工藤美代子の「われ巣鴨に出頭せず」を読む
昭和20年12月16日、GHQからの召還命令を拒否して服毒自殺した最後の公爵近衛文麿の厖大な伝記である。
まず工藤氏は、1928年の済南事件における関東軍参謀将校による謀略とされている張作霖暗殺事件および近衛内閣発足直後の1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋における日中衝突による支那事変の勃発を、スターリン=毛沢東の国際共産主義者による深謀ではないかと指摘するがもしそうだとすれば昭和史は大きな書き換えを迫られるだろう。
1940年第2次近衛内閣を組閣した近衛は、東条英機を陸軍大臣、松岡洋右を外務大臣に起用したことが裏目に出て、自らの手で日本を太平洋戦争に導く転回点を作ってしまう。しかし工藤氏によれば、更に大きな過ちを犯したのは、ポスト近衛の東条と内大臣の木戸だと断じる。
彼らが連携連合して天皇への強固な「壁」をつくり、一切の外部の情報を遮断したために、天皇は情勢を適切に判断できず、その結果終戦が遅れることになったという。
そして従来とかく優柔不断で弱虫といわれた近衛が、実は意外にも東条や木戸よりも剛毅で誠実な性格で、吉田茂などとともに最後まで終戦工作に従事し、天皇への忠勤に励んだ、と、著者は結論づけるのである。
「銀の匙をくわえて生まれてきた近衛は、時にその匙を口から放り出そうとし、また銀が少々錆びようとも気にとめない生涯だった。誤解されたまま棺の蓋を閉められた近衛だったが、その生涯は政敵をも恨まず、貶めず、ひとり内なる天皇の傍へ先立った。巣鴨に出頭しないことで護り通したものこそは、近衛の天皇への絢爛たる愛の証だったのではないだろうか。決して弱くはなかった貴種の、終戦の日が来た。(本書の感動的な結末部分より引用)
しかし、私に言わせれば近衛と天皇の友情や忠誠などはどうでもよい。近衛も木戸も東条も統帥権を総攬する昭和天皇の戦争指導の傘下にあったのであり、天皇を主犯者とする共犯者のサークルの住人であったにすぎない。
あれほど終始積極的に大東亜戦争に加担し、他の誰にもできない強力無比な戦争指導を行いながら、結局昭和天皇は戦争責任をとらなかったし、国民もまた自らの責任にほおかぶりをした。(最近では連合国による東京裁判ですら無効であると唱える歴史オンチが登場する始末だから何をかいわんやである。)
このキーポイントをはずして藤原氏の高貴な血をひく貴人宰相の功罪をきめ細かくあげつらったところでいったい何になるのだろう。
それこそ目くそ鼻くその類ではないかとけちをつけたくもなるのである。
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