を。
本作では、珍しくも鎌倉から南北朝、室町期辺りの京洛周辺を舞台にして「無名丸」という風雲児を縦横無尽に大活躍させているが、著者としては歴史小説、時代小説を書くことが主眼ではなく、戦乱の世に命がけで生きる孤立無援の若者の生をひたすら追い続けることによって、ようやく初老に達し、心弱さを覚えるに至った己が心身の転生ないし生き直しを試みようとしたのであろう。
全身全霊をあげて阿鼻叫喚を、暴行を、殺戮を、性愛を、因業を、圧殺を、陰謀を、風流を、悟達を、一字一字刻んでいく作家の、執念と、渇望と、精進と、熱情と、諦念の質量と速度はすさまじい。青年の、ではなく、壮年のシュトルムウントドランクがその頂点に達して、秋霜と人性の黄昏に立ち向かっていくさまが悲壮無類である。
さうして、それら因業な作家の営為のすべてを見事に象徴しているのは、「日と月と刀」という表題を、雄渾無比な毛筆の一閃で描ききった小泉淳作画伯の題字である。
♪老人も障碍者も死にかけておるというに外国人に大盤振る舞いするものかな 茫洋
きらきらと旭日が徳をほどこす光でもって夜を中和させ 恐るべき精力を投入しながら 闇の呪縛をみるみるうちに解いてゆく
というゴシックで印刷された冒頭部から始まり、
碧眼の住職の口からほとばしる深い感嘆の声が屏風絵の世界に響き渡り
その音声が草庵を囲む壮大な花咲く園の全体にあまねくこだまし
数万本 数十万本にも及ぶ夜桜をふるわせながら
はなむけの音波となって
刀にも草鞋にも頼らずに済む
生い立ちの解明や自己の陶冶に苦しめられなくて済む
新たなる旅立ちを始めたばかりの無名丸の後をどこまでも追いかけてゆく
というこれまたゴシック体で印刷された結語で終わる、上下巻912頁になんなんとする長大な歴史絵巻物風ビルダングスロマンである。
引用文にも出てきたが、「陶冶」という懐かしい言葉が丸山健二の文学にはもっともふさわしいような気がする。
陶冶とは、陶器を焼くがごとく、鋳物を鋳るがごとく、人間の持って生まれた性質を円満完全に発達させることをいうが、丸山は己の人格を陶冶するために筆を選び、文華を究め、生きるよろこびと苦しみをあますところなく味わうために文学という一筋の道を歩き続けるのだ。柔道や剣道や僧の修行と同じような「道」としての文学道を。
本作では、珍しくも鎌倉から南北朝、室町期辺りの京洛周辺を舞台にして「無名丸」という風雲児を縦横無尽に大活躍させているが、著者としては歴史小説、時代小説を書くことが主眼ではなく、戦乱の世に命がけで生きる孤立無援の若者の生をひたすら追い続けることによって、ようやく初老に達し、心弱さを覚えるに至った己が心身の転生ないし生き直しを試みようとしたのであろう。
全身全霊をあげて阿鼻叫喚を、暴行を、殺戮を、性愛を、因業を、圧殺を、陰謀を、風流を、悟達を、一字一字刻んでいく作家の、執念と、渇望と、精進と、熱情と、諦念の質量と速度はすさまじい。青年の、ではなく、壮年のシュトルムウントドランクがその頂点に達して、秋霜と人性の黄昏に立ち向かっていくさまが悲壮無類である。
さうして、それら因業な作家の営為のすべてを見事に象徴しているのは、「日と月と刀」という表題を、雄渾無比な毛筆の一閃で描ききった小泉淳作画伯の題字である。
♪老人も障碍者も死にかけておるというに外国人に大盤振る舞いするものかな 茫洋
Tuesday, June 03, 2008
イヴ・サンローランとフランス革命
ふあっちょん幻論第21回
イヴ・サンローランが脳腫瘍で死んだ。まだ71歳とは知らなかった。若すぎる死といってもいいだろう。
20代でディオールの後継者となったサンローランは、1966年にサンローラン・リヴ・ゴーシュを設立して「マリンルック」や官能的な夜のパンツ「スモーキング」を発表した。
サファリスーツやモンドリアンルックやプレタポルテブームを先導した功績も大であるが、私がみるところ、もっとも偉大な業績は「シティパンツ」の創造であろう。
サンローランが、女性が街で着られるパンツスーツ「シティパンツ」を発表したのは1967年であった。これはウールジャージー素材によるチュニック丈ジャケットとパンツの組み合わせで、史上初めて“働く女のスーツ”を作ったシャネルが「サンローランこそは私の後継者」と呼んだ逸話にふさわしい革命的なルックスであった。
シャネルのスカートをサンローランはパンツに取替え、それまで男性が独占していたパンツを史上初めて女性のものにしたのである。
顧みれば、1789年のフランス革命が、貴族・ブルジョワ階級が常用した乗馬用の半ズボン、キュロットパンツを廃絶し、市民階級(サン・キュロット)の普段着である長ズボン(パンタロン)を革命のシンボルとして華々しく歴史の舞台に登場させた。そうしてイヴ・サンローランが火を点じた「リヴ・ゴーシュ(左岸)革命」では、200年間にわたって男性が独占していたそのパンタロンを、はじめて女性に解放したのである。
イヴ・サンローランという人は、天才ディオールとシャネルの後継者であっただけでなく、じつにフランス革命の輝かしい後継者でもあった。
♪白皙の美青年天に召されディオールとシャネルの左に座すかな 茫洋
イヴ・サンローランが脳腫瘍で死んだ。まだ71歳とは知らなかった。若すぎる死といってもいいだろう。
20代でディオールの後継者となったサンローランは、1966年にサンローラン・リヴ・ゴーシュを設立して「マリンルック」や官能的な夜のパンツ「スモーキング」を発表した。
サファリスーツやモンドリアンルックやプレタポルテブームを先導した功績も大であるが、私がみるところ、もっとも偉大な業績は「シティパンツ」の創造であろう。
サンローランが、女性が街で着られるパンツスーツ「シティパンツ」を発表したのは1967年であった。これはウールジャージー素材によるチュニック丈ジャケットとパンツの組み合わせで、史上初めて“働く女のスーツ”を作ったシャネルが「サンローランこそは私の後継者」と呼んだ逸話にふさわしい革命的なルックスであった。
シャネルのスカートをサンローランはパンツに取替え、それまで男性が独占していたパンツを史上初めて女性のものにしたのである。
顧みれば、1789年のフランス革命が、貴族・ブルジョワ階級が常用した乗馬用の半ズボン、キュロットパンツを廃絶し、市民階級(サン・キュロット)の普段着である長ズボン(パンタロン)を革命のシンボルとして華々しく歴史の舞台に登場させた。そうしてイヴ・サンローランが火を点じた「リヴ・ゴーシュ(左岸)革命」では、200年間にわたって男性が独占していたそのパンタロンを、はじめて女性に解放したのである。
イヴ・サンローランという人は、天才ディオールとシャネルの後継者であっただけでなく、じつにフランス革命の輝かしい後継者でもあった。
♪白皙の美青年天に召されディオールとシャネルの左に座すかな 茫洋
Monday, June 02, 2008
海に浮かぶか博物館
勝手に建築観光30回
昨日は舞踊家大野氏のお名前を間違えてしまった。一男ではなく大野一雄が正しい。お詫びして訂正いたします。さて本日の話題は建築です。
菊竹清訓(きくたけきよのり)は、悪名高き江戸東京博物館の建築家としてあまねく知られている。一目吐気と眩暈をもたらすその鈍重嘉魁偉な外観にけおされて、私は数年前に開催された「蕪村展」いらい当地に足を踏み入れることができずにいる。こうなれば一種の建築公害といえるのではないだろうか。
ところで若き日の菊竹清訓は、六本木の国立新美術館を遺して先般物故した黒川紀章とともに、建築におけるメタボリズム(新陳代謝主義)を提唱し、黒川は中銀カプセルタワーを菊竹は上野ソフィテル東京を作った。
メタボリズムというのは、人間の体は60兆個の細胞でできており、そのうち1秒ごとに1000万個が死滅して新しい細胞に生まれ変わっている。ミクロで見れば人間は2ヶ月余りでまったく新しい存在に再生していることになる。ゆえにこの新陳代謝が終わるときが生命の終焉であるからして、建築家も都市や建築が死なないように、社会や時代に合わせてさながら生物のように千変万化させようと考えたわけだが、これこそ高度成長の60年代にふさわしい、なんでもありの野放図な土建屋のおぞましい思想ではないだろうか。要するにバイオロジーの思想にことよせて、どんどん壊して、どんどん建てようとしたわけである。
しかし同じメタボリズムに立脚しながら、黒川の中銀カプセルタワーがアヴァンギャルドの生真面目さを保った記念碑的名作であるのに対して、上野の不忍池の背後に不気味に聳え立つ菊竹の上野ソフィテル東京は、江戸東京博物館に匹敵する首都の最も醜悪な建築(ラブホテル?)のひとつであろう。周囲の景観を台無しにする夜郎自大のあのおぞましいビルジングをおっ立てることなぞわれひとともに容易にできるものではない。一日も早く取り壊してほしいいものである。
ところがフランク・シェッツイングのベストセラー「知られざる宇宙」によれば、菊竹清訓は都市のユートピアの専門家であり、彼が設計した江戸東京博物館はプラグマティストとして優れた作品である、と絶賛している。
そしてフランクによれば、そのこころは、「海岸からそう遠くないところにあるこの博物館は高波が押し寄せたときには海面に浮かぶ箱舟のようになるつくりになっている」からだというのである。(559p)
1958年に世界初の浮体構造物の設計図を発表し、環境破壊をもたらす機械や工場類を海上に移してしまおうと考え、沖縄国際海上博覧会で海上都市アクアポリスの原型をこしらえた菊竹は、今を去る半世紀前にすでに今日の地球温暖化の到来を世界に先駆けて予知していたのだ。
やがて東京湾の水位が日々上昇し、洪水と下町沈没の危機が到来するであろうことを神ならぬ身にして洞察していたこの偉大なる建築家は、コンクリートと鉄とガラスの粋を尽くした醜悪なる現代版「ノアの箱舟」を両国市民のために滅私奉公製造してくれていたのである。
なるほど、そういうことだったのか、と私ははたと膝をたたき、おのれの不明を深く恥じた。
そう思って周囲を眺めると、今里隆の設計による同じように醜悪な国技館も、江戸東京博物館と軌を一にした高波漂流用大鉄傘付き海月と見えてくるから不思議なものである。
これからは建築を美的観点のみならず人類救済的観点から透視しようと改めて自戒したことであった。
知恵遅れで脳障害で自閉症の息子が弾いているショパンのワルツ作品164の2 茫洋
昨日は舞踊家大野氏のお名前を間違えてしまった。一男ではなく大野一雄が正しい。お詫びして訂正いたします。さて本日の話題は建築です。
菊竹清訓(きくたけきよのり)は、悪名高き江戸東京博物館の建築家としてあまねく知られている。一目吐気と眩暈をもたらすその鈍重嘉魁偉な外観にけおされて、私は数年前に開催された「蕪村展」いらい当地に足を踏み入れることができずにいる。こうなれば一種の建築公害といえるのではないだろうか。
ところで若き日の菊竹清訓は、六本木の国立新美術館を遺して先般物故した黒川紀章とともに、建築におけるメタボリズム(新陳代謝主義)を提唱し、黒川は中銀カプセルタワーを菊竹は上野ソフィテル東京を作った。
メタボリズムというのは、人間の体は60兆個の細胞でできており、そのうち1秒ごとに1000万個が死滅して新しい細胞に生まれ変わっている。ミクロで見れば人間は2ヶ月余りでまったく新しい存在に再生していることになる。ゆえにこの新陳代謝が終わるときが生命の終焉であるからして、建築家も都市や建築が死なないように、社会や時代に合わせてさながら生物のように千変万化させようと考えたわけだが、これこそ高度成長の60年代にふさわしい、なんでもありの野放図な土建屋のおぞましい思想ではないだろうか。要するにバイオロジーの思想にことよせて、どんどん壊して、どんどん建てようとしたわけである。
しかし同じメタボリズムに立脚しながら、黒川の中銀カプセルタワーがアヴァンギャルドの生真面目さを保った記念碑的名作であるのに対して、上野の不忍池の背後に不気味に聳え立つ菊竹の上野ソフィテル東京は、江戸東京博物館に匹敵する首都の最も醜悪な建築(ラブホテル?)のひとつであろう。周囲の景観を台無しにする夜郎自大のあのおぞましいビルジングをおっ立てることなぞわれひとともに容易にできるものではない。一日も早く取り壊してほしいいものである。
ところがフランク・シェッツイングのベストセラー「知られざる宇宙」によれば、菊竹清訓は都市のユートピアの専門家であり、彼が設計した江戸東京博物館はプラグマティストとして優れた作品である、と絶賛している。
そしてフランクによれば、そのこころは、「海岸からそう遠くないところにあるこの博物館は高波が押し寄せたときには海面に浮かぶ箱舟のようになるつくりになっている」からだというのである。(559p)
1958年に世界初の浮体構造物の設計図を発表し、環境破壊をもたらす機械や工場類を海上に移してしまおうと考え、沖縄国際海上博覧会で海上都市アクアポリスの原型をこしらえた菊竹は、今を去る半世紀前にすでに今日の地球温暖化の到来を世界に先駆けて予知していたのだ。
やがて東京湾の水位が日々上昇し、洪水と下町沈没の危機が到来するであろうことを神ならぬ身にして洞察していたこの偉大なる建築家は、コンクリートと鉄とガラスの粋を尽くした醜悪なる現代版「ノアの箱舟」を両国市民のために滅私奉公製造してくれていたのである。
なるほど、そういうことだったのか、と私ははたと膝をたたき、おのれの不明を深く恥じた。
そう思って周囲を眺めると、今里隆の設計による同じように醜悪な国技館も、江戸東京博物館と軌を一にした高波漂流用大鉄傘付き海月と見えてくるから不思議なものである。
これからは建築を美的観点のみならず人類救済的観点から透視しようと改めて自戒したことであった。
知恵遅れで脳障害で自閉症の息子が弾いているショパンのワルツ作品164の2 茫洋
Sunday, June 01, 2008
細江英公人間写真展 胡蝶の夢 舞踏家・大野一男
照る日曇る日第127回
残念ながら大野一男の舞踏を生で見たことはないが、テレビやこうした写真でその芸術の一端をうかがい知ることができる。
1960年代に都会の路上で繰り広げたパフォーマンス、瀕死の作家埴谷雄高の吉祥寺南町の自宅を囲繞する呪術的な祈り、江戸時代の奇想の芸術家に憑依した70年代のスタジオでの踊り、90年代に無人の釧路湿原を漂流する異形の蠢き、そして2005年99歳に達した眠れる舞踏家の曾孫との入眠幻想まで、細江英公のモノクロームはこの偉大な芸術家の壮絶な軌跡をあますところなく伝えている。
中野坂上の東京工芸大学のSHADAI GALLERYで今月8日まで開催中。
♪つめは死んでからも伸びるというムクの爪何センチになりしか 茫洋
残念ながら大野一男の舞踏を生で見たことはないが、テレビやこうした写真でその芸術の一端をうかがい知ることができる。
1960年代に都会の路上で繰り広げたパフォーマンス、瀕死の作家埴谷雄高の吉祥寺南町の自宅を囲繞する呪術的な祈り、江戸時代の奇想の芸術家に憑依した70年代のスタジオでの踊り、90年代に無人の釧路湿原を漂流する異形の蠢き、そして2005年99歳に達した眠れる舞踏家の曾孫との入眠幻想まで、細江英公のモノクロームはこの偉大な芸術家の壮絶な軌跡をあますところなく伝えている。
中野坂上の東京工芸大学のSHADAI GALLERYで今月8日まで開催中。
♪つめは死んでからも伸びるというムクの爪何センチになりしか 茫洋
Saturday, May 31, 2008
2008年皐月茫洋詩歌集
2008年皐月茫洋詩歌集
♪ある晴れた日に その28
そんなの関係ねえとパンツ男が叫ぶたび叫ぶたびにぷつんと切れる世界とのつながり
自動的に人間にピントが合うという新型カメラを私は買うまい
まずは蝶、次には花と水と土この順番にフォーカスしなさい
講義ではスーツを着てくださいねと言われし真意を忖度しているこの1ヶ月
俳句は諦観とリリシズム短歌は小さな私小説であるよ
またしても5月3日がやってきたとく天皇制を廃止せよ
善ちゃんから経済学部進学を相談されたときあまり親切ではなかったなあこの私
一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れてしまった
ふとしたはずみで喧嘩して、ふとしたはずみで人殺す それが世の常人の常
しつこく上空を旋回しているセスナ機を撃墜したくなる金曜の朝
大阪の喫茶店の入口で接吻していたロダンの彫刻
心血を注いで描きし作品を二束三文で叩き売るかな
基次郎に触発されし檸檬の絵ドイツ人コレクター安く買いたり
ひとつ描きひとつ売れまた描き続く絵描きの暮らしは過酷なるかな
売ればもう二度とは返らぬ息子の絵命削りて今日も描きおり
道端のすべての塵を拾いあげ、ひとつずつ河に捨てているのはうちの耕君
道端のすべての塵を拾いあげ、河に捨ておるわが子いとおし
「どっちのイアリングがいい」と妻が息子に聞いている
階段を怒涛のように駆け下りる息子のせいで我が家が揺れる
「へーつと」とよく言いし祖父の言葉をいま孫が言う「へーつと」と
妻と子は横須賀の歯医者に出かけわたしは授業の準備をしている
気象庁も予報士もみなうそつきだお詫びと訂正くらいせよ
わがブログに死ねと書き込む人がいてその黒き心我をも黒くす
わがブログに死ねと書き込む人がいてかたじけないがまだその時にあらず
おやおやさかさに振ってももう一滴も歌が出てこないぞ
漆黒のアスファルトを突き破りドクダミの花今年も咲きたり
おそらくはカルバンクラインならむ香水を四囲に振りまく男を憎む
日本人に体臭無ければそとくにの強き香水身にまとうなかれ
10歳若き知り合いが社長になった人の才知は見抜けぬものよ
かつて愚鈍と思いし後輩が大会社の社長になる人の才知は見抜けぬものよ
妻はバタ私はヒラですれ違う横浜栄のプールの真ん中
母上がこよなく愛で給いたるライラックの花今年も咲きたり
黒揚羽五月一日生まれなり
われに来てしばし物言ふ黒揚羽
今朝もまた鶯の歌で目覚めたり
いざともに交尾致さむ揚羽蝶
翡翠の午睡を破る川下り
逆さに振っても歌湧いてこず
耕は泣きムクは鳴いたよ神社の麓で
桐藤ラベンダーわれに優しき薄紫の花
流れよ みこし どんぶらこ
山で生まれたヤマカガシ
山から川へドドシシドッド
山で生まれたヤマカガシ
川から海へドドシシドッド
♪ある晴れた日に その28
そんなの関係ねえとパンツ男が叫ぶたび叫ぶたびにぷつんと切れる世界とのつながり
自動的に人間にピントが合うという新型カメラを私は買うまい
まずは蝶、次には花と水と土この順番にフォーカスしなさい
講義ではスーツを着てくださいねと言われし真意を忖度しているこの1ヶ月
俳句は諦観とリリシズム短歌は小さな私小説であるよ
またしても5月3日がやってきたとく天皇制を廃止せよ
善ちゃんから経済学部進学を相談されたときあまり親切ではなかったなあこの私
一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れてしまった
ふとしたはずみで喧嘩して、ふとしたはずみで人殺す それが世の常人の常
しつこく上空を旋回しているセスナ機を撃墜したくなる金曜の朝
大阪の喫茶店の入口で接吻していたロダンの彫刻
心血を注いで描きし作品を二束三文で叩き売るかな
基次郎に触発されし檸檬の絵ドイツ人コレクター安く買いたり
ひとつ描きひとつ売れまた描き続く絵描きの暮らしは過酷なるかな
売ればもう二度とは返らぬ息子の絵命削りて今日も描きおり
道端のすべての塵を拾いあげ、ひとつずつ河に捨てているのはうちの耕君
道端のすべての塵を拾いあげ、河に捨ておるわが子いとおし
「どっちのイアリングがいい」と妻が息子に聞いている
階段を怒涛のように駆け下りる息子のせいで我が家が揺れる
「へーつと」とよく言いし祖父の言葉をいま孫が言う「へーつと」と
妻と子は横須賀の歯医者に出かけわたしは授業の準備をしている
気象庁も予報士もみなうそつきだお詫びと訂正くらいせよ
わがブログに死ねと書き込む人がいてその黒き心我をも黒くす
わがブログに死ねと書き込む人がいてかたじけないがまだその時にあらず
おやおやさかさに振ってももう一滴も歌が出てこないぞ
漆黒のアスファルトを突き破りドクダミの花今年も咲きたり
おそらくはカルバンクラインならむ香水を四囲に振りまく男を憎む
日本人に体臭無ければそとくにの強き香水身にまとうなかれ
10歳若き知り合いが社長になった人の才知は見抜けぬものよ
かつて愚鈍と思いし後輩が大会社の社長になる人の才知は見抜けぬものよ
妻はバタ私はヒラですれ違う横浜栄のプールの真ん中
母上がこよなく愛で給いたるライラックの花今年も咲きたり
黒揚羽五月一日生まれなり
われに来てしばし物言ふ黒揚羽
今朝もまた鶯の歌で目覚めたり
いざともに交尾致さむ揚羽蝶
翡翠の午睡を破る川下り
逆さに振っても歌湧いてこず
耕は泣きムクは鳴いたよ神社の麓で
桐藤ラベンダーわれに優しき薄紫の花
流れよ みこし どんぶらこ
山で生まれたヤマカガシ
山から川へドドシシドッド
山で生まれたヤマカガシ
川から海へドドシシドッド
Thursday, May 29, 2008
1945年8月の鎌倉文士
鎌倉ちょっと不思議な物語130回
先日、鎌倉文学館主催の極楽寺・稲村ガ崎周辺の文学散歩の驥尾に付して歩きました。
長く鎌倉に住んでいますが、極楽寺を訪問したことはあるものの、その近辺を歩いたことなぞ一度もないので道々もの珍しいことばかり。あちらこちらをぶらついてきました。
なんでもかつて極楽寺界隈には、文学者の中山義秀、評論家の中村光夫、詩人の三好達治、田村隆一などが住んでいたそうです。針磨橋という橋を左に曲がってしばらく行くとあの「厚物咲」の作者中山義秀が、そして橋を過ぎてまっすぐ行くと三好達治と中村光夫が道路の左側に住んでいて、大岡昇平を交えた4名の交流がしばらく続いたようです。
中山の家に大岡昇平が遊びに行くといつも中山は熊の皮を敷いた六畳間で昼寝したいたそうです。朝寝して宵寝するまで昼寝して時々起きて居眠りをしていたんでしょうな。
1945年の8月、6日の広島に続いて9日に長崎に新型爆弾が落とされた日の翌日、中村光夫は田山花袋論を書いていると、昼寝から目覚めた中山義秀が白米2升を抱えてやってきました。
中村が感謝して受け取り「死ぬときは白米くらい食って死にたいからな」というと、中山は「まったく(日本は)ひどいことになったね。ソ連なんてなんだい。まるで火事場泥棒じゃないか」と非難しています。その前日の8月8日にソ連が満州に侵攻していたのでした。
♪ふとしたはずみで喧嘩して、ふとしたはずみで人殺す それが世の常人の常 茫洋
先日、鎌倉文学館主催の極楽寺・稲村ガ崎周辺の文学散歩の驥尾に付して歩きました。
長く鎌倉に住んでいますが、極楽寺を訪問したことはあるものの、その近辺を歩いたことなぞ一度もないので道々もの珍しいことばかり。あちらこちらをぶらついてきました。
なんでもかつて極楽寺界隈には、文学者の中山義秀、評論家の中村光夫、詩人の三好達治、田村隆一などが住んでいたそうです。針磨橋という橋を左に曲がってしばらく行くとあの「厚物咲」の作者中山義秀が、そして橋を過ぎてまっすぐ行くと三好達治と中村光夫が道路の左側に住んでいて、大岡昇平を交えた4名の交流がしばらく続いたようです。
中山の家に大岡昇平が遊びに行くといつも中山は熊の皮を敷いた六畳間で昼寝したいたそうです。朝寝して宵寝するまで昼寝して時々起きて居眠りをしていたんでしょうな。
1945年の8月、6日の広島に続いて9日に長崎に新型爆弾が落とされた日の翌日、中村光夫は田山花袋論を書いていると、昼寝から目覚めた中山義秀が白米2升を抱えてやってきました。
中村が感謝して受け取り「死ぬときは白米くらい食って死にたいからな」というと、中山は「まったく(日本は)ひどいことになったね。ソ連なんてなんだい。まるで火事場泥棒じゃないか」と非難しています。その前日の8月8日にソ連が満州に侵攻していたのでした。
♪ふとしたはずみで喧嘩して、ふとしたはずみで人殺す それが世の常人の常 茫洋
Wednesday, May 28, 2008
滑川に落ちた愛犬ムク
♪バガテルop59&鎌倉ちょっと不思議な物語129回
きのう滑川を歩いていて、思い出したことがあります。
今を去る10年ほど前、愛犬を散歩させていた私は、ふと油断した隙に、年老いて既にそこひを病んで盲目になっていたムクを、あろうことか足元の滑川に墜落させてしまったのです。
ドさっと鈍い物音が聞こえ、あわてて下を見ると薄茶色の綿毛が浮いた人間に換算するとおよそ80歳になんなんとするその老犬は、固い岩盤の上に座り込んでおろおろとうろたえています。
「おい、ムク、大丈夫か」と声をかけましたが、ムクはワンとも答えず、がたがたと震えておりました。もしかするとどこかに大怪我をしてしまったのではないか? 突然の衝撃で、このまま死んでしまうのではないだろうか?
すまなさと自責の念に駆られた私は、きっと青ざめていたと思います。しかしこうしてはいられない。すぐに自宅にとって返して真鍮の梯子を持ってきましたが、短すぎて川底まで届きません。
仕方がない。えいやっと飛び降り、恐怖と不安で震えている盲目のムクを抱きかかえ、急いで手足を調べてみましたが、幸いなことにどこも怪我などをしていない様子。やれやれこれで命だけは取り留めた、と私は思わず天に感謝したことでした。
そうこうするうちに頭上が急ににぎやかになってきました。近所の住人たちが妙な場所にいる私たちを案じてのぞきこみながら、
「あら、まあ、ムクちゃんじゃないの。いったいどうしたの」
などと口々に声をかけてくれます。
事情を察した“しまわん”さんが、すばやく家にとってかえして、大きくて長い木の梯子を道端から川底まで降ろしてくれたので、私はムクをしっかり胸に抱えながら一段一段そろそろと上にのぼりました。長い間お風呂に入らないムクの体は思いのほか重く、獣のにおいがぷんとしました。
やっとの思いでガードレールを乗り越えると、私はムクと一緒にどうと道路に転がり落ちましたが、ムクはなんとか無事に生還したのでありました。メデタシ、メデタシ。
しかしその後、私が飼い主の健君と家内にひどくおこられたことは申すまでもありません。
その後ようやく元気を取り戻したムクは、どこからともなく現れた三毛猫子と同棲しておりましたが、それから数年経った2002年の2月に天寿を全うし、WANNG!と一声発して地上の星となったのでありました。
ひとつ描きひとつ売れまた描き続く絵描きの暮らしは過酷なるかな 茫洋
きのう滑川を歩いていて、思い出したことがあります。
今を去る10年ほど前、愛犬を散歩させていた私は、ふと油断した隙に、年老いて既にそこひを病んで盲目になっていたムクを、あろうことか足元の滑川に墜落させてしまったのです。
ドさっと鈍い物音が聞こえ、あわてて下を見ると薄茶色の綿毛が浮いた人間に換算するとおよそ80歳になんなんとするその老犬は、固い岩盤の上に座り込んでおろおろとうろたえています。
「おい、ムク、大丈夫か」と声をかけましたが、ムクはワンとも答えず、がたがたと震えておりました。もしかするとどこかに大怪我をしてしまったのではないか? 突然の衝撃で、このまま死んでしまうのではないだろうか?
すまなさと自責の念に駆られた私は、きっと青ざめていたと思います。しかしこうしてはいられない。すぐに自宅にとって返して真鍮の梯子を持ってきましたが、短すぎて川底まで届きません。
仕方がない。えいやっと飛び降り、恐怖と不安で震えている盲目のムクを抱きかかえ、急いで手足を調べてみましたが、幸いなことにどこも怪我などをしていない様子。やれやれこれで命だけは取り留めた、と私は思わず天に感謝したことでした。
そうこうするうちに頭上が急ににぎやかになってきました。近所の住人たちが妙な場所にいる私たちを案じてのぞきこみながら、
「あら、まあ、ムクちゃんじゃないの。いったいどうしたの」
などと口々に声をかけてくれます。
事情を察した“しまわん”さんが、すばやく家にとってかえして、大きくて長い木の梯子を道端から川底まで降ろしてくれたので、私はムクをしっかり胸に抱えながら一段一段そろそろと上にのぼりました。長い間お風呂に入らないムクの体は思いのほか重く、獣のにおいがぷんとしました。
やっとの思いでガードレールを乗り越えると、私はムクと一緒にどうと道路に転がり落ちましたが、ムクはなんとか無事に生還したのでありました。メデタシ、メデタシ。
しかしその後、私が飼い主の健君と家内にひどくおこられたことは申すまでもありません。
その後ようやく元気を取り戻したムクは、どこからともなく現れた三毛猫子と同棲しておりましたが、それから数年経った2002年の2月に天寿を全うし、WANNG!と一声発して地上の星となったのでありました。
ひとつ描きひとつ売れまた描き続く絵描きの暮らしは過酷なるかな 茫洋
Tuesday, May 27, 2008
滑川を歩く
♪バガテルop58&鎌倉ちょっと不思議な物語128回
昨日の続きで極楽寺界隈の話を書かなければいけないのですが、今日の午後、滑川(なめりかわと呼びます)にハヤの群れが気持ちよさそうに泳いでいたので、それをデジカメで撮影しようと身を乗り出した途端に、ポロシャツの胸ポケットに入れておいた携帯が5メートル下の川岸に落ちてしまいました。
幸い水中には落下しなかったので、飛び降りようとしましたが、足を折らずに着地したとしても這い上がるすべがなさそうです。やむをえずずっと上流の私の家の前の橋から降りて、うねうねと回流している川をおよそ500m下流に向かって歩くことにしました。あの十二所神社のおみこしを流したといわれている滑川を、です。
原稿の締め切りが迫っているし、草取りの後片付けもあるし、ははの家の電気工事の立会いもあったのですが、背に腹は変えられません。家からハシゴや長い布切れを持ち出し、ゴム長に履き替えて橋桁からえいやっと滑川に飛び降りました。
川幅は1mから3mくらいの狭さですが先日の増水で川の流れが速く、深さは浅いところで5cm、深いところで30cmくらいですが、ところどころに暗渠や小さな滝もあって歩きやすいとはお世辞にもいえません。道路の上では細君も心配そうに見守っていますが、こうなれば前に進むしかありません。意を決した私はどんどん川の中を歩き始めました。
お日様が上空からかっと照りつけてはいますが、初夏の爽やかな風が全身を包んでくれるので意外に快適です。ゴム長でじゃぶじゃぶ前進していくと、驚いたハヤや藻屑蟹たちが急いで岩陰に姿を隠します。目の覚めるような群青色に輝く翡翠も敏捷な身のこなしを見せながら下流に逃げていきます。
私はだんだん愉快な気分になって大股に初夏の滑川を移動して行きました。
じつは私がもっとも恐れていたのはこの川に生息している蛇と蜂でした。アオダイショウやヤマカガシなどは、手にした木の枝で簡単に追い払うことができますが、産卵期のマムシはきわめて獰猛で、下手に向かっていくとまるで空を飛ぶように牙を剥きながら襲い掛かってくるので気をつけなければいけません。
またスズメバチも鬼門です。なぜなら既に2回彼らに刺されているハチ毒超敏感症候群の私は、3度目には生命の保証はできないと医師に警告され、エピペン注射液を処方されているからです。
しかさいわいにも1匹の蛇さんややスズメバチさんに遭遇することなく、目的地までたどり着き、携帯を拾って無事に元の地点まで戻ることができました。めでたし、めでたし。
最後に、いつもこのようなドジをやらかす私に対してホトホト呆れ返りながらも、仕方なく協力してくれるわが細君に衷心より感謝申し上げる次第です。
♪翡翠の午睡を破る川下り 茫洋
昨日の続きで極楽寺界隈の話を書かなければいけないのですが、今日の午後、滑川(なめりかわと呼びます)にハヤの群れが気持ちよさそうに泳いでいたので、それをデジカメで撮影しようと身を乗り出した途端に、ポロシャツの胸ポケットに入れておいた携帯が5メートル下の川岸に落ちてしまいました。
幸い水中には落下しなかったので、飛び降りようとしましたが、足を折らずに着地したとしても這い上がるすべがなさそうです。やむをえずずっと上流の私の家の前の橋から降りて、うねうねと回流している川をおよそ500m下流に向かって歩くことにしました。あの十二所神社のおみこしを流したといわれている滑川を、です。
原稿の締め切りが迫っているし、草取りの後片付けもあるし、ははの家の電気工事の立会いもあったのですが、背に腹は変えられません。家からハシゴや長い布切れを持ち出し、ゴム長に履き替えて橋桁からえいやっと滑川に飛び降りました。
川幅は1mから3mくらいの狭さですが先日の増水で川の流れが速く、深さは浅いところで5cm、深いところで30cmくらいですが、ところどころに暗渠や小さな滝もあって歩きやすいとはお世辞にもいえません。道路の上では細君も心配そうに見守っていますが、こうなれば前に進むしかありません。意を決した私はどんどん川の中を歩き始めました。
お日様が上空からかっと照りつけてはいますが、初夏の爽やかな風が全身を包んでくれるので意外に快適です。ゴム長でじゃぶじゃぶ前進していくと、驚いたハヤや藻屑蟹たちが急いで岩陰に姿を隠します。目の覚めるような群青色に輝く翡翠も敏捷な身のこなしを見せながら下流に逃げていきます。
私はだんだん愉快な気分になって大股に初夏の滑川を移動して行きました。
じつは私がもっとも恐れていたのはこの川に生息している蛇と蜂でした。アオダイショウやヤマカガシなどは、手にした木の枝で簡単に追い払うことができますが、産卵期のマムシはきわめて獰猛で、下手に向かっていくとまるで空を飛ぶように牙を剥きながら襲い掛かってくるので気をつけなければいけません。
またスズメバチも鬼門です。なぜなら既に2回彼らに刺されているハチ毒超敏感症候群の私は、3度目には生命の保証はできないと医師に警告され、エピペン注射液を処方されているからです。
しかさいわいにも1匹の蛇さんややスズメバチさんに遭遇することなく、目的地までたどり着き、携帯を拾って無事に元の地点まで戻ることができました。めでたし、めでたし。
最後に、いつもこのようなドジをやらかす私に対してホトホト呆れ返りながらも、仕方なく協力してくれるわが細君に衷心より感謝申し上げる次第です。
♪翡翠の午睡を破る川下り 茫洋
Monday, May 26, 2008
極楽寺を訪ねて
鎌倉ちょっと不思議な物語127回
極楽寺は真言宗の名刹である。正嘉年間1257-59にひとりの老僧が深沢に草堂を建て、阿弥陀如来像を安置して極楽寺と称していた。老僧亡き後正元元年1259年に北条義時の三男重時がそれを現在地に移したといわれている。
弘長元年1261年にその重時の子長時(六代執権)と業時兄弟が当時多宝寺に入山していた忍性を招いて開山した。忍性はここで施薬院、悲田院、施益院、福田院の四田院を設け、不幸な人を救済するための福祉事業に取り組んだ。人間だけでなく、病気や年老いた牛馬の面倒をみる病舎も建てるなど、ボタンティアの先駆者ともいえる徳の高い僧侶で、人々からは医王如来と崇められていたそうだ。さらに橋を架けるなどのト公共土木工事にも力を入れていたことはあまりにも有名である。
極楽寺は完成当時は七堂伽藍と四十九の塔頭を誇る大寺院だったが、いくたの自然災害や火事に見舞われ、現在残っているのは文久3年に建てられた本堂のみであるが、境内に残る製薬鉢や千服茶臼は鎌倉時代の遺物であり、往時をありありと想起させる。
以上お馴染みの「鎌倉の寺小事典」より引用しましたが、今から30年前に私が一目ぼれをした好個の木造家屋がこの近所にあり、諸般の事情で購入には至りませんでしたが、もしかするとこの近辺に住んでいたかもしれないと思うだに極楽寺は懐かしいお寺なのです。
山門を仰げば「芝棟」が。これは昔の日本の農家にあった茅葺の屋根の上にユリ、キキョウ、ニラ、アイリスなどの植物を茂らせるという植物と建築の一体化の手法ですが、これが極楽寺にもあったとは思いがけない発見でした。
本堂に向かう参道の右側には、薪をうずたかく積みあげた民家があり、電気に頼らずこれで暖房する心意気を感じさせてくれます。境内は狭いながらもどこか風雅で格調の高い古拙の趣きがそこここに感じられ、じつに心が休まるよいお寺です。境内が撮影禁止なのもわが意を得たりであります。
♪売ればもう二度とは返らぬ息子の絵命削りて今日も描きおり 茫洋
極楽寺は真言宗の名刹である。正嘉年間1257-59にひとりの老僧が深沢に草堂を建て、阿弥陀如来像を安置して極楽寺と称していた。老僧亡き後正元元年1259年に北条義時の三男重時がそれを現在地に移したといわれている。
弘長元年1261年にその重時の子長時(六代執権)と業時兄弟が当時多宝寺に入山していた忍性を招いて開山した。忍性はここで施薬院、悲田院、施益院、福田院の四田院を設け、不幸な人を救済するための福祉事業に取り組んだ。人間だけでなく、病気や年老いた牛馬の面倒をみる病舎も建てるなど、ボタンティアの先駆者ともいえる徳の高い僧侶で、人々からは医王如来と崇められていたそうだ。さらに橋を架けるなどのト公共土木工事にも力を入れていたことはあまりにも有名である。
極楽寺は完成当時は七堂伽藍と四十九の塔頭を誇る大寺院だったが、いくたの自然災害や火事に見舞われ、現在残っているのは文久3年に建てられた本堂のみであるが、境内に残る製薬鉢や千服茶臼は鎌倉時代の遺物であり、往時をありありと想起させる。
以上お馴染みの「鎌倉の寺小事典」より引用しましたが、今から30年前に私が一目ぼれをした好個の木造家屋がこの近所にあり、諸般の事情で購入には至りませんでしたが、もしかするとこの近辺に住んでいたかもしれないと思うだに極楽寺は懐かしいお寺なのです。
山門を仰げば「芝棟」が。これは昔の日本の農家にあった茅葺の屋根の上にユリ、キキョウ、ニラ、アイリスなどの植物を茂らせるという植物と建築の一体化の手法ですが、これが極楽寺にもあったとは思いがけない発見でした。
本堂に向かう参道の右側には、薪をうずたかく積みあげた民家があり、電気に頼らずこれで暖房する心意気を感じさせてくれます。境内は狭いながらもどこか風雅で格調の高い古拙の趣きがそこここに感じられ、じつに心が休まるよいお寺です。境内が撮影禁止なのもわが意を得たりであります。
♪売ればもう二度とは返らぬ息子の絵命削りて今日も描きおり 茫洋
Sunday, May 25, 2008
萩原延壽著「自由のかたち」を読んで
照る日曇る日第125回
60年代のわが国にはまだ革新勢力が存在し、時折保守勢力を脅かすに足る活動を行なっていた。そしてここには、もしも彼らがもう少し政治家として有能で国民の心をつかむ技術を備えていたら、その後わが国は今日とは180度異なる道を歩んでいたかもしれないことを思わせる「古き良き時代」におけるいくつかのエッセイが並んでいる。
70年安保を実体験することなく英国の留学から帰国した著者は、英国労働党首のゲイツケルの政治哲学に感銘を受け、わが国の社会主義運動に対してもほのかな期待を寄せていたが、革新政党を名乗る彼らが、むしろ保守政党に比べても言葉の本質において革新的(ラジカル)ではないことを痛感して絶望し、次第に遠ざかっていくのだが、筋金入りの孤独な自由主義者が歩み去るその後姿は妙に寂しい。
当時著者は「中立主義」についても論じていた。著者によれば、中立主義とは敵と味方の間に存在する硬直した壁を取り払い、その空間に「妥協」という政治的果実を結晶させようとする不断の努力をいうのだが、この前途多難な中立主義こそが当時の革新政党ないし革新日本が目指すべき理想主義的な進路であったと振り返るのである。
爾来40有余年、日米同盟の鉄鎖で自らを縛りつけ、いまなおじぶん自身を定位させえず、ために他者他国からの自由と自立を獲得できないまま、いたずらにナショナリズムの炎を胸に熱く燃やし始めたこの国にとって、萩原流中立主義など夢のまた夢というべきだろうか。
私はこの頃の日本がますます嫌な國になってきたように感じられてならない。著者がいうように、わが日本国憲法の第22条には、国籍離脱の自由がうたわれている。私たちのほとんど大部分は、日本人であることを自覚的に選択したわけではない。出生という偶然によって日本人であることを余儀なくされているケースが大半ではないだろうか。
そこでこの際私たちの未来には、3つの自由の地平が広がっていると考えてもいいだろう。ひとつはいろいろあっても、なんとかやりくり我慢して改めてこの国に留まることである。二つ目は、かつて幕末の志士が藩という小国を飛び出したように断固国外のどこかへ出て行くことである。そして最後に、国内亡命という第三の道もあるのではないだろうか。
いずれにせよ、改めて日本を選びなおしてみたいと思う今日この頃である。
♪大阪の喫茶店の入口で接吻していたロダンの彫刻 茫洋
60年代のわが国にはまだ革新勢力が存在し、時折保守勢力を脅かすに足る活動を行なっていた。そしてここには、もしも彼らがもう少し政治家として有能で国民の心をつかむ技術を備えていたら、その後わが国は今日とは180度異なる道を歩んでいたかもしれないことを思わせる「古き良き時代」におけるいくつかのエッセイが並んでいる。
70年安保を実体験することなく英国の留学から帰国した著者は、英国労働党首のゲイツケルの政治哲学に感銘を受け、わが国の社会主義運動に対してもほのかな期待を寄せていたが、革新政党を名乗る彼らが、むしろ保守政党に比べても言葉の本質において革新的(ラジカル)ではないことを痛感して絶望し、次第に遠ざかっていくのだが、筋金入りの孤独な自由主義者が歩み去るその後姿は妙に寂しい。
当時著者は「中立主義」についても論じていた。著者によれば、中立主義とは敵と味方の間に存在する硬直した壁を取り払い、その空間に「妥協」という政治的果実を結晶させようとする不断の努力をいうのだが、この前途多難な中立主義こそが当時の革新政党ないし革新日本が目指すべき理想主義的な進路であったと振り返るのである。
爾来40有余年、日米同盟の鉄鎖で自らを縛りつけ、いまなおじぶん自身を定位させえず、ために他者他国からの自由と自立を獲得できないまま、いたずらにナショナリズムの炎を胸に熱く燃やし始めたこの国にとって、萩原流中立主義など夢のまた夢というべきだろうか。
私はこの頃の日本がますます嫌な國になってきたように感じられてならない。著者がいうように、わが日本国憲法の第22条には、国籍離脱の自由がうたわれている。私たちのほとんど大部分は、日本人であることを自覚的に選択したわけではない。出生という偶然によって日本人であることを余儀なくされているケースが大半ではないだろうか。
そこでこの際私たちの未来には、3つの自由の地平が広がっていると考えてもいいだろう。ひとつはいろいろあっても、なんとかやりくり我慢して改めてこの国に留まることである。二つ目は、かつて幕末の志士が藩という小国を飛び出したように断固国外のどこかへ出て行くことである。そして最後に、国内亡命という第三の道もあるのではないだろうか。
いずれにせよ、改めて日本を選びなおしてみたいと思う今日この頃である。
♪大阪の喫茶店の入口で接吻していたロダンの彫刻 茫洋
Saturday, May 24, 2008
めまぐるしい所有権者の変遷
鎌倉ちょっと不思議な物語126回 十二所物語その3
徳川時代の十二所の地主は誰だったのだろう。
再び「十二所地誌新稿」によれば、村高67貫181文のうち64貫156文を分けて十二所村および山之内の建長寺・東慶寺などの社寺領に寄付し、残る3貫25文を徳川氏直轄とし、代官がこれを管していたという。
嘉永5年1852年には、そこが彦根藩の井伊掃部守領となり、安政元年1854年には山口候松平大膳太夫、同6年に熊本候細川越中守、文久3年1863年には佐倉候堀田鶴之丞に移属し、慶応3年1867年代官所管、さらに廃藩置県の翌明治5年1872年にはいったん韮山県所管となり、同年12月にようやく神奈川県所管となった。
十二所神社の階段の上にある石門には文久3年の銘が刻まれているから、恐らく佐倉候の堀田氏によって建立されたものだろう。その十二所神社の社寺領は明治4年1871年になって国家に返上したが、その後地券交付によって戻されたという。
さらに第2次大戦の敗戦後は、農地は没収同様に買い上げられてしまい、昭和二十年1945年そこを農作していた者に払い下げられたというからかなりでたらめな所有権の移動だったに違いない。
♪妻と子は横須賀の歯医者に出かけわたしは授業の準備をしている 亡羊
徳川時代の十二所の地主は誰だったのだろう。
再び「十二所地誌新稿」によれば、村高67貫181文のうち64貫156文を分けて十二所村および山之内の建長寺・東慶寺などの社寺領に寄付し、残る3貫25文を徳川氏直轄とし、代官がこれを管していたという。
嘉永5年1852年には、そこが彦根藩の井伊掃部守領となり、安政元年1854年には山口候松平大膳太夫、同6年に熊本候細川越中守、文久3年1863年には佐倉候堀田鶴之丞に移属し、慶応3年1867年代官所管、さらに廃藩置県の翌明治5年1872年にはいったん韮山県所管となり、同年12月にようやく神奈川県所管となった。
十二所神社の階段の上にある石門には文久3年の銘が刻まれているから、恐らく佐倉候の堀田氏によって建立されたものだろう。その十二所神社の社寺領は明治4年1871年になって国家に返上したが、その後地券交付によって戻されたという。
さらに第2次大戦の敗戦後は、農地は没収同様に買い上げられてしまい、昭和二十年1945年そこを農作していた者に払い下げられたというからかなりでたらめな所有権の移動だったに違いない。
♪妻と子は横須賀の歯医者に出かけわたしは授業の準備をしている 亡羊
Friday, May 23, 2008
ミハイル・ブルガーコフ著水野忠夫訳「巨匠とマルガリータ」を読む
照る日曇る日第125回
面倒くさいので帯の腰巻から引用すると、モスクワに突如出現した悪魔の一味が引き起こす謎に満ちた奇想天外な物語が本作である。さらに本屋の惹句によれば、20世紀最大のロシア語作家が描いた究極の奇想小説ということになっていて、まあ当たらずとも遠からずの迫力と読み応えがある。
捕囚のナザレ人ヨシュア、ユダヤ駐在ローマ第5代総督ポンティウス・ピラトゥスなどが紀元前後のゴルゴダの丘に登場するかと思えば、現代都市モスクワに歴とした悪魔やしゃべる黒猫共が出現し、お得意の黒魔術のショーや開催されて偽のルーブリ札が天から降り注ぎ、百鬼夜行の悪魔の大舞踏会やらがワルプギルスの夜に派手に挙行され裸の魔女が箒にまたがって夜空を飛んでいく。と書けばおおよその輪郭がつかめるだろう。
ワルプギルスといえばベルリオーズだが、その音楽家と同じ名前の作家の首がモスクワの市電に轢かれて道路をころころ転がっていくところからこの綺談は始まり、満月の夜に睡眠薬を注射されて眠る狂人イワンの夢で全巻が閉じられる。ドストエフスキーではないが、神が不在なら大審問官か悪魔か、はたまたただの人間がこの世を統治するしかないのだが、作者は悪魔による統治の壮大なシミュレーションを途中で放棄して、世界を再び人間の手に返還しようとした地点で擱筆している。
ヴォルテールは、「もし神が存在しないなら、神を創造しなければならない」、というたが、ブルガーコフは「神も悪魔も自分が創ろう」といい、いうただけでなく、実際にそれをこの小説でやろうとしたのである。その意図たるや天晴れ壮大ではないか。
最初から最後までが作者の無果てぬ夢であり、過去も現在も、現在も未来も、神も悪魔も、正義も悪も、過酷な現実も琥珀色の夢もすべての実在と非在を内包しながら作者の巨大な幻想が驀進していく。そしてその先には大いなる徒労と無限の虚無が待ち受けているのである。
♪道端のすべての塵を拾いあげ、河に捨ておるわが子いとおし 茫洋
面倒くさいので帯の腰巻から引用すると、モスクワに突如出現した悪魔の一味が引き起こす謎に満ちた奇想天外な物語が本作である。さらに本屋の惹句によれば、20世紀最大のロシア語作家が描いた究極の奇想小説ということになっていて、まあ当たらずとも遠からずの迫力と読み応えがある。
捕囚のナザレ人ヨシュア、ユダヤ駐在ローマ第5代総督ポンティウス・ピラトゥスなどが紀元前後のゴルゴダの丘に登場するかと思えば、現代都市モスクワに歴とした悪魔やしゃべる黒猫共が出現し、お得意の黒魔術のショーや開催されて偽のルーブリ札が天から降り注ぎ、百鬼夜行の悪魔の大舞踏会やらがワルプギルスの夜に派手に挙行され裸の魔女が箒にまたがって夜空を飛んでいく。と書けばおおよその輪郭がつかめるだろう。
ワルプギルスといえばベルリオーズだが、その音楽家と同じ名前の作家の首がモスクワの市電に轢かれて道路をころころ転がっていくところからこの綺談は始まり、満月の夜に睡眠薬を注射されて眠る狂人イワンの夢で全巻が閉じられる。ドストエフスキーではないが、神が不在なら大審問官か悪魔か、はたまたただの人間がこの世を統治するしかないのだが、作者は悪魔による統治の壮大なシミュレーションを途中で放棄して、世界を再び人間の手に返還しようとした地点で擱筆している。
ヴォルテールは、「もし神が存在しないなら、神を創造しなければならない」、というたが、ブルガーコフは「神も悪魔も自分が創ろう」といい、いうただけでなく、実際にそれをこの小説でやろうとしたのである。その意図たるや天晴れ壮大ではないか。
最初から最後までが作者の無果てぬ夢であり、過去も現在も、現在も未来も、神も悪魔も、正義も悪も、過酷な現実も琥珀色の夢もすべての実在と非在を内包しながら作者の巨大な幻想が驀進していく。そしてその先には大いなる徒労と無限の虚無が待ち受けているのである。
♪道端のすべての塵を拾いあげ、河に捨ておるわが子いとおし 茫洋
Thursday, May 22, 2008
タベルナで食べた
♪バガテルop57&鎌倉ちょっと不思議な物語124回
今日も「イタリアン」の続きです。
海からの薫風に吹かれて極楽寺から稲村ガ崎まで歩いたあとで、タベルナ ロンディーノ(TAVERNA RONDINO)というイタリア料理屋さんで妻とランチをしました。TAVERNAというのは食べるなではなく、イタリア語で「大衆食堂」「田舎風の小洒落たレストラン」という意味です。RONDINOはたしかツバメではなかったでしょうか。ご存知の方は教えてくださいな。
ここはなんでも裏駅の江ノ電改札口の隣、御成商店街のたもとにあるCafe RONDINO のオーナーが1980年に国道134号線沿いに開いたお店だそうで、亡くなった詩人の田村隆一氏がかつてこの近所に住んでいて、よく食事に来たと聞いたので、散歩がてら足を伸ばしたのです。Cafe RONDINOは私がサラリーマン時代の最後の最後にニッポン放送の営業担当氏(彼も鎌倉在住でした)と打ち合わせをした思い出の場所なんです。
さてタベルナのお味ですが、私は人一倍味覚が鈍くて、なにを食べてもおいしく頂く人間なのですが、肉も魚もシラスパスタもリゾットもとても美味でした。今度は青池さんや健君も誘って訪れたいと思います。
十三秒間隔の光り 田村隆一
新しい家はきらいである
古い家で生まれて育ったせいかもしれない
死者とともにする食卓もなければ
有情群類の発生する空間もない
「梨の木が裂けた」
と詩に書いたのは
たしか二十年前のことである
新しい家のちいさな土に
また梨の木を植えた
朝 水をやるのがぼくの仕事である
せめて梨の木の内部に
死を育てたいのだ
夜はヴィクトリア朝期のポルノグラフィーを読む
「未来にいかなる幻想ももたぬ」
というのがぼくの唯一の幻想だが
そのとき光るのである
ぼくの部屋の窓から四〇キロ離れた水平線上
大島の灯台の光りが
十三秒間隔に 『新年の手紙』より
♪「へーつと」とよく言いし祖父の言葉をいま孫が言う「へーつと」と 茫洋
今日も「イタリアン」の続きです。
海からの薫風に吹かれて極楽寺から稲村ガ崎まで歩いたあとで、タベルナ ロンディーノ(TAVERNA RONDINO)というイタリア料理屋さんで妻とランチをしました。TAVERNAというのは食べるなではなく、イタリア語で「大衆食堂」「田舎風の小洒落たレストラン」という意味です。RONDINOはたしかツバメではなかったでしょうか。ご存知の方は教えてくださいな。
ここはなんでも裏駅の江ノ電改札口の隣、御成商店街のたもとにあるCafe RONDINO のオーナーが1980年に国道134号線沿いに開いたお店だそうで、亡くなった詩人の田村隆一氏がかつてこの近所に住んでいて、よく食事に来たと聞いたので、散歩がてら足を伸ばしたのです。Cafe RONDINOは私がサラリーマン時代の最後の最後にニッポン放送の営業担当氏(彼も鎌倉在住でした)と打ち合わせをした思い出の場所なんです。
さてタベルナのお味ですが、私は人一倍味覚が鈍くて、なにを食べてもおいしく頂く人間なのですが、肉も魚もシラスパスタもリゾットもとても美味でした。今度は青池さんや健君も誘って訪れたいと思います。
十三秒間隔の光り 田村隆一
新しい家はきらいである
古い家で生まれて育ったせいかもしれない
死者とともにする食卓もなければ
有情群類の発生する空間もない
「梨の木が裂けた」
と詩に書いたのは
たしか二十年前のことである
新しい家のちいさな土に
また梨の木を植えた
朝 水をやるのがぼくの仕事である
せめて梨の木の内部に
死を育てたいのだ
夜はヴィクトリア朝期のポルノグラフィーを読む
「未来にいかなる幻想ももたぬ」
というのがぼくの唯一の幻想だが
そのとき光るのである
ぼくの部屋の窓から四〇キロ離れた水平線上
大島の灯台の光りが
十三秒間隔に 『新年の手紙』より
♪「へーつと」とよく言いし祖父の言葉をいま孫が言う「へーつと」と 茫洋
Wednesday, May 21, 2008
ドナ、ドナ、どーなの
ドナ、ドナ、どーなの
♪バガテルop56
昼前に中野坂上の学校に行く。駅前のドナという名前のパスタ屋に入って790円のパスタセットを食べていたら、隣の客が煙草を呑みだした。あわてて店長に禁煙席はどこだと聞いたら、「んなものありません」とかなんとか小さい声でむにゃむにゃ言いつつ蟹のように横歩きしながら消えていく。
そのうちに反対隣の客まで煙草を吸い始めたので、息を止めながらサラダとパスタとコーヒーを一気飲み喰いしてレジに直行、「もう君の店には二度と来ない」と告げて近所の公園に逃走した。
久しぶりの快晴である。やれやれと深呼吸したら、またしても煙草の煙を吸い込んでしまった。あたりを見回すとまたしても喫煙者が……。
私は学校めがけて一目散に走り出した。
ロンドンのパブも、サンフランシスコのレストランも、パリのカフェですら禁煙になったのは、喫煙が立派な病気であり、ニコチン中毒を経て多くの人の健康を損ない、死に追いやる災厄であるばかりか、その被害が周囲の非喫煙者をもまきこんでしまうからだ。
喫煙者は緩慢な自殺を実行しているわけだが、それは本人の自由だとしても、他人を巻き添えにすることだけはやめてほしい。それは緩慢な他殺行為であるからだ。そうした事情を知りつつ禁煙席すら設けないでいるとしたら、ドナは殺人に加担しているといえなくもない。
♪「どっちのイアリングがいい」と妻が息子に聞いている 茫洋
♪バガテルop56
昼前に中野坂上の学校に行く。駅前のドナという名前のパスタ屋に入って790円のパスタセットを食べていたら、隣の客が煙草を呑みだした。あわてて店長に禁煙席はどこだと聞いたら、「んなものありません」とかなんとか小さい声でむにゃむにゃ言いつつ蟹のように横歩きしながら消えていく。
そのうちに反対隣の客まで煙草を吸い始めたので、息を止めながらサラダとパスタとコーヒーを一気飲み喰いしてレジに直行、「もう君の店には二度と来ない」と告げて近所の公園に逃走した。
久しぶりの快晴である。やれやれと深呼吸したら、またしても煙草の煙を吸い込んでしまった。あたりを見回すとまたしても喫煙者が……。
私は学校めがけて一目散に走り出した。
ロンドンのパブも、サンフランシスコのレストランも、パリのカフェですら禁煙になったのは、喫煙が立派な病気であり、ニコチン中毒を経て多くの人の健康を損ない、死に追いやる災厄であるばかりか、その被害が周囲の非喫煙者をもまきこんでしまうからだ。
喫煙者は緩慢な自殺を実行しているわけだが、それは本人の自由だとしても、他人を巻き添えにすることだけはやめてほしい。それは緩慢な他殺行為であるからだ。そうした事情を知りつつ禁煙席すら設けないでいるとしたら、ドナは殺人に加担しているといえなくもない。
♪「どっちのイアリングがいい」と妻が息子に聞いている 茫洋
Tuesday, May 20, 2008
哀悼 ニコルの松田さん
ふあっちょん幻論第20回&遥かな昔、遠い所で第71回
ビルマではサイクロン、中国では四川大地震で多数の死傷者が出ている。亡くなられた方々には謹んで哀悼の意を表すとともに、なんとか一人でも多くの人命が救われるようにと祈っている。そして狭量で独善的な政治権力が、自己保身のために国際的な救助の手を拒否して自国民を人身御供にすることだけはやめてほしいと願わずにはいられない。
地震や災害がなくとも人間はどんどん死んでいく。そして人の死は生きているものになにがしかの思いを形見のように届けながら冥界の彼方へと没していく。
昨日の夕刊にニコルのデザイナーの松田光弘さんが肝細胞ガンで亡くなられたという訃報が出ていたのを目にして、私ははしなくも松田さんの謦咳にただ一度だけ接したことがあったのを思いだした。
もう数十年も昔のこと、私が原宿にあった会社で広報活動を担当していたとき、突然「ミセス」という雑誌の編集長のHさんから電話がかかってきた。「今から5分後に松田さんからあなたに電話が入るからよく話を聞いてください」というので「分かりました」と答えて待っていると、すぐにニコルの松田さんから電話がかかってきた。やわらかくソフトなバリトンだった。
用件というのはちょっと風変わりで、当時私の大嫌いな読売巨人軍(だいたいスポーツ団体に軍隊の名前をつける人間の脳髄自体が狂っている)を解雇されたばかりのクロマティという三振ばかりしてぶんぶん黒丸みたいなアメリカ人の巨砲選手が、どういうわけだかファッションビジネスに関心があり、近くクロマティ・ブランド?を立ち上げるので、その相談に乗り、できたら協力してあげてほしい」というのであった。
そういうことなら専門家であるあなたの方がよほど適任であろうといいたかったが、これにはなにか事情もあるのだろうと思った私は、とりあえず松田さんの要望に応えてクロマティ氏に会うことになった。何を隠そう、当時の私はニコルのメンズのスーツが好きだったのである。
「ありがとう。じゃあ、よろしく」というすっかり肩の荷を降ろした氏の声を電話越しに耳にしたのが、それこそ一期一会、今生の別れとなったのだから、面白うてやがて哀しきは人生の常であろうか。
翌日ジェーン・マンスフィールド似の美人秘書を従え、アルマーニの高級スーツに身を包み意気揚々とわがプレスルームに乗り込んできたクロマティは想像以上の巨漢であったが、この国においてクロマティ・プレミアムブランドを成功させるのは至難の業であることを1時間半に渡って縷々私が説くと、黒い大男は額から玉のごとき大粒の汗を流し、時折諾諾と肯いつつ、最後には鄭重な謝辞と共に去っていった。
爾来幾星霜、ジェーンとクロマティの行方は、杳として知られない。
♪おそらくはカルバンクラインならむ香水を四囲に振りまく男を憎む 茫洋
ビルマではサイクロン、中国では四川大地震で多数の死傷者が出ている。亡くなられた方々には謹んで哀悼の意を表すとともに、なんとか一人でも多くの人命が救われるようにと祈っている。そして狭量で独善的な政治権力が、自己保身のために国際的な救助の手を拒否して自国民を人身御供にすることだけはやめてほしいと願わずにはいられない。
地震や災害がなくとも人間はどんどん死んでいく。そして人の死は生きているものになにがしかの思いを形見のように届けながら冥界の彼方へと没していく。
昨日の夕刊にニコルのデザイナーの松田光弘さんが肝細胞ガンで亡くなられたという訃報が出ていたのを目にして、私ははしなくも松田さんの謦咳にただ一度だけ接したことがあったのを思いだした。
もう数十年も昔のこと、私が原宿にあった会社で広報活動を担当していたとき、突然「ミセス」という雑誌の編集長のHさんから電話がかかってきた。「今から5分後に松田さんからあなたに電話が入るからよく話を聞いてください」というので「分かりました」と答えて待っていると、すぐにニコルの松田さんから電話がかかってきた。やわらかくソフトなバリトンだった。
用件というのはちょっと風変わりで、当時私の大嫌いな読売巨人軍(だいたいスポーツ団体に軍隊の名前をつける人間の脳髄自体が狂っている)を解雇されたばかりのクロマティという三振ばかりしてぶんぶん黒丸みたいなアメリカ人の巨砲選手が、どういうわけだかファッションビジネスに関心があり、近くクロマティ・ブランド?を立ち上げるので、その相談に乗り、できたら協力してあげてほしい」というのであった。
そういうことなら専門家であるあなたの方がよほど適任であろうといいたかったが、これにはなにか事情もあるのだろうと思った私は、とりあえず松田さんの要望に応えてクロマティ氏に会うことになった。何を隠そう、当時の私はニコルのメンズのスーツが好きだったのである。
「ありがとう。じゃあ、よろしく」というすっかり肩の荷を降ろした氏の声を電話越しに耳にしたのが、それこそ一期一会、今生の別れとなったのだから、面白うてやがて哀しきは人生の常であろうか。
翌日ジェーン・マンスフィールド似の美人秘書を従え、アルマーニの高級スーツに身を包み意気揚々とわがプレスルームに乗り込んできたクロマティは想像以上の巨漢であったが、この国においてクロマティ・プレミアムブランドを成功させるのは至難の業であることを1時間半に渡って縷々私が説くと、黒い大男は額から玉のごとき大粒の汗を流し、時折諾諾と肯いつつ、最後には鄭重な謝辞と共に去っていった。
爾来幾星霜、ジェーンとクロマティの行方は、杳として知られない。
♪おそらくはカルバンクラインならむ香水を四囲に振りまく男を憎む 茫洋
Monday, May 19, 2008
鎌倉の1000年
鎌倉ちょっと不思議な物語123回 十二所物語その2
十二所の上古の事蹟ははっきりしないが、奈良時代の聖武天皇の御世に藤原鎌足の子孫染谷太郎太夫時定がここ鎌倉に居住し、のちに平貞盛の孫上総介直方がここに住み、源頼義が相模守となってこの地に住した。その子の直方が女を娶って道家を産み、その後子孫がこの地に代々住むようになり、鎌倉は源家相伝の地となったのである。
下って平治元年1159年に源義朝が相模守となり、治承4年1180年に頼朝が大蔵に幕府を開いたが、元弘3年1333年には新田義貞の手で瓦解して朝廷に返上、建武2年1335年には足利尊氏がこの地を占拠して、正平6年1351年に足利基氏の領地となるのだが、彼の幕府は浄明寺と十二所の中間地点にあった。自宅から歩いて数分の距離である。
その後数世紀にわたって関東方の領地となった鎌倉は、後には山の内上杉氏に属し、さらには三浦義同の治下となり、義同が小田原の北条早雲に滅ぼされてからは北条氏(後北条)の支配下に置かれることとなった。
天正18年1590年、その北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされてからは徳川家康の領地になったことは関東地方と同断である。
階段を怒涛のように駆け下りる息子のせいで我が家が揺れる 茫洋
十二所の上古の事蹟ははっきりしないが、奈良時代の聖武天皇の御世に藤原鎌足の子孫染谷太郎太夫時定がここ鎌倉に居住し、のちに平貞盛の孫上総介直方がここに住み、源頼義が相模守となってこの地に住した。その子の直方が女を娶って道家を産み、その後子孫がこの地に代々住むようになり、鎌倉は源家相伝の地となったのである。
下って平治元年1159年に源義朝が相模守となり、治承4年1180年に頼朝が大蔵に幕府を開いたが、元弘3年1333年には新田義貞の手で瓦解して朝廷に返上、建武2年1335年には足利尊氏がこの地を占拠して、正平6年1351年に足利基氏の領地となるのだが、彼の幕府は浄明寺と十二所の中間地点にあった。自宅から歩いて数分の距離である。
その後数世紀にわたって関東方の領地となった鎌倉は、後には山の内上杉氏に属し、さらには三浦義同の治下となり、義同が小田原の北条早雲に滅ぼされてからは北条氏(後北条)の支配下に置かれることとなった。
天正18年1590年、その北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされてからは徳川家康の領地になったことは関東地方と同断である。
階段を怒涛のように駆け下りる息子のせいで我が家が揺れる 茫洋
Sunday, May 18, 2008
どくだみの花
♪バガテルop55&遥かな昔、遠い所で第70回
日経の「私の履歴書」に谷川雁の実兄で民俗学者の健一氏がたいへん興味深い回顧録を連載しておられる。
氏は熊本県水俣に生まれ育ったが、3歳のときに近所の寒村からやってきた田上トセという当時12歳の子守の思い出を後年になって振り返り、彼女が80歳を越える年齢で亡くなったときに、次のような心に残る歌を詠まれた。
幼き日に乳母に背負われ嗅ぎたるは洗はぬ髪の燃えたつ匂ひ
どくだみの花揉みしだかるるゆふやみの庭の匂ひに乳母恋ひにけり
乳草の葉より滴る白き汁をてのひらに受け乳母と遊びき
乳草の愛を習ひし乳母ひとり身まかりゆきし夜の果てのこと
どくだみの花や乳草の汁のしたたりは、私の少年時代の生と性のくらがりの奥でも、いつも懐かしくひっそりと匂っていた。
そういえば、私の生家でもトセさんのような存在があった。小学生の頃、バスで1時間以上も奥に入った上林村から女中さんを迎えて家族と共同生活を送っていたのである。
私たち3人のきょうだいは、年上の彼女と一緒になって家事や家業を手伝ったり、児童公園で野球をして遊んだりしたものだ。
ある日の食卓で、おりょうさんというその女性が、たぶん私の両親の仲の良さについて何気なくからかうと、普段はおとなしい父が、「こら、おりょう!」と強く叱りつけたことがあった。
思いがけない叱責に驚き、首をすくめたおりょうさんの顔が突然真っ赤にあからみ、耳や首のつけねまでもがみるみる充血していくさまを、私たち3人のきょうだいはびっくりして見つめていた。
おりょうさんは私の実家に5,6年いたはずだが、おそらく私の祖父の口利きでお見合いの話があり、結婚して幸せな家庭を築いたようにぼんやり記憶しているが、おりょうちゃん、今頃どこでどうしているだろう。
♪漆黒のアスファルトを突き破りドクダミの花今年も咲きたり 茫洋
日経の「私の履歴書」に谷川雁の実兄で民俗学者の健一氏がたいへん興味深い回顧録を連載しておられる。
氏は熊本県水俣に生まれ育ったが、3歳のときに近所の寒村からやってきた田上トセという当時12歳の子守の思い出を後年になって振り返り、彼女が80歳を越える年齢で亡くなったときに、次のような心に残る歌を詠まれた。
幼き日に乳母に背負われ嗅ぎたるは洗はぬ髪の燃えたつ匂ひ
どくだみの花揉みしだかるるゆふやみの庭の匂ひに乳母恋ひにけり
乳草の葉より滴る白き汁をてのひらに受け乳母と遊びき
乳草の愛を習ひし乳母ひとり身まかりゆきし夜の果てのこと
どくだみの花や乳草の汁のしたたりは、私の少年時代の生と性のくらがりの奥でも、いつも懐かしくひっそりと匂っていた。
そういえば、私の生家でもトセさんのような存在があった。小学生の頃、バスで1時間以上も奥に入った上林村から女中さんを迎えて家族と共同生活を送っていたのである。
私たち3人のきょうだいは、年上の彼女と一緒になって家事や家業を手伝ったり、児童公園で野球をして遊んだりしたものだ。
ある日の食卓で、おりょうさんというその女性が、たぶん私の両親の仲の良さについて何気なくからかうと、普段はおとなしい父が、「こら、おりょう!」と強く叱りつけたことがあった。
思いがけない叱責に驚き、首をすくめたおりょうさんの顔が突然真っ赤にあからみ、耳や首のつけねまでもがみるみる充血していくさまを、私たち3人のきょうだいはびっくりして見つめていた。
おりょうさんは私の実家に5,6年いたはずだが、おそらく私の祖父の口利きでお見合いの話があり、結婚して幸せな家庭を築いたようにぼんやり記憶しているが、おりょうちゃん、今頃どこでどうしているだろう。
♪漆黒のアスファルトを突き破りドクダミの花今年も咲きたり 茫洋
Saturday, May 17, 2008
期間限定ワグナーセット
♪音楽千夜一夜第35回
たまにはコンサートに行きたいと思うのだが、「音楽の友」などを眺めていてもろくなものがないし、あってもべらぼうな値段であるからしてルンペンプロレタリアートの私にはとうてい懐にそんな余裕がないし、よしんば無理に出かけて行っても右隣の男性の体臭や鼻息やら(一息ごとにフガアア、ムガアアと破裂音をあたりに発してやまぬ煙草臭いオヤジの首を絞めてやりたいとこれまで何度思ったことだろう)、左隣の若い女性の醜からぬ容貌やら立ち昇る香水の匂い(ちなみに体臭の薄いか皆無に近い日本人に油くさい西欧人のワキガ消し用に開発された濃厚な香水なぞサントリーホールでも電車でもはたまたフランスベッドでもまったく無用の長物、臭覚に敏感な男性は必死で吐き気とめまいをこらえているのだよ)やら、時折演奏中になり始める携帯の呼び出し音などが絶対に気になるし、期待して行っても大半のコンサートは感銘率1%以下であることがあらかじめ統計的に分かっているし(小沢とN響はゼロ%)、どうせあとで録音や放送やDⅤDになるだろうし、そんなことなら近所で一生懸命に歌う鶯のさえずりを聞いたり、朝比奈峠でようやく成熟のときを迎えたオタマジャクシと遊んだり、太刀洗の渓流でたわむれるモンキアゲハの飛翔に見入っていたほうがよほど清涼されるに決まっているので結局は出不精を決め込んでいる私だが、たまたま新宿のタワーを覗いてみたら、偉大なるワグナーの代表作品を33枚に収めたデッカのCDコンピレーションセットを9000円で売っていたので,愛用の赤くて小さな手帳を取り出してちびた鉛筆をなめなめ割り算してみたら、なんと@272円と判明したのですぐさま懐中の全財産をはたいて買って家に帰って開いてみたら、これみなバイロイトフェスティバルのライブ録音ばかりで、ベーム翁の指輪やトリスタンとイゾルデを目玉に、レバインのパルシファル、サバリッシュのオランダ人、ローエングリン、タンホイザー、バァルビゾのマイスタージンガーのいずれもが全曲録音で揃っていたので、クラーバーを凌ぐ名演奏・名録音のトリスタンだけは手持ちとダブリになってしまったが、それもよくあること、モーツアルトほどではないにせよ私が愛してやまないリヒヤルトの傑作をこれから1枚1枚なめるように聴いてやろうと思っただけでもうれしくなって、窓を開ければまたしても鶯が「ホーホケキョ」とうれしそうに鳴いたのであった。
善ちゃんから経済学部進学を相談されたときあまり親切ではなかったなあこの私 茫洋
たまにはコンサートに行きたいと思うのだが、「音楽の友」などを眺めていてもろくなものがないし、あってもべらぼうな値段であるからしてルンペンプロレタリアートの私にはとうてい懐にそんな余裕がないし、よしんば無理に出かけて行っても右隣の男性の体臭や鼻息やら(一息ごとにフガアア、ムガアアと破裂音をあたりに発してやまぬ煙草臭いオヤジの首を絞めてやりたいとこれまで何度思ったことだろう)、左隣の若い女性の醜からぬ容貌やら立ち昇る香水の匂い(ちなみに体臭の薄いか皆無に近い日本人に油くさい西欧人のワキガ消し用に開発された濃厚な香水なぞサントリーホールでも電車でもはたまたフランスベッドでもまったく無用の長物、臭覚に敏感な男性は必死で吐き気とめまいをこらえているのだよ)やら、時折演奏中になり始める携帯の呼び出し音などが絶対に気になるし、期待して行っても大半のコンサートは感銘率1%以下であることがあらかじめ統計的に分かっているし(小沢とN響はゼロ%)、どうせあとで録音や放送やDⅤDになるだろうし、そんなことなら近所で一生懸命に歌う鶯のさえずりを聞いたり、朝比奈峠でようやく成熟のときを迎えたオタマジャクシと遊んだり、太刀洗の渓流でたわむれるモンキアゲハの飛翔に見入っていたほうがよほど清涼されるに決まっているので結局は出不精を決め込んでいる私だが、たまたま新宿のタワーを覗いてみたら、偉大なるワグナーの代表作品を33枚に収めたデッカのCDコンピレーションセットを9000円で売っていたので,愛用の赤くて小さな手帳を取り出してちびた鉛筆をなめなめ割り算してみたら、なんと@272円と判明したのですぐさま懐中の全財産をはたいて買って家に帰って開いてみたら、これみなバイロイトフェスティバルのライブ録音ばかりで、ベーム翁の指輪やトリスタンとイゾルデを目玉に、レバインのパルシファル、サバリッシュのオランダ人、ローエングリン、タンホイザー、バァルビゾのマイスタージンガーのいずれもが全曲録音で揃っていたので、クラーバーを凌ぐ名演奏・名録音のトリスタンだけは手持ちとダブリになってしまったが、それもよくあること、モーツアルトほどではないにせよ私が愛してやまないリヒヤルトの傑作をこれから1枚1枚なめるように聴いてやろうと思っただけでもうれしくなって、窓を開ければまたしても鶯が「ホーホケキョ」とうれしそうに鳴いたのであった。
善ちゃんから経済学部進学を相談されたときあまり親切ではなかったなあこの私 茫洋
Friday, May 16, 2008
レーモンド・カーヴァー著「英雄を謳うまい」を読んで
照る日曇る日第125回
村上春樹氏が翻訳するレーモンド・カーヴァー作品は、いずれも面白く読ませてもらったが、その最終巻であるこの本は、初期の短編や詩、挫折した長編の断片や書評やエッセイやスピーチ原稿などのいわば壮大な寄せ集めで、であるがゆえの面白さももちろんあったけれど、やはりいささか物足りなかった。
格別の感想はないが、以下印象に残ったくだりだけをメモしておこう。
カーヴァーのみならずエリオットやウイリアムズやへミングウエイやイエーツの文学上の師であったエズラ・パウンドは、「叙述の根本的な正確さ、それこそが文章における唯一無二の道義である」と述べたそうだが、なんとなく分かるような気がする。
その正確さの水準器を作家が持ち合わせていれば、の話だが。
聖テレサという373年前に生きていた傑出した女性は、こう語ったそうだ。
「言葉とは行為を導くものです。言葉は魂に準備をさせ、用意を整えさせ、そしてそれを優しさへと動かすのです。(Words lead to deeds----they prepare the soul,make it ready,and move it to tenderness.)」
♪講義ではスーツを着てくださいねと言われし真意を忖度しているこの1ヶ月 茫洋
村上春樹氏が翻訳するレーモンド・カーヴァー作品は、いずれも面白く読ませてもらったが、その最終巻であるこの本は、初期の短編や詩、挫折した長編の断片や書評やエッセイやスピーチ原稿などのいわば壮大な寄せ集めで、であるがゆえの面白さももちろんあったけれど、やはりいささか物足りなかった。
格別の感想はないが、以下印象に残ったくだりだけをメモしておこう。
カーヴァーのみならずエリオットやウイリアムズやへミングウエイやイエーツの文学上の師であったエズラ・パウンドは、「叙述の根本的な正確さ、それこそが文章における唯一無二の道義である」と述べたそうだが、なんとなく分かるような気がする。
その正確さの水準器を作家が持ち合わせていれば、の話だが。
聖テレサという373年前に生きていた傑出した女性は、こう語ったそうだ。
「言葉とは行為を導くものです。言葉は魂に準備をさせ、用意を整えさせ、そしてそれを優しさへと動かすのです。(Words lead to deeds----they prepare the soul,make it ready,and move it to tenderness.)」
♪講義ではスーツを着てくださいねと言われし真意を忖度しているこの1ヶ月 茫洋
Thursday, May 15, 2008
♪山から海へドドシシドッド
鎌倉ちょっと不思議な物語122回 十二所神社物語その7
十二所神社の境内には、山ノ神を祀った石祀がある。
右側の祠のものは宇佐八幡で、以前林相山の宇佐の宮にあったもの、その左は疱瘡神を祀ったものである。村人たちは疱瘡にかかることを恐れていた。
その左にある比較的新しい一祠は神社のこの土地を寄進した大木市衛門、すなわち地主神を祀った。
私が現在住んでいる場所も、昔はこの大木一族の土地であり、元は鎌倉石を切り出した跡を田圃にしていたところに小さな家を建てたのであるが、整地をしている大工は、岩場の穴からうじゃうじゃ現れる無数のヤマカガシを取り除くのに大童だった。
さしものヤマカガシも、最近はようやく姿を消してしまったが、新築当初は私たちがネンネグーしている枕元にも現われ、私の好きなエルガーの「愛の挨拶」を歌ったのであった。
ヤマカガシたちは愛犬ムクの遊び相手になったり、健君のマフラーになったり、大木一族の跡取りの格好のおもちゃになったりしてから、家の前を流れる太刀洗川にドボンドボンと捨てられ、下流の滑川にぷかぷか浮かびながら由比ガ浜の河口までゆるやかに南下して、次々に相模湾に流れ入り、ついには広大な太平洋へ乗り入れたのだった。
そうして十二所村の悪がきたちは、ノドチンコもあらわに声をそろえて歌ったものだ。
♪山で生まれたヤマカガシ
山から川へドドシシドッド
山で生まれたヤマカガシ
川から海へドドシシドッド
あれら無数の蛇たちの霊よ、安かれ!
♪いざともに交尾致さむ揚羽蝶 茫洋
十二所神社の境内には、山ノ神を祀った石祀がある。
右側の祠のものは宇佐八幡で、以前林相山の宇佐の宮にあったもの、その左は疱瘡神を祀ったものである。村人たちは疱瘡にかかることを恐れていた。
その左にある比較的新しい一祠は神社のこの土地を寄進した大木市衛門、すなわち地主神を祀った。
私が現在住んでいる場所も、昔はこの大木一族の土地であり、元は鎌倉石を切り出した跡を田圃にしていたところに小さな家を建てたのであるが、整地をしている大工は、岩場の穴からうじゃうじゃ現れる無数のヤマカガシを取り除くのに大童だった。
さしものヤマカガシも、最近はようやく姿を消してしまったが、新築当初は私たちがネンネグーしている枕元にも現われ、私の好きなエルガーの「愛の挨拶」を歌ったのであった。
ヤマカガシたちは愛犬ムクの遊び相手になったり、健君のマフラーになったり、大木一族の跡取りの格好のおもちゃになったりしてから、家の前を流れる太刀洗川にドボンドボンと捨てられ、下流の滑川にぷかぷか浮かびながら由比ガ浜の河口までゆるやかに南下して、次々に相模湾に流れ入り、ついには広大な太平洋へ乗り入れたのだった。
そうして十二所村の悪がきたちは、ノドチンコもあらわに声をそろえて歌ったものだ。
♪山で生まれたヤマカガシ
山から川へドドシシドッド
山で生まれたヤマカガシ
川から海へドドシシドッド
あれら無数の蛇たちの霊よ、安かれ!
♪いざともに交尾致さむ揚羽蝶 茫洋
Wednesday, May 14, 2008
神社と力士
鎌倉ちょっと不思議な物語121回 十二所神社物語その6
「十二所地誌新稿」によれば、むかし葉山の森戸神社の祭りに呼ばれた力士が、ついでにわが十二所神社にやってきて相撲を取ったそうだ。
そのとき、力士の一人がひよいと手を伸ばしたら稲荷小路(十二所神社から相当離れた一角)まで届いたという伝説がある。まあそれはまゆつばであるとしても、大正時代には子供たちが境内で相撲に興じていたというから、神社と相撲は浅からぬ縁で結ばれていたとみえる。
その証拠に、十二所神社の境内には、百貫石と呼ばれる重さ28貫(112キロ)の卵石があり、それを担ぐのを村の青年たちが自慢したそうだ。
地元の力持ちの伊藤源五郎さんは、なんと48歳まで担ぐことができたというが、軟弱な私などほんの1寸すら持ち上げることができない。
♪逆さに振っても歌湧いてこず 亡羊
「十二所地誌新稿」によれば、むかし葉山の森戸神社の祭りに呼ばれた力士が、ついでにわが十二所神社にやってきて相撲を取ったそうだ。
そのとき、力士の一人がひよいと手を伸ばしたら稲荷小路(十二所神社から相当離れた一角)まで届いたという伝説がある。まあそれはまゆつばであるとしても、大正時代には子供たちが境内で相撲に興じていたというから、神社と相撲は浅からぬ縁で結ばれていたとみえる。
その証拠に、十二所神社の境内には、百貫石と呼ばれる重さ28貫(112キロ)の卵石があり、それを担ぐのを村の青年たちが自慢したそうだ。
地元の力持ちの伊藤源五郎さんは、なんと48歳まで担ぐことができたというが、軟弱な私などほんの1寸すら持ち上げることができない。
♪逆さに振っても歌湧いてこず 亡羊
Tuesday, May 13, 2008
♪流れよ みこし どんぶらこ
♪流れよ みこし どんぶらこ
鎌倉ちょっと不思議な物語120回 十二所神社物語その5
神社では当番を決めて毎晩灯明をあげていた時期があったそうだが、その札がいまなお伝えられているそうだ。町内会長さんのお宅にでも保管されているのだろうか?
しかし私はなにを隠そう、町内会長も町内会も苦手だ。このゲマインシャフトは、そのほとんどが旧住民の絆によって結ばれていて、たかだか30年の浅い町民歴しかない私などにはとうてい入り込めない古参連中の寄り合いだ。なにせその源流は、鎌倉時代にまでがさかのぼるのだから。
きっとかういう旧態依然たる村落共同体が江戸時代の封建制度を支え、すぐる大戦中の銃後の大政翼賛制度をがっちり支えたし、来るべき平成帝国ファシズム体制が確立されたあかつきにも、定めしけなげに支援するのであらう。
いかん、遺憾、またしてもあらぬ方角に筆が滑った。早く本題に戻ろう。
先日祭りとみこしのことを書いたが、十二所神社には昔はいまよりもずっと立派なみこしが備わっていたが、維持が大変なので川に流したそうだ。
それを大町の八雲神社で拾い上げて祀った。それで両神社の関係ができて、八雲神社の神職が十二所神社を兼務することになったという。また一説には小町妙隆寺前にあったテンノウ畑に埋めたともいう。
去年この二つの神社と寺院について書いたときには、そんな逸話は知らなかった。
確かに八雲神社には豪奢なみこしがたくさん安置されている。ある時期まで八雲神社の神職が十二所神社を兼務していたのはほんとうのことで、どうしてだろうといぶかしく思っていた私だが、なるほどこれで得心がいったが、待てよ、あんな小さな滑川に重いおみこしを放り込んで、下流に流れるものだろうか?
猛烈な台風のときだって到底無理だろう。では、村の名士である大木利夫氏の証言は虚偽であろうか? いや江戸時代以来の名代の庄屋がそんなでたらめをいうはずがない。
と、私の心は春の嵐のやうに乱れに乱れるのであった。
10歳若き知り合いが大社長になった 人の才知は見抜けぬものよ 茫洋
鎌倉ちょっと不思議な物語120回 十二所神社物語その5
神社では当番を決めて毎晩灯明をあげていた時期があったそうだが、その札がいまなお伝えられているそうだ。町内会長さんのお宅にでも保管されているのだろうか?
しかし私はなにを隠そう、町内会長も町内会も苦手だ。このゲマインシャフトは、そのほとんどが旧住民の絆によって結ばれていて、たかだか30年の浅い町民歴しかない私などにはとうてい入り込めない古参連中の寄り合いだ。なにせその源流は、鎌倉時代にまでがさかのぼるのだから。
きっとかういう旧態依然たる村落共同体が江戸時代の封建制度を支え、すぐる大戦中の銃後の大政翼賛制度をがっちり支えたし、来るべき平成帝国ファシズム体制が確立されたあかつきにも、定めしけなげに支援するのであらう。
いかん、遺憾、またしてもあらぬ方角に筆が滑った。早く本題に戻ろう。
先日祭りとみこしのことを書いたが、十二所神社には昔はいまよりもずっと立派なみこしが備わっていたが、維持が大変なので川に流したそうだ。
それを大町の八雲神社で拾い上げて祀った。それで両神社の関係ができて、八雲神社の神職が十二所神社を兼務することになったという。また一説には小町妙隆寺前にあったテンノウ畑に埋めたともいう。
去年この二つの神社と寺院について書いたときには、そんな逸話は知らなかった。
確かに八雲神社には豪奢なみこしがたくさん安置されている。ある時期まで八雲神社の神職が十二所神社を兼務していたのはほんとうのことで、どうしてだろうといぶかしく思っていた私だが、なるほどこれで得心がいったが、待てよ、あんな小さな滑川に重いおみこしを放り込んで、下流に流れるものだろうか?
猛烈な台風のときだって到底無理だろう。では、村の名士である大木利夫氏の証言は虚偽であろうか? いや江戸時代以来の名代の庄屋がそんなでたらめをいうはずがない。
と、私の心は春の嵐のやうに乱れに乱れるのであった。
10歳若き知り合いが大社長になった 人の才知は見抜けぬものよ 茫洋
Monday, May 12, 2008
兎とバラモン
鎌倉ちょっと不思議な物語119回 十二所神社物語その4
神社のきざはしを昇って向拝正面を遠望すると、そこには1匹の兎が彫られているのだが、この兎について「十二所地誌新稿」は中村元氏の「東西文化の交流」に出てくる次のような説話を引用して解説している。
インド説話に出てくるお釈迦様の前身の菩薩は、実は兎であった。菩薩は兎の家に生まれて森の中に住んでいたそうだ。
兎には猿と山犬とかわうその3匹の友達がいて、この4匹はいつも仲良く暮らしていた。めいめい自分の猟場で食物をとって夕方にはみな1つところに集まるのが常であった。
賢い兎は、3匹の友達に、「われわれは施し物をし、戒律を守り、身をつつしんで正しく作法を行なわなければならない」といつも説くのであった。
ある日1人のバラモンが来て「食物をください」と言うた。しかし兎は施す食物を持っていなかったので、「私の肉を火で焼いてそれをあなたにあげるからゆっくり森にいてください」と言うた。
さうして燃え盛る薪の山の中に飛び込み自分の体を犠牲にしようとしたのだが、不思議なことに兎の体は焼けなかった。というのは、そこに来ていたバラモンは、実は帝釈天というインドの神で、兎を試すためにそのような姿にやつしていたのであった。
帝釈天は、「賢い兎よ、お前の天晴れな行いは広い世界中に知らせてやらねばらぬ」と言うて1つの山を押しつぶして、その山から出た汁で月の面に兎の姿を描いた。そうして兎を藪の中のやわらかい草の上に寝かせてやって、自分は天の世界の宮殿に帰っていった。
月の中に兎がいるというのは、ここから出た話であるが、この説話は日本に入ってさまざまな物語を生んだ。
「十二所地誌新稿」の著者は、「神話に兎が慈悲深いものとして出てくるのも、これに起源を有するのではあるまいか。そうとすれば十二所権現の建設者は偉大なる人である」と結んでいるが、けだし至言である。
わがブログに死ねと書き込む人がいてかたじけないがいまだその時にあらず 茫洋
神社のきざはしを昇って向拝正面を遠望すると、そこには1匹の兎が彫られているのだが、この兎について「十二所地誌新稿」は中村元氏の「東西文化の交流」に出てくる次のような説話を引用して解説している。
インド説話に出てくるお釈迦様の前身の菩薩は、実は兎であった。菩薩は兎の家に生まれて森の中に住んでいたそうだ。
兎には猿と山犬とかわうその3匹の友達がいて、この4匹はいつも仲良く暮らしていた。めいめい自分の猟場で食物をとって夕方にはみな1つところに集まるのが常であった。
賢い兎は、3匹の友達に、「われわれは施し物をし、戒律を守り、身をつつしんで正しく作法を行なわなければならない」といつも説くのであった。
ある日1人のバラモンが来て「食物をください」と言うた。しかし兎は施す食物を持っていなかったので、「私の肉を火で焼いてそれをあなたにあげるからゆっくり森にいてください」と言うた。
さうして燃え盛る薪の山の中に飛び込み自分の体を犠牲にしようとしたのだが、不思議なことに兎の体は焼けなかった。というのは、そこに来ていたバラモンは、実は帝釈天というインドの神で、兎を試すためにそのような姿にやつしていたのであった。
帝釈天は、「賢い兎よ、お前の天晴れな行いは広い世界中に知らせてやらねばらぬ」と言うて1つの山を押しつぶして、その山から出た汁で月の面に兎の姿を描いた。そうして兎を藪の中のやわらかい草の上に寝かせてやって、自分は天の世界の宮殿に帰っていった。
月の中に兎がいるというのは、ここから出た話であるが、この説話は日本に入ってさまざまな物語を生んだ。
「十二所地誌新稿」の著者は、「神話に兎が慈悲深いものとして出てくるのも、これに起源を有するのではあるまいか。そうとすれば十二所権現の建設者は偉大なる人である」と結んでいるが、けだし至言である。
わがブログに死ねと書き込む人がいてかたじけないがいまだその時にあらず 茫洋
Sunday, May 11, 2008
川尻秋生著「揺れ動く貴族社会」を読む
照る日曇る日第124回
17年間千葉博物館で学芸員を務めていた元昆虫少年によるこの平安時代概説は、貴族たちの和歌を歴史資料として活用したり、当時の天変地異の影響を論じたり、武士の残酷さを実証したり、考古学・歴史地理学・民俗学・植物学などの学識を自在に駆使しておもちゃ箱をひっくり返したような意外さと楽しさがいっぱい詰まった型破りの通史である。
9世紀末から10世紀はじめにかけて、天皇の朝政の場が公的な場から私室に移行する。それと期をいつにして貴族のイエが成立し、「族」から「氏」、「公」から「氏」へと社会の構成原理が移動するにつれて、権力が公正さを失い、やがて日本および日本社会に根強くはびこる公私混同の源泉がそこに生まれた、と説く著者の説は、なかなか興味深いものがある。
藤原氏と血縁関係のない宇多天皇が彼らを排除して政治の事件を握ろうと天皇の子飼いの近臣を周辺に集めようとしたが、そのホープであった菅原道真が宇多を欺き、宇多の子である醍醐天皇を廃そうと暗躍したことが、結局道真の大宰府左遷に繋がったことも、著者によって私ははじめて知った。なんのことはないアマちゃんの道真は、自分で墓穴を掘ったのである。
著者はまた、平安時代は遣唐使がつかわされ、唐風文化が吹き荒れた時代であるが、それは天皇の服装にも露骨に表われ、聖武天皇と光明皇后は神事には伝統の白服でのぞむが、重要な儀式では中国皇帝を真似たカラフルな皇帝色の衣冠を身につけるという使い分けを余儀なくされるようになった、ともいうのである。
その他、興味深いさまざまな知見がてんこもりである。
御霊信仰に篤い日本は、弘仁元年810年から3世紀半にわたって死刑が執行されなかった奇特な国であること、源氏の祖先である源義家はきわめて残虐な性格であったこと、万葉集の梅は古今和歌集で桜に変わったこと、寝殿造りの内部は昼なお暗かったが、逆に部屋からは外部がよく見えるので、このことが貴族たちを四季の移ろいに敏感にさせ、それがまた「古今集」や「源氏物語」の成立に大きな」影響を与えたこと、藤原道長の栄光と御堂流の成立は大いなる偶然の産物であること、秦氏の氏神である松尾社の祭礼では田の神を祀るための呪術的なパフォーマンスである田楽が催され、このいかがわしい田楽師たちは諸国を放浪し遍歴していた自由民であったこと、平安京は戦乱や災厄、伝染病による死者に満ち溢れ、そのためにケガレという観念が生まれたこと、と同時に天皇が支配する領域の外はケガレに満ちた空間である、というグローバルなケガレ観も誕生し、それは新羅など朝鮮半島の国々に対しては適用されたが、唐や宋など超大国中国に対してはついに適用できず、そのトラウマが現代にまで及んでいること、しかしながら悪化する新羅との緊張関係が、平安時代の王権に「日本=神国」なる奇怪な幻想を生み出し、ついに神功皇宮・応神天皇と八幡神を同体とみなして「八幡神=皇祖神」というでたらめな神国日本イデオロギーを早くもこの段階で用意していたこと、そして最後に、承和5年838年最後の遣唐使である円仁の波頭を超えた求法の旅……、
などなど、少々選択と集中性には欠けるかもしれないが、無風の時代とよく誤解される平安時代への、大胆かつ博物学的なアプローチを随所で楽しめる好著である。
♪桐藤ラベンダーわれに優しき薄紫の花 茫洋
17年間千葉博物館で学芸員を務めていた元昆虫少年によるこの平安時代概説は、貴族たちの和歌を歴史資料として活用したり、当時の天変地異の影響を論じたり、武士の残酷さを実証したり、考古学・歴史地理学・民俗学・植物学などの学識を自在に駆使しておもちゃ箱をひっくり返したような意外さと楽しさがいっぱい詰まった型破りの通史である。
9世紀末から10世紀はじめにかけて、天皇の朝政の場が公的な場から私室に移行する。それと期をいつにして貴族のイエが成立し、「族」から「氏」、「公」から「氏」へと社会の構成原理が移動するにつれて、権力が公正さを失い、やがて日本および日本社会に根強くはびこる公私混同の源泉がそこに生まれた、と説く著者の説は、なかなか興味深いものがある。
藤原氏と血縁関係のない宇多天皇が彼らを排除して政治の事件を握ろうと天皇の子飼いの近臣を周辺に集めようとしたが、そのホープであった菅原道真が宇多を欺き、宇多の子である醍醐天皇を廃そうと暗躍したことが、結局道真の大宰府左遷に繋がったことも、著者によって私ははじめて知った。なんのことはないアマちゃんの道真は、自分で墓穴を掘ったのである。
著者はまた、平安時代は遣唐使がつかわされ、唐風文化が吹き荒れた時代であるが、それは天皇の服装にも露骨に表われ、聖武天皇と光明皇后は神事には伝統の白服でのぞむが、重要な儀式では中国皇帝を真似たカラフルな皇帝色の衣冠を身につけるという使い分けを余儀なくされるようになった、ともいうのである。
その他、興味深いさまざまな知見がてんこもりである。
御霊信仰に篤い日本は、弘仁元年810年から3世紀半にわたって死刑が執行されなかった奇特な国であること、源氏の祖先である源義家はきわめて残虐な性格であったこと、万葉集の梅は古今和歌集で桜に変わったこと、寝殿造りの内部は昼なお暗かったが、逆に部屋からは外部がよく見えるので、このことが貴族たちを四季の移ろいに敏感にさせ、それがまた「古今集」や「源氏物語」の成立に大きな」影響を与えたこと、藤原道長の栄光と御堂流の成立は大いなる偶然の産物であること、秦氏の氏神である松尾社の祭礼では田の神を祀るための呪術的なパフォーマンスである田楽が催され、このいかがわしい田楽師たちは諸国を放浪し遍歴していた自由民であったこと、平安京は戦乱や災厄、伝染病による死者に満ち溢れ、そのためにケガレという観念が生まれたこと、と同時に天皇が支配する領域の外はケガレに満ちた空間である、というグローバルなケガレ観も誕生し、それは新羅など朝鮮半島の国々に対しては適用されたが、唐や宋など超大国中国に対してはついに適用できず、そのトラウマが現代にまで及んでいること、しかしながら悪化する新羅との緊張関係が、平安時代の王権に「日本=神国」なる奇怪な幻想を生み出し、ついに神功皇宮・応神天皇と八幡神を同体とみなして「八幡神=皇祖神」というでたらめな神国日本イデオロギーを早くもこの段階で用意していたこと、そして最後に、承和5年838年最後の遣唐使である円仁の波頭を超えた求法の旅……、
などなど、少々選択と集中性には欠けるかもしれないが、無風の時代とよく誤解される平安時代への、大胆かつ博物学的なアプローチを随所で楽しめる好著である。
♪桐藤ラベンダーわれに優しき薄紫の花 茫洋
Saturday, May 10, 2008
十二所神社物語その2
鎌倉ちょっと不思議な物語118回
さて十二所神社は、神を祭る本殿と拝殿から成り、鳥居・神楽殿も備えたこぢんまりとした神社である。境内は森の麓にあり、春夏秋冬お宮としての感じが好ましい。
鎌倉石によって築かれた神寂びたきざはしも格調があるが、その下に据えられた2基の灯篭も恐らく江戸時代の造りだろう。じつに立派で趣がある。
もうだいぶ昔のことになるが、我が家の耕君がこの近所で遊んでいたとき、どうしたはずみだか、向かって左側の灯篭の笠石の上に乗っているこの重い玉石が、彼の左足の上に落下して大怪我をしたこともあった。
さぞや痛かったであらう。きっとワンワン泣いたことであらう。愛犬ムクももらい泣きしてワンワン鳴いたことであらう。
往時茫茫、その苔むした鎌倉石を見上げながら、いつも想うのである。
神域は明治初年の神仏分離の際に、いったん国有地として召し上げられたが、大日本帝国の敗戦後に無償払い下げを受けて神社の所有地になった。神社仏閣は明治前には神仏混淆、つまり権現であり、神職も社僧として両者を兼務していた。したがって明王院の恵法法印がその職にあったとしてもおかしくはなかった。
しかし御一新の神仏分離によって社と寺とははっきり区別されるようになり、かくて十二所神社は独立をとげたのであった。
♪耕は泣きムクは鳴いたよ神社の麓で 茫洋
さて十二所神社は、神を祭る本殿と拝殿から成り、鳥居・神楽殿も備えたこぢんまりとした神社である。境内は森の麓にあり、春夏秋冬お宮としての感じが好ましい。
鎌倉石によって築かれた神寂びたきざはしも格調があるが、その下に据えられた2基の灯篭も恐らく江戸時代の造りだろう。じつに立派で趣がある。
もうだいぶ昔のことになるが、我が家の耕君がこの近所で遊んでいたとき、どうしたはずみだか、向かって左側の灯篭の笠石の上に乗っているこの重い玉石が、彼の左足の上に落下して大怪我をしたこともあった。
さぞや痛かったであらう。きっとワンワン泣いたことであらう。愛犬ムクももらい泣きしてワンワン鳴いたことであらう。
往時茫茫、その苔むした鎌倉石を見上げながら、いつも想うのである。
神域は明治初年の神仏分離の際に、いったん国有地として召し上げられたが、大日本帝国の敗戦後に無償払い下げを受けて神社の所有地になった。神社仏閣は明治前には神仏混淆、つまり権現であり、神職も社僧として両者を兼務していた。したがって明王院の恵法法印がその職にあったとしてもおかしくはなかった。
しかし御一新の神仏分離によって社と寺とははっきり区別されるようになり、かくて十二所神社は独立をとげたのであった。
♪耕は泣きムクは鳴いたよ神社の麓で 茫洋
Thursday, May 08, 2008
祭礼の夜
鎌倉ちょっと不思議な物語117回
十二所神社を現在地に移す仕事をしたのは、明王院の住持恵法法印で、神社棟札は明王院に伝えられている。
例祭は毎年9月8日から10日にかけて行なわれる。祭日には大人と子供のおみこし2基が出た。私は神社の隣の借家に住んでいながら、いつも不参加だったが、妻が二人の男の子にかわいらしい法被を着せて付き添い、みなと一緒に町内をワショイ、ワッショイと練り歩いたものである。
夜になると、神社の参道の入口にはいつも子供たちが描いたあどけない雪洞の絵が夜風によろめき、境内では綿飴やヨウヨウや焼き玉蜀黍や林檎飴などが売られ、舞台ではコロンビアレコードの新人だとかいう誰も知らない演歌歌手が、あまり上手ではない演歌を夜遅くまで歌っていた。
敗戦までは十二所部落の氏神として各隣組が順番に担当して祭典を行ない、祭礼に四斗樽3、4本を抜いて道行く人を接待したそうだ。またその年にとれた大豆で豆腐を作ったので、「豆腐祭り」とも称したと伝えられている。
祭りの前夜にはすべて祭礼の準備が整った神社の真ん中に一人の男が寝ずの番をして夜明けを待っていた。神社のきざはしの隣には幅7m、高さ3mの掲示板が組みあげられ、氏子一同の寄付金が高い順番に書かれていた。
私は氏子ではなかったが、いっとう安い口である千円を寄付していたので、念のためにそれを確認に行くと、墨黒々と「あまでう殿金1千円也」と書かれていて、それを見るとなぜか徒世の義理を果たしたような気になってほっとため息をついたものだった。
しかしその奉納帳である掲示板に異教徒であるはずのカトリック教会が5千円も寄付しているのを見ると、この国ではゼウスの神も国津神も並び立つのかと名状しがたい困惑を覚えるのが常だった。
祭礼に神前に供える日本刀は、山口義高翁の知己で当時二階堂の瑞泉寺にいた刀剣鍛冶師が奉納したものであるというが、今は十二所神社のすぐ近所になんとみこしの製作家が住んでいる。これもなにかの縁だろうか。
♪母上がこよなく愛で給いたるライラックの花今年も咲きたり 茫洋
十二所神社を現在地に移す仕事をしたのは、明王院の住持恵法法印で、神社棟札は明王院に伝えられている。
例祭は毎年9月8日から10日にかけて行なわれる。祭日には大人と子供のおみこし2基が出た。私は神社の隣の借家に住んでいながら、いつも不参加だったが、妻が二人の男の子にかわいらしい法被を着せて付き添い、みなと一緒に町内をワショイ、ワッショイと練り歩いたものである。
夜になると、神社の参道の入口にはいつも子供たちが描いたあどけない雪洞の絵が夜風によろめき、境内では綿飴やヨウヨウや焼き玉蜀黍や林檎飴などが売られ、舞台ではコロンビアレコードの新人だとかいう誰も知らない演歌歌手が、あまり上手ではない演歌を夜遅くまで歌っていた。
敗戦までは十二所部落の氏神として各隣組が順番に担当して祭典を行ない、祭礼に四斗樽3、4本を抜いて道行く人を接待したそうだ。またその年にとれた大豆で豆腐を作ったので、「豆腐祭り」とも称したと伝えられている。
祭りの前夜にはすべて祭礼の準備が整った神社の真ん中に一人の男が寝ずの番をして夜明けを待っていた。神社のきざはしの隣には幅7m、高さ3mの掲示板が組みあげられ、氏子一同の寄付金が高い順番に書かれていた。
私は氏子ではなかったが、いっとう安い口である千円を寄付していたので、念のためにそれを確認に行くと、墨黒々と「あまでう殿金1千円也」と書かれていて、それを見るとなぜか徒世の義理を果たしたような気になってほっとため息をついたものだった。
しかしその奉納帳である掲示板に異教徒であるはずのカトリック教会が5千円も寄付しているのを見ると、この国ではゼウスの神も国津神も並び立つのかと名状しがたい困惑を覚えるのが常だった。
祭礼に神前に供える日本刀は、山口義高翁の知己で当時二階堂の瑞泉寺にいた刀剣鍛冶師が奉納したものであるというが、今は十二所神社のすぐ近所になんとみこしの製作家が住んでいる。これもなにかの縁だろうか。
♪母上がこよなく愛で給いたるライラックの花今年も咲きたり 茫洋
Wednesday, May 07, 2008
十二所神社物語その1
鎌倉ちょっと不思議な物語116回
十二所神社はもとはおなじ十二所の光触寺の境内にあって、十二所権現と称していた。
紀州熊野神社本宮に宗祖一遍聖人がおこもりして宗旨を開いたので、時宗寺院では本宮を勧請して祀った。その一遍ゆかりの光触寺の十二所権現の十二所を取ってわが村の地名としたのである。
ところがなにかわけがあったのだろう、十二所権現は天保9年1838年に大木市冴左衛門が寄付した現在地に移され、明治の神仏分離のときに名を十二所神社と改め天地7代、地神5代をもって祭神としたのであった。
♪そんなの関係ねえとパンツ男が叫ぶたびぷつんと切れる他者とのつながり 茫洋
十二所神社はもとはおなじ十二所の光触寺の境内にあって、十二所権現と称していた。
紀州熊野神社本宮に宗祖一遍聖人がおこもりして宗旨を開いたので、時宗寺院では本宮を勧請して祀った。その一遍ゆかりの光触寺の十二所権現の十二所を取ってわが村の地名としたのである。
ところがなにかわけがあったのだろう、十二所権現は天保9年1838年に大木市冴左衛門が寄付した現在地に移され、明治の神仏分離のときに名を十二所神社と改め天地7代、地神5代をもって祭神としたのであった。
♪そんなの関係ねえとパンツ男が叫ぶたびぷつんと切れる他者とのつながり 茫洋
Tuesday, May 06, 2008
十二所物語
鎌倉ちょっと不思議な物語115回
私が住んでいる鎌倉の十二所は、鎌倉時代には「山之内庄」「大倉郷」などと称したこともあったらしい。里人たちによると字の家数がたまたま12だったので十二所となったとか、当所の小字に和泉谷、太刀洗、七曲、タタラヶ谷、宇佐小路、明石、積善、二ヶ橋、稲荷小路、番場ヶ谷、吉沢、関ノ上の12箇所があるのでこの名がついたとか諸説ある。 ちなみに私は最後の関ノ上に30年近く住んでいる。
この十二所の地名がはじめてものの本に登場するのは、応永23年1416年に刊行された「鎌倉大草紙」である。
下って「新編鎌倉志」巻二に「十二所村は報国寺の東の民家なり。十二郷谷ともいう。里人云う。『家村十二ヵ所ある故に名づく。今は僅かに三、四ヶ所あり』」とあるが、これは十二所ではなく現在の青砥橋の十二郷のことで、わが郷里とは異なる。
十二所の地番は泉水橋の右岸からはじまり、川岸をさかのぼって峠に至り、左岸を下ってまた泉水橋にきて1013番地となる。昨日紹介した大江稲荷は少し飛んで1014番、私の家は299番である。
気象庁も予報士もみなうそつきだお詫びと訂正くらいせよ 茫洋
私が住んでいる鎌倉の十二所は、鎌倉時代には「山之内庄」「大倉郷」などと称したこともあったらしい。里人たちによると字の家数がたまたま12だったので十二所となったとか、当所の小字に和泉谷、太刀洗、七曲、タタラヶ谷、宇佐小路、明石、積善、二ヶ橋、稲荷小路、番場ヶ谷、吉沢、関ノ上の12箇所があるのでこの名がついたとか諸説ある。 ちなみに私は最後の関ノ上に30年近く住んでいる。
この十二所の地名がはじめてものの本に登場するのは、応永23年1416年に刊行された「鎌倉大草紙」である。
下って「新編鎌倉志」巻二に「十二所村は報国寺の東の民家なり。十二郷谷ともいう。里人云う。『家村十二ヵ所ある故に名づく。今は僅かに三、四ヶ所あり』」とあるが、これは十二所ではなく現在の青砥橋の十二郷のことで、わが郷里とは異なる。
十二所の地番は泉水橋の右岸からはじまり、川岸をさかのぼって峠に至り、左岸を下ってまた泉水橋にきて1013番地となる。昨日紹介した大江稲荷は少し飛んで1014番、私の家は299番である。
気象庁も予報士もみなうそつきだお詫びと訂正くらいせよ 茫洋
Monday, May 05, 2008
鎌倉ちょっと不思議な物語114回
十二所の「大江稲荷社」拝観
これは前回に紹介した大江広元邸の屋敷神であったものがのちに近所の稲荷小路に移転してここに安置されたと「十二所地誌新稿」は伝える。
大江広元は、自らの出身地である京都ゆかりの伏見稲荷を自邸に祭り、初午の日に祝っていたのである。
灯篭は地元の大地主である山口家の寄進によるもの。石の祠の中にはご神体として丸い石が入っている。私はなぜか福沢諭吉の少年時代の故事を思い出した。
稲荷社の前に狐が安置されるのは神様の使いと考えられたのであるが、この山腹の奥にひそりと眠る稲荷は、平成の御世にも近所の伊藤氏などによって手厚く保護されているようだ。
♪今朝もまた鶯の歌で目覚めたり 茫洋
これは前回に紹介した大江広元邸の屋敷神であったものがのちに近所の稲荷小路に移転してここに安置されたと「十二所地誌新稿」は伝える。
大江広元は、自らの出身地である京都ゆかりの伏見稲荷を自邸に祭り、初午の日に祝っていたのである。
灯篭は地元の大地主である山口家の寄進によるもの。石の祠の中にはご神体として丸い石が入っている。私はなぜか福沢諭吉の少年時代の故事を思い出した。
稲荷社の前に狐が安置されるのは神様の使いと考えられたのであるが、この山腹の奥にひそりと眠る稲荷は、平成の御世にも近所の伊藤氏などによって手厚く保護されているようだ。
♪今朝もまた鶯の歌で目覚めたり 茫洋
Sunday, May 04, 2008
サガン著「悲しみよ こんにちは」を読んで
照る日曇る日第123回
ここにやや通俗的ではあるがお洒落でダンディな中年の独身男がいる。そのばついちのパリジャンは次から次に女を取り替えてきままな第2の青春を満喫しているのだが、彼には目の中に入れても痛くない一人娘がいて、2人は親子の域を超えた愛と友情をわかちあっている。
父親にも少女にも恋人がいるのだが、そこに少女の親代わりの美貌と知性を兼ね備えた女性が現れ、2人は結婚しそうになる。父親との理想的な関係を壊され、父親を奪われたくないヒロインはここで一計を編み出し、それまで父親の恋人であった若い女と自分の恋人をそそのかしてお熱いところを父親に見せつけるといい加減な父親は昔の女にむらむらとなって手出してしまい、それを知って絶望したヒロインの未来の義母は自殺してしまう。
そこで、「悲しみよこんにちは」というのがこの18歳の才媛によって書かれた本作のあらすじである。
あらすじもまるで人形劇の書割みたいな荒唐無稽なものだが、もっとひどいのはそれぞれの人物のうすっぺらな造型であり、彼らがパリのカフェで茶を喫しようが、夜の酒場でダンスを踊ろうが、真昼の海岸で砂に頬を埋めようが、はたまたフレンチキスをしようが、血の気の通わない人形たちがまるででくのぼうのようにぶらぶら宙釣りになって、おされでシックなおふらんす小説の真似事をしているだけのことだ。
だいたい「その夏、私は17だった。そして私はまったく幸福だった。私のほかに、父とそのアマンのエルザがいた」などといういかにもの1行にいかがわしさを感じなかったとしたら、その人には文学的感性がないと断言したって構わないような代物なのだ。いくら18歳の若書きだって、だめなものは、いつまで経ってもだめなのである。
この小説で、ゆいいつ素晴らしいのは、「悲しみよこんにちは」という題名だが、その肝心のタイトルですらこの作品で献辞としてとりあげられているポール・エリュアールの「直接の生命」という詩のフレーズなのだから、もはやなにをかいわんやである。
♪赤青黄3色で威嚇する夜光虫のごとく3機の航空機夜空を行く 茫洋
ここにやや通俗的ではあるがお洒落でダンディな中年の独身男がいる。そのばついちのパリジャンは次から次に女を取り替えてきままな第2の青春を満喫しているのだが、彼には目の中に入れても痛くない一人娘がいて、2人は親子の域を超えた愛と友情をわかちあっている。
父親にも少女にも恋人がいるのだが、そこに少女の親代わりの美貌と知性を兼ね備えた女性が現れ、2人は結婚しそうになる。父親との理想的な関係を壊され、父親を奪われたくないヒロインはここで一計を編み出し、それまで父親の恋人であった若い女と自分の恋人をそそのかしてお熱いところを父親に見せつけるといい加減な父親は昔の女にむらむらとなって手出してしまい、それを知って絶望したヒロインの未来の義母は自殺してしまう。
そこで、「悲しみよこんにちは」というのがこの18歳の才媛によって書かれた本作のあらすじである。
あらすじもまるで人形劇の書割みたいな荒唐無稽なものだが、もっとひどいのはそれぞれの人物のうすっぺらな造型であり、彼らがパリのカフェで茶を喫しようが、夜の酒場でダンスを踊ろうが、真昼の海岸で砂に頬を埋めようが、はたまたフレンチキスをしようが、血の気の通わない人形たちがまるででくのぼうのようにぶらぶら宙釣りになって、おされでシックなおふらんす小説の真似事をしているだけのことだ。
だいたい「その夏、私は17だった。そして私はまったく幸福だった。私のほかに、父とそのアマンのエルザがいた」などといういかにもの1行にいかがわしさを感じなかったとしたら、その人には文学的感性がないと断言したって構わないような代物なのだ。いくら18歳の若書きだって、だめなものは、いつまで経ってもだめなのである。
この小説で、ゆいいつ素晴らしいのは、「悲しみよこんにちは」という題名だが、その肝心のタイトルですらこの作品で献辞としてとりあげられているポール・エリュアールの「直接の生命」という詩のフレーズなのだから、もはやなにをかいわんやである。
♪赤青黄3色で威嚇する夜光虫のごとく3機の航空機夜空を行く 茫洋
Saturday, May 03, 2008
デュラス著「愛人 ラマン」を読んで
照る日曇る日第122回
「太平洋の防波堤」が著者の心のポジ小説であったとすれば、これはその同じ小説のほぼ同じシーンをもういちどえぐった自伝的ネガ小説とでもいうべきものだろうか。
ふたたび仏領ベトナムの地にさすらう孤独な母と二人の兄、さうして作者を思わせるこの小説のヒロインが登場して、17歳の少女の中国人との愛が語られる。
17歳といえばさかりのついた犬のような年頃で、少女は年上の金持ちの中国人に彼が娼婦と寝るときのように荒々しくやってほしいと頼み、その切なる願いはたちまちかなえられる。
この年代では、女も男も、彼らの内なる欲望は現実のものになるか、それとも実現されずに闇の溝水のなかに排泄されるかのどちらかなので、どちらかといえば、実際に夜な夜な愛し合い、性交を繰り返すほうがあらゆる意味で望ましいのである。
やがて南国の真昼に果てしなく燃え上がる激烈な恋の物語は、実際に著者を訪れた現実と同じように突然の終局を迎え、サイゴンから地中海に向けて大型客船は出航し、あとには愛を失った男とひとすじの煙が残された。
少女はなにせ作家の卵だったから、「18歳で年老いた」と抜かすのだが、尻こだまが抜けて廃人同様になったのは、もちろん男のほうだった。いずれにしても、書いた方が勝ち、書かれたほうが負けである。そのうえこんな話を映画にするやつがいるのだから、どうしようもない。
またしても5月3日がやってきたとく天皇制を廃止せよ 茫洋
「太平洋の防波堤」が著者の心のポジ小説であったとすれば、これはその同じ小説のほぼ同じシーンをもういちどえぐった自伝的ネガ小説とでもいうべきものだろうか。
ふたたび仏領ベトナムの地にさすらう孤独な母と二人の兄、さうして作者を思わせるこの小説のヒロインが登場して、17歳の少女の中国人との愛が語られる。
17歳といえばさかりのついた犬のような年頃で、少女は年上の金持ちの中国人に彼が娼婦と寝るときのように荒々しくやってほしいと頼み、その切なる願いはたちまちかなえられる。
この年代では、女も男も、彼らの内なる欲望は現実のものになるか、それとも実現されずに闇の溝水のなかに排泄されるかのどちらかなので、どちらかといえば、実際に夜な夜な愛し合い、性交を繰り返すほうがあらゆる意味で望ましいのである。
やがて南国の真昼に果てしなく燃え上がる激烈な恋の物語は、実際に著者を訪れた現実と同じように突然の終局を迎え、サイゴンから地中海に向けて大型客船は出航し、あとには愛を失った男とひとすじの煙が残された。
少女はなにせ作家の卵だったから、「18歳で年老いた」と抜かすのだが、尻こだまが抜けて廃人同様になったのは、もちろん男のほうだった。いずれにしても、書いた方が勝ち、書かれたほうが負けである。そのうえこんな話を映画にするやつがいるのだから、どうしようもない。
またしても5月3日がやってきたとく天皇制を廃止せよ 茫洋
Friday, May 02, 2008
デュラス著「太平洋の防波堤」を読んで
照る日曇る日第121回
どことなくブロンテの「嵐が丘」を思わせる小説である。ただ「嵐が丘」がヒースが冷たい風に吹かれる荒涼たる北の国を舞台にしていたのに対して、こちらはモンスーンとタイフーンが太平洋から押し寄せるインドシナ半島の南の国の物語という違いはあるが、どちらも神話的な男と女が登場する愛の物語であることに変わりはない。
老母と2人の兄妹が壊れかけたバンガローに住んでいる。そこは毎年必ず海から押し寄せる高波のためにあらゆる家も田畑も耕作物も根こそぎ押し流されてしまう。にもかかわらず年々歳々稲を植えては流されてしまうフランス移民のその老婆の孤立無援の戦いは、さながらシジフォスの神話である。全財産をはたき、100人の百姓を指揮して構築した巨大な堤防が田んぼに棲む蟹に食い尽くされてあえなく崩壊してしまうさまは、悪意ある天地と大自然に挑む勇気ある人間の蟷螂さながらの不屈の戦いを象徴しているようだ。
ここは貧困とコレラと死と闘争に覆い尽くされた不毛の干拓地である。たえず生まれてはたえず死んでいく子供たち、永遠に君臨する太陽、水浸しの果てしない空間。そこに登場するヒースクリフのような老母の息子やキャサリンのような娘、町からやってくるリントンのような、アーンショウのような男たちとの間で繰り広げられる荒々しい、また純な恋。
荒蕪地にすっくとそそりたつそれら人物の造型は、輪郭がくっきりとしており、皮膚の隅々にまで熱い血がいきわたっており、新しい読者の共感を呼ぶことだろう。えぐいぞ、デュラス。
♪自動的に人間にピントが合うという新型カメラを私は買うまい 茫洋
♪まずは蝶、次には花と水と土この順番にフォーカスしなさい 茫洋
どことなくブロンテの「嵐が丘」を思わせる小説である。ただ「嵐が丘」がヒースが冷たい風に吹かれる荒涼たる北の国を舞台にしていたのに対して、こちらはモンスーンとタイフーンが太平洋から押し寄せるインドシナ半島の南の国の物語という違いはあるが、どちらも神話的な男と女が登場する愛の物語であることに変わりはない。
老母と2人の兄妹が壊れかけたバンガローに住んでいる。そこは毎年必ず海から押し寄せる高波のためにあらゆる家も田畑も耕作物も根こそぎ押し流されてしまう。にもかかわらず年々歳々稲を植えては流されてしまうフランス移民のその老婆の孤立無援の戦いは、さながらシジフォスの神話である。全財産をはたき、100人の百姓を指揮して構築した巨大な堤防が田んぼに棲む蟹に食い尽くされてあえなく崩壊してしまうさまは、悪意ある天地と大自然に挑む勇気ある人間の蟷螂さながらの不屈の戦いを象徴しているようだ。
ここは貧困とコレラと死と闘争に覆い尽くされた不毛の干拓地である。たえず生まれてはたえず死んでいく子供たち、永遠に君臨する太陽、水浸しの果てしない空間。そこに登場するヒースクリフのような老母の息子やキャサリンのような娘、町からやってくるリントンのような、アーンショウのような男たちとの間で繰り広げられる荒々しい、また純な恋。
荒蕪地にすっくとそそりたつそれら人物の造型は、輪郭がくっきりとしており、皮膚の隅々にまで熱い血がいきわたっており、新しい読者の共感を呼ぶことだろう。えぐいぞ、デュラス。
♪自動的に人間にピントが合うという新型カメラを私は買うまい 茫洋
♪まずは蝶、次には花と水と土この順番にフォーカスしなさい 茫洋
Thursday, May 01, 2008
Wednesday, April 30, 2008
2008年卯月茫洋詩歌集
♪ある晴れた日に その26
春の宵近江の牛を食べにけり
蟷螂の斧振りかざす春の宵
修道女の瞑想破る太刀嵐
桜花一輪拾いて水に浸す
桜咲く今朝の女の薄化粧
これ鶯 ホ長調で鳴いてみよ
ト短調で歌うなハ長調で歌え
景時の行方はいずこ鯨殿
こんな東京に誰がしたんだと慎太郎言い
人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃
新築減り仕事なくなりし甥っ子の心配す
君、そういうことじゃなくて毎日新しい歌を歌うことだよ、下手くそでもね
流れている水の中ではオタマは育たない子供も同じである
ここからは進入禁止と5人組何事にもタブーはあるぞ
ランクル、オートバイは進入禁止おいらは太刀洗5人衆
戯れに歌など詠めばひょいと出るその地金のおぞましきことかな
漠然とした不安なんぞで死んでたまるか死ぬわきゃねえぞ芥川
ヘルメットに棍棒握って武装せしわが手が握りし黄色な檸檬
左手に棍棒、右手に檸檬を握り締め佐藤訪ベトを阻止するぞわれ
一夜にして百花落ち一朝にして百花咲けり
わが庵の天井の木に巣食いたる白色腐朽菌夜な夜な増殖す
ある日の午後妻に別れを告げに来し瓦斯屋の青年故郷で縊る
健常の人を生涯妬みつつなお障碍の人とおるかな
嗚呼遂に我が家は40アンペアになりはてぬ25年間30アンプなりしに
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてかの日藤山で捕えしあの岐阜蝶よ
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてわが捕えしギリシアの妖精
にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕らしはうちの健ちゃん
しゃがたんぽぽすみれなのはなちゅーりっぷしろやまぶきけふわがにわにさけるはなばな
お前などに今日もお気持ち爽やかにお過ごしくださいなどど言われたくないわい 与黒田某
新築の大工仕事が減りましたと甥っ子はけなげに耐えて春を待ちおり
一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れてしまった
そよ風は湿生花園を駆け巡り箱根連山雲湧き起こる
紺碧の空の彼方に何がある翔る男にわれもなりたし
一輪草二輪草てふ白き花おなじ姿で寄り添いにけり
空や木や山を冷たく映せる池ありてシュレーゲルカエルしげく鳴きたり
近づけば両の腕大きく空に広げいまわれを抱かんとするシデコブシあり
柔らかきロストビーフ喰らう吾子を見るこれぞわが生涯最良のときかな
シャガールをシャーガルと言うヤクザが出る日本映画をもう一度見たし 於ポーラ美術館
寝んねぐーして死んでしまえればこんな楽なことはない寝んねぐーする
♪俳句は断想であり短歌は私小説である 茫洋
春の宵近江の牛を食べにけり
蟷螂の斧振りかざす春の宵
修道女の瞑想破る太刀嵐
桜花一輪拾いて水に浸す
桜咲く今朝の女の薄化粧
これ鶯 ホ長調で鳴いてみよ
ト短調で歌うなハ長調で歌え
景時の行方はいずこ鯨殿
こんな東京に誰がしたんだと慎太郎言い
人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃
新築減り仕事なくなりし甥っ子の心配す
君、そういうことじゃなくて毎日新しい歌を歌うことだよ、下手くそでもね
流れている水の中ではオタマは育たない子供も同じである
ここからは進入禁止と5人組何事にもタブーはあるぞ
ランクル、オートバイは進入禁止おいらは太刀洗5人衆
戯れに歌など詠めばひょいと出るその地金のおぞましきことかな
漠然とした不安なんぞで死んでたまるか死ぬわきゃねえぞ芥川
ヘルメットに棍棒握って武装せしわが手が握りし黄色な檸檬
左手に棍棒、右手に檸檬を握り締め佐藤訪ベトを阻止するぞわれ
一夜にして百花落ち一朝にして百花咲けり
わが庵の天井の木に巣食いたる白色腐朽菌夜な夜な増殖す
ある日の午後妻に別れを告げに来し瓦斯屋の青年故郷で縊る
健常の人を生涯妬みつつなお障碍の人とおるかな
嗚呼遂に我が家は40アンペアになりはてぬ25年間30アンプなりしに
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてかの日藤山で捕えしあの岐阜蝶よ
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてわが捕えしギリシアの妖精
にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕らしはうちの健ちゃん
しゃがたんぽぽすみれなのはなちゅーりっぷしろやまぶきけふわがにわにさけるはなばな
お前などに今日もお気持ち爽やかにお過ごしくださいなどど言われたくないわい 与黒田某
新築の大工仕事が減りましたと甥っ子はけなげに耐えて春を待ちおり
一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れてしまった
そよ風は湿生花園を駆け巡り箱根連山雲湧き起こる
紺碧の空の彼方に何がある翔る男にわれもなりたし
一輪草二輪草てふ白き花おなじ姿で寄り添いにけり
空や木や山を冷たく映せる池ありてシュレーゲルカエルしげく鳴きたり
近づけば両の腕大きく空に広げいまわれを抱かんとするシデコブシあり
柔らかきロストビーフ喰らう吾子を見るこれぞわが生涯最良のときかな
シャガールをシャーガルと言うヤクザが出る日本映画をもう一度見たし 於ポーラ美術館
寝んねぐーして死んでしまえればこんな楽なことはない寝んねぐーする
♪俳句は断想であり短歌は私小説である 茫洋
Tuesday, April 29, 2008
吉田秀和著「永遠の故郷 夜」を読む
照る日曇る日第120回&♪音楽千夜一夜第34回
朝の授業のために湘南新宿ラインに乗りながら、この本を読んでいた。
小林多喜二がビオラを弾いて著者の母上のピアノとデュオを組んだ話、同じ小樽での年上の女性との初めての接吻、大岡昇平の愛したクリスマスローズの花が吉田邸の庭に植えられていることなど数々のエピソードの花束によって飾られた心に染み入る珠玉の随筆である。
鼓膜の中いっぱいに楽の音が満ち溢れ、泣きたくなるような感動が押し寄せてきたのは、「4つの最後の歌」という短編を読んでいるときだった。
1954年、著者はミュンヘンでこの曲の初演をなんとゲルハルト・ヒッシュと中山悌一に挟まれてリサ・デラ・カーサの独唱、ヨーゼフ・カイルベルトが指揮するミュンヘン・フィルの演奏で聴いたという。ああ、なんという夢のような組み合わせだろう!
「4つの最後の歌」はご存知のようにリヒアルト・シュトラウスの文字通り最後の作品であり、歌曲は世に数々あれど、この本で吉田さんが紹介しているヒューゴー・ヴォルフやブラームスよりも私が愛惜措くあたわざる古今の絶唱である。
著者が評しているように、意識の明確さと幻想の深さ、驚くばかりの輝きと闇が、そして生と死が絡み合う比類のない高みに達した崇高な芸術作品である。
その日そのときの演奏が、時空を超越して吉田さんの心の奥底から突如として沸き起こってくる。そうして私たちはもはや最後の日も遠くないことを自覚している著者とともに、天才作曲家の文字通り最後の4つの挽歌をひとつひとつ聴いていくのである。
第1曲は「春」、第2曲は「9月」、第3曲は「眠りにつくに当たって」はいずれもシュトラウスを憎んでいたヘルマンヘッセの作詞であるが、ナチスに肩入れしていた疑惑の作曲家は、善悪を超越した此岸から彼岸にかかる渡り橋の真ん中で、現世への最後の一瞥をくれたのである。ヘッセもって瞑すべし、ということでもあらうか。
吉田さんは第4曲「夕映えの中で」のアイヘンドルフの原詩を翻訳して示す。
おお、広々と静かな安らぎ、
夕映えの中で かくも深く
私たち 何とさすらいに疲れたことか
もしかしたら、これは、死?
そして変ホ長調、アンダンテ、4分の4拍子で生まれ、最後の15小節で再び変ホ長調に戻って永遠に終息した死と美が共存するこの美しい音楽のスコアを、自らの手で書き写しながら、吉田さんはリルケの詩を思い出すのである。
何故ならば、美は私たちの耐えられる限りでの
恐ろしいものの始まりにほかならないのだから (『ドゥイーノの悲歌』
吉田さんは、なぜ死への憧れを歌う音楽がかくも美しくあるうるのか? 美しくなければならないか? と自問し、次のように答えている。
―なぜならば、これが音楽であるからである。死を目前にしても、音楽を創る人たちとは、死に至るまで、物狂わしいまでに美に憑かれた存在なのである。そうして、美は目標ではなく、副産物にほかならないのである。彼らは生き、働き、そうして死んだ。そのあとに「美」が残った。美はその過程の中で生まれてきたあるものでしかない。(中略)セザンヌ最晩年の農夫の肖像を見るがいい。彼を囲んで黄と緑と深い青と濃い茶の光と闇とが入り混じり、音もなく燃えている。セザンヌは何を描いたのか?「もしかしたら、これが死?」
というところで、吉田さんの筆は突然書くことをやめ、それから私の心の中であの懐かしいIm Abendrotの演奏が鳴り響いたのだった。
おかげで私の講義は無残なものだった。しかし、音楽について語る数ページが、その音楽そのものを、無上のよろこびと無限のかなしみとを2つながらに伴いながら、オケと歌手と指揮者もなしに、私の魂の中でいきいきと立ち上がらせるとは、なんという書き手であることか!
「あとがき」のなかで吉田さんは、「歌曲とは心の歌にほかならない」とハイネの言葉を訳しているが、「永遠の故郷 夜」というこの本自体も、隅から隅まで吉田さんの「心の歌」にほかならないのである。
漠然とした不安なんぞで死んでたまるか死ぬわきゃねえぞ芥川 亡羊
朝の授業のために湘南新宿ラインに乗りながら、この本を読んでいた。
小林多喜二がビオラを弾いて著者の母上のピアノとデュオを組んだ話、同じ小樽での年上の女性との初めての接吻、大岡昇平の愛したクリスマスローズの花が吉田邸の庭に植えられていることなど数々のエピソードの花束によって飾られた心に染み入る珠玉の随筆である。
鼓膜の中いっぱいに楽の音が満ち溢れ、泣きたくなるような感動が押し寄せてきたのは、「4つの最後の歌」という短編を読んでいるときだった。
1954年、著者はミュンヘンでこの曲の初演をなんとゲルハルト・ヒッシュと中山悌一に挟まれてリサ・デラ・カーサの独唱、ヨーゼフ・カイルベルトが指揮するミュンヘン・フィルの演奏で聴いたという。ああ、なんという夢のような組み合わせだろう!
「4つの最後の歌」はご存知のようにリヒアルト・シュトラウスの文字通り最後の作品であり、歌曲は世に数々あれど、この本で吉田さんが紹介しているヒューゴー・ヴォルフやブラームスよりも私が愛惜措くあたわざる古今の絶唱である。
著者が評しているように、意識の明確さと幻想の深さ、驚くばかりの輝きと闇が、そして生と死が絡み合う比類のない高みに達した崇高な芸術作品である。
その日そのときの演奏が、時空を超越して吉田さんの心の奥底から突如として沸き起こってくる。そうして私たちはもはや最後の日も遠くないことを自覚している著者とともに、天才作曲家の文字通り最後の4つの挽歌をひとつひとつ聴いていくのである。
第1曲は「春」、第2曲は「9月」、第3曲は「眠りにつくに当たって」はいずれもシュトラウスを憎んでいたヘルマンヘッセの作詞であるが、ナチスに肩入れしていた疑惑の作曲家は、善悪を超越した此岸から彼岸にかかる渡り橋の真ん中で、現世への最後の一瞥をくれたのである。ヘッセもって瞑すべし、ということでもあらうか。
吉田さんは第4曲「夕映えの中で」のアイヘンドルフの原詩を翻訳して示す。
おお、広々と静かな安らぎ、
夕映えの中で かくも深く
私たち 何とさすらいに疲れたことか
もしかしたら、これは、死?
そして変ホ長調、アンダンテ、4分の4拍子で生まれ、最後の15小節で再び変ホ長調に戻って永遠に終息した死と美が共存するこの美しい音楽のスコアを、自らの手で書き写しながら、吉田さんはリルケの詩を思い出すのである。
何故ならば、美は私たちの耐えられる限りでの
恐ろしいものの始まりにほかならないのだから (『ドゥイーノの悲歌』
吉田さんは、なぜ死への憧れを歌う音楽がかくも美しくあるうるのか? 美しくなければならないか? と自問し、次のように答えている。
―なぜならば、これが音楽であるからである。死を目前にしても、音楽を創る人たちとは、死に至るまで、物狂わしいまでに美に憑かれた存在なのである。そうして、美は目標ではなく、副産物にほかならないのである。彼らは生き、働き、そうして死んだ。そのあとに「美」が残った。美はその過程の中で生まれてきたあるものでしかない。(中略)セザンヌ最晩年の農夫の肖像を見るがいい。彼を囲んで黄と緑と深い青と濃い茶の光と闇とが入り混じり、音もなく燃えている。セザンヌは何を描いたのか?「もしかしたら、これが死?」
というところで、吉田さんの筆は突然書くことをやめ、それから私の心の中であの懐かしいIm Abendrotの演奏が鳴り響いたのだった。
おかげで私の講義は無残なものだった。しかし、音楽について語る数ページが、その音楽そのものを、無上のよろこびと無限のかなしみとを2つながらに伴いながら、オケと歌手と指揮者もなしに、私の魂の中でいきいきと立ち上がらせるとは、なんという書き手であることか!
「あとがき」のなかで吉田さんは、「歌曲とは心の歌にほかならない」とハイネの言葉を訳しているが、「永遠の故郷 夜」というこの本自体も、隅から隅まで吉田さんの「心の歌」にほかならないのである。
漠然とした不安なんぞで死んでたまるか死ぬわきゃねえぞ芥川 亡羊
Monday, April 28, 2008
トルーマン・カポーティ著「ティファニーで朝食を」読む
照る日曇る日第119回
イカの次はなぜか宝石である。
私はいまのところオードリー・ヘプバーンの「ローマの休日」という映画がいちばん好きで、グレゴリーペックとの別れのシーンを見るたびに嗚咽せざるを得ない人なのだが、そんな素敵な映画に主演したヘプバーンが出ているというのでついでに「ティファニーで朝食を」という映画を見たら、それは「ローマの休日」には及びもつかない奇妙な映画で、まあ失敗作といってもいいのだろうが、ゆいいつアパートの窓辺でヘンリー・マンシーニの「ムーンリバー」をギターで弾き語りする小鹿のバンビのようなオードリーの可憐な声と姿だけが記憶に留められた。
「ティファニーで朝食を」の原作がトルーマン・カポーティというアメリカの人気作家の小説であるということは知っていたが、最近私はいまごろになって村上春樹の翻訳で初めてこれを読んだ。するとこれが思いのほかに面白かった。じつにうまく書かれた小説であった。
マンハッタン中の男どもの魂をわしづかみにしたこの小説の女主人公ホリー・ゴライトリーの天衣無縫の魅力は、当たり前の話だが原作のなかでは光彩陸離と輝き渡っている。しかし映画のなかでは、小鹿バンビオードリーがそれなりにファニーであるだけで、それ以外にはなにもない映画といってもけっして過言ではない。
原作のなかでのカポーティは、なぜかフィッツジェラルドやへミングウエイにも似ている。手を伸ばせば届きそうなところにある宝石を心の奥底で追い求めながらもついに手中に収めることのできない男の悲しみの物語が切ないまでにリアルに描き出されている。
それでうれしくなって「ティファニーで朝食を」と一緒に収められている「花盛りの家」「ダイアモンドのギター」「クリスマスの思い出」という3本の短編も読んでみたら、これが「ティファニーで朝食を」よりもよく出来た小説だったのでまた驚いた。
この調子なら昔途中で投げ出したこの人の「冷血」とか「遠い声、遠い部屋」も読みとおせるかもしれない。
もっとも「ティファニーで朝食を」とるというフレーズは、小説のなかではなにがなくほんの1小節しか演奏されていないのに、それをタイトルにしたのは不可解である。ティファニーからタイアップ料金をもらっていたからではないかとさえかんぐられるが、この題名であればこその大ヒットであったのかもしれない。
♪寝んねぐーして死んでしまえればこんな楽なことはない寝んねぐーする 亡羊
イカの次はなぜか宝石である。
私はいまのところオードリー・ヘプバーンの「ローマの休日」という映画がいちばん好きで、グレゴリーペックとの別れのシーンを見るたびに嗚咽せざるを得ない人なのだが、そんな素敵な映画に主演したヘプバーンが出ているというのでついでに「ティファニーで朝食を」という映画を見たら、それは「ローマの休日」には及びもつかない奇妙な映画で、まあ失敗作といってもいいのだろうが、ゆいいつアパートの窓辺でヘンリー・マンシーニの「ムーンリバー」をギターで弾き語りする小鹿のバンビのようなオードリーの可憐な声と姿だけが記憶に留められた。
「ティファニーで朝食を」の原作がトルーマン・カポーティというアメリカの人気作家の小説であるということは知っていたが、最近私はいまごろになって村上春樹の翻訳で初めてこれを読んだ。するとこれが思いのほかに面白かった。じつにうまく書かれた小説であった。
マンハッタン中の男どもの魂をわしづかみにしたこの小説の女主人公ホリー・ゴライトリーの天衣無縫の魅力は、当たり前の話だが原作のなかでは光彩陸離と輝き渡っている。しかし映画のなかでは、小鹿バンビオードリーがそれなりにファニーであるだけで、それ以外にはなにもない映画といってもけっして過言ではない。
原作のなかでのカポーティは、なぜかフィッツジェラルドやへミングウエイにも似ている。手を伸ばせば届きそうなところにある宝石を心の奥底で追い求めながらもついに手中に収めることのできない男の悲しみの物語が切ないまでにリアルに描き出されている。
それでうれしくなって「ティファニーで朝食を」と一緒に収められている「花盛りの家」「ダイアモンドのギター」「クリスマスの思い出」という3本の短編も読んでみたら、これが「ティファニーで朝食を」よりもよく出来た小説だったのでまた驚いた。
この調子なら昔途中で投げ出したこの人の「冷血」とか「遠い声、遠い部屋」も読みとおせるかもしれない。
もっとも「ティファニーで朝食を」とるというフレーズは、小説のなかではなにがなくほんの1小節しか演奏されていないのに、それをタイトルにしたのは不可解である。ティファニーからタイアップ料金をもらっていたからではないかとさえかんぐられるが、この題名であればこその大ヒットであったのかもしれない。
♪寝んねぐーして死んでしまえればこんな楽なことはない寝んねぐーする 亡羊
Saturday, April 26, 2008
中沢新一・波多野一郎著「イカの哲学」を読む
照る日曇る日第119回
チョウの続きは、イカの話である。
「ある丹波の老人の物語」の主人公がその生涯で最も大きな影響を受けた偉大な実業家にして宗教家、それが郡是を創業したクリスチャンの波多野鶴吉であったが、本書はその翁の孫である波多野一郎氏の遺著「イカの哲学」を再発見した中沢新一による絶対平和論への試みの書である。
特攻隊の生き残りで戦後ソ連の炭鉱で4年間の強制労働に従事した波多野氏は、米国スタンフォード大学でプラグマティズムを学んだ在野の哲学者であった。そして氏は大学の夏休みにカリフォルニアの風光明媚なモントレーの海(私の懐かしき曾遊の地、あんな土地に住んでみたいものだ)で取れたイカの冷凍加工アルバイトをしながら彼独自の生命哲学を体得するのであるが、著者は彼の「イカの哲学」の中に人間のみならずイカやさまざまな動植物の生命価値をヒトと同等に尊重する絶対平等絶対平和の思想を見出し、それが21世紀の人類と地球の運命を変える可能性を秘めていると説くのである。
せんじつめれば、人間中心主義による通常の平和論では人間の遺伝子に内蔵された戦争を発現せざるを得ないが、「イカ中心主義」に立脚し、知性と生命あるものすべてが、生ある森羅万象の生命の実存のかけがえのなさを体得すれば、戦争を不可能にする契機を見出すこともあながち不可能ではない、というのが波多野哲学のいちばん大切なポイントではないかと私は思った。
基本的には金子みすゞの「大漁」や宮沢賢治の「ヨダカの星」「銀河鉄道の夜」の世界に通底する大悲・大慈の思想ではないだろうか。
朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ
はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう
この金子みすゞの視点である。
油の乗り切った当代一流の思想家が、ジョルジュ・バタイユのエロチシズム論を引用したり、生物学の知見やら卓抜な比喩や飛躍など次々にお得意の知的な装置を繰り出して、波多野氏の簡潔な著作を重層的に深読みしていく手際はあざやかだ。
けれども、中沢ファンとして人後におちないと自負するわたしではあったが、あまりにも性急かつ激烈で我田引水が過ぎるように感じられる彼の熱弁に耳を傾けているうちに、重い主題をわざと軽やかに取り扱い、絶妙なユーモアとウイットのセンスを生かした原著者の熟した心根がどこかでおいてけぼりにされているような気持にさえなってしまったのは自分でも思いがけないことだった。
♪しゃがたんぽぽすみれなのはなちゅーりっぷしろやまぶきけふわがにわにさけるはなばな 亡羊
チョウの続きは、イカの話である。
「ある丹波の老人の物語」の主人公がその生涯で最も大きな影響を受けた偉大な実業家にして宗教家、それが郡是を創業したクリスチャンの波多野鶴吉であったが、本書はその翁の孫である波多野一郎氏の遺著「イカの哲学」を再発見した中沢新一による絶対平和論への試みの書である。
特攻隊の生き残りで戦後ソ連の炭鉱で4年間の強制労働に従事した波多野氏は、米国スタンフォード大学でプラグマティズムを学んだ在野の哲学者であった。そして氏は大学の夏休みにカリフォルニアの風光明媚なモントレーの海(私の懐かしき曾遊の地、あんな土地に住んでみたいものだ)で取れたイカの冷凍加工アルバイトをしながら彼独自の生命哲学を体得するのであるが、著者は彼の「イカの哲学」の中に人間のみならずイカやさまざまな動植物の生命価値をヒトと同等に尊重する絶対平等絶対平和の思想を見出し、それが21世紀の人類と地球の運命を変える可能性を秘めていると説くのである。
せんじつめれば、人間中心主義による通常の平和論では人間の遺伝子に内蔵された戦争を発現せざるを得ないが、「イカ中心主義」に立脚し、知性と生命あるものすべてが、生ある森羅万象の生命の実存のかけがえのなさを体得すれば、戦争を不可能にする契機を見出すこともあながち不可能ではない、というのが波多野哲学のいちばん大切なポイントではないかと私は思った。
基本的には金子みすゞの「大漁」や宮沢賢治の「ヨダカの星」「銀河鉄道の夜」の世界に通底する大悲・大慈の思想ではないだろうか。
朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ
はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう
この金子みすゞの視点である。
油の乗り切った当代一流の思想家が、ジョルジュ・バタイユのエロチシズム論を引用したり、生物学の知見やら卓抜な比喩や飛躍など次々にお得意の知的な装置を繰り出して、波多野氏の簡潔な著作を重層的に深読みしていく手際はあざやかだ。
けれども、中沢ファンとして人後におちないと自負するわたしではあったが、あまりにも性急かつ激烈で我田引水が過ぎるように感じられる彼の熱弁に耳を傾けているうちに、重い主題をわざと軽やかに取り扱い、絶妙なユーモアとウイットのセンスを生かした原著者の熟した心根がどこかでおいてけぼりにされているような気持にさえなってしまったのは自分でも思いがけないことだった。
♪しゃがたんぽぽすみれなのはなちゅーりっぷしろやまぶきけふわがにわにさけるはなばな 亡羊
Friday, April 25, 2008
日高敏隆著「チョウはなぜ飛ぶか」を読む
照る日曇る日第118回
私は昔からチョウが好きだった。私自身やあまたの人間どもよりもずっとずっと好きだったし、その思いは近年ますます強まってくるばかりだ。
そしてたまたまこの本を手にとってみると、普段自分がいかに自分自身にとってどうでもいい種類の書物に惰性で目を晒し続けて貴重な生の時間を無駄にし続けているのかが痛感される。
さて本書である。奇妙なことには表題の「なぜ飛ぶか」という問いに対する答えはまったく書かれていないが、チョウがなぜ一定の道、「チョウ道」を飛ぶのかという問題への相次ぐまっすぐな問いかけとその問いに対する実験と考察、その動物行動学の試行錯誤が元昆虫少年のつぶらな瞳で一瀉千里に書かれていて気持ちがいい。
私は「チョウ道」はすべてのチョウにあると思っていたが、実際はキアゲハを除くアゲハ類にだけそれがあると著者は言う。ヨーロッパの代表的なアゲハはキアゲハなので、かの地にはチョウ道が存在しないというのも初耳だった。(しかしいま私がもっとも関心を懐いているタテハチョウのそれについてまったく触れていないのは残念至極である)
チョウの雌雄の見分け方についても驚くべき報告がなされている。
モンシロチョウのオスは、人間には識別不可能な黄色と紫外線の混ざった色でメスを直ちに見分けるのであるが、アゲハチョウのオスはメスの黄色と黒のストライプがめじるしになり、それを目にするや否やオスは突進を開始し、(その軌跡が「アゲハのチョウ道」となるのであるが)いざ接近してもそれが目指すメスであるかはたまたライバルのオスであるかはまだ分からないので、まずは触手でさわってみる。黙って触ればぴたりと雌雄が分かる、というところまでは分かったというのである。
ゴキブリなども触手でにおいがわかるので、アゲハもにおいで雌雄を弁別しているのであろうということになる。
ところが、最後にアゲハチョウのメスの産卵のめじるしの実験で、それまで成功裏に着実に積み重ねられてきた研究成果がすべてご破算となり、著者自らが途方に暮れてしまうところで唐突に記述が終わってしまう。
仮説を次々に立ててそれを実験によって証明し、また新たな仮説→実験→証明へと破竹の前進を遂げてきた「チョウ道」学であったが、いくつかの実験結果が矛盾していたために「なにがなんだかわからなくなってしまった」と著者は正直にいうのである。
そして「成功ばかりではなく失敗のプロセスをすべて公開するのも科学の道である」と述べているが、そのことが書物として、生きた科学の記述として、あるいは人生の蹉跌の象徴としても、まことにいさぎよく感動的な本である。
♪一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れておった 亡羊
私は昔からチョウが好きだった。私自身やあまたの人間どもよりもずっとずっと好きだったし、その思いは近年ますます強まってくるばかりだ。
そしてたまたまこの本を手にとってみると、普段自分がいかに自分自身にとってどうでもいい種類の書物に惰性で目を晒し続けて貴重な生の時間を無駄にし続けているのかが痛感される。
さて本書である。奇妙なことには表題の「なぜ飛ぶか」という問いに対する答えはまったく書かれていないが、チョウがなぜ一定の道、「チョウ道」を飛ぶのかという問題への相次ぐまっすぐな問いかけとその問いに対する実験と考察、その動物行動学の試行錯誤が元昆虫少年のつぶらな瞳で一瀉千里に書かれていて気持ちがいい。
私は「チョウ道」はすべてのチョウにあると思っていたが、実際はキアゲハを除くアゲハ類にだけそれがあると著者は言う。ヨーロッパの代表的なアゲハはキアゲハなので、かの地にはチョウ道が存在しないというのも初耳だった。(しかしいま私がもっとも関心を懐いているタテハチョウのそれについてまったく触れていないのは残念至極である)
チョウの雌雄の見分け方についても驚くべき報告がなされている。
モンシロチョウのオスは、人間には識別不可能な黄色と紫外線の混ざった色でメスを直ちに見分けるのであるが、アゲハチョウのオスはメスの黄色と黒のストライプがめじるしになり、それを目にするや否やオスは突進を開始し、(その軌跡が「アゲハのチョウ道」となるのであるが)いざ接近してもそれが目指すメスであるかはたまたライバルのオスであるかはまだ分からないので、まずは触手でさわってみる。黙って触ればぴたりと雌雄が分かる、というところまでは分かったというのである。
ゴキブリなども触手でにおいがわかるので、アゲハもにおいで雌雄を弁別しているのであろうということになる。
ところが、最後にアゲハチョウのメスの産卵のめじるしの実験で、それまで成功裏に着実に積み重ねられてきた研究成果がすべてご破算となり、著者自らが途方に暮れてしまうところで唐突に記述が終わってしまう。
仮説を次々に立ててそれを実験によって証明し、また新たな仮説→実験→証明へと破竹の前進を遂げてきた「チョウ道」学であったが、いくつかの実験結果が矛盾していたために「なにがなんだかわからなくなってしまった」と著者は正直にいうのである。
そして「成功ばかりではなく失敗のプロセスをすべて公開するのも科学の道である」と述べているが、そのことが書物として、生きた科学の記述として、あるいは人生の蹉跌の象徴としても、まことにいさぎよく感動的な本である。
♪一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れておった 亡羊
Thursday, April 24, 2008
日本と中国の今昔 鐘江宏之著「律令国家と万葉人」を読んで
照る日曇る日第117回
前回に触れたように、本書のテーマは倭と中国、日本と中国の濃密な関係である。
全体的には当初朝鮮半島の百済、新羅、高句麗の影響を受けていた当時の倭、後の日本が、701年に制定された大宝律令の頃から次第に東アジアの先進国である中国のダイレクトな影響下におかれ、政治・経済・社会のみならず都市づくりや生活文化のすべての面で積極的に模倣していくプロセスが描かれているが、まことに歴史は3度くらいは平気で繰り返すものであり、本書がこれからのわが国の行く末を示唆しているよう気がして思いは複雑である。
遣唐使などという制度にしても、もちろん留学生が先進国に学びに行くのであるが、本当の目的は20年に一度の朝貢外交であったことを忘れてはいけない。
天平勝宝の遣唐使が元日朝賀に参列したとき、日本の席順が新羅、吐蕃(チベット)、大食(イスラム帝国)の次であった。そこでわが副使の大伴古麻呂が当時わが国に朝貢していた新羅が上位にあることは受け入れ難しと唐に猛烈に抗議した結果、新羅の外交官が席を譲ってくれたために面目を保ったそうだが、世界最大のグローバル唐帝国における当時のわが国のポジションを微妙かつ悲喜劇的に示す逸話として興味深い。私の目にはこのプライド高い外交官、大伴古麻呂は国際連盟を脱退した松岡外相にほぼ重なる。
また現在オリンピックのみならず、政治、経済、軍事各界で大活躍の中国も、かつてのおのれがチベットをどのように厚遇していたのかを、静かに胸に手を当てて思い出してほしいものである。
しかし日本という国は古来けっして排外主義には侵されておらず、百済、任那、高句麗、新羅などからのあまたの渡来人たちを積極的に受け入れ、平和的に共存を図った。桓武天皇の27人の皇妃のうち6人が渡来人であり、ここから東漢氏、坂上氏、百済王氏などの政治的貴族が輩出したのみならず、私の郷里の先住民である秦氏など衣食住、生活文化全体をリードする無数の高等技能集団を全国に帰化させたのである。
♪紺碧の空の彼方に何がある翔る男にわれもなりたし 亡羊
前回に触れたように、本書のテーマは倭と中国、日本と中国の濃密な関係である。
全体的には当初朝鮮半島の百済、新羅、高句麗の影響を受けていた当時の倭、後の日本が、701年に制定された大宝律令の頃から次第に東アジアの先進国である中国のダイレクトな影響下におかれ、政治・経済・社会のみならず都市づくりや生活文化のすべての面で積極的に模倣していくプロセスが描かれているが、まことに歴史は3度くらいは平気で繰り返すものであり、本書がこれからのわが国の行く末を示唆しているよう気がして思いは複雑である。
遣唐使などという制度にしても、もちろん留学生が先進国に学びに行くのであるが、本当の目的は20年に一度の朝貢外交であったことを忘れてはいけない。
天平勝宝の遣唐使が元日朝賀に参列したとき、日本の席順が新羅、吐蕃(チベット)、大食(イスラム帝国)の次であった。そこでわが副使の大伴古麻呂が当時わが国に朝貢していた新羅が上位にあることは受け入れ難しと唐に猛烈に抗議した結果、新羅の外交官が席を譲ってくれたために面目を保ったそうだが、世界最大のグローバル唐帝国における当時のわが国のポジションを微妙かつ悲喜劇的に示す逸話として興味深い。私の目にはこのプライド高い外交官、大伴古麻呂は国際連盟を脱退した松岡外相にほぼ重なる。
また現在オリンピックのみならず、政治、経済、軍事各界で大活躍の中国も、かつてのおのれがチベットをどのように厚遇していたのかを、静かに胸に手を当てて思い出してほしいものである。
しかし日本という国は古来けっして排外主義には侵されておらず、百済、任那、高句麗、新羅などからのあまたの渡来人たちを積極的に受け入れ、平和的に共存を図った。桓武天皇の27人の皇妃のうち6人が渡来人であり、ここから東漢氏、坂上氏、百済王氏などの政治的貴族が輩出したのみならず、私の郷里の先住民である秦氏など衣食住、生活文化全体をリードする無数の高等技能集団を全国に帰化させたのである。
♪紺碧の空の彼方に何がある翔る男にわれもなりたし 亡羊
Wednesday, April 23, 2008
Sunday, April 20, 2008
倭から日本へ 鐘江宏之著「律令国家と万葉人」を読んで
照る日曇る日第116回&ふあっちょん幻論第19回
小学館から出ている「日本の歴史」シリーズの第3巻飛鳥・奈良時代編であるが、先の2巻と同様最新の学説や知見が随所に盛りこまれており、なかなか勉強になる。
本書では、5世紀から8世紀までの倭と日本の歴史を振り返りながら、特に中国との相関関係についてくわしく述べている。
例えば国家権力にとって重要な人民の時間管理の道具である暦にしても、百済経由の中国暦の丸投げが長い間使用され、日本が独自の暦を持つのは17世紀末の渋川春海による貞享暦の完成を待たなければならなかった。
判子も中国の文化で、日本がこれを体系的に導入したのは、邪馬台国から500年近く遅れてであったという。それが平成のいまになっても存続していることに驚くほかはない。
7世紀の後半の白鳳時代になると、飛鳥時代に朝鮮半島を経由して中国から移入された仏教が隆盛し、地方の豪族たちは郡家と寺院をセットで建立することに血道をあげるようになる。仏教は宗教のみならず当時の最新先端知識や科学技術を満載した総合文化であったから、彼らはその受け皿としての寺院を用意せざるをえなかったのである。
火葬もこの頃の仏教ブームに伴って行なわれるようになり、大宝2年702年、持統太上天皇がはじめて彼女の意志でこれを敢行した。
ファッションについても中国の影響が大きく、パリやミラノやニューヨークではなく、唐風アラモードがおしゃれなスノッブたちを圧倒的にリードした。
大宝律令における位階と服制もこの唐風を全人民に強制しており、当時の人々が上着を左前にして着ていたのを唐風の右前にしようとしたが、なかなか定着しなかったそうだ。
当時の人々は麻布製の下着と上着をいずれも2ピースで男女とも身につけ、季節に応じて重ね着していたようだが、それまでの国風のステテコのようなボトムを、中国風の袴に変更せよとの大宝律令の通達に対しても抵抗があったようである。
このように7世紀まで朝鮮半島を向いていた倭人たちの意識は、大宝律令の施行と同時にいっせいに中国標準に切り替えられ、すべてにおいて中国を視野に収めたグローバルな世界観が確立していった。
倭が日本へと変身したのは8世紀の初頭で、ちょうど「日本書紀」が編纂されていた国史創生の時代である。7世紀における東アジアの激動が、倭の国家整備をうながし、その過程で芽生えた国家意識が、日本という国号を誕生させたのである。
ある日の午後妻に別れを告げに来し瓦斯屋の青年故郷で縊る 亡羊
小学館から出ている「日本の歴史」シリーズの第3巻飛鳥・奈良時代編であるが、先の2巻と同様最新の学説や知見が随所に盛りこまれており、なかなか勉強になる。
本書では、5世紀から8世紀までの倭と日本の歴史を振り返りながら、特に中国との相関関係についてくわしく述べている。
例えば国家権力にとって重要な人民の時間管理の道具である暦にしても、百済経由の中国暦の丸投げが長い間使用され、日本が独自の暦を持つのは17世紀末の渋川春海による貞享暦の完成を待たなければならなかった。
判子も中国の文化で、日本がこれを体系的に導入したのは、邪馬台国から500年近く遅れてであったという。それが平成のいまになっても存続していることに驚くほかはない。
7世紀の後半の白鳳時代になると、飛鳥時代に朝鮮半島を経由して中国から移入された仏教が隆盛し、地方の豪族たちは郡家と寺院をセットで建立することに血道をあげるようになる。仏教は宗教のみならず当時の最新先端知識や科学技術を満載した総合文化であったから、彼らはその受け皿としての寺院を用意せざるをえなかったのである。
火葬もこの頃の仏教ブームに伴って行なわれるようになり、大宝2年702年、持統太上天皇がはじめて彼女の意志でこれを敢行した。
ファッションについても中国の影響が大きく、パリやミラノやニューヨークではなく、唐風アラモードがおしゃれなスノッブたちを圧倒的にリードした。
大宝律令における位階と服制もこの唐風を全人民に強制しており、当時の人々が上着を左前にして着ていたのを唐風の右前にしようとしたが、なかなか定着しなかったそうだ。
当時の人々は麻布製の下着と上着をいずれも2ピースで男女とも身につけ、季節に応じて重ね着していたようだが、それまでの国風のステテコのようなボトムを、中国風の袴に変更せよとの大宝律令の通達に対しても抵抗があったようである。
このように7世紀まで朝鮮半島を向いていた倭人たちの意識は、大宝律令の施行と同時にいっせいに中国標準に切り替えられ、すべてにおいて中国を視野に収めたグローバルな世界観が確立していった。
倭が日本へと変身したのは8世紀の初頭で、ちょうど「日本書紀」が編纂されていた国史創生の時代である。7世紀における東アジアの激動が、倭の国家整備をうながし、その過程で芽生えた国家意識が、日本という国号を誕生させたのである。
ある日の午後妻に別れを告げに来し瓦斯屋の青年故郷で縊る 亡羊
Saturday, April 19, 2008
職人気質
♪バガテルop54
しばらく前にキッチンを修理し、去年は自宅の北側の壁が腐りかけていたのでトイレと一緒に修理し、やれやれこれで終わりかと乏しくなった財布の底をながめてため息をつきながらもほっとしていたら、今度は便所の隣の浴室のねだが腐っていることが判明したので、善は急げ?とばかりにほとんどやけくそになって今年の冬にリフォームした。
おかげで最新式の浴槽が導入され、洗面所の採光も改善され、それなりに平成モダンライフ?の快適さをエンジョイすることができると一安心したんのもつかの間、またしても2階二回の天井裏に葡萄状連鎖状球菌ならぬ白色腐朽菌というのが繁殖していることが判明、いずれは屋根のてっぺえんを切開して修理する必要が生じた。
まったくいつまで続くぬかるみぞ、といったところだが、それはともかくとして私が再認識したのはわが国の大工さんやペンキ屋さんや経師屋さんや電気屋さんやその他もろもろの職人さんの腕の冴え、技術の素晴らしさである。
古くて狭くて具合の悪いところをいとこたやすくすいすいと直してしまう。もちろんそれがプロの職人芸と言ってしまえば実も蓋もないが、それはおそらくわが国の昔からの良き伝統であり、民族の身体性に付与された特性であり、諸外国の職人さんと比べても抜群の器用さであるに違いない。
彼らは朝から働き、10時に小休止し、正午に昼食をとって車の中などで午睡し、1時から3時まで働いてまた一休みして夕方まで働き続けるのだが、傍から見ているとこれが一日の労働に最も適した時間割であるということが良く分かる。
単調で過酷な労働であるからおやつに甘いものを出すと喜んでみな食べてくれる。しかし「トイレをどうぞ自由に使ってください」と勧めても、固辞してほとんど用を足さない職人が多いのは、古来そういうしつけをされてきたからであろうか。
いずれにしても非常に不器用でなにひとつ修理できない私にとっては、日本のホモ・ファーベルのありがたさ、素晴らしさを見せつけられたあほばかホモ・ルーデンスの2週間だった。
♪新築の大工仕事が減りましたと甥っ子はけなげに耐えて春を待ちおり 亡羊
しばらく前にキッチンを修理し、去年は自宅の北側の壁が腐りかけていたのでトイレと一緒に修理し、やれやれこれで終わりかと乏しくなった財布の底をながめてため息をつきながらもほっとしていたら、今度は便所の隣の浴室のねだが腐っていることが判明したので、善は急げ?とばかりにほとんどやけくそになって今年の冬にリフォームした。
おかげで最新式の浴槽が導入され、洗面所の採光も改善され、それなりに平成モダンライフ?の快適さをエンジョイすることができると一安心したんのもつかの間、またしても2階二回の天井裏に葡萄状連鎖状球菌ならぬ白色腐朽菌というのが繁殖していることが判明、いずれは屋根のてっぺえんを切開して修理する必要が生じた。
まったくいつまで続くぬかるみぞ、といったところだが、それはともかくとして私が再認識したのはわが国の大工さんやペンキ屋さんや経師屋さんや電気屋さんやその他もろもろの職人さんの腕の冴え、技術の素晴らしさである。
古くて狭くて具合の悪いところをいとこたやすくすいすいと直してしまう。もちろんそれがプロの職人芸と言ってしまえば実も蓋もないが、それはおそらくわが国の昔からの良き伝統であり、民族の身体性に付与された特性であり、諸外国の職人さんと比べても抜群の器用さであるに違いない。
彼らは朝から働き、10時に小休止し、正午に昼食をとって車の中などで午睡し、1時から3時まで働いてまた一休みして夕方まで働き続けるのだが、傍から見ているとこれが一日の労働に最も適した時間割であるということが良く分かる。
単調で過酷な労働であるからおやつに甘いものを出すと喜んでみな食べてくれる。しかし「トイレをどうぞ自由に使ってください」と勧めても、固辞してほとんど用を足さない職人が多いのは、古来そういうしつけをされてきたからであろうか。
いずれにしても非常に不器用でなにひとつ修理できない私にとっては、日本のホモ・ファーベルのありがたさ、素晴らしさを見せつけられたあほばかホモ・ルーデンスの2週間だった。
♪新築の大工仕事が減りましたと甥っ子はけなげに耐えて春を待ちおり 亡羊
Friday, April 18, 2008
続「大江広元の墓」の謎
鎌倉ちょっと不思議な物語114回
「十二所地誌新稿」にまたまたいう。
明治初年、地制改革のときは、わが十二所村の名主は啓左衛門翁であった。
山林、田畑の実測に役人が来るというので、村人はまた大江広元公の墓が見つかるとうるさいからと、若衆たちが集まって墓をひっくり返しに行ったという話が残っている。
その証拠にはしばらくは浄明寺胡桃谷に笠石(五輪塔の上部)が落ちていたというのである。その後石はぜんぶ元の山の頂に運び上げて造立しなおし、当時のままに復元してある、と書かれているのが写真の五輪塔である。
その現物を見てもわかるように、700年の星霜を経て文字は消えている。しかしこのあたりに住宅が立ち並ぶ「しばらく前までは、胡桃山の頂上に大きな石塔があるのが村人にはよく見えた」とあるからには、私が想像したとおり、この場所に墓を作れと命じたのは、麓の屋敷に住む大江広元自身であるに違いない。
さらに「十二所地誌新稿」に、「塔から少し下ると谷あいの窪みを地ならしして一畝ばかりの平地がある。たぶん持仏堂でもあったと思われる一隅に、石を切り開いた所か塚のごときものがあるが、これが果たして広元公のものと関係ありやなしや」
と書かれているのがもうひとつの写真である。現在小さな稲荷の社に成り果てているが、それは近世の事であり、私の想像では、これも鎌倉時代に大江広元を祭った場所に違いない。
♪春の宵近江の牛を食べにけり 亡羊
「十二所地誌新稿」にまたまたいう。
明治初年、地制改革のときは、わが十二所村の名主は啓左衛門翁であった。
山林、田畑の実測に役人が来るというので、村人はまた大江広元公の墓が見つかるとうるさいからと、若衆たちが集まって墓をひっくり返しに行ったという話が残っている。
その証拠にはしばらくは浄明寺胡桃谷に笠石(五輪塔の上部)が落ちていたというのである。その後石はぜんぶ元の山の頂に運び上げて造立しなおし、当時のままに復元してある、と書かれているのが写真の五輪塔である。
その現物を見てもわかるように、700年の星霜を経て文字は消えている。しかしこのあたりに住宅が立ち並ぶ「しばらく前までは、胡桃山の頂上に大きな石塔があるのが村人にはよく見えた」とあるからには、私が想像したとおり、この場所に墓を作れと命じたのは、麓の屋敷に住む大江広元自身であるに違いない。
さらに「十二所地誌新稿」に、「塔から少し下ると谷あいの窪みを地ならしして一畝ばかりの平地がある。たぶん持仏堂でもあったと思われる一隅に、石を切り開いた所か塚のごときものがあるが、これが果たして広元公のものと関係ありやなしや」
と書かれているのがもうひとつの写真である。現在小さな稲荷の社に成り果てているが、それは近世の事であり、私の想像では、これも鎌倉時代に大江広元を祭った場所に違いない。
♪春の宵近江の牛を食べにけり 亡羊
Thursday, April 17, 2008
荒岱介著「新左翼とは何だったのか」を読んで
照る日曇る日第115回
60年代の終わりからから80年代の前半までわが国の政治、社会に影響を及ぼした新左翼の活動を、第2次ブント社会主義学生同盟委員長で三里塚や東大安田講堂占拠闘争で3年有余下獄した著者が“できるだけ客観的に”振り返っている。
私は当時ノンポリの学生ではあったが、彼らのシンパとしていくつかの局面でデモやストライキに参加していたので、おおよそのことは理解していたつもりであるが、自治会や生協・サークル活動とそれに付随して党派に流入する莫大な闘争資金のからくり、明治大学自治会と生協の崩壊の顛末などまるで知らないことも多かった。
しかしなにせ権力やライバルの党派と決死の覚悟でわたりあった張本人が語り部であるから、その客観性もたえず強烈な主観性によって揺さぶられる。
1967年10月8日の昼前のこと、
左手に棍棒、右手に檸檬を握り締め佐藤訪ベトを阻止するぞわれ
という気分で隊列を組んだ私らが羽田空港に向かっていたちょうどその頃、著者は、首都高一号羽田線鈴が森ランプで倒れた機動隊員を、高速道路の下に落とそうと持ち上げていた。
「彼は激しく抵抗、そのとき、後ろから駆けてきた女子学生が『やめてください! そんなことをしたらアメリカ帝国主義と同じじゃないですか』と機動隊員にしがみつきました。ガーンとなった筆者は『わかったよ』と彼から手を離しました。
と、まるで劇画の噴出しのようにあっさり記述してしまう著者であるが、これは事実なのだろうか? もしも都合よく女子学生が登場しなかったなら、彼は殺人を犯していたはずだが、そういう自問がなされていないことがとても気になった。
本書の第六章は新左翼ブームに水をかけ、消滅させた「内ゲバ」について詳述しているが、想像を絶する悲惨な内ゲバの記録などには、なまじそこに登場する人物に多少の見覚えがあるだけに、活字をたどることにすら大きな苦痛を覚えた。
私にとってはあらゆる思想は空虚である。絶対正義の思想などかつて存在しなかったし、これからもそうだろう。それだのにその時々の「絶対思想」とやらに激しく依拠し、憑依して、そうしない、できない他者と敵対し、あまつさえ殲滅してしまう人たちは今日も世界中であとを絶たない。
なまじご立派な思想を脳内にせっせせっせと培養すると、そいつがその人間をロボットのように操って、価値観の異なる人間を撲滅してもまるで痛痒を感じない殺人鬼になってしまうのではないだろうか。
ヘルメットに棍棒握って武装せしこの手が握りし黄色い檸檬
60年代の終わりからから80年代の前半までわが国の政治、社会に影響を及ぼした新左翼の活動を、第2次ブント社会主義学生同盟委員長で三里塚や東大安田講堂占拠闘争で3年有余下獄した著者が“できるだけ客観的に”振り返っている。
私は当時ノンポリの学生ではあったが、彼らのシンパとしていくつかの局面でデモやストライキに参加していたので、おおよそのことは理解していたつもりであるが、自治会や生協・サークル活動とそれに付随して党派に流入する莫大な闘争資金のからくり、明治大学自治会と生協の崩壊の顛末などまるで知らないことも多かった。
しかしなにせ権力やライバルの党派と決死の覚悟でわたりあった張本人が語り部であるから、その客観性もたえず強烈な主観性によって揺さぶられる。
1967年10月8日の昼前のこと、
左手に棍棒、右手に檸檬を握り締め佐藤訪ベトを阻止するぞわれ
という気分で隊列を組んだ私らが羽田空港に向かっていたちょうどその頃、著者は、首都高一号羽田線鈴が森ランプで倒れた機動隊員を、高速道路の下に落とそうと持ち上げていた。
「彼は激しく抵抗、そのとき、後ろから駆けてきた女子学生が『やめてください! そんなことをしたらアメリカ帝国主義と同じじゃないですか』と機動隊員にしがみつきました。ガーンとなった筆者は『わかったよ』と彼から手を離しました。
と、まるで劇画の噴出しのようにあっさり記述してしまう著者であるが、これは事実なのだろうか? もしも都合よく女子学生が登場しなかったなら、彼は殺人を犯していたはずだが、そういう自問がなされていないことがとても気になった。
本書の第六章は新左翼ブームに水をかけ、消滅させた「内ゲバ」について詳述しているが、想像を絶する悲惨な内ゲバの記録などには、なまじそこに登場する人物に多少の見覚えがあるだけに、活字をたどることにすら大きな苦痛を覚えた。
私にとってはあらゆる思想は空虚である。絶対正義の思想などかつて存在しなかったし、これからもそうだろう。それだのにその時々の「絶対思想」とやらに激しく依拠し、憑依して、そうしない、できない他者と敵対し、あまつさえ殲滅してしまう人たちは今日も世界中であとを絶たない。
なまじご立派な思想を脳内にせっせせっせと培養すると、そいつがその人間をロボットのように操って、価値観の異なる人間を撲滅してもまるで痛痒を感じない殺人鬼になってしまうのではないだろうか。
ヘルメットに棍棒握って武装せしこの手が握りし黄色い檸檬
Wednesday, April 16, 2008
ガルシア・マルケス著・旦敬介訳「十二の遍歴の物語」を読む
照る日曇る日第114回
「族長の秋」を発表してからあと、18年間にわたって書き継がれてきたマルケスの十二の短編集である。とりわけ最初の2編「雪の上に落ちたお前の血の跡」と「ミセス・フォーブスの幸福な夏」は圧倒的に素晴らしい。
本書のまえがきで、マルケスは、こう語っている。
「短編小説をひとつ書くには、長編を書き出すのと同じくらいの強烈なエネルギーが必要なのだ。長編小説では、最初の一段落ですべてを決定しなければならない。構成、タッチ、スタイル、リズム、長さ、さらに場合によっては特定の人物の性格まで。それ以後は書くことの快楽、想像しうる最も私的な、最も孤独な快楽がある。そして、作家が自分の本を一生書き直し続けたりしないのは、書き始めるのに必要な鉄のような厳しさが書き終わりをも決定するからだ。それに対して、短編には始まりも終わりもない。一気に行くか、行かないか、それだけしかない。そうしてうまく行かない場合は、私の経験からしても他の作家の経験からしても、たいがいはもう一度最初から別の道でやり直すか、あとは思い切って全部捨ててしまった方がいい。誰かが言ったように、いい作家というものは、発表したものよりも、破って捨てたものの方で自分を評価するものだ」
その言うやよし。では「ミセス・フォーブスの幸福な夏」の最初の段落をどうぞ。
「午後になって家に帰ると、私たちは巨大な海蛇が首のところで、ドア枠に釘で打ち付けられているのを発見した。それは黒くて蛍光を発していてジプシーの妖術の道具のように見え、しかも目はまだ生きていて、押し広げられた口からは鋸のような歯をむき出しにしていた。私はその頃9歳ぐらいで、妄想の中から抜け出てきたようなこの化け物を前にして、激しい恐怖から声も出なかった」
この導入部を目の前に突きつけられたら、もう最後まで読み通すしか路はないだろう。
戯れに歌など詠めばひょいと出るその地金のおぞましきことかな 亡羊
「族長の秋」を発表してからあと、18年間にわたって書き継がれてきたマルケスの十二の短編集である。とりわけ最初の2編「雪の上に落ちたお前の血の跡」と「ミセス・フォーブスの幸福な夏」は圧倒的に素晴らしい。
本書のまえがきで、マルケスは、こう語っている。
「短編小説をひとつ書くには、長編を書き出すのと同じくらいの強烈なエネルギーが必要なのだ。長編小説では、最初の一段落ですべてを決定しなければならない。構成、タッチ、スタイル、リズム、長さ、さらに場合によっては特定の人物の性格まで。それ以後は書くことの快楽、想像しうる最も私的な、最も孤独な快楽がある。そして、作家が自分の本を一生書き直し続けたりしないのは、書き始めるのに必要な鉄のような厳しさが書き終わりをも決定するからだ。それに対して、短編には始まりも終わりもない。一気に行くか、行かないか、それだけしかない。そうしてうまく行かない場合は、私の経験からしても他の作家の経験からしても、たいがいはもう一度最初から別の道でやり直すか、あとは思い切って全部捨ててしまった方がいい。誰かが言ったように、いい作家というものは、発表したものよりも、破って捨てたものの方で自分を評価するものだ」
その言うやよし。では「ミセス・フォーブスの幸福な夏」の最初の段落をどうぞ。
「午後になって家に帰ると、私たちは巨大な海蛇が首のところで、ドア枠に釘で打ち付けられているのを発見した。それは黒くて蛍光を発していてジプシーの妖術の道具のように見え、しかも目はまだ生きていて、押し広げられた口からは鋸のような歯をむき出しにしていた。私はその頃9歳ぐらいで、妄想の中から抜け出てきたようなこの化け物を前にして、激しい恐怖から声も出なかった」
この導入部を目の前に突きつけられたら、もう最後まで読み通すしか路はないだろう。
戯れに歌など詠めばひょいと出るその地金のおぞましきことかな 亡羊
Tuesday, April 15, 2008
ガルシア・マルケス著「予告された殺人の記録」を読む
照る日曇る日第113回
「愛の狩人は鷹に似て高きより獲物を狙う」というジル・ヴィセンテのエピグラムを巻頭に掲げたマルケスは、天空はるかなる視点から、おのれを神に擬し、1951年1月22日に彼と彼の家族が実際に身近に体験したこの殺人事件をメタ・ドキュメンタリーな神話として語りなおそうとした。
言ってみれば、新婚の床から追放された妹の汚名を雪ごうと、その双子の兄弟が、彼女を処女ではなくした張本人であると称される男を肉きり包丁で刺し殺すギリシア悲劇さながらの敵討ち噺なのだが、その新聞種に類した悲劇を、ただ無数の事実の羅列によって叙述しようとする。
それならば単なるドキュメンタリー小説で終わったであろうこの小説は、数多くの登場人物の多様な視点、現在から既往、既往からまた現在、そして未来へとせわしなく移動する多彩な時間軸の運動を映画のクロースアップとパンのように交互に繰り返すことによって、とある殺人事件の複合的・重層的な局面に隠されているいくつもの真実をつぎつぎに暴き出す。
すると最初は起こるべくして起こったはずの事件、そのあらかじめ決定されていたはずの事件の確定的要因が次第に溶解して、陰影定かならざる曖昧模糊とした諸要素に還元されていく。
事実と歴史が彩度と輪郭を失い、真実は虚構へ、現実は夢想へ、そして最後には人間界のすべての事象が、偶然と運命の所業へと召還されてゆくのであった。
♪君、そういうことじゃなくて毎日新しい歌を歌うことだよ、下手くそでもね。亡羊
「愛の狩人は鷹に似て高きより獲物を狙う」というジル・ヴィセンテのエピグラムを巻頭に掲げたマルケスは、天空はるかなる視点から、おのれを神に擬し、1951年1月22日に彼と彼の家族が実際に身近に体験したこの殺人事件をメタ・ドキュメンタリーな神話として語りなおそうとした。
言ってみれば、新婚の床から追放された妹の汚名を雪ごうと、その双子の兄弟が、彼女を処女ではなくした張本人であると称される男を肉きり包丁で刺し殺すギリシア悲劇さながらの敵討ち噺なのだが、その新聞種に類した悲劇を、ただ無数の事実の羅列によって叙述しようとする。
それならば単なるドキュメンタリー小説で終わったであろうこの小説は、数多くの登場人物の多様な視点、現在から既往、既往からまた現在、そして未来へとせわしなく移動する多彩な時間軸の運動を映画のクロースアップとパンのように交互に繰り返すことによって、とある殺人事件の複合的・重層的な局面に隠されているいくつもの真実をつぎつぎに暴き出す。
すると最初は起こるべくして起こったはずの事件、そのあらかじめ決定されていたはずの事件の確定的要因が次第に溶解して、陰影定かならざる曖昧模糊とした諸要素に還元されていく。
事実と歴史が彩度と輪郭を失い、真実は虚構へ、現実は夢想へ、そして最後には人間界のすべての事象が、偶然と運命の所業へと召還されてゆくのであった。
♪君、そういうことじゃなくて毎日新しい歌を歌うことだよ、下手くそでもね。亡羊
Monday, April 14, 2008
春風の丘に立つ
車も化粧品もアパレルも、世界市場の使命を制するのはBRICsわけてもアジアのマーケットである。
昨日は2つの学校で私の今季のヒジョーキン生活が始まったが、韓国、中国、香港、台湾の学生の元気な表情が印象的だった。
日本人に元気がないとはいわない。日本がアジアの一員でないともいわない。しかし背後に自分自身の未来とくわえて国の将来を背負った彼らの勉学への精進を親しく見聞していると、なにかが微妙に違っていると感じないわけにはいかない。
彼らは外国語としての日本語を驚くほど速やかにマスターしてしまう。なかにはわが維新の時代の壮士を思わせる気概の持ち主もいる。成長期の世界と円熟期の世界とでは商品・サービスのみならず人材が輩出されるための土壌・環境がまるで違っているのであろう。
かつて毛沢東は、「青年は午前10時の太陽である」と言った。若いこと、無名であること、貧乏であること。これが革命者の条件である、とも言った。毛の誤謬や革命の功罪はさておき、前途有望な若者への激励の辞としてはまだ有効であろう。
それにしても若いということはいいことだ。どんな失敗もまだ許される。願わくは破綻や蹉跌を恐れず己の信ずる路をひたすらつき進んでいってほしいものだ。
午前10時ならぬ午後5時の残照に孤影漂うわたくしであるが、明日からは3つ目の学校へのお勤めも始まる。見えない未来に向かって疾走する人々にいささかの後押しをいたしたいものである。
最後に全国の学友諸君に対し、正岡子規の高弟であり、夏目漱石に「猫」を書かせて作家デビューを後押しした俳人の普段の写実の姿勢をかなぐり捨てた激句を捧げ、よってもって連帯の挨拶に代えたい。
春風や 闘志いだきて 丘に立つ 高浜虚子
♪鳶一羽われに愛する力あり 亡羊
昨日は2つの学校で私の今季のヒジョーキン生活が始まったが、韓国、中国、香港、台湾の学生の元気な表情が印象的だった。
日本人に元気がないとはいわない。日本がアジアの一員でないともいわない。しかし背後に自分自身の未来とくわえて国の将来を背負った彼らの勉学への精進を親しく見聞していると、なにかが微妙に違っていると感じないわけにはいかない。
彼らは外国語としての日本語を驚くほど速やかにマスターしてしまう。なかにはわが維新の時代の壮士を思わせる気概の持ち主もいる。成長期の世界と円熟期の世界とでは商品・サービスのみならず人材が輩出されるための土壌・環境がまるで違っているのであろう。
かつて毛沢東は、「青年は午前10時の太陽である」と言った。若いこと、無名であること、貧乏であること。これが革命者の条件である、とも言った。毛の誤謬や革命の功罪はさておき、前途有望な若者への激励の辞としてはまだ有効であろう。
それにしても若いということはいいことだ。どんな失敗もまだ許される。願わくは破綻や蹉跌を恐れず己の信ずる路をひたすらつき進んでいってほしいものだ。
午前10時ならぬ午後5時の残照に孤影漂うわたくしであるが、明日からは3つ目の学校へのお勤めも始まる。見えない未来に向かって疾走する人々にいささかの後押しをいたしたいものである。
最後に全国の学友諸君に対し、正岡子規の高弟であり、夏目漱石に「猫」を書かせて作家デビューを後押しした俳人の普段の写実の姿勢をかなぐり捨てた激句を捧げ、よってもって連帯の挨拶に代えたい。
春風や 闘志いだきて 丘に立つ 高浜虚子
♪鳶一羽われに愛する力あり 亡羊
Sunday, April 13, 2008
「大江広元の墓」の謎
鎌倉ちょっと不思議な物語113回
「十二所地誌新稿」にまたいう。
扇が谷の大倉山に大江広元の墓と称するものが存するが、それが本物ではないことは今日では定説になっている。大倉山のそれは規模から見ても大名のものであることは間違いがなく、一説には北条義時の墓と伝えられる。
しかし本地民(この表現は懐かしい!)の伝えている墓は胡桃山の山頂にある。
塔は南してやや右にねじれている。明王院の地誌に「大江広元公の墓所は五大堂より戌亥に当たり、山頂の墓まで二丁余あると。これをもって真と致す由」と記されているからこれは確実な記録である。
一時は塔の大部分を谷に落としてしまって、一層を残すだけであった。それは村人も墓を教えようものなら上から役人が来てむつかしいことをいってやりきれない。そのうえ人夫など煙草銭くらいで使われてしまうので、知らぬ存ぜぬの一点張りで通してしまったという。
島津の家老はこのまま帰国することもできないので、役目の手前困り果てたという。そこで八幡前の大石某という人が今の法華堂に不明の墓があるので、役人と相談してこれを広元の墓と定めて帰国した。これは十二所の小長井勘左衛門が若いときの話で、今から180余年前のことであった、というのである!
♪流れている水の中ではオタマは育たない子供も同じである 亡羊
「十二所地誌新稿」にまたいう。
扇が谷の大倉山に大江広元の墓と称するものが存するが、それが本物ではないことは今日では定説になっている。大倉山のそれは規模から見ても大名のものであることは間違いがなく、一説には北条義時の墓と伝えられる。
しかし本地民(この表現は懐かしい!)の伝えている墓は胡桃山の山頂にある。
塔は南してやや右にねじれている。明王院の地誌に「大江広元公の墓所は五大堂より戌亥に当たり、山頂の墓まで二丁余あると。これをもって真と致す由」と記されているからこれは確実な記録である。
一時は塔の大部分を谷に落としてしまって、一層を残すだけであった。それは村人も墓を教えようものなら上から役人が来てむつかしいことをいってやりきれない。そのうえ人夫など煙草銭くらいで使われてしまうので、知らぬ存ぜぬの一点張りで通してしまったという。
島津の家老はこのまま帰国することもできないので、役目の手前困り果てたという。そこで八幡前の大石某という人が今の法華堂に不明の墓があるので、役人と相談してこれを広元の墓と定めて帰国した。これは十二所の小長井勘左衛門が若いときの話で、今から180余年前のことであった、というのである!
♪流れている水の中ではオタマは育たない子供も同じである 亡羊
Saturday, April 12, 2008
大江広元邸旧蹟再論
鎌倉ちょっと不思議な物語112回
以前触れた大江広元旧跡について、「十二所地誌新稿」によりくわしい説明があったので再録しておこう。
屋敷跡は明石が谷一帯の地にあって、西は頂輪房に接し、北は船玉山をだきこみ、東南は一心院の旧蹟に及び、東方は羽黒山の裾に接して宇佐小路に至り、北は滑川によって区切られる。東西約200メートル、南北150メートルあって明石が谷では最も広い地域である。
江戸時代の末期に、大江広元の遠孫と称する毛利公がこの地を買収しようとした!が、価格の点で折り合いがつかずそのままになったという。
最近までは畑であったが、今は多くが宅地になった、とあり、その宅地のひとつがうちのおばあちゃんチなのであった。
「十二所地誌新稿」は昭和55年の編纂であるから、今では畑などはほとんど無くなってしまった。
♪ここからは進入禁止と5人組何事にもタブーはあるぞ
♪ランクル、オートバイは進入禁止おいらは太刀洗5人衆
以前触れた大江広元旧跡について、「十二所地誌新稿」によりくわしい説明があったので再録しておこう。
屋敷跡は明石が谷一帯の地にあって、西は頂輪房に接し、北は船玉山をだきこみ、東南は一心院の旧蹟に及び、東方は羽黒山の裾に接して宇佐小路に至り、北は滑川によって区切られる。東西約200メートル、南北150メートルあって明石が谷では最も広い地域である。
江戸時代の末期に、大江広元の遠孫と称する毛利公がこの地を買収しようとした!が、価格の点で折り合いがつかずそのままになったという。
最近までは畑であったが、今は多くが宅地になった、とあり、その宅地のひとつがうちのおばあちゃんチなのであった。
「十二所地誌新稿」は昭和55年の編纂であるから、今では畑などはほとんど無くなってしまった。
♪ここからは進入禁止と5人組何事にもタブーはあるぞ
♪ランクル、オートバイは進入禁止おいらは太刀洗5人衆
Friday, April 11, 2008
長楽寺再訪
鎌倉ちょっと不思議な物語112回&鎌倉廃寺巡礼その8
長楽寺は、長谷の鎌倉文学館の隣にあった。
「日蓮聖人御遺文」「日蓮上人註画賛」によれば、この寺には日蓮が眼の敵にするかなりの高僧がいたらしいが、それは「鎌倉志」に「この寺法然の弟子隆寛住セシトナリ」とある浄土宗の僧ではないだろうか。
鎌倉の大町から北上して小町通り(現在の繁華街の小町通りではない。あれは誰かがでっちあげた観光用にせ小町通りである)一帯には、数多くの日蓮宗の寺院が散在しているが、少し離れた長谷には、同じ新興鎌倉仏教とはいえ、彼らの強力なライバルがいたのであろう。
健常の人を生涯妬みつつなお障碍の人と共におるかな 亡羊
長楽寺は、長谷の鎌倉文学館の隣にあった。
「日蓮聖人御遺文」「日蓮上人註画賛」によれば、この寺には日蓮が眼の敵にするかなりの高僧がいたらしいが、それは「鎌倉志」に「この寺法然の弟子隆寛住セシトナリ」とある浄土宗の僧ではないだろうか。
鎌倉の大町から北上して小町通り(現在の繁華街の小町通りではない。あれは誰かがでっちあげた観光用にせ小町通りである)一帯には、数多くの日蓮宗の寺院が散在しているが、少し離れた長谷には、同じ新興鎌倉仏教とはいえ、彼らの強力なライバルがいたのであろう。
健常の人を生涯妬みつつなお障碍の人と共におるかな 亡羊
Thursday, April 10, 2008
続・荻原延壽集第4巻「東郷茂徳」を読んで
照る日曇る日第112回
東郷は終始基本的には国際協調主義に立脚し、欧米、アジア、ロシアとの戦争を回避すべく職を賭して戦い、ナチスや日本の右翼、三国協定枢軸派の政治家たちとつねに一線を画す独自の外交を行なった。彼はまた珍しくも対ソ協調路線を終生にわたって貫いたが、あらゆるイデオロギーに無縁のリアリストがなぜロシアに惹かれたのかは永遠の謎として残る。
では日本では稀な「イデオロギーに無縁のリアリスト」がどのようにしてわが国に誕生しえたのか? それは前にも触れたように彼が生まれながらにして異邦人感覚を身につけていたからであり、若き日から国内亡命派として島国根性の日本人の欠点を鋭く見抜いていたからである。
さらに長じては、スイスのベルンで封印列車に乗り込むレーニンを一瞥して「彼は非常に賢そうでかつ精力的な感じがした。あの眼の表情から推して、彼は観念に憑かれた男だ」と語ってただちに「国家と革命」を読みはじめ、ドイツではワイマール共和国の崩壊とドイツ革命の失敗、そしてヒトラーの台頭をつぶさに実見し、さらに革命直後のソ連では、ノモンハンで無残な敗北を喫したおごれる関東軍の実態を知っていたからである。
彼がベルンで見初めた少女の半世紀を経ての愛の証言、そしてベルリンでのドイツ娘との結婚についてはさておくとしても、この男は生まれながらにしてまことに冷徹なコスモポリタンであった。
東郷がどのような政治家であったかについては、後世の多くの人々の証言があるが、もっとも印象的なものは、昭和天皇の「東郷外相は終戦の時も、開戦の時も、終始同じ態度であった」という言葉であろう。
これに対して東郷も、「最初より最後まで信頼しえたるは陛下のみなるというも過言にあらず。余の生涯においてかくも立派な人格に接したことなく、歴史にも少なし」と書き遺しているが、おそらくこの両人だけには相通じる共通の理解と感慨があったのだろう。
東郷は死の直前に、「死を賭して三つし遂げし仕事あり我も死してよきかと思う」という辞世の歌を詠んだが、著者によればそれは第一に太平洋戦争を終結させたこと、第二に東京裁判を通じて自分の立場を明らかにしたこと、第三に自伝「時代の一面」を執筆できたことであろうと推察している。
東郷畢生の遺著「時代の一面」もいつかは読んでみたいものである。
♪わが庵の天井の木に巣食いたる白色腐朽菌夜な夜な増殖す 亡羊
東郷は終始基本的には国際協調主義に立脚し、欧米、アジア、ロシアとの戦争を回避すべく職を賭して戦い、ナチスや日本の右翼、三国協定枢軸派の政治家たちとつねに一線を画す独自の外交を行なった。彼はまた珍しくも対ソ協調路線を終生にわたって貫いたが、あらゆるイデオロギーに無縁のリアリストがなぜロシアに惹かれたのかは永遠の謎として残る。
では日本では稀な「イデオロギーに無縁のリアリスト」がどのようにしてわが国に誕生しえたのか? それは前にも触れたように彼が生まれながらにして異邦人感覚を身につけていたからであり、若き日から国内亡命派として島国根性の日本人の欠点を鋭く見抜いていたからである。
さらに長じては、スイスのベルンで封印列車に乗り込むレーニンを一瞥して「彼は非常に賢そうでかつ精力的な感じがした。あの眼の表情から推して、彼は観念に憑かれた男だ」と語ってただちに「国家と革命」を読みはじめ、ドイツではワイマール共和国の崩壊とドイツ革命の失敗、そしてヒトラーの台頭をつぶさに実見し、さらに革命直後のソ連では、ノモンハンで無残な敗北を喫したおごれる関東軍の実態を知っていたからである。
彼がベルンで見初めた少女の半世紀を経ての愛の証言、そしてベルリンでのドイツ娘との結婚についてはさておくとしても、この男は生まれながらにしてまことに冷徹なコスモポリタンであった。
東郷がどのような政治家であったかについては、後世の多くの人々の証言があるが、もっとも印象的なものは、昭和天皇の「東郷外相は終戦の時も、開戦の時も、終始同じ態度であった」という言葉であろう。
これに対して東郷も、「最初より最後まで信頼しえたるは陛下のみなるというも過言にあらず。余の生涯においてかくも立派な人格に接したことなく、歴史にも少なし」と書き遺しているが、おそらくこの両人だけには相通じる共通の理解と感慨があったのだろう。
東郷は死の直前に、「死を賭して三つし遂げし仕事あり我も死してよきかと思う」という辞世の歌を詠んだが、著者によればそれは第一に太平洋戦争を終結させたこと、第二に東京裁判を通じて自分の立場を明らかにしたこと、第三に自伝「時代の一面」を執筆できたことであろうと推察している。
東郷畢生の遺著「時代の一面」もいつかは読んでみたいものである。
♪わが庵の天井の木に巣食いたる白色腐朽菌夜な夜な増殖す 亡羊
Wednesday, April 09, 2008
荻原延壽集第4巻「東郷茂徳」を読む
照る日曇る日第111回
東郷茂徳は、明治15年1882年朴茂徳として鹿児島県苗代川に生まれ、昭和25年1950年当時米陸軍ジェネラル・ホスピタルと称された聖路加病院で69歳で死んだ。本書は彼の生涯の事績を丁寧に振り返った伝記である。
苗代川の来歴は秀吉の文禄・慶長の役にさかのぼり、そのさいこれに従軍した薩摩の島津義弘が、朝鮮から強制連行した陶工などの俘虜70余名がこの村の始祖である。
司馬遼太郎は「故郷忘じがたく候」で陶工沈壽官氏の半生を描いたが、茂徳もまたこの村の出身であった。
東郷は対米開戦を主導した東条内閣の外相をつとめ、終戦を主導した鈴木内閣でも2度目の外相を歴任したが、極東軍事裁判で禁錮二十年の刑を言い渡され、巣鴨服役中に病を得て卒した。
外交官としての東郷の特質は、国益の何であるかを激変する国際情勢の中で情やくわんねんに流されずに冷静に見極め、これを最大化するための戦略を企画立案実行するために、国内外の敵(特に帝国陸海軍の無能な指導者たち)と徹底的に戦いながら、己がもっとも正しいと信じた思想と行動を貫いたことであった。
駐独、駐ソ時代の東郷の自己主張のものすごさについて、当時のソ連外相モロトフや独外相リッペントロップの証言があるが、「これほど同じことを何回も何回も繰り返し主張する頑固な日本人ははじめてだ」と彼らはいちように驚き、モロトフの場合、その驚きは尊敬に、後者の場合は敵意に変わっていくのだが、その日本人離れした自己主張は、彼がもともと日本人から徹底的に疎外された異境の人であったことからも了解できよう。彼は日本外交史上なうてのハード・ネゴシエーターであった。
かく申す私もビジネスマンとして欧米帝国主義列強の猛者どもと何度も丁々発止とやりあったことがあるが、アリストテレス論理学と強靭な体力で全身武装した彼奴ら、特にシャイロックの末裔と戦う際には、こちらも命がけで商談したものである。商談も外交も戦争である、ということを、東郷は日本を飛び出す前から熟知していたのである。
♪蟷螂の斧振りかざす春の宵 亡羊
東郷茂徳は、明治15年1882年朴茂徳として鹿児島県苗代川に生まれ、昭和25年1950年当時米陸軍ジェネラル・ホスピタルと称された聖路加病院で69歳で死んだ。本書は彼の生涯の事績を丁寧に振り返った伝記である。
苗代川の来歴は秀吉の文禄・慶長の役にさかのぼり、そのさいこれに従軍した薩摩の島津義弘が、朝鮮から強制連行した陶工などの俘虜70余名がこの村の始祖である。
司馬遼太郎は「故郷忘じがたく候」で陶工沈壽官氏の半生を描いたが、茂徳もまたこの村の出身であった。
東郷は対米開戦を主導した東条内閣の外相をつとめ、終戦を主導した鈴木内閣でも2度目の外相を歴任したが、極東軍事裁判で禁錮二十年の刑を言い渡され、巣鴨服役中に病を得て卒した。
外交官としての東郷の特質は、国益の何であるかを激変する国際情勢の中で情やくわんねんに流されずに冷静に見極め、これを最大化するための戦略を企画立案実行するために、国内外の敵(特に帝国陸海軍の無能な指導者たち)と徹底的に戦いながら、己がもっとも正しいと信じた思想と行動を貫いたことであった。
駐独、駐ソ時代の東郷の自己主張のものすごさについて、当時のソ連外相モロトフや独外相リッペントロップの証言があるが、「これほど同じことを何回も何回も繰り返し主張する頑固な日本人ははじめてだ」と彼らはいちように驚き、モロトフの場合、その驚きは尊敬に、後者の場合は敵意に変わっていくのだが、その日本人離れした自己主張は、彼がもともと日本人から徹底的に疎外された異境の人であったことからも了解できよう。彼は日本外交史上なうてのハード・ネゴシエーターであった。
かく申す私もビジネスマンとして欧米帝国主義列強の猛者どもと何度も丁々発止とやりあったことがあるが、アリストテレス論理学と強靭な体力で全身武装した彼奴ら、特にシャイロックの末裔と戦う際には、こちらも命がけで商談したものである。商談も外交も戦争である、ということを、東郷は日本を飛び出す前から熟知していたのである。
♪蟷螂の斧振りかざす春の宵 亡羊
Tuesday, April 08, 2008
大江広元の屋敷と墓
鎌倉ちょっと不思議な物語111回
大江広元(1148~1225)は「おおえのひろもと」と読み、母中原氏に養育された文人である。この人は平安時代に京の朝廷に仕えた能吏匡房(まさふさ)の曾孫であるが、源頼朝に招かれて鎌倉初期の幕府重臣となってから水を得た魚のごとく活躍した。
広元はまず市内御成小学校の傍にあった公文所(くもんじょ)別当となり、幕府創成期の政治の重要問題に関与するようになる。
次いで鎌倉幕府にとってもっとも重要な政策である守護・地頭設置を頼朝に献策しすぐさま採用されたが、それが貴族政治から武家政治への革命的顛倒をもたらした。
さらに後年は政所(まんどころ)別当となり幕府体制の基礎固めに尽力したが、頼朝の死後は北条氏とともに政務をとり、承久の乱では尼将軍政子を断固支持するなど執権政治の確立に寄与し77歳で亡くなった。
どこで死んだかというとうちの地元の十二所で死んだ。もっと正確にいうと、現在うちのおばあちゃんの家のある場所で亡くなった。(左石碑写真)。
それから、死んでどうなったかというと、とうぜん墓に葬られた。
彼の墓は、源頼朝の墓がある山の東側の山腹にある、とされている。島津忠光と広元の子である毛利季光の墓の真ん中に眠っているのが、大江広元の墓だというのだが、墓石の下に彼は♪いませ~ん。(中央写真)
千の風などに乗らなくとも、彼の遺体はおばあちゃんちから明王院の傍の山道に入り、瑞泉寺に向かうハイキングコースの途中の小さな小高い丘の頂に葬られた。きっと昔はここから彼の自宅が見下ろせたのではないだろうか。(右写真)
ところでなぜ扇が谷の頼朝墳墓の近所に島津忠光と毛利季光に囲まれるようにして広元の墓があるのだろう?
それはこの二人が1247年の宝冶合戦で三浦一族と共闘して権謀術数に秀で悪辣無比の北条一族に圧殺されたからでもあるが、(三浦一族血まみれ滅亡の現場は頼朝墓直下の法華堂&白旗神社)薩摩島津家の先祖忠光も安芸戦国大名毛利家のどちらも大江広元の末裔であるからだ。
ご一新で共闘した薩長政権がその奇跡的な勝利を祝い、かつまたその際遠いご先祖様を寿いで明治になってから建立したのが、このでっちあげの3点セット墳墓なのである。
お断り→写真はミクシィの「あまでうす」日記に掲載しています。
♪こんな東京に誰がしたんだと慎太郎言い 亡羊
大江広元(1148~1225)は「おおえのひろもと」と読み、母中原氏に養育された文人である。この人は平安時代に京の朝廷に仕えた能吏匡房(まさふさ)の曾孫であるが、源頼朝に招かれて鎌倉初期の幕府重臣となってから水を得た魚のごとく活躍した。
広元はまず市内御成小学校の傍にあった公文所(くもんじょ)別当となり、幕府創成期の政治の重要問題に関与するようになる。
次いで鎌倉幕府にとってもっとも重要な政策である守護・地頭設置を頼朝に献策しすぐさま採用されたが、それが貴族政治から武家政治への革命的顛倒をもたらした。
さらに後年は政所(まんどころ)別当となり幕府体制の基礎固めに尽力したが、頼朝の死後は北条氏とともに政務をとり、承久の乱では尼将軍政子を断固支持するなど執権政治の確立に寄与し77歳で亡くなった。
どこで死んだかというとうちの地元の十二所で死んだ。もっと正確にいうと、現在うちのおばあちゃんの家のある場所で亡くなった。(左石碑写真)。
それから、死んでどうなったかというと、とうぜん墓に葬られた。
彼の墓は、源頼朝の墓がある山の東側の山腹にある、とされている。島津忠光と広元の子である毛利季光の墓の真ん中に眠っているのが、大江広元の墓だというのだが、墓石の下に彼は♪いませ~ん。(中央写真)
千の風などに乗らなくとも、彼の遺体はおばあちゃんちから明王院の傍の山道に入り、瑞泉寺に向かうハイキングコースの途中の小さな小高い丘の頂に葬られた。きっと昔はここから彼の自宅が見下ろせたのではないだろうか。(右写真)
ところでなぜ扇が谷の頼朝墳墓の近所に島津忠光と毛利季光に囲まれるようにして広元の墓があるのだろう?
それはこの二人が1247年の宝冶合戦で三浦一族と共闘して権謀術数に秀で悪辣無比の北条一族に圧殺されたからでもあるが、(三浦一族血まみれ滅亡の現場は頼朝墓直下の法華堂&白旗神社)薩摩島津家の先祖忠光も安芸戦国大名毛利家のどちらも大江広元の末裔であるからだ。
ご一新で共闘した薩長政権がその奇跡的な勝利を祝い、かつまたその際遠いご先祖様を寿いで明治になってから建立したのが、このでっちあげの3点セット墳墓なのである。
お断り→写真はミクシィの「あまでうす」日記に掲載しています。
♪こんな東京に誰がしたんだと慎太郎言い 亡羊
Monday, April 07, 2008
続・春宵源語
照る日曇る日第110回
無学な私は、あの膨大な源氏物語を原文で読むことなどできないので、仕方なく与謝野晶子や谷崎潤一郎や橋本治の現代語訳で読んでいる。
三者三様苦心の名訳であるが、これをベートーベンの交響曲の指揮者にたとえれば、与謝野は直情径行のトスカニーニ、谷崎は典雅なワインガルトナー、そして橋本訳は無手勝流のフルトベングラーといったところだろうか。もっとも原作の香りを伝えて味わい深く、原譜・原典に忠実なのが谷崎訳であることは言うを待たない。
しかし源氏物語では、登場人物の名前が官職名で呼ばれることが多く、しかも彼らがどんどん昇進していくのでしばしば混乱させられる。例えば40歳代の源氏は、六条院、主人の院、院、大殿、大殿の君などとケースバイケースで表記されている。
登場人物のひとりである「兵部卿宮」は紫の上の父宮であるが、「少女」巻で兵部卿宮から式部卿宮に転じているし、さらには兵部卿宮に良く似てまぎらわしい「蛍兵部卿宮」というまったく別の人物もいる。兵部卿宮は源氏の不倶戴天のライバルだが、蛍兵部卿宮は源氏のやさしい弟である。
例えば、「若菜上」巻の「第十三章第四段」に、「弥生ばかりの空うららかなる日、六条の院に、兵部卿宮、衛門督など参りたまへり」という箇所がある。衛門督は柏木の官命であるが、この兵部卿宮は本当に兵部卿宮なのだろうか?
原文はもちろん与謝野源氏も谷崎源氏も「兵部卿宮」と記述しているのだが、このおめでたい蹴鞠の宴に、果たして源氏と兵部卿宮が轡を並べたのかどうかが気になったので、源氏物語研究の第1人者である高千穂大学教授の渋谷栄一氏に教えを請うと、それは兵部卿宮ではなく「蛍兵部卿宮」であるとのご託宣を頂戴した。
同じ「若菜下」巻の朱雀帝50歳の賀に集った面々のなかで「兵部卿宮の孫王の公達二人」とあるのも、実際は蛍兵部卿宮の孫であるし、では「兵部卿宮」はどこにいるのかと探してみると、それは「式部卿宮」という呼称で出てきて孫たちの見事な演奏にぐちゃぐちゃに泣き濡れているお爺さんなのであった。
しかしいくらくだんの文章をにらんでいても、そこには「兵部卿宮」という言葉が印字されているばかり。にもかかわらず実体は、「蛍兵部卿宮」だというのであるから、こうなれば源氏は訓詁だけではなく、全体の文脈と心眼で読んでいくしかないのだろう。
♪嗚呼遂に我が家は40アンペアになりはてぬ25年間30アンプなりしに 亡羊
無学な私は、あの膨大な源氏物語を原文で読むことなどできないので、仕方なく与謝野晶子や谷崎潤一郎や橋本治の現代語訳で読んでいる。
三者三様苦心の名訳であるが、これをベートーベンの交響曲の指揮者にたとえれば、与謝野は直情径行のトスカニーニ、谷崎は典雅なワインガルトナー、そして橋本訳は無手勝流のフルトベングラーといったところだろうか。もっとも原作の香りを伝えて味わい深く、原譜・原典に忠実なのが谷崎訳であることは言うを待たない。
しかし源氏物語では、登場人物の名前が官職名で呼ばれることが多く、しかも彼らがどんどん昇進していくのでしばしば混乱させられる。例えば40歳代の源氏は、六条院、主人の院、院、大殿、大殿の君などとケースバイケースで表記されている。
登場人物のひとりである「兵部卿宮」は紫の上の父宮であるが、「少女」巻で兵部卿宮から式部卿宮に転じているし、さらには兵部卿宮に良く似てまぎらわしい「蛍兵部卿宮」というまったく別の人物もいる。兵部卿宮は源氏の不倶戴天のライバルだが、蛍兵部卿宮は源氏のやさしい弟である。
例えば、「若菜上」巻の「第十三章第四段」に、「弥生ばかりの空うららかなる日、六条の院に、兵部卿宮、衛門督など参りたまへり」という箇所がある。衛門督は柏木の官命であるが、この兵部卿宮は本当に兵部卿宮なのだろうか?
原文はもちろん与謝野源氏も谷崎源氏も「兵部卿宮」と記述しているのだが、このおめでたい蹴鞠の宴に、果たして源氏と兵部卿宮が轡を並べたのかどうかが気になったので、源氏物語研究の第1人者である高千穂大学教授の渋谷栄一氏に教えを請うと、それは兵部卿宮ではなく「蛍兵部卿宮」であるとのご託宣を頂戴した。
同じ「若菜下」巻の朱雀帝50歳の賀に集った面々のなかで「兵部卿宮の孫王の公達二人」とあるのも、実際は蛍兵部卿宮の孫であるし、では「兵部卿宮」はどこにいるのかと探してみると、それは「式部卿宮」という呼称で出てきて孫たちの見事な演奏にぐちゃぐちゃに泣き濡れているお爺さんなのであった。
しかしいくらくだんの文章をにらんでいても、そこには「兵部卿宮」という言葉が印字されているばかり。にもかかわらず実体は、「蛍兵部卿宮」だというのであるから、こうなれば源氏は訓詁だけではなく、全体の文脈と心眼で読んでいくしかないのだろう。
♪嗚呼遂に我が家は40アンペアになりはてぬ25年間30アンプなりしに 亡羊
Sunday, April 06, 2008
春宵源語
照る日曇る日第109回
源氏物語が書かれてからすでに1000年以上の歳月が経っているが、紫式部という女性はまあなんとすごい長編小説を世界にさきがけて書いたものだと思わずにはいられない。
紫の上、夕顔、空蝉、女三の宮、六条御息所、明石等々、とても魅力的な女性が次々に登場して、光源氏という絶世のイケメンの前にまるで人身御供のように惜しげもなく美しい裸身を投げ出すのである。
昔はこの貴公子に嫉妬して、こいつはドンジョバンニの大和版ではないか。お前は異常性欲者か。朝から晩まで女の尻ばかり追い回していないで、宮廷を代表する政治家なら、もすこし真面目に仕事をせよ。
などと軽蔑していたが、人生女色にはじまり女色に終わってなにが悪い。それでいいじゃあないか。上等じゃあないか、と悟ってからは、この色即是空、もののあわれを尽くした華麗にして空虚な王朝絵巻をゆくりなく楽しむことができるようになった。
ご承知のようにここではさまざまな魅力的な人物が登場するのであるが、私が好きなのは藤壷中宮と柏木、それに六条御息所などである。
父の后を母と慕い、年上のお姉さんとしてほれ込む少年の恋は、それが禁断の恋であるがゆえに一途に激しく燃え上がり、その不純なる純情に体が応えてしまう藤壷のおんなのさがが素晴らしい。
柏木は源氏の友人頭中将の子であるが、源氏の晩年の正妻である女三の宮を強姦してその罪の意識に恐れおののき、ついに窮死する。
しかしそのほんとうの死因は、源氏への自責の念からではなく、好きな女から愛し返されない孤独であることを、紫式部は痛切な筆致で描きつくしている点が非常にモダンである。
不条理に犯された女三の宮も悲劇であり、自壊した柏木もあわれであるが、もっと悲惨なのは藤壷中宮との過ちを、女三の宮で応報された光源氏である。
誰でも指摘することであろうが、このあまりにも有名な二つの不倫が、源氏物語の脊梁のツインピークスを構成している。彼女はこの二つの中点に支えられてはじめてあの巨大な物語を書くことができたのである。
六条御息所は怨霊になって葵上や紫上、さらには女三の宮にまで取り憑くのであるが、紫式部は、六条御息所と怨霊の関係を、彼女が冷静に第3者的に自覚しているように記述している。そこには現代流行のスピリチュアル世界のあいまいさはかけらもない。
また現代の殺人犯たちが、「殺せという声がどこかから聞こえた」などとバッハのカンタータのタイトルもじって口走る流行の台詞とはまったく無関係な、澄み切った理性の世界そのものである。
のみならず、御息所が源氏との関係において、好むと好まざるとにかかわらず不可避的に陥ってしまった愛憎の道行き、すなわち彼女の運命についてあまりにもクールに描いているので、私たちはまたしてもなぜかとてもモダンな印象を与えられるのである。
お前などに今日もお気持ち爽やかにお過ごしくださいなどど言われたくないわい 亡羊
源氏物語が書かれてからすでに1000年以上の歳月が経っているが、紫式部という女性はまあなんとすごい長編小説を世界にさきがけて書いたものだと思わずにはいられない。
紫の上、夕顔、空蝉、女三の宮、六条御息所、明石等々、とても魅力的な女性が次々に登場して、光源氏という絶世のイケメンの前にまるで人身御供のように惜しげもなく美しい裸身を投げ出すのである。
昔はこの貴公子に嫉妬して、こいつはドンジョバンニの大和版ではないか。お前は異常性欲者か。朝から晩まで女の尻ばかり追い回していないで、宮廷を代表する政治家なら、もすこし真面目に仕事をせよ。
などと軽蔑していたが、人生女色にはじまり女色に終わってなにが悪い。それでいいじゃあないか。上等じゃあないか、と悟ってからは、この色即是空、もののあわれを尽くした華麗にして空虚な王朝絵巻をゆくりなく楽しむことができるようになった。
ご承知のようにここではさまざまな魅力的な人物が登場するのであるが、私が好きなのは藤壷中宮と柏木、それに六条御息所などである。
父の后を母と慕い、年上のお姉さんとしてほれ込む少年の恋は、それが禁断の恋であるがゆえに一途に激しく燃え上がり、その不純なる純情に体が応えてしまう藤壷のおんなのさがが素晴らしい。
柏木は源氏の友人頭中将の子であるが、源氏の晩年の正妻である女三の宮を強姦してその罪の意識に恐れおののき、ついに窮死する。
しかしそのほんとうの死因は、源氏への自責の念からではなく、好きな女から愛し返されない孤独であることを、紫式部は痛切な筆致で描きつくしている点が非常にモダンである。
不条理に犯された女三の宮も悲劇であり、自壊した柏木もあわれであるが、もっと悲惨なのは藤壷中宮との過ちを、女三の宮で応報された光源氏である。
誰でも指摘することであろうが、このあまりにも有名な二つの不倫が、源氏物語の脊梁のツインピークスを構成している。彼女はこの二つの中点に支えられてはじめてあの巨大な物語を書くことができたのである。
六条御息所は怨霊になって葵上や紫上、さらには女三の宮にまで取り憑くのであるが、紫式部は、六条御息所と怨霊の関係を、彼女が冷静に第3者的に自覚しているように記述している。そこには現代流行のスピリチュアル世界のあいまいさはかけらもない。
また現代の殺人犯たちが、「殺せという声がどこかから聞こえた」などとバッハのカンタータのタイトルもじって口走る流行の台詞とはまったく無関係な、澄み切った理性の世界そのものである。
のみならず、御息所が源氏との関係において、好むと好まざるとにかかわらず不可避的に陥ってしまった愛憎の道行き、すなわち彼女の運命についてあまりにもクールに描いているので、私たちはまたしてもなぜかとてもモダンな印象を与えられるのである。
お前などに今日もお気持ち爽やかにお過ごしくださいなどど言われたくないわい 亡羊
Saturday, April 05, 2008
常楽寺はどこだ?
鎌倉ちょっと不思議な物語111回&鎌倉廃寺巡礼その8
常楽寺は「十二所地誌新稿」によれば、かつての栄光学園、現在のカトリック修道院の入口の辺にあったというから、ちょうどこの写真の場所であろう。十二所バス停すぐである。
ここらへんはまた鎌倉の代表的な廃寺である大慈寺のすぐ傍でもあるから、常楽寺は大慈寺の末寺であったのかもしれない。
写真の左のTさんの家では、今日でも夜な夜な武者どもの剣戟の響きと戦闘のどよめきが聞こえるそうだ。
♪修道女の瞑想破る太刀嵐 亡羊
常楽寺は「十二所地誌新稿」によれば、かつての栄光学園、現在のカトリック修道院の入口の辺にあったというから、ちょうどこの写真の場所であろう。十二所バス停すぐである。
ここらへんはまた鎌倉の代表的な廃寺である大慈寺のすぐ傍でもあるから、常楽寺は大慈寺の末寺であったのかもしれない。
写真の左のTさんの家では、今日でも夜な夜な武者どもの剣戟の響きと戦闘のどよめきが聞こえるそうだ。
♪修道女の瞑想破る太刀嵐 亡羊
Friday, April 04, 2008
昌楽寺発見
鎌倉ちょっと不思議な物語110回&鎌倉廃寺巡礼その7
鎌倉廃寺事典には、「「風土記稿」に、十二所に昌楽寺谷の字があるという」としか記されていないが、わが地元史「十二所地誌新稿」には、
「生楽寺谷、寺の谷戸にあった。古地図によると小谷戸の入口であった。今無縁佛のある処である。そこには土で埋まって何人も知らなかった矢倉があって、中に五輪塔がころがっておる場所がある」
と、ちゃんと書かれているではないか。
かねて心当たりのある場所なので、たたちにおんぼろ自転車にまたがって現地に急行する。
一遍上人と塩嘗地蔵ゆかりの光蝕寺(こうそく)寺を左に見ながらおよそ100m奥に入ったところに、その小谷戸の入口があった。
満開の桜の木の下を母親と孫娘が歩いていく前方に昌楽寺(あるいは生楽寺)があったに違いない。
この谷戸は思いがけず奥行きがあり、現在は地元の土建会社の物置になっている。健ちゃんの同級生の自宅もすぐ傍にある。
5、6年前は初夏には蛍が浮遊していて、あたかも「精霊群れ飛んで交歓す」の小泉八雲的情景が展開されていたが、それもいまではわたくしの脳内に点滅するうたかたの幻影となりおおせた。
山腹の奥にうがたれた洞窟の奥には、かつて数多くの五輪塔が残在していたが、いまはどこかへ雲散霧消してしまったようだが、江戸時代の墓石は現代のそれに混じってここかしこに見受けられる。
なかには亡き愛犬の立派な彫像まで設けられていて思わず笑ってしまうが、その姿を垣間見た当の飼い主は、桜花乱れ落ちる卯月の夜に一掬の涙を漏らすのでもあろうか。
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてかの日藤山で捕えしあの岐阜蝶よ
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてわが捕えしギリシアの妖精
鎌倉廃寺事典には、「「風土記稿」に、十二所に昌楽寺谷の字があるという」としか記されていないが、わが地元史「十二所地誌新稿」には、
「生楽寺谷、寺の谷戸にあった。古地図によると小谷戸の入口であった。今無縁佛のある処である。そこには土で埋まって何人も知らなかった矢倉があって、中に五輪塔がころがっておる場所がある」
と、ちゃんと書かれているではないか。
かねて心当たりのある場所なので、たたちにおんぼろ自転車にまたがって現地に急行する。
一遍上人と塩嘗地蔵ゆかりの光蝕寺(こうそく)寺を左に見ながらおよそ100m奥に入ったところに、その小谷戸の入口があった。
満開の桜の木の下を母親と孫娘が歩いていく前方に昌楽寺(あるいは生楽寺)があったに違いない。
この谷戸は思いがけず奥行きがあり、現在は地元の土建会社の物置になっている。健ちゃんの同級生の自宅もすぐ傍にある。
5、6年前は初夏には蛍が浮遊していて、あたかも「精霊群れ飛んで交歓す」の小泉八雲的情景が展開されていたが、それもいまではわたくしの脳内に点滅するうたかたの幻影となりおおせた。
山腹の奥にうがたれた洞窟の奥には、かつて数多くの五輪塔が残在していたが、いまはどこかへ雲散霧消してしまったようだが、江戸時代の墓石は現代のそれに混じってここかしこに見受けられる。
なかには亡き愛犬の立派な彫像まで設けられていて思わず笑ってしまうが、その姿を垣間見た当の飼い主は、桜花乱れ落ちる卯月の夜に一掬の涙を漏らすのでもあろうか。
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてかの日藤山で捕えしあの岐阜蝶よ
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてわが捕えしギリシアの妖精
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