Tuesday, June 30, 2009

「アマゾンの半漁人」が消した私の書評たち

バガテルop104

これまでAmazonの書評コーナー「カスタマーレビュー」に書籍だけで60点以上、映画やDVDを加えると100点は下らない感想文を投稿してきましたが、最近確認したところ2009年4月10日に投稿したはずのT.E.ロレンス著「知恵の七柱 1 完全版 東洋文庫」などのデータがいつのまにやら消えうせています。最近書いた「高橋源一郎の「大人にはわからない日本文学史」も、2008年11月に投稿した雑賀恵子著「空腹について」と「エコ・ロゴス」の書評も同様に消去されていました。

これまで私は、書籍については同じ内容の書評をAmazonとbk1社に同じように投稿してきましたが、bk1社の延べ掲載点数が67、Amazonのそれが映画やDVDを含めてちょうど30点ということは、小生が投稿した総点数のおよそ半分をAmazonは没にしたということになります。

もとより浅学菲才の身ゆえ、悲しいかな削除された約30本は、おそらくはAmazon社の厳しい投稿基準を満たさない幼稚かつ過激な表現に満ち溢れていたのではないかと危惧した私が後学のためにAmazon 社の英明なる担当者に削除理由を尋ねたところ、それらは800字という文字制限を超えていたから削除されたという返事。あれらの作文とパソコン操作に費やされた膨大な手間暇をどうしてくれるんだと文句の一つも言いたくなりました。                      

そこで本日はアマゾンの半漁人によって無残にも消去されてしまった雑賀恵子著「空腹について」と「エコ・ロゴス 存在と食について」の書評を再掲載させていただくことといたしました。


◎雑賀恵子著「エコ・ロゴス 存在と食について」 存在を賭した精神の大旅行記
「存在」と「食」をめぐる著者の思考は、時空を超えて軽やかに飛翔しながら私たちを未踏の領域に導いていく。「最初の食欲」では食べるということの本質が解き明かされ、「遥か故郷を離れて」ではカインとアベル以来私たちが殺してきたものを見つめ、「草の上の昼食」、「パニス・アンジェリクス」では大戦中の兵士や船長が直面した殺人と食人の現場における「倫理」のありかについて光を与え、「ふるさとに似た場所」では、私たちの生の本質は「骰子一擲」であり、その不断の歩みに回帰すべき場所はないこと、「嘔吐」では私たちが他者、他の存在とかかわる劇場の中で生きていること、「舌の戦き」では舌が他者との交通の歓びを味わい、その快楽の記憶を呼び起こす器官であること、「骸骨たちの食卓」では、私たちがたとえ檻の中に捕われたカフカの「断食芸人」であろうとも観客の眼差しとは無関係に愚鈍に生きるべきこと、「ざわめきの静寂」では私たちは瞬間毎に新たに立ち現れる存在であること、が叙事詩のように力強く、抒情詩のように美しく語られる。そして著者が終章において、まるでサッフォーのように、あるいはまた「星の海に魂の帆をかけた女」のように次のように語るとき、私たちはこの誠実で真摯な探究のひとまずの結論を、大いなる共感とともに受け止めないわけにはいかないだろう。「言語を持ったわれわれは、歴史を持つ―すなわち過去を振り返り、傷みを感じつつ検証することが出来るということでもある。わたしたちは死すべきものであるのだから、生は他者の死との連関の中で繋がれるものだから、だからなのだ、根源的な殺害の禁止は、絶対的なものであり、つまり他者の殺害ばかりではなく、自己の殺害の禁止をも含むものなのだ。」「生きるとは、ともに在ることであり、倫理とは、生きようとする意志のことだ。…言葉でもって、生きる場所の論理を語ること。確かに、それは、どれほどの試みを積み重ねても、失敗し続けるだろう。だが、言語によって、われわれは歴史をもったとともに、未来というものをわれわれの思考の中に導き入れたのだ、未来、希望というものを。」この本は、著者の存在を賭した精神の大旅行記というべきだろう。


◎雑賀恵子著「空腹について」 知情兼ね備えた詩人哲学者の清々しいエセー

新進気鋭の科学者にして社会思想家による構想雄大、真率にして繊細、知情兼ね備えた詩人哲学者の清々しいエセーである。「あらゆる人間の営為は、物質の動きによって表現される。たとえば、愛。触れ合う唇の湿り具合。絡み合う指の温度。鼓動の響き。肌の触感。あどけない笑顔からこぼれる生えかけの小さな歯。抱いた時の心地よい重み。日向くさい頬に透ける血管。留守番電話に残された「お休み、いい夢を」という囁きを反芻するせつなさ。熱で苦しんでいると、ひたとも動かず凝っと見守り、時々冷たい手の肉球を唇や頬にあててくれて鼻先を近づけそっと嘗める猫の潤んだ瞳。そういうものの積み重ねであり、個別の他者の持つ個別の記憶に支えられている」という文章に接した人は、もうどうあってもこのあまりにも魅力的な詩文ファンタジーの世界の扉を押さないわけにはいかないだろう。まず「なぜお腹が空くのか?」と考え始めた著者の夢想と空想は、次いで「なにが美味しいのか?」という考察に向かい、ここで突如「残飯をめぐる歴史的研究」に転身し、最低辺の貧民や女工がどのように悲惨な食生活を強いられていたかを一瞥し、さらに軍隊における軍用食の問題に潜入すると、ついに脚気と食物の因果関係を認めようとしなかった頑迷な陸軍軍医鴎外森林太郎が日露戦争で多くの脚気羅病者を出してしまったこと、「戦争をするために軍隊があるのではなく、膨れ上がり自国内部でもてあました空腹が他者を食いつぶすために戦争がある」と喝破するに至る。 餓島ガダルカナルにおける悲惨な戦闘と絶望的捕食に触れた著者は、さらに「食人」の問題に言及進み、我が国で古来幾多の大飢饉に際して食人が珍しくなかったにもかかわらず、わたしたちの現在の社会で食人が起こるとは想定されず、それを禁じる法律すらないという異常さを指摘する。そして「現在の地球人口と資源および生産形態から見れば、いずれ人体を食料資源として考慮に入れなければならないとする議論が確実に出てくる」とカッサンドラのように不吉な予言をするのである。 かつて学生時代のある時期に、動物実験で毎日のようにマウスやラットを数匹以上殺していたという著者は、養鶏場の近代的な工場で機械製品を作るように大量生産されるブロイラーや霜降り肉を生み出すために飼育されている大量の牛たちに対して、人間はいったいどのように向き合うべきか? 資本の論理に貫徹された食肉生産の現場において、人間が動物に対する優しさや残酷さとはいったい何か? と自問する。 最後に、飢餓をはじめとする「世界の貧困」について、その歴史的政治経済的分析を終えたあとで、著者は次のように述べる。「慎ましくも必要とされるのは、道徳ではなく、倫理である。正義の軸を設定し神殿に納め、それに礼拝跪して異教審問の過程で排除項を生み出していくのではなく、不快さを不快であると叫び続けること。システム内に繋留された倫理=道徳から身をひきはがし、個人の身体感覚から不快を問い続ける倫理から想像を他者に投げかけること。そうしたエロスの投げる網によって他者の苦痛を新しく見出す営みを持続させること。それが知るということである。他者を理解することはできない。しかし他者を理解しようとするその試みこそが、人間の営為なのである」 このようにおぞましさと嘔吐と矛盾と困難と悲喜劇にみちあふれた、この毎日が世紀末の人の世を、著者は「生命体としてのわたし、身体をもつわたしに根ざしたこの倫理」をひしと抱きかかえ、冷酷非情の法-規範、道徳との狭間に立ちすくみながらも、「いま何をなすべきか?」とレーニンやハムレットのように胸に問いつつ、愛描綱吉と共に今日もけなげに前進しているのである。       ♪人の世はさはさりながら愛ありて 茫洋

Monday, June 29, 2009

西暦2009年茫洋水無月歌日記

♪ある晴れた日に 第59回


大船駅のさびた線路のすぐ傍に昼顔の花咲きいたり

余を馘首せし銀行屋を馘首せし銀行屋をまた馘首せんとする鳩山総務相

わが首を切りしバンカーの首を切りしそのバンカーの首を切らんとする人

隠れたってすぐ分かるぞヘイケボタル今宵も8匹見つけたり

今宵また謎の呪文をわれに告げ北斗の星と輝く蛍

おたまじゃくし1日1匹ずつ共食いすなり

毎日1匹ずつ食い殺して最後に残ったおたまじゃくし

あじきなしバーンスタインのハイドンを聴く日曜日

花も嵐も踏み越えて行きつくところまで歩むべし

玄関に片っぽうだけ転がっている妻の黒い靴

カラスアゲハが無心に太刀洗川の水を吸うておる

明治通り千駄ヶ谷小学校交差点の真紅の薔薇を撮影していたり秋山庄太郎

一生懸命ならどんな音楽でも許されるのかそこんとこよろしく

おりしも中里恒子の全集を耽読しおりき西麻布の売文家

ありがとうそしてさよならと言いつつわれら別れゆくなり

海を越え海に沈みし若者の瞳彩るジャガランダの花

南洋の桜といわれしジャカランダ桜に勝り毅然と咲きおり

わが腕を蟻が這う諦観とリリシズム捨てがたし

ミラノスカラ座より帰国せしや平成正宗後継者

親しめば親しむほど洞窟の謎は深まる

ひとたびは燃えつき果てた恋なれど43年目に燃え上がるかな

金の部屋大判小判を懐に金襴緞子でくたばりし奴

凶悪な政治の毒に窮したる二十歳の恋ははかなく散りて

万人の万人に対する戦いとく鎮めよと作家は祈る

半年間発注のない狂おしささくらば散りてあじさいの咲く

なにゆえに発注なきや半年間紫陽花の青をじっと眺むる

またしてもスイカの種は尽きにけり働き悪く金のなき日に

絶対の善や悪は存在せずわれらの輪廻は転生す 

腹黒き輩は腹黒き友を知る時政邸に鶯鳴きたり

大人にも本人にもよう分からん日本文学史書きたり高橋源一郎

当り前のことをとくとくと語る人なりき黒田恭一氏死す享年七十一

コラボとはナチ協力者のことなりコラボといわずコラボレーションと言え

七人の子供を残し巴里に住む恋しき夫に会いに行く女

谷川さんの下手くそな詩を読んでいると自分も書こうという気持ちが起こってくる


朋輩を皆喰い尽しておたま一匹

健ちゃんが帰ってくるようれぴいな


♪息継ぎのあわいに生まれる感傷を世に詩歌とは名付けたりける 茫洋

さようなら眞木準

遥かな昔、遠い所で第84回

既にして旧聞に属すかもしれませんが、去る22日にコピーライターの眞木準氏が急性心筋梗塞で亡くなられたことを私は読み残しの新聞を整理していてはじめて知りました。

彼の最新にしておそらく最後の作品は、宣伝会議社の「内定取り消しされた方5名まで引き受けます」でした。しかし、彼の真価は伊勢丹の企業広告や全日空の「でっかいどお。北海道」に示されるしゃれた言葉遊びの切れ味と軽妙な語呂合わせとにあって、その奥深い引出しを準備するために普段から有名無名の作家の作品を渉猟していたことは、ある日突然私が訪れた彼の西麻布の事務所の書架を眺めれば一目瞭然でした。広告文案作成業の極意が機智の駆使にありとせば、彼はその当代一流の専門家であり、人並みはずれた才知と言語操作の高等技術がそれを可能にしました。

私は多くのコピーライターと仕事を共にしましたが、テレビCMのダビングの現場に呼びもしないのに駆けつけてくれたのは彼だけでした。ダビングというのは撮影済みの映像にスタジオでナレーションや音楽を録音する作業ですが、コピーについてはとっくの昔に広告主との打ち合わせを経て決定しています。だからコピーライターの立会は必要がないはずなのですが、彼は「書かれたコピーがいかに良くてもそれが話し言葉になったときに当初想定されたインパクトをもたらさないことが稀にある。だから自分はここにやってきた」と言うのです。なるほど、そういうケースは何度かありましたが、「ちょっと違うなあ」と思いつつそのまま録音してしまうのが通例でした。

そこで私が、「もしそのコピーが映像に合わなければどうするの?」と尋ねますと、彼はそんなこと当り前じゃないかという顔をして「だから合うやつをその場で僕が書くんです」と答えたものでした。それを平然と言える彼の自信と仕事に対する彼の誠実さにこれほど打たれたことはありません。

また思い出すのは、私がサラリマン街道から突如放り出され路頭に迷っていた折のことです。いちはやく手を差し伸べ、「広告料金定価表」なる分厚い請求金額の相場を記した本を手渡して、ともかく中年広告売文業者として身を立てるよう「実務的に」促してくれたのも彼でした。その日から一〇年に近い歳月が流れましたが、彼と最後にパスタ屋で会った日の励ましの声は、今も耳朶の底に残っています。

ありがとう。そしてさようなら眞木準


ありがとうそしてさよならと言いつつわれら別れゆくなり 茫洋

Saturday, June 27, 2009

続々 拝啓鎌倉市長殿

バガテルop103

 
「朝夷奈切通における自転車通行問題」について3度目の市長への手紙を書きました。最新の回答と要望書はずっと後ろのほうにあります。

○5月14日付要望

時下貴職ますますご健勝のこことお喜び申し上げます。  さて小生は市内に居住する者です。毎日のように朝比奈峠から熊野神社、果樹園に至るハイキングコースを散歩しているのですが、最近よくマウンテンバイクに乗った人たちと出くわすようになりました。  ただでさえ狭くてすれ違うことさえ難しい山道を、彼らは勢い良く「落下」してくるので危なくて仕方ありません。それでなくても高低差のある昔の「獣道」です。山道の上の方からそろそろ降りてこようとしても、自重でブレーキが利かないために「落下」状態になるのです。ケガこそしませんでしたが幾度となく「あわや」という危険に遭遇したのは小生だけではないでしょう。シルバーガイド協会の人たちもそんな危ない目に遭われているのではないでしょうか。  そもそもここは徒歩専用のハイキングコースであり、自動車、オートバイ、自転車などは乗り入れ禁止のはずです。重大な事故を未然に防ぐためにも、この際、朝比奈切通しのみならず、「市内のすべての切通しとハイキングコースにおける2輪・4輪車の全面乗り入れ禁止」を周知徹底していただきたいと思います。

あまでうす茫洋敬白

○5月28日付回答

明るく住みよい鎌倉をつくるため、いつもあたたかいお力添えをいただき厚くお礼申し上げます。 あまでうす様からお寄せいただきましたご要望につきまして、次のとおりお答えいたします。 鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。いずれのコースにつきましても、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。ご指摘の箇所は、本市で紹介しているハイキングコースではありません。朝夷奈切通は、国の史跡に指定されており、現在4輪の乗り入れを規制しています。しかしながら、一部生活道路として利用されていることから、自転車の乗り入れは規制しておりませんが、横浜市側に「自転車・バイクの通行は止めて下さい」と標記された看板がありますので、今後は、鎌倉市側にも同様の立て看板を設置したいと考えております。 切通のなかには、市街化が進み朝夷奈切通や亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道路の一部となっているものもあり、市内全ての切通を2輪及び4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありませんので、ご理解をお願い申しあげます。                平成21年 5月28日 鎌倉市長 石渡德一


○6月5日付再要望

早速の回答ありがとうございました。朝夷奈切通に立て看板を設置して頂けるとのこと、大歓迎です。周辺の環境整備のためにおおいに役立つと思います。しかしながら今回頂戴したコメントのなかに一部理解・納得できない部分がありますので、再度質問と要望をさせていただきたいと存じます。

>鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。いずれのコースにつきましても、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。ご指摘の箇所は、本市で紹介しているハイキングコースではありません。

要望その1
市がどこのハイキングコースを外部に紹介されてもそれは結構なのですが、実際には年間2000万人を超える観光客のおよそ半分が「市内全域のハイキング可能路」や7つの切通をどんどん歩いています。それらの人々の安全と安心のために自転車の交通を禁止してほしいというのが私の提案の趣旨です。いっきに即時全面禁止が難しいとしても、できる箇所から段階的に禁止すべきではないでしょうか。

>朝夷奈切通は、国の史跡に指定されており、現在4輪の乗り入れを規制しています。しかしながら、一部生活道路として利用されていることから、自転車の乗り入れは規制しておりませんが、横浜市側に「自転車・バイクの通行は止めて下さい」と標記された看板がありますので、今後は、鎌倉市側にも同様の立て看板を設置したいと考えております。

要望その2
私は毎日のように朝夷奈切通を散歩していますが、「三郎の滝」から横浜市との峠境に至る朝夷奈切通は、もっぱら観光客のハイキングコースであり、現在「生活道路」としては使用されていません。観光客以外で通行する人は(私が知る限り)存在しません。
「三郎の滝」の右側の十二所果樹園に至る道は風致地区であるにもかかわらずいくつかの土建業者や建築家があいかわらず不法占拠してモノ置き場にしたり農作業を行ったり、モノを燃やしたり、歩行者を顧みない危険な車両運転を繰り返していますが、まさかこの状態を「生活道路」と表現されているのではないでしょうね。
私は十二所果樹園へ安全な歩行を阻害し、周辺の事前環境破壊している彼らは一日も退去し、この際この道を「生活道路」であるという認識を改めて頂くとともに、2輪・4輪の交通も禁止するべきであると考えます。

>切通のなかには、市街化が進み朝夷奈切通や亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道路の一部となっているものもあり、市内全ての切通を2輪及び4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありませんので、ご理解をお願い申しあげます。

要望その3
もとより理解するのにやぶさかではありません。しかし実際にその実情はどうなっているのかご存知ですか? 2輪及び4輪が我が物顔に走り回り、私が前回の投書で述べたような危険がどの切通やハイキングコースでどれくらいあるのか。まずはその実態を歩行者、観光客の身になって調査、観察、把握するべきではないでしょうか。しかるのちに即時全面禁止が無理だとしても可及的速やかに禁止や制限措置をとるべきではないでしょうか。

これらの切通は昔は生活道路でしたが、現在では豊かな自然に恵まれた歴史遺産であり国の指定史跡になっている箇所もたくさんあります。確かに一部が生活道路になっているケースもありますが、それは市や貴職が一部の住民の開発を是認して、自然と環境の破壊に手を貸した結果でもあります。
いっぽうでは市街化や生活道路化に積極的に加担しておいて、他方では環境保全やユネスコの世界遺産指定をめざすという貴殿の政策に大きな矛盾を感じるのは私だけでしょうか。まずは地道な市民・観光客の足元の安全対策が肝要と考えます。

あまでうす茫洋敬白

○6月18日付回答
 あまでうす様からお寄せいただきましたご要望につきまして、次のとおりお答えいたします。 鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。この3コースについては、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。 また、上記のハイキングコースについては、定期的にパトロールしており、車両の乗り入れは確認されていませんが、パトロール中に車両の乗り入れがあった場合には、指導してまいります。 次に、十二所果樹園に至る道は、市道(幅1.29~2.42m)と私有地が混在し、その市道は、途中で終点になり、そこから果樹園までは、私道になります。したがって、市で通行の制限を行うことができません。 切通につきましては、国指定史跡の6切通(朝夷奈切通、亀ヶ谷坂、巨福呂坂、仮粧坂、大仏切通、名越切通)の大部分は2輪・4輪の通行ができない状況ですが、前回ご説明させていただいた通り、切通のなかには市街化が進み、亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道となっているものですので、これらの切通全ての2輪・4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありません。 あまでうす様からいただきましたご要望につきましては、今後の市政の参考とさせていただきますので、ご理解のほどよろしくお願い申しあげます。           平成21年6月18日  鎌倉市長   石渡徳一

○6月28日付要望

拝啓鎌倉市長どの

どうも回答が典型的な役人風でいまいち要領を得ませんね。朝夷奈切通に絞って再度質問いたします。

この切通では特に土日と休日に自転車が我が物顔に走り回るので歩行者が常に傷害の危険にさらされています。そこで私は
1)まずその実態について至急調査を行ったうえで、
2)(4輪とオートバイのみならず)自転車の運転を禁止してほしい

のです。

この措置はこの道が市道であろうが国県道であろうがけもの道であろうが可能なはずです。なぜならここは国が指定する歴史的景観保全地区であり、市が希望しているユネスコの世界遺産登録指定区域であって住民や観光客の歩行の安全を守る義務があるからです。


あまでうす茫洋敬白


♪わが腕を蟻が這う諦観とリリシズム捨てがたし 茫洋

Friday, June 26, 2009

新聞広告の中身

茫洋広告戯評第8回

 朝日新聞に掲載される週刊誌の広告のなかには、しばしば朝日新聞本紙の記事の内容や会社の姿勢を非難攻撃するのみならず、誹謗中傷する見出しがデカデカと躍っています。けれどもこの新聞社は平然とこれらの広告を掲載してなんの反論や発言もしない。まるで彼らの不当な言い分をなかば肯定したかのような印象を受けることがあります。

寛容と忍耐にも限度があります。記事内容に反対する広告を差し止めれば表現の自由を抑圧することになりますが、その内容が事実無根であったり、いわれなき誹謗中傷のたぐいであれば、ただちに突き返すなり、修正させるべきでしょう。かつてバーンスタインが、グールドの演奏速度に妥協して録音したとレコードジャケットに断り書きを入れたように。

それともこの新聞社は非常にお金に困っていて、どんな陋劣なスポンサーの広告でも喉から手が出るほどほしいのでしょうか。

海を越え海に沈みし若者の瞳彩るジャガランダの花 茫洋


◎おすすめ展覧会→http://www.misakoandrosen.com/exhibitions/09/06/

Thursday, June 25, 2009

優れたサントリーの広告

茫洋広告戯評第7回

昔からサントリーという会社はCMが上手でしたが、最近は「ボス」の宇宙人ジョーンズ、「ウーロン茶」などをのぞいてかなりクリエイティブのレベルが下がっていたと思います。おそらくは会社か社長の方針が営業至上主義になってクリエーターに対してさまざまな圧力が加えられた結果、遊びの精神が枯渇してしまったのではないでしょうか。

と思っていましたら、久しぶりにこれは傑作という広告が登場しました。「いやなことはお茶に流そう」というお茶の新製品の広告です。これはもちろん「嫌なことは水に流そう」のもじりですが、単にそういう語呂合わせやパロディの領域を超えていまの生きづらい世相をさらりと無化しようと試み、ほんの一時ではあるけれど、それに成功している点が尊い。なまなかにお茶に濁したり茶化せない骨太の主張と堂々たる風格さえ備えた、さすがはサントリー、流の広告であると思います。

こんなコピーは昨日や今日のポット出には絶対に書けません。海千山千のてだれの筆のすさびでありましょう。これと同時期に「同じ水で生きている」という南アルプスの天然水の広告も出ましたが、こちらのほうはいまいち、いま2.しかしライバルのキリン生茶の「買ったら読み取るのちゃ」という広告のレベルの低さに比べれば、両社の志の高低はあきらかでしょう。

もうひとつはサンアドの葛西薫さんのディレクション、安藤隆さんのコピー「君と百まで」によるおなじみのウーロン茶の広告です。母と娘、そして茶を入れた2つのグラスをバックに、この珠玉のような、あるいは血と汗の結晶であるこのコピーが、ただそっと並んでいるだけの地味な広告ですが、眺めているうちにまたしてもかすかに涙腺がゆるむのを覚えるのは、このゴールデンコンビの手練の仕業に違いありません。


♪南洋の桜といわれしジャカランダ桜に勝り毅然と咲きおり 茫洋

Wednesday, June 24, 2009

網野善彦著作集第8巻「中世の民衆像」を読んで

照る日曇る日第266回

昨日正宗について少し触れましたが、おそらく彼も回船鋳物師と呼ばれる中世前期の代表的な職人であり、一流の刀鍛冶として鍋・釜・鍬・鋤などの鋳物師ともども、畿内を起点に瀬戸内海を経て九州、あるいは山陰・北陸に回り、琵琶湖を経て淀川に入る広大な水域を遍歴していたのでしょう。
しかし頼朝による鎌倉幕府の成立がこうした遍歴自由民の活動を制限するようになった結果、中世後期に入ってようやく定住民となって一族が鎌倉に定着したのではないでしょうか。

中世前期までは神や仏や天皇に直属する神人、寄人や道々の職人、楽人、舞人、陰陽師、医師、相撲、呪師、傀儡子、芸能人は特別な技能を持つ「聖なる存在」としてあがめられ、税を免除されて諸国を遍歴しつつ一定の自由を獲得していました。
しかし彼らは幕府や権力者によって威圧され、「悪党」とも呼ばれたある種の呪術性を喪失していくのですが、次第に勢いを失っていくこの「古くて聖なるパワー」を新たな宗教の中に生かそうとして次々に立ちあがったのが鎌倉新宗教の創設者でした。これこそが法然、親鸞、道元、一遍、日蓮たちを突き動かしていたおどろおどろしい情念だったのでしょう。

 当時は貴族と悪党どもにも多くの接点があり、たとえば後伏見天皇の妃であった広義門院が1311年に女児を出産した際には、なぜか巫女や双六打ち(博打)が産室のそば近くに待機し、その「芸能」を通じて悪霊退散の祈願を行っているのです。
いよいよその時が近づくと亀山法皇が院を背後から抱きかかえ、土器を女房たちが割り、博打が双六で戦っている出産現場には大量の「うぶすな」が撒かれたそうです。

また興味深いことに、中世前期には多くの宋人=唐人などの異民族が、さきほど例にあげた「職人」という身分と特権を持ち、国内を自由に移動しながら石工、薬売り、飴売り、櫛売りなどの商業活動に従事していました。
鎖国をしていたはずの江戸時代もそうでしたが、これは権力者の規制がどうであろうとアジアの民衆はいつの時代もたえざる交流を続けていたよい例証ではないでしょうか。
以上網野善彦著作集第8巻「中世の民衆像」より自由に引用しながら書き記しました。

健ちゃんが帰ってきたようれぴいな 茫洋

Tuesday, June 23, 2009

本覚寺を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第195回

鎌倉駅からほど近いこのお寺は、もとは源頼朝が幕府の守り神として建立し、天台宗系の夷堂があったのですが、永亭8年1436年に日出が日蓮宗のお寺として再建しました。2代目住持の日朝はのちに身延山久遠寺の住持になったとき、そこにあった日蓮の遺骨をこのお寺に分骨したので、本覚寺はそれから「東身延」とも呼ばれるようになった、と「鎌倉の寺小事典」には記してあります。

 またその日朝が魔の病気を患った時、法華経とみずからの治癒力で治ったという言い伝えがあるこのお寺は、「日朝さん」と親しまれ、眼病、縁結び、商売繁盛に霊験あらたかとされて人気があるそうです。
さらには、松平定信の直筆による「東身延」の額も残っているそうですが、いったいどこにあるのやら。今度行った時によく調べてみましょう。

私が個人的にいちばん興味をひかれるのは、このお寺の墓地に刀工正宗が葬られていること。正宗は、鎌倉時代に当地にあって「相州伝」という特徴を備えた数々の芸術的な名刀を鍛えただけではなく、幾多の弟子として育て上げたことであまねく知られていますが、その名人がこんなお寺に眠っているとは。

ちなみに鎌倉には正宗の子孫と称する日本刀の刀匠が現在も小町の街中で活動中(太刀を打つ現場を観察することもできる)ですし、置石や長谷の商店街には数多くの刀商が営業しています。

    ♪ミラノスカラ座より帰国せしや平成正宗後継者 茫洋

Monday, June 22, 2009

アーサー・ペン監督の「アリスのレストラン」を見て

アーサー・ペン監督の「アリスのレストラン」を見て

闇にまぎれて bowyow cine-archives vol. 5 

原作と主演はフォーク歌手のアーロ・ガスリー。彼のヒット曲Alice's Restaurant Massacreを題材にしてアーサー・ペンが二度と帰らぬ青春の想い出を歌いあげました。

ギター、ハモニカ、バンジョー、フォークミュージック、マリファナ、ダンス、セックス、オートバイ、キリスト教会……、ベトナム戦争に行きたくないフォーク音楽好きの長髪のアメリカの青年が振り返る60年代には、やはり現代とは違う風が吹いていました。

それを自由と放浪への誘いの風と呼ぶか、法と秩序を揺さぶる不埒で放恣な逸脱の邪風と舌打ちするかは、人がこの時代をどのように生きたかによって受け止め方が違うでしょう。しかし若者を名状しがたい不安と理由もない希望に駆り立てる荒々しい風が全世界でふきつのっていましたが、この映画の中ではまぎれもなくその風が吹いていることをあれから40年以上経つのにまざまざと感じ取ることができます。

この政治的対決の時代の疾風怒涛の狂乱のさなかにあって、主人公を支えているのは心を許した女性アリスやヒッピー仲間たち、そして折にふれて彼が奏でるギターの音色です。とりわけアーロ・ガスリーとピートシガーがガスリーの父親が入院しているニューヨークの病院でハモる「♪自動車で行こう」の楽しさをなににたとえればいいのでしょうか。

この音楽とこの音楽に聴きほれるガスリーの両親の笑顔の中にこの映画の最上のシーンがあります。たとえラストシーンの編集に奇妙な躊躇と失敗があるとはいえ。

茫洋広告戯評第6回

茫洋広告戯評第6回


いよいよ裁判員制度が開始されました。法務省や最高裁の裁判員制度キャンペーンも最近はかなり円熟の度を深め、当初の堅苦しさがいくぶん和らいできたような印象を受けます。

いずれにしても行政、立法のみならず司法制度にも平成平民が直接参加して自由に意見を述べ、その意思を反映できることはまことに慶賀に堪えません。専門バカとはよく言ったもので、一握りのテクノクラートによってその運用が独占された機構は、とかく制度疲労を起こして機能が形骸化し、平民の意志とは遊離していく危険性があります。

この際できることなら裁判員だけでなくて検察員制度を新設し、専門家のみならず平民の声が直接検察活動に反映されるべきではないでしょうか。平民の平民による平民運動とは民衆の直接民主主義の運動で、歴史的には南北朝以降近世近代の天皇制国家の権力の肥大化の流れに呑み込まれてしまった平民共同体自己統治権の奪還を意味しますが、これらを中世末期の始原期に遡って回復しようとする衝動は、平民自身の直接参加による軍隊の創設にまで行き着くべき性格のものではないでしょうか。


コラボとはナチ協力者のことなりコラボといわずコラボレーションと言え 茫洋

Saturday, June 20, 2009

アルベルト・モラヴィア著「軽蔑」を読んで

照る日曇る日第267回

男のさすらいの人生の頼りの綱は女性です。もしも愛する女性に軽蔑されたら、男なんてどうやって生きていったらよいのか途方にくれてしまうでしょう。漂流しながらおんおん泣いて、ついでに海に飛び込んで死んでしまうしかないでしょう。これがこの小説の主題です。おそらくモラヴィアの実際の体験と女性観がこのテーマに色濃く反映されていることは間違いありません。


しかしこの軽蔑はいつ、どこから女の心の中にやってきたのか。それがいまひとつ最後まで読者にはよくわからない。というのは男自身もよくわからないからで、主人公がわからないのは作者がわからないからで、モラヴィアは別れた元女房の謎をわかろうとしてこの心理思弁小説を書いたのですが、苦労して書いてみても結局はよくわからなかったのではないでしょうか。

モラヴィアは仕方なくホメロスの「オデッセイア」におけるオデッセウスとペネロペの関係をフロイト的に論じ、この単純明快な問題をペダンチックに取り扱おうとします。つまりペネロペに言い寄る男たちに寛容な態度を示したオデッセウスをペネロペは軽蔑していて、それが嫌さに7年もの間故郷イタケに寄り付かなかった。夫が妻の愛を取り戻せたのは求婚者どもをオデッセウスが皆殺しにしたからだ、などと唱えるのですが、こういう暴力をこの小説の主人公が振るえるくらいなら、そもそもこんな哀れな境遇に陥っているはずもないのです。

実は主人公があまりにも草食系のインテリゲンちゃんであるために優柔不断過ぎて、妻の危機を体育会系の男からちゃんと守ってやらなかった、というよくあるとってつけたような解説も飛び出てくるのですが、どうもそれだけでは説明できない事情がどこの夫婦にもあるのです。ともかくこの小説の無残な失敗は、最後のおちの付け方を見れば一目瞭然でしょう。

なおこのモラヴィアの原作を、ゴダールがおなじタイトルの映画にしています。悩める脚本家にはミシェル・ピッコリ、辣腕プロデューサーにゴリラ男のジャック・パランス、フロイト流の「オデッセイア」を論じる映画監督には名匠フリッツ・ラング、そして単純な精神と見事な肉体の持ち主であるヒロインにはブリジット・バルドー、という豪華なキャステイング、それにカプリ島の風光明媚をあざやかに駆使して、彼一流のわかったようでわからない演出を繰り広げているのですが、これこそモラヴィアの世界にもっともふさわしい「絵解き紙芝居」だったかもしれません。


親しめば親しむほど洞窟の謎は深まる  茫洋

Friday, June 19, 2009

ミルチャ・エルアーデ著「マイトレイ」を読んで

照る日曇る日第265回

これは、ルーマニア生まれの宗教学者ミルチャ・エルアーデが、若き日にインドを訪れたときの体験を赤裸々につづった大恋愛小説です。イタリア・ルネサンス哲学の研究のためにインドを訪れた作者は、インド各地を旅行し、タゴールに会い、タントラ・ヨーガにのめりこみますが、それ以上に漆黒の肌の魅惑のベンガル女性マイトレイとの運命的な恋に遭遇します。

大きく黒い眼、厚い唇、熟れた乳房、褐色の肌……はじめはむしろ醜いとすら思えた異貌の異性にふとしたはずみに惹かれ、思いがけない深みにはまる体験は多くの方々がお持ちでしょうが、エルアーデの場合はそれがいちおう文化的に先進国であると自他ともに考えていた白哲の欧州男と亜細亜的後進周縁国の僻地に住む異文化の女性という異色の組み合わせでした。

衣食住も思想も風土も風習も宗教もすべてが面白いくらいに異なる2人が、おそらくはその違いゆえにどんどん惹かれあっていき、周囲の懸念や反発をものともせずに愛し合うありさまはよくあるタイプの初恋物語ではありますが、その文章がおそろしく事実に忠実に、青春の情熱と愉楽の限りを刻印しているために読者はぐんぐん引き込まれて、あれよあれよという間に、お決まりの悲劇的なラストまで付き合わされてしまいます。

21歳と17歳の若者の激烈な恋愛とその蹉跌が主人公たちのその後の生涯にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。燃えるような、狂うような恋をした2人は、それから43年の後に1973年シカゴで再会したそうですが、いったいそこでどのような対話が交わされたのでしょうか。エルアーデが1933年に書いた本書に応えるように、マイトレイは1976年に「愛は死なず」を世に出したと聞くと、こちらもあわせて読み比べてみたくなりますね。

♪ひとたびは燃えつき果てた恋なれど43年目に燃え上がるかな 茫洋

Thursday, June 18, 2009

青木美智男著「日本文化の原型」(小学館日本の歴史別巻)を読んで

照る日曇る日第264回

日本文化の原型は普通は室町時代にできたと考えられているようですが、著者はそれを江戸時代に求めて、民衆の視座から見た文化、とりわけ衣食住の基礎の確立のありようを事実に即して、生活の現場に即して、実態的に見定めています。高踏的な歴史叙述を避けて下から目線の文化史に挑戦した意欲はおおいに買えます。

たとえば食の革命はまさしく江戸時代になされました。醤油、清酒、出汁が発明され、庶民の食生活は一挙に味わい豊かなものになったのです。味醂は江戸時代は女性の飲み物で、これが調味料になったのは幕末になってからだと著者はいいます。

江戸時代の酢は主に相州中原(平塚市)で生産され、これが中原街道経由で江戸城に運ばれていたそうですが、江戸後期になると料理以外の需要、すなわち友禅染という絢爛豪華な絹の衣服が登場したために大量生産されるようになったそうです。酢には酢酸が3割ほど含まれており、これが友禅染の染色過程の定着剤として流用されたというのは初めて聞く話でした。絹の染色をいっそう効果的にするために出羽村山特産の紅花や阿波藍なども増産されることになりました。

わが国では平安・鎌倉・室町・戦国時代まで庶民の大半の衣服は苧麻(ちょま)でしたが、これは栽培から織り上げまでには大変な時間と手間を要し、そのために鎌倉・室町の女性は農耕に従事する余裕がなかったほどでした。そこへ登場したのが着心地も耐用性も汎用性も抜群の木綿です。戦国時代には兵衣、火縄などの軍事用に使われていたものが江戸時代に入ると急速に普及して大衆衣料の主流になりました。新品が不足したために全国に巨大な中古市場が形成され、幕府は大伝馬町の木綿問屋に独占販売権を与えて統制を図りました。幕府は武士には絹、農工商には木綿という繊維格差を押し付けることによって身分制度を固定化しようと企んだのです。

いっぽう最高級の絹織物、西陣織で身体を華美に彩ることは権力者やセレブ階級の最大の願望であり、ステータス・シンボルでありました。江戸初期の幕府は生野、石見の銀山や佐渡の金山で採掘された金や銀を代償にして中国やベトナム産の膨大な生糸や絹を買い付けた結果、かつての黄金の国ジパングはたちまち瓦礫の列島に変身してしまいました。

仕方なく幕府は銅や伊万里焼を輸出するとともに、正徳3年1713年、国内における絹生産体制の早期確立をめざすことになります。そしてその結果、信濃、上野桐生、下野足利、陸奥信夫・伊達など各地で西陣織のノウハウを移植した絹織物の産地が呱々の声を上げ、私の郷里に近い丹後半島の与謝郡でもあの有名な丹後縮緬が誕生したのです。

以上のように、ちょっとしたさわりだけでも、とても為になる1冊です。

金の部屋大判小判を懐に金襴緞子でくたばりし奴 茫洋

Wednesday, June 17, 2009

「岩船地蔵堂」を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第194回


亀が谷切通を下った扇が谷の辻にぽつんと立っているのがこの地蔵堂です。ここに祀られているのは源頼朝・政子の長女大姫の持仏と伝えられています。

大姫は政略結婚で木曽義仲の息子義高と結ばれ、相思相愛の仲だったのですが、源氏同士の勢力争いがはじまって義高は頼朝の命で暗殺され、(政子はそのことに激しく怒ったと「吾妻鏡」に出ています)、愛する夫を奪われた大姫は、哀れにも強度のノイローゼに罹ってしまいます。

娘の愛を引き裂いた張本人の頼朝・政子夫妻は、大姫の回復を念じて夜な夜な浄妙寺の杉本観音から逗子の岩殿寺までの巡礼古道をたどってお百度を踏んだ、といい伝えられています。その由緒ある歴史街道を山ごとブルドーザーで引き裂いて「鎌倉逗子ハイランド」なる高級住宅街をつくって売り出したのが西武堤資本です。

大姫はその病気を案じた畠山重忠の屋敷(現在の八幡宮の東端)で療養したり、義経の愛妾静御前をいたわったりしていましたが、とうとうわずか20歳で窮死してしまいました。昔の岩船地蔵堂は木造のぼろぼろの状態で、それが薄幸の身の上の女性にふさわしい一種の物凄く、荒涼とした感じを界隈に漂わせていたのですが、いつのまにかモダーンな感じに再建されてしまいました。

余談ながらこの近所には島木健作や小林秀雄、里見弴などが住んでいて亀が谷切通の坂上にあった鉱泉に浸かっていたようです。鎌倉に温泉は珍しいのですが、私が住んでいる十二所にもぬるい天然の湯が沸いているところがあります。


    凶悪な政治の毒に窮したる二十歳の恋ははかなく散りて 茫洋

Tuesday, June 16, 2009

海蔵寺の「底脱の井」を覗く

鎌倉ちょっと不思議な物語第193回

幸いにも観光客があまり訪れない海蔵寺ですが、その閑寂な趣をさらに情趣豊かにしているのが寺院の外の2つの井戸です。

まずお寺の入口の右側に「鎌倉十井」のひとつである「底脱の井」と明治二七年五月に建立された歌碑があります。

千代能がいただく桶の底ぬけて水たまらねば月もやどらず

 この歌の作者は霜月騒動で惨殺された悲劇の武将安達泰盛の娘で無着如大という尼僧ですが、俗名を賢子、幼名を千代能といました。彼女は早くに夫に先立たれたので京の東福寺で修行を積んで「法は如大一人にて足りる」と称されるほどの大知識になりました。
彼女は素晴らしい美貌の持ち主でした。この海蔵寺の仏光国師に師事しようとしたとき、僧の修行の妨げになると断られた彼女は傍らにあった焼き鏝をその美しい顔に押し当ててやけどの傷をつくり、やっと弟子入りを許されたそうです。

そんな彼女がある日夕食のために水を汲んでいたのが、この「底脱の井」でした。突然桶の底が抜けてしまった瞬間長年の心の煩悶が一気に氷解し、そのときに詠んだのがこの歌だといわれています。

もうひとつは薬師堂の裏側の山腹にあるやぐらの中に16の穴が掘られた「十六ノ井」ですが、現在もきれいな水が湧いています。

以上は鎌倉文学館の資料をもとにリライトしました。


谷川さんの下手くそな詩を読んでいると自分も書こうという気持ちが起こってくる 茫洋

Monday, June 15, 2009

扇ヶ谷に海蔵寺を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第192回

扇ヶ谷のどんづまりにある瀟洒なお寺が海蔵寺です。このお寺は四季折々にさまざまな山野草が咲く鎌倉随一の花の寺として有名です。

海蔵寺は応栄元年1394年に鎌倉公方足利氏満の命を受けて、元は真言宗の寺があった跡に上杉氏定が再建しました。開山は謡曲「殺生石」で知られる心昭空外(源翁禅師)です。本殿も立派ですが、古雅な趣を湛えているのが薬師堂で、ここには胎内仏をおさめた薬師如来、別名啼薬師、児護薬師が安置されています。

ある日のこと、寺の裏から赤ん坊の泣き声がするので源翁禅師が声の主を探すと金色と甘い香りが漂う古いお墓がありました。そこで禅師が経を唱えながら掘ってみると、現れ出たのがこの薬師像だった、という言い伝えがあります。ただし胎内仏を拝めるのは61年毎とされているそうです。

それから謡曲「殺生石」では白狐のたたりで殺生をひきおこす石を源翁禅師がえいやっと杖で打ち砕きますが、かなづちを別名「げんのう」と呼ぶのはこの故事から来ているそうです。また江戸時代に建てられた茅葺の庫裏は歴史的な価値が高く、本殿の奥にある心字池と庭園の美しさとともに捨てがたいものがあります。

以上は「鎌倉の寺」(かまくら春秋社)から勝手に引用しました。


玄関に片っぽうだけ転がっている妻の黒い靴 茫洋

Sunday, June 14, 2009

阿仏尼の墓を訪ねて

                  
鎌倉ちょっと不思議な物語第191回


夜もすがら涙もふみもかきあえず磯越す浪にひとり起きゐて

これは鎌倉時代に「十六夜日記」を書いた阿仏尼の歌ですが、私たちの時代ときわめて似通った近代的な心の動きを感じ取ることができます。

阿仏尼は夫が遺してくれた荘園の権利を求めて幕府に直訴するために、おんなひとりではるばる京から鎌倉まで下向してきます。そして以前このシリーズでもご紹介したように、極楽寺の近くの月影の谷で生活しながら、おりふし海岸に打ち寄せる波の音や松に吹き寄せる風の音に耳を傾けながら都の知人に文を送り、いっこうにはかどらない訴訟の進行に耐え忍んでいたのでしょう。

そんな阿仏尼の墓が極楽寺から遠く離れた英勝寺(ここはあの山吹の歌で有名な太田道灌邸であり現在は鎌倉唯一の尼寺)の傍らにあるのは意外な気もしますが、彼女の息子冷泉為相の墓がここからほど近い浄光明寺の山頂にあることを考えれば、もしかすると江戸時代に建立された現在の英勝寺の場所に、かつては別の寺院が建てられていて、阿仏尼はその晩年をそこで過ごして葬られたのではないでしょうか。

そう考えてわが枕頭の書「鎌倉廃寺事典」をおそるおそる開いてみますと現在の英勝寺の元は智岸寺であり、やはり尼寺であったと記されています。「鎌倉志」にも「智岸寺谷は英勝寺の境内なり」とあり、「古は寺ありけれども頽敗せり。近比まで地蔵堂のみありしが是も今はなし」と述べられています。そして智岸寺はかつては尼寺、駆け込み寺として知られていた東慶寺の隠居寺的役割を果たしていたそうなので、阿仏尼が浄光明寺ではなく智岸寺でその寂しい生涯を終えた可能性はかなりたかそうです。

ちなみに地蔵堂に祀られていた地蔵菩薩は1684年当時すでに鶴岡八幡宮僧坊正覚院にあり、その後瑞泉寺に移ったことが確認されているので、私たちは瑞泉寺に行けば阿仏尼が拝んだ尊像に対面できるというわけです。

 
♪またしても「スイカ」の種は尽きにけり働き悪く金のなき日に 茫洋

Saturday, June 13, 2009

続 村上春樹著「1Q84」を読んで

照る日曇る日第263回


村上春樹がこの小説で描こうとしたのは、リトル・ピープルによって代表される眼には見えない陰険で邪悪な敵意、世界全体を覆う殺意と反感と無関心、冷酷なニヒリズムと問答無用の暴力の氾濫、狂信と原理主義の愚かさではないでしょうか。

そのために作者は、言葉という小さなチップを丁寧に並べて、壮大なドミノのタペストリーを編みました。言葉という砕片をひとつひとつ積み上げて、目のくらむような高さの虚構の大伽藍を構築しました。ほんの一押しで跡形もなく崩壊してしまう幻影の城を……。

これらは作者のおおぼら吹き、嘘八百の口から出まかせ、すなわち文学上のフィクションとは到底思えず、西欧のゴシック大聖堂に匹敵する精緻さと実在性を獲得するに至っており、作者の企画構想力と文章修飾力の膂力のほどをまざまざと示しています。とりわけ素晴らしいのは「王」と青豆との対決シーンで、その息をのむ展開はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」の残照すら感じさせる白熱に燦然と輝いています。このくだりはかつてこの作者によって書かれた最良の数ページではないでしょうか。

この作家特有の細部の研磨、それからチェホフの「樺太物語」やそこに棲むギリヤーク人などの逸話に垣間見られる卓抜なユーモアとウイットも相変わらず健在で、私たち読者は、モノガタリの骨太のコンテキストから自由に逸脱して、心楽しい文学散歩を楽しむことが許されています。作者の空想と創造の一大所産であるスケルトンが時々念力不足で空中分解する懸念があることを思えば、本書の最大の魅力はむしろリフィルのディテールの充実にこそあるのかもしれません。

ところで、リトル・ピープルはジョージ・オウエルによって描かれたビッグブラザーを思わせるいわば「悪い存在」ですが、しかし彼らは本当に最後の最後まで悪役を務め、世界市民に害悪を及ぼし続けるのでしょうか。

その答えはイエスでもあればノーでもあるでしょう。なぜならリトル・ピープルとは、実は私たちの魂の奥底に潜む悪魔そのものだからなのです。私たちの内面ではリトル・ピープルとその反対勢力が絶えることなく食うか食われるかの闘争を繰り広げています。そして私たちの「内なる善」が「内なる悪」との戦いに敗北するとき、悪はますます増長して私たちの外部世界に躍り出て、百鬼夜行の大活躍を開始するでしょう。9・11以降その傾向はまさしくパンデミックなものとなりました。

私たちの内部分裂と内部での孤立無援の戦いは、同時に世界の分裂と戦いをもたらします。古くて新しい「万人の万人に対する闘争」の再開です。わが魂の骨肉の敵を私たち自身が退治しない限り、人間界も世界も、いずれは崩壊するのではないだろうか? 村上春樹はそんな焦燥に駆られてこの絶望と希望のメーセージを綴ったのではないでしょうか。

やがて善悪の相克はかろうじて相対化され、宇宙の彼方から聖なる声が朗々と高鳴る日が来るでしょう。「善から悪へ、悪から善へと御身らの輪廻は転生すべし。」
上下2巻1000頁を超えるこの長編小説を繰る中で、私がもっとも感嘆したのは、作者が引用している「平家物語」の「壇ノ浦の合戦」の朗読シーンでしたが、この小説の深部でひそかに唱えられているのは諸行無常の念仏なのかもしれません。 

万人の万人に対する戦いとく鎮まれと作家は祈る 茫洋

絶対の善や悪は存在せずわれらの輪廻は転生す 茫洋
 

Friday, June 12, 2009

村上春樹の「1Q84」を読んで

照る日曇る日第262回

この本を読み終わったあと、自転車に乗って涼しい風の吹く外に出てみました。梅雨に入ったばかりの夜空はとっぷりと暮れ深い藍色に染まっています。私は小説に何度も出てくる2つの月、大きな黄色い月と小さな緑の月を探しましたが見つかりませんでした。

白い道だけがほのかに浮かぶ真っ暗な森の道に乗り入れると、今夜もホタルが舞っていました。雌雄2匹が2個所で対になって、銀色の光を点滅させながらお互いに追尾しあって、ふわりふわりと円弧を描きます。私は思わずこの4匹は、小説の主人公ふかえりと天吾、青豆と天吾の2つのカップルの生まれ変わりではないかと思いました。

一瞬行方をくらませたホタルが黒い木陰を抜け出して空の高みに駆け上ると、そこで待ち受けていたのは鈍い銀色の光に輝く北斗七星の7つの星々でした。ホタルは空の星と混ざり合って、「あ、見えなくなった」と思ったら、もうどれがどれだか分らなくなってしまいました。無限大ほどのギャップがあるのに、同じ平面に鏤められた銀色の輝きがフラットに均一化されてしまう。そんな視覚的経験は初めてでしたが、ホタルと星は、この小説で繰り返し説かれている実際の1984年と幻視の中に実在している1Q84年の関係にとてもよく似ているような気がしました。

実際の1984年はすでに私たちが通過してきたはずの歴史的年度ですが、あますところなく経験され、生きつくされたはずの1984年には、しかし同時代の誰も知らなかった時空を超越した異次元の世界1Q84年に通じる幾つもの裂け目があり、そこには人類の平和や心の平安を脅かそうと企んでいる悪意の主リトル・ピープルたちが潜んでいます。

リトル・ピープルが支配する新興宗教団体の魔手から逃げ出してきた17歳の美少女ふかえりの体験をリライトした小説家の卵、天吾は、自らが描いた小説「空気さなぎ」の世界の内部にいつのまにか取り込まれ、天語の永遠の恋人である青豆と同様、「反世界」の地獄の底へと転落してゆきます。

スリルとサスペンス、ホラーとファンタジー、オペレッタとフィルム・ノワールを混淆させた作者の円熟した語り口は、それ自体が音楽性と朗読性に富み、この小説で引用されるヤナーチエックの「シンフォニエッタ」の譜面に勝るとも劣らぬ音楽的な演奏そのものであるといってもよいでしょう。よしやバッハの「マタイ受難曲」の深い思想性に欠けるとしても、この小説がかつて日本語で書かれたもっとも魅力的なロマンのひとつであることは間違いないでしょう。久しぶりに読書の快楽、物語の醍醐味を堪能できた1冊、いや2冊でした。


♪今宵また新たな呪文をわれに告げ北斗の星と輝く蛍 茫洋

Thursday, June 11, 2009

ジョージ・マーシャル監督「砂塵」を視聴して

闇にまぎれて bowyow cine-archives vol. 4

マレーネ・ディートリッヒとジェームズ・スチュワート主演の西部劇映画を、FM放送でシューマン、CDでブラームスのリートを聞きながら見物しました。1939年アメリカ ジョー・パスターナク・プロ制作のモノクロ映画です。


原題は「DESTRY RIDES AGAIN」。直訳すれば「ディストリーが再び馬に乗る」。ディストリーは副保安官ジェームズ・スチュワートの名前です。父をならず者に殺された息子のディストリーが、悪の巣窟と化した、とある西部の町にギター片手に、馬に乗って丸腰で乗り込みます。そしていろいろあってのちに、とうとうその張本人ブライアン・ドンレヴィを倒して、町に平和を取り戻すという、きわめてありがちなデキレース西部劇です。

はじめは顔役の手下兼情婦であり、途中から副保安官に恋してしまい善人に戻る役が美貌美脚(でもよく見ると内側に湾曲してる)のマレーネ・ディートリッヒ。フレンチーという名前ですが、英語とドイツ語を足して2で割った歌を、ときどきウインクなぞしながら上手に歌って踊ります。私が大好きなB級というよりは超C級の娯楽作です。

お楽しみは悪女マレーネ・ディートリッヒと善女の酒場での大乱闘。仲裁に入ったジェームズ・スチュワート愛用のギターをめちゃめちゃに壊してしまいます。男どもの対決を町のおかみさんたちが徒党を組んでやっつけてしまうというフィナーレも印象的です。

ところでこの映画の邦題がどうして「砂塵」となっているのでしょう。名匠ニコラス・レイ監督の西部劇「大砂塵」のパクリかと思っていたら、その通りでもあり、その逆でもありました。
実は1954年に製作され、主人公ジョニー・ギターをスタンリー・ヘイドンが演じ、ジョーン・クロフォードとマーセデス・マッキャンブリッジの女性同士が決闘する「大砂塵」(原題も「ジョニー・ギター」)は、それ自体がこの「砂塵」のパクリ、というよりは巧妙な換骨奪胎作品だったのです。

それに気づいた誰かが、本作の日本語タイトルをあえて「砂塵」としたのでしょうが、さもありなん、とはたと膝を打った次第です。

♪大船駅のさびた線路のすぐ傍に昼顔の花咲きいたり 茫洋

Wednesday, June 10, 2009

流れ出るわが涙よ

バガテルop102

以前ある若い女性が、「私のお父さんがね、娘が結婚するシーンが出てくるCMを見ていたら、もう泣いているの。いやになっちゃうわ」と語っていたのを聞いて、私は彼女の父親の気持ちがなんとなくわかるような気がしていたのですが、その私自身が最近はひどく涙もろくなりました。ちょっとしたもののはずみで涙腺が緩んで塩辛い水分がにじみでるのです。

きのうバン・クライバーン氏が主宰する米国のピアノコンクールで、中国人ピアニストと1位をわかちあった全盲の辻井伸之さんが、「一度だけ目が開くならお母さんの顔が見たい」と語った、という記事を朝日新聞の「天声人語」で読むやいなや、私の乾ききった左頬にたらーりたらりと数滴の涙がにじんでは落下するのを覚え、「これはいったいどうしたことか」といぶかしみました。ほとんど無意識かつ無自覚にそういう生理的な作用が起きたことに対して、われながら驚いたのです。

そういえば先日某アホバカテレビに出演していた某アホバカ芸能人が、「1分間で泣いて見せます」と豪語したのみならず、実際に見事その通りに泣いて見せたので、私はおおいに驚いたのですが、どうやら涙という液体は、人間が意図しても、しなくても随意にも不随意にも流出する奇妙な液体であるようです。

私自身はまだ泣いてもいないのに、脳が泣けと指令すら出していないのに、末端神経が勝手に涙を流してしまう。私の理性は、泣くべきか泣かざるべきか、もしも泣くのなら適切な排出量にせよ、事態をよーく考えてから実行せよ、と戒めているのに、安物の出来の悪い感情がこれを無視して反乱を引き起こしている。これを自己崩壊といわずになんと呼べばいいのでしょうか。

そして私は、かくも安易に流出する涙というものをけっして過大評価してはならないことを肝に銘じたのですが、それと同時にその涙の排出源となっている悲哀や同情や憐憫といった感情についてもあまり重きをおいてはいけないことを学んだのでした。癒しを求める人はきっと卑しい人間なのです。


明治通り千駄ヶ谷小学校交差点の真紅の薔薇を撮影していたり秋山庄太郎 茫洋

Tuesday, June 09, 2009

「まんだら堂跡」を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第190回

名越切通の近くにまんだら堂の旧跡がありますが、ここは最近発掘調査が行われており、残念ながら立ち入り禁止となっています。お堂の正体は不明であり、周辺には数多くのやぐらが散在しています。四季折おりの草花が咲き乱れるお花畑としても知られ、またお堂の下を走る逗子トンネルは昔からお化けの名所として有名です。

私の想像では、おそらくここは鎌倉時代の武将や貴族、僧侶などを葬った集団墓地であり、まんだら堂はそれらのエリートたちの一大葬祭センターだったのではないでしょうか。というのは私が住んでいる朝夷奈切通の麓に同じような中世墳墓葬祭場跡が存在しているからです。おそらく、異界へ通じる鎌倉の7つの切通のすべてに、共同墓地とそれに付属する葬式場があったに違いありません。

たとえば釈迦堂切通には以前ご紹介した「唐糸やぐら」と「日月やぐら」、そしてつい最近公開されたばかりの大町大やぐら群が横たわっています。また化粧坂切通には瓜ヶ谷やぐらと西瓜ヶ谷やぐら、巨福呂坂切通には浄光明寺やぐらと東林寺やぐら、そして亀ヶ谷切通には相馬師常やぐらがすぐ近くに存在しているので、私の想像もまんざらでたらめではないのではないでしょうか。

私は青いビニールシートに包まれたまんだら堂の旧跡を横目で眺めながら、私の残り少ない人生をこれらの切通周辺に必ず存在するはずの葬祭場捜索に捧げることを誓い、あわよくばそれらの墳墓の底深く埋葬されることを夢見たことでした。


♪カラスアゲハが無心に太刀洗川の水を吸うておる 茫洋

Monday, June 08, 2009

「釈迦堂切通」を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第189回

時々この空気がひんやりと行きかうおおきな洞を訪れると鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」を思い出します。あの映画は長く鎌倉に住んでいた鈴木清順によってまさにこの場所で撮影されたのですが、その鈴木氏の長谷の旧邸に私の家内が住んでいたのでなにか不思議な縁を感じるのです。

この映画の中で監督は、かつて映画を学んだ母校「鎌倉アカデミア」があった光明寺や稲村ケ崎にあった有島生馬邸でもロケを敢行していて、さながら鎌倉懐旧物語といってもよいかもしれません。

さて釈迦堂切通は釈迦堂口洞門とも呼ばれ、洞門のなかには壁を削った小さなやぐらがあり、五輪塔が祀られています。釈迦堂の名は鎌倉幕府の3代執権北条泰時が亡父義時の追善供養のためにこの谷戸に嘉禄元年1225年に釈迦堂を建立したことから名付けられたようです。しかしその釈迦堂は現存しておらず、その場所は定かではありません。しかしその本尊は東京目黒の大円寺に安置され国の重要文化財に指定されています。


以上「鎌倉ガイド協会」の資料等を参考に記しました。


♪なにゆえに発注なきや半年間紫陽花の青をじっと眺むる 茫洋
♪半年間発注のない狂おしささくらば散りてあじさいの咲く 

Sunday, June 07, 2009

「唐糸やぐら」と「日月やぐら」を訪ねて

「唐糸やぐら」と「日月やぐら」を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第188回

釈迦堂の周辺には数多くのやぐらがあります。これらは釈迦堂口やぐら群と称されていますが、その代表的なものが「唐糸やぐら」です。

唐糸の逸話は「御伽草紙」「唐糸草子」で語られているお話です。唐糸は木曾義仲の家臣手塚太郎光盛の娘で琵琶と琴の名手でしたが、義仲の命で源頼朝の命を狙おうとして失敗、とらえられて幽閉されたのがこの唐糸やぐらだと伝えられています。

これを知った唐糸の娘万寿姫は信濃から鎌倉にやってきて、母と同じように頼朝につかえます。ある日鶴岡八幡宮の舞の踊り手に選ばれた今様の名手万寿姫は見事に舞い、頼朝から賞賛されて望みのものを訊かれます。そこで頼朝に事情を打ち明け、母唐糸の釈放を願った万寿姫の願いは聞き届けられ、母子は無事に故国に戻りましたとさ。めでたし、めでたし。

もうひとつの代表作は、その近くにある「日月やぐら」で、やぐらの内部の壁面に掘られた丸い穴を日輪に、二重に掘られた穴を月輪になぞらえた絶妙なネーミングがおしゃれです。丸い穴の上には天蓋が描かれ、下には蓮座が描かれているほかにはあまり例のない珍しいやぐらとして有名ですが、この一帯は横浜の不動産屋が開発目的で買い占めているために一般に開放されていないのが残念です。

以上「鎌倉ガイド協会」の資料等を参考に記しました。


♪隠れたってすぐ分かるぞヘイケボタル今宵も8匹見つけたり 茫洋

Friday, June 05, 2009

高橋源一郎著「大人にはわからない日本文学史」を読んで

照る日曇る日第261回

文学の母は人間であり、人間が生きてきた社会ですから、その母体が地殻変動すれば文学のありかたも変わってしまいます。著者は最近のそんな文学のありようの変化を、パソコンのOSの転換にたとえて語っています。

近代小説の元祖である明治17年に刊行された円朝の「怪談牡丹灯籠」も漱石の「道草」も太宰の「津軽」も志賀の「暗夜行路」も、(一葉の「にごりえ」など数少ない例外はあっても)、「自然主義」「リアリズム」「自我の肯定と世界との闘争」「他者の不在」という牢固とした基本ソフトを駆使して書かれてきたのです。

けれども小説や芸術を取り囲む共同体の共同性自体が次第に変化した結果、このような古典的な3点セットで構成されたオペレーション・システムの耐用年数がいまや尽きかけているんだ、と著者は断言します。田山花袋が女弟子に去られてワンワン泣いたり、啄木が時代閉塞の現状を嘆いたりしたときに前提にしていた「私そのもの」の基盤である「コギト」がシロアリにやられて、いまや根こぎにされてしまったということなのでしょう。

だから見よ、最近では、小説の主体である「私」が消失してしまい、小説世界に過去も未来も、はじめもおわりもなく、ただのっぺらぼうな現在だけが即物的に描写される「非小説的小説」が登場してきたではないか、と述べて、中原昌也の「凶暴な放浪者」や前田司郎の「グレート生活アドベンチャー」のような、いまだ洛陽の紙価が定まらず、あまでうす氏などから激しく嘲笑されている作品群を俎上にのせるのです。

さうして、これらは過去の主流派OSウインドーを放棄して新しい汎用OSリナックスによって書かれた無私の小説、無意味の小説と言ってもよろしい。誰でも書けるし、どこも書き換え可能であり、まったく無意味で無価値な作品であると極言しようと思えばできるだろうが、これはもしかすると新たな共同体の登場を予感させる新たな文学のはじまりなのかもしれない。

とまでおごそかに予言されるのですが、その嘘ってほんと? 
しかし私が敬愛するほかならぬ高橋源一郎氏のおことばですから、千年経って「平成日本文学史」をえいやっと振り返ったなら「なるほどそういう事態だったんだね」、とほほえみながら総括できるかもしれませんね。もっともその頃には誰も生きてはいないけど(笑)。



   ♪大人にも本人にもよう分からん日本文学史書きたり高橋源一郎 茫洋

Thursday, June 04, 2009

続 拝啓鎌倉市長殿

バガテルop101
 
去る5月14日、私は鎌倉市長に次のような要望書を提出したところ、別記のような回答が届けられました。ある程度評価できるに内容もあったものの、納得がいかない点もあったので、再度市長への手紙を書きました。

○5月14日付要望

時下貴職ますますご健勝のこことお喜び申し上げます。  さて小生は市内に居住する者です。毎日のように朝比奈峠から熊野神社、果樹園に至るハイキングコースを散歩しているのですが、最近よくマウンテンバイクに乗った人たちと出くわすようになりました。  ただでさえ狭くてすれ違うことさえ難しい山道を、彼らは勢い良く「落下」してくるので危なくて仕方ありません。それでなくても高低差のある昔の「獣道」です。山道の上の方からそろそろ降りてこようとしても、自重でブレーキが利かないために「落下」状態になるのです。ケガこそしませんでしたが幾度となく「あわや」という危険に遭遇したのは小生だけではないでしょう。シルバーガイド協会の人たちもそんな危ない目に遭われているのではないでしょうか。  そもそもここは徒歩専用のハイキングコースであり、自動車、オートバイ、自転車などは乗り入れ禁止のはずです。重大な事故を未然に防ぐためにも、この際、朝比奈切通しのみならず、「市内のすべての切通しとハイキングコースにおける2輪・4輪車の全面乗り入れ禁止」を周知徹底していただきたいと思います。

あまでうす茫洋敬白

○5月28日付回答

明るく住みよい鎌倉をつくるため、いつもあたたかいお力添えをいただき厚くお礼申し上げます。 あまでうす様からお寄せいただきましたご要望につきまして、次のとおりお答えいたします。 鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。いずれのコースにつきましても、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。ご指摘の箇所は、本市で紹介しているハイキングコースではありません。朝夷奈切通は、国の史跡に指定されており、現在4輪の乗り入れを規制しています。しかしながら、一部生活道路として利用されていることから、自転車の乗り入れは規制しておりませんが、横浜市側に「自転車・バイクの通行は止めて下さい」と標記された看板がありますので、今後は、鎌倉市側にも同様の立て看板を設置したいと考えております。 切通のなかには、市街化が進み朝夷奈切通や亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道路の一部となっているものもあり、市内全ての切通を2輪及び4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありませんので、ご理解をお願い申しあげます。                平成21年 5月28日 鎌倉市長 石渡德一


○6月5日付再要望

早速の回答ありがとうございました。朝夷奈切通に立て看板を設置して頂けるとのこと、大歓迎です。周辺の環境整備のためにおおいに役立つと思います。しかしながら今回頂戴したコメントのなかに一部理解・納得できない部分がありますので、再度質問と要望をさせていただきたいと存じます。

>鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。いずれのコースにつきましても、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。ご指摘の箇所は、本市で紹介しているハイキングコースではありません。

要望その1
市がどこのハイキングコースを外部に紹介されてもそれは結構なのですが、実際には年間2000万人を超える観光客のおよそ半分が「市内全域のハイキング可能路」や7つの切通をどんどん歩いています。それらの人々の安全と安心のために自転車の交通を禁止してほしいというのが私の提案の趣旨です。いっきに即時全面禁止が難しいとしても、できる箇所から段階的に禁止すべきではないでしょうか。

>朝夷奈切通は、国の史跡に指定されており、現在4輪の乗り入れを規制しています。しかしながら、一部生活道路として利用されていることから、自転車の乗り入れは規制しておりませんが、横浜市側に「自転車・バイクの通行は止めて下さい」と標記された看板がありますので、今後は、鎌倉市側にも同様の立て看板を設置したいと考えております。

要望その2
私は毎日のように朝夷奈切通を散歩していますが、「三郎の滝」から横浜市との峠境に至る朝夷奈切通は、もっぱら観光客のハイキングコースであり、現在「生活道路」としては使用されていません。観光客以外で通行する人は(私が知る限り)存在しません。
「三郎の滝」の右側の十二所果樹園に至る道は風致地区であるにもかかわらずいくつかの土建業者や建築家があいかわらず不法占拠してモノ置き場にしたり農作業を行ったり、モノを燃やしたり、歩行者を顧みない危険な車両運転を繰り返していますが、まさかこの状態を「生活道路」と表現されているのではないでしょうね。
私は十二所果樹園へ安全な歩行を阻害し、周辺の事前環境破壊している彼らは一日も退去し、この際この道を「生活道路」であるという認識を改めて頂くとともに、2輪・4輪の交通も禁止するべきであると考えます。

>切通のなかには、市街化が進み朝夷奈切通や亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道路の一部となっているものもあり、市内全ての切通を2輪及び4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありませんので、ご理解をお願い申しあげます。

要望その3
もとより理解するのにやぶさかではありません。しかし実際にその実情はどうなっているのかご存知ですか? 2輪及び4輪が我が物顔に走り回り、私が前回の投書で述べたような危険がどの切通やハイキングコースでどれくらいあるのか。まずはその実態を歩行者、観光客の身になって調査、観察、把握するべきではないでしょうか。しかるのちに即時全面禁止が無理だとしても可及的速やかに禁止や制限措置をとるべきではないでしょうか。

これらの切通は昔は生活道路でしたが、現在では豊かな自然に恵まれた歴史遺産であり国の指定史跡になっている箇所もたくさんあります。確かに一部が生活道路になっているケースもありますが、それは市や貴職が一部の住民の開発を是認して、自然と環境の破壊に手を貸した結果でもあります。
いっぽうでは市街化や生活道路化に積極的に加担しておいて、他方では環境保全やユネスコの世界遺産指定をめざすという貴殿の政策に大きな矛盾を感じるのは私だけでしょうか。まずは地道な市民・観光客の足元の安全対策が肝要と考えます。

あまでうす茫洋敬白


♪当り前のことをとくとくと語る人なりき黒田恭一氏死す享年七十一 茫洋

Wednesday, June 03, 2009

公共広告機構の広告の公共性

茫洋広告戯評第5回

たとえばサントリーが「ダカラ」の広告をするのはなんの不思議はありません。だからといって同じ会社の同じブランドが、「初夜の節電お忘れなく」とか「早寝早起き3文の得」とか「贅沢は敵だ」などというCMを流し始めたら妙なものです。しかし公共広告機構というところがスポンサーになっていろいろ立派なことを説いている一連の広告は、どうもそういううろんさ、いかがわしさを内在しているのではないでしょうか。

なんでも、あのサントリーの佐治さんが、自分の企業の広告だけではなく、たまには各社が拠金して公共的な広告を作ろうではないか、と昔々に発案され、各社の賛同を得て徐々に実施されるようになったのがこの公共広告機構(AC)らしいのですが、「あんまり当たり前のことを言うなよ」、とか「いったい誰が誰に向かってそんなセリフを吐いているんだ」と思われたことはありませんか。

「さすが広告大好きなサントリーさん、拍手喝采万々歳」、という人もいるかもしれませんが、私は私企業はおのれの製品やサービスを手前勝手にPRするのが正則であって、みだりに公共的な広告などに手を染めるのは邪道だと思っています。あくなき金の亡者として更なる売上と利潤の追求に正々堂々と狂奔している企業が、その罪滅ぼしだか義狭心だか知りませんが、急に正義の味方月光仮面面をして、やれ覚せい剤に手を出すな、とか乳がん撲滅だとか貧しい子供に愛の手をとか、とってつけたような正義の味方(味方)をするのはいかがなものでしょうか。

公共広告おける公共性とはいちおう世間が現時点で相当程度支持していると想像される意見や見解に基礎をおいているのでしょうが、よくよく考えてみれば、そうした公共性の基盤は世論の動向によってたえず揺れ動いており、けっして普遍不変の真理というわけではありません。

いま「地球に優しく」とか「子供に愛の手を」などと歯の浮くような愛の言葉をアピールしている公共広告機構が、おなじ公共性の名において、アジア太平洋戦争当時のように、「鬼畜○○撃ちてし止まん燃えろペチカよ火の玉だ」などという「公狂広告」の発信源に豹変する可能性はいつでも存在しているのです。

それでもどうしても「うろんな公共広告」をやりたければ、せめて同業のお仲間とつるむのではなく、1社単独で意見広告を出すなり、ユニセフに協賛するなり、メセナ事業を本気でおやりになったらいいのではないでしょうか。

♪わが首を切りしバンカーの首を切りしそのバンカーの首を切らんとする人 茫洋

♪余を馘首せし銀行屋を馘首せし銀行屋をまた馘首せんとする鳩山総務相 茫洋

公共広告機構の広告の公共性

茫洋広告戯評第5回

たとえばサントリーが「ダカラ」の広告をするのはなんの不思議はありません。だからといって同じ会社の同じブランドが、「初夜の節電お忘れなく」とか「早寝早起き3文の得」とか「贅沢は敵だ」などというCMを流し始めたら妙なものです。しかし公共広告機構というところがスポンサーになっていろいろ立派なことを説いている一連の広告は、どうもそういううろんさ、いかがわしさを内在しているのではないでしょうか。

なんでも、あのサントリーの佐治さんが、自分の企業の広告だけではなく、たまには各社が拠金して公共的な広告を作ろうではないか、と昔々に発案され、各社の賛同を得て徐々に実施されるようになったのがこの公共広告機構(AC)らしいのですが、「あんまり当たり前のことを言うなよ」、とか「いったい誰が誰に向かってそんなセリフを吐いているんだ」と思われたことはありませんか。

「さすが広告大好きなサントリーさん、拍手喝采万々歳」、という人もいるかもしれませんが、私は私企業はおのれの製品やサービスを手前勝手にPRするのが正則であって、みだりに公共的な広告などに手を染めるのは邪道だと思っています。あくなき金の亡者として更なる売上と利潤の追求に正々堂々と狂奔している企業が、その罪滅ぼしだか義狭心だか知りませんが、急に正義の味方月光仮面面をして、やれ覚せい剤に手を出すな、とか乳がん撲滅だとか貧しい子供に愛の手をとか、とってつけたような正義の味方(味方)をするのはいかがなものでしょうか。

公共広告おける公共性とはいちおう世間が現時点で相当程度支持していると想像される意見や見解に基礎をおいているのでしょうが、よくよく考えてみれば、そうした公共性の基盤は世論の動向によってたえず揺れ動いており、けっして普遍不変の真理というわけではありません。

いま「地球に優しく」とか「子供に愛の手を」などと歯の浮くような愛の言葉をアピールしている公共広告機構が、おなじ公共性の名において、アジア太平洋戦争当時のように、「鬼畜○○撃ちてし止まん燃えろペチカよ火の玉だ」などという「公狂広告」の発信源に豹変する可能性はいつでも存在しているのです。

それでもどうしても「うろんな公共広告」をやりたければ、せめて同業のお仲間とつるむのではなく、1社単独で意見広告を出すなり、ユニセフに協賛するなり、メセナ事業を本気でおやりになったらいいのではないでしょうか。

♪わが首を切りしバンカーの首を切りしそのバンカーの首を切らんとする人 茫洋

♪余を馘首せし銀行屋を馘首せし銀行屋をまた馘首せんとする鳩山総務相 茫洋

Tuesday, June 02, 2009

森まゆみ著「女三人のシベリア鉄道」を読んで

照る日曇る日第260回 

「女三人」とは与謝野晶子と中條(宮本)百合子、そして林芙美子です。この有名な文学者が時は異なるけれども同じようにシベリア鉄道に乗ってモスクワ経由でパリまで行きました。そこで著者も同じルートで彼女たちの足跡を、そのそれぞれに目覚ましい果敢な行き方ともども追跡し、あわよくば追体験しようという趣向です。

山川登美子などの強力なライバルを打倒してついに与謝野鉄幹(寛)を略奪した晶子は、歳を追うごとに創作意欲を喪失して作家生命を衰弱させていった夫をよみがえらせるためにパリにやるのですが、今度は夫の不在に耐えられなくなって、たくさんの子供を夫の妹に託して身一つでシベリア鉄道に乗り込みます。ちなみに2人の旅費と滞在費は、すべて晶子が獅子奮迅の奮闘努力で書きまくる原稿料から工面されたのです。

どうしてそんなダメ亭主を忘れられなかったのか、と自問して「寛のセックスが良かったのであろう」と答える著者に、私ははしなくも晶子さんと森まゆみさんとの共通項を見出したような気がいたしました。それは物事をまっすぐに見つめる、正直で、リアルな生活感覚です。

寛恋しさにすべてを投げ捨てて一九一二年の五月にパリに飛んで行った晶子。そのおかげで、ほんのいっときではありましたが、与謝野夫婦はかつての恋人同士の関係にかえり、「第2の青春」を取り戻しました。

ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟われも雛罌粟

という世紀の絶唱は、そのなによりのあかしではないでしょうか。私はこの句を目にするたびに紅いコクリコの花が咲き乱れる草原を白いパラソルをさした婦人がたたずむモネの絵を思い浮かべます。

そんな晶子のケースよりもっと興味深いのは、一九二七年同性の愛人湯浅芳子と共にシベリア鉄道経由でモスクワに入り、社会主義の創生期に立ち会った中條(宮本)百合子、そしてその四年後の一九三一年に、パリにいる恋人を追って国際的「放浪」の旅に出た林芙美子が繰り広げるさまざまなエピソードですが、その面白さはどうぞ本書を直接手にとって確かめて頂きたいと思います。

なおタイトルでは、「女三人」と謳ってはいますが、実際は著者自身のシベリア鉄道・パリ紀行がかなりの比重を占めていて、実際には「女四人のシベリア鉄道記」といってもよいでしょう。三人の歴史的人物以上に著者の個人的な旅行記録が少々でしゃばりすぎているように感じたのは私だけでしょうか。

♪七人の子供を残し巴里に住む恋しき夫に会いに行く女 茫洋

Monday, June 01, 2009

アジェンデ著「精霊たちの家」を読んで

照る日曇る日第259回 

花も嵐も踏み越えて恩讐の彼方から立ち上がるこの力強い言霊の威力

時代は2つの大戦をはさんで現在まで。舞台は南米最南端の国チリ。持てる者と持たざる者とが決定的な対決を迎えたこの国に、激しく生きた伝説の祖父母、父母、そして孫娘。 この小説の作者を含めた3世代の人々の苛烈な人生を悠揚迫らず描きつくした大河小説です。

緑の髪の乙女ローサを喪った祖父エステーバン・トゥエルバは、不毛の荒地を開拓して緑なす大牧場を一代で築きあげ、ローサの妹クラーラを妻に迎えます。クラーラは幻視者であり未来を予知する不思議な能力を持ち合わせていました。

この2人の祖父母から生まれた母ブランカは根っからの保守主義者トゥエルバとは180度政治的見解を異にする農場の使用人ペドロ・テルセーロと愛し合うようになり、孫娘アルバが生まれますが、彼女の恋人ミゲルもまた左翼の革命家であり、保守派の有力国会議員となった天敵の祖父トゥエルバと折り合いがつくはずがありません。そうこうするうちに南米における社会主義運動が高揚期を迎え、本人もまさかのアジェンデ政権が誕生してしまいます。

右翼や軍隊、警察と連携して左派政権の打倒を画策する祖父。彼の思惑通りについにクーデターが勃発しピノチェト軍事政権が登場するのですが、血と復讐に飢えた狂気のファシストは、アジェンデの支持者たちを徹底的に弾圧し、暴力と拷問、極刑の限りを尽くします。作者の分身アルバが逮捕監禁され、昔祖父が強姦した娘から生まれた孫(警察幹部になっています)によって強姦されるシーンなど思わず目をおおいたくなります。

しかし、その筆致はあくまでも冷静そのもの。作者の叔父が実際に米国の支持を受けたファシストたちによって虐殺されたアジェンデ大統領その人だと聞けば、「どうしてそこまで落ち着きはらっているのかしら」とじれったくもなるのですが、彼女は彼女がみずから語っているように、敵への報復や復讐のために本書を書いたのではなく、政治的な対立を超えて、この小説に登場するすべての人物の「悪魔払いの儀式として、心の中にすみついている亡霊たちを追い払うため」に書いたのです。

花も嵐も踏み越えて恩讐の彼方から立ち上がるこの力強い言霊の威力の前で、私たちは頭を垂れて、とうとうと語り続けられる人間の愚かさと素晴らしさの物語にただ耳を傾けることしかできません。


♪花も嵐も踏み越えて行きつくところまで歩むべし 茫洋