Sunday, September 07, 2008

フォークナー著「アブサロム、アブサロム!」を読んで

照る日曇る日第157回

フォークナーはハワード・ホークスに頼まれて「三つ数えろ」などの脚本を書いて身すぎ世すぎしながら、大脳前頭葉の奥底深く、壮大な幻想世界を築きあげ、ここからロダンが彫刻を切り出したように、本作や「野生の棕櫚」や「響きと怒り」や「八月の光」などの“ヨクナパトーファ・サーガ”と呼ばれる米国南部の仮想の街と住民の物語を生涯にわたって描き続けた。その小説幻想は現実よりもリアルであって、作家が彫刻を加えるにつれてその存在感を増すのだった。

若くして亡くなった一つの文章の間にいくつもの副文が密林の大樹の無数の葉脈のように繁茂する一読しただけでは容易に理解できないプルースト張りの複雑な文章なので、翻訳にあたった篠田一士氏もさぞや苦労されたことだろう。私がクラシックの演奏会に上野の文化会館を訪れると、必ずと言っていいほどでっぷりと太った氏がロビーの片隅でいつもたったひとりで立っておられたことを思い出す。もっと生きてたくさんの仕事をしてほしい文学者だった。

この作品のタイトルは、旧約聖書「サムエル後書」第一三章にはじまるダビデ王とその息子アブサロムの父子葛藤の物語にちなんでいる。アブサロムは妹タマルを犯した兄弟アムノンを殺すが、最後には自分自身も無残な最期を遂げ、恩讐を超えて父王は「ああアブサロムよ、アブサロムよ!」と嘆くのだ。フォークナーの「アブサロム」もアメリカ南部の本質をえぐって余すところがないが、「サムエル書」もこれに輪をかけて面白い「小説」である。

最後にフォークナーのノーベル賞受賞スピーチから。

私は人間の終焉を受け入れることを拒みます。人間は単に絶えることができるから、最後の赤い夕陽の中で潮の干満にも濡れない価値なき最後の岩から運命の最後の鐘がディンドンと鳴り響くときに、その取るに足らない疲れ知らずの声がまだ話しているが聞こえるから、だから人間は不滅だ、というのはあまりに容易です。私は人間は耐えるだけでなく、勝つことができると信じています。人間は多くの生き物の中で唯一疲れ知らずの声を持っているから不死なのではなく、魂があるから同情と犠牲と忍耐の能力のある精神を持っているからこそ、不死なのです。詩人や作家の使命はこういうことについて書くことです。人間の心を押し上げ、人間に過去の栄光としての勇気と名誉と希望と誇りと同情と哀れみと犠牲のことを思い出せることが詩人と作家の特権なのです。詩人の声はただ人間の記録であるばかりではなく、人間の忍耐と勝利の支えとも柱ともなり得るのです。(池澤夏樹訳)

たった1個なりたる西瓜食べにけり
今日から短期入所する息子と共に 茫洋

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