Tuesday, September 30, 2008

若林宣編「戦う広告」を読んで




照る日曇る日第166回

大東亜戦争当時の日本は、国も国民も異常だったが、広告も異常だった。

「撃ちてし止まん」、だの「欲しがりません勝つまでは」、だの「七生報国」などという大政翼賛会のおかかえコピーライターが書いた見事な?檄文に産業界は一斉に飛びついた。

「億兆一心非常時突」「堅忍持久は最後の勝利だ」「土守る心が護る瑞穂国」(いずれも朝日新聞)、「健康翼賛」(わかもと本舗)、「鉛筆も兵器だ」「着剣した鉛筆」(トンボ鉛筆)、「スパイのご用心」(三菱鉛筆)、「机上挺身隊」(地球鉛筆)、「進め一億火の玉だ」(東芝)、「進め進め突撃だ、驕鬼米英撃滅の日まで」(塩野義製薬)、「一億挺身、報復増産」(住友化学工業)、「送れ飛行機、貯め抜け戦費」(住友銀行)、「みたみわれ大君にすべてを捧げささげたてまつらん」(三和銀行)みたみわれ力のかぎり働く抜かん(日本紅茶)、「皇国再起」(三和銀行)「国民総特攻」(住友通信工業)


などという現在も名前こそ一部変わってもしぶとく存続している大企業の戦争中の広告を眺めていると、つねに「新体制」に追随して権力と大衆に媚びるこの隠微な接客業の下卑た奴隷根性が、なまじ私自身にも見おぼえがあるだけに、見る者の心胆をそぞろ寒からしめるのである。

そして時と所、対象敵こそ異なるものの、今日も広告代理店や制作会社の片隅で、「屠れ米英我らの敵だ」、「感謝貯蓄は投資報国で」、「見敵必殺この戦果」、「富国徴兵堅忍持久」、「諸君の友達を射殺したアメリカの飛行機をたたき落とすために」などと同工異曲の大衆俗耳詩歌を作詞作曲する数多くの広告戦士たちが、60年前とまったく同一の精神構造とリテラシー機能を駆使して華やかに活躍している。

一言にして尽くせば、恐るべき破壊兵器が、純粋無垢な中立的科学者の脳髄から生まれてきたように、戦争と平和のイデオロギーは、まったく無思想な純粋言語技術専門家のお筆先きから今も昔も誕生するのである。


道端に斃れし獣一匹さも余の死骸に似たり 茫洋

Monday, September 29, 2008

西暦2008年茫洋長月歌日記

♪ある晴れた日に その40


逝く夏やあまたの栗を拾いけり 


紋黄揚羽の雄が由比ヶ浜真っ二つ

名月や五人揃いし美人かな

道端に魚の尻尾が落ちていた

水に漬け叩きつけたるわがパソコン

おんどりゃ誰じゃあ正体明かせ

オラオラ、オンドリャガアア~

片脚を置いてどこかへ消えた人

一ヵ月発注がない怖さかな

彼岸花刈られず残りし力かな

月下美人誰一人見ず散りにけり 

紺碧の翡翠熱帯魔境に消ゆ
 
この場所で死んだ人を覚えている


暮れなずむ夕陽か
はたまた朝焼けか
わが心なる行き合いの空 

生きることは苦しきことなり
朝毎に
私の骨は激しく痛む 

輪舞 輪舞 輪舞
三組の蛇の目蝶のカップルが
生き合いの空を舞っていた 

道端に栗がひとつ落ちていた
誰も見ていなかったので
拾って帰った 

卒中の後遺癒えざるも
理髪師は
巧みにわれを切りたり

紺碧の翡翠
故地を
魔境に変える

佐渡の空
発信カードつけて飛び立ちぬ
100%中国産のニッポニア・ニッポン

ご丁寧に発信筒をつけられて
佐渡の空に放たれしは
中国産ニッポニア・ニッポン

結局は
他人がやっていることには興味がない
ということになるんだな

ドミンゴもフレーニもゼフィレッリもみな若かった
クラーバーがオテロ振りし
76年12月7日ミラノの夜

スカラ座の罵倒にめげず
オテロ振る
カルロス・クライバーの雄々しき姿

われのみが
段ボールを捨てるらし
雨音しげき火曜日の朝

この場所で
確かに人は死んだのだ 
世界は死に塗れている

誰もが知っている
小さなことを
ひそやかに語りたい

「「満洲国」とは何だったのか」を読んで

照る日曇る日第165回

いわゆる満州国について私たちの父祖たちが行った行為について、私たちはあまりにも知らなさすぎるのではないだろうか。
おりから珍しくも日本と中国の歴史家たちが共同で「満州国」について研究した成果を集大成した本書が刊行されたのは意義深いことだった。

日本から見ても中国から見ても、政治経済生活文化面から見ても、民族自決の観点から眺めても、日本帝国主義の軍事的侵略と植民統治の奇怪なアマルガムであるこの偽国家の威勢の良いでっち上げとその最後の土壇場の目も当てられない無様な崩壊は、日本人の本性をあますところなく全世界に見せつけるむごたらしくも口悔しい事例となった。

そしてその源流を垣間見るためには、「韓満ところどころ」で無邪気に一等国の優越感に浸って二等国民を見下していた漱石子規の時代、いな本当は日清日露以前の征韓論の時代までさかのぼらなければならないが、だがしかし、もしも一九三一年九月一八日の柳条湖事件なかりせばと思ってみるのも阿呆なことか。

とにもかくにも、頼まれもしないのに自分の勝手な都合だけでよその国に武装して乗り込んでいって、気に入らないやつを皆殺しにしたり、自分で鉄道を爆破しておいてそれを他人のせいにして罪をなすりつけたり、反対する者を投獄したり、拷問したり、「丸太」と称して生きたままでマウス代わりに細菌実験の検体にしたり、土地や財産を取り上げたり、異国の太陽神や王を拝ませたり、生産物や収穫の大半を取り上げて異国に送らせたり、それらの行為をけっして悪事とは認識せず、八紘一宇だの王道楽土だの五族協和のために行った素晴らしく善いことだ、もしもどこか悪い点があったとすれば、それはその悪事を余儀なくしたもっと悪い奴らのせいだと世界に向かって公言した。

侵略と植民地支配の被害の実体的質量は、加害者から見ても被害者から見ても共通して等価であるはずだが、その認識は、加害者には霞のようにおぼろで、時と共にすみやかに忘れ去られ、対して被害者側には子子孫孫にまで痛々しく伝承される。
私はこの本で今まで知らなかった多くの事実を知らされて、日本人の普段は柔和な心性の深奥部には秘められた爬虫類の暗黒領域が根強く横たわり、そこには武と暴への陶酔が現在もなおめらめらと隠微な炎を消さずにいるのではないだろうか?という疑いを懐いた。あるいはそれは万国に共通するフロイドが説いた「エス」に起因するのかもしれないが。

満州には自分で望まずに渡った人やかの地で生まれた人も数多くいたが、志願して渡満した人もいた。漱石の「それから」に登場する平岡は、三部作の最後の「門」では安井と名前を変えるが、彼は日本ではうまく行かず、満州へ行って一旗揚げようとたくらむ。

帝大を出たインテリの安井には満州が日本の正当な領土であるという確信などあるわけがない。しかし、うさんくさい新天地ではあるが、もしかするとそこは己の胡散臭さにふさわしい新世界かもしれない。すでに先が見えたこの本国にはないものが満州にはあるかもしれない。その海のものとも山のものともつかない新天地で新しい自己実現を果たそうと見果てぬ夢を見るのであるが、まさにそのときこそ一個人が自覚的に侵略に乗り出した瞬間ではなかっただろうか。

のちになって日本帝国は余剰国民男女を国策で強制的に満州へ移民させるが、当時の日本には左翼崩れをはじめそういう了見の人物がごまんといたのである。

♪一ヵ月発注がない怖さかな 茫洋

Saturday, September 27, 2008

残雪の「暗夜」を読んで

照る日曇る日第164回

そういえば私も時々夢を見る。いつものように見る夢だ。会社でリーマンをやっていたときの話だ。

わが親しきリーマン・ブラザーズが続々と登場して、中間管理職の私に対してある種の決断を迫るのだ。

会社はバベルの塔のような高い高い塔の上に聳えていて、いつも雲や霧で覆われている。

塔の下は荒涼たる海原だ。世界の中心からきびしく隔離されているので訪れる人もまばらだ。私たちリーマンは外来者に期待せず、またわずらわされることもなく、ここ数カ月来のテーマである、「父母未生以前の真面目とは何か」に真摯に取り組んでいた。

部下Aが「それは天然の旅情というものではないでしょうか」というので、私は少し考えてみたのだが、どうもその答えは問いに対して正しく答えているとは思えない。しかしその答えのどの点が正しくないのかさっぱりわからなかったので、仕方なく、「天然の旅情から父母未生以前の真面目が誕生しないとは言えないけれど、この問いが期待している答えとは、そのような情緒的なものではないでしょう。もそっと実証的なもの、もそっと科学的なものではないだろうか」と答えた。すると部下Bが、「では課長、そのもそっと実証的なもの、もそっと科学的なものとはいったいどういうものなのですか」と迫ってきた。

困った私が思い余って波が立ち風が荒れ狂う眼下の海を眺めやると、おりよく巨大な一羽の鳳がやってきた。

鳳はその優美な形態に似合わない不気味な声でひとこえ鳴いたが、その鳴き声がなにを意味するのかは私にはさっぱりわからなかった。部下Aにも理解できないようだ。

そこで部下Bが鳳に「Never more?」と大声で尋ねると、鳳は目玉をぎょろりと半回転させて、しかし何も答えず、胸壁で見張りに立つ私たちリーマンの帽子を灰色のくちばしで順番にたたき落してから、小雪が舞い落ちる暗黒の空高く舞い上がったのであった。
♪彼岸花刈られず残りし力かな 茫洋

Friday, September 26, 2008

続 ロナルド・トビ著「「鎖国」という外交」を読んで

照る日曇る日第163回

秀吉、家康を経て我が国は鎖国に突入したというこれまでの学説を全面的に否定したのがロナルド・トビさんの本書である。幕府は一方ではキリスト教を禁じ、日本人の海外渡航と帰国の制限、ポルトガルの追放を行ないつつも長崎、対馬、薩摩、松前の「4つの口」を絶えず開放して琉球、朝鮮、中国、ロシア、オランダなどの異世界との交易と情報交流を継続しながら幕末に至ったと説く。それはそうかもしれないが鎖国体制が存在しなかったとまでは強弁できないのではないだろうか。

それはさておき、この本の面白さは朝鮮通信使など絵画に描かれた異国人の解説である。異国人をどのように描くかは、日本人がどのように異国人を認識しているかということでもある。南蛮人と出会う前の日本人にとって世界は、「本邦」と「唐」、「天竺」の3つの世界しかなかった。「三国人」から多国籍「万国人」への視点の広がりに対応して、我が国の画家たちはそれまで類型的であった「毛唐人」の顔や体形や衣服や装束を琉球人と朝鮮人と中国人の実態に合わせて写実的に描き分ける様になるが、それは正確な国境の測量と地図の完成に比例している。

著者が次々に取り出してくる絵画や地図が興味深いのは、そこに当時の日本人たちの世界観と彼らの自己同一性の位相がはしなくも表現されているからである。

江戸時代の初期まで我が国の成人男子はひげを蓄えるのがマッチョとされて一般的だったが、幕府が安定してくると後水尾天皇の頃からはそりおとすようになる。黒澤明の「七人の侍」では不精な有髭だった武士たちが、ゴリゴリの法治国家となった近世では無髭を強制され、「月代・髷・ひげなし」の三点セットが日本の「国風」をあらわす身体的な特徴になった。とトビさんは説くが、なにあと二〇年もすればこの国も、もっとゴリゴリの超国家主義体制が一世風靡して、新しいメンズファシズム三点セットが汝忠良なる臣民に強要されるようになるだろう。

それはともかく、第三章「東アジア経済圏のなかの日本」、第五章の「朝鮮通信使行列を読む」や第六章「富士山と異国人の対話」などは通史の枠をはみ出して生き生きと叙述され、これは小学館版「日本の歴史」の白眉と言うてもあながち愚かではないだらう。

♪ご丁寧に発信筒をつけられて佐渡の空に放たれしは中国産ニッポニア・ニッポン 茫洋

Thursday, September 25, 2008

ロナルド・トビ著「「鎖国」という外交」を読む

照る日曇る日第162回

 663年の天智天皇の「白村江の戦」は同盟国の救援という大義名分があったとしても、豊臣秀吉による文禄・慶長の役は明々白々な海外侵略であった。

この狂気の戦によって日本軍は多数の敵兵を殺しただけでなく老若男女の民間人を貴賤の別なく殺戮し、その耳や鼻を大量に切り取り、塩漬けにして秀吉のもとに搬送したのみならず、島津、藤堂、伊達、毛利、加藤、小西などの諸将は数万人を下らない朝鮮人捕虜を一種の戦利品として国内に拉致し、陶工を有田、唐津、萩、薩摩苗代川などに監禁して陶磁器の生産に従事せしめ、あまつさえ少なからに人数を東南アジアやヨーロッパに奴隷として売りとばした。

 私たちは北朝鮮による日本人の拉致を金正日の専売特許のように非難するが、それに先駆けてそれと同じような行為を私たちの英雄と称えられるご先祖たちが大手を振って敢行していたこと、またこれらの蛮行はすぐる大戦においても帝国軍人によって各地で繰り返されたことを忘れてはいけないだろう。

秀吉のみならず隆盛、利通などの明治の元勲たち、そして昭和の軍人の一部はとかく中国、朝鮮、台湾、琉球などの異邦の人々を己よりも下位に見てもっぱら軽侮、差別し、軽々に植民地支配を企図し、実践したが、本書では三代将軍家光が明朝の再興をめざす鄭芝龍一派に加担して対清遠征軍派遣計画を立てていたという驚くべき史実が明らかにされている。(137p)

私たちの黄色い肌の下には、何世紀経っても侵略戦争大好きのDNPが潜流しているのであらうか。


♪結局は他人がやっていることには興味がないということになるんだな 茫洋

Wednesday, September 24, 2008

さらばプロムス2008




♪音楽千夜一夜第41回 

この夏8週間にわたって英国各地で繰り広げられたプロムス2008が9月13日のラストプロムスをもって終了した。

私のパソコントラブルのために多くのプログラムが聞けなかったのは残念だ。諏訪内選手の鋭いヴァイオリンは聞けたが、ポリーニやブレンデルやウチダミツコを耳にすることができなかったのも残念無念。毒にも薬にもならないサイモン・ラトルとベルリン・フィルのただうるさいだけの演奏にはほとほとうんざりしたが、晩年の輝きに静かに燃えるベルナルド・ハイティンク指揮のシカゴ響が素晴らしいマーラーを聴かせてくれた。

若くしてロイヤルコンセルトヘボーのシェフとなってフィリップスに数多の凡庸な録音を残したこの大根指揮者が、よくぞここまで円熟の境地に達したものである。どうかベルリン・フィルと果たせなかったマーラーの交響曲の全曲録音をシカゴと入れてほしいものだ。

ここ数年は私も疲れ、英国も、世界も、さだめしあなたも疲れ、古典音楽じたいぐったりと疲れているせいだかなんだかよくわからんが、ともかく最終日のあの熱と感動が失せていくのはいかんともしがたいところである。往年のマルコム・サージェント、コリン・デービス、アンドルー・デイビスの熱っぽい演奏といかにも英国人らしいスピーチが懐かしい限りだ。あの英国ナショナリズムはちょっとグローバル・ナショナリズム的なところがあり、「なるほどこれがかつて7つの海を制覇した大英帝国の歌の根っこなのか」と判然とするところが、すこしくありますね。

去年はチエコの凡才ビエロ・フラーベックだったが今年のトリはロジャー・ノリントン爺。例のノン・ビブラート奏法でワグナーやらベートーヴェンのなんと合唱幻想曲を狼少女エルモーのピアノで格調高く演奏したが、エルガーの「希望と栄光の国」をノンビブラートで演奏する暴挙に出たニリントンはただの馬鹿野郎か。テンポもリズムもめちゃめちゃで英国国歌につづく恒例の「蛍の光」のア・カペラの大合唱も聴衆のノリはいまいちだった。結局ターフェルの巨大な一吠えにシカない小手先だけの演奏だ。

来年はどうあってもアンドルー・デイビスをアメリカのピッツバークから呼び戻してBBC響を♪ヒップ、♪ヒップ、♪ヒップさせてほしい。


♪ドミンゴもフレーにもゼフィレッリもみな若かったクラーバーがオテロ振りし
76年12月7日ミラノの夜 

♪スカラ座の罵倒にめげずオテロ振るカルロス・クライバーの雄々しき姿 

Tuesday, September 23, 2008

息子の言葉『父の遺したもの』第2回

ある丹波の家族の物語 その10&♪遥かな昔、遠い所で第83回

オルコット作「若草物語」を読んでの父の感想は、次のようなものでした。
「何でも買うことのできる金持ちは不幸です。」

また父は、特殊学級の先達者、杉野春男氏(小倉市、四七年モスクワ空港で没)の「花に水やりを教えられた精薄児が、雨の中、傘をさして水をやる姿に感動す。」という言葉をメモしていますが、私は、障碍児を孫に持った父なりの関心と苦悩がこれを書かせたのだろうと想像しています。

キリスト者としての父については、実は私はよく知らないのです。けれども信仰が父の生きる糧であり、絶えず聖書の言葉を胸に刻みつつ生活していたのは、熱意と集中力をもって書き遺された聖句のメモがおのずとそれを物語っています。とりわけ私が驚かされたのは「ヘブル書一一章」と「使徒行伝七章」。この二つの章は旧約聖書を凝結したものである」との断定でした。

さらにまた五九年四月二二日、イースター昇天祈祷会における中島牧師の言葉、「イエスの復活は信仰の出発点である。」も、父の心にしっかりと触れたのでしょう。

父はおそらくこうしたメモを下駄の商いを営んだと同じ、暗くて狭い仕事場で書きつけ、折にふれて思考を反芻し、一人の信仰者として、一人の市民として、一介の商人としての在るべき道を必死で摸索し続けたのでしょう。

私は息子として、そのことにいささかの感銘を覚えたものですから、父の許しも得ずに、つい長々と駄文を連ねてしまいました。
私はクリスチャンではありませんが、いま何者かに一生懸命に次のように祈りたいと思います。「死せる父よ、死んでも私たちと共に在って、私たちを見守ってください」と。

一九八五年九月一三日


♪丹波竜わたしの実家を闊歩して 茫洋

Monday, September 22, 2008

息子の言葉『父の遺したもの』第1回

ある丹波の家族の物語 その9&♪遥かな昔、遠い所で第82回


父が私たちの前から、それこそ忽然として姿を消してから早や1年を迎えようとしています。

最近の日本人の平均寿命からいえば、短すぎた生涯ではありましたが、その最後の瞬間が、隣人への奉仕に捧げられていた事実に象徴されるように、その71年の生は父なりに充実し、終始一貫していた一生であったように思います。

百年余の歴史を持つ地方の商家をつつがなく経営し、3人の子供を大学にまで入れてやり、信仰を培い、傍目もうらやむ夫婦愛を晩年に至るまで守り育てた男、それが父でした。
当たり前といえば当たり前、世間でよくある話じゃないかといわれればそれまでですが、その平凡な人生を、普通の人として淡々とやり遂げた父と、その父を傍らで力いっぱい支え続けた母に対して、私は大きな拍手を贈ってあげたいと思います。

父は死後2冊の小さな覚書を残しました。粗末なメモ用紙に父らしい几帳面な筆致で晩年の日々に書き残されたこれらの文章の多くは、やはり父自身の言葉ではなく、古今東西の作家、思想家の言や、聖句からの引用であります。

内村鑑三、椎名麟三、夏目漱石、キェルケゴール、ドストエフスキー、森有正、遠藤周作、亀井勝一郎、マリア・テレサといった有名人の言葉に交じって、次のような書き抜きがありました。

「五七年一月一三日、ワシントン・ポトマック川に航空機墜落の時、一人の紳士ヘリコプターの命綱を二回も人にゆずり、自らは河の中に沈んだ。」

おそらく父は、もし自分がこの紳士の立場にあったらどう振る舞えただろうと何度も自問したに違いありません。


♪一歩くたびにポケットの中で鳴くんだよニイニイゼミが 茫洋

孫の言葉『おじいちゃん』第3回

ある丹波の家族の物語 その8&♪遥かな昔、遠い所で第81回


八月九日 ねんど

きのうねんどで遊びました。

はじめハンバーグを作って、クッキーも作りました。クッキーは、ABCDEFGHIの形にしました。

おいじちゃんに「おひとつ、どうぞ。」と言ったら、「お、上手にしたなあ。」と言いました。

ボールも作りました。そのボールで、おじいちゃんとキャッチボールをしました。

ねんどは重いので、ちょっと手がいたかったです。


八月十日 おはかまいり

今日の朝、早起きをして、おじいちゃんとお母さんとおはかまいりに行きました。

じょうろで、花立てのところに水を入れて、持ってきたトレニアとしゅうかいどうをさしました。

そして、おまいりをしました。

「○○の、おなかに赤ちゃんができました。どうか、元気な子が生まれるように守ってやってください。」とおじいちゃんが言いました。○○とは、お母さんの名前です。

そして帰りました。


♪誰も知っている小さなことをささやかに語りたい 茫洋

Saturday, September 20, 2008

孫の言葉『おじいちゃん』第2回

ある丹波の家族の物語 その7 ♪遥かな昔、遠い所で第80回


一二月二九日 おてつだい

 おじいちゃんは、はき物店をしていて、毎日げたをすげていました。

わたしが「げたのうしろのシールをはる。」と言って、シールのカンをとって中のシールを出しました。

シールには「てらこ」と書いてあります。お店の名前が「てらこはき物店」だからです。

できあがったげたへどんどんはっていきました。

はりおわって、たいへんな仕事やなと思いました。


小学四年生、夏休みの日記から
八月三日 ほたるがり

きのうの夜、おじいちゃんとほたるがりに行きました。

川の近くに一ぴきいました。

「ほら、あれがほたるだよ。」とおじいちゃんが言いました。

わたしは生れてはじめてみました。

「本当、きれいね。星みたい。」
わたしは空の星とほたるを見くらべました。

おじいちゃんが、「つかまえられないから帰ろうか。」

「うん。」と言って帰ろうとしたら、もう一ぴきいました。


♪耕君はいま昼食を喰らいつつ今晩のメニューを尋ねる大谷崎に似たり我が家の長男 茫洋

Friday, September 19, 2008

孫の言葉『おじいちゃん』第一回





ある丹波の家族の物語 その6 ♪遥かな昔、遠い所で第79回


―小学三年生、冬休みの日記から
きょうはおじいちゃんと、なわとびをもっておはかまで、さんぽしました。

おはかについて、さかをのぼっていくと「○○家」とかいたおはかがありました。○○とは、おじいちゃんのみょうじです。

中に入ってみると、おはかが五つありました。手をあわせておいのりをしてから、おはかのまえでなわとびをしました。

あとでおじいちゃんが「じゅうじかのところまでいってタッチして、またもどってくるからとけいではかっといて。」と言いました。わたしは、ちょうどデジタルどけいをもっていたので、「いいよ。」と言いました。

「よーい――どん」と言ったとたんにおじいちゃんがはしりました。じゅうじかにタッチしてもどってきました。そしたら、なんと五四秒でした。


♪紋黄揚羽の雄が由比ヶ浜真っ二つ 茫洋

Wednesday, September 17, 2008

父の言葉『思い出の記』第四回

ある丹波の家族の物語 その5 ♪遥かな昔、遠い所で第78回


「おそらくキリスト教より立派な宗教があるかもしれない。それだのに、そんな宗教をさがさないのは、キリスト教が私の求めるものに対して必要にしてかつ十分な保証を与えてくれているので、他の宗教を探す気になりません。」

干天で乾ききった土に慈雨が降ったように私の胸にしみとおりました。この文を目にしたことを心から感謝します。

神よ、常にこの迷える者にみ手をさしのべてください。1980年五月『丹陽』第三号より

―テモテヘの第二の手紙
「私が世を去るべき時はきた。私は戦いをりっぱに戦い抜き、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や義の冠が私を待っているばかりである。


♪紺碧の翡翠熱帯魔境に消ゆ 茫洋

父の言葉『思い出の記』第三回

ある丹波の家族の物語 その4&♪遥かな昔、遠い所で第77回



さて、誠にたよりない足取りで信仰の道をたどりはじめましたが、聖書に記されている数々の奇跡を、如何様に頭でなく心で受け入れる信仰をもつことができるかと、迷い続けました。

この世の常識を越えたい岩のようなこの難関を突破しなければと、立ち向かうたびにハジキ返される思いをしました。そして、私ごとき者は、とてもみ救いにあずかる信仰は持つことはできないのではないかと思っていました。―私の拙い筆ではこのあたりを上手に表現できないのです。―

 水に浮かぶ根なし草のようなこの信仰を力づけ、励ましてくれたのはクリスチャン作家椎名麟三氏―戦争中筋金入りの共産党員として検挙され、長い間東京の警察署をグルグルとタライ回しされている間に、神の存在を知り転向した人―の「生と死に就いて」の中で書かれた次の文章でした。

「一体信じられないことは信仰の浅さや罪の深さの証明でせうか。端的に申し上げれば、キリスト教には信じるか信じないかのようなせっぱつまった自刃のやいばは持っていないのであります。キリスト教においては不思議なことと思われませうが、信じられないということもそのまま充分に生きていけるようにされています。」

この場所で確かに人は死んだのだ 世界は死に溢れている 茫洋

Tuesday, September 16, 2008

父の言葉『思い出の記』第二回

ある丹波の家族の物語 その3 ♪遥かな昔、遠い所で第76回

 私は、子供のころから今日まで、内向的で人見知りする性で、しばしば自己嫌悪におちいることがあります。そして早くから罪ということを意識していました。

 どの兄も私を無理に教会に連れて行くことをしませんでした。私自身、このような罪ある者は教会に行く資格なしと、愚かにも敬して遠ざかっていました。

 旧制商業高校を出ると兄の商売を手伝って、ますます礼拝出席がおろそかになりました。その間にあって、今に至るまで頭に焼きつき忘れ得ないのは、「汝らのうち罪なき者まづ石を投げうて」のみことばです。

このみことばに就いて評論家、亀井勝一郎氏は「私は感動なくしてこの一節を読むことはできません。その背後にある大沈黙が私を感動させるのです。深い叡智と偉大な愛情のごとき沈黙に感動します。」と書いておられますが、私はわが意を得たり、とうれしく思いました。

が、次の文章で「キリスト信者の最大の嫌みはその罪悪感であります。彼らは自分はこのような苦しみを経験した。このような罪を犯したと罪の意識を忘れぬようにし、懺悔こそ神に愛される道であると安心して、罪の意識の深さを誇るのは傲慢である。」とあります。

これには衝撃を受けました。氏の説が全部正しいとは思いませんが、大いに反省させられました。

♪水に漬け叩きつけたるわがパソコン 茫洋

Monday, September 15, 2008

ある丹波の家族の物語 その2

♪遥かな昔、遠い所で第75回

父の言葉『思い出の記』第一回

私は大正二年、岡山県倉敷市に生まれました。父は、私が九歳の時に亡くなりましたが、姉一人、兄六人、妹二人という賑やかな家庭でした。

倉敷教会は、田崎健作先生の精力的な伝道で発展し、県内でも指折りの教会になっていました。

 母と長兄夫婦は弘法大師を拝んでいましたが、五人の兄は大学在学中に洗礼を受けました。私のすぐ上の兄、豊は母に内緒で同志社大学神学部を受験、合格しました。母はとても立腹しましたが、田崎先生の説得に折れて入学を許しました。

 同級に東方信吉先生がおられました。この兄が在学中夏期伝道のため、ひと夏綾部に来て、当時小学生だった家内らと共に楽しく過ごされたそうです。

 また後年、東方先生が丹陽教会を牧されたことをお聞きしてその巡りあわせに驚きました。


われのみが段ボールを捨てるらし雨音しげき火曜日の朝 茫洋

Sunday, September 14, 2008

ある丹波の家族の物語 その1

♪遥かな昔、遠い所で第74回

 ―心は、すすがれて良心のとがめを去り、体は、清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。『へブル人への手紙10-22』

 ―霊魂のない体が死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。『ヤコブへの手紙』


母の言葉

 今年も昨年のような暑い夏がやってきました。
 しかし、朝露にぬれた、野あざみを、野菊、河原なでしこ、そして、つりがね人参など、私の好きな野の花々を、朝のジョギングの帰りの折々に摘んでくれた夫は、もう帰ってきません。
 私の朝は七時の露台の草花の水やりから始まります。今朝も、お水をやりながら田町の坂を下りてくる夫のズックの足音を、口笛を、心待ちに待つのです。
 思ってもみない日、突然、夫が帰って来ない人になってから、早や一年が経ちました。
 一年経っても、まだ心のどこかに、夫の帰りを待っている自分に驚きます。
 子供たちが四〇歳になるのですから、結婚して、それだけの歳月はたしかに経っているはずなのに、その長さが嘘のような気がします。
 何か夫の記念になるものをと思いましたが、思いつかぬままに、先年丹陽教会発行の『丹陽』に書かせていただいた文章をお目にかけることにしました。
目立つことの嫌いな、自己主張をしない人でしたので、他にはメモはあっても自分のものとしては、書き残している唯一のものです。
 その文章の中にやさしい故人を偲んでやっていただければ幸いに存じます。


                             一九八五年八月


暮れなずむ夕陽かはたまた朝焼けかわが心なる行き合いの空 茫洋

Saturday, September 13, 2008

「七人の侍」再見

照る日曇る日第161回

このあいだBSでやっていたのでまた見たが、さすが黒澤の名作、なかなか面白かった。

以前見たとき宮口精二演じる久蔵が野武士の棟梁から種子島で撃たれて死ぬ。そのとき倒れながら投げつけた刀が刺さって頭目は絶命した。と長い間思っていたのだが、実際にはそんなシーンはなかったのでガッカリした。あれは私の幻影だったのだろうか。しかし、しかとこの目で見たはずだ。黒澤の演出よりも、私の幻案のほうがずっと優れていると思うのだがどうだろう。

村娘津島恵子に惚れて初体験した木村功は、ラストで大いに迷う。武士を捨てて村に残るか、娘を捨てて武士にとどまるか。その去就を描かずに映画を終わらせたところがオシャレである。また二人のラブシーンはスタッフが手植えした花々で美しく彩られており、豪雨の大決戦と見事なコントラストをなしている。

しかし欲をいうなら、七人の侍のうち最初に死ぬ千秋実と二番目に死ぬ稲葉義男の容貌がなんだか似ているのは良くない。もう少し別の顔を用意してほしかった。

味方は七人、敵の野武士は四〇人。七人はその四〇人を全滅させたが志村喬、加東大介、木村功を除いて四人とも火縄銃で撃たれて死んだ。敵が所有していた銃は全部で三丁。うち一丁は宮口が、もう一丁は三船敏郎の菊千代が敵から奪っているので、残りのたった一丁が三名の味方の命を奪ったことになる。

宮口が単身森の敵中に忍び込んで銃を奪ってきたときには賞賛されたのに、三船がもう1丁を奪って帰還したときには、軍律違反だと志村から非難され、持ち帰った火縄銃はその場で打ち捨てられて顧みられなかった。もっと敵の飛び道具にきちんと対処しておけば愛すべき主人公たちをむざむざ殺されることにはならなかったはずなのである。もっとも一九五四年度のヴェネチア映画祭で銀獅子賞はもらえなかっただろうけど。

しかし私は、ここに七人の侍のみならず武田勝頼、そして後年の日本の軍隊にも見られた「飛び道具(近代兵器)の軽視と蔑視」という懐かしい土着のにおいをかぐ。ノモンハンの悲劇や万歳突撃、戦艦大和の悲壮な最期につながるあの前近代的な鍋釜土着思想の残滓を。


♪たった一個生りたる西瓜食べにけり今日から短期入所する息子と共に 茫洋

パソコン音痴の嘆き

♪バガテルop71

この夏楽しかったことはなんといっても利尻礼文島への旅行だった。そしてその反対は、わがパソコンのスパイウエア感染である。おかげで8月18日からおよそ1カ月近くこの日記の書き込みはおろか原稿書きすらできないという悲惨な状況に陥ってしまった。

結局電機屋さんに修理に出して悪性ウイルスを駆除し、ついでにこの際だからというので、メモリー、HDDを増設し、オフィスを2007に入れ替えて4,5年前に買ったパソコンの再活性化を図ったのだが、ここでまたしても別の問題が起こった。画面の文字が以前よりぼやけるのである。

PCとモニターの両方の設定をいろいろ変えて試してみたのだが、いまなお改善されない。今回の事故の間に急いで購入したOSがヴィスタで同じオフィス2007のPCは文字も画像もきわめて鮮明なのに、と腹立たしい限りだ。ちなみに事故ったPCはウンドウズのⅩPで「アウトルック・エクスプレス」、新しいやつは「アウトルック2007」なのでもしかするとその互換性の問題があるのかもしれない。

さらにもうひとつどうにも不可解なのは、メールである。私は便宜上2つのPCとも同一のメールアドレスを使用していた。事故の後も同じように設定したはずなのに、「PCその1」から「PCその2」にメールを送っても相手に届かない。その逆もだめ。外部からのメールは2つのPCにちゃんと入っているのに、これはいったいどうしてだろう?

さらにさらに、不要パソコンのファイルを破棄するためにPCの蓋を開いて内部の部品に触っても感電死しないだろうか? 説明書には「危険につき分解するな」と書いてあるのだが……。

♪名月や五人揃いし美人かな 茫洋

Thursday, September 11, 2008

西暦二〇〇八年茫洋葉月歌日記 続編

♪ある晴れた日に その39


今宵一夜の想い出にと
エーデルワイスを歌いしは
礼文船泊のホテルの女

小巻貝に
食われし冷た貝の成れの果て
船泊の浜にうずたかし

利尻富士は富士よりうるわし
利尻山より落つる水
うまし

走れども走れども一台の車なし
車なき礼文の人の
喜びと悲しみ

八つ手の葉っぱの上で
何度も羽を開いたり閉じたりしている
ヒメジャノメよ

耕君のため
巨大な蓮の葉と花を贈ってくれた木さんに感謝す
ありがとう

2月に母親が行方不明になった家
夏空に
洗濯物が揺れている 

たった1個なりたる西瓜
食べにけり
今日から短期入所する息子と共に 

毎日毎日
三浦スイカを喰らう限り
わが夏は終わらざるべし

西暦二〇〇八年茫洋葉月歌日記 正編

♪ある晴れた日に その38


脳天を震撼させてアブラ鳴く

一日に二匹の蝉を拾いけり

幼虫をトイレに捨てたる息子かな

先祖累代油蝉は鳴き続けてきた

世界一速き男の脇見かな

観衆を見物しつつゴールせり

敗者にもわれが授けむ月桂樹

利尻島一軒の魚屋もない豊かさよ

全村の踊りは長し利尻町


新宿の西口地下の中華屋でフィリピン女性が運びしラーメンを食う

健ちゃんが卑猥といいしモミジアオイ臆面もなく赤く咲きけり 

生まれつき障碍のある油ゼミ桜の幹に止まらせてやりぬ 

道野辺の桜の幹に止まらせぬ飛べずにもがく油蝉


電車に乗り飛行機に乗りてから船に乗り利尻礼文の海山に着きたり

利尻には利尻夏蝉、礼文には礼文夏蝉ひがなジジッと鳴きおり

いつまでも村人たちは踊りたり余りに短き利尻の夏に

漆黒の闇を揺るがす大太鼓 利尻の民はみな踊りたり

大太鼓利尻の夜を揺るがせて老若男女みな踊りたり

選挙迫り地元議員は浴衣着て山車に跨り太鼓叩くも

沓形の港に霧は深くして今日のウニ漁中止ならんか

ニシンども浜に押し寄せ村人を歓喜させたるかの日なつかし

利尻にはただ一軒の魚屋なし魚屋なしに魚喰う人の幸

わが国の最北端の岬にて営業す民宿スコトンはとことん商人

樺太を追われて来たるアザラシはサハリン1、2の犠牲者なるかな

リーダーは頭を一旋加速せりいずこへ急ぐや樺太アザラシ

きのうオホーツクより南下せるアザラシの群れ日本海目指す

利尻富士に聖なる神が居ますゆえ蛇は棲まぬと親爺説きけり

荒き波荒き風より生まれたり荒磯に咲けるあら波の華

福岡や沖縄生まれの人もいて人口5千の最果ての島

バスガイドはなんと沖縄生まれなり人口5千の最果ての島

桃太郎が空に向かって投げつけし強大な岩を桃岩というにや

にやうにやうと哀しき声にて鳴きにけり最果ての空にウミネコどもは

ウミネコはかうかうとも鳴いていた最北の地の最果ての空

ノコギリソウツリガネニンジンウスユキソウエゾカワラナデシコなど咲いておりたり

朝五時にサイレン鳴りて島民はこぞって昆布漁を支援するなり

昆布干しは過酷な仕事よ村人はいくたびも葉を浜に並べて

「冷た貝」に食べられてしまった「小巻貝」礼文の浜に静かに眠る

さいはての冷たき海に沈みけり真っ赤に燃えし礼文の夕陽は

立秋の宗谷の海が尽きるところ水平線に樺太現る

最北の宗谷岬の突端で遥かなる島樺太見たり

樺太はわが指呼の間に横たわる海と空とが接するところに

サハリンと呼ばず樺太と言うバスガイド国家主義者ならねど好ましと見る

台湾人は怒鳴るがごとく会話せり礼文稚内のフェリーの中で

稚内の青物市場で買った富良野メロン余す所なく食べにけり

稚内の生鮮市場で買うた蟹一匹残らずわれ食いにけり

遠ざかる利尻礼文の海と山わたしの夏がゆるゆる暮れて

Wednesday, September 10, 2008

レイモンド・カーヴァー著「必要になったら電話をかけて」を読む

照る日曇る日第160回

村上春樹の翻訳によるレイモンド・カーヴァーの未発表の短編集である。

1988年に50歳の若さで亡くなったカーヴァーの人の世のほろにがい哀感をえぐった忘れがたい作品をもう読めなくなることは悲しい。

この人はその短編の最初の1行で、生の無常をさししめすことができた稀有な作家だった。

願わくば、いづれの日にか村上春樹の手になるマイケル・チミノの未完の映画「ドストエフスキー」のシナリオが公刊されんことを。


♪母さん
あのカンカン帽どこへ行ったんでしょうねえ
5年前浅草で買ったあの1500円の麦稈真田 茫洋

Tuesday, September 09, 2008

横尾忠則著「人口楽園」を読んで

照る日曇る日第159回

自作の絵に短いエッセイがつけられて全部で105の見開き世界が繰り広げられている。その第24回の「魂むしばむ戦争」は次のような文章で始まっている。

「朝、目が覚めた途端、うっとうしい気分に襲われる。生きている証拠である。眠っている間は死んだも同然、意識の動きが停止しているからだ。眠りから目が覚め、生を自覚するやいなや今日も生きるのかと思うと、イヤーな気分になる。別に身体が悪いとか、借金に追われているとか、嫌なやつに会うという理由ではない。ほとんど理由もなく目覚めそのものが不快なのである。その理由として「生きている証拠だ」と言ったが、生きているというほとんど理由があってないような理由によって始まる「生」のせいに違いないとぼくは考える」

年をとると生そのものが鈍重になり、生物としての人間が担うに堪えない重すぎる荷物と化すのであろう。かくいう私も毎朝骨が痛む。身を起こそうとするのだが、上半身の骨格の重さを弱くなった筋肉が支えきれずに悲鳴を上げるのである。頭に体がついていけないのは仕方がないが、骨に肉がついていけなくなる日がやってくるとは思いもしなかった。


生きることは苦しきことなり
朝毎に
私の骨は激しく痛む 茫洋

Monday, September 08, 2008

網野善彦著作集第3巻「荘園公領制の構造」を読んで

照る日曇る日第158回

荘園の支配者は天皇家、貴族、寺社などの経済的基礎になってはいるが、その実態は現地の領主が年貢などを支配者に貢納する際の請負の単位であり、国家に規制された公的な行政単位でもあった。それゆえ最近ではこのような土地制度を、荘園制度ではなく、網野が提唱したように荘園公領制と呼ぶようになっている。

中世の人々は土地に縛られることなく、各地を旅行し、それが新天地の開発につながることもあり、「逃亡」さえもが日常的であった。ようやく院政時代に確立された初期の荘園公領制がこのような危機をはらんでいたために、田地、住居に百姓を安堵することが地頭などの中世権力の最初の1歩とならざるを得なかった。

宮廷の行事においては発声の「微音」と「高声」は明確に使い分けられていた。たとえば政始のさいに上卿の召しに同音称唯するとき、弁・少納言は微音、外記・史は高声で答えるのが常であった。高声は日常の世界や寺社の内部や仏前・宝前では禁じられ、忌避されたが、高声念仏による往生のように門前や市庭などの特定の場では、それが当然とされる場合もあった。

著者は、高声が往生のように仏の世界への道をひらくことになっていること、門前や市庭などが神仏の支配する聖なる場所であることを考えると、このようなケースでの高声は神仏の世界と俗界を媒介する役割を果たしていたのではないかと推察し、祭りや雨乞い、あるいは禁忌や集会などを村全体に知らせるときに発せられる「おらび声」が、神霊と交わる契機そのものであってそれゆえにタブーを伴っていたと指摘している。

オラオラ、オンドリャガアア~

Sunday, September 07, 2008

フォークナー著「アブサロム、アブサロム!」を読んで

照る日曇る日第157回

フォークナーはハワード・ホークスに頼まれて「三つ数えろ」などの脚本を書いて身すぎ世すぎしながら、大脳前頭葉の奥底深く、壮大な幻想世界を築きあげ、ここからロダンが彫刻を切り出したように、本作や「野生の棕櫚」や「響きと怒り」や「八月の光」などの“ヨクナパトーファ・サーガ”と呼ばれる米国南部の仮想の街と住民の物語を生涯にわたって描き続けた。その小説幻想は現実よりもリアルであって、作家が彫刻を加えるにつれてその存在感を増すのだった。

若くして亡くなった一つの文章の間にいくつもの副文が密林の大樹の無数の葉脈のように繁茂する一読しただけでは容易に理解できないプルースト張りの複雑な文章なので、翻訳にあたった篠田一士氏もさぞや苦労されたことだろう。私がクラシックの演奏会に上野の文化会館を訪れると、必ずと言っていいほどでっぷりと太った氏がロビーの片隅でいつもたったひとりで立っておられたことを思い出す。もっと生きてたくさんの仕事をしてほしい文学者だった。

この作品のタイトルは、旧約聖書「サムエル後書」第一三章にはじまるダビデ王とその息子アブサロムの父子葛藤の物語にちなんでいる。アブサロムは妹タマルを犯した兄弟アムノンを殺すが、最後には自分自身も無残な最期を遂げ、恩讐を超えて父王は「ああアブサロムよ、アブサロムよ!」と嘆くのだ。フォークナーの「アブサロム」もアメリカ南部の本質をえぐって余すところがないが、「サムエル書」もこれに輪をかけて面白い「小説」である。

最後にフォークナーのノーベル賞受賞スピーチから。

私は人間の終焉を受け入れることを拒みます。人間は単に絶えることができるから、最後の赤い夕陽の中で潮の干満にも濡れない価値なき最後の岩から運命の最後の鐘がディンドンと鳴り響くときに、その取るに足らない疲れ知らずの声がまだ話しているが聞こえるから、だから人間は不滅だ、というのはあまりに容易です。私は人間は耐えるだけでなく、勝つことができると信じています。人間は多くの生き物の中で唯一疲れ知らずの声を持っているから不死なのではなく、魂があるから同情と犠牲と忍耐の能力のある精神を持っているからこそ、不死なのです。詩人や作家の使命はこういうことについて書くことです。人間の心を押し上げ、人間に過去の栄光としての勇気と名誉と希望と誇りと同情と哀れみと犠牲のことを思い出せることが詩人と作家の特権なのです。詩人の声はただ人間の記録であるばかりではなく、人間の忍耐と勝利の支えとも柱ともなり得るのです。(池澤夏樹訳)

たった1個なりたる西瓜食べにけり
今日から短期入所する息子と共に 茫洋

Friday, September 05, 2008

丹波と能楽

続 梅原猛・松岡心平著「神仏のしづめ」を読んで

照る日曇る日第156回

梅若は現在は観世流れのシテ方であるが、もともとは丹波猿楽の一流であった。丹波の殿田には梅若屋敷跡があり、墓とともに殿田稲荷が祀られている。ただその本貫地は京都市右京区の梅津で、梅若の名はここから出たという。それで梅若姓の元は梅津であり、梅津氏は橘諸兄を祖とし、諸兄の9世の孫、橘友時より梅若を名乗るようになった。

この友時のとき、丹波の何鹿郡大志麻の庄を領したために丹波に居を移した。すなわち綾部市の大島で、著者の故地でもある。ちなみに「弱法師」の原話「しんとく丸」伝承は、梅津長者が父なる人であった。

梅若の丹波におけるもっとも古い根拠地は綾部市舘町の赤国神社を氏神とする地域だとされるが、残念ながら私はまだ訪ねたことがない。

いずれにしても丹波という地は能の歴史の中で大きな比重を占める。観世流のシテ方である片山家、大槻家、河村家も丹波の出である。

以上本書256pより引用しました。

♪道端に栗がひとつ落ちていた
誰も見ていなかったので
拾って帰った 茫洋

梅原猛・松岡心平著「神仏のしづめ」を読んで

照る日曇る日第155回

梅原猛の「神と仏」対論集の第4巻は私が致命的に無知である能についての蒙をひらいていただくのである。

両氏によれば能の基本に敷かれているのは「草木国土悉皆皆成仏」を唱える天台本覚論で、天台宗始祖の最澄にはじまるこの普遍的な思想は、円仁、円珍、源信、法然、親鸞、道元、日蓮みな影響を受けた。それが思想というより身体的な実践として観阿弥、世阿弥、元雅、金春禅竹の能に及んでいる。

伊賀の国に生まれた観阿弥は南朝の支持者で楠正成の甥。その子世阿弥は足利義満に寵愛されたが義教によって疎んじられ佐渡に流された。世阿弥は当初甥元雅に観世太夫を継がせたが、(観→世→音)その後実子の元雅に乗り換えた。しかし元雅は音阿弥に観世太夫を継がせようとした義教の命を受けた斯波兵衛三郎によって殺害された。

また、日本の音楽は古代は雅楽、中世から近世は歌舞伎も含めて能楽、明治以降は洋楽の時代となる。このうち真ん中の能楽だけが絶対音階を否定する相対音階を基調とする。らしい。


♪月下美人誰一人見ず散りにけり 茫洋
照る日曇る日第155回

梅原猛の「神と仏」対論集の第4巻は私が致命的に無知である能についての蒙をひらいていただくのである。

両氏によれば能の基本に敷かれているのは「草木国土悉皆皆成仏」を唱える天台本覚論で、天台宗始祖の最澄にはじまるこの普遍的な思想は、円仁、円珍、源信、法然、親鸞、道元、日蓮みな影響を受けた。それが思想というより身体的な実践として観阿弥、世阿弥、元雅、金春禅竹の能に及んでいる。

伊賀の国に生まれた観阿弥は南朝の支持者で楠正成の甥。その子世阿弥は足利義満に寵愛されたが義教によって疎んじられ佐渡に流された。世阿弥は当初甥元雅に観世太夫を継がせたが、(観→世→音)その後実子の元雅に乗り換えた。しかし元雅は音阿弥に観世太夫を継がせようとした義教の命を受けた斯波兵衛三郎によって殺害された。

また、日本の音楽は古代は雅楽、中世から近世は歌舞伎も含めて能楽、明治以降は洋楽の時代となる。このうち真ん中の能楽だけが絶対音階を否定する相対音階を基調とする。らしい。


♪月下美人誰一人見ず散りにけり 茫洋

Thursday, September 04, 2008

山田邦明著「戦国の活力」を読んで

照る日曇る日第154回

小学館の日本の歴史第8巻である。戦国大名の誕生から大坂落城までの150年間を駆け足で描く。
鎌倉関連では永正11年1514年に日蓮宗本覚寺の陣僧役と飛脚役と諸公事が免除されている。坊主は意外にも健脚の者が多く、戦国大名は僧侶に祈祷をはじめとする様々な任務を与えていたのである。
鎌倉材木座の光明寺は良忠によって創建された浄土宗の大本山であるが、戦国時代のはじめごろ観誉祐崇という傑物があらわれ近隣の諸国を歩きながら信者を獲得し、1代のうちに30あまりの寺院を創建した。明応4年1495年には宮中に召されて光明寺を勅願寺にするとの綸旨を与えられた。

京の本能寺は天正10年1582年信長が暗殺された寺として有名だが、ここは日蓮宗勝劣派の拠点で、一致派の他の寺社とするどく対立していた。日蓮宗の経典は法華経である。全28の品からなる法華経は前半の14品が迹門、後半の14品を本門と称するが、迹門迹門の優劣が甚だしいと考えるのが勝劣派、迹門にもそれなりに価値はあると評価するのが一致派で、本能寺は前者の代表選手だった。
法華経のもっとも壮麗なシーンは本門冒頭の「従地湧出品」である。弟子達が「この有難い経典を護持することをお許しください」と頼んだ時、世尊が「この世には無数の菩薩たちがいて彼らこそがこの地においてこの経を護る使命を持つのだからこの経を護持する必要はない」と語るやいなや、突然引き裂かれた大地の奥から幾百億千万の求道者たちが金色に荘厳された菩薩となって地中から湧き出てきて虚空に聳え立つのだが、法論の問題箇所は、ここで世尊がいうお経とはなにを指すのかという点であった。本能寺派は、この経とは本門冒頭の「従地湧出品」以前の「迹門」全部であると主張したが、その後この説に同意できない一致派との間で長く法論が続いたようである。

♪毎日毎日
三浦スイカを喰らう限り
わが夏は終わらざるべし 茫洋

Wednesday, September 03, 2008

小川国夫著「止島」を読んで

照る日曇る日第154回

これも最近物故した作家の遺作短編小説集である。晩夏の昼下がり、一枚1枚拝みながら味読しました。
「しのさん」という少女に主人公は2回ほどつかみかかるが、ひらりと逃げられてしまう。しかしみなしごの彼女は若くして肺病で亡くなってしまう。

「三輪川という川の川口の近くに焼き場があるもんですから、そこで焼きました。五人ばかり人が来て、若宮の家からも人が来ることは来ましたが、あんなにひっそりしたちり焼きも滅多にはないでしょう。われを忘れていたのは、結局私たち3人だけでしたでしょう。火が入り赤々と焼けていくのを、かまどのうしろの耐火煉瓦を一箇はずしてもらって、みとれていました。しのさんのあぶらが樋をつたわって、三輪川へ落ちる音も聞きました。これで終わりか、と思っていたんです。」(37p)

あるいは「未完の少年像」における海軍少尉の友人、渋谷嘉一郎との最後の会話。

「ぼくはお国のために死にますが、君は勉強してください」
特攻隊で「見事玉砕した」その友人は、2日か3日の故郷滞在中に弟に
「鹿屋に戻りたくないと言ったのだそうです。その弟さんから聞きました。これは小説ではありません。ですから、あるがままで怖ろしい意味を持っているのです。」(125p)

そうは言ってもこれは小川国夫の小説の中の言葉であって、つまり彼の小説はこのように怖いのである。

♪輪舞 輪舞 輪舞
三組の蛇の目蝶のカップルが
生き合いの空を舞っていた 茫洋

Tuesday, September 02, 2008

♪バガテルop70

 
きのう福田首相が突然辞任を表明した。彼は靖国神社に参拝しなかった一事をとっても、自民党のなかで数少ないましな政治家の1人であった。狂気のライオン丸や隠微阿部が退陣してようやく普通に凡庸な福田に代わったばかりだというのに、これからまたしても愛国男根主義者の麻生や政治芸者の小池なぞの魑魅魍魎が登場するのかと思うとぞっとする。1日も早く総選挙を行ってこの稀有の2重権力状態を解消するか、それとも継続するかを決定することがのぞまれる。

ところで、私はニヒリストなので政治に多くを求めすぎたり、政治に安易に夢や理想やロマンを結びつけたりする人たちにはあまり心を動かされない。そのこと自体が政治を本来の役割から逸脱させ変質させる危険があるからだ。また超保守主義者の私は、凡庸な国民にふさわしい凡庸な公僕がまあまあそこそこの政治をもの静かに行って市民の自由を侵害しないようにしてくれるのを好む。政治には指導性が必要だなどとむやみに呼号する人物は眉に唾して冷静に見つめる必要があるだろう。

いずれにしてもこれから私たちは21世紀の長い長い坂道を下っていかなければならない。それは大きな苦痛と犠牲をともなう後退戦である。史上最大の痛苦な作戦である。1億2600万人をいかに無事故かつ安全に麓まで下ろすことができるか。それがわが国の政治家、ではなくて私たちひとりひとりの腕の見せ所だろう。

2月に母親が行方不明になった家
 夏空に
洗濯物が揺れている 茫洋