Thursday, April 29, 2010

西暦2010年卯月茫洋花鳥風月人情紙風船

ある晴れた日に第75回


くねくねと走るキャメラはわが腸の白きポリープを探り当てたり

うねうねと突き進んだる内視鏡わが白きポリープをズキンとちょんぎる

下腹にズンとくる衝撃と共に断ち切られたるわが白きポリープ

目の前のモニター画面の真ん中で断ち切られたり10ミリのポリープ

次々にわれらの夢が消えてゆく大きな夢も小さな夢も

どこか夢を売っているところを知りませんか 

昔のあんたはすごかったうれしがらせて泣かせて消えた

眼の前で大口開けて寝る男理由なく憎く思う電車の内かな

歯磨きの代わりに入歯接着剤で磨きたる息子の口を急いで漱ぐ

厳めしき教授の顔をよく見れば丹波の洟垂れ小僧なり

久しぶりにどんべえ食べたら吐き気を覚えたよ

朝日差す歩道の端に横たわる灰色の猫はびくともついに動かず

図書館で古今著門集借りた老人の自転車は錆びていた

恵比寿駅午後2時40分空っぽのNEXが通過する

町内の怪しき者は通報せよとパトカーが喚いている恐るべき警察国家ニッポン

はまぐりの実を捨てたなと息子を怒る

腹立ちて息子を怒鳴りつけたれば1日パソコン動かざりけり

母上のグリンピースの混ぜご飯妻が作りて食べさせてくれたり

母上の大好物のグレープジュース食わずになりて久しきことなり

春になったら由良川へ行こう
岸辺では善チャンがサクラマスを釣っているだろう

ガンクロの娘美白になりて娘と歩いてる

哀れまた美女に食われし文士かな

歌っても歌わなくてもいずれは沈黙



♪卯の月は死に物狂いで生き抜けり 茫洋

梟が鳴く森で 第1部うつろい 第42回

bowyow megalomania theater vol.1


10月18日 晴

私、フリープラン、田中美奈子。満期養老保険。

きちんと、乗りなさい。いいよ、遣り直し。洋子ちゃん、どうしたの。何、暴れているの。長島先生に、顔をぶたれたの。洋子ちゃん、エーン、エーン、エーン。なんで泣いたり するの。

泣かないで。洋子ちゃんは、泣いた。かわいそうだったね。

文枝ちゃん、練習しよう。指差さないの、ね。岳君、御喋り、しない、知らない、バイバイ。

逆。そんな事、したら、汚れちゃうよ、もっと、広げなさい。ねえねえ、ねえねえ、悪いけど、ずれてくれる。

そんな事したら、嫌われちゃうよ、長島先生に、怒られちゃうよ、ぶん殴られちゃうよ、ぶっ殺されちゃうよ。


第1部うつろい 完



♪春になったら由良川へ行こう 川辺では善チャンがサクラマスを釣っているだろう 茫洋

Wednesday, April 28, 2010

梟が鳴く森で 第1部うつろい 第41回

bowyow megalomania theater vol.1


10月17日 雨

一番ホーム、電車が参ります。一番ホーム、電車が参ります。次は高座渋谷に止まります。危険ですから、白線の内側迄下がってお待ちください。

お客様にお願い致します。発車間際の駆け込み乗車は危険です。無理なご乗車はなさらないようお願い致します。

二番ホーム、電車が参ります。二番ホーム、電車が参ります。次は大和に止まります。危険ですから、白線の内側迄下がってお待ちください。

お客様にお願い致します。発車間際の駆け込み乗車は危険です。無理なご乗車はなさらないようお願い致します。

二番線、ご注意ください。二番線、ご注意ください。電車が通過します。危険ですから、白線の内側迄下がってお待ちください。

一番線、ご注意ください。一番線、ご注意ください。電車が通過します。危険ですから、白線の内側迄下がってお待ちください。


はまぐりの実を捨てたなと息子を怒る 茫洋

Monday, April 26, 2010

梟が鳴く森で 第1部うつろい 第40回

bowyow megalomania theater vol.1


みんなが笑うので、僕も笑いました。ギャハハと笑ってしまいました。お父さんが真面目くさった顔をするといつも笑いだしてしまうのです。

きっと脳のせいです。頭の中がそういう風になっているのに誰も分かってくれません。周りが緊張した雰囲気になってくるとかえって駄目。なんとかその雰囲気をやわらげようと思って、自分から笑い出してしまうのです。

今日もお父さんを見て、思わず笑ってしまいました。

ワハハハハハ、ワハハハハハ、ギャハハ、ギャハハ、ギャハハ ワハハハハハ
御免、御免なさい。

でもいつもと違ってお父さんは怒りませんでした。いつものように
「こらあ馬鹿あ、静かにしろ!岳黙ってろ! 笑うと自閉症になるぞ!」
と怒鳴るかと思ったけれど、今夜はなにも言いませんでした。

なにも言わないで、黙って僕の顔を見ました。悲しい目でした。



腹立ちて息子を怒鳴りつけたれば1日パソコン動かざりけり 茫洋

Saturday, April 24, 2010

川西政明著「新・日本文壇史第1巻」を読んで

照る日曇る日第339回

伊藤整の日本文壇史を引き継いで川西版の第1弾が、大正5年12月の「漱石の死」のシーンから始まりました。冒頭の「明治という時代を生きた文豪夏目漱石は、今、死の床についていた」という格調高い1行は、大正の作家たちや昭和文壇の形成、昭和モダンと転向、文士の戦争へと続く全10冊への期待をいやがうえにも高めてくれます。

著者によれば漱石の死の遠因は、彼が20歳の時に患った虫垂炎の治療法の間違いにあるそうで、わずか49歳でこの世を去った偉大な文学者の「夭折」が、今更ながら惜しまれます。この章では師匠の枕辺に集う小宮豊隆などの高弟と、芥川・久米・松岡などの若い弟子たちの周章狼狽ぶりと漱石の長女筆子をめぐる久米と松岡の争奪戦が興味深く描かれます。
漱石の妻鏡子の信頼を集め当初大きくリードしていた久米が、油断大敵伏兵の恋敵松岡の逆転を許してしまうくだりなどは文字通り巻を措くあたわざる面白さです。

もっと面白いのは第3章で紹介される芥川龍之介の不倫の恋です。最晩年の漱石によって後継者に擬せられていた芥川の「月光の女」野々口豊、「愁人」秀しげ子との姦通の現場を、著者はまるでシャーロック・ホームズのように天眼鏡片手に執拗に追跡しています。

芥川よりもっと面白いのは、佐藤春夫と谷崎潤一郎の谷崎の妻千代をめぐる愛の争奪戦です。14歳の時千代の姉初子の娘小林せいを強姦した谷崎は、彼女を自分好みの悪魔的な女ナオミに育て上げ、「痴人の愛」の泥沼に沈みます。千代を離縁してせいと結婚しようとする谷崎は、当時人気絶頂のイケメン俳優岡田時彦(岡田茉莉子の父)の童貞を奪い、谷崎の元を逃れようとします。

苦悩する谷崎にないがしろにされ、VDの憂き目に遭っていた千代を救ったのは、純情詩人佐藤春夫の純愛でした。昭和5年8月18日、幾多の変転を経てついに千代は晴れて谷崎を離縁して佐藤の妻となったのです。万歳!

谷崎よりもっともっと面白いのは、第5章の「北原白秋の姦通罪事件」ですが、残念ながら本日の字数が尽きました。どうぞ書店へ駆けつけて、この世にも奇怪な姦通事件のおどろおどろの大団円を、川西名探偵とともに追跡してください。

ただ白秋が「ソフィー」と呼んだ運命のファム・ファタール松下俊子に一目ぼれしたのは、私が長く勤務していた原宿の会社のすぐ傍であり、かつまた現在岡田茉莉子氏の自宅のすぐ傍、さらに白秋の2度目の不倫相手江口章子が、白秋と別れて流れ着いたのは、私の郷里の街にある郡是製糸の教育係であった、とはまことに不思議なこともあるものです。その章子が、熱烈なキリスト者波多野鶴吉翁が設立した製糸工場の、女工の生活改善のために戦ったとは、本書を読んではじめて知りました。

さて一言にして小説より面白いこの本の感想をつくせば、作家はいちじるしく色を好み、また色に翻弄され尽くすということでしょうか。男の肉は女の肉より薄いのです。


♪哀れまた美女に食われし文士かな 茫洋 

Thursday, April 22, 2010

演劇集団円公演「ホームカミング」を見て

茫洋物見遊山記第22回


わいらあこないだ「ホームカミング」ちゅう芝居見ましたんや。ハロルド・ピンターはんが原作、翻訳は小田島雄志、演出・脚色大島也寸の格調高い英国芝居や。出演は山口眞司、石田登星、石住昭彦、吉見一豊、吉澤宙彦、朴王路美はんたち。
ほとんど全編大阪弁でしゃべくりおったさかい、わいも関西弁風に書かせてもらいまっせ。

舞台はロンドンの下町のオンボロの1軒家。そこは長男の父親と叔父、2人の弟が男同士でみじめったらしい生活をしとる。元肉屋の父親は死んだ母親代わりのハウスキーパー、叔父はタクシーの運転手、3男はボクサー志望の日雇い労働者やが、次男はしがないリーマンやろか、実際はなにをしとるんかわからん。

みな心のどこかに傷があり、父は次男をののしり次男は父に「はよくたばれ」と抜かす。人間とゆーよりは動物園の檻の中の野獣のよう吠えたける。「清く正しく美しく」じゃのうて「暗く貧しくエゲツなく」生きておる。夢も希望もない毎日や。

そこへ突然ふらりと舞い込んだのがとっくの昔に故郷を捨てて苦学奮闘、太陽の光もまぶしいサンフランシスコ大学の哲学教授となっておったインテリゲンチャンの長男。すでに2人の子持ちやが容姿端麗色香芬々の妻を同伴してのホームカミングちゅうわけや。ちなみにこの2人だけは標準語でしゃべりよります。

掃きダメに鶴というも愚かな紅一点。腐りきった陋屋にたちまち渦巻くは野卑な男どもの性の蠢き、欲望の嵐。良識ある長男の理性の制止も聞かばこそ、朝な夕なによってたかって美女の美脚・美乳にむしゃぶりつけば、嫌だ嫌だも好きの裡、あろうことか淑徳貞潔が謳い文句やったはずの教授夫人は、全身下半身のあらくれ男どもの前に婀娜な姿をみずからさらし、美脚をひらいて太腿の奥にあるモノをばえいやっと見せつける。

あっと息をのむ野郎ども。思いもかけぬ展開にぐっと生唾を飲み込む観客たち。毒をもって毒を制するみだらな毒婦の本領発揮でございます。
ほれ、よう魚心あれば水ごころありというやんか。かくて放恣な教授夫人の肉体の疼きの奥の奥に秘められた肉欲の花は、1点突破・全面展開とあやしく放恣な悪の華をビシバシ咲かせ、ついに単細胞な下半身男どもをあざやかに牛耳ります。

「あほんだらなにしてけつかんねん!」と鶴の一声に、あらくれ男どもがギョット身を引くところが本公演のハイライト。

想定外の成り行きに泣く泣くサンフランシスコに帰るやさぐれ長男、あまりの不条理ドラマツルギーの進行についていけず心臓麻痺でどうと倒れ伏す叔父、「あなうれしや義父のわれにも接吻くりゃれ」と哀願する父親をしり目に、女王蜂クールビューティは足元にひれ伏す奴隷どもを満足げに見下ろすんやった。

やっぱ男はクールビューティにはかなわんちゅうこっちゃ。


♪眼の前で大口開けて寝る男理由なく憎く思う電車の内かな 茫洋

日経広告研究所編「基礎から学べる広告の総合講座」を読んで

照る日曇る日第338回バガテルop126

毎年この本でわが国の広告と広告業界のお勉強をさせてもらっています。2010年版の特色は、1に不況どん底時代の業界の嘆き節と絶望の苦悶。2にインターネットメデアとの阿鼻狂乱風のお付き合いというあたりでしょうか。

政権党が何をしようがしようまいが、経済学者がどのように世界を解釈しようが不況のあとにくるものは好況に決まっているので、景気は順調に回復するでしょう。すでにその兆し=「広告モエ」現象はあちこちにほの見えているようで、またしても軽佻浮薄なちょいと出ました広告野郎がのさばる世の中が、ほれ本町3丁目の角のてらこ履物屋までやって来ているのさ。


ネットは08年の「君中部」に続くすいすいすだらかツイッター旋風の出現で、またまた一種異様な猫じゃ招き猫じゃええじゃないかの狂騒状態に突入し、私のように多少とも品性のある低級遊民&古典守旧派の顰蹙を買っていますが、民主党の断末魔崩壊と同様もはや誰ひとりとどめることができない「時代の流れ」となるでせう。

これまでのブロガーの言説にかろうじて三段論法があったとするなら、ツイッターはあほばか感傷的一段論法いたちの最後っ屁あるのみ。正反合あれども弁証法は皆無也。

で、なにが変わるって? なあんも変わりやしないのさ。「携帯の進化?」とおんなじことで、機械は進歩すれども人間はげしく強行劣化・腐敗堕落して無限地獄に転落、カンダタ同様やたらめったら忙しくなるだけのこってす。

それじゃあ、また。(吉田秀和翁の声音を真似して……)

♪厳めしき教授の顔をよく見れば丹波の洟垂れ小僧なり 茫洋

Tuesday, April 20, 2010

文化学園服装博物館で「ヨーロピアン・モード展」を見る

茫洋物見遊山記第21回&ふぁっちょん幻論第59回

18世紀のマリー・アントワネットの時代から1970年代のポスト・シャネルの時代まで、200年の時系列をいっきに通覧する欧州モードのコレクション・ア・ラ・カルトです。

これを一瞥していると、それぞれの時代の社会経済政治文化の流れを、いかに当時の女性の衣服がストレートに反映していたかが、あちこちで読みとれてなかなかに興味深いものがあります。
とりわけ私が細い狐目をお皿のように丸くして、食い入るように眺めたのが1920年代のドレスとバッグでした。

不自由なコルセットから解放され、過剰な装飾についに別れを告げ、のびのびと美脚を街頭に向かって突き出したミニドレスたちのなんと簡素で美しいことよ!

大胆なフォルムと目の覚めるような色、柄、デザイン、そして選び抜かれた最高級の素材と繊細な意匠の数々。なかんずく溜息が出るような藝術的な完成度を誇るのは、あまりにも小さな、そしてあまりにも華奢な布製のバッグ。これぞアールデコの極致、人類文化史上の最高傑作といっても過言ではないでしょう。

1920年代が現代ファッションの原点であるとよくいわれますが、それどころかここにこそ近未来のトレンドの源流が凝集していると確信できた垂涎の展覧会でした。


♪ガンクロの娘美白になりて娘と歩いてる  茫洋

Sunday, April 18, 2010

梟が鳴く森で 第1部うつろい 第39回

bowyow megalomania theater vol.1


10月16日 晴れたり曇ったり

ハッピー・バースデイ、お父さん。ハッピー・バースデイ、お父さん。
と歌いました。

みんなで夜ケーキを食べました。鎌倉ベーカリーのショートケーキを食べました。

お父さんはすごくうれしそうでした。
いきなり「おめでとう」なんて言われても、もう歳だからなあ、とお父さんが笑うと、でもまだまだ若いじゃない。私の方がさきに死ぬわ、とお母さんがいいました。

だいじょうぶ、俺たちが生きている間はちゃんと守ってやるからな。安心しろ、岳。
とお父さんはえらそうに言いました。

お母さんと弟の純ちゃんが、エヘヘと笑いました。


♪歯磨きの代わりに入歯接着剤で磨きたる息子の口を急いで漱ぐ 茫洋

Saturday, April 17, 2010

デッカ盤「ヴァイオリン・マスターワークス」を聴いて

♪音楽千夜一夜第129回

これはデッカが総力を挙げて取り組んだヴァイオリン演奏CD35枚組セットです。

アッカルド、アモワイヤル、ジョシュア・ベル、キョン・チョンファ、アルチュール・グリュミオー、ヘンリク・シェリング、ルジェロ・リッチ、ギドン・クレーメル、諏訪内晶子などがバッハからベートーヴェン、モーツアルト、ブラームス、チャイコフスキー、ヴィヴァルディなど古今の名曲を1枚当たり197円で弾き比べるという楽しい趣向ですが、かつて蘭フィリップス・レーベルから発売されていたCDの柔らかく温かな音色がみなデッカの硬質のサウンドに変わっているところにの一抹の寂しさを感じます。

それはさておき、演奏でまず興味深いのはギドン・クレーメルのバッハの無伴奏全曲。さながら鋭利に研ぎ澄ましたる正宗の妖刀で、バッハをバッタバッタと切り倒しながら進んでいく異貌の青眼剣士のごとし。その都度青白い燐光が見え隠れして物凄い。
ヨーヨーマやスターンのようにはどうしても弓馬鹿になり切れない世界浪人インテリゲンチャンの懶惰な悲しみが随所に放散されていて、これは若くして死んだオレグ・カガンの奇跡の名演奏には惜しくも一籌を輸するとはいえ、グリュミオーの超甘美な演奏と並ぶ好演ではないでしょうか。

次はそのグリュミオーによるCD2枚分のアンコール小曲集。この手のものではクライスラーが絶品で、宇宙の神秘と音楽の美の精華を数分の演奏に込めた珠玉の出来栄えにはかないませんが、下手なヴァイオリニストの大曲演奏よりも楽しませてくれます。

聴きごたえがあったのは、シェリングとイングリッド・ヘブラーのモーツアルトのソナタ全曲。モノラルを感じさせない2人の音色は美しさの極み。ハスキルだけがモーツアルトではありません。

圧倒的なオーラで迫るのは、やはり韓国の烈女キョン・チョンファ。サンサーンス、ヴュータン、ショーソンの代表曲を希代の色男シャルル・デュトワと奏でます。チョンファの後窯として同じすけこまし野郎に抱かれ、密かに子をなしたというわが諏訪内晶子チャンも、黒い噂にめげずにブルッフ、サラサーテ、ドボルザークで意外な?好演。
濃厚なチョンファとは対極にある清冽無比な大和撫子の恋の嘆かいを嫋々と歌い上げています。

それにつけても東洋の美女を両手に花とものにした元N響音楽監督が、羨ましくも憎たらしい。

♪昔のあんたはすごかったうれしがらせて泣かせて消えた 茫洋

Friday, April 16, 2010

ハルモニア・ムンディ盤「宗教音楽選集」を聞き流しながら

♪音楽千夜一夜第128回

独仏ハルモニア・ムンディレーベルが集めた「宗教音楽コレクション」を仕事の合間に聴きました。(最近どういう風の吹きまわしか春一番とともに突然仕事が舞い込んできてブログ書きこみどころではなくなったのです)

ルネ・ヤーコブ指揮のバッハの「クリスマス・オラトリオ」、メンデルスゾーンの「聖パウロス」をはじめウイリアム・クリスティー指揮のヘンデル「メサイア」、フィリップ・ヘレべッヘ指揮のモンテヴェルデイ各種、ケント・ナガノ指揮のバーンスタインの「ミサ曲」など中世から現代までの全70曲を29枚のCDで時系列に刻んだ記念碑的なアーカイヴです。

中ではやはりヘレべッヘ指揮シャンゼリゼ管のモーツアルトの「レクイエム」が聴かせてくれました。どうしようもなく凡庸なケント・ナガノのバーンスタインは、彼の数少ない銘盤のひとつとなるでしょう。

あとの曲や演奏は猛烈に仕事をしていたのでいまとなっては全然覚えていません。ひどいものです。しかしどれも演奏の水準は高く録音も優秀。こんなCDが1枚わずか207円で買えるとはものすごい時代になったものです。

ついでに思い出したのですが、こういう歴史的一大回顧の傑作は、ドイツグラモフォンが2000年に出した「グレゴリアン聖歌から現代音楽まで1000-2000」という壮大なタイトルのコンピレーション(廃盤)で、この12枚組を聴くだけで西洋音楽の歩みがすべてわかった気になれる見事な出来映えです。


ねくねと走るキャメラはわが腸の白きポリープを探り当てたり 茫洋
うねうねと突き進んだる内視鏡わが白きポリープをズキンとちょんぎる
下腹にズンとくる衝撃と共に断ち切られたるわが白きポリープ
目の前のモニター画面の真ん中で断ち切られたり10ミリのポリープ

Monday, April 12, 2010

ボーザール・トリオの「ハイドンのピアノトリオ全集」を聴いて

♪音楽千夜一夜第127回&バガテルop125

ピアノがメナハイム・プレスラー、ヴァイオリンがイシドール・コーエン、チエロがベルナール・グリーンハウスの3人による演奏は、むかしLPで一枚ずつ揃えて大切に聴いた覚えがあるけれど、その後ずっと長い間忘れていて、1か月前に吉田秀和翁の「名曲の楽しみ」でホーボーケン番号の35番だか6番だかを聞かされて、それがこの節はやりのギンギンのクールな音色とは遠く離れた人肌の温みを思わせる優婉な味わいの音楽だったので、こないだネットで買って仕事の合間にBGMのように聴きながら、それでも耳だけは懐かしい旧友の声に耳を奪われるようにして昨日とうとう聴き終わったのですが、ああ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、冥途の土産に聞いておいて本当に良かった。やはりベートーベンもよい、モーツアルトもよい、シューベルトもシューマンも結構毛だらけ猫灰だらけお前のかあちゃん糞だらけですけれど、ハイドンの音楽は、やっぱなんというか大人の音楽で、若書きの曲すらも相当年季が入っていて、かの小林秀雄がモーツアルトやらバルトークを、中原中也がシューベルトに入れ込んだのに対して、大岡昇平がハイドンに一家言を持った(がほとんど書かなかった)というのは、いかにも昇平らしくていいなあと雨がジャブジャブ降る春の宵にひとり静かに想うのでしたが、それにつけてもこの名盤やハスキルやグリュミオー、シェリング、ネビル・マリナーやらコリン・デービス、クラウディオ・アラウやブレンデルやシュライヤーやらメンゲルベルグの歴史的銘盤を和蘭を本拠地に続々送り出してくれたフィリップス・レーベルの死滅とロンドン・レーベルへの吸収合併はいかにM&Aばやりの昨今とはいえそぞろ身にしむ寂しさであるわいなあ、そういえば木挽町の歌舞伎座もあんなに反対運動を繰り広げたのに今月いっぱいで閉幕になるという、さすれば帝都一を誇った最高の音響も永遠に失われる、3階立ち見席にあざやかに聞き取れた清元志寿太夫の破天荒の唸り声も中村歌右衛門の艶冶な衣擦れの音ももはやわがなれ親しみし空間ともども悠久の彼方に消え去ってゆくかと思えばあな悲しあなうらめし夢も希望もあるものかいなと涙涙にかき暮れし卯月壬辰の宵なりき。


次々にわれらの夢が消えてゆく大きな夢も小さな夢も 茫洋
どこか夢を売っているところを知りませんか 

Sunday, April 11, 2010

ガ行の時代に

ある晴れた日に第74回&茫洋広告戯評第11回


ガ、ギ、グ、ゲ、ゴ。

ガツン、ガッツ、ガンガンメール。

ギンギラ、ギッチョン、銀色ナツオ

グングン、グリコ、グーグル、グー。

ゲンチャン、ゲンキ、ゲンキン、ゲロゲロ。

ゴー、ゴー、ゴー、箪笥にゴン。


時代ガタガタ 国家ギタギタ、人心グラグラ ゲリラ ゴキゲン

ガ、ギ、グ、ゲ、ゴ。

ガ-、ギー、グー、ゲー、ゴー。

今日も明日もガ行の時代だ。


♪歌っても歌わなくてもいずれは沈黙 茫洋

Saturday, April 10, 2010

前田和男著「男はなぜ化粧をしたがるのか」を読んで

照る日曇る日第337回


黄昏迫る平成の御代にあっては、「男のくせに化粧なんて」、と部厚い眉をついついひそめてしまう私ですが、今を去る何十年も若かりし日には自分でヘレンカーチス第2液を美容院から買ってきて会社をずる休みしてパーマをかけたことがありました。

頭は茶髪のナチュラルウエーブで、ベルボトムのパンタロン姿で颯爽と神田鎌倉河岸の汀にあった小さな会社に入っていきましたら、受付嬢が一斉にのけぞって引いていく姿がおぼろに知覚されました。その当時私は、別にオシャレしようと思ったわけではありません。なにやら前途茫洋の憂い深く、ちょいとおのれの身体外観をギタギタにしてやりたかったのに違いないのです。

「男はなぜ化粧をしたがるのか」というタイトルを持つこの本も、私と同様化粧せざるを得なくなった孤独な生の実存の根っこを鋭くえぐってくれるのかと予想していましたら、案に相違してああ堂々の「男性化粧&時代相関説」の開陳でした。
日本史にはわが国に統一国家が誕生した上古、初めて国風文化が成立した平安、武士の時代に転換した中世、戦国を経て幕藩体制が確立した江戸時代、近代国家が成立した明治大正、敗戦と戦後レジームの昭和、という6つのメルクマールがあると唱える著者は、それぞれのエポックにおいて男性の化粧がどのように変遷してきたのかを、1)メークアップ、2)整身(髭そり・脱毛など)、3)整髪の3つの視点から詳細に比較対照しました。
そしてついに化粧は時代のバロメーターであり、歴史は「戦時モード」と「平時モード」を繰り返してきたことを実証するに至るのです。
ここで著者がいう「戦時モード」とは神話時代、中世鎌倉、戦国・江戸初期、明治維新から昭和初期の「常在戦場」の時代であり、「平時モード」とは平安、室町、江戸後期、昭和~現在を指していますが、まあ平たくいえば平和であればマッチョな男らしさが忌避され、猫も杓子も全身化粧に憂き身をやつし、戦争になれば男はよりマッチョになりはてて化粧どころの騒ぎではないということでありましょう。
魏志倭人伝から古事記、万葉、源氏はもとよりルイス・フロイス、森銑三、石井研堂、ドナルド・キーン、杉浦日向子に至るまでまるで打出の小槌のごとく自由自在に博引傍証しながら上記の命題を執拗に証明し続ける著者の研鑚努力と異様なまでの執念に激しく打たれた一冊でした。

♪町内の怪しき者は通報せよとパトカーが喚いている恐るべき警察国家ニッポン 茫洋

Friday, April 09, 2010

06ザルツブルク音楽祭ダニエル・ハーディング指揮「ドンジョバンニ」を視聴する

♪音楽千夜一夜第126回

モーツアルトイヤーの記念すべき演奏なのにどうしてこんな技術も経験もない若僧にこの名曲の演奏をゆだねるのかその真意がわかりません。

冒頭の序曲の最初の和音のうすっぺらで軽薄な鳴り方を耳にしただけで悪い予感が走り、それは最後のドンジョバンニの地獄落ちで最終的に確認されました。

題名役に巧者のトマス・ハンプソン、ドンナ・アンナにクリスティーネ・シェーファー、レポレロにイルデブランド・ダルカンジェロ、ドンナ・アンアにメラニー・ディーナー、ドン・オッタヴィオにピヨートル・ベチャーラなどという布陣はそれほど見劣りするものではなく、それどころか他のヴェテラン指揮者ならかなりの好演が期待できたと思うのですが、ともかくこのチンピラあんちゃんの程度がひどすぎる。短距離競走の選手のようにむやみやたらに猛烈に飛ばすのです。モーツアルトの音楽の意味や美しさをぜんぶ棚に上げて……。

こんな乱暴で浅はかな指揮者に付き合わされているウイーンフィルもいい迷惑です。演出はマルチン・クシュイという人ですが特にどうということもなし。モーツアルトが見たらきっと落ち込むだろうという世紀の凡演でした。

ところが最近FMで聞いた彼のヴェルディ「レクイエム」の出来映えの素晴らしかったこと! この人はたまたまモーツアルトが下手くそであっただけなのかもしれません。


♪久しぶりにどんべえ食べたら吐き気を覚えたよ 茫洋

Tuesday, April 06, 2010

アルトゥール・ルービンシュタインの「ラスト・コンサート」を視聴する

♪音楽千夜一夜第125回


1975年1月15日、アルトゥール・ルービンシュタインは、米国カリフルニア州パサディナのアンバサダー・カレッジでエルサレムの青少年国際文化センターの活動を支援するためにコンサートを行いました。

彼はその翌年急に視力が減退し、眼中で蚊のようなものが飛び回る「飛蚊症」という病気で引退していますから、実質的にはこの時の演奏がフェアウエルコンサートになった模様です。

盛大な拍手に迎えられて登場した当時88歳のルービンシュタインは、はじめにベートーヴェンの熱情ソナタを演奏しますが、往年の熱情的な名演奏にくらべると老成した大人の滋味豊かな演奏で、パッショナータな箇所もむしろ淡々と弾かれています。

次はシューマンの作品12の幻想小曲集ですが、これは諦観とリリシズムがないまぜになった不思議な味わい。バックハウスともケンプともリヒテルとも違う夢幻のような時空が展開されます。「もっとも非ルービンシュタイン的なルービンシュタイン世界」とでも呼べばいいのでしょうか。

次はなんとドビッシイーを3曲。驚いたことに「レントより遅く」、2曲の「前奏曲」などをこの人が弾くのですね。しかしミケランジェリのような感銘は受けませんでした。
後半はお得意のショパンがスケルッツオ、エチュード、ノクチュルヌ、ポロネーズ、ワルツと5曲演奏されますが、さしたる技巧の衰えは感じられないものの、どうという演奏ではありません。

私はシューベルト、ブラームス、シューマンに比べて西洋俳句のような、瞬間痙攣射精のようなショパンのピアノ曲を格別好むものではありませんが、ルービンシュタインの全盛時代の演奏は、コルトー、サンソン・フランソワに次いで高く評価しています。後輩のアルゲリッチやポリーニもうまいことはうまいけれど、あれは全然ショパンの音楽ではありません。

特に後者は、ショパンへの愛などまるで眼中になく、ただ不感症ハイテクロボットのように狂気に近い演奏を繰り返しているに過ぎません。あんな苦しい音楽に「ブラボー!」と絶叫する人は、心のどこかでなにかがぶつ壊れている人でしょう。まともな人なら、孤絶と絶望の人ポリーニのために一掬の涙を流すはずです。

要するにアルゲリッチやポリーニはアルゲリッチやポリーニを弾いているだけ。後続する内外のあまたのショパン弾きも、「賞を獲りたい」、「有名になりたい」、「金儲けしたい」の一念だけで、ほらほらよくご覧なさい、卑しい顔をして卑しいショパンを弾いている。これでもか、これでもか、とスタインウエイをどつきまくっているだけの話です。

一度でいいから耳を澄ましてコルトーとフランソワを聴いてみたまえ。君はもうショパンを自分で弾こうなどというだいそれた考えを捨て去るほかはないだろう。

あのアパートのあの部屋で男女3人自殺したのか 茫洋

Monday, April 05, 2010

高橋慎一郎編「史跡で読む日本の歴史6鎌倉の世界」を読んで

照る日曇る日第337回

最近の歴史学の世界では、考古学の最新情報を取り入れた複合融合学際的な取り組みが増えてきて喜ばしい限りです。古文書の解読も史跡の解釈も同時代の歴史的遺物なので、同じ研究者が統一的に取り組むべきなのですが、それを妨げていたのがお馴染みの縦割り専門馬鹿的蛸壺学界でした。そういう不可解な境界を打ち破り、共時的かつ双方向で情報交換する研究方法が徐々に進行しつつある、これはそのささやかな成果の一端とでも評すべきなのでしょう。

とりわけ冒頭の「都市鎌倉」の成立と展開の項で市内の中心部の司法・行政・立法・祭祀の拠点の様相や代表的な通商道路や河川などの交通網、頼朝や御家人たちの公私それぞれの居住空間の使い分けについて具体的に触れた箇所は、800年後のその都市の住人である私にとっておおいに興味をそそられたことでした。鎌倉中心部の鶴岡八幡宮、大倉御所、頼朝法華堂、今小路西遺跡、鎌倉大仏、北条氏常盤亭跡、和賀江島などの遺跡、遺構の意義について観光ガイドが教えてくれない専門的な知見を得ることができるのはなにものにも代えがたい喜びです。

それにしても不思議なのは鎌倉大仏です。執筆者秋山哲夫氏によれば、大仏は1943年6月16日に完成しましたが、「吾妻鏡」によればその大仏は「木造の阿弥陀仏である」と記されているそうです。ところが同じ「吾妻鏡」の1252年8月17日条には、「金銅の八丈釈迦如来像を鋳造しはじめた」とあるので、この時点で鎌倉大仏は木製から金銅製、阿弥陀仏から釈迦如来に変身したはずです。

しかし私たちの前に鎮座ましましているお姿は、かの与謝野晶子が間違えて詠んだ釈迦如来ではなく阿弥陀仏。すると後世のある時点でまたしても釈迦如来から阿弥陀仏への改鋳が行われたということなのでしょうか。大仏の謎は深まるばかりです。


♪恵比寿駅午後2時40分空っぽのNEXが通過する 茫洋

Saturday, April 03, 2010

高橋順子著「一茶の連句」を読んで

照る日曇る日第336回


生涯に約二〇〇〇〇の句を詠んだといわれる小林一茶の「連句」にはじめて光を当て、解釈と鑑賞の道筋をつけた大変な力作です。

著者によれば連句とは五七五の長句と七七の短句をつかず離れず交互につなげてゆく共同作品であり、のちに第一番目の句である発句が独立して俳句が誕生したのですが、江戸時代にはこの連句こそが芭蕉などの俳諧師にとって「表芸」であったそうです。

私も以前友人たちとこの「俳諧之連歌」に挑んで、「歌仙」(三六句形式の連句)を巻いた(詠んだ)ことがありますが、季語はもちろんのことここで月を詠む、ここで花を詠むなどの数多くの決まりごとがあり、そのわずらわしさにすたこらさっさと逃亡した苦い記憶だけが残っています。

それらを高尚な文化とは思わず、スコラ的な煩瑣な規則の弊害の残滓とみなした愚かな私でしたが、この労作をつぶさにひもといてみると、一茶が到達した近世短詩形文学の世界の豊饒さと深遠さに感嘆しないわけにはいきません。これこそは江戸文化が生み出した歌舞伎と並ぶ最高最美の果実なのでしょう。

ではちょっと著者の解読ぶりを、文化一〇年正月八日に長野県長沼の住田素鏡宅で巻かれた七吟歌仙をのぞいてみませうか。

秋風に昔歌舞伎がはやる也 茶

硯へこぼす刈かやの露 薺

嬉しさに諏訪の御灯吹けして 我

妹が名にせようね火香具山 茶

離れ屋に梓の声の細細と 薺

二五句で一茶が(江戸時代の)昔の歌舞伎を褒め称えると、薺が受ける。歌舞伎見物にうつつを抜かすいっぽうで七夕の行事に思いを込める女たちが、秋草の葉から集めた露に浸した筆で短冊に願い事を書いている。これを恋の呼び出しの句という。

二七句は恋の句。恋文をもらって喜んだのはなんと諏訪湖の上社の男神と下社の女神。彼らは全面凍結した諏訪湖を渡って恋の御渡りをするのだ。二八句もまだ恋の歌が続く。一茶は万葉集の天智天皇の古歌を念頭において、「畝傍」や「香具山」という名の遊女がいたら面白い。「耳梨」ではちょっと困るが、と思っているのではないかと著者が付け加える。凄い読み!

二九句でようやく恋離れの句が詠まれる。人里離れた家に梓弓の弦を鳴らして因縁浅からぬ想い人の霊を呼び出す巫子の口寄せの声が細々と聞こえる……。

この華麗な修辞と見事な発想の転換! 一茶ももちろんすごいが彼の門人や周辺の商人や市井の人々の洗練された趣味と教養の深さに脱帽せざるを得ません。


図書館で古今著門集借りた老人の自転車は錆びていた 茫洋

Friday, April 02, 2010

岡井隆著「注解する者」を読んで

照る日曇る日第335回

「注解する者」と自称する著者は、対象物にいつのまにか寄り添い、書物(おくのほそ道、古事記伝等)や作家・藝術家(ラフカディオ・ハーン、森鴎外、ウイトゲンシュタイン、川村二郎等)や音楽(オネーギンや薔薇の騎士等)や皇族(天皇皇后やヤマトタケルノミコト等)能・歌舞伎(熊野等)などの内部に柔らかな水を注ぎながら侵入してたちどころに溶解し、楽々と自他合一化を果たしながらその内通貫入の喜びの言葉を書き記します。

例えば著者は、芭蕉の「おくのほそ道」を俳諧の一体として読むべしと提唱した安東次男にならってこの名作の注解を開始します。そして新潟の遊女が登場する場面が「おくのほそ道」における「恋の座」であると喝破した著者は、「一家に遊女もねたり萩と月」の一句を呼び出して、ここには遊女と僧形二人の一夜のかかわりがほのかに暗示されており、「それでなくては翌朝涙と共に同行をせがむ二人をにべもなくことわるという一場面の深さはでてきない」「だから無情な仕打ちをした芭蕉は歌枕の故地を訪問しようとした土地の衆にぴしゃりと断られたのだ」とあざやかに溶解してみせてくれるのです。

詩と散文、散文と韻文、散文詩と短詩、詩論と詩想の境界を軽々と突破し、融通無碍に解体してはまた回帰するその自在な詩興は、長く言葉と遊び戯れてきた著者ならではの独創的な表現世界と申せましょう。
和歌から蚕の糸のように絶え間なく繰り出される綾なす言葉のつづれ織は、蝶のように舞い、蜂のように刺したかのモハメド・アリの軽快なフットワーク、あるいは宇治平等院の天女が自在に宙を飛翔しながら地上に降らせる華麗な花々の乱舞を思わせます。

本居宣長の「古事記伝」を注解する箇所も面白い。小碓命が大碓命を厠で殺す有名なシーンがありますが、景行天皇が熊襲を退治したとき、「その背皮を取りて、剣を尻より刺し通したまひき」とあるのを「尻から刺す時背皮をつかむのは合理的ではない。これは衣の背をつかんだのだろう。剣は下腹部に達しただけだから即死ではない」と小児科医らしく分析する本居宣長について同じ内科医師の著者がコメントしています。

さらにまた、かつてはマルクスに親炙した著者が召されて皇居に赴き、晴れがましくも当代一の宮廷歌人として天皇皇后の御前に膝を屈する複雑な心境を吐露しているくだりも苦く心に残ります。

注解者などと韜晦しながら、そこで語られる言葉は純乎とした詩であり、技巧の粋を尽くした現代詩の最高峰を往く。私も数多くの詩を読んできましたが、これほど明晰で透明で高雅な日本語の森の中を散策した経験はかつてなく、またこれからも滅多にあるまいと思わせる見事な完成度を誇る詩文集です。


朝日差す歩道の端に横たわる灰色の猫はびくとも動かず 茫洋

Thursday, April 01, 2010

鎌倉文学館で「鎌倉と詩人たち展」を見る

茫洋物見遊山記第21回&鎌倉ちょっと不思議な物語第213回

遠くに由比ヶ浜の海を高台から望む当館では4月18日まで「鎌倉と詩人たち ことばを旅する展」が開催されています。収蔵品展鎌倉文人録シリーズの第4回です。

今回は島崎藤村、蒲原有明、北原白秋、萩原朔太郎、日夏耿之介、野口米次郎、中原中也、西脇順三郎、三好達治など鎌倉ゆかりの詩人たちの詩稿や書や詩集、遺品などを紹介しています。

高見順愛用の一輪挿しと壺、尾崎喜八愛用の竹笛と小型双眼鏡なぞはどうでもよろしいが、萩原朔太郎の「乃木坂倶楽部アパートメント」の草稿や昭和13年に創元社から出版された中原中也の詩集「在りし日の歌」などはありがたさに涙がちょちょぎれる思いです。

田村隆一と女を争奪した北村太郎の2人の「荒地」派詩人の作品が肩を並べて展示されているのもなかなかおつなものです。田村隆一の詩は、例えば「平家は好きだが源氏は嫌いだ」という対比法的な手法で原稿用紙の途中まで書かれていましたが、うろおぼえですが「日本人は好きだがアメリカ人は嫌いだ?」などと書いて抹殺したあたりで完全に行き詰まってしまったようで、とうとう未完のままで放り出してありました。

うまくいくかわかりませんが、彼に代わってそのあとを続けてみましょう。

平家は好きだが源氏は嫌いだ。
桜は嫌いだが梅は好きだ。
猫は好きだが犬は嫌いだ。
酒は好きだが酔っ払いは嫌いだ。
池袋は嫌いだが谷中は好きだ。
黒沢は嫌いだが成瀬は好きだ。
ショパンは嫌いだがシューマンは好きだ。
高層ビルは嫌いだが木造平屋は好きだ。
靖国神社は嫌いだが十二所神社は好きだ。
日本国は嫌いだが日本人は好きだ。
日本人は好きだが僕は僕がいちばん好きだ。


♪母上の大好物のグレープジュース食わずになりて久しきことなり 茫洋