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Saturday, October 13, 2012

「古井由吉自撰作品七」を読んで




照る日曇る日第544

この巻では、1992年の「楽天記」と2002年の「忿翁」の、いずれも新潮社から刊行された2冊の単行本を収録している。

後者の中の短編「枯れし林に」は、葉を落とした冬の雑木林とそれらを構成している楢や欅の厳しい風雨に耐えている姿態と屈曲についての精緻な観察から始まり、やがてその孤独な樹木を象徴するような中年の主人公が登場する。

電車の中で手帳に記したメモをどんどん消去している男を見た夜、主人公は帰宅してからどんどん私物を整理し始める。ノートや雑誌、書類や手紙はもとより大中小の衣類に至るまでどんどんビニール袋と段ボールに詰め込んでいると、はじめはあっけにとられていた男の細君も一緒になって深夜の大掃除が明け方まで続くのである。

この小説で会社の不祥事に巻き込まれていた男は、このように一夜にして身辺を整理した後で、結局は自裁して果てるのだが、物を捨てるには勇気が要る。

それは物たちが自分が生きてきた過去の記憶と密接に繋がっていて、たとえ些細な物を捨てても、それは現在の自分を今も形づくっている大切な生きた過去を裁断し放棄し殺戮する行為だからである。

だから人はその裁断と放棄と殺戮に見合う、あるいはそれを凌駕する価値をどこかに見出すまではけっして物を捨てようとしない。数年前に父の唯一の遺品であるくたびれた鞄を、その中に収められていたたった一枚の彼の名刺とともに処分したときにも、私は改めてそのように思った。



古井由吉撰集パタリと閉じて思う中年男の妄想の凄まじさ 蝶人

思い出をひとつ殺してまたひとつ生みだしながら今日も過ぎゆく 蝶人

Friday, August 10, 2012

マーク・トウェイン著「トム・ソーヤーの冒険」を読んで




照る日曇る日第528


夏だ、休みだ、お子様ランチだ! ということで、柴田元幸氏の翻訳による文庫本を手にとってみましたが、これって全然子供が読む本ではないですね。

確かに悪戯者のトムが悪友どもをたぶらかしてペンキを塗らせたり、可愛いベッキーちゃんに恋したり、親友のハックたちと一緒に夜の墓場で殺人事件を目撃したり、家でして船に乗って野宿したり、島の洞窟でベッキーちゃんと一緒に行方不明になったり、殺人鬼インジャン・ジョーと遭遇したり、隠された埋蔵金を見つけたりいろいろするんだけれど、それはすでに青雲の志を懐いて世の中に出たもののやっさもっさするうちにくたびれ果てて消耗しこりゃあいったいなんのために生まれてきたんだべえ、なぞとほぞをかむ大の大人たちがおのが若き日々をゆくりなくも思い出し、心ゆくまで悔いんがための本なのである。

この少年童話の姿を借りた恐るべき予言の書は、しょせん人間、いや男には3つのタイプしかないと断言しているようだ。

生まれてはみたものの面白くもおかしくも無い生涯を全うするシド派、そこそこ冒険したあとで貯めたお金を元手に恋も事業も堅実に成功させてゆくトム派、そして大冒険の夢がついに実現し、一夜にして大富豪となったが自分の取り分なんか要らないから、元の乞食のような自由で奔放な浮浪生活に戻りたいと叫ぶハック派……。

 さて自分はどっちだったろうと考えながら、由比ヶ浜の波間に浮かぶわたくしだった。


昔から自分勝手な奴だったチャンスには滅法弱い鈴木一郎 蝶人


Thursday, July 19, 2012

川西政明著「新・日本文壇史第8巻」を読んで




照る日曇る日第523

「女性作家の世界」と題された本巻に登場するのは、佐多稲子、岡田嘉子、田村俊子、伊藤千代子、杉山智恵子、西沢あさ子、平林たい子、林芙美子、宮本百合子、野上弥生子、湯浅芳子、森茉莉、幸田文、井上荒野、岡本かの子、宇野千代、金子みすず、杉田久女、瀬戸内寂聴、鈴木真砂子、河野多恵子、中城ふみ子、富岡多恵子、網野菊、芝木好子、武田百合子、曽野綾子、竹西寛子、津村節子という圧倒的な壮観で、これを総覧すればとくに男子の作家など昭和の本邦では不要ではなかったのかという不逞で不届きな疑問すら湧いてくる。

総じて男の小説は観念的で一面的で万物を一刀両断して我が事足れりとする傾向があっるが、女のそれはそんな生易しいものではない。男のかっこつけた与太話が終わったあとでおもむろに女の終わりなき因果と因縁の世間話がはじまるからだ。

今回印象に残ったのは岡田嘉子と杉本良吉の手に手を取った北帰行である。人民抑圧国家ソ連にあらぬ幻想を懐いて国境を越えた二人は、それぞれ銃殺と流刑の憂き目をみたばかりか無辜のメイエルホルドまで巻き込んで粛清されるという悲劇を生んでしまった。

社会主義にめざめ大連に逃避して零落し、命からがら帰国してから文学人生を切り開いた平林たい子の小堀甚二、江田三郎との交渉も興味深いが、林芙美子と外山五郎、森本六璽、巴里の恋人白井晟一との数奇な異性関係、それにも増して宮本百合子、湯浅芳子、野上弥栄子の肉体と精神とが複雑に入り組んだ同性関係を叙した箇所は優れた小説を読むより面白い。

昭和四八年八月、著者が同席した井上光晴の通夜の席で、埴谷雄高が歌った時に瀬戸内寂聴が号泣したという「どこからきて、どこへゆくのか」という歌を、わたしも聴いてみたかった。


どこからきてどこへゆくのか誰ひとり知る者はなく日々は流れやがてわれらも去る 蝶人

Tuesday, July 10, 2012

ポール・オースター著「ブルックリン・フォリーズ」を読んで





照る日曇る日第522


朝日新聞の朝刊で、もはや何の噺だったのかも分からず意味不明の学校ネタと自動車ネタを小林秀雄の晩年の講演会の如く垂れ流している奥田英朗、伊坂幸太郎。そして吹けば飛ぶよなこんにゃく文体で下らないヨタ噺を書き飛ばして原稿料を略取している重松清に失望落胆かつあきれ果てたら、この1冊を手にとってみよう。

オースターは毎年1冊のペースで力作を出し続けているようだが、これは2005年の作品でニューヨークのブルックリン界隈に棲息する市井の人々のいかにもありそうで、しかし絶対にない話を抜群のストーリーテリング術を駆使、するのみならず、舌なめずりして楽しみながら書いている! から空恐ろしい。

「私は静かに死ねる場所を探していた」

という出だしからして読む者をじゅうぶんに惹きつけるが、続く数ページでもはや読者は完璧に著者が繰り出すものがたりの蜘蛛の糸の虜になってしまうに違いない。

んなわけであるからしてあらすじ等については触れないが、晩年のカフカが公演で出会った人形を無くして悲しんでいる少女のために、なんと3週間続けて渾身の力を振るって人形からの手紙を書き続けた、という感動的な逸話ははたして本当なのかしらん。

そんな手紙は少なくとも私が読んだ2種類の全集には収められてはいなかったが、これもオースターの「天才的な」作り話だったりして。
ともあれ小説家のプロの仕事の最良の見本が、ここにある。


そんな情けない声でしか鳴けないのかニイニイゼミ 蝶人

Saturday, June 30, 2012

谷村志穂著「尋ね人」を読んで





照る日曇る日第521


地元函館の強みを生かした母子情愛と女の生き方模索とミステリー、それに洞爺丸遭難事件という一大海洋サスペンスを足して4で割った大衆読み物です。

 東京の表参道で有名デザイナーの愛人兼アシスタントをしていたヒロインが、その愛の不毛に疲れて郷里の北の港に帰り、余命いくばくもない母親の生涯の恋人探しに巻き込まれてゆくというストーリー展開は良くできてはいますが、その「いかにも」なぶん、いつかどこかで読んだような気がして通俗的です。

 しかし久しぶりに郷里に戻ったヒロインが老いた母親に初めてのように向き合い、その知られざる秘めた情念に接するなかで自分を取り戻していく辺りは堂に入った描写となり、そこでは観光客が知らない函館の夜の街の表情や住人の姿が鏤められていてなかなかに興味深いものがあります。
 
 しかし圧巻は1954年、昭和29年の台風マリーで海没した洞爺丸の惨劇で、この巨大な連絡船が嵐の海に呑まれてゆく光景を、作者はあたかも3月11日の大津波に亡くなった御霊の鎮魂譜のように、痛々しくも厳かに描破してのけたのでした。


十二所神社のバス停で座りこんでたあなたが待っていたものは何 蝶人

Friday, June 22, 2012

三木卓著「K」を読んで




照る日曇る日第519回


そもそも夫婦というものはあかの他人であるからして、喜びも悲しみも幾年月、いくら相思相愛で結ばれようが長い歳月が経過する中でいろいろな葛藤が水の中に水素が湧くがごとく、空気の中に酸素が噴き出すがごとく生起して、とうてい予定調和の一筋縄の結着をみるわけにはいかない複雑怪奇の関係性をけみするはずのものであるが、相思相愛どころか最初からボタンの掛け違った場合は、それがいっそう甚だしいのであろうか、いやそれとも案に相違して南極と北極ほどもかけ離れていたはずの両極端の男女が琴瑟相和して好々爺孝行婆となりおおせてあんきに生涯を終える例も枚挙に遑これなく、いずれにせよ夫婦生活の真相は当該の夫婦自身にも杳として不明というのが世の常であったが、そこに登場したこれなる実録ゴキュメンタリー的私小説では作者と凡そ半世紀に亘って連れ添うた細君との痛恨の決別がその出会いの「野合」の日から始まって72歳で癌でみまかるまでの47年間のあれやこれやがCe qui n'est pas clair n'est pas françaisの代名詞である仏蘭西の哲学者アランのプロポのような明快さで縷々述べられ、それはまた作者による愛妻の介護録であると同時に半自叙伝にもなっており、少し冷静に距離をおいて己を他人のように観察する鋭さと冷たさはカサノヴァの回想録の筆致を思わせるのだが、読む者は彼ら2人があるときは愛し合いまたあるときはニルアドミラリな様相に陥りつつもかろうじてどこかで赤い1本の紐で繋がっていることを確認しておおいに安堵し、またあるものは、この腸ガンを患った女性が4年10カ月の間に腹部を2度、脳を2度手術され最後は体重25キロを割った状態で召されたことに一粒の涙を灌いだりしながらああ人生は大変だなあ、夫婦を続けるって大変なことなんだなあとなどと呟きながら何故だかドガの「眠れる子供」の挿絵が飾られた嵩高紙の226頁を恭しく閉じることだろうが、おやおや表題のKとは作者の妻君で本名は福井桂子という詩人であったことをつい書き忘れてしまうところだった。

細君と峠の湧水を訪れて手足あるオタマを返しやりけり 蝶人


Tuesday, June 05, 2012

ドナルド・キーン著「続百代の過客」を読んで




照る日曇る日第518回

前巻に続いて本書で取り上げられたのは、万延元年1860年に日米修好通商条約を批准するためにアメリカ合衆国に渡った村垣淡路守の「遣米使日記」にはじまり、明治42年1909年に中央公論に発表された永井荷風の「新帰朝者日記」で終わる日本人によって書かれた32種の日記類であるが、いずれもできたらすべて原著に当たって隈なく目を通したくなってしまうほどの無類の面白さである。

冒頭の村垣淡路守や夏目漱石が異国の風俗習慣文物等に対して、(私と同様)苛立たしい拒否反応を示しているのに対して、「奉使米利堅紀行」の木村摂津守や新島襄、津田梅子、私の大好きな成島柳北、鴎外、荷風などはごく自然に西欧世界になじんでいるのが羨ましい。西欧に憧れたり同化を願ったりする知識人の多くが、同胞であるアジア人や黒人を一段低く見ているなかで、アイヌをこよなく尊敬し友愛をはぐくんでいた「北方日誌」の松浦武四郎は、まさしく時代を超越した本当のコスモポリンタンであったと思う。

西欧文明との接触の仕方は別にして殊に興味深いのは明治の自由主義者、植木枝盛の日記である。そこで彼は自らを天皇に擬して己を「朕」と呼び、京の芸妓に民権踊りを教え彼女たちと果てしなき性交を繰り返しながら日本革命の夢を見ている。羨ましいことに、彼の性的放縦と自由主義イデオロギーはなんの矛盾もなく一体化していたのである。

性的な記述に関しては「一葉日記」や石川啄木の「ローマ字日記」がつとに知られているが、圧巻は徳冨健次郎の「蘆花日記」で、ここで穴の毛端まで包み隠さず開陳されたその旺盛な性欲は、彼の女性に対する暴力や兄蘇峰に対する強烈な憎悪とともに、一読して容易に忘れることができないだろう。

また国木田独歩の「欺かざるの記」は、正岡子規の晩年の有名な3つの日記と並ぶ明治日記文学の傑作であるが、若き日にワーズワースのリリック「The Idiot Boy」を読んだ独歩が、ここに登場する母親と知的障碍の息子の無償の愛に感銘を受けて彼の短編「源おぢ」を書いたのではないかという推察は、「さすがは鬼怒鳴門!」とその学者魂に強い感銘を受けたことだった。

いずれにせよ正続2巻の「百代の過客」は、これを読まずに泉下に沈めば大いに後悔すること請け合いの文芸文化遺産である。


滑川に平家蛍乱舞す七時半 蝶人


Friday, June 01, 2012

高橋源一郎著「さよならクリストファー・ロビン」を読んで



照る日曇る日第517回

毎日毎日砂を噛むように空虚な時間が流れて行き、ともすれば天変地異も勃発し、人々はおのれの存在理由を見失う。慣れ親しんだ友人や物や世界が、気がつけばどんどん失われていくのである。

この明るい崩壊の時代にあって、それでもなお正気を保ったままよき社会人、家庭人として生き続けていくためにはなにが必要か。おそらくそれは毎日ささやかな夢を見ること、どんなに絶望してもあえて見続けることである、と著者は説いているようだ。

表題作の主人公、クリストファー・ロビンも、3.11の衝撃で精根尽き果てたあの吉田秀和翁のように老いさらばえて両手を上げて、静かにあの世へ旅立ってしまった。しかしクリストファー・ロビンも吉田秀和翁も、遥かな遠い世界へ去ったのではなく、きっと私たちの傍にいて私たちのことを温かく見守っているに違いない。

それどころか、著者が「ダウンタウンへ繰り出そう」で書いたように、死んだ人たちは愛犬ムクと手を携えて、遠からずわたしたちの世界へ帰還してくるのかもしれない。死者と生者が現世と来世をお互いに行き来しながら共生するという夢は、誰もが一度は夢見る夢かもしれない。

しかしそれが他ならぬ高橋ゲンちゃんによって組み立てられると、ある朝君が目覚めたら、ベッドの隣に鉄腕アトムが眠っているような驚きとリアルな相貌、そして一抹のノスタルジーを帯びてくるから摩訶不思議だ。

大切なもの、偉大なもの、愛しいもの、壊れやすいものはどんどん消えてゆくが、著者が力説するように、わたしたちが消えるまでになすべきことは、まだたくさん残っているのである。

明日を生き抜くために今夜しっかり夢を見ること 蝶人


Wednesday, April 25, 2012

古井由吉著「古井由吉自撰作品一」を読んで




照る日曇る日第511
 

8巻の刊行が開始された本シリーズであるが、第1巻の本書では1971年に発表された「杳子」「妻籠」、72年の「行隠れ」、76年の「聖」という著者の初期の代表作が収められている。

「杳子」では、山登りの途中で偶然行き悩んでいる杳子と知り合った男性の視点で、精神の病に冒された若い女性との神経がひりつくような激烈な交渉を描いて読者を圧倒する。なんといっても凄いのは著者の女性心理をレントゲンで透視するような鋭い観察眼で、障碍に苦しむ杳子の奇妙な行動や立ち居振る舞いを微細に冷徹に散文に定着する作家の筆の冴えは、ほとんど偏執狂に酷似する。

ただし本書86ページ上段最終行の「まるで自閉症の女みたいに、何を言われても、そっくり同じ表情で、同じ返答を依怙地にくりかえしている」という表現は、この障碍の本質の完全な誤解に基づく表現なので版元は一刻も早く訂正するか削除して欲しい。

5つの短編からなる「行隠れ」は、両親と2人の姉で構成される山方家の人々を、主人公である弟の康夫の視点で描いた連作小説である。

「その日のうちに、姉はこの世の人でなかった」

という冒頭の謎めいた1行に導かれた読者は、たちまち物語の底知れぬ深みに向かって墜ちてゆき、最後の1行までうむを言わさず読まされてしまう。これぞ昭和日本文学が打ち樹てたロマンの金字塔であり、全ての読者が小説を読むことの恐ろしさと楽しさを満喫するだろう。

ところがその「行隠れ」よりも物凄いのが「聖」の世界で、ここでは東京から迷い込んだやさぐれ中年男が、村に先祖代々伝わる聖なる放浪者サエモンヒジリの衣鉢を継ぎそうになる話だが、ここでも村の女との蛇がうねうねでんぐり返るような交情が異彩を放つ。げに古井由吉とは、舌なめずりしながら女を書き犯す文学者である。なお朝吹真理子とかいう小説家が、「史上最低の解説文」を書いているので、これまた必読ですぞ。


やよ古井由吉。君は舌なめずりしながら女を書き犯す文学者也 蝶人


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私の友人が2月に買い付けたフレンチ雑貨を1000円前後で超お買い得サービスするそうです。
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Tuesday, April 10, 2012

ドナルド・キーン著作集第1巻「日本の文学」を読んで

照る日曇る日第507回&バガテルop151

せんだってキーン翁は、晴れて我らが同胞の一員となられた。これについてわたくしは北区西ヶ原の区役所が小さな花束を贈ったことは知っているが、その他からあまり歓迎の声が掛からないのはいかなる仕儀であろうか。

わが国はアメリカなどと違って二重国籍を許さない偏狭な国家なので、すでに老境に達した異国の人が、いかに日本および日本人を愛しているとはいえ、大震災で来日に二の足を踏む外国人や原発被害で南西日本や海外に逃げ出す日本人も多い中、愛する母国アメリカを捨ててまで東洋の島国に骨を埋める決意を固められたことについて少しは思いを致し、江湖の声をひとつにしてその勇気ある決断を称えてもよいのではなかろうか。

さりながらめでたく帰化して「かけがえのない日本人の宝」のとなられたキーン翁から、改めてわが国の古典文学についての話を聞くことは、さしたる愉しみなき境涯の身のわたくしにとって、またとない悦びであった。

本巻では吉田健一の訳した「日本の文学」を皮切りに、篠田一士訳の「日本文学散歩」、大庭みな子訳の「古典の愉しみ」、そして全国各地で日本語で語りかけられた文芸講演、エンサイクロペディア・ブリタニカに掲載されている「日本文学」の英語解説まで、じつに多種多様、バライェティに富む本邦の文学、小説、詩歌、演劇などの論考や随想が載せられているが、執筆年代が少し古いにもかかわらず、いま読んでもどれも新鮮で面白い。

とりわけ「日本文学散歩」出てくる大村由己、細川幽斎、木下長嘯子、宝井其角、平田篤胤、大沼枕山、仮名垣魯文などの諸氏の文芸事績とその作品評価は、彼らについて暗いわたくしには初めて聞くことばかりで勉強になった。

芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」について、「イ音」が多いことに注目し、芭蕉はこれがセミの鳴き声に似ていることを知って意図的に詠んでいると指摘しているのも興趣深いが、ここからその時に鳴いていた蝉が、アブラゼミでもクマゼミでもヒグラシでもミンミンでもなく、ニイニンゼミであることを改めて認定できよう。

NYのメットで「アイーダ」の終幕のリハーサルをしていたトスカニーニが、主役のソプラノに「そんな悲しそうに歌うんじゃない。これは生涯のうちの喜びの瞬間なんだ。喜びをもって歌いなさい」と指示するのを聞いた瞬間、「これこそは近松の心中する主人公たちが考えたことだ」とつい思ってしまうのが、ドナルド・キーンという人なのである。

キーンさん、日本人になってくれてありがとう! 蝶人

Monday, March 26, 2012

ちくま日本文学全集「尾崎翆」を読んで

照る日曇る日第506回


 裏日本の山村の野良仕事には、弁当を忘れても雨具が欠かせない。晴れ間を縫ってたちまち驟雨が落ちてくるからだ。そんな山陰の陰鬱な風土に逆らうように、一輪の清新な花が咲いていた。それは泥田に咲いたポップでシュールなダダの花。新吉にも、中也にも、治にも、賢治にもちょっぴり似てはいても、それは全然種属を異にする、そしてついに誰にも継承されることなく絶滅した貴種の新しさであった。

そしてこの奇跡の新しさが誕生するためには、霧深い裏日本の山村の憂鬱な曇天と冬なお温暖な太平洋ベルト地帯の晴朗の光の両方を必要とした。陰と光、田舎と都会、女と男、日本と西欧、畳とガラス、現実と詩、動物と植物たちは、試験管の内部でいくら攪拌されようともついに融合されないまま、解剖台上のミシンと蝙蝠傘の思いがけない出会いのように邂逅し、予告もなしに訣別してしまう。

 作者の脳内には、異様な磁力を有する自己物語化の天賦の才が独楽のように高速回転していて、そこから病院と薬物や兄と妹や分身と分心やこおろぎ嬢と詩人うぃりあむ・しゃあぶとチエホフとチャプリンなどが、まるで朔太郎の手品のようにガラガラポンと飛び出してくるのである。

 このような創作手法は、大正9年の「無風帯」や彼女の最後の作品とされる「神々に捧ぐる詩」では凡庸で陳腐な作物を生み、彼女の代表作とされる「第七官界彷徨」では複雑怪奇な芳臭と輝かしい才気を全方位に亘って放散している。しかし所詮これらは著者自身にも自由に出来ない哀しい精神常態から自動産出されているので、世間や文壇がその芸術的価値の上下をうんぬんするのは勝手だが、著者自身には全く関わりのないことだった。

 そしていくら暗中模索しても、この「永遠の聖少女」には、それ以上の、あるいはそれ以外の表現回路を切り開くことができなかった。それが、彼女が三九歳の若さで擱筆してから三五年の歳月を、さながら昼間に点滅する蛍のように、明るく、はかなく生きながらえた最大の理由ではなかったのか、と平成のこおろぎ男は春宵独りさみしく呟いてみたりするのだった。

雑巾を豊岡の街で売り歩く五十一歳の聖少女よ 蝶人

Tuesday, March 06, 2012

円城 塔著「道化師の蝶」を読んで

照る日曇る日第501回

 飛行機の中で昆虫網を振り回したら、架空の新種の蝶アルレキヌス・アルレキヌスなる「道化師のような蝶」が採れました。

これは本書の引用ではありませんが、例えばこーゆーよーな内容のフレーズがビシバシ登場して参ります。

普通なら我が家のムクも歯牙にもかけない変態的作品が何故か芥川賞を受賞したために、やれ安部公房の真似だとかSFの下手くそな習作、超難解理系純文学とかアホ馬鹿駄文の見本などといろんな評価が乱れ飛んで、それがかえって洛陽の紙価を高騰させているようです。

がしかし、この小説のほんとうの値打ちは、やたら肩入れして「死んでいながら生きている猫を描こうとしている画期的小説!?」などと無闇に意気込んでいる川上弘美選手よりも、著者本人がいちばんよく分かっているのではないでしょうか。まあ世間がらあらあと騒ぎたてるような代物でないことは間違いありません。

私はともかく途中で居眠りはせずに最後まで紙上に乾いた視線を晒すだけの義理は果たしましたが、これは新しい文学的感興がむくむくと湧き起こるような瞬間は、ただの一度もありませんでした。

小説に因る人世の方法的制覇を目指して夢中で書いている本ご人はきっと楽しいのでしょうが、その醍醐味は架空の新種アルレキヌス・アルレキヌスよりも、春になれば郷里の里山に優雅に舞い飛ぶ超現実種のルエホドルフィア・ジャポニカを偏愛する私のような蝶保守的古典文学マニアをてんで満足させてくれはしませんでしたね。

文体やあらすじがどうのこうのと評しても意味がないので書きませんが、この醒めた唐人の寝言のような奇妙な日本語列を反芻していると、なぜか最近は誰も聴かなくなってしまったいにしえの現代音楽のことが思い出されてきました。

実際本作品には初めて12音音楽に挑んだかのシェーンベルクの懐かしい響きが聴こえてきますし、同時に芥川賞を受賞した田中選手の作品では新ウイーン学派の無調やノイズミュージックの乱入も散見されます。先駆する中原昌也の革命的な実験作も含めて、鴎外、漱石、芥川、荷風、谷崎、太宰、三島、大江、村上の正統派に反旗を翻そうとする「平成現代文学」がおそまきながら産声を上げようとしているのでしょうか。


腐敗堕落した文藝春秋社賞なぞによりかかることなく、犀のやうに文学路地を歩め 蝶人

Friday, February 24, 2012

花村萬月著「信長私記」を読んで

照る日曇る日第497回

太田牛一の「信長広記」の向こうを張って、やさぐれのごんたくれ作家がいっちょでっち上げたる「信長私記」である。どうせ編集者の推挽で無理矢理書かされた連載小説なのだろうが、彼の血湧き肉踊る京都を舞台にした肉弾自叙伝と違っていまいち、いま二、いま三乗りが悪く愉しめなかった。

ごんたくれが尾張織田家のごんたくれになり代わって一族のみそっかすを打倒したり、斎藤道三の娘濃姫と濡れ場を演じたり、後年の前田利家の尻の穴を破ったり、後年の秀吉や家康の人となりを見抜いたりする戦国青春ヤッホーホイサッサのアホ馬鹿噺であるが、例に因ってくだんのごとし。面白くもおかしゅうもない。

 竹千代、すなわち当時織田家の人質になっていた家康が、「永久に戦のない世界を作ることが自分の願いである」、と語って、そんなことは阿呆鱈経の絵空事と考えている信長親子を驚かせるところが出てくるが、この家康流の信条って昔からNHKの大河ドラマの女流脚本家の決まり文句であるなあ、と思って軽くのけぞってしまいましたよ。まる。


青空に孤蝶消えゆく寒さかな 蝶人

Saturday, February 18, 2012

ジョン・アーヴィング著「あの川のほとりで下」を読んで

照る日曇る日第497回

76歳になる主人公の父親を執拗につけ狙ってきた87歳の元保安官代理は、コルト45の凶弾を胸にぶちこんでついにその黒い宿願を果たすが、58歳の息子であり作家でもある主人公の20口径のウインチエスター銃の3発の散弾を浴びて息の根をとめられ、親の因果が子に報いる因縁の復讐劇はとうとう幕を下ろした。

しかしいかに元警官が冷血漢で、己の愛人を寝取られ、その殺人の濡れ衣を着せられたとはいえ、およそ半世紀に亘ってその憎悪と殺意を持続し、あらゆる困難にもめげずにその復讐を貫徹できるものだろうか? 恐らくその凶悪な暗殺者の悪への暗い情熱は、同伴し続けた作者の内奥にも不気味に蠢めいているのであろう。良きものを大切に育もうとする作者の善き情熱と同じ重さで……。

哀れ我らが主人公は、父親ばかりか最愛の息子も事故で失う。そして父親の親友で主人公の親代わりだった偉大な樵ケッチャムの悲愴な最期、9.11後の母国アメリカを覆い尽くす亡国現象……相次いで襲いかかる死と人世の虚無と無常を、著者はこれでもかこれでもかと描きだす。そう。作者に指摘されるまでもなく、世界は確実に死と滅亡に向かっているのだ。

しかしながら極寒の吹雪の大空から天使が降臨し、絶望の淵に沈む主人公に愛の光を注ぎ入れるささやかな奇跡は、私たちがかつて映画「ガープの世界」の冒頭で見たみどり児のほほえみをただちに連想させ、まるでダンテの「神曲」のように地獄と煉獄をさすらうこの神話的な長編小説が、天国への見果てぬ夢を紡ぐひとの巨人的な幻想の産物であることを思い知るのである。

冬空の下、もういちど物語の素晴らしさを信じ、もういちどそれぞれの「人生の大冒険」を始めよう、と説く作者の孤独なアジテーションが、ボブ・ディランの嗄れ声のように寥々と鳴り響いている。


宙天に孤鳥嘯く冬の朝 蝶人

Wednesday, February 15, 2012

ジョン・アーヴィング著「あの川のほとりで上」を読んで

照る日曇る日第495回



現代アメリカを代表する偉大な作家の最新作の上巻を読んだところです。

この長大な(私が思うに)ビルドゥングスロマンは、1954年4月、泥の季節のニューハンプシャー州の小さな町を流れる「曲がり河」の丸太の下に沈んだ一人の少年の挿話から始まります。

そして1967年のボストン、1983年のヴァーモント州のイタリアンレストランへと舞台を移しながら、その間、氷結した川の上で2人の男のまわりで典雅なスクエアダンス踊っていた主人公の美しい母親の突然の溺死、叔母とのめくるめく性愛、主人公の父と冷酷な治安管の共通の情婦!をクマの襲撃と勘違いして!フライパンの一撃で!死に追いやった主人公!の悲嘆と一家の逃亡などの悲話を、「これが小説だあ!」とばかり銀ぎら銀にさりげなくさりげなく織り込みながら、ゆらゆる不気味に昇りつめる後楽園のジェットコースターのように次第に加速し、薔薇色の生と性の喜びと黒い死のコントラストを、父母未生以前の本源的なものにしていくのです。

作家は自らの分身である主人公とその一族の途方もない来歴を、始めは処女の泉のごとく、次には次第に激しく流れる川のごとく、佳境に達すれば悠揚迫らぬ海の満ち引きのように自由自在に語るのですが、その語りの低音部でじわじわと高まって来るこの未聞の法螺話とホラーがアマルガムに合体した恐ろしさの正体はいったい何なのでしょうか? 

それは少年時代の漱石が我知らず釣り上げてしまった巨大な怪魚の恐ろしさに少し似ていて、かつてこの作家の先達であるポーやクーパー、ホーソーンやメルヴィル、フォークナーがそれぞれの流儀で描いた世界でもあります。

果たして主人公の父ドミニクは、冷血カウボーイの魔手から逃げおおせることができるのか? そして父親と共にあっちこっちを逃亡しながらいつしか著者を思わせる有名作家になりあがった我らが主人公の運命は、これからどのように変転するのか? 

本書の翻訳を担当されたわが敬愛するミク友「上野 空」さんの、セミコロン連発の複雑怪奇な原文をあざやかに紐解く達意の翻訳と相俟って、途方もない傑作への予感が胸を限りなくときめかせます。

われ俄かに和製サンテックスとなりてマライ半島を下りぬ 蝶人

Sunday, February 12, 2012

林望訳「謹訳源氏物語七」を読んで

照る日曇る日第494回

本巻に収められたのは「柏木」「横笛」「鈴虫」「夕霧」「御法」「幻」の六つの巻です。

源氏が目に入れても痛くないほど大事にしている正室の女三の宮が、かつての頭中将の息子、柏木に犯されて子をなすくだりはまことに因果応報。若き日の源氏が桐壺帝と藤壺に対して冒したあやまちを身を以て追体験させる紫式部の冷徹な断罪は、主人公のみならず現代の読者の襟をも粛然として正しめずにはおきませぬ。

自責の念に駆られてはかなくもみまかった柏木の正妻、落葉の宮を狙うのは、今は亡き葵上との間に出来た源氏の一人息子、夕霧。さうして源氏ジュニアのいかにも不器用な横恋慕をはさんで、ようやく老境にさしかかった主人公を突如襲うのが、愛妻、紫上の死であります。

そんなに大切な妻ならもう少し生前に浮気を控えて大事にしてあげればよかったのに、と思っても、後の祭りとはこのことぞ、このことぞ。若き日の輝かしい光も急激に色褪せ、五二歳の雲隠を目前に控えた我らが主人公の落日の悲哀を、作者は残酷なまでに抉りだすのでした。

林氏の現代日本語訳は、谷崎潤一郎訳等に比べるといささか格調には欠けますが、これまでのいずれの訳者をも凌ぐ分かりやすさとテンポの明快さは素晴らしいものがあります。

太刀洗泉に二個のおたまが浮かんでる如月十日は春の訪れ 蝶人

Friday, February 10, 2012

マリオ・バルガス=リョサ著「悪い娘の悪戯」を読んで

照る日曇る日第492回


ノーベル賞作家の2006年度の作品を読みました。

作家自身を思わせるペルー生まれのうぶな青年がリマ、パリ、ロンドン、東京、マドリッドを転々としながら運命の悪女を少年時代から激愛し、徹底的に入れ上げ、渇望しながら終始追いもとめ、たまにはセックスさせてもらいながらもまた逃げられ、翻弄され、日本ではヤクザのフクダに全部いいとこを持っていかれ、あまつさえ虎の子の貯金を入れ上げてもてんで悔いず、籍を作るために結婚してやり、またしても他の男に逃げられ、頭にきて娘ほど年の離れた若い女と浮気をしたり、それで頭に来た女が怒鳴りこんできたり、そうこうしているうちに2人ともどんどん歳をとり、とうとう万骨枯れて死病に取り付かれた女と再会した主人公は半世紀に及ぶ大恋愛の最後の瞬間をかのポウル・ヴァレリーが「海辺の墓地」を書いた南仏セトの海のほとりで大団円を迎えるのです。

モデルのような容姿、いたずらめいた濃いはちみつ色の瞳、ぽってりした小さな唇の持ち主にいちころで魅了された男性の半生記なのですが、そういう経験のないわたくしにはあんまり感情移入が出来ないし、このヒロインの魅力がいまいちのみこめない。でもきっとよっぽどチャーミングな小悪魔のようなファム・ファタールだったんでしょうな。

プルーストが言うように、あばたもえくぼ、すいたはれたも病のうち、虚仮の一念岩をも通す。信じる者はとうとう思いを遂げるんでしょう。されどよく出来た恋愛小説だとは思いますが、わたしにはてんで思いを馳せることすらできない絵空事の世界でした。


奇声上げらあらあ泣きながら走る人憎んでいるのはこの私とは 蝶人

Saturday, February 04, 2012

角田光代著「空の拳」を読んで

照る日曇る日第491回

日本経済新聞の夕刊に連載されていた拳闘小説がついに大団円を迎え、私は感動と一掬の涙と共にその最終回を読み終わった。小説を読んで感動の涙を流したのは遠くはロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」、近くは高橋源一郎の「官能小説家」以来だから久しぶりだが、涙は小説以外でも毎日のように大量に噴出させているからたいした話ではありませぬ。

それよりも角田光代は凄い。なんたって女だてらに草食男も三舎を避ける後楽園ホールへ日参して見事ボクシング小説を書きおおせたのだから。

ジャブ、ジャブ、ストレート、アッパーカット!

リングの上では血湧き肉躍り、鍛え抜かれた肉体と肉体が激しく切りむすぶ。
主人公の立花はじめこの未聞の格闘技に魅入られた無名の青年たちが黙々と真剣勝負に挑む姿を、著者はやわな編集者空也の視線を借りてなんと生き生きと、美しく、チャーミングに造形することに成功したことか。

 立花のトレーナー、萬羽の姿もかの丹下段平をそこはかとなく忍ばせ、これは名作漫画「あしたのジョー」の平成小説版かと思う読者もいるだろうが、これはもっと身近でもっと切なく、もっともっと卑小な人間が精一杯戦い、生きる姿がいとおしくなるような、そんな素敵な現代のロマンなのである。

ジャブ、ジャブ、ストレート、アッパーカット!

この作品を通じて角田光代は、苦難に満ちた現代の日本に生きている私たちに力強いエールを贈ってくれたと言うべきだろう。それにつけても、一日も早い単行本化が待たれる。 


ジャブ、ジャブ、ストレート、アッパーカット! さあ生き抜くんだ俺たち!! 蝶人

Friday, February 03, 2012

村山由佳著「放蕩記」を読んで

照る日曇る日第490回

挑発的な題名に惹かれて手に取ってみたが、いったいこの小説の主人公のどこが放蕩なのかさっぱり分からなかった。

放蕩とは広辞苑によればほしいままにふるまうこと。特に酒食に耽って品行が修まらないこと等とあるが、ヒロインは少女時代にちょっぴりレスビアンの真似をしたり、高校時代に2人のクラスメイトと先輩と致したり、大学時代に出版社勤務のリーマンとラブホテルへ行ったりするくらいで、この定義のいずれにもあてはまらない。

その後もいろんな男と寝まくったというのだが、よしんば彼女が毎晩違う男と床入りしたからといってそれを色情狂と称しても放蕩娘とは言えないだろう。それはこのヒロインンがきわめて意志強固な倫理的な志操の持ち主であり、肉欲に溺れて男を漁らざるをえないマンイーターとは鋭く一線を画しているからである。

それでも彼女は粋がって自分を放蕩娘と命名したいのかもしれないが、彼女が放蕩するのはより深く人世を知り生き抜くための方法的放蕩であって、肉が肉に溺れるほんたうの放蕩とは似て非なるものである。

本作では関西弁で饒舌に自己表現する主人公の母親が登場して大活躍するが、どこの家庭でも母と娘とはまあこんな関係だろう。そう大騒ぎして書きこむほどのことはない。花村萬月ばりの波乱万丈の放蕩記を期待したのに、出てきたのは世間でよくある母娘の葛藤話。これを平凡な文体で延々と書き連ねられると読むほうもうんざりしてくる。こんな作家がよく直木賞をもらったものだ。

鬼は外福は内!無限の闇に投げました 蝶人

Wednesday, February 01, 2012

吉川一義訳プルースト「失われた時を求めて3」を読んで

照る日曇る日第488回

スワンとオデットの恋が冷める果て凡庸そのもののサロン生活が開始されると、彼らの娘オデットと主人公との恋物語が延々と繰り広げられる。

そして知的な男性の片割れであるところの私は、スワンと同様その常として相変わらずおのれの前頭葉でひねくりまわした恋人の幻像に翻弄され、疲労困憊し、とうとう念願の恋を成就することなく自縄自縛に陥って自爆する。浅はかと言うも愚かで哀れな男子の所業である。

恐るべきは著者のその真情と心情に対する通暁であって、これはやはりみずからの恋愛体験とその心理的解剖の微分積分のなせるわざであろう。頁をはぐって読むだに恐ろしく涙ぐましい所業の数々がミクロの決死圏で描破され、当時の巴里の社交界ではこういう恋愛ごっこが競うように実践されていたことをうかがわせる。

されど虚飾と退廃の陰に咲く絵画や文学や演劇への愛はつねに私たちをこの世の果てへの旅に誘う。フェルメールの恐らくは最初の理解者であったプルーストのするどい審美眼が、この奇跡の書物を誕生させたのである。


どうしようもなく牡どうしようもなく牝  蝶人