Friday, June 12, 2009

村上春樹の「1Q84」を読んで

照る日曇る日第262回

この本を読み終わったあと、自転車に乗って涼しい風の吹く外に出てみました。梅雨に入ったばかりの夜空はとっぷりと暮れ深い藍色に染まっています。私は小説に何度も出てくる2つの月、大きな黄色い月と小さな緑の月を探しましたが見つかりませんでした。

白い道だけがほのかに浮かぶ真っ暗な森の道に乗り入れると、今夜もホタルが舞っていました。雌雄2匹が2個所で対になって、銀色の光を点滅させながらお互いに追尾しあって、ふわりふわりと円弧を描きます。私は思わずこの4匹は、小説の主人公ふかえりと天吾、青豆と天吾の2つのカップルの生まれ変わりではないかと思いました。

一瞬行方をくらませたホタルが黒い木陰を抜け出して空の高みに駆け上ると、そこで待ち受けていたのは鈍い銀色の光に輝く北斗七星の7つの星々でした。ホタルは空の星と混ざり合って、「あ、見えなくなった」と思ったら、もうどれがどれだか分らなくなってしまいました。無限大ほどのギャップがあるのに、同じ平面に鏤められた銀色の輝きがフラットに均一化されてしまう。そんな視覚的経験は初めてでしたが、ホタルと星は、この小説で繰り返し説かれている実際の1984年と幻視の中に実在している1Q84年の関係にとてもよく似ているような気がしました。

実際の1984年はすでに私たちが通過してきたはずの歴史的年度ですが、あますところなく経験され、生きつくされたはずの1984年には、しかし同時代の誰も知らなかった時空を超越した異次元の世界1Q84年に通じる幾つもの裂け目があり、そこには人類の平和や心の平安を脅かそうと企んでいる悪意の主リトル・ピープルたちが潜んでいます。

リトル・ピープルが支配する新興宗教団体の魔手から逃げ出してきた17歳の美少女ふかえりの体験をリライトした小説家の卵、天吾は、自らが描いた小説「空気さなぎ」の世界の内部にいつのまにか取り込まれ、天語の永遠の恋人である青豆と同様、「反世界」の地獄の底へと転落してゆきます。

スリルとサスペンス、ホラーとファンタジー、オペレッタとフィルム・ノワールを混淆させた作者の円熟した語り口は、それ自体が音楽性と朗読性に富み、この小説で引用されるヤナーチエックの「シンフォニエッタ」の譜面に勝るとも劣らぬ音楽的な演奏そのものであるといってもよいでしょう。よしやバッハの「マタイ受難曲」の深い思想性に欠けるとしても、この小説がかつて日本語で書かれたもっとも魅力的なロマンのひとつであることは間違いないでしょう。久しぶりに読書の快楽、物語の醍醐味を堪能できた1冊、いや2冊でした。


♪今宵また新たな呪文をわれに告げ北斗の星と輝く蛍 茫洋

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