Showing posts with label 芸術. Show all posts
Showing posts with label 芸術. Show all posts

Wednesday, July 18, 2012

ソウル・ディブ監督の「ある公爵夫人の生涯」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.280


レイ・ファインズ演じる公爵とキーラ・ナイトレイが演じる公爵夫人の問題コンビが何と言っても素晴らしい。むかしこういうオキャンな同級生がいたが今頃どうしているのやら。

それにしても17世紀後半の英国社会って酷いものだ。貴族と平民の階級差別がインドより陰湿とはかねてより聞いていたが、たかが一介の公爵に、誰かを首相に据えたり、妻を暴君のように産む機械とみなす権限があるとは知らなかった。極東のどこかの国と似ている。

元をただせば愛してもいない癖にそんな公爵の夫人になりたいと願った若く美しい女の浅墓さが、彼らの悲劇を生んだのだが、嫌がる夫人をレイプしたり、公然と妻妾同居の生活を続けて恬として恥じない超エリートの生き方には、いくら映像と音楽が綺麗な映画とはいえ生理的な不快感を覚える。

ましてそれがほぼ実話であると知ればなおさらのことだ。似ても焼いても喰えないこの夫婦が、ラストで訳の分からない和解に至るのもあまりにも唐突で納得できなかった。

しかしこの映画の思いがけない贈り物はあの「愛の嵐」の名花シャーロット・ランプリングの登場。さすがに乳母桜となってしまったが健在と知ってうれしかった。


生まれつき脳に傷があったからこうなった自閉症は病気ではない 蝶人

Sunday, February 19, 2012

文化学園服飾博物館で「ペイズリー文様 発生と展開」展を見て

ふぁっちょん幻論第67回&茫洋物見遊山記第77回

ペイズリー文様といえばただちに思い浮かべるのが1947年に製作された吉村公三郎監督の「安城家の舞踏会」。その前半部で原節子が着こなしていた大胆なペイズリー柄のワンピースであります。その大柄な装飾柄が、没落する桜の園でけなげに生きようとする彼女の役柄にふさわしい雰囲気を醸し出していました。

本展の資料によれば、ペイズリー文様の起源は、インド北部カシミール地方の可憐な花模様だそうですが、これがインドの染織品と共に18世紀に入った欧州で大流行を遂げ、それが更にアジア、アフリカ諸国の文様と複雑多岐に融合し、その混合物がまた全世界に波及するという一大トレンドを醸成したようです。

18世紀の末から19世紀はじめの欧州は、例のアールヌーボーの隆盛期だから、有機的なものと無機的なもの、植物と鉱物の融合を目指したこの歴史的な文化工芸運動とペイズリー文様はピッタシカンカンのコラボレーションを繰り広げたに違いありません。
当時英国で産声を上げたリバティプリント社や、のちのイタリア・エトロ社の装飾的なファブリックの源流も、すべてここから発しているのでしょう。

大きな涙を垂らしたようなペイズリー柄を見ると、生物のもっとも基本的な単位である細胞の顕微鏡写真によく似ています。ペイズリー柄は、生きとし生けるものの生命の原核を象徴するデザインであるだけでなく、それを身にまとう者に不滅の生命を賦活する呪術的な文様でもあるのでしょう。

人々と時代の生命力が限りなく沈滞し続けている現在、ペイズリー文様復興のビッグ・トレンドが深く静かに待機しているのかもしれません。なおこの展覧会は来る3月14日まで東京新宿の同博物館で開催されています。


神様の涙のようなペイズリー滅びゆく我らを優しく包まむ 蝶人

Friday, January 27, 2012

ジャック・リヴェット監督の「ランジェ侯爵夫人」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.193

ヌーヴェルヴーグの生き残りリヴェットの2007年の最新作をその翌年に37歳の若さで惜しまれつつみまかったギヨーム・ドパルデューが熱演しています。原作はバルザックの短編で、原題は「斧に触れるな」です。

彼が扮する19世紀のナポレオン軍の名将軍で軍務一筋の不器用な男が、妖艶な社交界の花ランジェ侯爵夫人(ジャンヌ・バリバール)の色香に迷ってたちまち恋に落ちる。ところが侯爵夫人は彼女が知らなかった荒鷲のように無骨な男に魅せられながら、その純情をもてあそぶ。ついに男の怒りの斧に触れたのです。

業を煮やした武人は彼女を拉致して強引に愛を迫るのですが、それがかえって逆効果となり酷薄な女の前から姿を消す。すると追えば逃げ、逃げれば追うのたとえどおり、今度は女の方が失った恋の大きさに耐えかねて恥も外聞もかなぐり捨てて男を求める。

命を賭けて無二の愛を求め、それが得られずに侯爵夫人が選んだのは海の彼方の絶海の孤島でした。そして映画は息詰まるような緊迫感を保ちながら悲劇の大団円に突入するのですが、これは見てのお楽しみ。それにして男女の愛の本質をぎりぎりと抉り取るこんな珠玉の名作を夢も希望もない平成ニッポンの私たちに贈ってくれたジャック・リヴェットには感謝の他はありません。


枯葉の中にムラサキシジミとテングチョウが越冬していた枯葉となって 蝶人

Saturday, January 07, 2012

小澤征爾×村上春樹著「小澤征爾さんと、音楽について話をする」を読んで

照る日曇る日第481回

クラシックとジャズに一家言ある作家だからこういう対話集を出してもおかしくはないが、それが小澤征爾とはちょっと意外だった。なんでも村上氏の細君と指揮者の娘さんが仲良くなって家族ぐるみの交際をするようになった副産物らしい。あんまり期待もしないで読み始めたのだが、これが意外なことにとてもおもしろく、あっという間に読み終えて、新年早々良い音楽を聴いたときのような軽い幸福感を味わうことができた。

対談と言ってもほぼ100%小説家が聞き手です。くだんの音楽家に3回ほど時間をとって比較的素朴な質問を発すると、それに音楽家が一生懸命誠実に答える。そのあとでテープの録音を小説家が丁寧にリライトしたものなのであるが、プライベートな時空間における対話であることと、聞き手の切り口が単純で明快で率直にして巧妙なために従来のインタビューや対談からはとうてい聞き出せなかった音楽家の偽らざる本音が、音楽と生活の両面にまたがってじゃんじゃんとこぼれおちる。私のように小澤の音楽をてんで評価しない冷たい人間にとっても望外の収穫がありました。

特に精気がみなぎるのはレコードやCDやDⅤDを視聴しながら2人で感想戦?を戦わせるくだりで、50年代にグールドとバーンスタインやカラヤンが入れたベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番のレコードを聴きながら、今は亡きグールドや現役の内田光子の天才やゼルキン父子の思い出を今ここに流れている音楽に即し、ともにスコアを見ながらあれこれ具体的に語るところはものすごく説得力がある。私も彼らと同じ音源を流しながら彼らの発言を読んだが、小澤本人はもちろんだが村上春樹の音楽の読みの深さには秘かに舌を巻いた。これあるから小澤も進んでみずからを開いたのだろう。

マーラーやサイトウキネンやウイーン国立歌劇場、スイスのロール(ゴダールの居住地!)で開催されている国際音楽アカデミーのマスタークラスについても知られざる情報がてんこもり。師事したバーンスタインやカラヤンとの生々しいエピソードはもちろんだが、世界中の行く先々でオーマンディーやベーム、クライバー、ルビンシュタイン、ヨーゼフ・クリップス、ポネル、パバロッテイ、フレーニなどの音楽の先輩たちから与えられた数々の無償の好意と友情を授かったアジアの音楽快男児の持って生まれた幸運を思わずにはいられない。

小説家が、自分は音楽を作曲するようにして毎朝4時から小説を書いているとふと漏らす言葉も意味深い。そういえば漱石、荷風、潤一郎にしろ春樹、光代、弘美にせよ優れた小説家の文章の芯にはそれぞれに固有の音楽が流れているな。


倒れながらよくぞ電話をかけてきた正月6日義母92歳 蝶人

Thursday, August 25, 2011

丸谷才一著「樹液そして果実」を読んで


照る日曇る日第449回

甘味滴る書名に惹かれて読んでみたが、柔らかな表皮の内部は博学才知をもって鳴るこの著者ならではの広く深い考察に満ち満ちていた。前半はジェームス・ジョイスの「若い藝術家の肖像」と「ユリシーズⅢ」を巡る才走った文芸評論、後半は八代集や源氏物語、王朝和歌、後鳥羽上皇、折口信夫などを、筆が疾走する思考に追いつこうと必死に飛び回る刺激的なエッセイだが、もちろん後者が抜群に面白い。

 折口の推測では、源氏物語の主人公がやたら王朝の女性をものにしようと齷齪するが、これは彼が色狂いしているのではなく、女の財産を狙っているからで、その代表が光源氏が朱雀院の懇望を入れて女三の宮を引き受ける箇所だという。

もちろん源氏は「皇女」を蒐集したい気持ちもあったが、この豊かな財力を持つ少女が政敵の太政大臣の息子の柏木に収蔵されたらマズイ、というので紫上の正妻の地位を格下げにしてまで結婚したというのです。 

これに関連して著者は、男子が単独相続する父権制社会の成立は鎌倉時代からで、それ以前は女性が荘園領地内の不動産や物権を相続する母権制の名残が色濃く残っていたのだ、と主張しています。目から鱗とはこのことでしょう。

また著者は、偉大なる学者、高群逸枝の驥尾に付して、天皇家という家系は存在しない。その証拠に天皇には名があっても姓がない、と説いて我々を驚かせます。確かに神武以来歴代天皇の系譜は存在するが、それは家系図ではなく、単なる皇統譜であるというのです。

例えば源氏物語を読んでも桐壺の更衣は里の実家に下がって源氏を産んでいる(源氏は天皇ではないけれど、天皇の場合も同じことです)。

つまり母権制の社会では、帝は皇居をあちこち移動させながら、複数の后の実家に婿入りをしているのだが、帝名義の家族は、ない。家族がなければ、姓もない。だから現代でも裕仁だの明仁という名前しかないというのですが、どうやらこの人は筋金入りのフェミニストのようですね。

ギースチョンを二匹助けてやりました 蝶人