Monday, March 31, 2008

ジャパンちゃちゃちゃ

ふあっちょん幻論第18回 20世紀の10大トレンドその10「ジャパニーズデザイン」

20世紀のアパレル・デザインに対して日本人のデザイナーたちは大きく貢献するとともに
世界のファッションの中心軸を、アジアのほうへ拡散させた。

        60年代 森英恵 NY進出
        70年  高田賢三 パリデビュー 70年代はじめ 一生、カンサイ
             デコントラクテ/ジャポニズム
        74年  一生 「一枚の布」 <間> レイヤード、オーバーサイズ
        82年  川久保玲 山本耀司のパリコレデビュー。
             東洋アジア主義の服、無装飾 ぼろルックの衝撃
        85年  ジャパニーズパワー 全盛
        80年末 一生 プリーツ 
        97年  川久保玲「ボディ・ミーツ・ドレス」
        99年  一生A-POC 「世界服の創造」東洋西洋の域を超えて中心の拡散に挑戦
        00年代 数多くの新人デザイナーたち

「一生のプリーツは伝統建築工芸である」、と太鼓奏者の林英哲は語る。
石垣、石畳、石段、なまこ壁、瓦屋根、垂木、格子戸。布の襞が繰り返す反復の造型は古い町並みの静けさや詩情、流れる水や風を感じさせる。
 糸が織り成す反復造型で布地を織る作業には、ビートや時間が含まれる。それが畳まれてプリーツになり、身にまとって衣服になる。
「だが単なる衣服を越え、建築のように時間や空間や思想をも内在させた独立した造型になっている」「持ち運びのできる建築」「身に纏う思索」それが三宅一生の本質である。
 というのはいささか褒めすぎの感もあるが、一生以降革新的な日本人デザイナーが登場していないことも事実であろう。

 21世紀は、このような過去のビッグネームに依存したり期待せずに、「ジャパン・クール」などの切り口で日本の独自性を編集したり、東京ガールズコレクションのようなカジュアルセンスを海外に発信すること、あるいはまた創造性の枯渇にあえぐ「日本」自体をいっそ見切ってBRICs、韓国、ベトナムなどの新興勢力とともに新しいビジネスモデルを構築する方向性をめざすべきであろう。


*なお本シリーズは「深井晃子氏&京都服飾文化研究財団レポート」を参考にさせていただきました。


♪一夜にして百花落ち一朝にして百花咲けり 亡羊

Sunday, March 30, 2008

2008年亡羊弥生詩歌集

♪ある晴れた日に その24
 
ももんがあ高きより降下して我の目の前で前で身くねらすなり ―夢の中にて

懇々とわれは少女を諭したり何故に鴨に石を投ずるは不可なるかと

なにゆえに鴨への投石は不可なるか情理を尽くして少女に説きたり

出棺に思わず拍手が沸いたという小田実の見事なる一生

わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る

頑なに独り居すると言い張りて独りで逝きしたらちねの母

わたしはもうおとうちゃんのとこへいきたいわというてははみまかりき

瑠璃タテハ黄タテハ紋白大和シジミ母命日に我が見し蝶

犬フグリ黄藤ミモザに桜花母命日に我が見し花

雪柳椿辛夷桜花母命日に我が見し花

市当局の整備工事より守りたる泥沼に生まれしオタマジャクシよ

当局の暴挙を防ぎし小池なり春遅き地にオタマ生まれる

新しき浴槽に初めて身を沈めつつ思うかの古き浴槽はいずこへ行きしか

今日もまた朝から路線図描いているその子の胸に高鳴る車輪よ

同一のガソリン成分排出し飛行機雲の出る日出ない日

長大なアリアを見事歌いきりほっと息つく谷戸の鶯

いざ行かん鯨の家にまたがりてあの青空の彼方まで

悪党の背にはらはらと梅の花

弥生三月春の力をわれに与えよ

啓蟄の虫仰ぎ見る空の青

啓蟄の虫が見ている空の雲

ふきのとう揚げる人あり描く人あり

ふきのとう描く人あり喰らう人あり

アオジもコジュケイも飛ぶのが苦手なんだ 

始終ツチェツチェと鳴くからシジュウカラ

ここもまた大寺ありけり冬の谷戸

鳶一羽空に舞いたり廃寺跡

春風や幻の寺日輪月輪ここにあり

梅が香やいにしえの大寺ここにあり

春浅し一味神水の村を過ぐ
悪党共一味神水の村を過ぐ
椿落ち自由狼藉の世界かな
百花落ち自由狼藉春の朝
春浅し落花狼藉朝比奈峠
悪党共落花狼藉朝比奈峠
悪党共落花流水朝比奈峠
悪党共落花流水の村を過ぐ

地に落ちて憾みはなきや冬柏
 
女房の茶碗を割りし悲しさよ
 
男は女に女は男になりたがり

人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃

もう十年寝たきりなのよと通りすがりの人がいう

昔の男の顔は立派だったといってから己の顔を見る

この頃の男は貧相な顔になったと言ってから己の顔を見る

生きている人のことはすぐ忘れるが 死んだ人のことはしょっちゅう思い出す
 
この強欲な商業主義世界に 一度に開く梅の花 欲に眼がくらむ亡者たちよ

にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕えしはうちの健ちゃん
 

Saturday, March 29, 2008

桜咲く今朝の女の薄化粧

ふあっちょん幻論第17回 20世紀の10大トレンドその9「化粧/ファッションドボディ」

「全身化粧」の時代
 20世紀は「服を脱ぐ」時代→身体自体への直接装飾加工
 その端緒は1916年 英ヴォーグ誌 21年 仏ヴォーグ誌に見られる。ここでは
 服をおいてけぼりにして 肌、ヒフそのものを「服」としている。
1964年ルディ・ガーンライヒ「モノキニ」 トップレス水着

ヒフ芸術の全面展開 
三宅一生1989年の入れ墨ボディタイツ、ゴルチエ1996年の入れ墨ドレス
 00年代アンダーカバー高橋盾のアンサンブル(ジャケット+セーター+スカート+パンツ+スカーフ+ベルト+バック+手袋+タイツ+ウィッグ)赤青白チェック 生身肌にもペイント

タトウ、ピアス、茶パツ……身体の境界を消し去るFashioned Body

耳に平気でピアスできる人と、親にもらった大切な体をピアスやタトウで傷つけたくない人とのモラル&美意識の葛藤を乗り越え、なんでもありの全身化粧の新世紀へ!

♪にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕らえしうちの健ちゃん

Friday, March 28, 2008

ブラは春風に乗って

ふあっちょん幻論第16回 20世紀の10大トレンドその8「ブラジャー/下着革命」

18世紀末 テルミドールの反乱の後「ギリシャ風」がテーマとなり薄絹、モスリンの肌着が流行。
19世紀末トレンドとしての薄着、下着ファッシヨン。
20世紀初頭の1906年にポール・ポワレが女性をコルセットから解放。コルセットなしのハイウェストドレスが登場し、反拘束による肉体の軽装化、薄着化、露出化突出。
自由の20世紀へ!

第一次大戦後 人類は完全にコルセットを捨てた。視点がウエストから「肩」へと変わり、
時代とともに身体の合理性、機能性、日常性を強調、重視するようになった。
続いてブラ、スリップ、スリップ、テディが続々登場し、体の自然な美しさを強調するようになる。

*女性の美意識の変遷
初期 1922年ヴィクトール・マルグリットの小説。胸のふくらみを抑える「少年のような娘」=ギャルソンヌへのあこがれ→これが川久保玲のコムデギャルソンに影響。

中期 50年代 ディオール/ニュールック 豊かな胸を演出
60年代 ノーブラ byルディ・ガーンライヒ
65年にボライ・コンシャス登場。
後期 80年代 フィットネスとパワーウーマン 鍛え上げられた肉体美(リサ・ライオン)
JPゴルチエ、ヴィヴィアン・ウェストウッドなどが下着→表着へ

21世紀に入って「下着の外着化」が進行しすぎて「皮膚が下着化」→エロスゾーンの後退。

♪長大なアリアを見事歌い切りほっと息つく谷戸の鶯 亡羊

Thursday, March 27, 2008

平成東京革命音頭

♪バガテルop53

かねて私が高く評価するフランス文化を侮辱し、女性や老人やアジアの隣国を軽蔑し、唯一の取り柄といえばかつてその身内にナイスガイ俳優がいたことに過ぎない現東京都知事の石原慎太郎氏が、昨日の都議会委で新銀行東京への400億円追加出資を勝ち取られた。誠に慶賀に耐えない。

斬った張った誰でもいいから殺したかった、という世も末暗黒事件が連日相次ぐなかで、近来これほどの朗報があるだろうか。私はかつてあれほど軽蔑し、蛇蝎のごとく看做して弊履のごとく顧みなかったこの右顧左眄しょぼしょぼ目つきの三流文学者を、はじめて見直し、尊崇の眼で帝都の西北に仰ぎ見たのであった。

かくも長きにわたってこの満州王朝功労者の末裔であらせられるこの高貴なお方を保守反動、極右排外主義者の老旗手と想定し続けたことは、わが想定外の生涯の禍根、大いなる錯誤であった。

見よ、神もご照覧あれ! げにこの人こそは誤謬なきレーニン、毛沢東、チェ・ゲバラの衣鉢を継ぐ古今東西稀に見る真の社会主義者であった。ただし1周遅れ、否300周遅れの憾みはあるとしても…。

とにもかくにも、このせちがらい平成の御世にあって、いかなる困難、誹謗と中傷にもめげず、これからも倒産寸前の中小企業の経営者に対して、未審査、無担保、無制限でじやんじゃん貸付を青天井で続行してくれるというのだ。ウラア! これを前代未聞の貧民救済宮廷革命、格差社会粉砕の暴挙的快挙と呼ばずになんと言うのだ!

すでに投下された1000億円に加えた今回の400億円投入は、すべて石原氏を圧倒的に支持した教養と知性漲る都民士人各位からかすめとったほんのはした金であり、累計では都民一世当たり23000円の負担になるそうだが、ちいさい、ちいさい。こんな小銭の寄せ集めで、かの博愛の人、石原慎太郎の遠大な社会革命、人民正義の偉業、はたまた東京都民の見果てぬ夢が実現されるはずがない。

このうえは、もっと大胆に、より大胆に、さらに大胆に、前進あるのみ。
かの超富裕なる東京プレミアムスノッブウルトラスーパーブルジョワジーからもっともっとテッテ的に搾取して、中小プチブル企業経営者のみならず、小泉流グラバル新自由主義者の陰謀の犠牲者となってこのたび最底辺下層階級に転落した汝人民ルンペンプロレタリアート、西口人民広場に屯する社会的弱者たちや国の重税にあえぐわれら障碍者や老人にも救済の寛大なる網目を幾何級数的にどんどん広げてほしいものである。

万国の貧民労働者は平成革命的東京知事石原慎太郎の紅の翼の元に団結せよ!
我らが太陽帝国の首領石原慎太郎の天地に咆える社会革命を断固支持せよ!
新銀行東京を一点突破しイスラム銀行と連帯して全世界金融革命の狂った果実を手中に収めよ!

♪なんでもかんでもとにかく慎太郎ちゃん万歳!


人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃 亡羊

Wednesday, March 26, 2008

イヴ・サンローランの「シティパンツ」あるいは越境するジェンダー

ふあっちょん幻論第15回 20世紀の10大トレンドその7「シティパンツ」


1851年 米女性解放運動家、ブルーマー夫人のブルーマー登場、19世紀末のサイクリングウェアに。その頃サンローランはディオール店に入り、その後独立し反体制クリエーターとなる。
1966年 サンオーラン・リヴ・ゴーシュの「マリンルック」発表。官能的な夜のパンツ「スモーキング」発表
1967年 街で着られるパンツスーツ「シティパンツ」(チュニック丈ジャケット&パンツ、ウールジャージー)「サファリスーツ」もデザイン。彼の“働く女のスーツ”を見たシャネルが、「私の後継者」と呼ぶ.
         
1968年 5月革命勃発、ウーマンリブ、ユニセックス、ストリート・ファッション
「シースルー」発表、あらゆる既成概念を打ち砕く。アルマーニ、カルバン・クラインが80年代に踏襲する。

 70年代は“若さ”がキーワード。70年発刊の雑誌ananと若者をターゲットにした既製服の時代。すでに「9号神話の時代」が始まっている。

80年代はティエリー・ミュグレー、ゴルチエ、アライアなどのボディコンの時代。男勝りのこびないパワースーツ。いわゆるひとつのキャリアウーマンの時代。

80年代後半は肩肘はらない自然でソフトなシルエット。身体を露出する「ミニマリズム」と呼ばれるセクシーな服も誕生。ナオミ・キャンベルのような黒人トップモデルへの関心。88年パリコレデビューのマルジェラが切り裂き服など大胆な提案。

90年代はグローバル&多様化の時代。スポーツ意識の服、ゴルチエの倒錯的ホモセクシャル服。新たなる混迷。

00年からは戦争と平和の時代。万人が万人に対して武装し、疲労困憊し、その反面ではつかの間の癒しとやらを求めて己が繭の中に入り込むコクーンニングの時代。

♪ももんがあ高きより降下して我の目の前で前で踊るなり 亡羊

Tuesday, March 25, 2008

「世界服」としてのジーンズ

ふあっちょん幻論第14回 20世紀の10大トレンドその6「ジーンズ」

ジーンズは19世紀の半ば アメリカの田舎で金鉱採掘用作業服として誕生した。

1853年 ババリアからの移民リーバイ・ストラウスが、作業用パンツを丈夫な帆布用の綾織布で作った。当時イタリアのジェノバからアメリカへ輸出されていたインディゴで染めた安くて丈夫な帆布を使用した。仏語のLe Jean→英語のJeanとなる。
同じジーンズでも、厚地綾織り綿のフランスのニーム産もあった。この「ニームのサージ」Serge de Nimes )がデニムの語源となった。

黒船の到来がわが国の明治維新をうながしたが、ペルリ提督が切実に求めていたのは、ほかでもない米国の捕鯨船の寄港と石炭、薪の補給だった。当時の米国は1851年メルヴィル著「モビーディック」のエイハブ船長みたいな輩が世界中の鯨をとりまくっていた。しかも肉は捨てていた。もったいない!

リーバイ・ストラウス社第1号ジーンズは1873年製。同社製の1880~1885年世界最古のジーンズがネバダ州の元鉱山街で発見され、リーバイ・ストラウス社が560万円で落札。腰ポケットが右側だけ。ウオッチバンドもなく、ウエストバンドつきのバックヨークもついていない。01年11月、その復刻版がヴィンテージラインとしてたった500本だけ$400で世界主要都市で発売された。

「リーバイス501」は布の重なり部分にリベットを打つというジェイコブ・ディヴァイスのアイデアを生かし、これがヒットした。
1929年の世界恐慌後、豊かになったアメリカ東部人が西部の牧場で休暇をすごしたおみやげがジーンズだった。これが「都会の街着」になり、30年代の衣服のカジュアル化を後押しした。 
二つの大戦を通じて、アメリカのGIがジーンズを「世界服」にした。しかしそのイニシアチブをGIとプレスリーから奪って「反逆する青春」のイメージを作ったのはジェームス・ディーンだった。

1968年 仏5月革命.69年安田講堂.学生反乱氾濫、反戦フォーク、ヒッピー反体制運動の高揚はつねにジーンズとともにあった。「権力と戦わぬ者は、けっしてジーンズをはいてはならない」とは、当時のあまでうす氏の言葉。   
 
ケンゾー、マリテ&フランソワ・ジルボーらがジーンズをフアッションアイテム化した段階で、ジーンズは反体制のシンボルであることをやめた。

1969年から国産ジーンズの普及と大衆化、その後20年にわたる成熟と陳腐化。
00年から海外製高級ジーンズブーム始まる。

ジーンズこそ、ストリートフアッション、トランスジェンダー、コスモポリタン、カジュアルなど、20世紀のファッション・キーワードの要件をほぼ満たす代表的なアイテムであった。

♪新しき浴槽に初めて身を沈めつつ思うかの古き浴槽はいずこへ行きしか 亡羊

Monday, March 24, 2008

五味文彦・本郷和人編「吾妻鏡2」平氏滅亡を読んで

照る日曇る日第107回

「吾妻鏡」は源家の末裔を滅亡させた北条政権によって編集された史書であり、その記述を鵜呑みにはできないが、ゆっくり読んでいくといろいろな発見があり、さまざまな思いにとらわれる。

例えば頼朝は、思いのほか大胆な経略家にして緻密な計略家であった。

文治元年1185年12月6日には、右中弁藤原光長に充てた書簡で、彼は「今は天下の草創の時であり、もっとも事の淵源を深く究めるべきです」と高らかに宣明している。
同年3月壇ノ浦に平家一門を屠ったあと、彼は自分が天下の盟主であり、この国を自分の手で支配するのだ、という決意を固く胸に誓ったに違いない。

後白河法皇を「日本第一の大天狗」と悪罵し、院が弟の義経などに与えた官位の沙汰に異議をとなえて否認し、とりわけ、部下の大江広元の提言を受けて己の息のかかった御家人を全国の荘園に守護・地頭として配するという強権の発動に、彼の旺盛な権力への意志を垣間見ることができる。

当時、天下分け目の平家追討戦が行なわれており、前線で戦闘に従事する範頼や義経に対する頼朝の指示は、連日のようにきめこまかく発令されていた。

彼は、鎌倉の大倉幕府にあって、父義朝を追悼する南御堂(勝長寿院)を創建しつつ、その眼はひろく畿内、西国、四国、九州にまで見開かれていた。
本書を読めば、彼が膨大な情報の収集と緻密な分析にもとづいた雄大な戦略の策定と、それを実現するに際しての具体的な政策と戦術の展開とを、ふたつながらに企画推進する実力をそなえていた偉大な武将であり政治家であることがわかるだろう。そしておそらくその器量の大きさは、後年の徳川家康に比肩するのではあるまいか。
南御堂供養を終えた日の翌朝、義経誅伐のためにいきなり御家人を上洛させる決断力は、さすが武家の棟梁の名にふさわしい。

しかし残念ながら頼朝は、「こころの寛大さ」というものに少しく欠けるうらみがあった。平氏との決戦においても、もし己の手足となり、あるいはそれ以上の抜群の働きを示した範頼や義経なかりせば、源氏が平家に勝利できたとは到底考えられないにもかかわらず、一時はあれほど重用した血族を、自らの手で次々に抹殺してしまう。

頼朝の両の手は、マクベスのように生涯鮮血にまみれていた。

義仲の長男義高もその哀れな犠牲者のひとりであるが、彼と婚約していた長女大姫の愛と生きがいを奪い、廃人同様の悲惨な状況に追いやったのもほかならぬ頼朝であった。
しかも頼朝の命を受けて義高を暗殺した藤内光済を、妻政子からのたっての要請で死に追いやってもいる。もう、めちゃくちゃである。
親族はもちろんのこと、最強の盟友であった上総介広常をゆえなく誅殺したことも彼の精神の弱さと人間性の狭量を物語る。一条次郎忠頼も同断である。

このように、獅子の体内に宿る欠点もあるけれど、有能で多様な人材たちを、性急に「獅子身中の虫」として成敗したこの政治家のアキレス腱は、そのまま北条家にもっと醜悪で悲劇的なかたちで受け継がれ、皮肉なことには己の血族をも根絶やしにされてしまったのであった。

そんな頼朝にとって生涯でもっとも幸福であったのは、平家滅亡の日でも、勝長寿院落成式でもなく、元暦元年1184年5月19日、平頼盛、一条能保らを伴って由比ガ浜から船に乗り、森戸海岸沖で御家人たちと海上でタッカーのように競争し、その後上陸した森戸の有名な松の木の下で呵呵大笑しながら笠懸(射矢)を行なった日であったに違いない。


わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る 亡羊

Sunday, March 23, 2008

春風とミニ 20世紀の10大トレンドその5「ミニ/ボディコンシャス」

ふあっちょん幻論第13回

1950年代 サントロペのリゾートでカジュアルウエアブーム。戦後のベビーブーマー時代が主導する大量生産・大衆消費時代がはじまる。

1960年代 ロンドンのマリー・クワント、パリのアンドレ・クレージュが全世界にBODY CONCIOUSという意識を植えつけた。64年ミニ・パンツも。
          
1980年代 アズディン・アライア、クリスティアン・ラクロワ再浮上

その後00年代も、基本底流にミニが流れている。それはマーシャル・マクルーハンの「衣服はヒフの拡張である」という考え方の実践である。

その頂点は1994年製作のロバート・アルトマンの映画「プレタポルテ」における全裸モデルのパリコレシーンであった。

あらゆる「衣装という意匠」を突き抜けて、「裸自体が最高の衣装」であるとするアルトマンの衣装哲学が高らかに闡明されたのである。

タトウ、ピアス、整形手術、などによってこの「究極の衣装、至高の衣装」そのものをさらに先鋭的に構造変革し、人格のアバター化、複合化、重層化、無人格化、非人間化を図ろうとする私たちの潜在的な欲望が、今日もふぁっちょんの最先端を揺るがせている。

瑠璃タテハ黄タテハ紋白大和シジミ母命日に我が見し蝶 
犬フグリ黄藤ミモザに桜花母命日に我が見し花 
雪柳椿辛夷桜花母命日に我が見し花

Saturday, March 22, 2008

母六回忌


天ざかる鄙の里にて侘びし人 八十路を過ぎてひとり逝きたり

日曜は聖なる神をほめ誉えん 母は高音我等は低音

教会の日曜の朝の奏楽の 前奏無(な)みして歌い給えり

陽炎のひかりあまねき洗面台 声を殺さず泣かれし朝あり

千両万両億両すべて植木に咲かせしが 金持ちになれんと笑い給いき

白魚の如(ごと)美しき指なりき その白魚をついに握らず

そのかみのいまわの夜の苦しさに引きちぎられし髪の黒さよ

うつ伏せに倒れ伏したる母君の右手にありし黄楊(つげ)の櫛かな

我は眞弟は善二妹は美和 良き名与えて母逝き給う  

母の名を佐々木愛子と墨で書く 夕陽ケ丘に立つその墓碑銘よ

太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり

滑川の桜並木をわれ往けば躑躅の下にイヌフグリ咲く

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

頑なに独り居すると言い張りて独りで逝きしたらちねの母 

Friday, March 21, 2008

春風スタディ 20世紀の10大トレンドその4「化学繊維/テクノロジー」

ふあっちょん幻論第12回

 1935年 ナイロン  
人類初の化学繊維 米デュポン社のW・カロザース発明。石炭、水、空気で作る合成繊維
「くもの糸より細く優美で鉄鋼より強い」→パラシュート用を民生に転用
 1940年 ストッキング大流行 
60年代 宇宙開発と宇宙服と化学繊維
1964年 アンドレ・クレージュ ミニスカート発表→パンスト
66年 金属板や鎖やプラスチック片という硬質の無機質素材を用いた甲冑風ドレスで一世風靡したパコ・ラバンヌが、プラスチックドレス発表 布と糸で作られる服という概念を破る 

身頃を円形にくり貫いた宇宙服風ドレスとヘルメットで「スペースエイジ」を表現したカルダン、ビニール素材と幾何学的なラインで宇宙時代のイメージを提案したアンドレ・クレージュ 宇宙、未来イメージ、不織布→懐かしく温かなレトロ・フーチャーが03春夏のルイ・ヴィトン、フセイン・チャラヤン、ドルチェ&ガッパーナ、プラダ、フェンディで再現された。

*ハイテク新素材開発史
ナイロン→ポリエステル→スパンテックス→フッソ繊維へと新展開。それ以降ハイテク日本繊維「新合繊」の時代
80年代 シンセレート素材、ポリエステル合せん中空糸→湿度を熱に変える
      三宅一生、ヘルムート・ラング 
90年代 ミニマル服→体温と光に色が変化する素材
2000年 渡辺淳弥 撥水性のマイクロファイバー
01春夏高橋盾スーパーフラット(9種マテリアル混合)などなど。

 21世紀に入ってからは米デュポンがトウモロコシ原料のポリマー3GTやプラスチック原料のバイオ糸を生産、2010年までに同社は商品の25%をバイオ化する。
わが国では東レ、東洋紡のバイオテクノロジーをはじめ最新IT技術を援用したハイテク素材の開発が急速に進み、水着、スポーツウエアのみならずスーツやカジュアルウエアなどの新製品にもシーズンごとに取り入れられてあたらしい需要を喚起している。          
 新規マテリアル技術こそ、わが国の未来派ファッションの原動力であろう。

ただしNASAの宇宙服や08年に米陸軍が配備した「近未来型戦闘服」のように手放しで賛美できないハイテク技術もある。
例えば後者ではヘルメットには現在地を司令部へ伝達するGPS、夜間の戦場を透視できる赤外線カメラ、敵味方識別の発信機、生物化学兵器の探知機、ガスマスクなどを装着。血圧、体温測定器付きでそのデータは司令部や部隊の衛生兵に送られ全体的にロボコップのデザインに似ている。ハイテク戦争ウエアもファションメーカーの重要なビジネスなのである。

♪なにゆえに鴨への投石は不可なるか情理を尽くして少女に説きたり 亡羊

Thursday, March 20, 2008

ふあっちょん幻論第10回

春のにわか勉強 20世紀の10大トレンドその3

第3トレンド 
クリスチャン・ディオールの「ニュールック」/エレガンスの再構築

 19世紀頃からファッション界には身体快適機能性への大反動が起こった。せっかくそれまで人間の身体の機能性に優しく対応してきたナチュラリズム志向を、当時ファッション界の盟主であったディオールが自己否定したのである。

1947年2月11日、「心が軽やかなら、布地の重さなど苦痛にならない」という有名な格言とともに、パリのモンテーニュ街のアトリエで誕生したのは、細いウエスト、美しくシェイプした豊かな胸、たっぷりしたロングスカートのドレスであった。

これこそは19世紀の古典的エレガンスの20世紀における復活であった。当時の「ハーパース・バザー」の編集長キャメル・スノウ、ディオールのこの新作を「本当に新しいルック」と評したのでこの名前が一世を風靡したのである。

ディオールの功績 
   軍服ルックを駆逐   エビータ、マーガレット王女、ヘプバーンの衣装etc
    54年 Hライン 55年 Yラインを発表   
   「平和時代のぜいたく」の象徴    リヨンの高級絹
シャネル以降アメリカに移動したファッションのヨーロッパへの復権

  50年代はディオールに続きピエール・バルマン、バレンシアガなどがパリ・オートクチュールの黄金期を作った。しかしこれは一時的現象で、57年秋には紡錘型のフュゾーラインのルーズフィットのシュミーズドレスが発表され、着やすい服の時代が再来する。

このフォーマルとカジュアルの2極への重心の移動と動・反動こそは世界のファッション史の大きな機制のひとつである。我々は、一定の周期で移動する惑星の軌道を想像することもできよう。

60年代はTシャツ&ジーンズに象徴されるカジュアルなユニセックスが登場した。
マリー・クワント、ピエール・カルダン、アンドレ・クレージュ、サンローランなどのミニ旋風が巻き起こり、体を美しく露出する美意識・価値観が登場する。

米国では50年代半ばのビートニック世代が史上初めてストリートファッションを提示し、この流れが66年のヒッピー文化に継承される。
64年ガーンライヒのトップレス水着、パリコレでは66年サンローランのシティパンツが登場。エレガントで機能的なスタイルは67年に日本のイエイエで最後の花を咲かせた。

女房の茶碗を割りし悲しさよ 亡羊

Wednesday, March 19, 2008

歌人たちの鎌倉

鎌倉ちょっと不思議な物語107回

春、いまにも降り出しそうな曇天の午後、愛する妻と共に鎌倉文学館へ行きて「歌人たちの鎌倉」展を見る。

万葉の時代から、明治、大正、昭和、平成に至る鎌倉ゆかりの歌人たちとその短歌を特集した例によって小ぶりの好ましい展示である。

実朝、鉄幹&晶子夫妻、子規、信綱、白秋、吉井勇、木下利玄、かの子、太田水穂&四賀光子夫妻、川田順、吉野秀雄、秀雄の弟子の山崎方代といった豪華なラインアップであるが、私は奈良時代に成立した「万葉集」に当地の歌があるとはじめて知った。

 家に帰って早速巻十四の「東歌」をひも解いてみると、次の三首が見つかった。

鎌倉の見越の崎の岩崩の君が悔ゆべき心は持たじ
まかなしみさ寝に我は行く鎌倉の美奈の瀬川に潮満つなむか
薪刈る鎌倉山の木垂る木をまつと汝が言はば恋いつつやあらむ

どれも素直な歌であり、歌はさかしらに頭で詠むな、からだからおのずと湧いて出て、天涯にうったえるものが歌だ、という私だけの歌論のお手本のようなひなびた歌であるが、とりわけまんなかの美奈瀬川(現在の稲瀬川)を夜渡りして女のもとに夜這いする歌が、格別私の気に入った。

さて当日は、歌人の今野寿美氏による「与謝野晶子」の鎌倉詠についての講演会も行なわれていた。氏によれば、

鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな

という彼女の有名な大仏の歌は、当初は「御仏なれど釈迦牟尼は」の箇所が「銅(かね)にはあれど御仏は」だったそうだ。意味内容において改訂版の方が圧倒的に優れているが、高徳院の本尊がほんとうは阿弥陀如来なのに釈迦如来菩薩と詠んでしまったことで、この歌を彼女が実際に現場で詠んだ歌ではないがことがはしなくも暴露されてしまった。

しかしそのことがこの詩歌の価値をいささかも貶めるものではないことは自明のことわりである。なんといっても「美男」というキーワードを、晶子以外の誰が持ち出せたであらうか。最後の「夏木立」の環境設定も、まっことあざやかな切れ味であるよなあ。

鉄幹と晶子はいまの季節の鎌倉を紅く染めている椿が大好きだったらしい。私もこの花がとても眼と心に沁みて格別の感興を覚える今日この頃である。

地に落ちて憾みはなきや冬柏 亡羊

与謝野夫妻は有島生馬や内山英保氏の別荘をよく訪ねたそうだが、後者を気に入り「冬柏山房」となづけた。冬柏とは椿の別名で、夫鉄幹の法名も「冬柏院」であった。

晶子は生涯2万2千を下らない数多くの短歌をつくり、鎌倉詠もかなりの数にのぼっているが、やはり死せる鉄幹を悼む歌が心に響く。

鎌倉の除夜の鐘をば生きて聞き死にて君聞く五月雨の鐘
やうやくにこの世かかりと我れ知りて冬柏院に香たてまつる
遥けきはな思いそと霞引く春の心に任せおかまし

この最後の句は、私が去年の夏に詠んだ

死者のこともう忘れよとダリア咲く

という駄句に、どこか遠くで響きあうものがあると思うのは、我田引水が過ぎるというものだろうか。


♪生きている人のことはすぐ忘れるが
死んだ人のことはしょっちゅう思い出す 亡羊

Tuesday, March 18, 2008

網野善彦著作集第1巻「中世荘園の様相」を読む

照る日曇る日第106回

岩波から刊行されているこのシリーズであるが、早くもこれで通算7冊目となった。

いまNHKで放送されている朝ドラ「ちりとてちん」は小浜市が舞台だが、その小浜の小さな部落にスポットライトを当て、東寺領若狭国太良荘(たらのしょう)の平安、鎌倉時代から室町、戦国時代までの歴史を、さながら大河小説か一大絵巻のように、あるいは長編ドキュメンタリーのように、とうとうと語りつくし、論じつくした政治・経済・社会史が本書である。

長年の東寺文書の精読と研究から編まれた著者の大学卒業論文でもある本書には、同地の主人公である(べき)本百姓、小百姓を中心に、荘園の預所、地頭、東寺の供僧、守護などが、入れ替わり立ち代り相次いで登場し、時の権力基盤の移動に敏感に対応して、これでもか、これでもかとばかりに激烈な権力・権益・生存競争を繰り広げる。
 
鎌倉幕府は得宗の時代になるとそれまでの御家人時代の自制を失い、旺盛で無秩序な欲望が、かつて貞永式目の理知的な規範と統御と自主規制を全面的に解除して、前代未聞の、あるいはまた平成の御世と同様の「私利私欲の時代」に突入する。

すべての同時代人が時の権力にへつらい、隙あらば己がその権力を簒奪しようとてぐすねを引いている。そんなある意味で刺激と興奮に満ち満ちた時代である。下克上、酒池肉林の端緒はここにある。

当時公家、寺家、社家、御家人、地頭たちの百姓に対する収奪は過酷であった。
しかし百姓は黙ってされるがままになってはいない。窮地に追い詰められた際には、彼らは反撃に出る。共通の敵に対して一致団結するかと思えば、その翌日には、隣の朋友に対して刈田狼藉、家内追捕、略奪放火をほしいままにするなどは日常茶飯事であった。

もはや誰も信用できない。家族や親族さえも敵であり、敵とみればすかさず昨日の味方に襲い掛かる。
では、「眼には眼、歯には歯」が時代のスローガンであり、「万人が万人の敵」であり、「万人が悪党」であった疾風怒涛の時代に、なぜ百姓たちは彼らの階級的利害にめざめて一致団結し、皇室や武家や権門や宗教勢力をしのぐ政治的共同性を獲得できなかったのか? と著者は自問し、それは彼らが「所職」の法則と原理の壁に己を閉じ込め、その境界を突破できなかった、と自答する。

広辞苑によれば、「所職」とは任ぜられた職務、帯びている職務のことであるが、結局彼らの律儀で生真面目なモラルと自己戒律が、その後数百年にわたってそのまま生真面目に生きながらえ、もしかすると現在もなお彼ら(私たち)自身を貫いているかもしれないのである。

しかし若き日の著者が願ったように、もしも彼らの革命が見事に大願成就していたとするならば、それはそれで早すぎる階級専制国家の血みどろの地獄絵図が展開されていただろう。

おお、今も昔もなんと因業な世の中であることよ!

出棺に思わず拍手が沸いたという小田実の見事なる一生 亡羊

Monday, March 17, 2008

春の復習 20世紀の10大トレンドその2

ふあっちょん幻論第10回

第2トレンド マドレーヌ・ヴィオネのバイアス・カット=服の再構成とその日本における後継者

     1917-39年まで活躍したマドレーヌ・ヴィオネは、立体裁断(ドレーピング)によるバイアス・カットやサーキュラーカットなどの革新的なアイデアを連発した。
 「カットは身体とのフイット性や運動性と結びつかねばならぬ」という彼女の考えは、クリストバル・バレンシアガ、三宅一生にも共通する姿勢である。
 彼女はモスリンを使い60cm大の木製マネキン人形上でドレーピングし、シームの位置も自由にきめ、あとでそのパターンを実物大に拡大したのである。(紙上の平面パターンを否定)
ヴィオネの功績
   1929年代前半 チューブドレス~アナトミカル(解剖学的)カットの発明
   30年代 サーキュラーカット→これは50年代のクリストバル・バレンシアガによって継承され、バレンシアガは、驚異の裁断と最高級技術で「オートクチュールの巨匠」と呼ばれた。
   またヴィオネによるチュニックドレス、オフ・ネック、サックドレスは、のちの既製服の基本となった。

  ヴィオネの後継者としての三宅一生
70年代の「一枚の布」、80年代からの「プリーツ」、99年にはコンピューターで着る人の好みでデザインを変えられる「A-POC」を発表。
A-POCとはa peace of clothの略で、蚕が繭を紡ぐように糸から繊維がチューブ状に織り出されていく。98年春夏のジャスト・ビフォーという筒状のニットが出発点。藤原大氏コンピューター製作のジャージー編機から出てきた、ひとつながりのニットをカットするだけで、縫製もせずに着る事ができる。

高校時代にイサムノグチ設計の平和大橋に感銘を受けてデザイナーを志した彼は、つねに身体と服の原点を見つめてきた。過去の類型にない独自の新しいフオルムと素材が有機的に融合している。一枚の布に無数のフォルムが内臓されているのである。
     2000年4月都現代美術館展におけるISSEY・MIYAKE MAKING THINGSはその集大成であった。そこでは以下の作品が提示された。

「バケット」~どこでカットしてもほつれるニット
     「モビール」~人間の格好をしたクッション.どこでも寝られ生分解性でリサイクル。
     「A-POCクイーン」~CP制御でチューブ状ニットが編み出される。ロール1人分で帽子、ドレス、手袋、靴下、財布、大小バック、ブラトップ、ショーツ、ベルトなど一式が内蔵されている。半そで、長そで、ロング、ショートの選択可能

    A-POCの今後の応用としては、衣服以外、医療用品、建築などが考えられる。
   A-POCからA-POS  a peace of strings  糸や繊維をもっと自由にあやつる
   A-POM      オリジナル機械に向かって好みの色やデザインを入力するとポンと衣服が出る
A-POE      社会的教育  

 三宅一生の本質は、ポエジーである。彼はハイテクノロジーを制御できるイマジネーション+ポエジーが21世紀のデザインをつくると考え、六本木ミッドタウンに21_21 DESIGN SIGHTを設立した。
      
♪春浅し落花狼藉朝比奈峠 亡羊

Sunday, March 16, 2008

春の復習 20世紀の10大トレンドその1

ふあっちょん幻論第9回

18世紀の産業革命以降の機械文明は豊かな中産階級を生みだす社会変革をもたらした。
20世紀はじめの時代は「ベルエポック」だが、1910年にコルセットを追放したポール・ポワレの登場でゆったりしたシルエットが女性の体を解放してゆく。

第1次大戦が起こると戦場に行った男性に代わって女性がはたらくことになる。そこに登場するのがギリシア風チユニックで踊るイサドラ・ダンカンとシャネルであった。


第1トレンド 「シャネル・スタイル」byガブリエル・シャネル(1883-1971)

 彼女は第一次大戦前は帽子デザイナーであったが、1913年ドーヴィルにブティックをオープン、ここにココ・シャネル誕生。戦場に行った男の代わりにワーキングウーマンが大量に登場したため、その仕事着を作ろうと考えたシャネルは頭がいい。
1916年、そのワーキングウエアを下着素材の黒のジャージィ素材で作ったところがまたとてもクレバーだ。

仕事着は当然装飾性を省き、活動的でないといけない。そこで歴史上はじめてパンツをはく女性が登場する。彼女のスカートやヒザ丈のカーディガンスーツは、80年代のヨージ・ヤマモト、川久保玲、90年代のマルジェラなどのギャルソンヌルックに大きな影響を与えた。
  シャネルは、ヘアをボーイッシュに切る、日焼けした肌、ボアルックなどのさきがけをなした人であり、階級や富を拠り所にしないファッションを創造したひとでもあった。

 シャネルの功績
○ 最初から大衆服をめざし世界で初めて米国でライセンスビジネスをやった→コピー複製時代を予言・先取り
○ 戦後ニュールックの復古調のあと再び機能的なシャネルスーツを発表、日本でも流行、60年代と80年代オートクチュールからプレタ全盛を予言しその通りになった。
前世紀に無視されていた身体的な機能性を重視、予言、先取りし、製品化した。
○ このようにつねに大衆時代のニーズを先取りしていたために、現在デザインを担当するカール・ラガーフェルドもシャネル・スタイルの伝統を自在に加工できた。
シャネル以降
彼女のギャルソンヌ(米ではジャズエイジのフラッパースタイル)ルック以降、30年代に入るとスカート丈が長くなり、ハリウッド映画の影響でグレタ・ガルボ、マレーネ・デートリッヒなどのグラマラスな着こなしが登場。そこで第2次大戦が勃発し、ファッションの暗黒時代に突入するのであった。ジャンジャーン。


♪斎藤茂吉と永井ふさ子合作の愛の歌
光放つ神に守られもろともに あはれひとつの息を息づく

Saturday, March 15, 2008

帰ってきたカエルたち

♪バガテルop52&鎌倉ちょっと不思議な物語106回

1ヶ月以上にわたって続いていた朝比奈峠の工事がいちおう終わってふたたび自由に往来できるようになった。

危険な倒木を未然に防いだり、歩行者が歩きやすくするということで一部の箇所に橋を掛けたり、補強したりしたそうだ。
700年前の古道の表面は舗装したかのようにつるつるになり、峠道の前後左右に群がり生えていた植物はきれいさっぱり刈り取られてしまったために以前の鬱蒼とした中世の風情は失われてしまったが、まあこれもやむをえないか。

 私はかねてより心に掛けていた峠道の途中の湿地に天然自然に誕生するオタマジャクシのことが気が気でなかったので、市の工事担当者にかねてから当該区画の環境保全の依頼をしていたが、幸い無傷のままで工事が終わった。

しかし例年ならば2月に行なわれるはずのカエルの産卵がいっこうに見られず、工事のせいで土中に隠れていた親ガエルが全滅したのではないかとやきもきしていたのだが、3日前に産み付けられた卵を発見し、ようやく胸をなでおろしているところだ。

 このあたりには昔は少なくとも3種類のカエルが繁殖し、特に啓蟄の頃数多くの大きなヒキガエルの雌雄が泥沼のいたるところで交尾する姿をよく見かけて興奮したものだが、去年あたりからそういう感動的な光景は跡を絶った。

その代わりに昨日浮かんでいたのは小さな2匹のアカガエルであった。おそらく彼ら夫婦が、私が冬の間に落ち葉を掻き分けてせっせと掘った3つの水溜りの2つに産卵してくれたのであろう。できたらもう一箇所にも意気のいい生卵を生んでくれ!と私は声援を送ったが、彼らは知らん顔をしてそっぽを向いていた。

産卵は2月から3月まで何度かにわたって行なわれ、それが4月にオタマジャクシにかえり、初夏の頃にようやく小さなカエルになるのだが、それまでに水溜りが枯渇したり、無法者がオートバイで乗り入れてきてひき殺したり、いたずら者が自宅に持ちかえったりしてほとんど消滅するので、私は全体の卵のおよそ2割を自宅とおばあちゃんチの水がめで養殖し、大きくなってから再びこの池に放して“ういきゃつら”の生育を側面援助している。

年々少なくなるカエルの聖地を断固死守することはたやすくはないが、それは私のささやかな生きがいでもある。ゲロゲロ。


♪痩せガエル逃げるなも一度愛し合え 産めよ増やせよ日本のたから 亡羊

Friday, March 14, 2008

この家を見よ! 「FUJIMORI藤森照信建築」を読む

照る日曇る日第105回&勝手に建築観光29回

藤森照信はいま私が最も興味を懐き、共感をもってみつめている建築家の一人である。

20世紀建築の4人の巨匠はグロピウス、ル・コルビュジエ、ライト、ミースであるが、藤森が原廣司と共に高く評価するのはミースである。線と面だけで作られた抽象的で均質な表現こそが20世紀建築の最大の特徴であり、それをもっともよく体現しているのがミースであるというのだ。
ミースの表現の元になっているのはデ・ステイル派であり、その源泉をたどるとデカルトにいたる。デカルトこそが近代哲学のみならず近代建築の祖であった。

いっぽうでは20世紀は科学技術の時代であり、科学技術を支えるのは数学的世界観であり、建築に添って解釈するならば、面と線による抽象的、幾何学的造形こそそれに該当するはずだが、この点をもっと突き詰めた建築家はミースよりもグロピウスであったと藤森はいう。

グロピウスが20世紀建築の座礁軸のゼロ点であると考えると、ル・コルビュジエはヨーロッパ建築文化の主流を成す海と光と大理石の地中海方面へ、アールトは白夜と針葉樹の北欧へ、ガウディはペレネー山脈の彼方のイスラム色の残るスペインへ、ライトは西部開拓のアメリカへ、それぞれの方向に引かれた線上に位置する。この伝でいけば、わが国の巨匠丹下健三は木に由来する柱梁構造の日本へ引いた線の先端に位置づけられるというわけである。

結局グロピウスの建築は20世紀世界にとっての数学や科学技術のようなインターナショナルな意味を持った。彼以外はル・コルビュジエもガウディもライトも無色透明なインターナショナルになにがしかの文化的・地域的要素を加えて成立していると藤森は説くのであるが、では丹下の弟子である藤森自身の建築はいかなるものであるかをこれから眺めてみよう。

そもそもこの人は鈴木博之と同様、一介の建築史家であってほんらいは現場の人ではなかったのだが、ある日突然依頼を受け、1991年2月、生まれ故郷の茅野市に神長官守矢史料館という建物を建てた。
吉阪隆正の影響を受けた藤森は、「孫悟空の飛んでいるような大地に立つひとくれの土の塊」の如き、「あらゆる建築の始原であり、どこの国のどの土地の風土も文化も感じさせない超無国籍の民家」と評されるきわめて個性的な建物を作ってしまったのである。私が見るところ、これに匹敵する建築物は伊勢市御塩殿の天地根元造しかないだろう。

本来ならばそのすぐそばに実家がある伊東豊雄がやるべき仕事であったが、やむを得ぬ事情でピンチヒッターに立ったところ、これがトンでもない初打席場外ホーマーとなり、ここから藤森の破竹の快進撃が始まった。

2作目に作った自宅が、かの有名な「タンポポハウス」である。昔の日本の農家には茅葺の屋根の上にユリ、キキョウ、ニラ、アイリスなどの植物を茂らせる「芝棟」という植物と建築の一体化の手法があったが、これを平成の御世に甦らせたのが藤森だった。

もっともこれはわが国の東北地方だけでなく仏ノルマンディやヴェルサイユ宮殿のアモーの農家のルッカノグィニージの塔などにも植物がそびえているそうだ。その後この手法を藤森は盟友赤瀬川原平宅の「ニラハウス」、屋根のてっぺんに松がすっくと聳え立つ「一本松ハウス」や「ラムネ温泉館」、伊豆大島の「ツバキ城」、イチハツとキキョウが箱根連山を吹く風になびく「養老昆虫館」でも採用している。

樹木を頂上におったてるのは、当世風に言えば、人工物を自然で覆う環境主義的な発想であろうが、藤森は屋根のてっぺんだけでなく家の内外のいたるところに屋根を突き破って自然のままの樹木のぶっとい柱曲がりくねった枝を空高く貫通させる。

この「お山の大将我一人」的な腕白ターザン少年の素晴らしい建築冒険の源泉を、赤瀬川は諏訪大社の「御柱祭」の御柱に見出している。御柱というのは神の依代で人間の信仰の原型である。太古天の神霊にお出ましを願うための媒体こそが、藤森にとっての家作りの原点ではないか、と憶測をたくましくするのである。

まるでナガサキアゲハの巨大な五齢の幼虫か古代鯨が大空に向かって飛び出さんばかりに無類の生命的な存在感をたたえて大地に鎮座している「ねむの木こども美術館」や「焼杉ハウス」の勇姿、さらには満開の桜の木に取り囲まれ、たった一本の巨大な樹木に支えられて宙空にそびえている「茶室 徹」など、藤森のすべての建築群に共通するのは、青白き腐れインテリ思想や難解なヒポコンデリー建築思想から完全に解き放たれた原&現縄文人のあまりにも健全なエラン・ヴィタール、かの偉大なる剽窃家の安藤やら貧血症の磯崎やら突然死んじまった黒川やら才能てんでなき隈研吾やらかの醜悪かつ反吐の出るような江戸東京博物館をつくりし菊竹清訓等々の有象無象、

ともかくゲーリー・フランクと荒川修作以外の既存のいっさいの建築を“すでに死に絶えたるたるもの”とさえ思い込ませる無限の自由奔放さと精神の自由、自然に根ざしつつなおも天空の太陽と星の彼方へとあくがれるかの永遠のロマンチシズムであらう。

 ♪藤森の鯨の家にまたがりていざや空の彼方まで 亡羊

Thursday, March 13, 2008

日輪寺再説

鎌倉ちょっと不思議な物語105回&鎌倉廃寺巡礼その4 

先日「タタラケ谷」との関連で報告した日輪寺だが、その後「鎌倉廃寺事典」をつらつら眺めていたら、この寺は北条高時の寺号であると記してあった。

高時は北条氏の第14代最後の執権でいまの宝戒寺の御所で鎌倉幕府の統括者の地位にあったが、後醍醐天皇の手の内の新田義貞に攻められて東勝寺で自害した。その墓は昼なお暗い「腹切りやぐら」にあって、ここに毎年俳優の高倉健さんがお参りにくるという話は前にも書いたが、闘犬と田楽に明け暮れて自滅した暗愚の統治者の法名が日輪寺とはおおいに驚いた。(ウィキペディアの高時の項に「月輪寺殿崇鑑」とあるのは日輪寺の誤り。)

日輪寺は高時の出家の7年前から確実に存在していて、その創建は恐らくは高時が執権になった直後の正和5年1316年7月7日であり、高時の信任厚かった僧栄海が初代別当に就任したらしい。(「将軍執権次第」)

その後文和2年1353年には、なんと足利尊氏と義詮親子が揃って十二所のわが日輪寺を参詣したという。義詮は尊氏の3男で義満の父。「太平記」には、酒色におぼれ魯鈍な人物であったと書かれているが、若くして死んだ室町幕府の2代将軍である。なぜか正成の子、楠木正行の隣に葬られたいと遺言してその通りになった。

吹きくる一陣の春嵐のなか、今を去る655年の昔、丹波とも深い縁で結ばれた天下の悪党足利尊氏が子を従えてこの緩やかな勾配をゆっくりと登りつめ、壮麗な七堂伽藍に吸い込まれていく姿を、私は確かにこの眼で見たような錯覚に陥った。

悪党の背にはらはらと梅の花 

春風や幻の寺ここにあり 

Wednesday, March 12, 2008

中世の鎌倉

鎌倉ちょっと不思議な物語101回 

古代日本の律令国家では大和朝廷が権力を握り、國-郡-郷という行政単位を置き、国史を頂点としてその責務に当たらせました。

8世紀以来存続してきた国府政庁は10世紀には廃絶してしまいますが、一方国司の館はその政庁機能を受け継ぐと共に経済活動の拠点としても整備されていきます。そしてその後地方の実権を握ったのは国司ではなくその地方の豪族で郡家を拠点とした郡司でした。
10世紀に入ると郡司に代わって新興豪族が郡内に台頭、それに伴って従来の中央集権体制は崩壊し、律令制度も終焉を迎えるのです。

中世の鎌倉は、鶴岡八幡宮から南に延びる若宮大路を中心に大町大路や小町大路など各所に通じる路が通じ、道沿いには将軍の御所(幕府)や北条氏等の武士の館あるいは都市住民の住まいや町屋(商店)等が存在したと考えられています。

鎌倉では現在市内の御成小学校がある場所に相州の国府あるいは郡家があり、時代が下がって鎌倉時代になるとその同じ場所に有力武家の館ができました。ここでは武士の屋敷と共に家来の住宅や職人や商人の住宅、倉庫等が発見され、都市鎌倉のあり方を非常に良く示す遺跡として注目されています。

♪けふもまた何事も無く日が暮れた家族3人で囲む夕餉 亡羊

Tuesday, March 11, 2008

バルガス・リョサ著「楽園への道」を読む

照る日曇る日第104回

「楽園への道」といえば私にとってはエルガーの名曲だが、ペルーの作家バルガス・リョサの同名の交響的長編小説も、英国の音楽家と同じような感動を私に与えてくれた。

 本書は二つの物語が交互に奏される対位法叙述形式をとっていて、最初はどこの誰の話かと戸惑うが、それが19世紀中葉の社会主義とフェミニズムの立役者である女性と、その孫である画家ゴーギャンの2人を主人公とする欧州と南米、南太平洋をまたぐ規模雄大な物語であると知れば読者の関心もいやがうえにも高まるというものだ。

 前者の主人公フローラは、ジョルジュ・サンドやリスト、ビクトール・ユゴーと同時代の人物であるが、妻の離婚を許さず、その遺産を狙い、あまつさえ娘を犯す色魔でもある強欲な夫のために終生迫害され、ついには銃で命を狙われながらも、サンシモン、フーリエ、オーエンなどの影響を受けて初期社会主義、労働組合運動の確立に挺身する。

後続のマルクス、エンゲルスに対して決定的な影響を及ぼした美貌の思想家、実践家であるが、マルクスなどの進歩派からも「女だてらに労働運動に首をつっこみやがって」と白眼視されていたことがよくわかる。

そしてそんな時代にありながら自恃と尊厳を貫いて無残に散ったフローラの遺伝子と生き方を受け継いだのがかのゴーギャンであった。

かつてサマセット・モームが「月と6ペンス」で描いた個性的な印象派画家の劇的な生涯を、著者はモームとは異なる視点、熱い共感と燃えるような想像力であざやかに再現している。

「マナオ・トゥパパウ」、「われわれはどこから来たのか。われわれは何者か。われわれはどこへ行くのか」など、彼の代表作がいかなる状況にあって、いかにして描かれたか? 狂ったオランダ人、ゴッホとの共同生活がいかにして破綻したのか? いかにしてエリート株式仲買人が芸術の魑魅魍魎の世界に取り込まれ、世界の果てまで逃亡せざるを得なかったのか? いかにして死せる西欧世界の古典的秩序を大きく逸脱し、魔術と原始的生命の復活再生に一命を捧げるに至ったのか? 

性病に皮膚、内臓、脳髄を次々に侵され、ついに絶海の孤島でくたばった天涯孤独の創造者の生涯の顛末を、バルガス・リョサはあますところなく描きつくした。

暴力的な異性愛に傷つき、優しい同性愛に癒されながらも、社会正義の大義名分のためにいっさいのエロスを封印した祖母、荒くれマッチョであったはずの己の内部に小さくうずくまっていた一人の女性を発見して驚愕する孫……、ライフスタイルに共通点がある2人の主人公を見事なフーガの技法で巧みに踊らせながら、人間の生の深奥に潜む性の暗闇を容赦なくあばきたてる著者の視線はあくまでも鋭利に研ぎ澄まされている。

これだけ書けば、もういいだろう、リョサ?

♪昔の男の顔は立派だったといってから己の顔を見る 亡羊

Monday, March 10, 2008

月輪寺を求めて

鎌倉ちょっと不思議な物語104回&鎌倉廃寺巡礼その3 

月輪寺は「がちりんじ」とひらがな表記して「がつりんじ」と発音する。「鎌倉志」に「光触寺の北、霧沢のうちに好見というにあり。ゆえに好見の月輪寺という」とあるが好見がどこであるか不明である。

しかし「十二所地誌」には「かつて光触寺所有の明石山の中腹にあり。その面積400坪、その中間の岩土堤に畳八畳敷き位の穴がある。本尊阿弥陀如来は闇浮陀黄金仏」とあり、さる考古学者が尋ねてきたが仔細はいっこうに分からず、遺物なぞはひとつも発見されなかったという。
さらに同書には「御坊ヶ谷を入った少し左側露ケ沢が好見であるがゆえに好見の月輪寺という。そこに房の屋敷というところがありこれが月輪寺の旧跡である」と記されている。

それなら定めしこの地であろうという閑静な一画を私はいつもの散歩コースにたやすく見出した。手前の家は私の次男の同級生の家でご両親はクリーニング業を営まれているが、その突き当たりに杉並木に囲まれた高台があり、この近所には多数の五輪塔ややぐら跡が発見されている。

「社務職次第」「供僧次第」「「若狭国志」にもこの古刹の名が出ており、「鎌倉年中行事」に「勝長寿院、心性院、遍照院、一心院、月輪院の五カ寺の住職は公方様の護持僧」とあるから、相当の大寺であったと思われる。

♪鳶一羽空に舞いたり廃寺跡 亡羊

Sunday, March 09, 2008

幻の廃寺、日輪寺ここに在り

鎌倉ちょっと不思議な物語103回 

「十二所地誌」によれば日輪寺跡はタタラが谷に所在、とある。タタラが谷については私が去年の夏に発見して確かこの日記にも報告した地点だから我が家から3分だ。よしあの近くを探そう。

ここでちょっと復習すると、「タタラ」というのはフイゴの古語でタタラ場、鍛冶屋、すなわち鉄製品を造るところであり、1回の作業は3昼夜であったという。タタラ師は「金屋子神」を信仰し、旧暦の11月4日にはタタラ祭りが行なわれというが、作業中は女性の接近を忌むという。

鎌倉時代の刀剣は京大和から運ばれてきたという学者もいるがとんでもない。鎌倉時代の東国の武士たちは自前の武器を自分たちの領地のあちこちで生産していたのである。だから十二所に限らずこの「タタラが谷」という地名は、そこで古代から中世にかけて製鉄、加工が行なわれていた場所である確率が高い。

しかもこの十二所のタタラが谷、太刀洗一帯には鎌倉幕府の「中世国立葬儀センター」があり、その周辺は高級墓地であったから、近くには当然大きな寺院もあったはずだ。
「十二所地誌」には果樹園の山腹に窟があって五輪が散乱している辺りか」としているが、果樹園はタタラが谷から相当離れているからこの説は却下だ。

私が“ここが日輪寺跡”、と特定する地域は、太刀洗川をはさんで5,6年前に発掘されたその国立葬儀センターの真向かいにある台地だ。
太刀洗に通じる朝比奈古道に沿ってわずかに勾配のある右側の小道を登っていくと、タタラが谷の麓に千坪くらいのこぢんまりとした平地がある。山腹の頂上から中腹にかけて群生する無数の竹に囲まれた静かな谷戸こそが往時の日輪寺だ、と私は確信する。

実際現在ここに住んでいる瓦斯屋のおじさんは、「ここに家を建てたときに無数の五輪等や仏像の瓦の断片をみな太刀洗川に捨てた」と罰当たりな証言をしている。けれどもその時至り、発掘してみれば私の予想は必ず的中するだろう。

♪ここもまた大寺ありけり冬の谷戸 亡羊

Saturday, March 08, 2008

鎌倉廃寺巡礼

鎌倉ちょっと不思議な物語102回 

鎌倉は寺も多いが、廃寺も多い。多くの人々は地上にそびえる美麗な寺社仏閣を仰ぎ見て嘆声を発するが、私が関心を持っているのはかつては大いに栄え、今はもはやこの世にない死せる寺々である。

現存しない寺院、堂宇、塔頭は私の地元の狭い狭い十二所だけでもなんと19箇所もある。(鎌倉廃寺事典)さらに浄明寺で19、二階堂で13、江藤淳が自死した西御門で14、雪ノ下で22という按配だから、寺霊たちはそれこそ無尽蔵にこの死都鎌倉の土の下に眠っているのである。

霊と死者たちを起こす非道をおかすつもりは毛頭ないが、弥生のそよ風に誘われていざ廃寺探訪に出かけようではないか。
まずは日輪、月輪の両寺を探索しよう。この二つの寺院はほとんどの歴史書に現われない幻の廃寺である。しかし鎌倉時代にはいずれもここ十二所の地にあって、おそらくは対になって要地を占めていたのではなかろうか。

♪同一のガソリン成分排出し飛行機雲の出る日出ない日 亡羊

Friday, March 07, 2008

平川南著「日本の原像」を読む その2

照る日曇る日第104回&ふあっちょん幻論第8回

座敷神と道祖神のはじまり
丑寅を鬼門とする思想は中国から輸入されたが、柳田國男はそれ以前に日本では東北よりも戌亥(西北)を恐れる信仰が存在したと強調している。平安時代の貴族の邸宅では戌亥の隅に屋敷神が祭られ、その伝統は都の西北早稲田の杜の安倍球場跡地の中世の館の戌亥の座敷神にまで及んでいる。

日本列島では毎年冬季にシベリア大陸から寒冷な西北季節風が吹き募る。日本海沿岸部で漁民がこの物忌みすべき時期に船を出してタマカゼやアナジと呼ばれる邪悪な風のために犠牲者を出すことも多かったが、それは行いの悪い者への「たたり」のせいであるとみなされ、家居して慎んでいれば戌亥隅神が至福を与えてくれると考えられたのである。

またわが国では古来境界を結ぶ神、旅の神、結ぶ神、祈願・祝福の神としての道祖神が尊崇されてきた。なかには木製やわら製の男女一対で陽物・陰物を表現したものもある。

「道祖」は少なくとも7世紀から10世紀ごろまでは「フナトノカミ」「サエノカミ」という邪悪なものの侵入を防ぐ神と、「タムケノカミ」という旅人の安全を護る道の神という二つの要素を包含する概念だった。それが10世紀以降政治と儀礼の場の多様化と共に道の祭祀は郡城の方形区画の四隅だけでなく、京の町や各地の辻などで実施されるようになり、いずれもが「道祖神」と称されるようになったと考えられる。

繊維工房のはじまり
長野県の特産品「信濃布」の布は麻布。千曲川流域の屋代周辺には一大繊維工房が存在し、多くの布手たちが麻布を大量生産していた。
また服部という苗字は現在ではハットリと発音されているが、じつは服部は古代においては織物に従事する職業集団の氏名であり、もともとは「服織部」と記されて「錦織部」とともに全国に流布していた。
この「服織部」は内包される2つの母音がいつしか省略されてハトリベ、ハトリと変化して現在のハットリに至ったのである。


♪啓蟄の虫仰ぎ見る空の青 亡羊

Thursday, March 06, 2008

平川南著「日本の原像」を読む その1

照る日曇る日第103回

天皇と日本のはじまり
倭国王が東アジア世界に秩序づけられた「王」「大王」に代わり独立した最高位の称号をのぞみ、道教思想において宇宙の最高神を示す「天皇」という名称を日本国王として用いた。そしてこの天皇は則天武后時代では明らかに「皇帝」より下位に位置づけられていたために中国からも是認された。これがわが国の天皇号のはじまりである。

仏典の「日出ずる処は是れ東方」という位置づけを重んじたわが国は7世紀後半に新たな国号を日本と定めたが、これも古代中国の世界像における東夷の世界、東の果ての地として「日の土台」という意味で採択された。

一方これは古代朝鮮に対して「西蕃」vs「貴国」という世界関係を成立させることをのぞみ、みずから東にある「貴き国」のイメージを求め、それを「日本」と呼んだ。もしかすると現在に至る中国-朝鮮-日本の三角関係の基本構造は、今から17000年前にセットされたということができるかもしれない。

国名のはじまり
わが国の東西の境界線は古代から東海道では遠江と三河、東山道では信濃と美濃の国境にあった。そして東国の国名はヤマト朝廷によってある時期にいっせいに命名された。

近江国は琵琶湖を「近つ淡海」と称したことに由来し、遠江国は浜名湖を「遠つ淡海」と称したことに由来するがこれらはいずれもヤマトからの距離を基準にしている。
美濃国はもと三野(各務野、青野、加茂野)があることから命名され、三河は男川、豊川、矢作川があることから名づけられた。

近江から不破の関を越え、美濃、信濃、上野、下野と行く東山道、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、相模と行く東海道の山道と海道で南北の地の国名が「野」と「河」という対になっていることに注目しよう。

♪アオジもコジュケイも飛ぶのが苦手なんだ 亡羊

Wednesday, March 05, 2008

自閉症の人のヘルプポイント

♪バガテルop51

では自閉症の人に手助けするには具体的にどうすればいいのでしょうか。
自閉症の人に手助けするには次のようにしましょう。

手助けその1 コミュニケーションのやり方は?
自閉症の人は話だけを聞いてその内容を理解することが苦手ですが、目で見て理解することが得意なので、何かを伝えるときは口で説明するだけでなく、実物を見せたり、絵や写真を見せたり、文字を書いて伝える方法を考えましょう。
しかしその人によって得手不得手はあるので、どの方法が伝わりやすいかを工夫する必要があります。また自閉症の人が周囲に伝える方法もさまざまです。

手助けその2 前もって伝えよう
自閉症の人は予定が分からないことに大変な苦痛と不安を感じます。その日その時間に何をするのかが分かるととても安心するのです。そこでスケジュール表に予定を書き込むようにするとよいでしょう。
予定を知らせるときは文字が読める人には文字で、読めない人には絵や写真で、実物でなくては分からない人にはたとえば食事の時間は「はし」などの実物を使うなどの方法をつかいます。

 手助けその3 集中できる環境をつくる
自閉症の人はいろいろな物音や声が聞こえてくると気が散ってしまうことが多いので、これを防ぐ工夫をしましょう。たとえば窓にカーテンをしたり、周りをついたてで囲う方法もあります。

手助けその4 話しかけるときはおだやかに
自閉症の人に注意したりなにかを教えるときには命令ではなく簡単な言葉でやさしく、しかしはっきりとその人がどうしたらいいか分かるように伝えます
大声で話しかけたり、「○○したらだめ!」と怒鳴ったりすると、自閉症の人はその人から怒られたとしか感じなくなり、もはやなにも受け入れようとはしなくなります。
名前を呼んでできるだけおだやかに話しかけてください。自閉症の人は記憶力が良い人が多く、一度だけ経験したことでも怖かったり、嫌だったりしたことはずっと覚えているのでこの点はくれぐれも留意してくださいね。


以上簡単に自閉症についての解説をしてきましたが、これらの記述は内山登起夫さんが監修され、私の長男がお世話になっている社会福祉法人県央福祉会県央療育センターの諏訪利明さん、安倍陽子さんがお書きになった「発達と障害を考える本」①「ふしぎだね!? 自閉症のおともだち」(ミネルヴァ書房)を参考にしました。

自閉症についてもっと詳しいことを知りたい人は、日本自閉症協会http:autism.or.jp/までどうぞ。

♪もう十年寝たきりなのよと通りすがりの人がいう 亡羊

Tuesday, March 04, 2008

どうすれば自閉症の人をヘルプできるんだろう?

♪バガテルop50

自閉症の特徴は幼稚園や小学校などの集団に入ると目立つことが多いようです。

言われたことが理解できない。思ったことが伝えられない。その場で何をしたらいいのかが分からない、などが原因でストレスがたまってパニックになり、ときには自分で自分を傷つけることもあります。またそういう不安が顔に出ることも多いのです。

自閉症の人がパニくるには必ず原因があります。ですからその原因を理解しようとしないままその行為をやめさせようとすると、かえってその人を追い詰めてしまうことになりがちです。

そして自閉症の人の言うことやすることがおかしくてもみんなではやしたてたり、笑ったりしないことが大切です。

さて、私の在仏マイミクのミズリンさんによれば、現在フランスの有名な映画俳優サンドリーヌ・ボネールさんの初監督作品『Elle s'appelle Sabine』(彼女の名前はサビーヌ)がパリの映画館で公開中とのこと。実は彼女の妹さんが自閉症で、この映画は自閉症の妹についてのドキュメンタリーだそうで、ボネールさんは、「自身のスターとしての名声を利用して、自閉症への理解を世間に強く訴えている」そうです。

またミズリンさん情報によればこの話題の映画を日本のどこかの会社が買い付けたそうなので私も公開のあかつきにはぜひ鑑賞してみたいと思っています。
なおこの映画の詳細については下記をクリックしてみてくださいな。  

http://www.ilyfunet.com/ovni/2008/625/cinema.php

♪始終ツチェツチェと鳴くからシジュウカラ 亡羊

Monday, March 03, 2008

知的障碍と自閉症の違いは?

♪バガテルop49

先日私の大嫌いな「阿呆の泉」という番組で、私がとても軽蔑している着物姿のいかがわしい男が、「障碍は個性」という最近巷にあふれかえっている陳腐な発言をしていました。
確かに自閉症を含めて障碍者にはさまざまな障碍があり、その姿かたちを「個性的」と表現することはできますが、障碍の本質は「重篤な障碍そのもの」であり、けっして「多彩な個性そのもの」ではありません。ことの本質を無視して、「障碍=個性」などと分かったようなレッテルを貼り深刻な事態を安易に図式化しようとするかの霊感業者たちは、それらの障碍に真摯に向き合うことから怪人20面相のように軽快に身をひるがえしているとしか思えません。もっともその方が「霊感的に楽ちん」でいいだろうしね。

さて閑話休題。知的な遅れもその内容は人によってさまざまですが、一般的には人懐っこかったり、いっしょに遊びたがったりします。

しかし自閉症児者の多くは他人との交流が苦手で、想像力に乏しくてこだわりも多いケースが多いので、交流するときに体に触れたり手をつなごうとするとパニックになることもあります。

また思ってもいない出来事が突然起こると、たとえそれが自分の誕生日を祝ってくれるものであっても強い不安でパニックになることもあります。

多くの自閉症児者は人々がざわざわとしている状態に出会うと不安になりストレスを感じることがあります。動物や赤ちゃんや元気な子供などの特定の人がとても気になったり、それらが引き起こす鳴き声や泣き声、叫び声や物音が苦手になり、耳をふさいでしまうこともあります。

♪今日もまた朝から路線図描いているその子の胸に高鳴る車輪よ 亡羊

Sunday, March 02, 2008

自閉症大研究 第6回

♪バガテルop48

よく知的障碍という言葉を耳にします。てっきり「痴的障碍」と思っていたのに、なんだその言葉のインテリジェントな響きは。この障碍はとても知的でおしゃれでシックなレナウン娘のことかと思っていたのですが、さにあらず、知的な遅れを伴う障碍という意味であると知ってがっくりした人もいるのではないでしょうか。

ところで自閉症の人は、この知的障碍をあわせもっていることが多いのですね。
世の中には知能テストというものがあって、これで知能指数IQを計ります。IQはそれぞれの年齢で平均100になるように設定されていますが、このIQが70以下の場合は知的な遅れ(昔は知恵遅れといったが最近はそりゃ差別?だというので死語にしたらしい)があることも考えられるというわけです。

しかし前にも触れたように、この知的障碍と自閉症とは異なる障碍です。
このような知的な遅れのある自閉症児者は、例えば、

言葉や文章で表現したり
お金を計算したり、
時間をはかったり、
相手の行動を見て自分の身を守る工夫をしたり、
学校の勉強を理解することなど

が苦手だったりします。

さらには「いくつなの?」と話しかけられて、「いくつなの?」とオウム返しをしたり、一度聴いた昔の言葉や駅のアナウンスを何回も繰り返したり、NHKの朝ドラ「どんど晴れ」の主人公の名前を何度も呼んだりします。

あるいはまた何回も手をぱちぱちとたたき続けたり、飛び跳ねたり、体を前後にゆすったりすることがあります。

その他自閉症は、同じ脳の障碍であるてんかんや、チック症、睡眠障害などを複合するケースもあるので要注意です。


♪ふきのとう描く人あり喰らう人あり 亡羊

Saturday, March 01, 2008

自閉症大研究 第5回

自閉症大研究 第5回

♪バガテルop47

前にご紹介した三大特徴だけが自閉症ではありません。それ以外にも

1) 目で見たものを写真で撮ったように正確に覚えたり、駅の名前をたちどころに覚えたりするケースもあります。また、

2) 自閉症児者は感覚がとくに鋭かったり、その逆ににぶかったりするので厄介です。例えば私たちが気にしない音や匂いが気になったり、その反対にガラスでひっかく嫌な音が気にならなかったりします。また野菜やくだものなどある特定の食品しか食べない、それも特定のメーカーの製品しか食べない人もいます。

3) 健常者の場合はさまざまな能力が個人差はあっても同じように発達していきますが、自閉症ではそれがばらばらであることが多いようです。
トランポリンは上手に飛べるのにボールがうまく投げられないとか、捕球ができない、はしが上手に使えない、歩き方、走り方がどこかぎことないケースも多いようです。けれども、はしが上手に使えないのにテレビゲームは上手に操作したりすることもあります。

♪弥生三月春の力をわれに与えよ 亡羊