Tuesday, October 31, 2006

宗教的情熱について

宗教的情熱について

政治と宗教に熱中することほど危険なことはない。

政治と宗教は敵に寛容ではない。「汝の敵は、殺せ!」という恐ろしい呪文を胸に、あのオウムも、クロムウエルもルターも、ジャン・カルバンもブッシュも、ビンラディンも、キリスト教の新旧両派も、イスラムの原理主義も、敵を倒し、殲滅することに昨日も今日もそして明日も情熱を傾けるのである。

政治と宗教の本質は、恋愛と同じように原因不明の病いである。

それは猛毒ウイルスの伝染病のように一世を風靡し、嵐のように来たって、また嵐のように去る。

闘争の当事者は、この嵐の来襲に理性的に対応することは不可能である。ただ嵐に向かって立ち上がり、嵐によってなぎ倒され、その間におびただしい敵を殺し、敵からも殺戮され続ける。そうしていつの間にか嵐の季節は終るのである。

私は大本教の本拠である裏日本の山陰の街に生まれ育ったが、この小さな盆地にはさまざまな流派の仏教とキリスト教、大本教から天理教、黒住教、創価学会にいたるまでの新興宗教がほとんど全部揃っていて、いわば選り取り見取りであった。

私が親の指令で通っていたプロテスタント教会のある牧師は、ある晴れた日曜日の朝、教会の窓ごしに見える巨大な新興宗教の本殿を指差して叫ばれた。

「見よ、あれなる悪魔の宮殿を。すべての多神教は邪宗である。サタンよ、退け!」

 そのマルチンルター張りの説教があまりにもかっこよすぎたために、いらい私はなぜか「一神教は多神教よりも優位に立つ」という迷信を盲目的に信心するようになり、そのデマゴギーから自らを解放するまでに長すぎた無駄な歳月を必要としたのだった。

 ところでその危険な2つの麻薬である宗教と政治をミックスした組織といえば、ドイツではキリスト教民主同盟、わが国では公明党ということになる。

いずれにせよ猛烈にエネルギッシュで触れば暴発する危険な政党である、か?、と一時は疑われた。特にかつて公明党の母体である(であった?)創価学会の布教活動は鎌倉時代の日蓮もかくやという凄まじさで、彼らの「折伏」攻勢にたじたじとなった人は数多かったものである。

私はかつて京都市左京区の百万遍をちょっと上がって、叡電の線路をまたいでからちょいと左に入った田中西大久保町に1年間下宿していたが、この家の日蓮正宗=創価学会信者のおばあちゃんの朝晩の勤行は、静かな古都の四囲に鳴り響くほどに凄かった。

ところが昔はいざ知らず、最近の学会員は奇妙なまでにおとなしい。特に正宗系の大石寺と絶縁してからは、あの名物だった勤行時間も短縮することが許され、念仏のボルテージも昔日のそれに比べていくぶんトーンダウンしているようだ。

そればかりではない。公称827万、日本人の16%が学会員というこの巨大組織の内部ではさまざまな胡乱な現象が進行しているようだ。

我が家の近所には創価学会の人が多いし、かねてからこの宗教&政治コラボレーション集団に興味のあった私は、島田裕巳著「創価学会の実力」を読んでみた。

著者によれば、創価学会はかつては日蓮宗の1派である日蓮正宗を教学の基本にしていたが、90年代のはじめにこれと決別したために宗教思想の濃厚な核を喪失してしまった。

また創価学会は、かつては大石寺参拝や宗教大会などのセレモニーを通じて宗派全体のモラルアップを果たすことができたのだが、現在では選挙以外にその効果的な機会がなくなってしまったという。

さらに公明党は最大の宗教党派であるにもかかわらず、その内部では様々な問題が横たわっており、カリスマ池田大作ですら公明党や学会内部からの規制が働いて自由に動けない。ポスト池田が大問題だ、などと説いている。

このように学会や公明党に関する(私のような素人には)斬新な知見を随所で見出すことができる本書だが、この作者の文章力と構成が弱いためか、同じくだらない話題が何度も繰り返され、原稿料を版元から稼ぎたいのであろうか、さして重要とも思えない話柄をえんえんと引き伸ばしているのが気になる。この内容なら、本書の半分の原稿量で十分であろう。

Monday, October 30, 2006

大森望・豊崎由美著「文学賞メッタ斬り!リターンズ」を読む

前作の「文学賞メッタ斬り!」が芥川賞や直木賞の内幕を暴露して面白かったので、その続編にもつい手が伸びてしまった。

ともかく渡辺淳一や石原慎太郎、津本陽とか宮本輝などの審査委員がいかにでたらめな審査をしているのかがよくわかる。

直木賞担当の津本などは毎回最終候補作を読まずに審査しているそうだ。また芥川賞の審査委員は任期がないということも初めて知った。

本書は、時代遅れの感度の鈍い老壮大家?が、新しい時代の新しい文学の芽を評価するどころかブルトーザーのように押しつぶしてきた「輝かしい歴史と実績」についてもくわしく教えてくれる。

今回は特別ゲストに文壇のハンカチ王子、いや違った、貴公子の島田雅彦が登場。そこまで語っていいのかという内輪話をスラスラと話す。

以前彼にインタビューしたときにも感じたことだが、「言語明瞭、意味明快」という言葉は、まさしく彼のような作家のためにあるのだろう。

彼はビールでくちびるを潤しながら、(「インタビューなどはビールでも飲みながらじゃないとやってらんないよ」とほざいた!)実に豊富なヴォキャブラリーを、的確かつ華麗に駆使しつつ、しかも見事なまでに論理的に語る。

最近やっと消えてくれたアホバカ小泉や、それに代わって最近やたらと出没する安倍ちょうちんの超醜い日本語とのなんという違いであることか!

よどみなく流れる島田の言葉をテープに起こすと、そのまま完璧な日本語になっているのに驚いた。彼なら太宰治がやってのけたように、ビールを飲みながら同時筆記で小説を書くことができるだろう。

第2回の「詩のボクシング大会」で優勝したときの最後の即興詩のできばえも、誠に見事なものだった。

このあいだ三島由紀夫の日本語や英語の講演(新潮社の全集にCDで入っている)を聞いたときに思ったのだが、この二人の朗読はどこか感じが似ている。まあ二人ともハンサムで頭が異常に切れる作家には違いないけど。

この点、引き合いに出して悪いが、例えばテレビ東京の「カンブリア」だか「ウンベルト」だかしらないが下らないビジネストーク番組に出演している村上龍の拙いしゃべりに比較するとそれこそ雲泥の差である。

ちなみにこの番組では小池栄子のしゃべりの方が龍よりクレバーなのも不思議だ。

もうちっとぐあんばれよ、龍。

Thursday, October 26, 2006

都築響一著「夜露死苦現代詩」を読む

まずは、本書の第11章「少年よ、いざつむえ」に掲載されている友原康博氏の「くさった世の中」という作品を紹介しよう。

「くさった世の中」

くさった
世の中は
身を
生じない
反発の
ゆれみが
のし
かかって
くる
のだ
だから
きびしく
追求する
激しい
なぞは
荒れて
いる
世の中の
くさみで
ある
ことは
決して
うそで
ないことを
実証して
いる
のだ
だから
はてない
気持が
つづくのは
さぞ
不思儀な
事は
ない
では
ないか
そこに
激しく
もみ
あう
ので
ある


著者は、生命力を喪失し、業界内部だけの自己満足で消耗の限りを尽くし、いまや仮死状態にある「現代詩」に最後の鉄槌をくだそうとしている。

高踏的な桂冠詩人の超難解な1行よりも、死刑囚の稚拙な5・7・5や、あまねく人口に膾炙されている相田みつおの「今日の言葉」や玉置宏の天才的な話芸、障碍者の輝かしい「言葉のサラダ」、肉体言語としてにラップ・ミュージックにより高いゲイジュツ価値を見出そうとする著者の考え方はじゅうぶんに説得力をもち、次々に繰り出される豊富な実例に圧倒される。

思わず、「くたばれ、現代詩。よみがえれGENDAISI!」と叫びたくなるような、パンクでファンキーな1冊である。

Wednesday, October 25, 2006

「芥川龍之介展」で思ったこと

「芥川龍之介展」で思ったこと
今日は、はとつまとわたしの3人で鎌倉文学館の芥川龍之介展に行きました。

旧前田侯爵邸でかつて佐藤栄作首相の別荘でもあったこの英国調の洋館の歴史は古く、三島由紀夫の最後の作品にインスピレーションを与えた建物としても有名です。

広い前庭にはさまざまなバラが咲き誇り、その向こうには太平洋や大島を望むことができます。(文学館の入り口右手の坂の上には、かつて長勝寺という大寺があったんだよ)

私は以前この文学館で中原中也や夏目漱石の展示に接することができました。

そして中也が生前に通ったカトリックの教会や空気銃を買った玩具屋やまだ長谷に実在していることを知り、そこを訪ねたものでした。
ちなみに私は昭和12年に彼が亡くなった病院で毎年の身体検査を受けています。(関係ないか)

それから夏目漱石の名刺のおしゃれなことにも驚きました。

現在私たちが使っているものに比べると天地も左右も短いそれは絶妙なプロポーションで構成され、使用されている日英のフォントの繊細さは、彼が好んで描いた南画の神経質すぎるほどの繊細さとあいまって私を感嘆させたものでした。

そして今日この眼で接した龍之介の「芋粥」や「鼻」や「蜘蛛の糸」、「奉公人の死」などの生原稿の筆跡は、驚いたことに私の亡くなった母の筆跡に瓜二つだったのです! 

私は思いもかけないところで母の亡霊に出会ったような気がしてちょっとショックでしたが、それだけになおいっそう芥川に親近感を抱くことができたように思います。
漱石ほどではありませんが、生真面目な書体が印象的でした。

さて現在の東京北区の滝野川に生まれた芥川は、塚本文と結婚直後の大正7年3月から1年ほど鎌倉で楽しい新婚生活をエンジョイしました。

若すぎた晩年に芥川はこの短かった鎌倉時代が最も幸福な時期だったと回想しています。

彼は最初は大町、次いで由比ガ浜の借家(野原西洋洗濯所跡)に住んで久里浜の海軍機関学校の英語教師を勤めるかたわら「蜘蛛の糸」や「邪宗門」などの短編を書いていました。
この2箇所とも漱石の夏季の借家があった近所ですね。

私にとって芥川の最高の作品は「蜜柑」です。

寒村から奉公に旅立つ少女が、上り列車の窓を開けはなって見送りに来てくれた弟たちに放り投げる別れの蜜柑の鮮やかな黄色の放物線を思っただけで、涙がにじんでくる涙腺の弱い私ですが、この名編も当時の軍用列車であった横須賀線での体験がもとになっています。

よせばよいのに東京に出て、トレンドの最前線で苦悩した挙句に「将来に対するただぼんやりとした不安」が原因で昭和2年に服毒自殺を遂げた龍之介。

おそらく彼は、満州事変から日中戦争にいたるその後の昭和日本の暗い道行きを直感し、その前途に絶望して自栽したのではないでしょうか? 

そして恐ろしいことに、芥川が懐いた「将来に対するただぼんやりとした不安」とは、平成の今に生きるわたしたちにも感じられるまったく同質の時代的不安ではないでしょうか? 

村上の龍ちゃんにも増しては、芥川の龍ちゃんは、今こそ私たちにとってリアルな存在です。

Tuesday, October 24, 2006

開運祈願

鶴岡八幡宮の本殿に登って祈祷が始まるのを待っていると、七・五・三で家族と一緒にやってきた少年の声が聞こえた。

「ねえ、神様はどこにいるの?」

すると彼の父親がおぼつかない声で答えた。

「奥のほうだよ」

少年が「あそこらへん?」と、指差しながらまた尋ねると、

「いいや、もっと奥の上のほう」

と、父親がおぼつかなげに答えるのを、私は吹き曝しの畳の上で震えながら聞いていた。

少年よ、いったい神様はどこにいるんだろうねえ?

もしかすると、私たちの正面の御簾の奥の扉の奥の、そのまた奥に、神様はいらっしゃるのかもしれないね。

あるいは、神様はもしかすると、そこにも、ここにも、どこにも、いらっしゃらないのかもしれないね。

でも、今日のお昼前、私たちの大好きな八百万の神様は、

八幡様の本殿にも、

静が踊った舞殿にも、

実朝が公暁に殺されるのを眺めていたイチョウにも、

本殿の屋根の上でやかましく鳴いている烏にも、

その烏の上にどんより広がっている曇り空の中にも、

それから、小さな掌を合わせている少年の心の中にも、

やわらかく微笑んでいたのだった。

Monday, October 23, 2006

死刑囚たちの歌

死刑囚たちの歌


よごすまじく首拭く
寒の水

布団たたみ
雑巾しぼり
別れとす

叫びたし
寒満月の
割れるほど

梅雨晴れの
光を背負い
ふりむかず

秋天に
母を殺せし
手を透かす

桜ほろほろ
死んでしまえと
降りかかる

つばくろよ
鳩よ雀よ
さようなら

絵を
描いてみたい気がする
夏の空

キャラメルで
蝿と別れの
茶をのんだ

房の蝿
いっしょにいのって
くれました

幸せは
ひとつで足りる
鬼あざみ

革命歌
小声で歌ふ
梅雨 晴間
 
以上、都築響一著「夜露死苦現代詩」(新潮社)第五章「死刑囚の俳句」より転載

Sunday, October 22, 2006

こんな夢を見た

こんな夢を見た.


おれはその会社で干されていて、毎日暗い日々を送っていた。

永代橋の近くにあるその会社の「サンプル現売所」(会社の製品見本を社員や株主に安く販売する)に配置転換されていた。

ある日人事課長の竹内から「いまから大株主のお嬢さんと一緒にそちらに向かうからよろしく」という電話があり、まもなく2人がおれが働く狭く汚い展示コーナーに現れた。
そのお嬢さんは宝塚出身の真矢みきに少し似ていたが、生まれたばかりの赤ちゃんを腕に抱いていた。

竹内が「あまでうす君、ちょっとこの児を頼むよ」と言うので、おれは断ろうとしたのだが、竹内が強引に赤ちゃんを押し付けたので、おれは仕方なく慣れない手つきで胸に抱いた。

その男の子はすこぶる元気で、両手両足を振り回し、なんとかおれから逃れようとする。おれは必死で彼をなだめようとしたが、彼は母親を求めてますます狂ったように泣き叫ぶ。

「これはダメだ。おれの手にはおえないよ」と、おれは竹内の助けを求めた。しかし二人の姿はどこにも見当たらない。

「くそお、どこに消えてしまったのか」、とおれはわが身をのろい、地団駄を踏んだが、赤ちゃんは火がついたようにますます猛り狂うばかりだ。

そこでおれは一計を案じておれの右手の人差し指を赤ちゃんの小さな口に入れ、しゃぶらせると、赤ちゃんはすぐに泣きやんだ。

「やれやれ、やっと落ち着いたか。これで安心だ」と言いながら赤ちゃんの顔を眺めたおれは驚いた。おれの腕の中には強大な黒猫がいて、凶悪な眼をらんらんと光らせ、おれの人差し指をピンク色の長いー舌でペロペロなめながら、おれをじっと見つめていたのである。

赤ちゃんはどこへ行ったのだ。こいつは猫というより、黒ヒョウだ。どうしておれは黒ヒョウをだっこしているのだ?

あせり狂ったおれは、その黒猫を一気に放り出そうとしたのだが、まずおれの指を解放するのが順序だと考え直し、右手の人差し指をそろりそろりと彼奴の獰猛な口から抜き出そうとした。

と、その途端、黒猫は彼奴の奥歯に挟んだおれの指にギリギリっと力を込めた。

「い、痛い。お前、おれの指を食いちぎるつもりか?」とおれが尋ねると、「そうさ。そうするつもりさ」と彼奴は答え、またしても上下の奥歯の力を込めてきた。

これはいかん。このままでは食われてしまう。と思うのだが、相手が猛獣ではどうしようもない。指の1本くらいはあきらめよう。そしてこれは誰でもが簡単に経験することではないビッグな椿事だから、この貴重な体験をライブで歌に詠もうと決意した。

そこで右手の人差し指を黒猫にかまれたまま、おれは、

黒猫に指はさまれし門前仲町

と1句詠むと、彼奴は、「お、いいね、いいね。地名を入れ込むとはやるじゃん。ではこうするとどうなるね?」
といいながら、おれの大事な人差し指をガブリと食いちぎったので、激痛が走り、彼奴の口の中にはおびただしい血が流れた。

そこでおれは痛みと衝撃に耐えながら、歯を食いしばって

黒猫に指食いちぎられし秋の午後

と、さらに1句詠みながら、憎っくき彼奴を地面に叩きつけると、彼奴は「うぎゃあ」と叫びながら永代橋方向へ脱兎のごとく逃げていった。

そのときやっと竹内課長が真矢みき風の女と戻ってきた。

女はおれを見、おれの周りをグルグル見回しながら、「あたしの、あたしの赤ちゃんは?」と尋ねるので、おれはこう答えた。

赤ちゃんも猫も消えたり隅田川

Friday, October 20, 2006

映画プリティ・ウーマン(PRETTY WOMAN)を観る。

ジュリア・ロバーツが大スターの仲間入りを果たしたシンデレラ・ストーリー。ウォール街でその名をとどろかせる実業家、エドワード。ふとしたことからロサンゼルスでしょう婦のビビアンと出会い、2人はパートナーとして1週間一緒に過ごす契約を交わす。そしてビジネスとしての関係だけのはずが、いつしか心ひかれていくことに・・・。ジュリア・ロバーツが徐々にエレガントな淑女へと変身していく姿が見どころの大ヒット作品。(原題:PRETTY WOMAN)〔製作〕アーノン・ミルチャン、スティーブン・ルーサー〔監督〕ゲイリー・マーシャル〔脚本〕J・F・ロートン〔撮影〕チャールズ・ミンスキー〔音楽〕ジェームズ・ニュートン・ハワード〔出演〕リチャード・ギア、ジュリア・ロバーツ、ローラ・サン・ジャコモ  ほか(1990年・アメリカ)〔英語/字幕スーパー/カラー〕

リチャード・ギアがロスからサンフランシスコまでジュリア・ロバーツを連れてきてサンフランシスコ・オペラ(日本が単独和平を結んだ会場)で「椿姫」を見せる。

ギアが、「オペラは最初に見た瞬間にその世界に入れるか否かがすぐ分かる」と偉そうなことを言って、娼婦で無教養役のジュリア・ロバーツの反応を終始傍から見守っている。

すると案の上彼女が涙する姿を見てよし、よしとうなずく。自分はまったく感動も、鑑賞もしていない。

こういうところに監督・脚本の「娼婦=無教養」という差別意識が透けてみえる。

王子様が白馬に乗ってかわいそうなシンデレラを助けにくる、というお話を臆面もなくやってのけるシーンもすごい。

80年代後半のセレブのモード(セルッテイ)が現在とあまりにも異なっていたことに驚くが、こういう典型的な悪しきハリウッド映画を馬鹿面下げて見に行った観客の顔が見てみたい。

Thursday, October 19, 2006

ジョー、満月の島へ行く

「ジョー、満月の島へ行く」を見た。

 いかにもスピルバーグの製作会社アンブリン・エンターメント映画好みのハート・ウオーミングドラマ。

 前半の名曲「16トン」をBGMにした暗く悲壮な始まりと、後半からの「マッスケナダ」などを劇伴にしたユーモラスでロマンチッックな展開が好コントラストをなす。(音楽はフランス映画でお馴染みの名人ジョルジュ・ドルリュー)

 実際にはありえない非現実的なお話を、アイデアと特撮を駆使して、後味のよいヒューマンドラマに仕上げる手法は、功罪あい半ばするハリウッド映画が受け継いだ陽性の遺伝子であろう。

トム・ハンクスとメグ・ライアンの名コンビでおくるロマンチック・コメディー。かつて消防士だったジョーは、今では嫌な上司と体調不良に悩まされるおちぶれたサラリーマン。彼はあと半年の命と医者から宣告され、やけになって億万長者と南の島の火山活動を鎮めるための“いけにえ”になる契約を交わすことに。そして社長令嬢とともに、ヨットに乗り込み島へ向かうのだが・・・。メグ・ライアンはこの作品で1人3役をこなした。(原題:JOE VERSUS THE VOLCANO)〔製作〕テリー・シュワルツ〔監督・脚本〕ジョン・パトリック・シャンリー〔撮影〕スティーブン・ゴールドブラット〔音楽〕ジョルジュ・ドルリュー〔出演〕トム・ハンクス、メグ・ライアン、ロイド・ブリッジス、ロバート・スタック ほか(1990年・アメリカ)〔英語/字幕スーパー/カラー〕ジ

Wednesday, October 18, 2006

Joseph Jaffe著「テレビCM崩壊」(翔泳社)を読む

消費者主権がますます声高に叫ばれ、消費者自体の個衆化、ミクロ化、多価値複雑分裂化現象が進行すれば、当然マス媒体とマス広告の価値と効果は減少するだろう。

本書はそのマス媒体の中でも特に米国のテレビCMに焦点をあてて最近の動向をレポートしていて参考になる。

Web2.0時代の到来のなかでテレビCMのみならず新聞・雑誌・ラジオ媒体はますます媒体としてのパワーを喪失し、その古典的な媒体形式を変容させるだろう。

しかしそれが直ちに媒体自体の「崩壊」につながるかどうかは予断を許さない。

むしろWeb2.0の進化と提携、同調する新しい形式と内容の、それこそニューメディアが続々と誕生するのではないだろうか。

Tuesday, October 17, 2006

工藤美代子の「われ巣鴨に出頭せず」を読む

工藤美代子の「われ巣鴨に出頭せず」を読む

昭和20年12月16日、GHQからの召還命令を拒否して服毒自殺した最後の公爵近衛文麿の厖大な伝記である。

まず工藤氏は、1928年の済南事件における関東軍参謀将校による謀略とされている張作霖暗殺事件および近衛内閣発足直後の1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋における日中衝突による支那事変の勃発を、スターリン=毛沢東の国際共産主義者による深謀ではないかと指摘するがもしそうだとすれば昭和史は大きな書き換えを迫られるだろう。

1940年第2次近衛内閣を組閣した近衛は、東条英機を陸軍大臣、松岡洋右を外務大臣に起用したことが裏目に出て、自らの手で日本を太平洋戦争に導く転回点を作ってしまう。しかし工藤氏によれば、更に大きな過ちを犯したのは、ポスト近衛の東条と内大臣の木戸だと断じる。

彼らが連携連合して天皇への強固な「壁」をつくり、一切の外部の情報を遮断したために、天皇は情勢を適切に判断できず、その結果終戦が遅れることになったという。

そして従来とかく優柔不断で弱虫といわれた近衛が、実は意外にも東条や木戸よりも剛毅で誠実な性格で、吉田茂などとともに最後まで終戦工作に従事し、天皇への忠勤に励んだ、と、著者は結論づけるのである。

「銀の匙をくわえて生まれてきた近衛は、時にその匙を口から放り出そうとし、また銀が少々錆びようとも気にとめない生涯だった。誤解されたまま棺の蓋を閉められた近衛だったが、その生涯は政敵をも恨まず、貶めず、ひとり内なる天皇の傍へ先立った。巣鴨に出頭しないことで護り通したものこそは、近衛の天皇への絢爛たる愛の証だったのではないだろうか。決して弱くはなかった貴種の、終戦の日が来た。(本書の感動的な結末部分より引用)

しかし、私に言わせれば近衛と天皇の友情や忠誠などはどうでもよい。近衛も木戸も東条も統帥権を総攬する昭和天皇の戦争指導の傘下にあったのであり、天皇を主犯者とする共犯者のサークルの住人であったにすぎない。

あれほど終始積極的に大東亜戦争に加担し、他の誰にもできない強力無比な戦争指導を行いながら、結局昭和天皇は戦争責任をとらなかったし、国民もまた自らの責任にほおかぶりをした。(最近では連合国による東京裁判ですら無効であると唱える歴史オンチが登場する始末だから何をかいわんやである。)

このキーポイントをはずして藤原氏の高貴な血をひく貴人宰相の功罪をきめ細かくあげつらったところでいったい何になるのだろう。
それこそ目くそ鼻くその類ではないかとけちをつけたくもなるのである。

ムクの歌

OH!アデュー 人語をはじめてに口にして 
老犬ムクは いま身罷りぬ

ネンネグー 阿呆ムク 可愛ムク 処女のムク
盲目のムク いま昇天す

鎌倉の 山野を駆けし細き脚 
そのマシュマロの足裏を ぺろぺろ舐めおり

ここで跳べ ザンブと飛び込む滑川 
ウオータードッグよ 輝きの夏

大蛇(くちなわ)を ガブリくわえて二度三度
振って廻して ぶん投げしムク


ヒキガエルの逆襲浴びし野良のムク
目の毒液をヒリヒリはがす 

17年 一直線に駆け去りぬ 
今一度鳴け 野太きWANG!

      
「狂犬病の注射に出頭せられたし。佐々木ムク殿」と鎌倉保健所は葉書を寄越せり。

庭に眠る ムクのからだの腹のあたり 
濃き紫のアサガオ咲きたり

崖下の 庭の土なるムクの墓 
アオスジアゲハ 雌雄乱舞す

Sunday, October 15, 2006

愛の挨拶

『愛の挨拶』



私は世間並みに携帯電話を1個持っている。

Auの携帯である。

昔はドコモの携帯を持っていたが、3回落とした。

1回目はお茶の水のアテネ・フランセでゴダールの「映画史」の試写会があった
ときだった。
2回目はJR中央線の中だった。

親切な若い女性が拾ってくれたというので、私は8月のカンカン照りの真昼に
三鷹警察署というところに初めて行って、無事にそいつに再会したのだった。

三鷹警察は、とても寂しい野原の中に、ひとり寂しく立っていた。

しかし、新橋で落とした3回目は、とうとう出てこなかった。

そのときに詠んだ歌を紹介しておこう。


「インド人イラン人誰かが僕のケイタイ持っているよ」


あなたは、変な歌だと思うだろう。

私もそう思うが、当時イランの人たちがどっさり東京にいたのだ。

それはともかく、私は落としてばかりいるドコモがいやになって、
Auに切り替えた。

当時鎌倉では電波とアンテナの関係でドコモが入らず
東京から急な仕事の電話が入ると、私はあわてて家を飛び出して近所の丘の上で
大声を出していたのである。

隣の家の主人はそんな私の哀れな姿を見てあざ笑っていたが、
その翌日、私は私とおんなじことをしている彼の姿を見たのだった。

それから私は、吉祥寺のとあるショップでAuの携帯を買った。

それはいつも私の机の左側に置いてある。

私が新しい携帯を買ったころ、私の仕事が急に減った。

フリーランスライターの私はどこにも行かず、朝から晩まで仕事の依頼の電話を待っていた。

しかし、携帯は鳴らなかった。

まれに鳴ると、それはろくでもないやつのろくでもない用事だった。

私は、それでも我慢した。

朝から晩まで、心優しいクライアントからの用命を心待ちにしていた。

けれども、やっぱり携帯は鳴らなかった。

毎月「あなたの携帯はあと600円無料通話ができました」と請求書には書いてあった。

それでも、私の携帯は鳴らなかった。

鳴らなかったが、私はそれを捨てようとは思わなかった。

やがて私は、節約のために夜間は電源を切るようになった。

毎朝9時半になると、私は携帯の電源を入れた。

毎晩6時になると、それを切った。

けれども相変わらず、携帯は鳴らなかった。

携帯は鳴らなかったが、私は必ず充電し、毎月1600円払い続けていた。

フリーライターのたしなみとして、家にいるときも、太刀洗に散歩に出るときも、たまに東京に出かけるときも携帯を手放さなかった。


それからずいぶん長い月日が流れた。


ある日のこと、私は新宿の文化女子大の教務の部屋にいた。

するとどこかから音楽が聴こえた。

私はじっと耳を澄ませた。

いつかどこかで聴いたことがある、懐かしい音楽だった。

英国の音楽であろうとは思ったが、しかし曲の名前は分からなかった。

やがてその音はだんだん大きくなり、静かな教務の部屋全体に響きわたった。

私はやっとこの名曲の名前を思い出し、傍らの若い教務の女性に得意そうに告げた。

「エルガーですよ。これはエルガーの『愛の挨拶』です」

すると、彼女が私に言った。

「あなたのこの黒いカバンの中で鳴っているようですわ」

そのときだった。
私は、このエルガーの着信音が気に入ってこの携帯を選んだことをようやく思い出したのだった…

田草川弘著「黒澤vsハリウッド『トラ・トラ・トラ』その謎のすべて」を読む。

田草川弘著「黒澤vsハリウッド『トラ・トラ・トラ』その謎のすべて」を読む。

『トラ・トラ・トラ』は1970年9月に世界で公開された日米合作のフォックス映画である。

プロデューサーにはエルモ・ウイリアムズ、米側監督にリチャード・フライシャー、日本側監督に解任された黒澤明に代わって舛田利雄と深作欣二を迎えて日米で撮影・製作された山本五十六と真珠湾攻撃の物語だ。

本書は黒澤を敬愛する作者が、燃えるような探究心に突き動かされつつ敢行した周到厖大な日米両国での調査をもとに、黒澤がなぜフォックス社のザリル&リチャード・ザナック父子から解任されたかという謎に迫る。

ザリル・ザナックはハリウッド映画界に君臨した大プロデューサーで、かつてジョン・フォードの名作のオリジナルフィルムに遠慮なくハサミを入れた豪腕編集者としても知られる。

本書によればザリルと黒澤はお互いに気に入っていたようだ。英雄肝胆あい照らすというところか。

またエルモ・ウイリアムズは「ザ・ロンゲストデー」(邦題史上最大の作戦)の総監督兼プロデューサーで、彼もまた世界の黒澤を尊敬し、『トラ・トラ・トラ』の日本側監督にクロサワを推薦・指名したのは彼であった。

本書によれば黒澤解任に至った最大の原因は、日米双方の当事者間の恐るべき誤解、そしてお互いの文化の違いである。

そもそも黒澤は(日本古来の習慣に従って)契約書に目を通してもいなかった。契約書には、黒澤の任務は「単なる職人仕事」であり、日本撮影部分だけの映像処理にすぎなかった。それだのに黒澤は日本のみならず米国部分の監督も自分が行うものだと、勝手に解釈していたのである。

この最初の段階でのボタンの掛け違いが最後に仇となる。天才的な映像作家の黒澤が自分の契約書を目にしたのは、彼が解任された後で、しかも自分の手元を探しても見つからず、なんと契約相手のフォックス社のコピーを見せてもらったというのだから驚く。

契約や米国との交渉はすべて彼が盲目的に信頼していた青柳プロデューサーが担当していた。お人よしの黒澤は自分の飼い犬の青柳にだまされだけだともいえるし、黒澤は映像産業に従事するビジネスマンとして失格であるともいえる。

法律や契約などを無視して自分勝手に相手側の意図を忖度し、「世界の中心がおのれである」という夜郎自大で無思想かつ情動的な行きかたが、わが国をかつて大きな戦争に巻き込んでいったが、これと軌を一にする無知で、粗野で、没論理で、尊大な芸術至上主義が、世界のクロサワを自爆に追い込んでいったのである。(この間の事情をわが国の昭和史や村上隆の「芸術起業論」と比較研究すると興味深いものがあるだろう)

全部で500ページになんなんとする大著も、最後まで読むと、「なあーだ」で終ってしまいそうだが、本書ではあちこちで思いがけない指摘に出会い、黒澤に関する旧来の見方を改める機会が多々ある。

例えば日米の医師の診断書を精査した著者は、黒澤の器質的障害がゴッホやドストエフスキーにも共通するもので、こうした先天的な疾患があったからこそ彼は独創的な作品を生み出すことができたのだし、その同じ欠陥が東映京都撮影所で致命的なトラブルを引き起こしたのだ、と語っている。

そういえばかつてこの私も、保津川と嵐山に臨むこの著名な撮影所で仕事をしたことがあるが、魔都京都などで大切な作品を撮影してはいけない。そのタブーを例えば京都人の大島渚ですら理解していたのに、お馬鹿な黒澤が慣れた東宝を蹴ってヤクザが徘徊するこの伏魔殿を選んでしまったことが敗因のひとつになってしまったことは疑いをいれない。

 黒澤解任後改めて20世紀フオックスが完成させた『トラ・トラ・トラ』は、真珠湾攻撃の迫真の大活劇シーンをのぞくと、まるで人間のドラマを欠いた中途半端な駄作だが、悲劇の司令官山本五十六を主人公と考えた黒澤が、もしも、もしも、彼の思い通りの『トラ・トラ・トラ』を創り上げていたとしたなら、それは未完の「暴走機関車」と同様、素晴らしい作品になったことだけは間違いないだろう。

Thursday, October 12, 2006

Bomb,Bomb,Bomb

Bomb,Bomb,Bomb


ボム、ボム、ボム!

北の国の地下で何かがはじけた。

ボム、ボム、ボム!

これはくたびれ果てた世界からの新しい弔鐘か?

ボム、ボム、ボム!

それとも新しい終わりの時代を告げる夜明けの歌か?

ボム、ボム、ボム!

金沢八景では季節はずれの花火が上がった。

ボム、ボム、ボム!

卓ちゃんの田んぼでは、今日もウシガエルの腹が裂けた。

ボム、ボム、ボム!

亮ちゃんのベランダでは、今日もサボテンの花がはじけた。

ボム、ボム、ボム!

健ちゃんのミニ万博は、今日も千客万来だ。

ボム、ボム、ボム!

耕ちゃんの心臓は、今日も元気に血液を運んでいる。

葉っぱの王国

ラゾーナ川崎、表参道ヒルズ、六本木ヒルズなど大型商業施設が続々誕生しているが、それらに共通するコンセプトは、「町の中に町を作る」ことであろう。

既存の街づくりでは不可能な衣食住有休知美の諸要素を広大な用地のなかで人為的に結集させ、近隣からの集客を図ろうとする彼ら。そこではレストランやセレクトショップやコンサートホールや美術館や高級ホテルが効率よく組み合わされて顧客の購買意欲をいやがうえにもかき立てようとたくらまれている。

とりわけ注目に値するのは、それらコンクリートと鉄とガラスの建築物の内部と外部と周辺部に植物や樹木をとりこもうとする傾向である。安藤忠雄が設計した表参道ヒルズでは周辺のケヤキの高さを超えない低層建築が指向されたし、このビルの屋根は緑の植生が行われている。他の多くの高層建築でもアトリウムの内部には様々な樹木が繁茂しているし、ビルの最上部のならず壁面にも植物をはりめぐらせビルの温度を下げるとともに都市の二酸化炭素を吸収させることを通じて地球の温暖化を抑えようとしている。

 こうした「町の中の町」における緑化現象の進行は、まだまだ遅々としているが、これを大手町のビルの地下でひそかに行われている米の栽培(パソナ)や大都市のあちらこちらで行われている都市農業(ワタミ)の進展などとあわせて観察すると興味深いものがある。

1つのビルの内部での植物含有度が増大するということは、金属や鉱物含有度が後退するということであり、猫も杓子も鉄筋コンクリートになびきはじめた建築素材様式が、木質住宅の反騰を含めておしかえされつつある証左とも考えることができよう。

 住まいの中で絶滅寸前まで追いつめられた木や草や茎や種子や花たちが、絶対多数と思われたコンクリートと鉄とガラスを押し返し、反転攻勢に転じる転回点がじょじょに迫っているのではないだろうか。
 
 いましばらく時が流れれば、無味乾燥で非人間的で冷酷非情で、新築されたその瞬間から空虚な廃墟そのものに転化している超高層ビルジングたちは、その内部に引き入れられひそかに繁殖していく樹木やつたやつるやこけや微生物などによって侵食されるだろう。

 そして衰弱した人間たちが退去した廃墟の主人公となった植物たちは急速に繁茂するだろう。ビルの窓ガラスをつきやぶって飛び出した巨大な縄文杉のかたまりは、お互いの手と手をしっかりと握り合い、新宿を、渋谷を、六本木を、東京を、そして広大な関東平野をすべて草むした原始林に変えるだろう。

 かくして世界最大の超モダン都市は、葉っぱの王国になるのである。

 その頃熱帯と化した列島の大草原では、あの巨大なステゴザウルスが勝利の雄たけびをあげているだろう。

 ギュワーン、ギュワーン、ギュワーン!

 ああ、せめてその姿をこの目で見てから死にたいものだ。

小澤征爾の音楽

小澤氏は音楽そのものよりは、主として彼の類まれな人間性の魅力でここまで到達された方なのだと思います。

 病が癒えてまた楽壇に復帰されましたが、ウイーンでも日本でも今後彼の芸術が飛躍する可能性は残念ながらないのではないでしょうか。

 私も昔から彼のライブやCDには接してきましたが、数少ない例外を除いて心からの感銘を覚えたことはありません。  

とりわけウイーンオペラでのWagnerやモーツアルトやウインナワルツ等の演奏は思わず耳を疑うレベルのものが多く、かつてのトロント響、サンフランシスコ響との現代音楽や新日フィルとのブルックナーの交響曲第2番の演奏などがただただ懐かしいだけです。  

それよりも気になることは、これほど無残な演奏が多い割合には国内での評価がかつてのカラヤンのように異常に高すぎる!?ことです。

もしかすると日本の聴衆はくだらない演奏に対して「ぶー」をいう代わりに「ブラボー」を叫ぶ奇妙な風習があるのではないでしょうか? 私にはまったく理解できません。  

もうひとつ小澤氏の指揮を観察していますと、例えばオペラとか、ウイーンフィルとのブラームスの交響曲4番とかブルックナーの9番ライブ(余りにも悲惨な就任記念演奏!)にしても、いつも音楽の自然な流れをさえぎるような、わざと引き止めてぎくしゃくさせるような不自然な振り方をされています。

これはもしかすると、彼の恩師である有名な斉藤秀雄氏(有名な英語学者斉藤秀三郎の子)の指揮法の機械的な「たたきパターン」の悪しき面のあらわれではないかと、最近ひそかに考えている次第です。

ちなみに私は斉藤秀三郎氏の英和と和英辞典が大好きでときどきパラパラ眺めていますが、例えば、Love is like a pityという決まり文句を「可哀相だた、惚れたってことよ」と訳しています。

またうろ覚えですが、たしか漱石の「猫」だか「三四郎」の中にもほとんど同じような粋な日本語訳が出ていたと思います。二人とも落語好きの江戸っ子だったのですね。