Thursday, September 30, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第31回

bowyow megalomania theater vol.1


「そこに、のぶいちが、いる」

と、公平君は押し殺したような低い声で、言葉を胸からきれぎれに押し出すように言いました。きれぎれに押し出すように言いました。

見るとススキの根元から3メートルくらい離れたところに、息も絶え絶えののぶいっちゃんが両手をぐったりと広げ、下半身が川の中にすっぽりと浸かったまま地面に横たわっていました。おそらく川を渡り切れずに途中で意識を失ってしまったのでしょう。

僕は大急ぎで不思議なお家にとって返して、みんなを連れてきました。みんなで公平君とのぶいっちゃんを、ふうふういいながら不思議なお家までひっぱりこみました。

洋子は小川から水を汲んで来て二人を裸にして全身をきれいに拭き清め、身体のあちこちで傷ついて、血が出たり、あざになっているところにきれをまいて、家の奥の方に並べて寝かせました。

夜中を過ぎたうしみつどき、公平君は突然

「くそ、ばかあ、のぶいちをはなせ、はなせ! はなさないと一発お見舞いするぞ!」

と寝言を言いました。



おシャモジは奇麗に洗ってくださいね何回言ってもあなたは聞かないけれど 茫洋

Wednesday, September 29, 2010

西暦2010年長月茫洋花鳥風月人情紙風船

♪ある晴れた日に 第80回



歌ひとつ詠まずに旅から帰りけり

油蝉リュリュリュ晩夏流る

家守棲む家に寝そべる楽しさよ

居待月太鼓叩いて笛吹いて

一夜明け一億沈思の秋となる

イチローが一日一本打つように生きること

魔法使いの棒一閃オオウナギぐるりぐるり

この臭い汗は絶対に私の所産ではないぞ

これでもかこれでもかと君は己の臓物を投げつける

次男去りし翌日仙人草の白く小さな花咲きにけり

求めよさらば与えられんといいしはさだめし若きひとならむ

伊豆の夜真夏の銀河のさんざめきグールドの哄笑谷間を揺るがす

どうしようもなくつまらないのにつまるようにもてはやす世間の痴れ者たちよ

小利口な優等生の脳内にひそと咲きたる黒百合の花

1か月1滴の水もなく堪える草白く小さき花をつけたり

君と共に熊野神社を歩きおれば特許許可局と杜鵑鳴く

楽天的な革命家と革命的な楽天家いずれも困ったものなり

熊のような大猿が名指揮者の猿真似をしていたよ

ウエブによって結ばれし新しき友情ここにあり 

ああグルダのフィガロこの演奏を耳にせず泉下の人となるなかれ

どうしてああも自分勝手な男なのだらうと思っているのであろう

まぐわいて産みつけて一週間で死んでいく見事な生き方

一粒の麦死なば多くの実を結ぶのだろうかと一粒の麦は迷う

いずれが最小不幸宰相ならむ阿呆馬鹿絶叫大演説を消す

幾時代かがありまして、茶色い人たち騒いでおりました

私の好きな女子アナなど大海に漂うアブクのようなものなんだなあNHK

ペルリでもやって来たのかフジテレビお台場お台場と毎日騒ぐな

一本の腐りかけたる大根の葉っぱに咲きたる白き花かな



塩酸のたぎる湯の川に投げ入れてみちのくきりしたんを責め殺したり 茫洋

Tuesday, September 28, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第30回

bowyow megalomania theater vol.1


そうして、それから夜になりました。

ひとはるちゃんは、だいぶ発作が治まりましたが、いぜんとして熱が高く、あれからずっと洋子と文枝が看病しています。でもまだ意識は戻りません。

僕は一人で外へ出ました。おそろしいほど先端がとがった鎌のような月が銀河の無数の星星と一緒に西南の空を明るく輝かせています。冷たい大気が全身を包み、僕は思わずおちんちんがぎゅっと縮んでいくのが分かりました。

すると、昼間ススキの穂が動いていたあたりで、なにやら物音がしました。銀の波が大きく2つにぱかっと分かれ、高く茂ったススキの群れを踏みながら、黒い影がどさりと倒れました。

その黒い影のあたりから、なにやら奇妙なうめき声がしています。
僕は急いで小川を渡り、原っぱを走りに走ってススキの根元に駆けつけました。

公平でした。公平君は体中のあちこちが傷だらけでしたが、血まみれの左手にピストルをしっかり握りしめていて、僕がその銃身に触ると熱がほのかに伝わってきました。


ペルリでもやって来たのかフジテレビお台場お台場と毎日騒ぐな 茫洋

Monday, September 27, 2010

今井彰著「ガラスの巨塔」を読んで

照る日曇る日 第376回

かつてNHKの辣腕ディレクター&プロヂューサーとして「プロジェクトⅩ」などの人気番組を企画制作した人物による実録風小説です。

「プロジェクトⅩ」はその音楽の変態的誤用や仰々しいナレーション、出演者の異様な興奮と突然の涙が気色悪く、一度もラストまで観賞したことはないのですが、著者によれば「НHKの看板番組」として一世を風靡したようです。

私にとっての看板番組は「サラリーマンNEO」「世界街歩き」「アグリーベティ」「なげやりな妻たち」「刑事コロンボ」「ダメージ3」「クラシック音楽番組とCMが入らない映画」「ブラタモリ」などですから、お互いの嗜好には相当の違いがありそうです。

それはともかく、多くの国民の疲弊した精神を鼓舞し、驚異的な視聴率を稼いだだけでなく、あらゆるテレビ賞を総なめし、当時「天皇」と称された権力者会長の庇護を受けて得意の絶頂に立った著者は、一時は次期役員最有力候補と嘱望されたようです。(でも、それがいったいどうしたというんじゃ?)

しかし折悪しく露見したプロヂューサーの製作費横領事件に端を発した聴取料不払い事件が起爆剤になって、天皇会長が辞任を余儀なくされると、それまで順風満帆だった著者の人生は一瞬にして暗転します。局内の反会長派の陰湿ないじめと弾圧に遭遇し、手塩に掛けた「プロジェクトⅩ」も終了となって心身ともにボロボロになった著者はとうとう退社し、根深い私怨のこもったこの本を書くことになるのです。

けれども視点を変えれば、著者のようなケースは私の身近にもざらにある話で、リーマンの栄枯盛衰は世の習い。あなたよりもっとひどい目にあったひとなぞ世間にはいっぱいいます。ただあなたが「天下のNHK」の有名人だったという素材の面白さだけで、「顰蹙を買うのが大好きな出版社の社長」があなたに眼をつけたのでしょう。

それよりも問題は「プロジェクトⅩ」終了の直接の原因となった室井ヶ丘工業高校の
放送内容です。あなたは先方の教師や学校側にだまされたと文句を言っていますが、客観的に見て致命的な誤謬を犯したのはあなたたち制作者側です。
事前のリサーチがいい加減だからこんないかがわしい人物を登場させたのですから、この番組に泥を塗ったのは隗自身なのに、それを棚に上げて学校や校長のせいにし、あまつさえ局内の上司や敵をうだうだあげつらうのは、ジャーナリストにあるまじき醜い振る舞いといえましょう。

本書を一読して驚くのは「みなさまのNHK」内部の魑魅魍魎の跋扈振りです。
1万人を超す社員のうち記者やディレクターなどの報道現場関係者は3千人なのに、事務管理部門が七千人を超えているそうですが、これはちょっと多すぎます。国民からの大切な拠出金を預かりながら、彼らは一体どういう仕事をしているのかとても気になりました。

著者の言い分を信じるにしろしないにしろ、「みなさまのNHK」は、この際一度解体して再出発する必要があるのではないでしょうか。



私の好きな女子アナなど大海に漂うアブクのようなものなんだなあNHK 茫洋

光明皇后1250年御遠忌記念「小泉淳作展」を見る

茫洋物見遊山記第38回


日本橋高島屋で開催されていたご近所の絵描きさんの展覧会へ行ってきました。今年86歳になられた小泉画伯が平成遷都1300年、光明皇后1250年御遠忌を記念して東大寺の本坊に奉納された40面の襖絵が中心となった個展です。

会場に入るといきなり眼に飛び込むのがあざやかに咲き誇る蓮池のハス。深々とした緑の葉のあちこちに顔をのぞかせる紅白の花々は、大小の花弁だけでなくガクとシベの1本1本の色や形に画然とした個性が感じられ、全体の構図のみならず細部の近代的な表現力が際だっています。東大寺の蓮池とこの日本画の蓮池が対峙する初夏にいちど現地を訪れてみたいものです。


次には画伯がはじめて挑戦した3つの桜の襖絵です。浅緑の草原をバックに絢爛と咲き誇る桜の花弁は画伯が「賽の河原に小石を積むように」1枚1枚丹精込めて描きあげられたもので、その老いての苦労がしのばれます。「吉野の桜」の6本の桜の構図はじつに巧みに構成され、樹から樹へ、枝から枝へ、花から花へと画家が灯もした生命のみなぎりが伝えられていくようで、ある種の感慨を誘います。というのも画伯が2階のアトリエで電気を煌々とつけたまま制作に励んでいられる姿が自宅から時々見えたからですが。

画家にとって初めての題材を扱い、珍しくや全面的に可憐なまでに洗練された多色遣いで至純の新境地に挑まれた今回の作品は、氏の晩年を美しく彩る記念碑的なマイルストーンになったとはいえ、私は依然として彼の真骨頂は往年の精神性豊かな墨絵にあると確信しています。

今回会場の出口にさりげなく並べられた墨一色の「大根」の絵や、まるで1匹のうごめく動物のように躍動する全山の生動を静寂の1幅に閉じ込めた「岩木山」の力技こそは、平山郁夫のインスピレーションのかけらもない画業を大きく凌駕し、横山大観の幽玄の世界に肉薄する日本画界の最高峰のひとつといえましょう。

*なお本展は来月の横浜など全国の高島屋主要店にて巡回展示されるそうです。



  一本の腐りかけたる大根の葉っぱに咲きたる白き花かな 茫洋

Sunday, September 26, 2010

「車谷長吉全集第2巻」を読んで

照る日曇る日 第375回


車谷長吉は偏見と断定の人である。「女性の存在理由は男に向かって股を開くことにしかない」と言いきってはばからない。

車谷長吉はど阿呆の人である。大概の作家や評論家は自分がそうとうの叡智の人であるとうぬぼれているから、それがおのずと文章や人となりに出てきて嫌みであるが、この人には珍しくそれがないから、あれほど突き抜けた文になるのである。

車谷長吉は厭世の人である。生まれながらの蓄膿症の苦しみに耐えながらこの歳まで生き続けるよりも「死んだ方がはるかにまし」であった違いない。しかし「私は自殺しないで生きてきた」。

車谷長吉は捨て身の人である。学歴を捨て、立身出世を捨て、極貧に甘んじて地べたを這いずり、出刃包丁を投げつけられ、渡世人や世間の鼻つまみ者に愛されながら生き延びてきた。

車谷長吉は恥知らずな文学の鬼である。他人のプライバシーを無遠慮に侵害してその所業を社会にぶちまけただけでなく、喰うためにおのれの性的嗜好や腐れ金玉の所業を恥を忍んで書きまくってきた。

車谷長吉は生まれながらの詩人である。これと眼をつけた美女にはストーカーになることも辞さずに万難を排して酬いられない愛を求め、誰にも描けない珠玉のような「恋文絵」(絵入り葉書)を送りつける。

本巻に収められた長編小説のうちで圧倒的な感銘を与えるのは彼の代表作「赤目四十八瀧心中未遂」であるが、彼の自伝的小説である「贋世捨人」の最後の行で涙しない読者はいないだろう。

車谷長吉は、魂の料理人である。されば今日もおのれの臓物を原稿用紙になすりつけながら、世界も凍る恐るべき秘め事を書き続けているのだろう。


これでもかこれでもかと君は己の臓物を投げつける 茫洋

Friday, September 24, 2010

ソニー超廉価盤「ヴァン・クライバーン集7枚組CD」を聴く

♪音楽千夜一夜 第165夜

まあなんというか全国の学友諸君、こうやって毎日3回もごはんが食べられて戦争にも駆り出されず、さしたる病気もせず、日々是好日とばかりに生きながらえていられるのはうれしいことであり、こうして画面に向かえば誰も読んでいなくともひとつくらいは書いてみたくなるような些細なことがあるというのもまことによろこばしい限りであり、そうしてそういうちょっとおめでたい気分にふさわしいピアニストといえばこのクライバーンということになるのであろう。

いまの日中と違って米ソ相食む2極体制化にあって、メードインUSAの音楽家の輝かしい大勝利を告げたのが1958年に開催された第1回チャイコフスキー国際コンクールであった。なんでもかのリヒテルが彼に満票を投じたために1位になったという話もあるようだが、キリル・コンドラシン指揮RCA交響楽団の伴奏で聴くチャイコフスキーの第一番協奏曲は胸がすくような晴朗かつ豪快な演奏で、若き日のリヒテル、ギレリス、ルービンシュタインに似たところもあるようだ。

チャイコフスキーのみならず彼の演奏は、郷里ルイジアナの牧場に咲き誇るひまわりのようにあっけらかんとした開放感にあふれ、青空にぽっかり浮かんだ白い入道雲のように爽快で、前へ前へと進んでいく。その技巧は完璧であり、書かれた音符をひたすら音化していくのだが、その音色からはいかなる狐疑も憂愁も幻影も不安も感じられない点でホロビッツやポリーニとはまったく異なる健康的な音楽世界の住人であることがわかる。

しかしたかが音楽であり、たかがピアノではないか。しょせんこの世はサーカス小屋の猿回し。自分もお客も楽しめる明るく楽しい演奏をする能天気な芸人の一人や二人がおっても構わないのではなかろうか。

さなきだに嫌な事件が相次ぐ当節ゆえに、世界苦をひとりで抱え込んだような神経衰弱患者の演奏が流行るのも無理からぬことだが、私はそんな曇りのち雨の午後には好んでクライバーンに耳を傾け、いっときの清涼を得るのである。


居待月太鼓叩いて笛吹いて 茫洋

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第29回

bowyow megalomania theater vol.1

それから3時間以上もたって、午後の2時半くらいだったでしょうか。ひとはるちゃんが血だらけになって、服もズタズタに破れて、はあはあ肩で息をしながら、ワアワア泣きながら帰ってきました。

「やられた、やられた、のぶいちがつかまっちゃた。ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、こんちくしょう! あいつらぶっ殺してやるぞお!」

と一息にしゃべって白眼をむいてぶっ倒れました。公平君は、

「洋子、文枝、ひとはるちゃんをかいほうしてやれ」

と言うと、ピストルをぎゅっと握りしめてたった一人でのぶいっちゃんとひとはるちゃんが出かけた方角へすたすたと歩み去りました。

それからおよそ1時間くらいたったでしょうか。ズドーンと音がして、それからアッという叫び声、ウワワワアーという悲鳴が遠くの方から空を切り裂くくようにしてここえてきて、またそれっきりあたりは静かになりました。


一夜明け一億物想う秋となる 茫洋

Thursday, September 23, 2010

福田和也著「現代人は救われ得るか」を読んで

照る日曇る日 第374回

著者は私のように粗放な脳味噌の持ち主と違って、おそらく非常に頭が切れる人なのでしょう。華麗なレトリックを凝らした超絶的美文?と該博な知識と教養を、これでもか、これでもか、とみせびらかすように駆使して、ただでさえ分かりにくい論旨をもっともっと難解にして、さあどうだ。これでも食らえ、とばかりに投げてよこされるのには、はなはだ迷惑です。

―江藤淳と江國香織を対置した時、江國の方がはるかに森鴎外に近い。それは、意識された「ごっこ」が、欺瞞が、「現実」を作り出す、社会を、国家を、家族を仮構する事を知っているからに他ならない。(396p)

これだけではどなたも何のことやら分からないでしょうが、その前後を繰り返し読んでも理解できないのは、きっと私が極度のアホ馬鹿人間だからでしょう。しかし才子才に溺れるの諺ではないけれど、著者の筆が、自分でもよく分かっていない内容についてどんどん滑っているように直観されます。文中で普通に「決して」と書けばいいのに、変に恰好をつけて「けして」「けして」と連発するのも、あまり良い趣味とは言えないでしょうね。

ところでこの本の最後は、村上春樹の「1Q84」を巡る考察になっています。

いとけない娘をレイプしている教団の大幹部を葬るために青豆を駆使する謎の老婦人は、はたして正義の味方か、それとも悪事が生んだ新たな悪事の張本人なのか? 

「眼には眼を、歯には歯を」。国家権力による法と秩序を無視して、あるいは自覚的に逸脱して、私憤を疑似的な公憤に擦り変えた彼女は、共同体からの処罰と自裁を覚悟の上で個人テロルの「暴挙」に訴えます。

しかしテロルはテロルを生み、復讐は復讐、殺戮は殺戮の果てしない連鎖を生みだすことでしょう。「眼には眼を、歯には歯を」の論理をうべなう限り、この連鎖のひと組には
「主観的な合法性」があるので、それらの鎖を任意の1点で切断することはおそらく当事者同士には不可能です。

それでもこの連関を断ち切るためには、双方がそれぞれの正義をテーブルの上に並べて、それぞれの正義の正しさの内容を、第3者の公正で客観的な視点でこまかく吟味しなければならないでしょう。しかし一口に正義というても、大義もあれば小義もあるし、中には正義という名の虚義もあるであろう。そしてもし天から見下ろせば、世に絶対的な正義なぞついにないのかもしれぬ。

血眼になっている正義の復讐者を争闘の現場から、広大無辺の裁判所に拉致して次元の異なる認識に目覚めてもらわなければなりませんが、さてそうするためにはどうしたらいいのか。

ああ、またしてもひとつの悪がひとつの復讐を生み、その復讐がまた別の悪を呼んでいる。己が信じる正義を貫徹しようとしたはずなのに、その貫徹の最後の瞬間に、正義が不正に、善が悪に転化する。
おそらく人はこの究極のパラドクスに突き当たった時に、はじめて自己滅却を願い、己を一挙に無化して、かの人知を超えた大いなる悟りを得ようとするのではないでしょうか。



太郎病んで尖閣諸島に月が出る 茫洋

Tuesday, September 21, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第28回

bowyow megalomania theater vol.1


11月4日 曇

朝起きるとなんだか様子が変です。虫が1匹も鳴いていないし、カラスもスズメも一羽もいません。いつもは家の周りをカアカア、チュンチュンと飛び回っているのに……。

向こうのススキの銀入りの穂先が風もないのにやたらとそよぎます。

「どうやら怪しい奴がいるようだ。いったい誰だろう?」

と、公平君が独り言を言いながら手を額にかざしてあたりを見やりました。

「なんだ、なんだ、誰かやって来たのかよお」

と、大声でのぶいっちゃんとひとはるちゃんが言って、

「よおし、俺たち兄弟2人でちょっくら偵察に行ってくるわ」

と言って、2人は連れだって小川の方へ降りてゆきました。

しかし、2人とも1時間たっても2時間たっても戻って来ません。




まぐわいて産みつけて一週間で死んでいく見事な生き方 茫洋

Monday, September 20, 2010

今夜もウナギはダンス、ダンス、ダンス――滑川夜話最終回


今夜もウナギはダンス、ダンス、ダンス――滑川夜話最終回

バガテルop132&鎌倉ちょっと不思議な物語第228回

この生命力みなぎる生物についての雑文を書いてからちょうど1か月が経ちましたので、後日譚の後日譚を書いておきましょう。

たしか前回は近所の植木屋のKさんが、カーバイドを入手したらそれを駆使して可愛いウナギ犬を逮捕する計画をたてたところ、までだったと思いますが、さいわいなことに今のところカーバイド爆発計画は不発に終わり、私の愛するウナギたちは、夜な夜な愛の交歓を続けています。

この節は日が落ちるのが早くなったので、夕方6時半に黄昏迫る滑川まで行ってみましたら、あれから一段と大きく長くなった2匹の大ウナギが、追いつ追われつ全身をぐるりぐるりと回転させながら、ウサギならぬウナギのダンスを見せてくれました。

楢の木のほの暗い木陰でひとところにかたまって背びれだけをひらひらさせているハヤたちも、息をひそめて彼らの舞踏を見つめています。

そこで私は、音痴であるのをものともせず、ア・カペラで高らかに歌いあげました。


♪ソソラソラソラウナギノダンス ソソラソラソラナメリカワダンス


6小節を歌い終わってまた道端の滑川を見下ろしていると、そこへちょうど近所のTさんが通りかかりました。Tさんは昔学校の教師をしていましたが、いまは悠々自適のご身分です。私が

「この世紀の見世物をご覧なさいな」

と勧めると、しばらく夢中になって見物しておられましたが、突然携帯を取り出しましたので、このオオウナギの饗宴をデジカメに記録しておこうとするのかと思ったら、

「そういえば最近私の家の庭にカルガモの親子が団体でまぎれこんできたんですよ」

と言って、可愛いいカルガモちゃんたちの写真を見せてくださいました。
けれどどうやらこの方は、ウナギよりもカルガモちゃんが可愛いいらしいので、私はちょっとがっかりしました。

Tさんが去ってしばらくすると、今度は有名な日本画家の小泉淳作先生が腰をくの字に折り曲げながら、ゆっくりこちらにやって来ました。
ちなみに先生は今月27日まで日本橋高島屋で東大寺本坊襖絵完成を記念した一大展覧会を開催されています。そこで私は、

「先生、先生、ウナギですよ。ウナギがダンスしておりますよ」

と申し上げようとしたのですが、折悪しくそこへ鎌倉駅行のバスが滑り込んできたので、白髪の魔法使いのような先生の姿は、疾走する京急バスのドアの奥に飲み込まれてしまったのでした。

魔法使いの棒一閃オオウナギぐるりぐるり 茫洋

Sunday, September 19, 2010

グルダの「モーツアルト・コンプリート・テープ」全6枚組を聴いて

♪音楽千夜一夜 第164夜

テープといってもCDです。フリードリッヒさんがひそかに自宅とかで1956年から97年にかけてこっそりテープレコーダーに録音しておいたやつを、彼の死後息子のパウル君が発見して、それを独グラモフォンから売り出すようにしてくれたお陰で、私たちはこの素晴らしいモーツアルトに接することができたのです。

それだけではありません。パウル君は偉大なお父さんが未完のままで放り出していたK.457の第3楽章をできるだけグルダ風に追加演奏して、親子合奏完結盤を新たに制作してくれました。

私は父グルダには会ったことなどないのですが、1961年生まれの息子のパウル君には、かつて渋谷のタワーレコードでひょっこりはちあわせしたことがあります。
私が6階のクラシック売り場でCDを物色していると、すぐそばにひとりの外国人がやってきて、やはりウロウロしています。その顔がどうもどこかで見た顔で、よく見ると「パウル・グルダが渋谷タワーにやって来る!」というポスターの写真の顔なのでした。

あちらの国の人たちは、こちらの国の人たちと違ってべつだん知り合いでなくとも挨拶代りに笑顔を差し向けますが、このときもパウル君が私に頬笑んだので、急いで慣れない「頬笑み返し」をしながら私が、「もしかして貴君はパウルさん?」と尋ねると、その青年はなぜかはにかみながら、小声で「イエス」と答えたので、私は特に理由はないのですが、それ以来おのずとパウル君の熱烈なファンになったのでした。

そんなパウル君が、亡き父君のために編んだ、私の大好きなモーツアルトのピアノ曲集は、これからも生涯の愛聴盤となっていくのでしょうが、どのソナタに耳を傾けても、聴衆をまったく意識しないインティメートな表情と赤裸の心に打たれます。
どうやらグルダは、モーツアルトその人に聴いてもらうために、深夜そっとベーゼンドルファーの鍵盤に触れているように思われてなりません。

そしてその白眉は、ボーナスCDに付された「フィガロの結婚」の自由なパラフレーズ集。たった1台のピアノが、スザンナの、モーツアルトの、そしてグルダの生きる喜びと悲しみをあますところなく表現しています。


ああグルダのフィガロ この演奏を耳にせず泉下の人となるなかれ 茫洋

Saturday, September 18, 2010

ワーナー盤「バッハ大全集」を聴いて

♪音楽千夜一夜 第163夜

ワーナーミュージックといっても実際はテルデックとエラートレーベルによる全50枚CDによるコンンピレーションです。またしても1枚243円というロウプライスに目がくらんで買ってしまいましたが、さすがは音楽の王者J・S・バッハ。誰がどのように演奏しても頭を深く垂れて傾聴するにふさわしい演奏揃いなのはさすがです。

しかしてその内容は、アーノンクールが22枚のほか、コープマンが5枚、そのほかレオンハルト、リヒター、シュタイアー、スコット・ロスなど、定評ある演奏が数多く揃っています。

バッハの宗教音楽は誰がなんといおうがカールリヒターとミュンヘンバッハ菅の演奏に尽きるので、アーノンクールふぜいが懸命にやってくれてもそれほどの感銘は受けませんが、同じナンバーを謹厳生真面目なリヒター盤と比べてみると、ずいぶんあまくて緩くて自由な態度で演奏していることが分かります。
まあこういう立場のバッハがあってもよろしいのではないでしょうか。カンタータだけでなく仲間一党と組んだヴァイオリンソナタも思いがけない喜悦をもたらしてくれましたし。

そこへいくとトン・コープマン選手はさっぱりです。このセットでは心地よいハープシコード協奏曲の調べを聞かせてくれましたが、最近FMで聴いたばかりのベルリンフィルを指揮してのカンタータはアンサンブルもめちゃめちゃで、「これでもバッハ?」というけったいな演奏でした。超一流オケを前にしてあがってしまったのでしょうが、自分の手兵とでないと音楽ができない指揮者は困りものです。


ところでこのコンピレーションを企画したのは韓国のワーナーミュージックです。
しばらく前に鶴首されていたリリー・クラウスの第1回のモノラル録音のモーツアルトのソナタ全集を発売したのもおなじ韓国のEMIでした。
私がいま毎日のように聴いているRCAリビングステレオ全集全60枚セットもやはり韓国盤ですが、現在ウオンが安いというだけではなく、この国のクラシック業界のほうがマーケティングのセンスが優れているのではないかという気がしてなりません。



どうしてああも自分勝手な奴なのだらうと思っているのであろう 茫洋

ソニー盤「ロベルト・シューマン全集」を聴いて

♪音楽千夜一夜 第162夜

この頃狂ったように廉価版の大安売りを全世界で展開しているソニーグループのシューマン全集25枚組。一枚当たり258円ということなので、やはり買わずにはいられませんでした。

交響曲はレヴァイン&フィラデルフィア菅という珍しい組み合わせであるが別にどうということなし。声楽の大曲でいま録音が相次いでいる「楽園とペリ」はアーノンクールとバイエルン放響、「ファウストからの情景」はアバド・ベルリンフィルの名演ですこぶる聴きごたえあり。

ちなみにアバドは昨夜のFM放送でブラームスのカンタータ「リナルド」という珍しい曲をやっていた。声とオケの合わせでは当代随一と思っていたが、その前日のマリク・ヤンソンスとベルリンフィルによるヴェルディの「レクイエム」には震撼させられた。

カラヤンやムーテイやらバレンボイムで聴いてだいたいあんなもんと思っていたこの曲の恐るべき真価を突き付けられました。脱帽。今世界中の指揮者で聴くに値する随一の存在ではなかろうか。随二はもちろんハイティンク。期待していたダニエレ・ガティのウィーンフィルとのヴェトーヴェンもクラーバーの下手くそな真似っ子でがっかりだったし。

結局この全集でも歌曲がいちばん楽しめました。フィッシャーデイスカウ、ホロビッツの「詩人の恋」、ヴァルトラウト・マイヤーの『女の愛と生涯』、プレガルディエンの『リーダークライス』Op.24、クヴァストホフの『リーダークライス』Op.39、シュトゥッツマンの『愛の春』など名曲の名唱が存分に享楽でけまっせ。



この臭い汗は絶対に私の所産ではないぞ 茫洋

Friday, September 17, 2010

鎌倉国宝館で「国宝鶴岡八幡宮古神宝展」を見物する

茫洋物見遊山記第37回&鎌倉ちょっと不思議な物語第227回


秋です。ようやく萩の花が咲きほころびはじめた国宝館を訪ねてみました。

鶴岡八幡宮の古いコレクションが並べてありましたが、ほとんどこれまでに見たものばかりで掘り出し物はありませんでした。

ただ面白かったのは例の強風で倒れた大銀杏にまつわる展示です。この巨大な植物は樹齢数百年といわれ、承久元年(1219年)の旧暦1月27日の朝、三代将軍の実朝が甥の公暁に暗殺された瞬間をただひとり(1本)目撃していたという噂もありますが、さて本当のところはどうだったのでしょう。

残念ながら当日の惨劇を記録した「吾妻鏡」には、この銀杏についての報告はなされていませんし、鎌倉・室町・南北朝時代をつうじていかなる文書や記録にもこの種の情報はまったく残されていないようです。

はじめてこの植物を歴史に登場させたのは、あの天下の副将軍徳川光圀が貞享2年(1685年)に編纂出版した「新編鎌倉志」という歴史書で、そこには「銀杏の木に隠れていた女装した公暁が実朝を切り殺した」と書かれており、この説が万治年間(1658年から60年)に出版された中川喜雲という人の「鎌倉物語」に転載されて江戸の人々にしっかり定着したのだそうですが、彼氏が女装していたとは私も初耳でした。

もし本当なら、隠されていた驚くべき真相が466年振りに明らかになったということになりますが、真偽のほどはさあどうでしょう?
ともかく大銀杏と将軍暗殺がワンセットになったのは事件発生からおよそ半世紀が経過した江戸時代からであり、ここから急速にくだんの銀杏の存在がフューチャーされてきたようです。

本会場にある江戸時代に製作された「相州鎌倉之図」という絵地図では、たしかに鶴岡八幡宮のランドマークがこの銀杏であることが明示されていますし、明治時代になって月岡芳年が描いた「美談武者八景-鶴岡暮雪」という武者絵ではくだんの大銀杏を挟んでおじさんと甥っ子が大立ち回りを演じています。

そういえば八幡様には数多くの名刀(国宝)が保存されていますから、かつて別当を務めた公暁が実朝の首を斬った刀が現存しているのかもしれませんね。
以上、鎌倉国宝館の説明文の引用でお茶を濁してみました。(10月11日まで開催中)


イチローが一日一本打つように生きること 茫洋

Thursday, September 16, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第27回

bowyow megalomania theater vol.1

公平君と洋子と文枝と僕も、のぶいっちゃんを助けようと手に手に近くに転がっていた石ころや棒ぎれを持って、おまわりの頭や顔や手や足をてんでにぶん殴りました。

思いがけない逆襲に驚いたおまわりは、びっくり仰天、慌てふためいて逃げ出しました。あんまりあわてたからでしょう、峠のそま道の真ん中には、なにやらものものしい物体が残されていました。それは警官が持っていたピストルと銃弾ベルトでした。

「へええ、ピストルじゃないか。本物のピストルだ! すごいじゃん」

「へええ、これが赤塚不二夫の漫画に出てきたピストルかあ。前から一度こいつにさわってみたかったんだ」

と、のぶいっちゃんとひとはるちゃんは狂ったように喜びました。

「おいおい、ちょっと僕にも触らせてくれよ」

と公平君が頼んでも、のぶいっちゃんとひとはるちゃんは、ピストルとガンベルトを握りしめ、まるでカーク・ダグラスとバート・ランカスターになったように飛び跳ねています。

それから僕たちは、かわりばんこにずしりと重い拳銃をベルトに差したり、楢の木のてっぺに止まっていたフクロウに狙いを定めたりしながら、3時間もかけてようやく懐かしのわが家に辿りついたのでした。

今日はほんとうにくたびれました。


油蝉リュリュリュ晩夏流る 茫洋

Tuesday, September 14, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第26回




bowyow megalomania theater vol.1


その途中、寒椿や水仙で有名な龍泉寺の上の山道にさしかかった時、一人の警官に見つかってしまいました。

「おい、こら、ちょっとお前たち、待て! 待つんだ!」

と怒鳴りながらすごいスピードで龍泉寺に下りる道を駆け登ってくると、いきなりのぶいっちゃんの顔を一発ぶん殴って、

「おい、お前だな。星の子学園から逃げ出したノータリンは。ちょっと来い。お前も、お前も、お前もだ! 揃いも揃って頭の悪そうな顔してやがる。さあ、来い。こっち来い!」

と言って、のぶいっちゃんの腕をねじあげてぐいっと引っ張りましたので、のぶいっちゃんはよろけて地面に倒れ、倒れながら警官に地面を引きずりまわされ、引きずりまわされながらえんえんと泣きだしています。

それを見たひとはるちゃんは、顔を真っ赤に紅潮させて、おまわりのお腹の真ん中にどんと頭突きをくれて、おまわりを押し倒し、おまわりの上に乗っかって両手で首を絞めあげました。
 


君と共に熊野神社を歩きおれば特許許可局と杜鵑鳴く 茫洋

Monday, September 13, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第25回

bowyow megalomania theater vol.1


11月3日

僕たちが星の子学園を脱走してから今日で3日になります。きっとはみんなが僕たちのことを心配して探し回っていることでしょう。きっと大捜索隊があちらこちらを探しているに違いありません。僕もお母さんや純くんのことが気になりますが、仲間と一緒なので里ごころがついたり悲しくなったりすることは全然ありません。
お母さん、大丈夫。僕はとても元気ですお。

けれどもみんなも家や家族のことが気になるので、今日は全員揃って朝早くから星の子学園の様子を偵察に行くことにしました。

細長いあぜ道を一列になってらせん状に山腹を何時間もぐるぐる回って合計3つの山を登って下りてお昼前にようやく星の子を見下ろす阿弥陀山のてっぺんにやって来ました。どうして阿弥陀山と呼ぶかというと、この山を星の子から見ると、大きな仏様がねんねぐーしている姿に見えるからです。

阿弥陀山の頂上から小さな盆地の下の方を見下ろしたのですが、なんだか様子が変です。僕たちが逃げてきた運動場と阿弥陀山の間には大勢の警察官のような人たちがウロウロ行き来しているのです。学園の中はしーんとして静まり返り、いつまでたっても仲間たちが外に出てくる気配はありません。

お昼休みが終わって阿弥陀山の日が陰る頃になっても誰も運動場に出てこないので、とうとう僕たちはあきらめてもと来た道を引き返しました。


次男去りし翌日仙人草の白く小さな花咲きにけり 茫洋

開高健著「夏の闇・直筆原稿版」を読んで

照る日曇る日 第373回

あまりにも暑いので、開高健の代表作と称されているこの本を、そのタイトルに魅せられて読んでみました。

お話としては作者を思わせる肥厚な主人公が夏のパリで「私の玉門香ってる?」なぞとほざくむっちりとした肉体の持ち主(ただしあまり美人ではなさそう)と再会し、初秋のベルリンで別れるまでの男と女の精神と肉体のがっつりとした格闘をリアルに描いた作家40歳の折りの大作です。

そりゃあ人間誰しも適切な異性と遭遇すればただちに全身を投げ出しさらけ出すような恋愛をするわけですし、そこで己の存在意義がひび割れてくるような深刻な体験もするわけです。

来る日も来る日もただただセックスをやるまくる日々もあるわけですし、それがとても気持ち良かったり悪かったり、セックスしながらベトナム戦争についてもっともらしいことを考察したり、激しいセックスの合間には湖で大魚をオーパ!と釣りあげたり、そいつを上手に料理して、レモンをぶっかけてワインで乾杯して満腹したり、そろそろこうゆう生活にも女体にも飽きたなあ、いよいよサイゴンも陥落しそうだからちょっくら現場に駆け付けようかな、などと考えて実行する話なら1970年当時にはざらにあったわけで、それをこの作者が書いたからといって作者自身にとっては格別の大事件だったのでしょうが、われら読者にとっては当時も今も別にどうということはありません。

作者が「第2の処女作」と解説しているくらいですから、それなりの思い入れを込めたのでしょうが、今は亡き江藤淳が「喪われたやさしさに対する悔恨の歌であり、愛を奪った時代への告発の書でもある」などとカッコつけて絶賛するほど素晴らしい作品とは思えませんでした。

確かに作者がおのれの魂の井戸の奥底のゆらぎを見据えながら発語していることはわかりますが、かの高名な批評家がおっしゃるようなセンチメンタルで悲愴な歌を絶叫しているわけではありません。

ウンコちゃんはお風呂の中でユーモラスな実存鼻歌を歌っているのですよ。

しかしながらこうしてモンブランの高級万年筆を握りしめ、おそろしく下手くそな書字で自家製400詰め原稿用紙に408枚をエネルギッシュに書きまくったその生命力と創作意欲の燃焼力をつぶさに感得できるのは、じつに貴重な読書経験でした。

まるで漫画のようなプロットの平板さはともかく、作者の恐るべき文才と卓越した小説操縦力、そしてその自在なインプロビゼイションを存分に堪能できる1冊です。


♪楽天的な革命家と革命的な楽天家いずれも困ったものなり 茫洋

Saturday, September 11, 2010

川西政明著「新・日本文壇史第3巻昭和文壇の形成」を読んで

照る日曇る日 第372回

この巻では例によって芥川龍之介、菊池寛、川端康成、中原中也、小林秀雄、そして室生犀星と萩原朔太郎の私生活と女性関係が顕微鏡的視野でこれでもかこれでもか、と映し出され、精査されます。

例えば芥川の巻では、秀しげ子からあなたの子を産んだと強迫された龍之介が、中国に逃げて心身に致命的な損傷を受け、帰国して自殺の決意を固め平松ます子に心中をもちかけた。ところが当時一家揃って大本教の熱烈な信者であったためにあっさり断られ、結局一人さびしく青酸カリをあおって死んだそうです。

しかし私は、そんな史実だか逸話だかの膨大な集積はいくら分量が増えても彼の文学とはまったく関係がないと考えているので、そんな与太話はどうでもよろしい。彼は、漱石のような長編小説が書けないために自死したのです。

また菊池寛は根っからの同性愛者で、後に共産党の指導者になった佐野文夫を熱愛するあまり彼が盗んだマントを自分が盗んだと言い張って一高を退学になる。結局都落ちして三高に入って悪しき性癖を清算するとともに冷徹な現実主義に目覚め、芥川と同じ芸術路線では成功できないと計算して「真珠夫人」のような通俗小説に走った、などと書かれていますが、彼の天成のストーリーテリングの才は、初期の短編「忠直卿行状記」「恩讐の彼方に」「藤十郎の恋」を読めば明らかなこと。天才菊池寛の文学の起点に、あえてホモセクシャリズムを設定するその魂胆がよくわかりません。

そのほか川端康成や梶井基次郎の秘められた恋など、読めば読むほど週刊新潮真っ青のプライバシー大侵害記事が続々登場して面白いこと無類の本ですが、さてちょっと待てよ。これがはたして日本文壇の歴史なのか。これでは日本文学の歴史ではなく、文学者を陰でリモコンした謎の女性シリーズではないか、とおおいに困惑したことでした。

じつはこの日本文壇史というシリーズを始めたのは伊藤整という文学者で、作家と作品の秘密を解明するためには作家の私生活と人間関係を洗う必要があるという固定観念にとらわれたこの人が、こういうプライバシー暴きを精力的に開始したのです。したがって前任者を継承した本シリーズもやはり一つ穴の狢にならざるを得ないのでしょうが、もう少しなんとか脱下半身路線に切り替えられないものでしょうかねえ。


いずれが最小不幸宰相ならむ阿呆馬鹿絶叫金切り声大演説を抹消す 茫洋

加藤典洋著「さようなら、ゴジラたち」を読んで

照る日曇る日 第371回

著者の「敗戦後論」以降のいくつかの論文を、ここでまとめて読むことができました。

戦前や戦中派にとっては第2次大戦の悲劇から受け取った教訓はそれなりに身に染むたぐいのものでしょうが、戦後生まれ、とりわけ10代、20代の戦争をまったく知らない若者にとってのそれはどうなっているのでしょうか。

彼らの多くは「自己中」であり、「戦争なんて関係ない」という捨て鉢の言辞のもとに、おのれと過去の歴史総体との関連を断ち切り、現在の社会や「世界」との関係もできるだけ希薄なものにしておこうとする性向が際だっているのではないか。

それを嘆く大人たちは、自閉する若者たちに向かってあれやこれやの戦争体験をラウドスピーカーでがなりたて、戦後民主主義の貴重な意義をいわば暴力的に吹きこもうとしているわけですが、そういう外部からのイデオロギーの注入は所詮は無駄なのでいっさい止めて、彼らをして彼らの道を歩ましめよ。

世界平和なぞ犬にでも喰われろ、などと叫んでいる手合いであっても、いずれは社会性にめざめ、おのれの無垢なる少年性に別れを告げ、おもむろに手ごわい他者と出会い、公共的な地平に歩み出て、この世界でいかに生きるか、いかに取り扱うかという問題に首をつっこむであろう。

先輩たちのもっともらしいご高説やらアドバイスをすべて退けて、てんで無知で白紙の彼らがゼロ地点から戦後と世界に向き合う時に、はじめて戦後人による戦後選択肢が生まれてくるので、憲法も第9条も天皇制も彼らの成長と成熟にゆだねよ、というのが彼の超楽観的?な考えのようです。

だからといってわれら年長組がなにもしないで万事を放擲すればいいということではないのですが、これまでの経緯と思考をいったんチャラにして、いまこの世に誕生したばかりの赤ん坊の視点で政治経済社会を俯瞰してみるのも悪くはないなと思ったことでした。


これと関連して著者が本書で展開している宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」論や憲法論、靖国神社を破壊するゴジラ論や「かわいい」論、埴谷雄高論も軽々しく読む捨てにできない興味深いものです。



一粒の麦死なば多くの実を結ぶのだろうかと一粒の麦は迷う 茫洋

Thursday, September 09, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第24回

bowyow megalomania theater vol.1

そしたら突然公平君が洋子から僕を引き離してチークダンスを踊り始めました。

僕が呆然としていると、文枝が僕の腕を取って全身を寄せてきたので、僕は文枝とチークダンスをしました。洋子もいい匂いでしたが、文枝も洋子とは少し違ったいい匂いがしました。

女の子の身体は、文枝も洋子もみんなとっても柔らかいものだということが、僕にははじめて分かりました。

そのあとみんなでお互いに相手をとっかえっこして夜が更けるまでダンスを続けました。
僕は生まれてから今日までこんなに楽しかったことははじめてです。

それから僕たちはきのうのぶいっちゃんとひとはるちゃんがどこかから探し出してきた段ボールを何枚も重ねて、それにみんながくるまるようにしてみんなで寝ました。

夜中を過ぎるとものすごく寒くなってきたので、僕は隣の洋子と身体をぴったりくっつけ、お互いに抱き合ったままで寝ました。

公平君は文枝と、のぶいっちゃんはひとはるちゃんと抱き合ったまま寝ました。

みんな幸せそうな顔をして寝ました。



   1か月1滴の水もなく堪える草白く小さき花をつけたり 茫洋

綿貫智人著「リストラなう!」を読んで

照る日曇る日 第370回

今年の3月上旬、出版準大手の光文社の早期退職募集に手を挙げた45歳の編集・宣伝・営業経験者たぬきち氏のリストラをめぐる実況中継記録です。

ブログで綴られた迫真の内部暴露的ドクメントが業界関係者のみならず全国の労働者諸君の関心をあつめ、6月1日の著者の退職とともに終了した連載がなんと最大手の新潮社から7月30日に出版されるという快挙!につながりました。

高給をはむわりには働きが悪くて甘く、基幹業務を下請けにマル投げしているととかく他業種から評判の悪いマスコミ業界ですが、著者たぬきち氏の内部情報が明るみに出されるにつれこのエリート出版社とその正社員に対するビジネスや社会認識に対する「ゆるさ」がするどく対象化され、たぬきち氏への妬みや嫉みも交えてブログへの書き込みは白熱化してゆきます。

しかし一方では雑誌・書籍・漫画マーケットの長期低落や電子書籍の台頭など、出版業界を巡る緊迫した情勢を前にして、このリストラはたんに一出版社の一社員の危機ではない、という真剣な問題意識が登場して、この一個人のブログがあたかもアテナイのアゴラのような風通しの良い公共空間に変化していくあたりが最大の読みどころといえるでしょう。

最後の最後で突然登場したたぬきち氏の父親のコメントもじつに感動的なもので、私たちはあるテーマをめぐって偶然ネットに集った赤の他人たちがいつのまにか公共的な友愛の絆のようなもので軽やかに結ばれていく新しいよろこびを体感することができるでしょう。

ウエブによって結ばれし新しき友情ここにあり 茫洋

Wednesday, September 08, 2010

橋本治著「リア家の人々」を読んで

照る日曇る日 第369回


 シェークスピアのリア王の悲劇を軽く踏まえてはいるが、作者は、娘に離反されていく明治生まれの文部官僚一家の運命を描きながら、改めて私たちにとって戦後とは何であったか、を自問自答しようと試みている。

 戦時中初等教育の管轄責任者であった主人公は、公職追放されても、数年後に文部省に復職しても、おのれを大河にもてあそばれる1枚の木の葉のように感じるだけであり、いまもむかしも「生活が第一」。自己の社会的責任を問おうとする発想などさらさらない。
かつて中原中也がうたったように、

「幾時代かがありまして、茶色い戦争ありました」

という一行で戦争が総括されていくのである。

60年代の後半になると既成の秩序や権威に若者たちが異議申し立てを行う「嵐」の時代がやってくるが、主人公と末娘はそんな流行に眉をひそめながら嵐が通り過ぎるのをじっと待つ。昔ながらの家庭生活を墨守しようと蛸壺の底にもぐりこむ臆病な蛸のように…。
しかし蛸は、おのれの生のむなしさをはっきりと自覚している。

当時の私もこの小説に登場する三女のように、自分を思想も生きがいもない空虚な存在と自覚していた。だからこそおのれを燃焼させる対象物がむやみに欲しかった。それが麻薬であれ歌であれスポーツであれ…。

別に自分で政治や革命ごっこを選んだわけではないが、そこに炎が燃え盛っているなら、思い切って飛び込んでも、飛びこまないよりはたぶん面白かろう。見る前に飛べ、である。 そしてそのささやかな自己投企は、狭い蛸壺の底で自縄自縛に陥っていた孤我をおびただしい他者たちが渦巻く広大な世界に連れ出してくれるうってつけのチャンスにつながっていったのだが…。

「幾時代かがありまして、茶色い闘争ありました」

作者はこの不器用な小説を書くことによって、戦前戦後を通じて本質的に変わることのない日本人の、思想も節操もなくただ時代に流されていく没主体的な「体質」を摘出することに成功したようだ。

幾時代かがありまして、茶色い人たち騒いでおりました 茫洋

Monday, September 06, 2010

EMIの「マーラー全集16枚組」を聴いて

♪音楽千夜一夜 第161夜


交響曲は1番がジュリーニ&シカゴ響、2番がクレンペラー&フィルハーモニア管、3番がサイモンラトル&バーミンガム市響、4番がホーレンシュタイン&ロンドンフィル、5番がクラウス・テンシュタット&ロンドンフィル、6番がバルビローリ&ニューフィルハーモニア管、7番がラトル&バーミンガム市響、8番がテンシュタット&ロンドンフィル、9番がバルビローリ&ベルリンフィル、大地の歌がクレンペラー&フィルハーモニア管、10番がラトル&ベルリンフィルといった布陣で同工異曲のグラモフォン盤におさおさ劣るものではない。

しかしこうして全曲を順番に聴いてみると聴者の耳に対してはともかく心に対してきちんと届く音楽をやっているのは1にクレンペラー、2にテンシュタット、3にバルビローリという順位は明々白々で、相変わらず得体のしれない演奏を続けているサイモンラトルという指揮者への疑惑の念はここでのマーラーを聴いてもいっこうに消えなかった。

 最近のラトルではブラームスの交響曲全集をああこれはベルリンフィルの音だな、と懐かしく聴いたが、それだってかつてのフルベン、カラヤン、近くではアバドの演奏をいささかも凌駕するものではなく、いったいこの指揮者のどこがよくてベルリンの連中はかれをシェフに選んでいるのか私のようなロバの耳には理解しがたいところである。

こと伝統芸術や再現芸術の出来栄えにかんしては、フルベン、トスカニーニ時代の演奏の方が最新版のそれよりもずんと胸に沁みるのは楽器も演奏技術も格段の進歩をしたはずなのに、いったいどうしてであろう。

 私が密かに期待していた若手のティーレマン&ウイーンフィルによるベートーヴェンの4番、5番、6番の交響曲も、教育テレビの映像で見る限りは、亡きクラーバーの下手くそなモノマネ猿芝居のようでほとんど噴飯ものであった。彼はやはりオペラの人なのだろう。

♪熊のような大猿が名指揮者の猿真似をしていたよ 茫洋

グレン・グールドの「ベートーヴェン録音6枚組」を聴いて

♪音楽千夜一夜 第160夜

グールドのバッハについては「吉田秀和翁称揚以後」は、それまで無視していたあほばか評論家も含めて猫も杓子も絶賛の嵐だが、その他の作曲家の演奏の是非についてはほとんど語られない。わずかにモーツアルトのソナタの異常に遅いテンポについて非難めいた言及がなされるくらいだが、ここで紹介するベートーヴェンがそれほど悪い演奏であるわけがない。私は彼のピアノソナタにはモーツアルトほどの感銘は受けないけれど、5つのピアノ協奏曲はLPの時代から好んで聴いていた。

とりわけバーンスタインの棒で入れた5番の「皇帝」の演奏は見事で、トルコ行進曲とは正反対のゆったりとしたテンポのオーケストラをバックに、ベートーヴェンの音楽が持っている豪胆と深々としたエロスを、いかにもグールドらしい知的に制御された頭と手と足で自在に演奏してのけていた。

この曲の第二楽章はかつてオーストラリアの映画監督ピーターウィアーの処女作「ピクニック・アト・ハンギングロック」で思いがけず効果的に引用されたことを懐かしく思い出すが(音楽担当はブルース・スミートン)、それはグールドの録音ではなかった。

それが録音されたのは60年代の終わりごろのことで、私は友人の友人が作陶にいそしむ西伊豆の山奥のアトリエで深夜ボリュウームを最大限にあげたステレオオーディオ装置でその大自然と一体化した雄大な演奏を聴いたのだが、グールドの例の唸り声と共に終楽章のコーダが空高く飛翔していった真夏の銀河のきらめきを、いまでもつい昨日のことのように思い出すのである。

なんでもこのテンポについては指揮者とピアニストの間で意見の対立があったが、結局バーンスタインが折れて、「このテンポには同意できないが発売には同意する」というコレジットが付されていたと記憶する。バーンスタインはもっと早めのテンポを採りたかったに違いないが、実際のパフォーマンスはグールドの直観の正しさを裏付けているようだ。

しかし残念ながらこのセットに収められている「皇帝」はストコフスキーとアメリカ交響楽団の伴奏で、バーンスタイン盤の光彩はその片鱗もない。もしかするとその後偉大な存在に成りおおせたバーンスタインがソニーに圧力をかけて廃盤にしたのかもしれないな。


♪伊豆の夜真夏の銀河のさんざめきグールドの哄笑谷間を揺るがす 茫洋

Sunday, September 05, 2010

トマス・ピンチョン著「メイスン&ディクスン」を読んで

照る日曇る日 第368回

この万年ノーベル文学賞候補作家の作品について、格別面白いとか内容が深いとか文学史的な意義があるとか思うたことは一度もない。

ないのになぜこうやってつらつら紙面に眼をさらし続け、唐人いな米人の寝言に耳を傾けているかというと、このいかにも面妖でけったいかつ思わせぶりな作者の悟り澄ましたような面持ちについつい吸引せられて、太平洋の大波のごとく繰り出される話題と思藻と逸話と笑話と小話の数々にあだかも人参に目移りするポニーのごとく広い地球のあちらこちらに引きずりまわされているうちに、とうとうさしたる事件もカタストロフも世界革命も、ありそでなさそで黄色いサクランボの1粒も転がることなく、唐突な巻頭とおんなじ調子でこの世紀の長編大小説が忽然と終了してしまうからである。

全体の構図としては、英国から漂流してきた2人の天文学者兼測量技師メイスンとディクスンが、独立戦争以前の植民地アメリカを舞台に繰り広げる抱腹絶倒のはずの弥次喜多道中膝栗毛であるが、十返舎一九の道中小噺は読んでいて時折くすりと笑えるほどには面白いが、亜米利加版の弥次さんも喜多さんも作者が♪ペペンペンペエンと自分で囃すほどに面白いものではなく、読めば読み進むほどに小澤征爾の指揮と小沢一郎の御託と同様、退屈とあくびの山がそびえたつばかり。

滑稽喜劇小説であるはずなのに巻末では主人公たちのあまり幸福でもない最期にいささかのいたましさを覚える始末でありやんすが、なんといっても致命的なのは、雄大なピラミッドを支えるほどにあまたの岩石で構築されたアネクドートや小噺がそれこそ無機物で無味乾燥で、教養の気付け薬にはなるかもしれないが、吉本興業の下らぬお笑いほどにもくすりとも笑わせてくれないことだ。

上下巻合わせて1094ページの超くだらん放漫脳味噌全開大小説をば、英語フランス語スペイン語の蘊蓄やら西洋史やら天文学やら測量学の専門知識を随所にふりまくペダンチックな作者の驥尾に付して懸命に邦訳された柴田元幸さんご苦労さん。あなたこんな小説必死で翻訳してほんとに面白かったの。

なに、面白そうで面白くないところが面白い。うむ、天下の大小説はみなそうかもしれんて。しかし唯一面白がっているのは作者だけだろう。見上げた根性だ。私には徹頭徹尾つまらんかった。キンチョールのCMで大滝秀治が言う通りだ。

やい、トマス・ピンチョン。お前の話はつまらん。まったくつまらん!


♪どうしようもなくつまらないのにつまるようにもてはやす世間の痴れ者たちよ 茫洋

Saturday, September 04, 2010

リヒテルのEMI録音全集を聴いて

♪音楽千夜一夜 第159夜

多くのピアニストたちと違ってリヒテルというひとは歳をとるほどに凡庸な演奏家になりさがっていったのではないだろうか。彼の晩年にヤマハの凡庸なピアノで蝋燭の明かりの下で聴かされたチャイコフスキーの3流の小曲集などは、曲も演奏もあまりにもつまらなくて途中で会場を抜け出したりしたものだった。

しかしたしか60年代のはじめだかに、彼が鉄のカーテンから西欧世界に逃れ出て、ブルガリアのソフィアだかで(ここはまだ旧共産圏であるが)蘭フィリップスのために録音した「展覧会の絵」なぞはいま聞いても新鮮な驚きが打ち鳴らされているとおもう。

それは80年代にチエリビダッケが管弦楽でやった爆奏に、ただ1台のピアノで比肩させた驚異的な名演だったが、ではこのボックスに入った14枚組のCDの中で、その人間わざとも思えぬ演奏や、あるいはフィリップス盤の平均律の至高の境地に匹敵するような音像が刻まれているかといえば、否である。

しかしベートーヴェンのピアノソナタの3番やシューベルトのドイッチエ664のソナタやWandererFantasy、シューマンの幻想曲や蝶々、知る人ぞ知るヘンデルの組曲や、あのクライバーと入れたドボルザークのピアノ協奏曲を真夏の夜に鳴く蝉の音を伴奏に改めて聴くよろこびはまた一入のものがある。


モーツアルトはオレグ・カガンとのコンビで入れたいくつかのヴァイオリンソナタを聴けるが、カガンはこのピアニストよりずっと若くして亡くなってしまった。私は一度この人のバッハの無伴奏を聴いたことがあって他の誰よりも高く評価しているのだが、10年前に渋谷の山野楽器の東横店にあった仏Erato盤の2枚組CDを買い損ねてしまい、以来ずっと探し求めている次第である。


求めよさらば与えられんといいしはさだめし若きひとならむ 茫洋

Thursday, September 02, 2010

島田雅彦著「悪貨」を読んで

照る日曇る日 第367回

政治的経済的に衰退期に入った二等国の内部では退嬰的な気分が蔓延しているが、なかにはそこからの反転攻勢を夢見る人たちも当然出現するわけで、本書の主人公は理想主義的な人道主義とエコロジー&地域通貨に基づく共同体「彼岸コミューン」のメンバーとしてグローバル資本主義の超脱解体克服に挑もうとしている。

しかし精巧な偽札の大量流通によって日本経済を混乱させ「彼岸コミューン」の覇権を確立しようとした主人公は、日本国の政治経済社会のすべてを手中に収めようとする中国政府機関の悪辣な陰謀によってあえなく打ち砕かれ、あわれはかなく東京湾の藻屑と消え去るのである。

 頭の良い作者は、こういう最新流行のプロットをいかにもそのようにリアライズするべく、偽札をつかんで狂喜するフリーターやルンペンプロレタリアート、薄幸の若者たち、美人過ぎる刑事などを要所要所に劇画風に張りつけるのだが、インテリゲンチャンの脳内で強引にでっちあげられたこれらの登場人物には生きた人間の生彩がてんで感じられず、まるで無機的なロボットのようにあらかじめ決められたセリフをぎこちなく喋っているにすぎない。要するに限りなく小説に似たひものなのである。

国や国民諸力が弱体劣化してくると、かつての一等国英国がそうであったように、肩を並べやがて一気に抜き去ろうとする強大国に対する嫉妬や憎悪や怨嗟が熱した脳髄に湧き起り、よからぬ妄想が渦巻いて自家中毒を引き起こすものだが、本書も台頭する中国と血気盛んな中国人にたいするそうした妄念の産物であると言うても過言ではないだろう。


小利口な優等生の脳内にひそと咲きたる黒百合の花 茫洋

カルロス・クライバー指揮「薔薇の騎士」を視聴する

♪音楽千夜一夜 第158夜


これはウイーンではなくミュンヘンでのバイエルン国立歌劇場での1979年初夏のライブ収録です。

まず演出ですがオットー・シェンクの保守的でオーソドクスな設計、装置、衣装、色彩がよろしい。ホフマンスターが設定したこのオペラの脚本の舞台は1740年から80年にかけての女帝マリア・テレジア時代のウイーンなのだから、そういう時空で物語を展開してほしい。最近の演出はみなとち狂っている。

それから演奏では冒頭の序曲が大切で、これがうまくいくとあともうまくいく。
舞台では伯爵夫人マルシャリンとその恋人カンカンとのみだらな情事が繰り広げられていて、その性交がクライマックスに達した時に、3本のホルンが彼らのオルガスムスをいななく。

シュトラウスは男性の硬いものが女性器に3回グルングルンと突きいれられた瞬間をリアルに楽譜にしているのに、多くの(良識はあるけれど)凡庸な指揮者たちときたら、この箇所をあいまいにぼかして演奏している。

しかしさすがにクライバーは、このとき指揮棒を持った右手をスコア通りに3回グルングルンとえぐっているところが映し出されるので、「お、分かってるね。さすがクライバー」となるのであるんであるん。

清純で無垢な商人の娘と結婚することになったオックス男爵のセクハラも相当なもので、女と見れば誰にも手を出すドン・ジョバンニそっくり。これほど男尊女卑の図もあまりないけれど、男爵のいとこである伯爵夫人だって、夫の出張の合間に若い燕と浮気しているのだから、どっちもどっちです。

しかし前に触れたことがあるが、シュトラウスときたらよくもこんな卑猥な公序良俗に反する「いけないオペラ」を書いたもんだ。当時も不道徳だとして賛否両論があったそうだが、私はいまでもだんぜん上演禁止にするべきだと思います。


クライバーは絶好調で、ときおり楽員にウインクしたりしながら歯切れよく演奏しているが、有名な幕切れの絶唱以上に素晴らしいのは第1幕の終わりの伯爵夫人のアリア。恋人との別れを予期する切々たる歌に、当夜涙しない観衆はひとりもいなかっただろう。まことに一期一会の名演奏である。

配役は伯爵夫人のギネス・ジョーンズとオクタビアンのブリギッテ・ファスベンダーが素晴らしい。ソフィー役のルチア・ポップも好演だが、この人は昔はひいきにしていたのだが、あんな可愛い顔をしているくせに、カルロスにひどい仕打ちをした(クライバーの伝記上巻を参照のこと)そうなので、あえて絶賛はしない。いくら故人になってもファンの恨みは根深いのである。



  歌ひとつ詠まずに旅から帰りけり 茫洋