Saturday, February 28, 2009

今井和也著「中学生の満州敗戦日記」(岩波ジュニア新書)を読んで

照る日曇る日第232回

異様な妄想に駆られたわが国の軍人たちが、赤の他人の国にでっちあげた奇妙な植民地、満州。1931年生まれの著者は、国民中学生として家族とともに敗戦1年後までの9年間をこの奇妙な植民地第3の都市ハルビンで過ごした。

総面積およそ130万平方キロで現在の日本の3.4倍、仏独伊を合わせた面積よりも広いこの王道楽土の大帝国は、関東軍の陰謀によってわずか半年間で誕生し、たった13年で崩壊した。

人口3000万の満州を、たった20数万人の日本人が支配できたのは、ひとえに関東軍の武力があったからだ。満州事変(宣戦布告すると中立国からの軍需資材の輸入がのぞめなくなるから、戦争ではなく事変と命名した)における死傷者は1199人だったから、日露戦争のわずか100分の1の犠牲者で、日本は満州全土を手に入れたことになる。

敗戦2か月前、学徒勤労令によって満洲の奥地にある王栄開拓団に派遣されていた中学3年生の著者は、1945年8月9日、ソ連侵攻の急報を受けて命からがらハルビンに帰還する。そこで見たものは中国人の白昼堂々の略奪と、われらが精鋭関東軍の鮮やかな遁走という悪夢だった。

ソ連の満州侵攻は寝耳に水だったが、じつは関東軍は、開拓団や一般市民を「棄民」して満州防衛から朝鮮防衛に作戦を切り替えることは敗戦の3か月も前から決めていたのだった。

やがてソ連軍がハルビンに進駐してくると、著者の周囲では暴行、襲撃、略奪、集団自決が相次ぎ、父は「いざという時のために」家族全員に青酸カリを渡す。そして次々に襲いかかる生命の危機と苦難に満ちた屈辱の日々がはじまる……

病気で寝ていた父は中国人の警官に連行され、ハルビンから約200キロ東南にある牡丹江の収容所に入れられ、九死に一生を得たものの、この時の無理がたたって舞鶴に引き揚げて三年後に五〇歳で世を去る。

また髪の毛を切って少年を装っていた姉は、突然侵入してきたソ連兵にマンドリン銃を突きつけられる。
「その時だった。母が飛び出して銃口の前に立ちふさがり、『まだ子供だから何もしないで!』とロシア語で叫んだ。小柄な母が仁王になった」……

我々の優秀な先輩たち、私やあなたの賢明にして愚かな祖父や父親たちが引き起こした未曾有の国家的災厄が、植民地に生きる平凡な一家族の身の上に突如嵐のように襲いかかり、日々の平安が根底から根こぎにされていくありさまが、一人の少年の汚れなき瞳にくっきりと映じる。

その描写はあくまでも冷静に抑制され、歴史的な事実が淡々と述べられていることが、かえって私たちの胸を打つのだが、同時に、「それらの惨劇がそもそもなぜ、どのようにして引き起こされたのか?」という鋭い問いかけも忘れられてはいない。「これだけは後世に語り遺しておきたい」という著者の熱い想いがひたひたと伝わってくるのである。

「一度目のあやまち」を故意に忘却しようとし、「二度目のあやまち」を犯そうとする日が急速に近づきつつある今日この頃、平成の大瓦壊期に棲息するすべての国民にとっての必読の書であろう。



これだけは次の世代に伝えたい 恩師が綴りし入魂の一冊 茫洋

Friday, February 27, 2009

西暦2009年茫洋如月歌日記

♪ある晴れた日に 第53回

愛国のマーチに胸は高鳴りて今宵さんざめくブラスの祭典
 
あやしくも胸揺るがすは極彩のジンタブラスの猛き咆哮
 
わが庵にはじめて咲きたる梅の花二輪なれども姿うるわし
 
待ち待ちてついに咲きたるむめの花二輪に添いて妻と楽しむ

果樹園の白梅いまだ四分咲きにして富士のお山は本日見えず

長男と泉水屋にて京急バスの回数券買う楽しき日曜

大いなる楠の幹を切り倒し横浜への眺望ひろげし仕業を憎む

遥かなる浅間山より飛びきたる灰色の砂車窓を塞ぐ

つとめてあかるくいきようでもどれくらいできるかしら

明日持っていく物は今晩中に揃えておきなさいなんて母も言わなかった

嵐の夜西御門の哲人セネカのごとく逝けり江藤淳

雷鳴が轟き渡る西御門セネカのごとく自刃せし君

オバマとなら和解してもいいとフィデルフィデル和解せよ

香ばしき麹の匂いに包まれて年九袋の味噌を仕込めり

余の髪かはたまた妻の髪か浴槽の流しに見つけた白き髪

君は岳私は大天使ガブリエル二人で成りきる風のガーデン

お父さんがく君のがくは八ヶ岳の岳だよと息子いい

思藻がないから語らない 歌がないから歌わない

拝金のドグマで全身武装して装備して朝から晩まで金利を語る

障ぐあい者万歳! 万国の障ぐあい者団結せよ!

キリストも釈迦も太子もモハマドもアジアの果てにて悟達せし人

悴む手われもまたミミのマフにて温まりたし

おちよおちよみなおちよ世界の底が抜けるまで地獄の釜が抜けるまで

新宿のタワー9階1枚400円叩き売られしリヒテルバッハ平均律

あほばかの鎌倉市役所が薙倒したる不毛の荒野に土根性蛙あり 

人の物は自分の物我良主義強欲主義者横行の世を洗濯すべし立替るべし


この春もおたまに出会いしうれしさよ

紅白の梅を咲かせた古家かな

落ちていく世界の底が抜けるまで

鎌倉に生まれて死んだ佐々木ムク

春雨を聴くや五尺の土の下
 
コゲラ叩く大樹の下を通りけり

ただひとり今日もポーチを立て直す大工あり


♪青空や日本全国梅便り 茫洋

Thursday, February 26, 2009

牧原憲夫著「小学館日本の歴史・文明国をめざして」を読んで

照る日曇る日第231回

明治7年1874年7月、に尊敬すべき父兄の遺体を平然と火葬する仏教徒に怒り狂った神道派の要請を受けて、同年7月、明治政府は「火葬禁止令」を布告すると、火葬派の仏教徒のみならず多くの国民からの反発が高まった。

著者によれば、わが国における火葬の歴史は、文武天皇4年700年の僧道昭からはじまる、と「続日本紀」に記されているが、実際にはそれ以前に火葬された人骨が多数出土しているそうだ。私の住まいのすぐ近所にも鎌倉時代の「国立中世火葬センター」の遺跡があるし、火葬は我が国の伝統的な古くからの葬礼作法のひとつだった。

お釈迦さまも火葬されたが、たまたまそれがインドの風習であったからに過ぎず、「そもそも仏教の教義と火葬とはまったく関係がない」と、著者はいう。実際当時の仏教徒の大半は土葬であり、江戸時代の江戸、大坂、京などで火葬が広まったのは、墓地不足が原因だった。

ただし浄土真宗だけは例外で、祖霊信仰を否定した親鸞が簡便な葬礼として火葬を勧めていたために、「火葬禁止令」が出ると、各地の門徒は土葬した墓の上で薪を燃やして心を慰めるしかなかったそうだ。

翌明治7年、「朱引内埋葬禁止令」が出されたのをきっかけに、火葬派がいっせいに反撃を開始する。「火ほど清いものはない。埋葬スペースが狭いから都市計画の妨げにならないし、どこで死んでも家族と離れずに郷里の墓に入れる」。「火葬は残酷だというが、「大切なる体を泥土中に埋め、漬物のように大石を置き、ゆるゆると腐らし、そろそろと蚯蚓責めにするのはいかがなもののか」などと、当局に懸命にアピールした。

事実「復活」に備えて遺体を保存してきたキリスト教国でさえ、都市の墓地不足や衛生を理由に火葬が盛んになり、ちょうどこの年には英国でも「火葬協会」が設立されていた。
ちなみに幕末に浦上の家呉隠れキリシタンが捕縛されたのも、仏式葬儀の拒否が発端だった。明治政府は幕府以上にキリスト教を弾圧して国際的な批判を浴びており、キリスト教式の葬儀や墓地をめぐるトラブルも絶えなかったのである。

その結果、明治8年5月には「火葬禁止令」は廃止され、神葬祭用に設置された東京の青山墓地や谷中墓地まで一転して宗教とは関係のない公営墓地になった。また同じ年の11月にはキリスト教を含めた信教の自由が公式に認められ、10年には神道派の拠点であった教部省が廃止され、役場による伊勢神宮大麻の配布も翌11年には中止された。

かつて私はジェーン・バーキンを鎌倉の収玄寺に案内したおりに、彼女から日本の火葬の歴史について質問され、恥ずかしながらろくに答えることができなかったのであるが、いまならなんとか説明できるぞ、と本書を読んでおそまきながら思ったことだった。

思藻がないから語らない 歌がないから歌わない 茫洋

Wednesday, February 25, 2009

梅原猛著「うつぼ舟1 翁と河勝」を読んで その2

照る日曇る日第230回

著者が梅棹忠夫、上山春平などと打ち合わせが終わって、京都・祇園のお茶屋で四方山話に興じていると、突然酔っぱらった吉川幸次郎が部屋に乱入してきた。

偉大なこの中国文学者は、酒が入ると荒れる傾向があったが、その日はなにやら異常な殺気のようなものが漂っていた。危険を感じた梅原はそっと席を移ったので、その結果吉川は梅棹の隣の席に座ることになった。

すると酒乱の大学者は、いきなり「お前がつまらん学問をやっている梅棹か。お前のやっているフィールド研究などというものはいい加減なものだ。文献を読まないような学問は学問ではない」と面罵した。

そこで梅棹が、「文献研究だけではとても歴史の真実は解らない。文献には結構嘘が書いてある」と反撃すると、当時70代の吉川は激怒して50代の梅棹に殴りかかった。
すぐに腕っ節の強い上山と福永光司が中に入り、すぐれた道教の研究者であるとともに柔道5段の福永が吉川をはがいじめにして隣室へ連れて行ったそうだ。

さらに梅原は、「その後ろ姿に梅棹が、『この馬鹿ジジイ』と浴びせた罵声が、いまだに私の耳の底に残っている。それは私の幻聴かも知れないが、確かに私はそう聞いたと思う。」と記してから、己の学問に絶対の自信を持つ2人の碩学へのオマージュを捧げている。

私はこの興味津々たるエピソードを目にして、梅棹忠夫と福永光司がさらに好きになったが、この「唐詩選」の編者がかのアルコール・ラムボオ的政治家、宮沢喜一や中川昭一と同じ穴の貉であることを知っていっぺんで嫌いになったが、なぜか本書の著者に対してもいささか興醒めしたことを告白せざるを得ない。


♪拝金のドグマで全身武装して装備して朝から晩まで金利を語る 茫洋

Tuesday, February 24, 2009

梅原猛著「うつぼ舟1 翁と河勝」を読んで その1

照る日曇る日第229回

日本書紀によれば秦の始皇帝の子孫と伝えられる秦氏は、応神天皇の14年に百済より渡来し、優れた養蚕技術で仁徳天皇の御代に素晴らしい絹織物を生産したために「波陀」、雄略天皇の時代には、「うずまさ」の姓をたまわり、現在広隆寺がある葛野を拠点に京都盆地全体で隆盛を極め、京都文化の基礎を作ったといわれている。

現在、秦、波多、羽田、八田、矢田、波多野、幡多などの姓を持つ者の多くはこの秦一族の子孫であり、機織りから転訛した服部、一族の秦河勝にちなむ川勝の姓を持つ人もこの偉大な一族の末裔である。ちなみに私の丹波の郷里は古代からこの秦氏の一大根拠地であり、偉大な養蚕家にして基督教者、波多野鶴吉翁が創立された郡是製糸の本社もこの地にあった。

さて聖徳太子の政経ブレーンとして活躍した秦河勝は、太子一族の没落後、藤原鎌足の陰謀によって流罪の身となり「うつぼ舟」に乗って西海を漂い、播磨の国坂越に漂着し死後は大荒大明神として祀られた。

河勝には3人の子があり、1人は武を、1人は楽を、もう1人が猿楽を伝えた。武を伝えたのは大和の長谷川党で、楽を伝えたのは河内の四天王寺の伶人、そして猿楽を伝えたのが円満井の金春大夫である。世阿弥の娘婿金春禅竹は、秦河勝から数えて40余代の孫であるから、秦河勝は能の創始者といわれている。

また著者によれば、秦河勝は日本最初のキリスト教信者であり、彼の庇護者であった聖徳太子もそれに影響されたと思われる。ペルシアのササン朝に保護されたネストル派のキリスト教(景教)は当時ペルシアから中国在住の中国人(秦人)に広まり、それが朝鮮半島を経由して日本の播磨の国坂越に上陸してそこにダビデ礼拝堂が建てられた。それが現在の大避神社で、古来から存する井戸はヤコブの井戸であったと考えられる。
 
なお著者は、このキリスト教伝来と同時に、あの謎に満ちた摩多羅神も輸入されたのではないかと考えているようだ。

キリストも釈迦も太子もモハマドもアジアの果てにて悟達せし人 茫洋

提案と回答と感想 その2

バガテルop90


○提案

鎌倉市の「障がい者計画」への要望

1「障がい者自立支援法」と合わせて市の障害福祉計画の見直しを!

「障がい者自立支援法」は、障がい者を無理やり自立させようとして施設から追い出そうとしたり、収入のない障がい者に従来よりも経費負担を強いて自活困難に追い込むなど、数多くの問題点をかかえており、現在各政党でも白紙撤回や改定を検討中である。従ってこの法律をもとにした障がい福祉計画の実施は、新法の成立までいったん中止しそれから再検討するべきではないだろうか。

2障がい者個人個人の状況に対応したきめ細かい施策を!

市の障がい福祉計画の福祉施設から地域生活への移行の「数値目標」にあまりにも力点がおかれすぎている。施設からどうしても移行できない障がい者も数多く存在しているのに、そうした個人個人の実態とは無関係に年度別の数字で減少計画を立てることは無謀であり非人間的である。数値計画自体を撤廃し、もっと障がい者個人個人の状況に対応したきめ細かい施策を充実させるべきではないだろうか。

3収容施設の増設を!
現在鎌倉市にはかなりの数の通所施設や地域作業所が存在しているが、入所施設は1か所しかない。今後その需要は急速に高まると予想されるので、その増設を希望する。

4「障害者」から「障碍者」へ
現在逗子市など全国の多くの市町村では、いわゆる障害者のことを「障碍者」と表記するようになっている。それは「障害」という表記がなにか悪いもの、世間に悪をなすもの、という印象をともなうところから、あえてニュートラルな「障碍」あるいは「障がい」という用語を使うように変化しているのである。本市でも遅まきながらこの表現法を採用されんことをのぞむものである。わたしたちは害虫ではない。


○回答

お寄せいただきましたご意見につきまして、次のとおりお答えいたします。

1について
 平成18年度に施行された障害者自立支援法では、全市町村に「障害福祉計画」の策定を義務づけており、鎌倉市においても、鎌倉市障害者福祉計画を策定いたしました。
 今回の計画の改定作業も、障害者自立支援法に基づき、国の指針を受けて、平成20年度末までに全市町村で取り組まなければならないものです。なお改定にあたっては利用状況やニーズをふまえ、検討や見直しを行います。

2について
 障害福祉計画は、利用状況やニーズに対応したサービスの提供の確保を図るための数値目標を定めた計画となっています。数値目標やサービス種別は国の指針に基づき全国共通のものとなっております。なお、地域生活支援事業の部分につきましては、任意事業も含め、市独自の内容となっています。
 利用者一人ひとりの利用状況に対応したきめ細かい事業の展開はとても大切なことと認識しており、計画期間中においては進行評価を行い、点検、管理をしていきます。

3について
 いわゆる親なきあとのケアについては、市としても重要な事項としてとらえております。社会福祉協議会やNPO法人などと連携して成年後見制度利用支援事業などを推進していきます。
 国は新たな入所施設を認めない方針でいるため、新たな施設を作ることは困難な状況ですが、施設入所が必要な利用者には利用者の生活環境や状況に応じた支援を実施します。さらに在宅でのサービスを利用する方への支援も事業者と連携を図り、事業の充実を図り実施していきたいと考えています。

4について
 「障害者」の表記につきましては、鎌倉市障害者福祉計画を策定する経過の中で検討した際、「法律用語としてはひきつづき表現が残ることから今後も国の動向を見据えていく」、「表記よりもまず施策等の充実を図ることを推進すべき」という意見があり、「障害者」の表記を使用することとなった経緯があります。 しかしながら、ご指摘いただきましたように、表記を工夫している市町村もありますので、表現方法も含め、よりよい施策や事業の推進が図られるよう、表記から市民が受けとめる印象も考慮して、ひきつづき研究してまいりたいと思います。

 今後とも、市民に信頼される市政を進めてまいりますので、ご理解ご協力のほどよろしくお願い申しあげます。

       平成 21 年 1 月 7 日 鎌倉市長  石渡德一

○感想
市長より懇切丁寧な回答をいただいたことには感謝しているが、やはりお役所一流の官僚的な答弁の域を出ない点に不満を覚える。こういう要望にはこういう風に答えておけばよい、とでもいうような。
卒璽ながら私はこれから障がい者のことを「障ぐあい者」と呼びたいと思います。


障ぐあい者万歳! 万国の障ぐあい者団結せよ! 茫洋

Monday, February 23, 2009

提案と回答と感想 その1

バガテルop89

○提案

拝啓 松竹本社殿

 貴社築地歌舞伎座建て替え問題についての提言 このたび貴社が、1950年に竣工した吉田八十八設計の第四期の建物を、一九二四年竣工の岡田信一郎設計の壮麗な桃山様式のお手本(第三期)に土台を戻して、通算第五期の新歌舞伎座立ち上げをひとたびはめざされたことは、歌舞伎座のみならず、銀座と東京の建築のあるべき姿に照らしてもっとも賞賛に値する勇気ある決断でした。 このようなよき企てが、都知事の個人的かつ一方的な意見で圧殺され、日の目をみなくなることはとても残念ですし、もしそうなれば銀座、東京のみならず日本全体の大きな文化的損失だと思います。 わが国の最高の芸術のひとつである歌舞伎の聖なる殿堂を、「より新しく」ではなく、「より古く由緒ある姿かたちで再現、再創造」しようというこの歴史的な英断を、「銭湯みたいで好きじゃない」「オペラ座のようにしたほうがいい」などという都知事の鶴の一声で取り下げるとはなんと愚かなことでしょうか。「新しさを求めて意味不明の新しさに迷う」のではなく、「古きをたずねてその新しさをふたたび見出すこと」こそ、貴社が、そして私たちが心の中でひそかに求めている現代建築のあるべき姿ではないでしょうか。 だからこそ辰野金吾設計の当初案を復元しようとしている東京駅のやり方は多くの人々から支持されていますし、数々の由緒ある建物を破壊してきた三菱地所さんもかつて壮麗さを誇った三菱1号館をそのまま再建しようとしています。東京駅の傍にある中央郵便局をなんとかそのままの形で残したいと願う私たちの思いもこれと同じです。 そこであの不朽の「寅さんシリーズ」をはじめ貴社の輝かしい映画歌舞伎製作と興業を愛し続けてきた小生からの切なるお願いは、貴社が先日マスコミ発表された「都知事推薦の現行案」を廃棄して、もう一度「当初のオリジナル案」に戻り、あの素晴らしい歌舞伎座建て替え案を断行していただくことです。 貴社と歌舞伎の愛好者、そして全国の心ある人々は、必ずや貴社の勇気ある決断を支持することでしょう。                     敬具
○回答

この度は、歌舞伎座再開発に関しまして、貴重なご意見をいただき誠にありがとうございました。 また、返信が遅くなりまして、誠に申し訳ございません。 いただいたご意見は関係者に回付いたしました。 歌舞伎座再開発につきましては、耐震性能の確保、劇場機能の改善、環境保全や地域との共生など様々な角度から計画を検討し、 なによりお客様の声を第一に反映できるよう、努力してまいる所存でございます。 今後ともご理解とご支援を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。------------------------------------ 松 竹 株 式 会 社   東 京 本 社


○感想
暖簾に腕押しとはこのことか。関係者とはどこのどなたでござるか。
せっかくおだててあげたのに、あまりにつれない返事にがっかり。
石原都知事の意見など反映せずに、私の意見をしっかり反映してほしい。


人の物は自分の物我良主義強欲主義者横行の世を洗濯すべし立替るべし 茫洋

Saturday, February 21, 2009

永井荷風、西洋料理を論ず

ふあっちょん幻論第40回 メンズ漫録その18 断腸亭主人紳士洋装論最終回


ゼントルメンともあろう人物が、洋服に憂き身を窶しても料理にはてんで構わないのはまことにおかしい。

そもそも西洋料理の出来栄えは、コンソメ、吸い物を味わえば、そのすべてがわかる。フルコースなど喰らう必要はないのである。

1926年(大正15年)現在、本邦の西洋料理のベストは、横浜・神戸のホテル、銀座、神田小川町の順である。されどデザートや洋酒の備蓄が弱いのは残念なり。白ぶどう酒はボルドー産は甘すぎて食事に適せず。すべからくライン産を備えよ。

銀座周辺地区においての第一位は銀座竹川町コットなりしが、今はなし。日比谷帝国ホテル、築地明石町オテルサントラルよろしからず。けだし東都最美味は虎ノ門東京倶楽部なるべし。されど外交官、華族集会場なれば身分なきものは出入りしがたし。

銀座南鍋町の風月堂良し。木挽町精養軒、芝口有楽軒、京橋三橋亭だめなり。麹町富士見軒、新橋金春通り壷屋よし。

東京市中でアイスクリームが登場したのは明治32、3年頃のことなり。当時はチップを1割与えしものなり。

浅草公園の料理屋に個々のテーブルなく、NYウオール街のレストランのごとくカウンターで食事するスタイルの食堂あり。これ本邦の最新型スタイルなるべし。

されど、売春婦を写真と切符で買う国民は、世界広しといえども日本国のみならん。浅ましきこと限りなし。


嵐の夜西御門の哲人セネカのごとく逝けり江藤淳 茫洋

雷鳴が轟き渡る西御門セネカのごとく自刃せし君 茫洋

永井荷風いわく、「画工・詩人・音楽家・俳優などは方外の者なり。」

ふあっちょん幻論第39回 メンズ漫録その17 断腸亭主人紳士洋装論その8


仏蘭西では、画工・詩人・音楽家・俳優などは「方外の者」とみなされ、礼儀に拘捉せざるも之を咎むる者なし。

されば、この仲間の弟子には自ら特別の風俗あり。頭髪を長く伸ばし、衣服はビロードの仕事服にて襟飾りの長きを風になびかし、帽子は大黒頭巾のごときを冠る。

冬も外套を着ず、マントーを身にまとう。眉目清秀なる青年にてその姿ややみすぼらしきが雪の降る夜なぞ胡弓入れたる革靴を携え、公園の樹陰を急ぎ行く姿なぞ見れば、何となく哀れに、また末頼もしき心地せらるるなり。かかる風俗巴里ならでは見られぬなり。


あまでうす曰く、これさながら「ラ・ボエーム」の一場面のごとし。

♪悴む手われもまたミミのマフにて温まりたし 茫洋

Friday, February 20, 2009

愛犬ムクを悼む歌  没後7周年の夜に

♪ある晴れた日に 第52回


OH!アデュー 人語をはじめてに口にして 
老犬ムクは いま身罷りぬ

ネンネグー 阿呆ムク 可愛ムク 処女のムク
盲目のムク いま昇天す

鎌倉の 山野を駆けし細き脚 
そのマシュマロの足裏を ぺろぺろ舐めおり

ここで跳べ ザンブと飛び込む滑川 
ウオータードッグよ 輝きの夏

大蛇(くちなわ)を ガブリくわえて二度三度
振って廻して ぶん投げしムク

ヒキガエルの逆襲浴びし野良のムク
目の毒液をヒリヒリはがす 

17年 一直線に駆け去りぬ 
今一度鳴け 野太きWANG!

      
「狂犬病の注射に出頭せられたし。佐々木ムク殿」と鎌倉保健所は葉書を寄越せり。

庭に眠るムクのからだの腹のあたり
濃き紫のアサガオ咲きたり

崖下の庭の土なるムクの墓
アオスジアゲハ雌雄乱舞す

まぎれもない獣の臭いが好きだった
丘の上にて尾振りし汝(なれ)の

春風に吹かれて一声吠えるムク

丘に立ち一声吠えしうちのムク  

鎌倉に生まれて死んだ佐々木ムク

春雨を聴くや5尺の土の下 

Thursday, February 19, 2009

永井荷風いわく、「赤靴は欧米ともに夏にのみ使用すべし」

永井荷風いわく、「赤靴は欧米ともに夏にのみ使用すべし」

ふあっちょん幻論第38回 メンズ漫録その16 断腸亭主人紳士洋装論その7


ハンケチは晒し麻白を上等とす。熱帯植民地はかならず驟雨があるので、欧州では外出時に傘を携行するのである。

ヘルメット帽は雨には傘となり、炎天には空気が通いて涼しく、熱帯には最高である。日本でも一時流行したのに、なぜ最近廃れたのか?

赤靴は欧米ともに夏にのみ使用すべし。ただし絶対に礼式用ではない。だのに日本でフロックコートを着て赤皮の半靴を履く人種あり。これは、紋付羽織袴で足袋を履かずにいるようなものなり。

コゲラ叩く大樹の下を通りけり 茫洋

Wednesday, February 18, 2009

永井荷風いわく、「肌着を人目にさらすなかれ」

ふあっちょん幻論第37回 メンズ漫録その15 断腸亭主人紳士洋装論その6
  
永井荷風またいわく。メリヤス(ニット)肌着は褌(ふんどし)と同様、いかなる場合にも人目に触れてはならない。

ホワイトシャツの袖を捲り上げても、肌着は出すな。シャツは米国では白のみならず変わり縞多数あり。これ英国流にあらず。

近年堅いカラーの代わりにシャツと共色の柔らかい襟を使う例あり。これぞ米国の若者流なり。

米国は欧州と違って夏暑いので、お上品ではない。日本では温度は米国より低いが、湿度は高い。洋服には不便であるが、むかしは「武士のカラ脛、奴の尻の寒晒し」と言うておった。いつの世にも勤めはつらいものなり。されど極力、南洋植民地風にせず、せめてNY風をめざすべし。


ただひとり今日もポーチを立て直す大工あり 茫洋

Tuesday, February 17, 2009

荷風いわく「鳥打帽はパリの新聞売りのためのものだ」

ふあっちょん幻論第36回 メンズ漫録その14 断腸亭主人紳士洋装論その5

永井荷風またいわく。帽子は洋服に合わせること。鳥打帽は銃猟、航海旅行用、そしてパリの新聞売りのためのものだ。黒の山高帽が普通である。

米国の東部の都市では晴雨ともに風の勢いが甚だしいので、中折れ帽は吹き飛ばされて不便である。その点夏炎天下でも山高帽は大層具合がよろしい。

中折れ帽は春から夏にかぶるべきものであるが、毎年色々な流行があるので、すべからく背広に合わせよ。日本人の古ぼけた中折れは西洋では職人労働者のものだ。

ただし米国では白人階級の上下の差別が無いため、日曜日には職人も黒の山高帽を頭にのせて女房同伴で教会へ行く。パナマ帽は英国で少しは見かけるが、米国では全然見かけない。英米はなんといっても麦藁帽が主流である。


おちよおちよみなおちよ世界の底が抜けるまで 茫洋

Monday, February 16, 2009

荷風いわく「日本製は中国に劣る」、と。

ふあっちょん幻論第35回 メンズ漫録その13 断腸亭主人紳士洋装論その4


永井荷風いわく。洋服仕立ては日本より中国に限る。とりわけお薦めしたいのは帝国ホテル前のシナ人洋服店である。銀座の「山崎」などは糸を惜しみ、なおかつ高い。縫い目、ボタンのつけ方健固ならず。まことに「日本の商人ほど信用を置きがたきはなし。」

あまでうす註。この山崎とは、米国ミッチェル裁断学校を卒業した山崎隆造を指す。後に彼は明治37年開催の米国万国博覧会仕立て服コンクールで金賞を受賞し、銀座に「山崎高等洋服店」を開いたが、荷風はその「山崎」が駄目だと言っているのである。また当時の国産よりも中国人による縫製に軍配を上げているのも興味深い。荷風自身もシナ人などと慎太郎風の「差別用語」を使っているように中国への蔑視はあるのだが、にもかかわらずいながらも、見るべきところをきちんと見ている冷徹な文学者の視線に感動すら覚える。

それはともかく、いずれ21世紀のわが国の全産業部門で、こういう荷風的事態を迎えることだろう。


新宿のタワー9階1枚400円叩き売られしリヒテルバッハ平均律 茫洋

Sunday, February 15, 2009

断腸亭主人の紳士洋装論その3

ふあっちょん幻論第34回 メンズ漫録その12

断腸亭主人、荷風散人いわく。洋服の手本は西洋である。しかし色白の西洋人に似合っても、黄色の日本人には合わない色柄が多い。例えば英国人が着るキツネ色の外套は、日本人には似合わない。
日本人には黒・紺・ネズミが無難である。また縞柄の粗いものは下品になりがちだ。しかし霜降りなら無難である。

形は、背広、モーニングコート、フロックコート、燕尾服がある。背広は普段着でまあ着流しと同じようなものだ。日本人は背が低いから、モーニングは似合わない。

スーツは米国では欧州に較べて上下ともゆったりした仕立てだが、同じ欧州でも英国は少しゆるやかな感じである。仏蘭西はキチンと身体に合わせたシルエットであり、袖のつけ方なども堅苦しい。

婦人物なら仏蘭西が一番と言われるが、紳士の背広は英国が世界で随一だ。しかし私の経験では、日本人には米国風が一番似合うようだ。

上記の永井荷風の見解には、あまでうすも同感です。


あほばかの鎌倉市役所が薙倒したる不毛の荒野に土根性蛙 茫洋

この春もおたまに出会いしうれしさよ 茫洋

Thursday, February 12, 2009

永井荷風の紳士洋装論その1

ふあっちょん幻論第32回 メンズ漫録その10


日本人洋服の着始めは、旧幕府仏蘭西式歩兵の制服であった。その頃、人々はこれを「膝取りマンテル」などといった。御一新となり、岩倉公らの西洋視察(明治4-6年)後、文官の大礼服もでき、上級役人は洋服を着て馬に乗ることとなった。日本では洋服は役人と軍人が公式時に着るものとなった。

内務省の役人だった荷風の先考久一郎は、とてもダンディな人だった。明治12年現在だというのに10畳洋間にイス、テーブル、長椅子をすえつけ、ストーブをたいて、テーブルで家庭料理を楽しんだ。

役所から帰宅すると、彼は洋服を脱ぎ、エビ色のスモーキングジャケットに着替え、英国風パイプでお勉強に励んだ。また雨の日には、木の底をつけた長靴で出勤したという。

断腸亭主人いわく。「上野精養軒にいきて、わが家と同じ料理なりと奇異の思いしたり。」

鹿鳴館華やかなりし頃、荷風は下谷竹町の鷲津家に預けられ、ここから洋服で幼稚園に通っていた。小学校時代は海軍服に半ズボン姿でそれは15、6歳まで続く。

「襟より後ろは肩を被うほどに広く折り返したカラーをつけ、幅広きリボンを胸元にて蝶結び。帽子は広いつば、鉢巻リボン。頭髪は西洋人のように長く刈り込みたり」

永井荷風はファッションはもちろんのこと、衣食住のすべてにおいてヤングジャパンの欧化文明の最凸端で生活していたことになる。


余の髪かはたまた妻の髪か浴槽の流しに見つけし白き髪 茫洋

メンズ漫録その9 ヤングジャパンとメンズスーツ

ふあっちょん幻論第31回


日本におけるスーツ受容の歴史の特徴とは、①前回の明治天皇家の事例でみたように、
あくまでも「上」からの指令で着せられたこと。②軍服の機能性をウリに官吏の権威を振りかざして大衆化していったこと。③従ってなかなかTPOまで手が回らなかった。ことなどが挙げられます。

最後の点については戦後石津謙介氏が提唱するトラッドが登場するまでわが国の男どもには身につかなかったという意見があるくらいですが、それほど長いメンズ暗黒時代が続いたわけではありませぬ。

たとえばここで紹介しようと思う荷風散人なぞは鴎外、漱石などほぼ同時代の文学者に比べても抜群にお洒落でありました。私はメンズモードの初期の規範はこのダンディによてはじめて確立されたのではないかとひそかに考えております。

前置きはこれくらいにして次回から永井荷風のファッション論を紹介してまいりませう。もっともその材料はすべて1916年(大正5年)に発表された彼の「洋服論」に基づいておりますので念のため。


明日持っていく物は今晩中に揃えておきなさいなんて母も言わなかった 茫洋

Tuesday, February 10, 2009

メンズ漫録その8 明治皇后の衣服改革

ふあっちょん幻論第31回

 明治19年、天皇は病気がちで執務と行幸を怠ったが、その代理を洋装で務めたのが皇后だった。

宮廷の旧来の類型を打破して、皇后が初めて洋装で公衆の面前に登場したのは同年7月30日に華族女学校に行啓し、卒業証書授与式に出席した時だった。

翌月の8月10日には、皇后は天皇とともに西洋音楽会に出席し、洋服姿で初めて外人客に接見した。それは鹿鳴館の物真似ではなく、聡明な彼女の内部で芽生えた自立的な自己意識の産物だった。

さらに皇后は、天皇の代理で横須賀造船所で行われた軍艦武蔵の進水式に出席したり、赤羽で行われた近衛兵の戦闘訓練を観戦し、11月26日には巡洋艦浪速、高千穂に試乗して水雷発射作業を観覧し、「事しあらばみくにのために仇波のよせくる船もかくやくだかむ」と詠んだ。

翌20年の元旦、皇后はこれも開闢以来初めて洋装大礼服を着け、宮中の祝賀を受けたが、以後このコスチュームがこの種の儀式での慣例となった。1月17日に彼女は女子服制に関する「思召書」を発布したが、ここで彼女は「着物は14世紀南北朝以来の戦乱期が残した悪しき名残であり、今日の文明に適しないばかりか、古代の日本女子の服装とも異なる。着物よりもむしろ西洋女性の服装が古代につながる。『宜しくならいて以って我が制と為すべし』と述べ、これが国産服地の改良、販促につながることを期待したのであった。

以上はD・キーン著「明治天皇」からの抜粋でしたが、私はこのような男勝りのスーパー国粋派女帝や三韓征伐に挑んだ神功皇后よりも皇室の非人間性に窮して病気がちの雅子妃の自虐的に抵抗しつつ苦悶する態度の方がよっぽど普通ぽくて好ましく感じられます。


つとめてあかるくいきようでもどれくらいできるかしら 茫洋

世界のオケのライブを聴く

♪音楽千夜一夜第57回

「レコード芸術」の1月号をぱらぱら見ていたら、世界各地のラジオ放送を無料でポッド・キャスッティング聴取ができるようになったという記事が出ていた

最近バイロイト音楽祭やベルリンフィル、メトロポリタンオペラのライブや過去の放送を有料で聴取するシステムができたことは知っている。我が国の新日フィルの演奏が「日経パソコンの特設サイト」で、読響のライブが「第2日本テレビ」の映像で視聴できることも知っていた。しかしニューヨーク・フィルやシカゴ交響楽団までもが無料で最近の、あるいは過去の名演奏をネットで聴かせてくれるようになったとはついぞ知らなかった。

早速昨日からドゥダメル指揮NYフィルのマーラーの5番やピンカス・ズーカーマンの独奏によるクヌセンのバイオリン協奏曲、ムストネン独奏のモーツアルトのピアノ協奏曲11番などを聴きまくっているが、演奏も音質も素晴らしい。

ただひとつだけ残念なのはシカゴ響をバックにモーツアルトの13番と23番の協奏曲を弾き振った内田光子の昨年12月の演奏の再放送期限が2月2日で切れてしまっていること。切歯扼腕とはこのことか。

しかしこれまでプロムスなどをさんざん楽しんできた英国BBC放送局のクラシックチャンネルとあわせて、またしても新しく魅力的な世界が眼前に広がった大いなるよろこびを覚える。

http://nyphil.org/attend/broadcasts/index.cfm?page=broadcastsByMonth

http://www.cso.org/main.taf?p=15,1

大いなる楠の幹を切り倒し横浜への眺望ひろげし仕業を憎む 茫洋

Monday, February 09, 2009

滋味ある演出

バガテルop88

なぜだか最近NHKと仲良くしている富士テレビが、「風のガーデン」に続けて山田太一脚本の「ありふれた奇跡」というドラマをやっている。自殺未遂の三人の男女を中心に展開する愛のドラマだが、前回は脇役の二人の女性の間でこんなシーンがあった。

ヒロインの母親役の戸田恵子が(女装趣味に走ったりしている夫にあきたらず)不倫に走ったが無残なまでに振り棄てられて落ち込んでいる。そこへ姑の八千草薫がウイスキー片手にやってきて慰める。

「まあまあそんなに落ち込んでかわいそうに。でもねえ、私もあなたくらいの年ごろの時にもう死んでしまおうと思ったことがあるのよ、あなたとは理由が違うんだけど」というような前置きがあって、彼女はいい歳をした家庭の主婦が亭主とは別の男に真剣に恋した話を淡々と語る。

俄然全身が耳になった嫁が、「まあ、お母様のような大人しい方にそんなことがあったなんて」と驚いていると、八千草薫が「でもあの男はよくなかった。やめておいてよかった。それが正解だったのよね」とさらりというのだが、その時遅く、かの時早く、戸田恵子は義母のその告白が嫁の行状の全てを鋭く見抜いたうえでの「お話」であることに気づいて愕然とするのである。

こういうさりげないけれども人間の心肝を寒からしめる「ありふれた奇跡の一瞬」こそ山田太一の真価であり、最近の若い脚本家にはなかなか真似ができない境地なのだろう。


長男と泉水屋にて京急バスの回数券買う楽しき日曜 茫洋

Sunday, February 08, 2009

鉄腕アトムと坂本選手と谷川選手

バガテルop87

なぜだかNHKで「鉄腕アトム」の番組をやっていた。いろんな人がいろんなことを述べていたが、坂本龍一が、「手塚治の最大の特徴は曲線の美しさにあると思う」というので、またまたそんな出まかせを、でももしかするとホントかなあ、と半信半疑で「リボンの騎士」の表紙を見てびっくり。
そのすらりと伸びた騎士の足の描線の官能的なまでにデリケートな美しさに三嘆。坂本選手はさすがだと思った。それから手塚治はおそらく美脚フェチだったろう。

せっかく褒めた後ですぐくさすのもなんだが、その坂本選手があまりにも早すぎる自叙伝のようなものを新潮社の「エンジン」に連載しているのはいかがなものか。
鈴木編集長のいつもながらの「目のつけどころのシャープさ?」には敬服するが、こういうものは死ぬ間際の日経の「私の履歴書」か、死んでから第三者が書くものだろう。そうではないかね、坂本君。

それにしても「鉄腕アトム」の主題歌は素晴らしい。これをすこし音程をはずしながら手塚治が歌っている画面を見るとなんだか泣けてくる。作詞は谷川俊太郎だが、これは彼のこれまでのどんな詩よりも素晴らしいと思うのは、私だけだろうか。

紅白の梅を咲かせた古家かな 茫洋

Saturday, February 07, 2009

メンズ漫録その7

メンズ漫録その7

ふあっちょん幻論第30回

このようにして洋服は、大元帥陛下の軍服を頂点に、軍国主義と官僚主義の2つに跨って新しい権威の象徴となった。

最初に洋服になじんだのは、官吏、インテリ、富裕層だった。彼らは、昼は燕尾服(テイルコート)、夜はフロックコートを上手に着こなしたのだが、これはなぜか正式の英国流とは異なる着方だった。

英国ではダブル前の丈の長いフロックコートが長期にわたって昼間の正装であったが、1926年にジョージ5世が準正装のモーニング(午前中に行なう乗馬のために前裾がカットされ背中には裾を留めるボタンが2コついている)を着てチェルシー・フラワーショーに出席したのを契機に、モーニングがフロックに代わって昼の正装になった。明治のエリートたちはそんなことなどお構いなくわが道を歩んでいたのである。

現在の我が国では、モーニングは昼夜を問わぬ正式礼服であり、燕尾服は格調高い宮中最高礼服として通用している。大隈重信、板垣退助、伊藤博文など明治の政治家もその大半がフロックコートを着用していた。

ちなみにタキシードは、絹布が張られた剣襟かへチマ襟の上着と顕章つきシングルズボンの夜の正装である。色はクロかミッドナイトブルーで黒の蝶ネクタイとカマーバンド、エナメルのオペラパンプスなどとともに着用する。ブラックタイ着用とあればこれを着るのが無難だろう。

ちなみついでに、このタキシードはNY郊外のタキシードパークでタバコ王ロリラード家の4世がここにタキシードクラブをつくり、1886年10月10日にパーティを開催したのだが、その時に英国帰りの息子が、「尾のない燕尾服型の上着」を一着におよんで登場したのが起源だという。

しかし英国人は、これは「ディナージャケットだ。本物のタキシードはエドワード7世の注文で1865年ヘンリープールが制作したのだ」と称して異を唱えているという。
以上の記述の大半は、服飾評論家中野香織氏の指摘による。


わが庵にはじめて咲きたる梅の花二輪なれども姿うるわし 茫洋
 
待ち待ちてついに咲きたるむめの花二輪なれども妻と楽しむ

Friday, February 06, 2009

メンズ漫録その6

ふあっちょん幻論第29回


明治5年11月12日、文武百官の大礼服は、正服は洋服、祭服だけは衣冠束帯と改められた。そしてこの決定を待っていたかのようにして、ちょうどこの年に岩倉使節団が海外に旅立つのである。

翌明治6年以降、明治天皇は死ぬまでのおよそ40年間洋服に身を包んでいたが、それには海外から帰朝したばかりの近代化論者の大久保利通の意向が強く働いていた。けれども明治から昭和のはじめまで一般大衆はビジネスシーンにおいて和服を着ることが多かった。和から洋への転換は、あくまでも天皇の権威を借りた上からの強制であることに留意する必要がある。

この転換がまだ中途半端であることをみてとった明治政府は、急遽「上滑りまま走り続ける洋化政策」を採用する。明治16年には日比谷に鹿鳴館が竣工。ここを拠点とした鹿鳴館外交を通じて治外法権と関税統制を撤廃し、不平等条約を改正しようとしたのが井上馨の狙いだった。

ちなみにこの失われた名建築の設計は英国の建築家ジョサイア・コンドルで、この「鹿鳴」の名は「詩経」から取っているが、これは井上馨夫人の武子(三島由紀夫の「鹿鳴館」のヒロインである元芸者朝子のモデル)の前夫中井弘の命名にかかる。中井はパリのムーランルージュのレビューを見て、京の「都踊り」を着想した才人でもあった。

明治18年と20年11月3日の天長節に、伊藤博文&梅子夫妻主宰の大晩餐会がここ鹿鳴館で開催されたことは、よくテレビドラマなのでも紹介されている。


国がおいらにも2万円くれるのか早くくれもっともっとおくれ 茫洋

Wednesday, February 04, 2009

桐野夏生著「女神記」を読んで

照る日曇る日第228回

次々に新しい活動の領域を開拓している気鋭の著者によって、「古事記」の解体と再構成、語りなおしが敢行された。

ここでは「古事記」における神話的な伝承と言葉が、現代にも通底する男と女、女と男のかかわりあいの生々しい対立とぎりぎりの対決の問題として解釈され、語りなおされている。

私たちは著者とともにイザナギ、イザナミの二神になりかわって、国や山河や八百万の神を、つまりはこの世を、全世界を、産み直すのであり、そのことを通じて、父母未生以前の原始的な創世期における、人と人、とりわけ男と女、女と男の相関関係についての記憶と認識を新たにすることになる。

いっぽうそれは、国土未生の状態から初源の国産みにいたる全プロセスの追体験でもあり、柳田國男や折口信夫などの民族学者たちによって考察された南方諸島文化と本土文化の相関関係に対する現代文学からの清新な回答でもある。

「古事記」では諸神中の神として鎮座ましましているイザナギ、イザナミの二神は、ここでは愛と憎悪、怒りと悲しみの化身となり、黄泉比良坂をいくたびも往還しながら、人間的な、あまりにも人間的な、男神と女神の壮絶な争闘を繰り広げ、とどのつまりはギリシア神話にも比定すべき氷のように美しい女神の哀切な勝利宣言で全編の幕を閉じる。地球と宇宙は、母なる子宮と原子心母を軸にして繋がっているのだろうか。

私はこの下りを目にしながら、ムラビンスキー、レニングラードフィルによる「悲愴」の息も絶え絶えな終楽章の断末魔の響きを確かに聞き取ったのである。


遥かなる浅間山より飛びきたる灰色の砂車窓を塞ぐ 茫洋

Monday, February 02, 2009

平川新著「開国への道」を読む

照る日曇る日第227回

小学館の日本の歴史もそろそろ大詰めに近づいた。今回は19世紀の江戸時代を取り扱っている。
本書ではまず西欧、ロシア、米国などが日本に押し寄せてくる環太平洋の時代のなかにあって、露西亜との北方領土画定のせめぎあい、大黒屋光太夫や高田屋嘉兵衛などの漂流民や人質外交戦においても、我が国がそれなりに「帝国」としての存在感を示して列強諸国の圧力に耐えたことが指摘される。

また江戸時代がけっして幕府の専制独裁の世の中ではなく、ルールにのっとった建策はかなりの程度まで受け入れられ採用された民主的?なシステムをもっていたこと、またこの潮流が幕末のペリー来航の際のオープンな開国論議に引き継がれていたこと。

庶民の正義の味方として高く評価されている大塩平八郎が、その裏面では水戸藩に対して特別の好意を示して米価の引き上げにつながるような便宜を図っていること、天保の改革で風俗を取り締まって倹約を断行した老中水野忠邦はもっと再評価されるべきであること。

さらにはそもそも百姓もある時期までは一本差しなら武装が認められており、高杉晋作の奇兵隊以前に、江戸市中に散在した道場主やメンバーの大半、近藤勇の新撰組やその前身の浪士組のメンバーの大半が武士ではなく、もっぱら百姓や神主などの平民であったこと。そしてその歴史と実績が幕末に物をいい、かれら「草莽の庶民剣士」こそが明治維新の立役者であったことなどが、きわめて実証的に語られるのである。


香ばしき麹の匂いに包まれて年九袋の味噌を仕込めり 茫洋

Sunday, February 01, 2009

オッフェンバックのオペレッタ「ジェロルスタン大公妃殿下」を視聴して

♪音楽千夜一夜第56回

オッフェンバックのオペレッタ「ジェロルスタン大公妃殿下」を衛星放送で観劇しました。これはパリのシャトレ座における04年12月のライブです。

シャトレ座といえば昔パリ管の指揮者で売り出し中だった、まだ若手か中堅時代のダニエル・バレンボイムが「ドンジョバンニ」を振った夜に、聴衆の見解がそれこそ賛否両論真っ二つに割れて、ブラボーとブーの2つの叫びが5分間も続いたことが忘れられません。その間、当のバレンボイムが胸に手を当てたまま審判に身をゆだねている姿が印象的でした。

何事につけても良い悪いの意思表示がはっきりしているのがパリの民衆の特徴なのですが、この日の演奏に対してはきわめてノリが悪く、ようやく拍手がわいたのは表題役を演じるフェリシテーィ・ロットの最初のアリアのときでした。浅草オペラなどで一世を風靡したブン大将をフランソア・ルルーが好演していますが、やはりなんといってもベテラン姥桜ロット様の貫禄の歌唱と演技の勝利でしょう。

永井荷風ゆかりのこの浅草オペラでまたしても思い出すのは、田谷力三がうたっていた
スッぺの喜歌劇「ボッカチオ」の有名なアリア「ベアトリ姐ちゃんまだねんねかい」や「恋はやさし百合の花よ」です。かつての私の上司は、これを宴会であざやかに歌いこなして万座の喝采を博したのでしたがいまどきのリーマンにこのように奥の深い芸当ができるでしょうか?

マルク・ミンコフスキー指揮のグルノーブル・ルーブル宮音楽隊は、ブンチャッチャ、ブンチャッチャの力演で、かつてリュリが指揮杖でおのれの足を刺し貫いたさまをしのばせましたが、やはり音楽は2拍子からはじまって3拍子、4拍子へと進化していったのではあるまいかと、まるで阿呆のように思ったことでした。

♪元わが上司N氏の名歌唱「ベアトリ姐ちゃんまだねんねかい」をもいちど聴きたし
茫洋