Tuesday, November 30, 2010

イングマール・ベルイマン監督の「ある結婚の風景」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.58


1973年にイングマール・ベルイマンがファロ島という素敵なリゾート地で撮影した、「犬も食わない夫婦喧嘩」の物語である。

世界中どの夫婦の間にも1匹の魔物が棲んでいて、こいつが両者を敵対させて激しく闘争させたり、一転してごく短い和平をもたらしたりするというじつに微妙な役割を演じているのだが、この作品ではその魔物が延べ6時間にわたって縦横無尽に活躍して看る者をしていささかうんざりさせるが、最後はお約束の♪それじゃあヨリを戻そうかいな、という希望の薄日がうっすら差し込んでくる。

そういう人情の機微を執拗に描き尽くした傑作ドラマである。

夫は研究者、妻は弁護士という教養も資産もある2人が主人公。結婚してから10年、2人の娘を持ち第1話では琴瑟相和していたはずの熟年夫婦の間に突如爆弾がさく裂、若い女と出来た夫が、妻に縁切り状を突き付け、家出するところから物語が熱くなる。

はじめは大ショックを受けて絶望の淵に沈んでいた妻であったが、ようやく夫への献身と自己犠牲のどつぼを脱し、肉体的にも精神的にも自立して早くも不滅の自信を持ち、男などもどんどん作っていやましに若返って美しくなっていく。

ところがその反対に、夫は仕事では出世の道を閉ざされ、プライベートでは若い妻に不倫され、急速に尾羽打ち枯らして元妻との鞘を戻したくなってくる。そういう2人がお互いの弱みや傷口に塩を刷り込んだり、口角泡を飛ばして丁々発止となじり合ったり、しまいには激した夫が妻を殴って血まみれにしたりするのである。

しかしお互いに遠慮があってそういうディベイトやらレスリングが出来なかったからこそ、夫婦はまだ本当の夫婦ではなかったのだ、ということが2人にも、そして見ているわれわれにも次第に身に沁みて分かってくる。いやはや立派な夫婦物語であり、大芸術家の凄腕が遺憾なく発揮された名作といえよう。ベルイマンも偉いが、夫婦を演じるエルランド・ヨセフソンとリブ・ウルマンの演技が素晴らしい。


われは夫君は妻目と目の間で魔物が笑う  茫洋

Monday, November 29, 2010

西暦2010年霜月茫洋狂歌三昧

♪ある晴れた日に 第82回



青山の高級マンションのバスの中白き骨となりし美人モデルよ

千人の魔女連行し拷問したりガンビアのジャメ大統領

2つのアジアが遊曳する地政学的亜細亜と観念的亜細亜と

芸術の価値とは内蔵する真善美の深さと大いさで測られる

政治家の使命とは国民の利害から遠ざかって普遍の正義に殉ずることである

凡庸の価値を知らない人は非凡の価値も理解できない

振りさけ見ればいがぐり右目に落下して棘とげ刺さりし小関少年今頃どこでどうしているか

ガーシュインがラベルなんかに学ぶものはなかったように君も

美しい日本は心でひそか思うもの「美しい日本」などと大書する恥ずかしさ

ランボオが海の彼方に見つけた永遠をラング=ゴダールの「オデッセイア」に見る 

N響の下らぬ演奏に熱狂す見知らぬ人のうらやましくもあるかな

どんな下らなき映画にもひとつ二つはとりえがあるもの

正論を清く正しく吐く人のなぜかそれほど美しくはなし

いくらお前が完膚無きまでに論破したつもりでも論理で人は変わらないよ

屁の如き指揮者どもが今日もわれらの魂を汚辱している

あえて付点を打たず音の泉を溢れさせたりクライバー

生きながら死んでゆく日々わたしも日本も

精神を病める美女ヴァージニアを玩具と弄ぶ商魂醜し

その夏の日少年はアイスを嘗め嘗め御仏を見上げた

あほかそれがどうしたせやったらわいにどないせえちゅうねん

お母さん今日シャンプーしてくださいなとひげそりしてもらいながらいう息子

さりとてという言葉が嫌いなりさりとてなすすべはなけれど

なのでという言葉が嫌いなり首のない人間を見る心地して

秋冷霜に堪え咲き誇るなり薔薇一輪

馬齢なら俺だけで十分じゃと茫洋いい

裏銀の裏を見せつつ飛びにけり

今は昔烏瓜色の頬したる少女ありき

平成に虚点をうがつ男かな



鮠三尾ひしと寄りあう寒さかな 茫洋

Sunday, November 28, 2010

文化学園服飾博物館で「日本の型染」展を見る

茫洋物見遊山記第48回


このような展覧会を見るのははじめてです。型染は紙や木などの型を用いて文様を表現する染色技法のひとつで、わが国では古くからおこなわれ、着物をはじめ公家装飾、武家装飾、芸能衣装など多くの服飾に使用されてきたそうです。

日本の型染は主に文様を彫り透かした型紙を用いて種々の染色技法が駆使されており、その種類も小紋、中形、型友禅、摺染、摺箔、板締、燻革まど多種多様です。

もともと型染は型を用いることによって同じ文様の染色品を量産する技法なので、手描きによる自由な文様とはことなり省略やデフォルメされた文様とパターンの繰り返しなどが見られます。

しかしこの型の使用という制約こそが型染の特徴であり、整然とした文様や反復の諧調など型染独特の美を見出すことができるのです。

以上博物館資料のまる写しでのご紹介でした。

追伸 本展は12月18日まで開催中。日曜日はお休みです。



支持率が1%でも辞めないと断じる人を首相に推したり 茫洋

Saturday, November 27, 2010

スチーブン・ダルドリー監督「めぐりあう時間たち」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.57

私の大好きな英国の閨秀作家ヴァージニア・ウルフとその作品「ダロウエイ夫人」をモチーフに3つの時代に生きた3人の女性を主人公にした映画である。

1923年のイギリス・リッチモンドで「ダロウエイ夫人」を執筆中のヴァージニア・ウルフ(ニコール・キッドマン)、2001年のニューヨーク・マンハッタンでのクラリッサ(メリル・ストリープ)、1951年のロサンゼルスでのローラ(ジュリアン・ムーア)の3人の女性の1日をいわば三層構造で描いていくのだが、ヴァージニア・ウルフその人はともかく、あとの2人がいったいヴァージニア・ウルフ&「ダロウエイ夫人」とどのような内的連関にあるのかがさっぱり分からない。ほとんどこじつけの世界である。


女優では3人の女優のうちもっとも見事な演技を繰り広げているのはローラ役のジュリアン・ムーアで、メリル・ストリープがこれに次ぐ。ヴァージニアを演じるニコール・キッドマンは最悪。ヴァージニア・ウルフの20代の写真をよく見ろ。彼女ほど美しい女性をどうしてこんな醜い下手くそな女優が演じるのだ。これは作家本人への冒涜だ! おそらくスタッフの誰もヴァージニア・ウルフなど読んでいないのだろう。

冒頭からよく流れない映画的時間をむりやり動かそうと多用されるフィリップ・グラスのミニマル・ミュージックが最悪。もともと下らない音楽だが、こういう俗流情緒的な映像と組み合わせたことによって胸糞の悪い見世物となり下がった。

この映画は精神を深く病むヴァージニアについて描くが、彼女の命を奪った病気に対する洞察と敬意に欠ける低俗なファッション映画である。こんな堕落した低級風俗映画にいかなる賞も与えてはならない。


精神を病める美女ヴァージニアを玩具と弄ぶ商魂醜し 茫洋

Friday, November 26, 2010

スティーヴ・マックイーンの「栄光のルマン」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.56


原題はただの「ル・マン」なのにどうして栄光がつくのか。この映画の中には栄光などどこを探してもないぞ。

カー気狂いのマックイーンのために作られたスピードレーサー物だが、当時のレースと会場の雰囲気が伝わって来てなかなか参考になる。

マックイーンが乗るのはポルシェ、ライヴァルが乗るのはフェラーリ。伊仏の強豪が対決した遠い昔の物語だが、ここではマシンも有機物として生きており、当節のような肥大し切った空疎なメカ競争の趣がない点に救いがある。

しかし衝突大破して普通なら死んでいるはずのマックイーンが、傷ひとつなくむっくりと起き上がり、しんねりむっつり恋人(亡きヘルガ・アンデルセン。いまでは珍しい古典的かつ端正な容貌)と情を通じているところに監督が飛び込んできて、別のポルシェに乗れと命令するなんて金輪際あり得ない話。

それでもマックイーンは平気でピットに戻って、結局ライバルを破って2位でゴールイン。心の恋人ともよろしくやれそうという大団円は、いくら映画とはいえ、ちと出来過ぎの感がある。

ミシェル・モルガンが、らしい劇伴を奏でています。


なのでという言葉が嫌いなり首のない人間を見る心地して 茫洋

Thursday, November 25, 2010

ピーター・イエーツ監督「ブリット」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.55

1968年という思い出深い年に、私がアメリカでいっとう好きな懐かしい坂の街サンフランシスコを、ずだん、ズドンとすっとばすスティーヴ・マックイーンの刑事ブリット。何回見てもハラハラドキドキします。しかし何回見てもどういう話だかよく分からない。ただただブリットの壮烈な刑事魂にあきれかえるのみ。

あとの話はどうでもいいようなものだけど、やはり印象に残るのは悪代官役の上院議員ロバート・ボーンでしょう。この人は1974年の「タワーリング・インフェルノ」でもやはり議員役で出ていたが、その時はそういう悪役ではなく、悪人を取り押さえようとしてゴンドラから墜落死してしまう気の毒な役でした。

それからマックイーンの恋人役のジャクリン・ビセットもこの頃は元気でいろいろ浮名を流していましたが、今頃はどこでどうしているのだろう。幸福な晩年を迎えて欲しいものである。

それにしても50歳で死んじまったマックイーンは若死にだった。生きていれば80歳だというが、中寿のマックの姿は誰も見たくないだろう。彼の恋人はいまでも田舎の「ラストチャンス牧場」に住んでいるらしい。


屁の如き指揮者どもが今日もわれらの魂を汚辱している 茫洋

Wednesday, November 24, 2010

アレクサンダー・ヴェルナー著「カルロス・クライバー下巻」を読んで

照る日曇る日 第388回

指揮者の仕事は3つある。ひとつは曲を正しく出発させること、次は曲を正しく進行させること、3つ目は正しく終わらせることであるが、いずれもことのほか難しい。

開始するや否や曲のテンポも、曲想も、解釈もほぼ決定されてしまう。ゆえに私たちは冒頭の数十小節でその演奏の良し悪しを理会できるし、曲が進行するにつれその判断はより確かなものになる。3つのうち2つまでもよろしからざる演奏が、どうして曲を正しく終了させることができるだろう。

では指揮者によるその正しい演奏とはなにか? 

それはスコアに忠実な音響の大群を鰯のような耳の観客に糞真面目に伝播することではない。そのスコアに込められた作曲家のヴィジョンを、彼に代わって零から再構築し、スコアに新たな生命を吹き込むことによって、観客の耳目を楽しませるだけでなく、その死せる魂を高揚させ、震撼させ、できうべくんば賦活させ、昇天させることにある。

ああ、この音楽を聴けてよかった! 生きてこの音楽を聴けるとはなんという喜びであろう!
と、心底から痛感させる指揮者(演奏家)だけが私のいわゆる正しい音楽を正しく演奏しているのであって、その余のもろもろはただいっときの座興であるにすぎない。

そのために指揮者は、あらかじめ全譜を読みぬいて彼固有の独創性に満ち満ちた音宇宙の全体を彼の脳裏に立ち上げ、未聞の脳内大演奏を試み、その真善美の気高さのまにまに実際の音響としてコンサートホールに再現しなければならない。

指揮者はこの一連の作業を完璧に遂行するために、ただ修練に修練を積み重ねるだけでなく、一期一会の演奏に全身全霊を傾け、命懸けの生命の跳躍を試みなければならない。また彼が事前に脳内に創造した壮麗なヴィジョンを、演奏しながらたえず放擲して、つねに前人未到の音楽表現の時空に向かって乾坤一擲の試行錯誤を繰り返さなければならない。

このようなついには実現不可能ともいうべき「正しい演奏」を、絶望に駆られながらも果敢にめざしつついくつかの奇跡的な成果を上げた指揮者がフルトヴェングラーであり、もう一人がその忠実な後継者としてのカルロス・クライバーであった。

上巻にひきつづいて2004年7月13日、スロヴェニアのコンシッツアで74歳の生涯を閉じた天才指揮者の業績を辿りながら、私の耳の奥では、彼がコンセルトヘボウ菅を指揮したベートーヴェンの交響曲第4番の第1楽章のアレグロ・ヴィヴァーテェが喨喨と鳴っていた。

私に音楽の醍醐味を教えてくれたカルロスの霊の安からんことを!

あえて付点を打たず音の泉を溢れさせたりクライバー 茫洋


屁の如き指揮者どもが今日もわれらの魂を汚辱している 茫洋

Tuesday, November 23, 2010

フランクリン・J・シャフナー監督の「パピヨン」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.55

1973年、「パットン大戦車軍団」のフランクリン・J・シャフナー監督による「パピヨン」を見るのはこれで何回目か。しかし健忘症の私はどんな映画も見るはなから忘れていくので、今回もまるではじめてのような新鮮な思いでデジタルハイビジョンの鮮明な画面に見入った。

2度にわたって無謀とも思える逃亡を企て、それぞれ2年と5年の追加拘禁刑を受けた主人公は、無実の罪で仏領パプアニューギニアの絶海の孤島に流されるが、白髪の歳になっても脱出の夢を果敢に追い求め、そしてそれに成功する。

これは実話らしいが、寄せては返す波の数を7つまで数え、第7番目の波に乗れば外洋に出られると見ぬくパピヨンの眼光のなんと鋭いことよ。

それにしてもあの厳重な監視を潜り抜け遼友の血の犠牲にもめげず、原住民の美女の誘いにも乗らず、あくまでも巴里への帰還を目指す男の強固な脱出願望には驚くほかはない。
けれども、そんな脱出者も偉いが、あのような孤絶した監獄に勤務する兵士の孤独もいかばかりであったろうか、と妙なところに目がいく映画でもある。


生きながら死んでゆく日々わたしも日本も 茫洋

Monday, November 22, 2010

ノーマン・ジュイソン監督の「シンシナティ・キッド」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.54

「夜の大捜査線」の実力派ノーマン・ジュイソンが撮った非常によく出来た1965年のギャンブル映画だ。

主人公シンシナティ・キッドに扮するスティーヴ・マックイーンをはじめ、ポーカーゲームの敵役エドワード・G・ロビンソン、カード配りのカール・マルデン、そしてなによりもかによりもカール・マルデンの妖艶無比な妻を地で演じるアン・マーグレットなどの充実した脇役がこの異色作を見ごたえあるものにしている。

高齢に達しつつあるスタッド・ポーカーの名手を演じるエドワード・G・ロビンソンと「波止場」での好演が記憶に残るカール・マルデンはともかく、アン・マーグレットのちょっと下品なセクシーさが何度見てもたまらない。

体力気力でロビンソンを上回るスリーカードのマックイーンが、土壇場の最後の大勝負、まさかのロイヤルストレートフラッシュを見破れずに一敗地にまみれたのは、その直前に彼女にすべての精を吸い取られたからだ。

ギャンブルの陰に女あり。このキーポイントを見逃したどんな映画評も無効である。


平成に虚点をうがつ男かな 茫洋

Sunday, November 21, 2010

スティーヴ・マックイーン製作の「トム・ホーン」を見る

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.53

スティーヴ・マックイーンが死の前年の1979年に製作総指揮を兼ねて主演した西部劇映画はいかにも彼らしい渋い味わいのにじみ出た作品。ウイリアム・ウイヤードという聞いたこともない人物に監督をやらせているが、ほんとうは彼がやっています。

物語の主人公トム・ホーンは20世紀初頭のアメリカ西部に実在した早撃ちガンマンで、あの有名なアパッチ族の大酋長のジェロニモを捕まえたという立志伝中の人物だそうだが、映画はその後のガンマンの姿を淡々と哀切に描いている。

先住民と派手にやり合って大殺戮していた「西部の黄金時代!」は遥か歴史の遠景に遠ざかり、全米の僻地にも法と秩序の冷徹な支配が進行してくるというのに、この希代の乱暴者は、ライフルと愛馬を武器に彼の個人的な価値観で、ためらうことなくどんどん人殺しをするので、見る者に大いなるカタルシスを与えるが、あれあれこんなに簡単に人を殺していいのだろうかと心配になったりもする。

こういうある意味で単純明快ないきかたを、周囲の知恵者たちにうまく利用されたトム・ホーンは、恋人や理解者たちの声援や好意も甲斐なく、みずから望んだようにしてほろびにいたる細道をいっきに突っ走る。

時代遅れのヒーローは、20世紀の最新型の法の網にがっつりと絡みとられ、裁判にかけられ絞首刑に処せられる。真っ青になって震える目の前の役人どもをあざ笑いながら……。トム・ホーンの生い立ちにマックイーンの生涯を重ねた忘れ難い秀作です。


いくらお前が完膚無きまでに論破したつもりでも論理で人は変わらないよ 茫洋

Saturday, November 20, 2010

トマス・ピンチョン著「逆光下巻」を読んで

照る日曇る日 第387回

物語の舞台は1893年のデンバーからロンドン、ベネツイア、オステンド、ゲチンゲン、中央アジア、ロサンジェルス、そして地球の成層圏を遠く離れて反地球、あるいはもうひとつの地球に達し、またしても地表に降りたつのは飛行船<不都号>である。

第一次世界大戦を目前に呉越同舟のスパイたちは男は男女、女は女男とつるみにつるんでベネツイアの行き止まりの小路の井戸の上で激しく挑むのは1人の美女と2人の男。合わせて6つの穴がすべて埋められて欲情と快楽のうめき声が運河を滑るゴンドラを揺るがす。

日本人女性数学者釣鐘ウメキの奮闘空しく、不吉なドリア旋法は不協和音を奏で、世界大戦はついに勃発するだろう。しかし世界は終焉し、また再開される。

やがて世界中の少年少女と猫や鳥、魚やネズミ、もっとも地球離れした生命たちをノアの箱舟のように満載した<不都号>は、幻視者だけが見ることができる完全な超双曲面の光り輝く巨大な花の中に辿りつくだろう。ハレルヤ!


あほかそれがどうしたせやったらわいにどないせえちゅうねん 茫洋

Friday, November 19, 2010

ジョン・ギラーミン監督「タワーリング・インフェルノ」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.51

1974年にワーナーとフォックスが制作し、ジョン・ギラーミンに監督させた2年前の「ポセイドン・アドヴェンチャー」に続くパニック大活劇映画です。

サンフランシスコに完成したばかりの超高層ビルが火災になって爆発し、まるで地獄の炎のように激しく燃え盛ります。その業火を、貯蔵されている水タンクを破壊していっきに消化をはかるところがこの映画の最大の見所です。

主演はビルの建築家のポール・ニューマンと消防隊長のスティーヴ・マックイーンで、お互いに立場の違う2人が英雄のように超人的な活躍をして被害を最小限にとどめようとするのですが、それでも多くの犠牲者を出してしまいます。

事故の原因は主に電気系統の施工ミス。そのほか建築家が指定した安全防災対策を建築施工主のウイリアム・ホールデンとその娘婿のリチャード・チエンバレンが業者からわいろをとるために盛大に手抜きしていたのが致命傷になったのですが、この種の欠陥工事はいまでも世界中で行われているのではないでしょうか。

そもそもガラスと鉄でできた超高層ビルをサンフランシスコや東京のような地震多発地帯におったてるのはこの映画の中でマックイーン隊長が警告する以前の大問題で、いくら森ビルの会長が偉そうなことを言っても、いずれ関東大震災並みの大地震がやってくればなんとかヒルズもなんとかタワーもたちまちタワーリング・インフェルノになるに違いありません。金に目がくらんでせっせと天に伸びるバベルの塔が絶対に安全なんて、どの神様にも請け合ってくれないでしょう。


ガーシュインがラベルなんかに学ぶものはなかったように君も 茫洋

Thursday, November 18, 2010

ロバート・ワイズ監督「砲艦サンパブロ」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.52

海千山千のロバート・ワイズ監督が1966年に製作した本作は、1920年代の中国に進出したアメリカの軍人の生態と悲劇をえぐる問題作である。

当時は日帝を含めた列強諸国が清の柔らかい横腹を食い破ってわがもの顔に浸食していたわけだが、植民地の利権を守るために太平洋を渡って中国大陸にやってきたちっぽけな砲艦とその兵士たちも民族自決の大波と排外主義の争闘のあおりを受けずにはいられない。

大陸の奥地で活動する宣教師たちを救出しようと長河の上流をさかのぼってきたサンパブロを待ちうけていた中国軍を血肉の犠牲を払ってかろうじて撃破したものの、機関室担当の兵士スティーヴ・マックイーンは、宣教師の助手キャンディス・バーゲンとのはかない恋も実らず、名誉だけを重んじる頑迷な艦長と共に、異国の伝道所で不慮の死を遂げる。

当時の国際情勢の趨勢を見通すことなく、「おらっちはどうしてこんなところに来てしまったんだ」と呟きながら息絶える海軍軍人の短すぎた生涯が哀れである。
マックイーンの親友のリチャード・アッテンボローも中国人の女給を愛して結婚までするのだが、2人ともやはり不幸な結末を迎える。マックイーンの愛した部下の船員岩松清も同様。

しかし個人としては最善を尽くして精いっぱいに生きてはいても、その生自体の消長が歴史の絶対的制約の中でがんじがらめに絡みとられ、前途に待ち構える悲劇を逃れるすべがないという状況は、この映画の中に限った話ではないのかもしれない。


さりとてという言葉が嫌いなりさりとてなすすべはなけれど 茫洋

Wednesday, November 17, 2010

佐藤賢一著「フイヤン派の野望」を読む

照る日曇る日 第386回

シリーズ「小説フランス革命」の第6巻は、ヴァレンヌに脱走したルイ16世がパリに連れ戻されたあとの国民議会の迷走を描いています。

王の裏切りに激高する市民の怒りをよそにジャコバン・クラブの重鎮であるデュポール、ラメット、パルナーブの3人は、新たに議会右派のフイヤン派を結成して国王の罪を不問に付し、左派のロベスピエールたちと鋭く対決します。

そこでダントン、マラー、デムーラン、ラクロなどコルドリエ・クラブの支持者たちは、ヴァレンヌ事件を忘れるなという声明文を作成、その署名嘆願を求めてバスチーユからシャンドマルスまで行進したのですが、フイヤン派の要請にこたえた国民衛兵隊司令官のラ・ファイエットがその平和的なデモを銃弾で圧殺したために、左右の対立はいっそう深まっていくのです。

1791年に自由平等博愛の憲法が制定され、議会がいったん解散されたためにロベスピエールは故郷のアラスに戻るのですが、そこで彼が見たものはジャコバン・クラブの地方組織の保守化と貴族が指導者を占める軍隊の脆弱性でした。このままでは革命は終わってしまう。大きな危機感に押されたロベスピエールはパリにとって返します。やはり革命の起爆力を持つのは首都の市民しかいなかったのです。

そんなロベスピエールの元を訪れたのは、フイヤン派のアントワーヌ・パルナーブ。ブルジョア左派から王党派に転向していた当時の最高権力者は、相次ぐ政争に嫌気がさしてか故郷ドーフィネに帰ると政敵のロベスピエールに告白するのですが、この気持ちはよく分かります。政治的活動への離反は、おのれの志操の揺らぎや迫りくる死や暴力への恐怖だけでなく、おのれのどこかからやって来る心身の解体と第六感的警告の発動から引き起こされるのです。

政治から身を退いたはずのパルナーブでしたが、1792年の8月10日事件に関連して国王一家とのつながりを追及されて翌73年11月に断頭台の露と消えます。しかし本巻でくわしく紹介されるロベスピエールの当時の姿はけっして独裁者や極左冒険主義者のそれではありません。この時点ではまだ共和制すら唱えず、ジロンド党が主導する国外との革命戦争にも時期尚早と慎重論を吐く、自信のない中庸主義者ぶりが読者の興味をいたく惹くのです。

お母さん今日シャンプーしてくださいなとひげそりしてもらいながらいう息子 茫洋

Monday, November 15, 2010

ジョン・スタージェス監督の「大脱走」を観る

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.50

監督ジョン・スタージェスが、その持てる実力を遺憾なく発揮したハルウッドの超大作です。

エルマー・バーンスタインのテーマ音楽で有名な1963年制作のこの映画。スティーヴ・マックイーンがナチの収容所から脱走して見事オートバイで中立国のスイスに辿りつくメデタシメデタシの話と記憶していたらとんでもない。マックイーンは確かに独軍から奪ったオートバイで国境まで爆走するのだが、緩衝地帯のスイス側に張り巡らされた鉄条網の傍であえなくゲスタポにつかまってしまうのだった。人の記憶はともかく私のそれがいちばん危ういことに改めて気がつかされた映画だった。

これも忘れていたことだが、この脱走話はすべて実話で、収容所からなんと3本の地下道を掘って英米露など250名の連合軍兵士を脱出させ、敵国ドイツの後方を攪乱しようという計画だったというから驚く。脱走すればすぐ祖国などという甘い話ではなくて、塀の外に出てからのほうがはるかに危険な任務なのだ。

お得意のオートバイを駆る反逆児マックイーンも大活躍だが、その計画のプランニングと指揮を担当した剛毅なリーダー役バートレット少佐を演じるリチャード・アッテンボローや暗所恐怖症ながら懸命にトンネルを掘り続けるポーランド人役のチャールズ・ブロンソン、盲目の同僚を助けながらスイス国境近くまで敵飛行機で逃走したヘンドリー大尉のジェームズ・ガーナーなどの好演も見逃せない。

実際に脱出に成功したのは76名だったそうだが、そのうちバートレット少佐など50名はゲシュタポによってつかまり、銃殺されてしまうのだが、残りの15名はその後どうなったのだろう。その一部は映画の中でも描かれているのだが非常に気になります。


凡庸の価値を知らない人は非凡の価値も理解できない 茫洋

Sunday, November 14, 2010

ドナルド・シーゲル監督の「突撃隊」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.49

1961年制作のモノクロ映画だが、注目に値する戦争映画である。

1944年の独仏国境のジークフリート線で戦闘を続ける米軍の2個小隊が主人公。帰国できるという噂が流布されていたが、一転して最前線に投入されることになり、ふたたび死地に赴く米軍兵士の孤独な局地戦をじっくりと描いて見る者の耳目をくぎ付けにする。

おそらくこのような局面に遭遇すれば誰もがこのような恐怖と絶望と無我夢中の殺人行為の世界に蹂躙されるほかないであろうと思わせるクールなタッチが空恐ろしい。ことにも恐ろしいのは登場した瞬間から狂気と死の気配を漂わせるスティーヴ・マックイーンの底光りする存在感とあちらの世界にいってしまったような迫真の演技。

結局彼は18キロ爆弾もろともドイツ軍のトーチカに身を投じて壮絶な自爆を遂げるのだが、これほど救いのない、しかしそれゆえに戦争の無意味と無惨さを伝える映画も数少ないだろう。全篇をひたひた覆い尽くす激烈なリアリズムとセットになった

死とニヒリズムの忌まわしき祝祭。さすがペキンパーとイーストウッドが師と仰いだ名匠ドナルド・シーゲルの作品である。

政治家の使命とは国民の利害から遠ざかっても普遍の正義に殉ずることである 茫洋

Saturday, November 13, 2010

鏑木清方記念美術館で「鏑木清方と官展」を見て

茫洋物見遊山記第47回&鎌倉ちょっと不思議な物語第234回


鏑木清方記念美術館は観光客でにぎわう小町通りを一本入った閑静な住宅街の中にあります。どうしてそうなのかというともともと小町は30年前までほとんど人気のなかった宅地でその一角に鏑木清方が住んでいて、死後遺族によって市に寄贈されたまさにその場所が記念美術館になったというわけです。

瀟洒な生垣と植え込みが並ぶエントランスを傘をさしながら歩んでいくと、その先に美術館があるとはとても思えない典雅な風情です。玄関から入ってすぐ右が当時のままに再現されたアトリエになっていて、いますぐにも画家本人が姿を現しそうな気がします。

この日狭い会場に飾られていたのは明治40年(1907)に始まった文展に出品された「慶喜恭順」や「黒髪」「ためさるる日」などでしたが師である永野年方を描いた「先師の面影」が作者の敬慕と尊崇の念を伝えて見事な出来栄えでした。

なおこの美術館では画家の数多くのスケッチを備え付けの保存箱から自由に引き出して観賞することができます。無人の会場で久しぶりに小一時間ゆっくりと日本画を眺めて、ああここはいつ来ても江戸から明治の俤が残っているなあと思いつつこていな庭を見やると、ホトトギスの花が雨に打たれて咲き誇っておりました。

裏銀の裏を見せつつ飛びにけり 茫洋

Friday, November 12, 2010

オバマ大統領が来る前に「鎌倉大仏」を見る

茫洋物見遊山記第46回&鎌倉ちょっと不思議な物語第233回

高さ11メートル余の大仏で有名なこの場所は、じつは高徳院という浄土宗のお寺なのですが、開山、開基ともに不明です。その証拠に境内の奥には観月堂という小さなお堂があるのですが、あまり参拝する人はいないようです。
この大仏は、源頼朝の侍女稲多野局が思い立ち、僧浄光が民衆の浄財を募って歴仁元年(1238)に着工し、6年後に完成しましたが宝治元年(1247)大あらしで倒壊し、建長4年(1252)に現在の青銅像が鋳造され、大仏殿に安置された、と「東関紀行」などの物の本には書いてあります。

ところが、その後大仏殿は2度の台風で倒れ、その都度復興されたものの、明応7年(1498)に大津波で流されてからは露座の大仏としておよそ半世紀にわたって雨風にさらされているのです。それでなくとも環境の悪化が懸念される昨今、おそらく数十年度にはみ仏のお肌はぼろぼろに侵害されて現在の端正な容姿とシルエットの美しさを失うに違いありません。

現場を歩いて足元を見ると数多くの巨大な礎石に驚きますが、この立派な大仏殿を一夜にして由比ヶ浜に押し流してしまう大自然の猛威にはもっと驚かされます。大仏を鋳造した仏師は大野五郎右エ門と丹次久友、宋の影響を受けていますが、当時としては最高水準の工法で造られているそうで、だから鎌倉が半壊した関東大震災でも倒れなかったのでしょう。

観月堂の傍、栴檀の樹の下に立つ与謝野晶子の「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」の歌碑を一瞥したらもうここには見物すべきなにものもありません。広島長崎を訪問すればいいのに、なぜか山口県警が厳重に警備する当地をめざす米国の大統領はいっとき政争を忘れて、少年時代の甘き冷菓の懐旧に浸りたいのでしょうか。

以上例によって「鎌倉の寺小事典」などを参考にさせていただきました。


その夏の日少年はアイスを嘗め嘗め御仏を見上げた 茫洋

Thursday, November 11, 2010

トマス・ピンチョン著「逆光上巻」を読んで

照る日曇る日 第384回


新潮社から全集が続々ではじめたからには手にとらずにはおられないピンチョン。

さきの「メイスン&ディクソン」はあまり感心しなかったが、こちらはまだ半分読んだだけだが仰ぎ見るK2のような、小説という名の一大巨峰。書きも書いたり862パージの難攻不落のでこぼこの山道を、こちとらは読むだけではあるが、あえぎあえぎ登っていけばはるかなる雲の谷間から次第次第に20世紀の幕が開いたばかりのアメリカが、ヨーロッパが、アジアが、そして現代に突入したばかりの全世界の文明の様相、人々の暮らしの断面が東方のあけぼの最中からああ堂々の姿を現してくる。

鉱山で暴発するダイナマイト、資本主義の興隆と激烈な労使の対決、暗殺される無政府主義者を尻目にアメリカ大陸、大西洋から太平洋、ベネチア上空を乱れ飛ぶ謎の水素飛行船<不都号>。砂漠の下を走破する地底船。暗躍するスパイと科学者と四元数主義者、サーカスと旅芸人と燃え盛る大恋愛。眼には眼を、歯には歯を。まもなくバルチック艦隊は撃滅されるだろう。

物語はより重層的な物語を孕みに孕んで怒涛のように下巻に突入する。これぞ小説の中の小説。すごいぞトマス・ピンチョン! それゆけピンチョンどこまでも!



千人の魔女連行し拷問したりガンビアのジャメ大統領 茫洋

Wednesday, November 10, 2010

雑賀恵子著「快楽の効用」を読みながら

照る日曇る日 第384回

私の郷里の旧家の冬の朝餉はいつも芋粥で、七人の家族全員が長幼の順で鍋底に杓文字を突っ込んで米に溶解したとろとろの芋を飢えた獣のように奪い合うのだった。おやつなどはなく、毎日与えられるアルミ貨の一円を原資に駄菓子屋で壱枚のチュウイングガムを購ってさぶしい口を慰めるのだった。

小学時代の勉強机がみかん箱という貧乏な家に育った少年の最高の楽しみは、病気やけがをしたときにあてがわれる駅弁と砂糖だった。駅弁は何鹿郡の銘品であり、砂糖はグラニュー糖もしくは茶色い岩石のような形をした粗糖のかたまりで、その口腔に溶けいる絶妙な甘さが、三九度の高熱を忘れさせるのだった。薄い板ガムやひと匙の砂糖は、私のつらく平板な日常の一角を一瞬にして突き破る至高の嗜好品であったことは間違いない。

 また成人してから二七歳の新婚旅行で奈良ホテルに宿泊した記念すべき夜まで重度のニコチン中毒に苦しんだ私は、単なる口すさびであったはずの煙草が人生を破壊する猛毒であると体感させられたものだった。

 本書はこのように魔術的かつ麻薬的な効用を持つ砂糖や煙草やチョコレートなどの嗜好品を次々に俎上に載せ、その来歴や成分や産業社会的な役割や、われらの人生のさなかにおいてそれらがどのような意味、あるいは「無意味の意味」を持つのか、について、ある時は口腔で軽やかに弄びながらクールに、またある時は美しい眉を少しひそめながらアカデミックに、またあるときは夢見るサッフォーのように物憂げに歌うのである。

文武両道ならぬ文理両方面に該博な知識と教養を有する著者は、例えば煙草ひとつをとりあげても、それが恰好の気散じであるのみならず、戦時の強制収容所などでは迫りくる死の恐怖を一時的に宙づりする迫真的な紛らわしであり、男のロマンの象徴であり、アメリカ先住民にとっては宗教的な儀式の重要な道具であり、医薬品でもあったことどもを、ハワードホークスの映画『コンドル』や大岡昇平の『野火』などを自在に引用してゆるゆると語る。

よく「神は細部に宿る」というが、とかく正則よりも変則、メインよりはサブ、「三度の食事」よりも「三時のおやつ」のほうが「三時のあなた」や「三児の貴方」の真相を浮き彫りすることが多い。そしてその何よりの証拠が、“科学する女流詩人”によるこの最新作なのである。


今は昔烏瓜色の頬したる少女ありき 茫洋

Tuesday, November 09, 2010

サム・ペキンパー監督の「ゲッタウエイ」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.48

1972年にサム・ペキンパーがスティーヴ・マックイーンとアリ・マッグローを起用して撮ったこれまた銀行強盗のお話です。同じ銀行強盗物でもさすがにノーマン・ジェイソンの「華麗なる賭け」のよた話とは違って骨太のドラマに仕上げているのはさすがです。

はじめってこの映画を見たときはショットガンを乱発するマックイーンの銃撃シーンの凄まじさに衝撃を受けましたが、今回はまるで印象に残りませんでした。ペキンパーが先蹤となった当時の過激描写は30余年の歳月を閲して衛生無害のアクションシーンへ昇華されたのでしょう。

今回改めて観賞して気付いたのは「男女の愛の試練」というこの映画の主題です。マックイーンを監獄から出すためにマッグローが払った肉体の代償をめぐる夫婦のいさかいと精神的なダメージは延々と続き、ようやくラスト近くなって曙光が差し始めるのですが、ペキンパーらしからぬこのハッピーエンディングに対して、マックイーンがクレームをつけたというのは分かるような気がします。

「ゲッタウエイ」とは牢獄からの脱出であると同時に、疑惑と嫉妬と憎悪からの離脱の物語でもあるのです。


秋冷に堪え咲き誇るなり薔薇一輪 茫洋

Monday, November 08, 2010

ノーマン・ジェイソン監督の「華麗なる賭け」を見る

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.47

ノーマン・ジェイソンなんて知らないがスティーヴ・マックイーンがフェイ・ダナウエイーと共演した沈妙なラブ&サスペンス映画。

すでに億万長者である切れ者実業家のマックイーンが己と腐敗堕落した世の中に活を入れるべく銀行強盗を敢行しまたまた巨萬の富を手に入れる。あわや完全犯罪かと思われたこの難事件を解決するために立ち上がったのが特別金融探偵の美女・ダナウエイちゃん。

はじめは厳しく犯人を追及していたが途中からは本気で好いた惚れたの間柄となり、さあさあ愛をとるか正義を選ぶかの世にも厳しい2者択一の時がやってくる。

そして最後の最後やはりいっちゃんかっこいいのはマックイーン選手でしたとさ。こういう定型的なお話を映画と呼んでいた時代はいまや遠い遥かな昔となりにけり。


2つのアジアが遊曳する地政学的亜細亜と観念的亜細亜と 茫洋

茫洋物見遊山記第45回&鎌倉ちょっと不思議な物語第232回

鎌倉文学館で「川端康成と三島由紀夫展」を見て

秋薔薇が咲く旧前田侯爵邸で「伝統へ、世界へ 川端康成と三島由紀夫展」を見物しました。自裁して果てた文学者たちの遺業を偲ぶ特別展です。

よく知らなかったのですが、この2人は生前非常に仲の良い友人だったらしく、お互いの作品に対してエールを送った書簡や原稿などがたくさん展示してありました。日本古来の文化や伝統に対して深い造詣と関心を懐いていた2人ですからそれも当然と言えば当然でしょう。

三島はその最晩年に「楯の会」のデモンストレーションに立ち会ってくれるよう再三誘ったようですが、さすがに川端はそこまでは足を踏み入れず、肝胆相照らしたご両人もさすがに政治思想においては完全な同化はしなかったようです。しかし三島を喪った川端の衝撃は大きく、1972年4月16日の逗子マリーナでの自死になんらかのつながりがあったかもしれません。(私は小説が書けなくなったことがこの2人の自殺の原因と考えていますが)

生原稿をつらつら眺めていて思ったのは三島の筆跡の素直な美しさと川端の毛筆のデコラティブな醜さ。とりわけ墨痕も生々しく大書された「美しい日本」なる書は5秒と正視できない気色の悪さでした。


美しい日本は心でひそか思うもの「美しい日本」などと大書する恥ずかしさ 茫洋


*「川端康成と三島由紀夫展」は12月12日まで開催中

Saturday, November 06, 2010

鎌倉国宝館で「薬師如来と十二神将」展を見る

茫洋物見遊山記第44回&鎌倉ちょっと不思議な物語第231回

鎌倉の大町の辻薬師堂に置かれてきた薬師如来と十二神将像の補修が終わったことをことほぎ、それらを一堂に集めた展覧会がひらかれています。14年の歳月をかけて修理された仏像たちはこころなしか嬉しそうな顔をしてわたしたち見物人を睨みつけておりました。

展示品のうち覚園寺の「十二神将立像」など4件10点が国県重要文化財に指定されています。インド、中国、そしてわが国の仏教や民間信仰、十二支などの諸宗教思想が混淆されてデザインされた護教の守護武将たちは、思い思いの姿勢でおのれの献身のほどを見せつけていますが、建築物としての価値や完成度は、平安、鎌倉、南北朝、江戸時代と下るにつれて下がってくるようで、芸術の進化が時代と比例しないことのよき見本となっています。

しかしさらに屁理屈を拡大して、現代美術や最新の超高層ビルジングなどまるで無価値で、美術も書も芸術も建築も古いものほど値打ちがあるとすれば、ではその古さの優位性や芸術的価値をどこまでさかのぼれるかという話になりますが、とりあえずは縄文の土器や出雲大社で行き止まりということになるのでしょうか。

それはともかく江戸より室町、室町より鎌倉とあきらかに品が下る十二神将像を眺めながら、今日の私たちの時代との隔離隔絶を思ったことでした。

*同展は11月23日まで開催中。

芸術の価値とは内蔵する真善美の深さと大いさで測られる 茫洋

Friday, November 05, 2010

「2001年宇宙の旅」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.46

スタンリー・キューブリックがアーサー・C・クラークとの協働脚本でプロデューサー、特殊撮影監督を兼ねて製作したこの映画は、何回見ても難解な作品です。

猿たちの前に突如出現した巨大なモノリスという石碑だか鉄板だかは一体何なのか。400年前には地球にあったものが、今度は月で発見されたのはどういう訳か。そのモノリスの前で記念撮影をしようとして頭痛に襲われた科学者たちはその後どうなったのか。(そういえば新宿副都心にモノリスというビルがあるなあ)

また月で発見され、木星に向かって強烈な磁力を放つとかいうこのモノリスは生命体なのか。そのモノリスがどうして木星付近に現れて惑星直立の仲間になっているのか。もしかするとこの鉄板野郎こそは人類、いな宇宙創造の原器のような存在なのかもしれません。

人類初の木星探査船に備え付けられたIBMならぬHALコンピューターがどうして人知を凌ぐ知性や感情を身につけ探検隊のスタッフを殺戮したり、追放しようとしたのかも謎に包まれています。
HALをやっつけようとした隊長は最後にどうなったのか。末期の目に焼きついた夕焼け小焼けのカラースペクトラムは一体何なのか。小型捜査船が安置された白い部屋の出来事は一体何を意味するのか。そうして冒頭で鳴らされたカラヤン指揮ウイーン・フィルによるR・シュトラウスの「ツアラストラかく語りき」と共に出現した巨大な赤ん坊が象徴するものは何? もしかして探査船のボーマン船長のうつし世の仮姿?

謎は謎を呼んでこのままではとうてい終わりそうにない映画を締めるのはやはり音楽でした。動物の骨が武器となることを知った猿が大空に放り投げた骨片が落ちてくるとそれが同じ形をした宇宙船に変わり突如ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」が優雅に奏されるシーンは映画史に残る名場面でしょう。疾走する宇宙船のBGMに使われているリゲティの音楽も素晴らしい。ハーディー・エイミスのデザインによる宇宙服も美しさの限りです。


N響の下らぬ演奏に熱狂す見知らぬ人のうらやましくもあるかな 茫洋

Thursday, November 04, 2010

ラッセ・ハルストム監督の「ショコラ」を見る

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.45

監督がどうこういうよりも、まあジュリエット・ピノシュ主演の映画です。

かつてゴダールに見出されたピノシュは、どこまで成長するのかと期待を抱かせましたが、はじめは処女の如く終わりは脱兎の如しとはよく言うたもの。堂々たるハリウッド映画で主演をとる立派なチョコレートおばさんになりました。まずはめでたし、めでたし。

フランスの寒村にふらりとやってきた親子連れが、ちょいとお洒落なチョコレート菓子屋さんを開く。ところがその村を統べる村長はがりがりの禁欲派のカトリック。教会にもいかずジプシーのようなフリーター集団と仲良くする自由派のピノシュちゃんをことごとに弾圧します。

一時はめげて脱出逃走を図った彼女ですが、心ある少数派の支えと甘いショコラの禁断の味を武器に、とうとう保守頑迷で冷たい村人たちの心を溶かすのでした。パチパチ!

なおこの映画のお話によれば、トウガラシの入ったチョコレートには萎えた男の欲情を強烈に刺激する効用があるようですが、どこかで通信販売すれば爆発的に売れると思います。近頃人気のジョニー・デップもピノシュの相手役で出ているようですが、いったいどこがいいのかさっぱり分からない俳優です。


青山の高級マンションのバスの中白き骨となりし美人モデルよ 茫洋

Wednesday, November 03, 2010

スパイク・リー監督の「インサイドマン」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.44

デビューしたての頃のスパイク・リーはハリウッドのユダヤ系白人文化とはまったく無縁の異界の地底人が土足で映像世界に乱入してきた感があって、1982年の「ジョーズ・バーバー・ショップ」は映像のつくりや文体は乱暴だがそれがかえって新鮮に思えたものである。

その後着々と地歩を固めた彼は、89年には「ドウーザライトシング」、92年には「「マルコムX」を撮った。これらはまさに彼の出自とその文化的特異性をフルに発揮した作品ではあったが、私は映画の内容以前にその政治的アジテーションが鼻に付き、この人は映画監督より政治家にでもなればいいのにと思って、長い間放置していた。

ところが先日偶然目にした「インサイドマン」という映画の監督が彼だったので、その後のスパイク・リー選手はどのような展開を遂げたのであろうかと興味津々で見物してみたのでしたが、いったいこれはどういう映画なのか。

もちろんニューヨークの銀行強盗のお話ではあろうが、手口は映像で説明していても動機や背後関係は最後まで不明であり、リー選手がナチ協力者である銀行の頭取や金融資本、司法行政の権力者共に対して非友好的な態度を堅持していることはうすうす分かってもだからこの映画の落とし前をどうつけるんだ、と私が怒鳴ったときにはデンゼル・ワシントンを主役にギャラだけが高いジョディー・フォスターなども起用した鳴り物入りのハリウッド映画はすでに終了していました。これほど龍頭蛇尾の作品も珍しいでしょう。

不幸なことにスパイク・リーはいたずらに馬齢を重ねているようです。


♪馬齢なら俺だけで十分じゃと茫洋いい

Tuesday, November 02, 2010

ポランスキー監督の「戦場のピアニスト」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.43

ポーランド生まれで家族そろってナチスドイツにひどい目にあったポランスキー監督が己の辿った受難の歴史を深く噛みしめるようにして描き出した反戦映画です。

自伝ではなく、あえて同じポーランド出身のユダヤ人ピアニストの自伝を原作に借用しているのは、それがドラマにふさわしい劇的なエピソードを備えていることと共に、自分史をストレートに映画にすることにためらいがあったからでしょう。ポランスキーはシャイな人なのです。

私はそんなポランスキーという人を嫌いではありません。シャロンテート事件や幼児暴行疑惑を持ち出すまでもなく、この人物には暗い疑惑と深い謎が秘められているようで、その奇妙に屈折した彼の個性がすべての作品に微妙に反映されています。例えば「赤い航路」におけるマゾヒズムへの傾斜はその好例でしょう。

そういう意味ではデヴィッド・リンチやデニス・ホッパー、オリバー・ストーンなどにちょっと似たタイプかも知れません。彼自身も、アラン・レネのような正統派監督ならいざ知らず、正統的な反戦映画など絶対に撮るまいと決意していたのではないでしょうか。

様々なスキャンダルに追われて金と仕事に困った変態派監督が、イチローのように狙い澄ましてはなった場外ホームラン。それが見事に2002年のカンヌでパルムドールを獲得したのでしょう。

しかし映画は1時間半が基本の作法。映画名人をめざすならいたずらに2時間以上の映画を作ってはいけません。デレクターズ・カットなんてみな愚の骨頂です。ここぞという泣かせどころでショパンを鳴らすというのもちょっと平仄が合いすぎる恨みがあります。

いや別にナチのユダヤ人狩りが正しいとか、ポーランドの人たちのワルシャワ蜂起にけちをつけるつもりは毛頭ありません。ナチの暴圧に堪え凌ぎ、一家離散の悲劇を懸命に生き抜いた実在のピアニストの過酷な生涯には敬意を表するにやぶさかではありませんが、私はこの手のテーマの反戦映画には「主題としては食傷気味である」と一言申し上げたいのです。


正論を清く正しく吐く人のなぜかそれほど美しくはなし 茫洋

Monday, November 01, 2010

ブリジット・バルドーの「気分を出してもう一度」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.42

ミシェル・ボワロン監督のどうしようもなく下らない1959年のコメデイ作品。ゆいいつの取り柄は当時売り出し中のBBの軽やかなマンボのステップとキュートな美貌と肉体を拝めることくらいか。

しかし当時は次元の低いどたばたやお笑いやスリルトサスペンス?を振りまいてよしとするこの種の映画が、世界の映画界の主流であり常識だった。そしてこの「映画はこうしたもの」という旧態依然たる常識を果敢に打ち破ったのが、バザンやトリュフォーやゴダール、ロメールなどのヌーヴェルバーグだった。

1963年に製作されたゴダールの「軽蔑」と、本作におけるBBの描かれ方の違いに驚かない人はいないだろう。
ある意味ではそんな映画革新運動の絶好の標的あるいは反面教師となった点でのみ歴史的な意味を持つ映画といえるかもしれない。

原題は「VOULEZ-VOUS DANSER AVEC MOI?」。これを「気分を出してもう一度」と意訳した映画配給会社のセンスは素晴らしい。


どんな下らなき映画にもひとつ二つはとりえがあるもの 茫洋