Wednesday, April 30, 2008

2008年卯月茫洋詩歌集

♪ある晴れた日に その26

春の宵近江の牛を食べにけり

蟷螂の斧振りかざす春の宵

修道女の瞑想破る太刀嵐

桜花一輪拾いて水に浸す

桜咲く今朝の女の薄化粧

これ鶯 ホ長調で鳴いてみよ

ト短調で歌うなハ長調で歌え

景時の行方はいずこ鯨殿

こんな東京に誰がしたんだと慎太郎言い

人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃

新築減り仕事なくなりし甥っ子の心配す

君、そういうことじゃなくて毎日新しい歌を歌うことだよ、下手くそでもね

流れている水の中ではオタマは育たない子供も同じである

ここからは進入禁止と5人組何事にもタブーはあるぞ

ランクル、オートバイは進入禁止おいらは太刀洗5人衆

戯れに歌など詠めばひょいと出るその地金のおぞましきことかな

漠然とした不安なんぞで死んでたまるか死ぬわきゃねえぞ芥川

ヘルメットに棍棒握って武装せしわが手が握りし黄色な檸檬

左手に棍棒、右手に檸檬を握り締め佐藤訪ベトを阻止するぞわれ

一夜にして百花落ち一朝にして百花咲けり

わが庵の天井の木に巣食いたる白色腐朽菌夜な夜な増殖す

ある日の午後妻に別れを告げに来し瓦斯屋の青年故郷で縊る

健常の人を生涯妬みつつなお障碍の人とおるかな

嗚呼遂に我が家は40アンペアになりはてぬ25年間30アンプなりしに

噎せ返る馬酔木の香りに包まれてかの日藤山で捕えしあの岐阜蝶よ

噎せ返る馬酔木の香りに包まれてわが捕えしギリシアの妖精

にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕らしはうちの健ちゃん

しゃがたんぽぽすみれなのはなちゅーりっぷしろやまぶきけふわがにわにさけるはなばな

お前などに今日もお気持ち爽やかにお過ごしくださいなどど言われたくないわい 与黒田某

新築の大工仕事が減りましたと甥っ子はけなげに耐えて春を待ちおり

一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れてしまった
 
そよ風は湿生花園を駆け巡り箱根連山雲湧き起こる

紺碧の空の彼方に何がある翔る男にわれもなりたし

一輪草二輪草てふ白き花おなじ姿で寄り添いにけり

空や木や山を冷たく映せる池ありてシュレーゲルカエルしげく鳴きたり

近づけば両の腕大きく空に広げいまわれを抱かんとするシデコブシあり

柔らかきロストビーフ喰らう吾子を見るこれぞわが生涯最良のときかな

シャガールをシャーガルと言うヤクザが出る日本映画をもう一度見たし 於ポーラ美術館

寝んねぐーして死んでしまえればこんな楽なことはない寝んねぐーする


♪俳句は断想であり短歌は私小説である 茫洋

Tuesday, April 29, 2008

吉田秀和著「永遠の故郷 夜」を読む

照る日曇る日第120回&♪音楽千夜一夜第34回

朝の授業のために湘南新宿ラインに乗りながら、この本を読んでいた。

小林多喜二がビオラを弾いて著者の母上のピアノとデュオを組んだ話、同じ小樽での年上の女性との初めての接吻、大岡昇平の愛したクリスマスローズの花が吉田邸の庭に植えられていることなど数々のエピソードの花束によって飾られた心に染み入る珠玉の随筆である。

鼓膜の中いっぱいに楽の音が満ち溢れ、泣きたくなるような感動が押し寄せてきたのは、「4つの最後の歌」という短編を読んでいるときだった。

1954年、著者はミュンヘンでこの曲の初演をなんとゲルハルト・ヒッシュと中山悌一に挟まれてリサ・デラ・カーサの独唱、ヨーゼフ・カイルベルトが指揮するミュンヘン・フィルの演奏で聴いたという。ああ、なんという夢のような組み合わせだろう!

「4つの最後の歌」はご存知のようにリヒアルト・シュトラウスの文字通り最後の作品であり、歌曲は世に数々あれど、この本で吉田さんが紹介しているヒューゴー・ヴォルフやブラームスよりも私が愛惜措くあたわざる古今の絶唱である。
著者が評しているように、意識の明確さと幻想の深さ、驚くばかりの輝きと闇が、そして生と死が絡み合う比類のない高みに達した崇高な芸術作品である。

その日そのときの演奏が、時空を超越して吉田さんの心の奥底から突如として沸き起こってくる。そうして私たちはもはや最後の日も遠くないことを自覚している著者とともに、天才作曲家の文字通り最後の4つの挽歌をひとつひとつ聴いていくのである。

第1曲は「春」、第2曲は「9月」、第3曲は「眠りにつくに当たって」はいずれもシュトラウスを憎んでいたヘルマンヘッセの作詞であるが、ナチスに肩入れしていた疑惑の作曲家は、善悪を超越した此岸から彼岸にかかる渡り橋の真ん中で、現世への最後の一瞥をくれたのである。ヘッセもって瞑すべし、ということでもあらうか。

吉田さんは第4曲「夕映えの中で」のアイヘンドルフの原詩を翻訳して示す。

おお、広々と静かな安らぎ、
夕映えの中で かくも深く
私たち 何とさすらいに疲れたことか
もしかしたら、これは、死?

そして変ホ長調、アンダンテ、4分の4拍子で生まれ、最後の15小節で再び変ホ長調に戻って永遠に終息した死と美が共存するこの美しい音楽のスコアを、自らの手で書き写しながら、吉田さんはリルケの詩を思い出すのである。

何故ならば、美は私たちの耐えられる限りでの
恐ろしいものの始まりにほかならないのだから (『ドゥイーノの悲歌』

吉田さんは、なぜ死への憧れを歌う音楽がかくも美しくあるうるのか? 美しくなければならないか? と自問し、次のように答えている。

―なぜならば、これが音楽であるからである。死を目前にしても、音楽を創る人たちとは、死に至るまで、物狂わしいまでに美に憑かれた存在なのである。そうして、美は目標ではなく、副産物にほかならないのである。彼らは生き、働き、そうして死んだ。そのあとに「美」が残った。美はその過程の中で生まれてきたあるものでしかない。(中略)セザンヌ最晩年の農夫の肖像を見るがいい。彼を囲んで黄と緑と深い青と濃い茶の光と闇とが入り混じり、音もなく燃えている。セザンヌは何を描いたのか?「もしかしたら、これが死?」

というところで、吉田さんの筆は突然書くことをやめ、それから私の心の中であの懐かしいIm Abendrotの演奏が鳴り響いたのだった。

おかげで私の講義は無残なものだった。しかし、音楽について語る数ページが、その音楽そのものを、無上のよろこびと無限のかなしみとを2つながらに伴いながら、オケと歌手と指揮者もなしに、私の魂の中でいきいきと立ち上がらせるとは、なんという書き手であることか!

「あとがき」のなかで吉田さんは、「歌曲とは心の歌にほかならない」とハイネの言葉を訳しているが、「永遠の故郷 夜」というこの本自体も、隅から隅まで吉田さんの「心の歌」にほかならないのである。

 
漠然とした不安なんぞで死んでたまるか死ぬわきゃねえぞ芥川 亡羊

Monday, April 28, 2008

トルーマン・カポーティ著「ティファニーで朝食を」読む

照る日曇る日第119回

イカの次はなぜか宝石である。

私はいまのところオードリー・ヘプバーンの「ローマの休日」という映画がいちばん好きで、グレゴリーペックとの別れのシーンを見るたびに嗚咽せざるを得ない人なのだが、そんな素敵な映画に主演したヘプバーンが出ているというのでついでに「ティファニーで朝食を」という映画を見たら、それは「ローマの休日」には及びもつかない奇妙な映画で、まあ失敗作といってもいいのだろうが、ゆいいつアパートの窓辺でヘンリー・マンシーニの「ムーンリバー」をギターで弾き語りする小鹿のバンビのようなオードリーの可憐な声と姿だけが記憶に留められた。

「ティファニーで朝食を」の原作がトルーマン・カポーティというアメリカの人気作家の小説であるということは知っていたが、最近私はいまごろになって村上春樹の翻訳で初めてこれを読んだ。するとこれが思いのほかに面白かった。じつにうまく書かれた小説であった。

マンハッタン中の男どもの魂をわしづかみにしたこの小説の女主人公ホリー・ゴライトリーの天衣無縫の魅力は、当たり前の話だが原作のなかでは光彩陸離と輝き渡っている。しかし映画のなかでは、小鹿バンビオードリーがそれなりにファニーであるだけで、それ以外にはなにもない映画といってもけっして過言ではない。

原作のなかでのカポーティは、なぜかフィッツジェラルドやへミングウエイにも似ている。手を伸ばせば届きそうなところにある宝石を心の奥底で追い求めながらもついに手中に収めることのできない男の悲しみの物語が切ないまでにリアルに描き出されている。

それでうれしくなって「ティファニーで朝食を」と一緒に収められている「花盛りの家」「ダイアモンドのギター」「クリスマスの思い出」という3本の短編も読んでみたら、これが「ティファニーで朝食を」よりもよく出来た小説だったのでまた驚いた。
この調子なら昔途中で投げ出したこの人の「冷血」とか「遠い声、遠い部屋」も読みとおせるかもしれない。

もっとも「ティファニーで朝食を」とるというフレーズは、小説のなかではなにがなくほんの1小節しか演奏されていないのに、それをタイトルにしたのは不可解である。ティファニーからタイアップ料金をもらっていたからではないかとさえかんぐられるが、この題名であればこその大ヒットであったのかもしれない。

♪寝んねぐーして死んでしまえればこんな楽なことはない寝んねぐーする 亡羊

Saturday, April 26, 2008

中沢新一・波多野一郎著「イカの哲学」を読む

照る日曇る日第119回

チョウの続きは、イカの話である。

「ある丹波の老人の物語」の主人公がその生涯で最も大きな影響を受けた偉大な実業家にして宗教家、それが郡是を創業したクリスチャンの波多野鶴吉であったが、本書はその翁の孫である波多野一郎氏の遺著「イカの哲学」を再発見した中沢新一による絶対平和論への試みの書である。

特攻隊の生き残りで戦後ソ連の炭鉱で4年間の強制労働に従事した波多野氏は、米国スタンフォード大学でプラグマティズムを学んだ在野の哲学者であった。そして氏は大学の夏休みにカリフォルニアの風光明媚なモントレーの海(私の懐かしき曾遊の地、あんな土地に住んでみたいものだ)で取れたイカの冷凍加工アルバイトをしながら彼独自の生命哲学を体得するのであるが、著者は彼の「イカの哲学」の中に人間のみならずイカやさまざまな動植物の生命価値をヒトと同等に尊重する絶対平等絶対平和の思想を見出し、それが21世紀の人類と地球の運命を変える可能性を秘めていると説くのである。

せんじつめれば、人間中心主義による通常の平和論では人間の遺伝子に内蔵された戦争を発現せざるを得ないが、「イカ中心主義」に立脚し、知性と生命あるものすべてが、生ある森羅万象の生命の実存のかけがえのなさを体得すれば、戦争を不可能にする契機を見出すこともあながち不可能ではない、というのが波多野哲学のいちばん大切なポイントではないかと私は思った。

基本的には金子みすゞの「大漁」や宮沢賢治の「ヨダカの星」「銀河鉄道の夜」の世界に通底する大悲・大慈の思想ではないだろうか。

朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ

はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう

この金子みすゞの視点である。

油の乗り切った当代一流の思想家が、ジョルジュ・バタイユのエロチシズム論を引用したり、生物学の知見やら卓抜な比喩や飛躍など次々にお得意の知的な装置を繰り出して、波多野氏の簡潔な著作を重層的に深読みしていく手際はあざやかだ。

けれども、中沢ファンとして人後におちないと自負するわたしではあったが、あまりにも性急かつ激烈で我田引水が過ぎるように感じられる彼の熱弁に耳を傾けているうちに、重い主題をわざと軽やかに取り扱い、絶妙なユーモアとウイットのセンスを生かした原著者の熟した心根がどこかでおいてけぼりにされているような気持にさえなってしまったのは自分でも思いがけないことだった。


♪しゃがたんぽぽすみれなのはなちゅーりっぷしろやまぶきけふわがにわにさけるはなばな 亡羊

Friday, April 25, 2008

日高敏隆著「チョウはなぜ飛ぶか」を読む

照る日曇る日第118回


私は昔からチョウが好きだった。私自身やあまたの人間どもよりもずっとずっと好きだったし、その思いは近年ますます強まってくるばかりだ。
そしてたまたまこの本を手にとってみると、普段自分がいかに自分自身にとってどうでもいい種類の書物に惰性で目を晒し続けて貴重な生の時間を無駄にし続けているのかが痛感される。

さて本書である。奇妙なことには表題の「なぜ飛ぶか」という問いに対する答えはまったく書かれていないが、チョウがなぜ一定の道、「チョウ道」を飛ぶのかという問題への相次ぐまっすぐな問いかけとその問いに対する実験と考察、その動物行動学の試行錯誤が元昆虫少年のつぶらな瞳で一瀉千里に書かれていて気持ちがいい。

私は「チョウ道」はすべてのチョウにあると思っていたが、実際はキアゲハを除くアゲハ類にだけそれがあると著者は言う。ヨーロッパの代表的なアゲハはキアゲハなので、かの地にはチョウ道が存在しないというのも初耳だった。(しかしいま私がもっとも関心を懐いているタテハチョウのそれについてまったく触れていないのは残念至極である)

チョウの雌雄の見分け方についても驚くべき報告がなされている。
モンシロチョウのオスは、人間には識別不可能な黄色と紫外線の混ざった色でメスを直ちに見分けるのであるが、アゲハチョウのオスはメスの黄色と黒のストライプがめじるしになり、それを目にするや否やオスは突進を開始し、(その軌跡が「アゲハのチョウ道」となるのであるが)いざ接近してもそれが目指すメスであるかはたまたライバルのオスであるかはまだ分からないので、まずは触手でさわってみる。黙って触ればぴたりと雌雄が分かる、というところまでは分かったというのである。
ゴキブリなども触手でにおいがわかるので、アゲハもにおいで雌雄を弁別しているのであろうということになる。

ところが、最後にアゲハチョウのメスの産卵のめじるしの実験で、それまで成功裏に着実に積み重ねられてきた研究成果がすべてご破算となり、著者自らが途方に暮れてしまうところで唐突に記述が終わってしまう。

仮説を次々に立ててそれを実験によって証明し、また新たな仮説→実験→証明へと破竹の前進を遂げてきた「チョウ道」学であったが、いくつかの実験結果が矛盾していたために「なにがなんだかわからなくなってしまった」と著者は正直にいうのである。

そして「成功ばかりではなく失敗のプロセスをすべて公開するのも科学の道である」と述べているが、そのことが書物として、生きた科学の記述として、あるいは人生の蹉跌の象徴としても、まことにいさぎよく感動的な本である。

♪一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れておった 亡羊

Thursday, April 24, 2008

日本と中国の今昔 鐘江宏之著「律令国家と万葉人」を読んで

照る日曇る日第117回

前回に触れたように、本書のテーマは倭と中国、日本と中国の濃密な関係である。

全体的には当初朝鮮半島の百済、新羅、高句麗の影響を受けていた当時の倭、後の日本が、701年に制定された大宝律令の頃から次第に東アジアの先進国である中国のダイレクトな影響下におかれ、政治・経済・社会のみならず都市づくりや生活文化のすべての面で積極的に模倣していくプロセスが描かれているが、まことに歴史は3度くらいは平気で繰り返すものであり、本書がこれからのわが国の行く末を示唆しているよう気がして思いは複雑である。

遣唐使などという制度にしても、もちろん留学生が先進国に学びに行くのであるが、本当の目的は20年に一度の朝貢外交であったことを忘れてはいけない。

天平勝宝の遣唐使が元日朝賀に参列したとき、日本の席順が新羅、吐蕃(チベット)、大食(イスラム帝国)の次であった。そこでわが副使の大伴古麻呂が当時わが国に朝貢していた新羅が上位にあることは受け入れ難しと唐に猛烈に抗議した結果、新羅の外交官が席を譲ってくれたために面目を保ったそうだが、世界最大のグローバル唐帝国における当時のわが国のポジションを微妙かつ悲喜劇的に示す逸話として興味深い。私の目にはこのプライド高い外交官、大伴古麻呂は国際連盟を脱退した松岡外相にほぼ重なる。

また現在オリンピックのみならず、政治、経済、軍事各界で大活躍の中国も、かつてのおのれがチベットをどのように厚遇していたのかを、静かに胸に手を当てて思い出してほしいものである。

しかし日本という国は古来けっして排外主義には侵されておらず、百済、任那、高句麗、新羅などからのあまたの渡来人たちを積極的に受け入れ、平和的に共存を図った。桓武天皇の27人の皇妃のうち6人が渡来人であり、ここから東漢氏、坂上氏、百済王氏などの政治的貴族が輩出したのみならず、私の郷里の先住民である秦氏など衣食住、生活文化全体をリードする無数の高等技能集団を全国に帰化させたのである。

♪紺碧の空の彼方に何がある翔る男にわれもなりたし 亡羊

Wednesday, April 23, 2008

箱根旅行

箱根旅行

♪ある晴れた日に その25

そよ風は湿生花園を駆け巡り箱根連山雲湧き起こる

一輪草二輪草てふ白き花おなじ姿で寄り添いにけり

空や木や山を冷たく映せる池ありてシュレーゲルカエルしげく鳴きたり

近づけば両の腕大きく空に広げいまわれを抱かんとするシデコブシあり

シャガールをシャーガルと言うヤクザが出る日本映画をもう一度見たし 於ポーラ美術館

柔らかきロストビーフ喰らう吾子を見るこれぞわが生涯最良のときかな 

Sunday, April 20, 2008

倭から日本へ 鐘江宏之著「律令国家と万葉人」を読んで

照る日曇る日第116回&ふあっちょん幻論第19回 

小学館から出ている「日本の歴史」シリーズの第3巻飛鳥・奈良時代編であるが、先の2巻と同様最新の学説や知見が随所に盛りこまれており、なかなか勉強になる。


本書では、5世紀から8世紀までの倭と日本の歴史を振り返りながら、特に中国との相関関係についてくわしく述べている。

例えば国家権力にとって重要な人民の時間管理の道具である暦にしても、百済経由の中国暦の丸投げが長い間使用され、日本が独自の暦を持つのは17世紀末の渋川春海による貞享暦の完成を待たなければならなかった。

判子も中国の文化で、日本がこれを体系的に導入したのは、邪馬台国から500年近く遅れてであったという。それが平成のいまになっても存続していることに驚くほかはない。

7世紀の後半の白鳳時代になると、飛鳥時代に朝鮮半島を経由して中国から移入された仏教が隆盛し、地方の豪族たちは郡家と寺院をセットで建立することに血道をあげるようになる。仏教は宗教のみならず当時の最新先端知識や科学技術を満載した総合文化であったから、彼らはその受け皿としての寺院を用意せざるをえなかったのである。

火葬もこの頃の仏教ブームに伴って行なわれるようになり、大宝2年702年、持統太上天皇がはじめて彼女の意志でこれを敢行した。

ファッションについても中国の影響が大きく、パリやミラノやニューヨークではなく、唐風アラモードがおしゃれなスノッブたちを圧倒的にリードした。

大宝律令における位階と服制もこの唐風を全人民に強制しており、当時の人々が上着を左前にして着ていたのを唐風の右前にしようとしたが、なかなか定着しなかったそうだ。
当時の人々は麻布製の下着と上着をいずれも2ピースで男女とも身につけ、季節に応じて重ね着していたようだが、それまでの国風のステテコのようなボトムを、中国風の袴に変更せよとの大宝律令の通達に対しても抵抗があったようである。

このように7世紀まで朝鮮半島を向いていた倭人たちの意識は、大宝律令の施行と同時にいっせいに中国標準に切り替えられ、すべてにおいて中国を視野に収めたグローバルな世界観が確立していった。

倭が日本へと変身したのは8世紀の初頭で、ちょうど「日本書紀」が編纂されていた国史創生の時代である。7世紀における東アジアの激動が、倭の国家整備をうながし、その過程で芽生えた国家意識が、日本という国号を誕生させたのである。


ある日の午後妻に別れを告げに来し瓦斯屋の青年故郷で縊る 亡羊

Saturday, April 19, 2008

職人気質

♪バガテルop54
しばらく前にキッチンを修理し、去年は自宅の北側の壁が腐りかけていたのでトイレと一緒に修理し、やれやれこれで終わりかと乏しくなった財布の底をながめてため息をつきながらもほっとしていたら、今度は便所の隣の浴室のねだが腐っていることが判明したので、善は急げ?とばかりにほとんどやけくそになって今年の冬にリフォームした。

おかげで最新式の浴槽が導入され、洗面所の採光も改善され、それなりに平成モダンライフ?の快適さをエンジョイすることができると一安心したんのもつかの間、またしても2階二回の天井裏に葡萄状連鎖状球菌ならぬ白色腐朽菌というのが繁殖していることが判明、いずれは屋根のてっぺえんを切開して修理する必要が生じた。

まったくいつまで続くぬかるみぞ、といったところだが、それはともかくとして私が再認識したのはわが国の大工さんやペンキ屋さんや経師屋さんや電気屋さんやその他もろもろの職人さんの腕の冴え、技術の素晴らしさである。

古くて狭くて具合の悪いところをいとこたやすくすいすいと直してしまう。もちろんそれがプロの職人芸と言ってしまえば実も蓋もないが、それはおそらくわが国の昔からの良き伝統であり、民族の身体性に付与された特性であり、諸外国の職人さんと比べても抜群の器用さであるに違いない。

彼らは朝から働き、10時に小休止し、正午に昼食をとって車の中などで午睡し、1時から3時まで働いてまた一休みして夕方まで働き続けるのだが、傍から見ているとこれが一日の労働に最も適した時間割であるということが良く分かる。

単調で過酷な労働であるからおやつに甘いものを出すと喜んでみな食べてくれる。しかし「トイレをどうぞ自由に使ってください」と勧めても、固辞してほとんど用を足さない職人が多いのは、古来そういうしつけをされてきたからであろうか。

いずれにしても非常に不器用でなにひとつ修理できない私にとっては、日本のホモ・ファーベルのありがたさ、素晴らしさを見せつけられたあほばかホモ・ルーデンスの2週間だった。

♪新築の大工仕事が減りましたと甥っ子はけなげに耐えて春を待ちおり 亡羊

Friday, April 18, 2008

続「大江広元の墓」の謎

鎌倉ちょっと不思議な物語114回

「十二所地誌新稿」にまたまたいう。

明治初年、地制改革のときは、わが十二所村の名主は啓左衛門翁であった。

山林、田畑の実測に役人が来るというので、村人はまた大江広元公の墓が見つかるとうるさいからと、若衆たちが集まって墓をひっくり返しに行ったという話が残っている。
その証拠にはしばらくは浄明寺胡桃谷に笠石(五輪塔の上部)が落ちていたというのである。その後石はぜんぶ元の山の頂に運び上げて造立しなおし、当時のままに復元してある、と書かれているのが写真の五輪塔である。

その現物を見てもわかるように、700年の星霜を経て文字は消えている。しかしこのあたりに住宅が立ち並ぶ「しばらく前までは、胡桃山の頂上に大きな石塔があるのが村人にはよく見えた」とあるからには、私が想像したとおり、この場所に墓を作れと命じたのは、麓の屋敷に住む大江広元自身であるに違いない。

さらに「十二所地誌新稿」に、「塔から少し下ると谷あいの窪みを地ならしして一畝ばかりの平地がある。たぶん持仏堂でもあったと思われる一隅に、石を切り開いた所か塚のごときものがあるが、これが果たして広元公のものと関係ありやなしや」

と書かれているのがもうひとつの写真である。現在小さな稲荷の社に成り果てているが、それは近世の事であり、私の想像では、これも鎌倉時代に大江広元を祭った場所に違いない。

♪春の宵近江の牛を食べにけり 亡羊

Thursday, April 17, 2008

荒岱介著「新左翼とは何だったのか」を読んで

照る日曇る日第115回

60年代の終わりからから80年代の前半までわが国の政治、社会に影響を及ぼした新左翼の活動を、第2次ブント社会主義学生同盟委員長で三里塚や東大安田講堂占拠闘争で3年有余下獄した著者が“できるだけ客観的に”振り返っている。

私は当時ノンポリの学生ではあったが、彼らのシンパとしていくつかの局面でデモやストライキに参加していたので、おおよそのことは理解していたつもりであるが、自治会や生協・サークル活動とそれに付随して党派に流入する莫大な闘争資金のからくり、明治大学自治会と生協の崩壊の顛末などまるで知らないことも多かった。

しかしなにせ権力やライバルの党派と決死の覚悟でわたりあった張本人が語り部であるから、その客観性もたえず強烈な主観性によって揺さぶられる。

1967年10月8日の昼前のこと、

左手に棍棒、右手に檸檬を握り締め佐藤訪ベトを阻止するぞわれ

 という気分で隊列を組んだ私らが羽田空港に向かっていたちょうどその頃、著者は、首都高一号羽田線鈴が森ランプで倒れた機動隊員を、高速道路の下に落とそうと持ち上げていた。

「彼は激しく抵抗、そのとき、後ろから駆けてきた女子学生が『やめてください! そんなことをしたらアメリカ帝国主義と同じじゃないですか』と機動隊員にしがみつきました。ガーンとなった筆者は『わかったよ』と彼から手を離しました。

と、まるで劇画の噴出しのようにあっさり記述してしまう著者であるが、これは事実なのだろうか? もしも都合よく女子学生が登場しなかったなら、彼は殺人を犯していたはずだが、そういう自問がなされていないことがとても気になった。

本書の第六章は新左翼ブームに水をかけ、消滅させた「内ゲバ」について詳述しているが、想像を絶する悲惨な内ゲバの記録などには、なまじそこに登場する人物に多少の見覚えがあるだけに、活字をたどることにすら大きな苦痛を覚えた。

私にとってはあらゆる思想は空虚である。絶対正義の思想などかつて存在しなかったし、これからもそうだろう。それだのにその時々の「絶対思想」とやらに激しく依拠し、憑依して、そうしない、できない他者と敵対し、あまつさえ殲滅してしまう人たちは今日も世界中であとを絶たない。

なまじご立派な思想を脳内にせっせせっせと培養すると、そいつがその人間をロボットのように操って、価値観の異なる人間を撲滅してもまるで痛痒を感じない殺人鬼になってしまうのではないだろうか。


ヘルメットに棍棒握って武装せしこの手が握りし黄色い檸檬

Wednesday, April 16, 2008

ガルシア・マルケス著・旦敬介訳「十二の遍歴の物語」を読む

照る日曇る日第114回

「族長の秋」を発表してからあと、18年間にわたって書き継がれてきたマルケスの十二の短編集である。とりわけ最初の2編「雪の上に落ちたお前の血の跡」と「ミセス・フォーブスの幸福な夏」は圧倒的に素晴らしい。

 本書のまえがきで、マルケスは、こう語っている。

「短編小説をひとつ書くには、長編を書き出すのと同じくらいの強烈なエネルギーが必要なのだ。長編小説では、最初の一段落ですべてを決定しなければならない。構成、タッチ、スタイル、リズム、長さ、さらに場合によっては特定の人物の性格まで。それ以後は書くことの快楽、想像しうる最も私的な、最も孤独な快楽がある。そして、作家が自分の本を一生書き直し続けたりしないのは、書き始めるのに必要な鉄のような厳しさが書き終わりをも決定するからだ。それに対して、短編には始まりも終わりもない。一気に行くか、行かないか、それだけしかない。そうしてうまく行かない場合は、私の経験からしても他の作家の経験からしても、たいがいはもう一度最初から別の道でやり直すか、あとは思い切って全部捨ててしまった方がいい。誰かが言ったように、いい作家というものは、発表したものよりも、破って捨てたものの方で自分を評価するものだ」

その言うやよし。では「ミセス・フォーブスの幸福な夏」の最初の段落をどうぞ。

「午後になって家に帰ると、私たちは巨大な海蛇が首のところで、ドア枠に釘で打ち付けられているのを発見した。それは黒くて蛍光を発していてジプシーの妖術の道具のように見え、しかも目はまだ生きていて、押し広げられた口からは鋸のような歯をむき出しにしていた。私はその頃9歳ぐらいで、妄想の中から抜け出てきたようなこの化け物を前にして、激しい恐怖から声も出なかった」

この導入部を目の前に突きつけられたら、もう最後まで読み通すしか路はないだろう。



戯れに歌など詠めばひょいと出るその地金のおぞましきことかな 亡羊

Tuesday, April 15, 2008

ガルシア・マルケス著「予告された殺人の記録」を読む

照る日曇る日第113回

「愛の狩人は鷹に似て高きより獲物を狙う」というジル・ヴィセンテのエピグラムを巻頭に掲げたマルケスは、天空はるかなる視点から、おのれを神に擬し、1951年1月22日に彼と彼の家族が実際に身近に体験したこの殺人事件をメタ・ドキュメンタリーな神話として語りなおそうとした。

 言ってみれば、新婚の床から追放された妹の汚名を雪ごうと、その双子の兄弟が、彼女を処女ではなくした張本人であると称される男を肉きり包丁で刺し殺すギリシア悲劇さながらの敵討ち噺なのだが、その新聞種に類した悲劇を、ただ無数の事実の羅列によって叙述しようとする。

それならば単なるドキュメンタリー小説で終わったであろうこの小説は、数多くの登場人物の多様な視点、現在から既往、既往からまた現在、そして未来へとせわしなく移動する多彩な時間軸の運動を映画のクロースアップとパンのように交互に繰り返すことによって、とある殺人事件の複合的・重層的な局面に隠されているいくつもの真実をつぎつぎに暴き出す。

すると最初は起こるべくして起こったはずの事件、そのあらかじめ決定されていたはずの事件の確定的要因が次第に溶解して、陰影定かならざる曖昧模糊とした諸要素に還元されていく。

事実と歴史が彩度と輪郭を失い、真実は虚構へ、現実は夢想へ、そして最後には人間界のすべての事象が、偶然と運命の所業へと召還されてゆくのであった。


♪君、そういうことじゃなくて毎日新しい歌を歌うことだよ、下手くそでもね。亡羊

Monday, April 14, 2008

春風の丘に立つ

車も化粧品もアパレルも、世界市場の使命を制するのはBRICsわけてもアジアのマーケットである。

昨日は2つの学校で私の今季のヒジョーキン生活が始まったが、韓国、中国、香港、台湾の学生の元気な表情が印象的だった。

日本人に元気がないとはいわない。日本がアジアの一員でないともいわない。しかし背後に自分自身の未来とくわえて国の将来を背負った彼らの勉学への精進を親しく見聞していると、なにかが微妙に違っていると感じないわけにはいかない。

彼らは外国語としての日本語を驚くほど速やかにマスターしてしまう。なかにはわが維新の時代の壮士を思わせる気概の持ち主もいる。成長期の世界と円熟期の世界とでは商品・サービスのみならず人材が輩出されるための土壌・環境がまるで違っているのであろう。

かつて毛沢東は、「青年は午前10時の太陽である」と言った。若いこと、無名であること、貧乏であること。これが革命者の条件である、とも言った。毛の誤謬や革命の功罪はさておき、前途有望な若者への激励の辞としてはまだ有効であろう。

それにしても若いということはいいことだ。どんな失敗もまだ許される。願わくは破綻や蹉跌を恐れず己の信ずる路をひたすらつき進んでいってほしいものだ。
午前10時ならぬ午後5時の残照に孤影漂うわたくしであるが、明日からは3つ目の学校へのお勤めも始まる。見えない未来に向かって疾走する人々にいささかの後押しをいたしたいものである。

最後に全国の学友諸君に対し、正岡子規の高弟であり、夏目漱石に「猫」を書かせて作家デビューを後押しした俳人の普段の写実の姿勢をかなぐり捨てた激句を捧げ、よってもって連帯の挨拶に代えたい。


春風や 闘志いだきて 丘に立つ  高浜虚子


♪鳶一羽われに愛する力あり 亡羊

Sunday, April 13, 2008

「大江広元の墓」の謎

鎌倉ちょっと不思議な物語113回

 「十二所地誌新稿」にまたいう。

扇が谷の大倉山に大江広元の墓と称するものが存するが、それが本物ではないことは今日では定説になっている。大倉山のそれは規模から見ても大名のものであることは間違いがなく、一説には北条義時の墓と伝えられる。

しかし本地民(この表現は懐かしい!)の伝えている墓は胡桃山の山頂にある。
塔は南してやや右にねじれている。明王院の地誌に「大江広元公の墓所は五大堂より戌亥に当たり、山頂の墓まで二丁余あると。これをもって真と致す由」と記されているからこれは確実な記録である。

一時は塔の大部分を谷に落としてしまって、一層を残すだけであった。それは村人も墓を教えようものなら上から役人が来てむつかしいことをいってやりきれない。そのうえ人夫など煙草銭くらいで使われてしまうので、知らぬ存ぜぬの一点張りで通してしまったという。

島津の家老はこのまま帰国することもできないので、役目の手前困り果てたという。そこで八幡前の大石某という人が今の法華堂に不明の墓があるので、役人と相談してこれを広元の墓と定めて帰国した。これは十二所の小長井勘左衛門が若いときの話で、今から180余年前のことであった、というのである!


♪流れている水の中ではオタマは育たない子供も同じである 亡羊

Saturday, April 12, 2008

大江広元邸旧蹟再論

鎌倉ちょっと不思議な物語112回

以前触れた大江広元旧跡について、「十二所地誌新稿」によりくわしい説明があったので再録しておこう。

屋敷跡は明石が谷一帯の地にあって、西は頂輪房に接し、北は船玉山をだきこみ、東南は一心院の旧蹟に及び、東方は羽黒山の裾に接して宇佐小路に至り、北は滑川によって区切られる。東西約200メートル、南北150メートルあって明石が谷では最も広い地域である。

江戸時代の末期に、大江広元の遠孫と称する毛利公がこの地を買収しようとした!が、価格の点で折り合いがつかずそのままになったという。

最近までは畑であったが、今は多くが宅地になった、とあり、その宅地のひとつがうちのおばあちゃんチなのであった。

「十二所地誌新稿」は昭和55年の編纂であるから、今では畑などはほとんど無くなってしまった。


♪ここからは進入禁止と5人組何事にもタブーはあるぞ
♪ランクル、オートバイは進入禁止おいらは太刀洗5人衆

Friday, April 11, 2008

長楽寺再訪

鎌倉ちょっと不思議な物語112回&鎌倉廃寺巡礼その8


長楽寺は、長谷の鎌倉文学館の隣にあった。

「日蓮聖人御遺文」「日蓮上人註画賛」によれば、この寺には日蓮が眼の敵にするかなりの高僧がいたらしいが、それは「鎌倉志」に「この寺法然の弟子隆寛住セシトナリ」とある浄土宗の僧ではないだろうか。

 鎌倉の大町から北上して小町通り(現在の繁華街の小町通りではない。あれは誰かがでっちあげた観光用にせ小町通りである)一帯には、数多くの日蓮宗の寺院が散在しているが、少し離れた長谷には、同じ新興鎌倉仏教とはいえ、彼らの強力なライバルがいたのであろう。

健常の人を生涯妬みつつなお障碍の人と共におるかな 亡羊

Thursday, April 10, 2008

続・荻原延壽集第4巻「東郷茂徳」を読んで

照る日曇る日第112回

東郷は終始基本的には国際協調主義に立脚し、欧米、アジア、ロシアとの戦争を回避すべく職を賭して戦い、ナチスや日本の右翼、三国協定枢軸派の政治家たちとつねに一線を画す独自の外交を行なった。彼はまた珍しくも対ソ協調路線を終生にわたって貫いたが、あらゆるイデオロギーに無縁のリアリストがなぜロシアに惹かれたのかは永遠の謎として残る。

では日本では稀な「イデオロギーに無縁のリアリスト」がどのようにしてわが国に誕生しえたのか? それは前にも触れたように彼が生まれながらにして異邦人感覚を身につけていたからであり、若き日から国内亡命派として島国根性の日本人の欠点を鋭く見抜いていたからである。
さらに長じては、スイスのベルンで封印列車に乗り込むレーニンを一瞥して「彼は非常に賢そうでかつ精力的な感じがした。あの眼の表情から推して、彼は観念に憑かれた男だ」と語ってただちに「国家と革命」を読みはじめ、ドイツではワイマール共和国の崩壊とドイツ革命の失敗、そしてヒトラーの台頭をつぶさに実見し、さらに革命直後のソ連では、ノモンハンで無残な敗北を喫したおごれる関東軍の実態を知っていたからである。

彼がベルンで見初めた少女の半世紀を経ての愛の証言、そしてベルリンでのドイツ娘との結婚についてはさておくとしても、この男は生まれながらにしてまことに冷徹なコスモポリタンであった。

東郷がどのような政治家であったかについては、後世の多くの人々の証言があるが、もっとも印象的なものは、昭和天皇の「東郷外相は終戦の時も、開戦の時も、終始同じ態度であった」という言葉であろう。
これに対して東郷も、「最初より最後まで信頼しえたるは陛下のみなるというも過言にあらず。余の生涯においてかくも立派な人格に接したことなく、歴史にも少なし」と書き遺しているが、おそらくこの両人だけには相通じる共通の理解と感慨があったのだろう。

東郷は死の直前に、「死を賭して三つし遂げし仕事あり我も死してよきかと思う」という辞世の歌を詠んだが、著者によればそれは第一に太平洋戦争を終結させたこと、第二に東京裁判を通じて自分の立場を明らかにしたこと、第三に自伝「時代の一面」を執筆できたことであろうと推察している。

東郷畢生の遺著「時代の一面」もいつかは読んでみたいものである。


♪わが庵の天井の木に巣食いたる白色腐朽菌夜な夜な増殖す 亡羊

Wednesday, April 09, 2008

荻原延壽集第4巻「東郷茂徳」を読む

照る日曇る日第111回

東郷茂徳は、明治15年1882年朴茂徳として鹿児島県苗代川に生まれ、昭和25年1950年当時米陸軍ジェネラル・ホスピタルと称された聖路加病院で69歳で死んだ。本書は彼の生涯の事績を丁寧に振り返った伝記である。

苗代川の来歴は秀吉の文禄・慶長の役にさかのぼり、そのさいこれに従軍した薩摩の島津義弘が、朝鮮から強制連行した陶工などの俘虜70余名がこの村の始祖である。
司馬遼太郎は「故郷忘じがたく候」で陶工沈壽官氏の半生を描いたが、茂徳もまたこの村の出身であった。

東郷は対米開戦を主導した東条内閣の外相をつとめ、終戦を主導した鈴木内閣でも2度目の外相を歴任したが、極東軍事裁判で禁錮二十年の刑を言い渡され、巣鴨服役中に病を得て卒した。

外交官としての東郷の特質は、国益の何であるかを激変する国際情勢の中で情やくわんねんに流されずに冷静に見極め、これを最大化するための戦略を企画立案実行するために、国内外の敵(特に帝国陸海軍の無能な指導者たち)と徹底的に戦いながら、己がもっとも正しいと信じた思想と行動を貫いたことであった。

駐独、駐ソ時代の東郷の自己主張のものすごさについて、当時のソ連外相モロトフや独外相リッペントロップの証言があるが、「これほど同じことを何回も何回も繰り返し主張する頑固な日本人ははじめてだ」と彼らはいちように驚き、モロトフの場合、その驚きは尊敬に、後者の場合は敵意に変わっていくのだが、その日本人離れした自己主張は、彼がもともと日本人から徹底的に疎外された異境の人であったことからも了解できよう。彼は日本外交史上なうてのハード・ネゴシエーターであった。

かく申す私もビジネスマンとして欧米帝国主義列強の猛者どもと何度も丁々発止とやりあったことがあるが、アリストテレス論理学と強靭な体力で全身武装した彼奴ら、特にシャイロックの末裔と戦う際には、こちらも命がけで商談したものである。商談も外交も戦争である、ということを、東郷は日本を飛び出す前から熟知していたのである。

♪蟷螂の斧振りかざす春の宵 亡羊

Tuesday, April 08, 2008

大江広元の屋敷と墓

鎌倉ちょっと不思議な物語111回

大江広元(1148~1225)は「おおえのひろもと」と読み、母中原氏に養育された文人である。この人は平安時代に京の朝廷に仕えた能吏匡房(まさふさ)の曾孫であるが、源頼朝に招かれて鎌倉初期の幕府重臣となってから水を得た魚のごとく活躍した。
 
広元はまず市内御成小学校の傍にあった公文所(くもんじょ)別当となり、幕府創成期の政治の重要問題に関与するようになる。

次いで鎌倉幕府にとってもっとも重要な政策である守護・地頭設置を頼朝に献策しすぐさま採用されたが、それが貴族政治から武家政治への革命的顛倒をもたらした。

さらに後年は政所(まんどころ)別当となり幕府体制の基礎固めに尽力したが、頼朝の死後は北条氏とともに政務をとり、承久の乱では尼将軍政子を断固支持するなど執権政治の確立に寄与し77歳で亡くなった。

どこで死んだかというとうちの地元の十二所で死んだ。もっと正確にいうと、現在うちのおばあちゃんの家のある場所で亡くなった。(左石碑写真)。

それから、死んでどうなったかというと、とうぜん墓に葬られた。
彼の墓は、源頼朝の墓がある山の東側の山腹にある、とされている。島津忠光と広元の子である毛利季光の墓の真ん中に眠っているのが、大江広元の墓だというのだが、墓石の下に彼は♪いませ~ん。(中央写真)

千の風などに乗らなくとも、彼の遺体はおばあちゃんちから明王院の傍の山道に入り、瑞泉寺に向かうハイキングコースの途中の小さな小高い丘の頂に葬られた。きっと昔はここから彼の自宅が見下ろせたのではないだろうか。(右写真)

ところでなぜ扇が谷の頼朝墳墓の近所に島津忠光と毛利季光に囲まれるようにして広元の墓があるのだろう? 

それはこの二人が1247年の宝冶合戦で三浦一族と共闘して権謀術数に秀で悪辣無比の北条一族に圧殺されたからでもあるが、(三浦一族血まみれ滅亡の現場は頼朝墓直下の法華堂&白旗神社)薩摩島津家の先祖忠光も安芸戦国大名毛利家のどちらも大江広元の末裔であるからだ。

ご一新で共闘した薩長政権がその奇跡的な勝利を祝い、かつまたその際遠いご先祖様を寿いで明治になってから建立したのが、このでっちあげの3点セット墳墓なのである。

お断り→写真はミクシィの「あまでうす」日記に掲載しています。

♪こんな東京に誰がしたんだと慎太郎言い 亡羊

Monday, April 07, 2008

続・春宵源語

照る日曇る日第110回


無学な私は、あの膨大な源氏物語を原文で読むことなどできないので、仕方なく与謝野晶子や谷崎潤一郎や橋本治の現代語訳で読んでいる。

三者三様苦心の名訳であるが、これをベートーベンの交響曲の指揮者にたとえれば、与謝野は直情径行のトスカニーニ、谷崎は典雅なワインガルトナー、そして橋本訳は無手勝流のフルトベングラーといったところだろうか。もっとも原作の香りを伝えて味わい深く、原譜・原典に忠実なのが谷崎訳であることは言うを待たない。

しかし源氏物語では、登場人物の名前が官職名で呼ばれることが多く、しかも彼らがどんどん昇進していくのでしばしば混乱させられる。例えば40歳代の源氏は、六条院、主人の院、院、大殿、大殿の君などとケースバイケースで表記されている。

登場人物のひとりである「兵部卿宮」は紫の上の父宮であるが、「少女」巻で兵部卿宮から式部卿宮に転じているし、さらには兵部卿宮に良く似てまぎらわしい「蛍兵部卿宮」というまったく別の人物もいる。兵部卿宮は源氏の不倶戴天のライバルだが、蛍兵部卿宮は源氏のやさしい弟である。

例えば、「若菜上」巻の「第十三章第四段」に、「弥生ばかりの空うららかなる日、六条の院に、兵部卿宮、衛門督など参りたまへり」という箇所がある。衛門督は柏木の官命であるが、この兵部卿宮は本当に兵部卿宮なのだろうか?

原文はもちろん与謝野源氏も谷崎源氏も「兵部卿宮」と記述しているのだが、このおめでたい蹴鞠の宴に、果たして源氏と兵部卿宮が轡を並べたのかどうかが気になったので、源氏物語研究の第1人者である高千穂大学教授の渋谷栄一氏に教えを請うと、それは兵部卿宮ではなく「蛍兵部卿宮」であるとのご託宣を頂戴した。

同じ「若菜下」巻の朱雀帝50歳の賀に集った面々のなかで「兵部卿宮の孫王の公達二人」とあるのも、実際は蛍兵部卿宮の孫であるし、では「兵部卿宮」はどこにいるのかと探してみると、それは「式部卿宮」という呼称で出てきて孫たちの見事な演奏にぐちゃぐちゃに泣き濡れているお爺さんなのであった。

しかしいくらくだんの文章をにらんでいても、そこには「兵部卿宮」という言葉が印字されているばかり。にもかかわらず実体は、「蛍兵部卿宮」だというのであるから、こうなれば源氏は訓詁だけではなく、全体の文脈と心眼で読んでいくしかないのだろう。



♪嗚呼遂に我が家は40アンペアになりはてぬ25年間30アンプなりしに 亡羊

Sunday, April 06, 2008

春宵源語

照る日曇る日第109回

源氏物語が書かれてからすでに1000年以上の歳月が経っているが、紫式部という女性はまあなんとすごい長編小説を世界にさきがけて書いたものだと思わずにはいられない。

 紫の上、夕顔、空蝉、女三の宮、六条御息所、明石等々、とても魅力的な女性が次々に登場して、光源氏という絶世のイケメンの前にまるで人身御供のように惜しげもなく美しい裸身を投げ出すのである。

昔はこの貴公子に嫉妬して、こいつはドンジョバンニの大和版ではないか。お前は異常性欲者か。朝から晩まで女の尻ばかり追い回していないで、宮廷を代表する政治家なら、もすこし真面目に仕事をせよ。

などと軽蔑していたが、人生女色にはじまり女色に終わってなにが悪い。それでいいじゃあないか。上等じゃあないか、と悟ってからは、この色即是空、もののあわれを尽くした華麗にして空虚な王朝絵巻をゆくりなく楽しむことができるようになった。

 ご承知のようにここではさまざまな魅力的な人物が登場するのであるが、私が好きなのは藤壷中宮と柏木、それに六条御息所などである。

父の后を母と慕い、年上のお姉さんとしてほれ込む少年の恋は、それが禁断の恋であるがゆえに一途に激しく燃え上がり、その不純なる純情に体が応えてしまう藤壷のおんなのさがが素晴らしい。

柏木は源氏の友人頭中将の子であるが、源氏の晩年の正妻である女三の宮を強姦してその罪の意識に恐れおののき、ついに窮死する。
しかしそのほんとうの死因は、源氏への自責の念からではなく、好きな女から愛し返されない孤独であることを、紫式部は痛切な筆致で描きつくしている点が非常にモダンである。

不条理に犯された女三の宮も悲劇であり、自壊した柏木もあわれであるが、もっと悲惨なのは藤壷中宮との過ちを、女三の宮で応報された光源氏である。
誰でも指摘することであろうが、このあまりにも有名な二つの不倫が、源氏物語の脊梁のツインピークスを構成している。彼女はこの二つの中点に支えられてはじめてあの巨大な物語を書くことができたのである。

六条御息所は怨霊になって葵上や紫上、さらには女三の宮にまで取り憑くのであるが、紫式部は、六条御息所と怨霊の関係を、彼女が冷静に第3者的に自覚しているように記述している。そこには現代流行のスピリチュアル世界のあいまいさはかけらもない。
また現代の殺人犯たちが、「殺せという声がどこかから聞こえた」などとバッハのカンタータのタイトルもじって口走る流行の台詞とはまったく無関係な、澄み切った理性の世界そのものである。

のみならず、御息所が源氏との関係において、好むと好まざるとにかかわらず不可避的に陥ってしまった愛憎の道行き、すなわち彼女の運命についてあまりにもクールに描いているので、私たちはまたしてもなぜかとてもモダンな印象を与えられるのである。


お前などに今日もお気持ち爽やかにお過ごしくださいなどど言われたくないわい 亡羊

Saturday, April 05, 2008

常楽寺はどこだ?

鎌倉ちょっと不思議な物語111回&鎌倉廃寺巡礼その8


常楽寺は「十二所地誌新稿」によれば、かつての栄光学園、現在のカトリック修道院の入口の辺にあったというから、ちょうどこの写真の場所であろう。十二所バス停すぐである。

ここらへんはまた鎌倉の代表的な廃寺である大慈寺のすぐ傍でもあるから、常楽寺は大慈寺の末寺であったのかもしれない。

写真の左のTさんの家では、今日でも夜な夜な武者どもの剣戟の響きと戦闘のどよめきが聞こえるそうだ。


♪修道女の瞑想破る太刀嵐 亡羊

Friday, April 04, 2008

昌楽寺発見

鎌倉ちょっと不思議な物語110回&鎌倉廃寺巡礼その7


鎌倉廃寺事典には、「「風土記稿」に、十二所に昌楽寺谷の字があるという」としか記されていないが、わが地元史「十二所地誌新稿」には、

「生楽寺谷、寺の谷戸にあった。古地図によると小谷戸の入口であった。今無縁佛のある処である。そこには土で埋まって何人も知らなかった矢倉があって、中に五輪塔がころがっておる場所がある」

と、ちゃんと書かれているではないか。
かねて心当たりのある場所なので、たたちにおんぼろ自転車にまたがって現地に急行する。

一遍上人と塩嘗地蔵ゆかりの光蝕寺(こうそく)寺を左に見ながらおよそ100m奥に入ったところに、その小谷戸の入口があった。
満開の桜の木の下を母親と孫娘が歩いていく前方に昌楽寺(あるいは生楽寺)があったに違いない。

この谷戸は思いがけず奥行きがあり、現在は地元の土建会社の物置になっている。健ちゃんの同級生の自宅もすぐ傍にある。

5、6年前は初夏には蛍が浮遊していて、あたかも「精霊群れ飛んで交歓す」の小泉八雲的情景が展開されていたが、それもいまではわたくしの脳内に点滅するうたかたの幻影となりおおせた。

山腹の奥にうがたれた洞窟の奥には、かつて数多くの五輪塔が残在していたが、いまはどこかへ雲散霧消してしまったようだが、江戸時代の墓石は現代のそれに混じってここかしこに見受けられる。

なかには亡き愛犬の立派な彫像まで設けられていて思わず笑ってしまうが、その姿を垣間見た当の飼い主は、桜花乱れ落ちる卯月の夜に一掬の涙を漏らすのでもあろうか。


噎せ返る馬酔木の香りに包まれてかの日藤山で捕えしあの岐阜蝶よ 
噎せ返る馬酔木の香りに包まれてわが捕えしギリシアの妖精

Thursday, April 03, 2008

能満寺を尋ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語109回&鎌倉廃寺巡礼その6


能満寺については「風土記稿」は「小名川の上にあり」と伝えるだけでいっこうにわからない。

「十二所地誌新稿」には、「川の上の裏山、学園の辺にあって「上の寺」と称した。今その付近に石塔などが多少ある」と書かれているが、「五大堂事蹟考」には「梶原谷に入り口に能満寺の寺号いまに田畑に残る」とあるのでおそらく梶原屋敷の入り口あたりではないだろうか。

早速梶原屋敷へ行ってみる。
ここは梶原ヵ谷にあった平三景時の屋敷跡である。(写真)

「石橋山の合戦」で一敗地にまみれた頼朝を洞窟の奥で救った景時は、当然頼朝に重用され、また平広常や義経を死に追いやった小賢しい御家人であるが、正治元年1199年に小山朝光を頼家に讒言したために諸将の怒りを買い、駿河の孤峰で吉幡小治郎に殺された。

幕府はその年の12月にこの邸宅を破却して二階堂永福寺の僧坊に寄付したのだが、その跡が畑となり、入り口の跡の抜け穴と梶原井戸が残っている。

その井戸には明王院の鐘が入っていたが後になって拾い出したといわれている。(写真)。なおこの谷戸の山腹には一門の墓らしい数基の五輪塔があるらしいのでいつか探検してみよう。

能満寺は、この梶原屋敷の手前のテニス倶楽部から少し入った以前ご紹介した「鯨屋敷」(写真)付近にそびえ立っていたと想像するのだが、さてどうだろう。

あの巨大な鯨にでも聞いてみるとするか。


♪景時の行方はいずこ鯨殿 亡羊

Wednesday, April 02, 2008

一心院跡の春

鎌倉ちょっと不思議な物語108回&鎌倉廃寺巡礼その5

 
ここはわが十二所の明石ヵ谷である。
すぐ近くにはいま値下げ問題で話題のガソロンスタンドがあり、右に曲がればハイランド、直進すれば鎌倉霊園という交差点を霊園方向に10m進んだ左側にこの古刹があった。 

鎌倉時代から江戸時代まで、石山を切り開き四坪ばかりの平地があり、鐘楼堂または鐘つき堂があったと言い伝えられた箇所であるが、いまではその痕跡はどこにもない。
そのかわりに私のははの家がある。もしかすると彼女の家が一心院跡かもしれない。

「鎌倉廃寺事典」によれば、元弘3年1333年9月4日、覚伊僧正が一心院明石本坊に住して沙汰したとある。文和2年1353年5月22日には明石谷法印修法始行とあり、明石ヵ谷より桜を壷に移している。ちなみにこの近所にはいまも桜並木がある。当時はソメイヨシノはなかったが、さぞ見事な桜だったのだろう。

さらに応永13年1406年7月18日の火事では、一心院の大工が上手に消火したと「鎌倉志」に記されている。一心院に住持は鎌倉御所の足利成氏の護寺僧になっていたというが、成氏の御所は近距離にあり、これもうなずける話である。


♪桜花一輪拾いて水に浸す 亡羊

Tuesday, April 01, 2008

網野善彦著作集第9巻「中世の生業と流通」を読む

照る日曇る日第108回

この本は、古代から中世、近世までの製塩、漁労、桑と養蚕、紙、鉄器などの「主要非農業生産物」の生産と流通にかんする歴史を概括している。

 注目すべきことは、古代から現代まで女性が糸、絹、綿、繭を商人に販売していたことである。彼女たちは養蚕にかんしては弥生時代から一貫してそれら繊維製品の生産部門を双肩に担い、さらにその生産物を自らの裁量で市庭で売却し、交易する商業活動に従事していたのである。

のみならず魚貝などの海産品、炭、薪などの山産品や精進物、野菜の商人も女性が中心であった。古来大多数の農産物、食品の売買も女性が担当し、たやすくは亭主や男性にその収入を手渡したとは考えられない。
またこのような歴史的経路が、「女工哀史」の悲劇はありつつも今日のアパレルデザインや生産・販売への女性優位の参画をもたらしているのだろう。


14世紀以降、女性が田畑などの土地財産についてはその権利を次第に失っていくのは事実であるが、貨幣、動産についての権利をたやすく喪失したわけではない、と著者は断じる。
ルイス・フロイスが日本史で書いたように、「ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付けている」というのが桃山時代までの日本だったのである。

 このように、中世までの「日本商業史」をめざして書かれたこの前人未踏の試みは、その後継者もほとんどなく、冬枯れの草むらの中に消えた一本の小道のように再び辿る人を待っている。


♪ト短調で歌うなハ長調で歌え 

♪これ鶯 ホ長調で鳴いてみよ