Tuesday, March 20, 2012
県立近代美術館鎌倉で「藤牧義夫回顧展」を見る
1935年9月、新進芸術家として各方面からの期待を集めていた弱冠24歳の藤牧義夫が失踪してから76年が経過した今、神奈川県立近代美術館でモダン都市の光と影と題する生誕100周年の回顧展が開催されています。
群馬県館林に生まれた藤牧は少年期から絵の才能を発揮し、16歳で上京してから主に隅田川流域周辺に住んで独学で習得した木版画の制作にいそしみました。
彼が素描や木版に刻んだビルや街路や橋や河は、他の誰にも似ない大胆なフォルムとコントラスト、そして繊細でモダンな造形感覚で震災後に復興した30年代の都市東京の光と影をあざやかに凝縮しています。
会場には彼の個性的な版画と共に最長16メートルにも及ぶ隅田川流域を短時間でスケッチした「白描絵巻」が出店されていましたが、これを歩行者の速度でゆっくりと流れる巨大スクリーンで眺めていると、その余りにも生き生きとした即興的な筆致に接して、在りし日の作家の眼差しが蘇ってくるような錯覚にとらわれました。
夭折か、はたまた永久行方不明か? 謎の芸術家の足跡は、いまなお激しく追慕されています。
*同展は来る3月25日まで寂しく開催中。
君は何故9月2日に消えたのか隅田川絵巻にその謎を探す 蝶人
Wednesday, March 07, 2012
是枝裕和監督の「ワンダフルライフ」を見て
何も知らずに見物し始めたのだが、中陰の状態にある死者に対して「あなたの一番大切な思い出をセレクトしてください。それを映像化してあげますから、それを見てから成仏してください」というサービスを提供する団体の映画だった。
しかし私は、一番大切な思い出なるものをあえて発掘する骨董趣味を持たないし、よしやそれがあったとしても後生大事にそれを胸中に懐いて黄泉の国に赴こうとする気持ちもない。
まして他人のその思い出をのぞき込んだり、ああだこうだと比較対象する興味も持ち合わせていないので、終始冷たい視線でこの才走った監督の映像をつらつら眺めていたのだが、最後まで見終わってもついにどうということはなかったな。
されど世の中には、じつにけったいなことを考え、それをわざわざ映画などにする変態的な暇人がいるものであることよ。と言っては身も蓋もないので、せめて本作には谷啓や由利徹の死の直前の演技が瞥見できるのが望外の奇貨である、と言い添えておこうか。
一寸来いと呼ばれて行けばコジュケイの家族哉 蝶人
Monday, January 16, 2012
津村節子著「紅梅」を読んで
作家である夫吉村昭の発病から死までを、同じ作家である妻が、事実にもとづいた小説にしたもの。舌ガンの治療の途中で膵臓ガンが発見され、その手術が行われた結果膵臓全体と十二指腸、胃の半分を失った夫を懸命に看護する妻の真情が随所で伝わって来る。
その日録の通奏低音はマーラーの「大地の歌」の生も暗く、死もまた暗いという陰陰滅滅たる黄泉の国の調べ。この夫婦の周囲では多くの人々がガンで斃れているのだ。
終始冷静な筆致で描かれてきたこのドキュメンタリータッチの私小説は、最後の最期になって大きな衝撃と動揺と共に劇的な転調をみせる。突如夫は「もう死ぬ」と告げて胸に埋め込まれたカテーテルポートを引きちぎる。それはこれ以上の延命治療を拒んだ作家の決死的な行為、というよりどこか渡辺崋山を思わせる潔い侍の自裁であった。
完璧な遺書をあらかじめ用意し、自分の文学館を作りたいといって来たある町の役人に対して、そういう目的のために税金を投入するのは恐れ多いといって辞退するこの作家は、おのれの恣意で周囲に迷惑を及ぼすことを好まず、人並み外れた廉恥の心の持ち主だったのだろう。
死を待つのではなくみずから死を準備し、実行し、無意識のうちに南枕を北に変えようと身をねじる夫の姿は壮絶なものがある。しかし「残る力をふりしぼって身体を半回転させたのは情の薄い妻を拒否したからであり、自分はこの責めを死ぬまで負ってゆくのだ」と書く妻は、少し自分を責めすぎではないだろうか。
わたしはあえて言いたい。「節子さん、それはあなたの考え過ぎです。ご主人は混濁した意識の中で誰の助けも借りずに死者になろうとしたのです。あなたは最後まで妻としての義務を果たしたのですよ」と。
幸福は妻と並んで山崎のこもれびプールで平泳ぎする朝 蝶人
Friday, October 28, 2011
小津安二郎監督の「秋刀魚の味」を見て
闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.162
妻に死なれた老齢の夫が、親思いの娘の労働力に頼る。あっという間に歳月が経つと最愛の娘は婚期を逸して、可哀想に愚かな父親の哀れな犠牲者になってしまう、という話はこの映画が製作された1962年くらいまではよくあったが、平成の御代では絶滅寸前ではないだろうか。
家長や課長や年長者がそれなりに周囲の人々から敬われ、丁重に取り扱かわれた時代は完全に平安ルイ王朝の昔となり、これから急激に年老いて心身いたるところの障碍者となって棺桶に片足を突っ込んでいく我らを介護してくれる若い世代なぞもはやいずこにも見当たらず、一日一食の秋刀魚の夕餉を骨腸もろとも喉奥に詰め込みながら「ああ秋刀魚秋刀魚苦いかしょっぱいか」とついついツィッタと垂れ流しながら、未練たっぷりにこの世に別れを告げていく。
ラストの台所の隅でかがまる老残の父親笠智衆の姿は、この映画を一期にみまかった小津監督の姿でもあり、後続の我等の姿でもあるのであるのであるん。
それはともかく文金島田の花嫁衣装に身を包んだ岩下志麻が父親の前に正座して礼をいうシーンは何度見ても美しく悲しくて涙が出る。ここでシャイな小津は「お父様長い間お世話になりました」という決まり文句を言わせたくなくて、笠の父親に遮らせる演出がおしゃれです。もっとお洒落なのはこの映画の美術と衣装と色彩設計で、どのワンショットシーンをとっても民家や料理屋や商店街の構成とカラーコーディネートは出色である。
小津は、笠とその友人たちを使って、戦中派生き残りのそれなりに優雅な暮らしぶりを、笠の息子の佐田啓二とその妻の岡田茉莉子を使って、最新型の公団住宅に住んでゴルフを楽しむ高度成長期のサラリーマン夫婦の典型をあざやかにすくい取ってみせるが、前者の貫録勝ち。丸の内の商事会社の重役である彼らは、どうみてもあんまり仕事はしていないのに、毎晩のように料理屋で酒を飲んではおだをあげている。じつに優雅で羨ましい。
そこに鳴るのはいつも斎藤高順の能天気でしんみりした劇伴で、じつは私はこの軽快にして哀愁のある音楽を聴きたいがために小津の映画を見るのです。
秋の蚊を柔らかく叩いて殺す午後 蝶人
Monday, August 22, 2011
本郷館を訪ねて
茫洋物見遊山記第61回&勝手に建築観光第42回
東京本郷森川町の「本郷館」が近々取り壊されるという悲しいニュースをマイミクさんから耳にして、久しぶりに現場に立って見ました。
本郷館は築106年の古い木造建築で、東大の正門から200メートルほど離れた細い下り坂に沿って雲にそびえる3階建の下宿なのです。延べ面積は約300坪、中庭を囲むようにしてなんと76室があり、かつて作家の林芙美子や多くの学生がここで青春時代を送りました。
今年の3・11の激震にも耐えて1世紀の風雪を越えてきたこの歴史的建造物を保存しようと、地元の住人をはじめ「本郷館を考える会」や多くの人々が努力を続けてきましたが、家主の意向でとうとう8月から解体工事が始まってしまいました。
私がここをはじめて訪れたのは今から20年以上前で、森川町をぶらぶら散歩していた私の目の前に突然出現した建物の思いがかない巨大さと周囲を圧倒するような独特の存在感に圧倒されたものです。
すぐ近所では本郷館を題材にした絵や写真、詩などが街頭に掲示され、この由緒ある建造物の名残を惜しんでいました。
古の森川町なる本郷館生まれ変わりて住みたきものを 蝶人
Saturday, June 04, 2011
関川夏央著「子規、最後の八年」を読んで
照る日曇る日第433回
近代日本語の建築とそれを通じての俳句と和歌の近代化に多くの功績を上げた子規について思う時、そのイメージの中心で浮遊しているのは根岸の子規庵である。短すぎた彼の晩年の暮らしと芸術の拠点はこの粗末な寓居であり、そこにくりのべられた六尺の病牀であった。
私が根岸の里の子規庵を訪れたのはもう二〇年以上も前になる。それはラブホテル街に囲繞された辻の奥に突然現れた。その狭い小さな日本家屋の六畳間には生々しい生活の臭いが漂っており、開け放たれた硝子戸の外には糸瓜がぶらさがり、緑の小庭の向こうには白い雲を浮かべた青空が広がっていた。
突然、「どちらからお見えですか?」と尋ねたのは、子規の母八重を思わせる老女であった。しかも彼女の傍らには子規の妹律を思わせる若い娘も座ってこちらを見つめている。私が湘南からやって来た居士の一ファンであることを伝えると、老婆はいきなり皺だらけの顔を私に寄せてきて子規の高弟たちの悪口を滔々と述べはじめた。
もちろん子規ではなく、どうやら鼠骨の遺族と思われる彼女は、当時既に東京都の管理所有化にあった子規庵になおも同居していて、たまに訪れる私のような子規ファンをつかまえて、子規のお陰で有名になった高弟たちが、その実いかに子規庵の保存に冷淡かつ怠慢であったかを縷々訴えていたのであった。しかし子規の最後の八年間のみならず「子規山脈」のその後を沈着冷静に伝える本書を読めば、老婆の恨み節になんの根拠もないことが良く分かる。
明治三五年に子規が死ぬと碧悟桐、虚子、左千夫、不折、鳴雪など一〇名は子規庵保存会を設立し、長く毎月一円の資金援助を提供するなどして遺族の生活と偉大な師の旧居を支えた。
本書によれば、旧友会の中心人物であった寒川鼠骨は、「仰臥慢録」など子規の遺稿を古書市場に横流ししたと子規の義孫の忠三郎から非難されたようだが、おそらく米軍機の空襲で焼失した子規庵の再建のために鼠骨が独断でやったことだろう。子規庵の隣に住んで遺族律と同居した寒川鼠骨の貢献は大であり、彼なくしてこのフィールド・オブ・ドリームスの現存はありえなかった。森鴎外が羨んだように、寒川鼠骨のような師匠思いの弟子を数多く輩出したことこそ、子規居士の偉大な人徳というべきだろう。
鼠骨のみならず虚子との複雑で微妙な人間関係、左千夫、節の弟子入りの経緯、在米の真之、在倫敦の漱石との屈折した交流などについても一歩踏み込んだ解釈を示し、とりわけ当時の緊迫した国際情勢との相関関係の中で子規の世界観と文学観を論じた本書は、21世紀の子規本の新たな規範となるに違いない。
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる 子規
世の中に混ぜご飯ほど美味しいものなし三合を三人で食べる 茫洋
Tuesday, November 02, 2010
ポランスキー監督の「戦場のピアニスト」を見て
ポーランド生まれで家族そろってナチスドイツにひどい目にあったポランスキー監督が己の辿った受難の歴史を深く噛みしめるようにして描き出した反戦映画です。
自伝ではなく、あえて同じポーランド出身のユダヤ人ピアニストの自伝を原作に借用しているのは、それがドラマにふさわしい劇的なエピソードを備えていることと共に、自分史をストレートに映画にすることにためらいがあったからでしょう。ポランスキーはシャイな人なのです。
私はそんなポランスキーという人を嫌いではありません。シャロンテート事件や幼児暴行疑惑を持ち出すまでもなく、この人物には暗い疑惑と深い謎が秘められているようで、その奇妙に屈折した彼の個性がすべての作品に微妙に反映されています。例えば「赤い航路」におけるマゾヒズムへの傾斜はその好例でしょう。
そういう意味ではデヴィッド・リンチやデニス・ホッパー、オリバー・ストーンなどにちょっと似たタイプかも知れません。彼自身も、アラン・レネのような正統派監督ならいざ知らず、正統的な反戦映画など絶対に撮るまいと決意していたのではないでしょうか。
様々なスキャンダルに追われて金と仕事に困った変態派監督が、イチローのように狙い澄ましてはなった場外ホームラン。それが見事に2002年のカンヌでパルムドールを獲得したのでしょう。
しかし映画は1時間半が基本の作法。映画名人をめざすならいたずらに2時間以上の映画を作ってはいけません。デレクターズ・カットなんてみな愚の骨頂です。ここぞという泣かせどころでショパンを鳴らすというのもちょっと平仄が合いすぎる恨みがあります。
いや別にナチのユダヤ人狩りが正しいとか、ポーランドの人たちのワルシャワ蜂起にけちをつけるつもりは毛頭ありません。ナチの暴圧に堪え凌ぎ、一家離散の悲劇を懸命に生き抜いた実在のピアニストの過酷な生涯には敬意を表するにやぶさかではありませんが、私はこの手のテーマの反戦映画には「主題としては食傷気味である」と一言申し上げたいのです。
正論を清く正しく吐く人のなぜかそれほど美しくはなし 茫洋
Wednesday, July 14, 2010
川本三郎著「いまも、君を想う」を読んで
57歳で逝った妻を悼む鎮魂の書です。
著者の7歳年下の川本恵子さんは服飾評論家として知られていましたが、突然食道がんを患い、大手術の甲斐もなく次第に弱ってしまいとうとうラーメンを食べることすらできなくなります。
「再々入院の日 帰って来れるかなという妻を抱く」(p143)
文芸・映画評論の売れっ子の著者は、ほとんどの仕事を断って、病院と自宅を行き来しながら3年間にわたって最愛の妻を看護するのですが、万策尽き果て2008年の梅雨の日に、お茶の水の順天堂医大で早すぎる死を迎えることになってしまうのです。
思いもかけない災厄に動揺しながらも、著者は本書の中で、美しく、怜悧で、快活で、いつも自分を励ましてくれた生涯唯一無二の伴侶との30余年の思い出を、淡々と書き連ねていくのですが、その日々の思い出が楽しく、その筆致が冷静であればあるほど、著者の悲しみと痛手の大きさと重さがうかがい知られ、読者の心を鋭くえぐるのです。
著者の不遇の時に「真昼の決闘」の新妻グレイス・ケリーのように夫を助けてくれた妻、「匿名で人の悪口を書くなんて丸腰の相手を撃つのと同じことよ」と非難した妻。(その結果、著者は気に入った映画のことしか書かなくなる。私とは大違いだと反省反省)
そんな妻の意を汲んで、著者は「静かな葬儀」を行うことを決意します。一日にひとつだけの葬儀を行う小さな斎場を選び、通夜の酒を出さず、香典と弔電の披露を辞退し、2人の親しい先輩と友人の弔辞とお経と焼香だけの簡素な葬式を、実行したそうですが、私たちはそこにも著者の亡き人への大いなる愛を実感することができるでしょう。
この感動的な思い出の記を読んで、私などには及びもつかない故人への献身と真心に打たれましたが、できれば愛する人よりも先に姿を消したいとも思ったことでした。
なにゆえによきひとさきにゆくならむむらさきいろのあじさいさくひに 茫洋
Monday, July 12, 2010
ポネル演出で「ポッペアの戴冠」を視聴する
1979年に天才的演出家のジャン・ピエール・ポネルがアーノンクールと組んでチューリヒで行ったモンテヴェルディの素晴らしい蘇演ビデオです。
モンテヴェルディは1567年に生まれて1643年に死んだイタリア・バロック初期のオペラ作曲家ですが、後年のオペラ音楽の原型はすべて彼の3つの作品(1607年の最初の作品「オルフェオ」、1641年の「ウリッセの帰郷」、翌42年の「ポッペアの戴冠」)の内部に含まれているといっても過言ではないでしょう。
17世紀のモンテヴェルディに発した西洋オペラ史はいっきに18世紀のモーツアルトに飛んでその最高の達成を刻んだあと、20世紀のワーグナーの楽劇の宇宙で大爆発を遂げるのです。
さて彼の遺作となったこの「ポッペアの戴冠」では、主題からして衝撃的で、勧善徴悪ならぬ「勧悪徴善」を謳歌するという反社会的な内容になっていて、これは当時の世間の常識はもとよりキリスト教会の教えとも完全に逆行していました。
ローマの危ない皇帝ネロが、恩師の哲学者セネカの反対を無視し、自死すら命じて従順な后妃オッターヴィアを追放し、野心的で官能的な誘い女ポッペアに戴冠するという物語はいま接してみても保守的な精神を動揺させる違和があり、そこにこのオペラの現代性と普遍性があると思います。
第2幕のセネカの粛然たる自死の直後に、その同じ場所で繰り広げられる若者たちの生と恋の讃歌、そして第3幕のポッペアの戴冠式をことほぐ合唱における聖歌隊の哄笑などには、この不世出の演出家の真価が遺憾なく発揮されており、随所で展開される歌手と楽員たちの演劇的な戯れ、「愛の神」に翼を持った少年の起用などはその後のオペラの演出に大きな影響を与えました。
アーノンクールとチューリヒ歌劇場モンテヴェルディ・アンサンブルの劇伴も、ポネルの指示に忠実に従っており、その後夜郎自大に成り上がってウイーンやロイヤルコンセルトヘボウの大オーケストラを振って内容空疎な音楽を奏でるようになった指揮者とは、とても同一人物とは思えない好ましい演奏振り。たかがビデオといえど、オペラの快楽ここに極まれり!
1970年代の半ばにチューリヒ歌劇場の総監督を務めたクラウス・ヘルムート・ドレーゼとポネルとアーノンクールの黄金トリオが奏でたモンテヴェルディ・チクルスのような革命的なオペラ公演があれば、世界の果てまで飛んで行って見物するのですが……。
♪ポネル死してオペラまた死したりその雲居の残響に耳を澄ます 茫洋
Saturday, March 13, 2010
佐々木秀一著「ロミー」を読んで
1938年にナチ占領下のウイーンに生まれ、1982年に43歳でパリ7区バルベ・ド・ジュイ通り11番地のアパルトマンで死んだ女優ロミー・シュナイダーの本格的な伝記です。
ロミーと聞いて誰もが思い出すのは、アラン・ドロンと共演したジャック・ドレー監督の「太陽が知っている」、ジョセフ・ロージー監督の「暗殺者のメロディ」、オーソン・ウエルズ監督との「審判」、クロード・ソーテ監督との「すぎ去りし日の…」「夕なぎ」、ルキノ・ヴィスコンティ監督との「ルートヴィッヒ」、ジャック・ルーフィオ監督との「サン・スーシーの女」辺りでしょうか。
特にヴィスコンティ監督の「ルートヴィッヒ」でオーストリア皇后エリザーベトに扮したロミーが、白馬に跨って乗馬服で登場するシーンは、思わず息を呑む泰西名画のような超絶的な美しさ。ワーグナーの音楽とあいまって、これぞヴィスコンティ美学の真髄、といたく感じ入ったものでした。
1961年、ヴィスコンティは当時相思相愛の仲であったロミーとアラン・ドロンを英国の戯曲家ジョン・フォード原作による舞台「あわれ彼女は娼婦」に出演させますが、この成功が、若き2人の華々しいキャリアの出発点になったようです。
もうひとつ私たちがロミーで思い出すのは、その早すぎた晩年の悲劇です。1981年7月5日の日曜日の昼下がり、ロミー最愛の息子ダヴィッドは当時の義父の両親の家に入ろうとしましたが、屋敷の正面の門は鍵がかかっていたために、囲い塀をよじ登って内庭に降りようとしたところ、薔薇の茂みに足をとられてバランスを失い、その下で待ち構えていた鉄格子の先端の槍の穂先に腹部を貫かれ、懸命の治療も虚しくその日の夕方、14歳7カ月のはかない生涯を閉じてしまいます。
この悲惨な出来事がそれでなくともエキセントリックなロミーの心身を痛々しくも直撃し、睡眠薬を乱用するようになった悲劇の女優は、それでもなお渾身の力をふり絞って遺作「サン・スーシーの女」を完成させたあと、まるで精根尽きたように、その翌年心不全で亡くなります。
小柄でフォトジェニックなロミー・シュナイダーは、わが国で一昔前に活躍した鈴木保奈美という女優にちょっと似たところがありました。2人とも、普段は道行く人が誰ひとりその存在に気付かないほど地味な女性なのに、熟練のヘアメイクの手にかかるとたちまち異様な美しさで銀幕に光り輝いたものでした。
♪普通の女性が光り輝く美女となるげに化粧とは恐ろしき道具よ 茫洋
Saturday, March 06, 2010
「網野善彦著作集別巻」を読んで
マルクスは「ドイツイデオロギー」の中で、「古代が都市から出発したのに対して、中世は農村から出発した」と述べましたが、網野善彦氏の駆け足の精力的な生涯は、この有名なテーゼをあくなき文献調査と実証的研究の積み重ねを通じて、よしんば西欧の中世がそうであったとしても「我が国の中世はむしろ都市と都市的なものから出発した」と完全に逆転させるために蕩尽されたと言えるのかもしれません。
戦後間もなく日本共産党の過激な政治闘争に加担するなかで氏が1951年に書いた最初の学術論文「若狭における封建革命」と「封建制度とはなにか」(本巻に収録)では、当時のマルクス主義の公式を絶対化し、歴史の中で浮き沈みする民衆の個別具体的な存在と生活を完全に捨象する傾向が端的にあらわれていました。
こうした若書きを徹底的に自己批判し、あらゆる空虚なイデオリギーと決別して輻輳する現実のただなかに沈潜した氏は、中世荘園や荘園公領制の構造、職能民の生業と流通、列島の都市や海川山野に生きる百姓(ひゃくせい)のライフスタイルの実像を摘出する作業を通じて、列島の政治経済社会が14世紀終盤の中世前期で根本的に転換し、その構造的転換がつよく現在に及んでいることをあきらかにしながら、2004年2月に肺がんによってその試行の大成の道を余儀なく絶たれるまで、偉大な歴史学者としての本領を遺憾なく発揮し続けました。
ほとんど徒手空拳の試行錯誤を断行するなかから、氏はマルクスを疑い、石母田正、松本新八郎を疑い、「農民」を疑い、「封建制」を疑い、やがて「日本」そのものを疑い、「戦後」を疑い、「天皇」を疑うことになったのです。
学界のすべての既成の権威と秩序を疑い、世の常識のすべてを疑い尽くした人が不毛の荒野の上に構築した巨大な城塞を仰ぎ見ながら、あとに続く私たちがなすべきことは、この強固な城と構築者そのものをも徹底的に疑うことによって大胆に乗り越えていくことではないでしょうか。
♪己も世界も疑え疑えすべてを疑え 茫洋
Wednesday, February 24, 2010
「吉村昭歴史小説集成」第七巻を読んで
あの有名な「ターヘル・アナトミア」を翻訳した前野良沢を主人公とした「冬の鷹」、医師高松凌雲と松本良順の波乱に満ちたそれぞれの生涯を描いた「夜明けの雷鳴」、「暁の旅人」など、いずれも江戸時代の医学関係者を取り扱った評伝5本を集めたのが本巻です。
ドイツの医学書「ターヘル・アナトミア」のオランダ語訳をわが国で初めて翻訳し、「解体新書」として出版したのは杉田玄白とその門人大槻玄沢ということになっていますが、「冬の鷹」を読むと、それはほとんど誤りであることが分かります。オランダ語を解していたのは良沢だけで、彼が翻訳のほとんどを担当し、蘭語と蘭学に無知なあとの二人は、師匠格の良沢を物心両面にわたってバックアップしただけなのです。
しかし、もしも人当たりがよく時流を見極めるに敏な才子杉田玄白が、翻訳に際してあくまでも完璧を求め、偏屈で人間嫌いで孤高の独学者良沢をうまくプロデュースして原稿を版元に引き渡さなかったら、本邦初の医学実用書はついに世に出る事はなかったでしょう。
結局良沢は自分の名前を出さないことで「解体新書」の出版に同意しますが、そのことが2人の明暗を決定的にわかつことになります。良沢の功績を実質的に、いうなれば「独り占め」した玄白は、その後我が国の蘭学の泰斗として数多くの弟子、莫大な金銭そして輝かしい名誉に恵まれ、幸福な生涯を全うしたのに対し、性狷介な孤高のアルチザン良沢は、生涯にわたって貧困と孤独にさいなまれることになったのです。
わが国の尊王攘夷思想の元祖である高山彦九郎を愛し、最後まで庇護した良沢でしたが、彦九郎の自刃、息子達の早世に衝撃を受け、享和3年1803年、引き取られていた次女の嫁ぎ先で81歳で名声とも富とも無縁の生涯を終えます。
本書を読む私たちは、まさに蘭学の光と影、栄光と悲惨の鋭い対比を見せつけられるのですが、著者はなぜか人生の勝者玄白ではなく、ついにかなわぬ理想を追い求めながら敗れ去っていく良沢の「孤然とした生き方」につよい羨望を懐いているようです。
榎本武揚に従って五稜郭にわたり敵味方を分け隔てなく治療し、若き日に留学したパリの貧民病院の理想を後年になって実現した「夜明けの雷鳴」に登場する幕府の医師高松凌雲。同じく幕府の御用医師としての節操を貫いた「暁の旅人」の主人公松本良順――この2人に共通しているのも、前野良沢と同じ「孤然とした生き方」に他なりません。
そして人生最期の瞬間に、酸素マスクをみずからの手でひきちぎってこの世を辞した作者が実行してのけたのも、まさしくこの「孤然とした生き方」だったのです。
♪理想を求め孤然と歩み続けたり良沢良順凌雲昭 茫洋
Thursday, February 18, 2010
帝国海軍の夢の跡 横須賀ところどころ第10回
横須賀は旧帝国海軍ゆかりの軍港で、港の公園の一郭には大戦で会没した軍人の慰霊塔や軍艦山城、長門、沖島などの鎮魂碑が、訪れる人もなく建ち並んでいます。
巨大な舟形をした大理石に刻まれた「国威顕彰」のスローガンを眺めていると、身も心も冷たくなってきたので、その場を立ち去ろうとしましたら、
原始海は生命の故郷であった
その海に果て、その海に眠る
戦友たちの御霊やすかれといのちながらえしものあい集い
再びいくさあらすなとねがうものなり
と書かれたひとつの墓碑銘が目に留まりました。
そのあとに続けて
浮雲一片流北辰
何人不起望郷情
有時霊魂亦環家
夜半南星漂蒼海
という七言絶句も書かれていました。井伏鱒二風に、
北極星に雲がかかれば
みんな故郷に帰りたい
いつかは君もお家に帰る
青い海からお星さまになって
といういい加減なほんやくで、いかがなものでしょうか。
♪冠詞がない日本語には思想がない 茫洋
Saturday, February 13, 2010
アレクサンダー・マックイーンの死
外電によれば英国のデザイナー、アレクサンダー・マックイーンがロンドンの自宅で
亡くなったそうです。世界でも指折りの非凡なクリエーターであった若冠40歳の孤独な死は、惜しみても余りあるものといえましょう。
ロンドンのセントマーチーン・アカデミーを卒業して1996年にロンドン・コレに参加し、その後まもなくジバンシーのデザイナーとしてめざましい活躍を続けた彼は、2001年からはみずからのブランドでパリとミラノのコレクションでメンズとウイメンズの作品を発表し、シーズンごとに高い評価を集めてきました。
アレクサンダー・マックイーンは、つねにファッションの領域を拡大し、前人未到の新しい美を追求しようとする強烈な意欲と冒険精神の持ち主でした。たとえばロンドンのストリート系雑誌「デイズド&コンヒューズド」の依頼に応じてコムデギャルソンなどとともに重度の身体障害者をモデルにした作品を発表したり、03春夏パリコレでは義足のモデルを起用するなど、健常・障碍の区分を超えたユニバーサルデザインに対して先進的な取り組みをみせていました。彼は、私たちが美しいとみなす世界の外側に、もうひとつの美しさを見出すことができた人でした。
けれどもファッションに対してきわめて前衛的な考え方を持ち、その理想を追求しようとすればするほど、バブル崩壊後の世界不況の嵐は、彼のファッションポリシーと生き方を苦難にみちたものに変えていったに違いありません。
他のデザイナーたちと共に、一方では着易いリアルクローズを提案し、プーマ社と提携するなど「食うためのデザイン」を推進すればするほど、「この世にあらざる理想のデザイン」を夢見る彼の良心はするどい痛みを覚えたに違いありません。
彼が死の直前に製作し、私たちへの最期の贈り物となったのは201年秋冬物のミラノコレクションでしたが、そこで登場するメンズウエアたちは、まったくコンセプトの異なる2種類のグループによって暴力的に引き裂かれているようです。
一方における「万人に愛されるリアルクローズ」と、まるでアフガニスタンのアルカイダへの孤独なオマージュのような、「異様でアバンギャルドなシュールレアリスムウエア」――。おそらく彼の内面におけるこの2つのベクトルの存在と内部矛盾、そしてその不可避的な対立と分裂の激化こそが、彼の早すぎる自死の引き金となったのではないでしょうか。
今宵私は、マックイーンと同じような悩みをかかえて激しく苦悩しているであろう山本耀司氏や川久保玲氏、そのほか数多くのクリエーターの健闘と自愛を切に祈りたいと思います。
死んでしまえばすべて終わりだよ山本耀司 茫洋
生きておればさらなる高みに登れたが足元の岩ぐらり崩れて 茫洋
Wednesday, February 10, 2010
閉店迫る横須賀さいか屋 横須賀ところどころ第8回
吉祥寺伊勢丹、有楽町西武、京都四条河原町阪急など全国各地で百貨店の閉店が相次いでいますが、ここ横須賀でも名門デパート「さいか屋」の大通り店が閉鎖されることになり、地元商圏に暗い影を落としています。
「さいか屋」は明治5年創業ですから、きっと戦国時代の歴史に名を刻んだあの雑賀一族の末裔がおこした当時は流行の最先端をいく商業施設だったのでしょう。現在では、川崎、藤沢、横須賀など神奈川に拠点をおく典型的な地方百貨店ですが、尋ねるたびに来客が減少していることが気になっていました。
しかし経営不振が極まって、まさか目抜き通りに面した大通り店をクローズするとは思いがけない結論でした。横須賀店は大通り店、新館、南館の3館で構成されていますが、あとの2つは大通り店のいわば背中側に立地しており、集客の点では相当のハンディがあるはずです。それなのにどうして今回のような選択をしたのか理解に苦しみます。
販売実績を見てみないと門外漢には勝手なことが言えませんが、現場を歩いてみた感じでは、新館と南館を売却して主力商品のみに絞った大通り店だけで営業を続けたほうがコストダウンと早期黒字化につながるのではないかという印象を持ちました。
南館は飲食街になっているようなので、もしここが黒字ならば大通り店との2館体制で新規巻き返しを図るべきではないでしょうか。
いずれにしても特性のない衣料品を主力とした特性のない百貨店は、特性のないアパレルメーカーとともにこれからもどんどん滅んでいくのでしょう。栄枯盛衰は世の習いとはいえ、総身に凍風が吹き付ける平成22年の横須賀の冬です。
曇天にヘリ低く飛びし朝年少の友独り逝きけり 茫洋
Tuesday, January 12, 2010
哀悼エリック・ロメール
パリではエリック・ロメールが89歳で、ベルリンではオトマール・スイトナーが87歳で死んだ。2人とも私の敬愛する映画監督であり、指揮者であったので、今日はとても悲しい。
夕刊にスイトナーがクレメンス・クラウスの弟子であると書いてあったので、なるほど、それで彼のモーツアルトの変ホ長調のシンフォニーが、あのように確然と響いたのかが、少し分かったような気がした。
スイトナーについては以前彼の最期となったドキュメンタリー番組の感想を書いたことがあるので、ちょっとリック・ロメールのことを書いておこう。
私がロメールを知ったのは、ゴダールやトリュフォーよりずっと後になってからだったが、彼の初期の傑作「獅子座」で一驚し、続いて「O侯爵夫人」、「レネットとミラベル」「6つの教訓シリーズ」の「モード家の一夜」「クレールの膝」「愛の昼下がり」、「喜劇と格言劇シリーズの「海辺のポーリーヌ」「満月の夜」「緑の光線」「友だちの恋人」、「四季の物語シリーズの四本、「木と市長と文化会館」「パリのランデブー」「グレースと公爵」まで、楽しみながらどの作品も映画を見る事の楽しさを満喫しながらアジアの片隅で眺めてきた。
彼の作品の多くは、パリやその近郊を舞台に、若い女性を主人公にした身近な日常生活や恋を淡々と描くことが多いが、その快適なテンポと、堅苦しい演出を排した即興的な感興の盛り上がりが、今を生きる事のよろこびと映画を見る快楽を、ふたつながらに感じさせてくれて無類の味わいであった。
とりわけ思春期の少女の恋のときめきと生のゆらぎを描いて、このシネアストの右に出る者は、これまで誰ひとりいなかったし、これからもいないだろう。
「満月の夜」の亡くなった主演女優をはじめ「海辺のポーリーヌ」や「緑の光線」に登場した素人女性の横顔を通じて、エリック・ロメールは青春の初々しさと儚さを、あざやかに浮き彫りにした。処女の生き血を吸うて、この酔狂老人は命長らえたのであった。
さうして、歳を取れば取るほど若返っていくような、天馬空を往く何者にもとらわれない融通無碍なその作風こそ、彼の芸術の真髄であり、それが彼を、終生ヌーベルバーグの最先端に立たせ続けたのだ。
J.L.ゴダール、ジャク・リベットなお存するといえども、私たちはあえてこう宣言することができるだろう。今日、ヌーベルバーグが死んだ。と。
♪処女の生き血吸う酔狂老人死してヌーベルバーグ死せり 茫洋
Saturday, December 19, 2009
山中貞雄監督「丹下左膳余話 百万両の壺」を見る
夭折した山中貞雄の現存するたった3本のうちの1本がこれ。昭和10年1935年製作の時代劇ですが、監督本人がこの映画をてんで時代劇とは思っていないために生まれるおもいがけない表現世界の自由闊達さ、天衣無縫さがこの映画の最大の魅力です。
時代劇を時代劇として撮るリアリズムは次第にわが国の映画作法の主流となりますが、黎明期のこの頃は、まだそういう判で押したような文体がスタンダードなものではなかったことをうかがわせます。
若き監督の常識にとらわれない自在な発想と懐の広さから飛び出してくるユーモアとウイット、軽妙な会話と物語の快調なテンポがいかにも素敵で、現代人にも通じる喜怒哀楽のひとつひとつが思いがけず胸に迫ってくるようです。
ここでは丹下左膳(大河内伝次郎)と射的屋の女主人、道場主の馬鹿殿(沢村国太郎)とその細君という2つのカップルが登場して物語を動かしていくのですが、そのいずれにおいても男性は女性に完全に操縦されるお人よしである点もほかの時代劇には見られない特徴です。
林不忘原作・伊藤大輔監督の丹下左膳ものではニヒルな殺し屋として描き出されていた大河内伝次郎のイメージを、正反対の魅力的な喜劇役者として完膚無きまでに塗り替えたところに山中の独創と才気を感じます。
それにしても共演者の大半が天命を全うしたというのに、山中一人が28歳の若さで中国大陸で果てたとは、歴史の皮肉を嘆じないわけにはいきません。
♪隻眼隻手の主人公が健常者共をバッタバッタと切り殺す古今無双の林不忘のアイデア 茫洋
♪戦争は映画を殺す山中ありせば黒沢を超える名画を撮りしものを 茫洋
Friday, December 18, 2009
お母さん。いま帰ったよ。
歳月怒涛のごとく来たり、突風のごとく去りゆく。あっと言う間に今年が終わり、すぐに来年がやって来るようです。そのことを、昨日訪れた某住宅改造会社のカレンダーが教えてくれました。
さて、毎年特定の芸術家を選び、彼が書き残した和洋の数字でカレンダーをつくるこの会社のアイデアは秀逸で、昨年度の夏目漱石編を、私は12カ月とっくりと楽しむことができました。
2010年度は、なんと宮沢賢治編の登場です。「お母さん。いま帰ったよ。」というのがこのカレンダーの表題になっているのですが、それは賢治の「銀河鉄道の夜」から採られたワンフレーズ。第3章の「家」でジョバンニがちょうど帰宅したときの言葉ですが、それが私の胸にいきなり飛び込んできました。彼の自筆の丸い字の跡をじっと見つめていると、この不世出の詩人宗教家の姿が生き生きとよみがえってくるようです。
またこのカレンダーには、「雨ニモマケズ」や「永訣の朝」の自筆原稿、妹クニの娘のイラストや動物のスケッチなども掲載されており、四季折々に彼と彼の生涯を回想することができます。
お母さんいま帰ったよと言える人なき年の暮れ 茫洋
Friday, November 13, 2009
山中貞雄監督「人情紙風船」を見る
わずか28歳で若い命を中国戦線に散らした山中の最後の作品です。タイトルどおりの江戸時代の長屋もので、ちょっとくだけた落語調で住人の首つり自殺騒ぎを語り始める導入部はなにやら職人肌の超ベテランの仕事のようです。
しかしその軽妙さが、第2、第3の殺人事件で終わりを告げるラストは衝撃的でもあり、いささか唐突でもありますが、この開始と終結のあざやかな構成はやはりただものの仕業ではなく、早熟の天才の片鱗を垣間見せたものでしょう。
棟割り長屋の住人たちはけっして熊さんや八っさんではなく、威勢の良いやくざな髪結の町人や不甲斐ない侍とその生活をしがない紙風船作りで支える妻であり、その住人たちをとりかこむ武家や富裕な商人たちややくざが三味一体となった権力構造もさりげなく描かれており、やがて突然の悲劇がまるで山中の最期を予言するように起こるのです。
黒澤と同世代のこの監督がもし生きていたら、どのような傑作をわれわれに見せてくれたでしょうか。長十郎、翫右衛門、加東大介が好演。
脚本三村伸太郎、撮影三村明、音楽太田忠、出演前進座一同=河原崎長十郎、中村翫右衛門、山岸しづ江、霧立のぼる、市川楽三郎(1937年 前進座/P・C・L制作)
♪せめてあと20年あらばさぞや傑作が生まれたろう人情紙風船のごとし 茫洋
Friday, November 06, 2009
小西甚一著 日本文藝史別巻「日本文学原論」を読んで
理数系の学問と違って、私たちが日本文学を研究する際に、「何を対象にして、どのようにその研究を進めるのか」という問題はなかなかに難しく、明治以来幾星霜を経たわが国の国文学界においても、いまだに明確にされていないといっても過言ではないようです。
顧みれば我が国では文学の実証的・文献学的考証は盛んに行われてきて一定の評価をあげてはきたものの、歴史や社会的要因と区別された「文学自体の内在的な価値の研究」はなおざりにされてきました。
この880頁に及ぶ書物は、物理や数学の世界では古くから採用されている科学的な理論と手法を用いた文芸、文学の研究というものが、どうしてこれほど我が国では遅れてしまったのか、またそれを早急に確立するためにはどうしたらよいか、という課題をめぐって、「雅」と「俗」と「雅俗」の3つのカテゴリーで鮮やかに我が国の文学史をぶった斬ってみせた大著「日本文藝史」を著した国文学の泰斗が、最晩年に取り組み、ついに未完に終わった壮大な知的営為の総決算であると申せましょう。
著者は国文学のみならず広く古今東西の哲学や人文諸科学、物理、化学、数学などの歴史的文献や欧米諸科学を主導した研究者の代表的な管見を自由自在に引用、敷衍、解釈しながらあちこち道草を楽しみ、悠揚迫らずこの大きな課題に挑んでいます。
たとえば著者は、なぜ優れた芸術作品が私たちを深く感動させるのかという問いについてドイツの哲学者ハイデガーの1934年から36年頃の学説を縷々紐解いたあとで次のように解説しています。
1)日常的な次元では「隠れ」でしかない存在自体が、本来的な次元では、「隠れなさ」としての「真」であること。2)その「真」を正確に表現ないし理会するのが芸術的な「美」となること、3)そうした「真」や「美」に至るために日常次元からいっての「手荒さ」が不可欠なこと。(ハイデガーの講演「ヘルダーリンと詩の本質」参照)
つまり「隠れなさ」としての「真」を形象の中に確立することが芸術の本質で、それが達成されていないものが非芸術であり、その確率の度合いが低いものが浅薄な大衆文芸であるということになります。
しかし本書に登場するのは、ハイデガーだけではありません。プラトン、デカルト、カント、デユルタイ、フッサール、フロイト、ニュートン、リルケ、ゲーテ、世阿弥、芭蕉、西田幾太郎、朝永振一郎、シュライアマハー、インガルンデン、ガダマー、フライ、バシュラール、アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルク、ゲーデルなどの思索とその達成が次々に呼び出され、たとえば物理学における相対性原理や量子力学論、数学における不完全性定理の登場とニュー・クリティシズムにおける多元性・不確定性の創案が共時的に論じられるくだりではなにがなしに(こんな時こそ「ナニゲニ」というのでしょうか?)知的興奮を禁じ得ません。
英米仏独などの重厚な西欧思想に加えて江戸期以前の本邦固有の文化思想および中国、インドなど東洋の歴史的伝統を広く渉猟しながら独自の世界文学観を手中に収めたかにみえる著者がもっとも高く評価した思想家、それはほかならぬ「意識と本質」の著者井筒俊彦でした。
東洋的伝統の最高最良の理解者・継承者である2人の偉大な思想家が並び立つ本書の掉尾に、静かな感動をおぼえない読者はいないでしょう。
♪束の間の命の限りを文芸に捧げつくせり小西甚一 茫洋