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Sunday, December 23, 2012

鎌倉小町通りの鏑木清方記念美術館で「正月の風情展」を見る




茫洋物見遊山記第98 鎌倉ちょっと不思議な物語第269

全国の闘う学友諸君、そしてルンペン・プロレタリアートのみなさん、メリーⅩマス! いよいよ押し詰まって参りましたね。

今年は長年お世話になって来たクライアントからの発注が突然止まり、ヒジョウキンの口がひとつ減り、義母をはじめとして多くの人々が亡くなり、私が蛇蠍の如く忌み嫌っている政党とその一派どもが政権を奪取するなど、内外ともに気色の悪いことが積み重なりました。それらの影響はこれからジワジワと出てくると思いますが、それもこれも身から出た錆といふことなれば、この衰え行く痩身ぜんたいで受け止めて行かねばらなんと覚悟しておる今日この頃です。

さて家に閉じこもってばかりいては心身共にろくなことはないので、わたくしは中原中也が死んだ病院で検診を受けた帰りに、久しぶりに駅から朝の小町通りをぶらぶら鏑木清方記念美術館まで歩きました。普段は無数の観光客であふれかえっている小町通りですが、ここはいつ行ってもほとんど人がなく、かつてまさにこの地この場所に日本画家鏑木清方が居住した頃とそれほど変わらない落ち着いた雰囲気が保たれていることに驚かされます。

会場に入って見ると右側の壁面に上下に並べられている清方の羽子板の原画と永井周山手造りの押絵羽子板の展示がたとえようもなくあでやかです。周山は清方のオリジナルを忠実に踏襲しながらも、場合によっては人物を減らしたり向きを変えたりしながら在りし日の「明治風俗12カ月」を見事に再現していました。

清方という人は単彩のスケッチも精妙そのもので江戸の昔を再現していますが、ひとたび色筆を取ればまことに華麗な色彩世界に遊ぶ、さながら江戸のアンリ・ルソーのような自由さ自在さを併せ待っていて、それはたとえば今回展示されている「初雁の御歌」の青や緑や朱色の饗宴に現れています。

展示作品こそ少ないものの、ここにはつねに明治、大正、昭和の初期を通じて流れていた江戸の情緒がほのかに息づいているのです。東京からの資本や商材で賑わう虚栄の市の愚かなさんざめきに飽きたら、横丁を左に曲がって観光客が一人もいないこの小さな美術館へどうぞ。

なお同館の「正月の風情展」は来年1月20日まで。ただし年始年末12月29~1月3日までは休館。詳しくはホームページ参照のこと。

清方は日本のアンリ・ルソーいつも江戸の春に遊んでるよ 蝶人

Friday, December 14, 2012

勝長寿院入口の「文覚上人屋敷跡」を訪ねて




茫洋物見遊山記第97 鎌倉ちょっと不思議な物語第267

文覚上人(1139-1203)の鎌倉の屋敷跡は、滑川に面した勝長寿院(大御堂)の入り口にあった。

彼は平安末期から鎌倉時代初期の真言宗の僧で、元は遠藤盛遠という俗名の北面の武士だった。芥川龍之介の「袈裟と盛遠」に登場するのがこの遠藤盛遠で、彼は渡左衛門尉の美貌の妻に横恋慕して誤ってわが手で殺めてしまい、仏門に入って熊野で苦行したという。

後に高雄山神護寺を再興し東寺の大修理を主導したほか、源頼朝の挙兵を助け、幕府創設後その帰依を受けたが、頼朝の没後は佐渡・対馬に流罪となった

全盛時代の文覚上人は頼朝に対して影響力があり、平家直系の最後の子孫、平維盛の子、高清、通称六代御前の助命を嘆願して認められ、彼を神護寺に匿っていたが、上人が事件に巻き込まれて佐渡に流されている間に、六代は逗子の田越川の傍で処刑されてしまった。六代御前の墓は、キマグレンというポップグループのメンバーが通っていた逗子スポーツクラブのすぐ近所に実在するが、ここが平家一族の終の住処となった。

一方平家と覇権を争った源氏の一族の最後の地といえば三大将軍実朝の墓地ということになるが、「吾妻鏡」によればそれは文覚上人屋敷跡からほど近い勝長寿院(一説では寿福寺)にあった。実朝と六代の墓の距離は車なら一〇分もかからないので思いのほか近い場所に武士社会を創始した源平二つの部族の末裔が眠っていることになる。

寿福寺は、昔源頼朝の父義朝が住んでいた跡に政子が実朝の師であった栄西を迎えて創建された臨済宗の名刹で、ここにも実朝と政子の墓があるが、形式的なもので実際に骨はないだろう。しかし私はこのお寺を訪れる度に、これらの歴史上の人物が歩んだ苔むした敷石の上を、この境内の借家に住んでいた晩年の詩人中原中也がふらふらと歩いていた姿を思わずにはいられないのである。



ああ亡羊茫洋すべての人は通り過ぎて行く 蝶人


Sunday, November 04, 2012

鎌倉国宝館で「古都鎌倉と武家文化」展を見て




茫洋物見遊山記第95 鎌倉ちょっと不思議な物語第265

武士たちの信仰と美術と副題されたこの展覧会ではいま非常な話題になっている源頼朝の座像ふたつが展示されていて興味深い。ひとつは従来頼朝のものとされていた国立博物館蔵、もうひとつは最近の研究でこれぞ真の頼朝像と認定されつつある山梨県善光寺の座像である。

 いずれも鎌倉時代13、14世紀の製作にかかる木造であるが、前者は日本中世史が専門の黒田日出男氏などの研究をつうじて足利尊氏の弟、直義のものであるとされるようになったのである。

 いずれもいかにも鎌倉の武士の棟梁らしい風格と権威にみちた風貌をよく伝えているが、前者はより精悍であり後者は功なり名を遂げた晩年の老成し達成した長者の趣がよく体現されている。これをもし同一人物の年代別の座像といえばそう思えるし、いな全く別人の足利直義その人であるぞよと言われればそうかもしれないという気がしてくるから素人は困ったものである。

 いずれにしても一代の風雲児と呼ばれるにふさわしいたたずまいに打たれ、私はしばらく2つの像を見比べていたが、会場を出しなに北条高時筆の紙本墨書「南山士雲像」が飾られているのが目にとまった。高時は闘犬にうつつを抜かした北条政権最後のアホ馬鹿執権として知られているが、その墨蹟の品が下がるのはともかく、彼が師事した南山士雲を描くまるで中村不折のような近代的な筆致に驚いたことであった。

 *本展は12月2日まで八幡宮境内の国宝館にて開催されています。

*黒田日出男氏の研究については→http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1747942158&owner_id=5501094


純白のヨットのように走り去る4173湘南ナンバー 蝶人

Sunday, October 28, 2012

鎌倉交響楽団のマーラーの交響曲第2番を聴いて




音楽千夜一夜 285 鎌倉ちょっと不思議な物語第264

ご当地の鎌響が創立50周年を迎え、その記念すべき第100回の定期演奏会でマーラーの交響曲第2番「復活」を演奏しました。指揮者は2008年11月1日に同じマーラーの第5番のシンフォニーを力演しおおせた横島勝人氏でしたが、私はラトル&ベルリン、アバド&ルツエルンを耳にした以上の感銘と興奮を覚えました。

マーラーの音楽から聴こえてくるのは西欧の古典音楽のすべての達成、バッハやヘンデル、ヴィヴァルディ、ベートーヴェン、モザール、シューベルト、メンデルスゾーン、ベルリオーズ、ウイーンモダン派の音楽のすべてのアマルガム、クラシック音楽の近代のどんづまりの苦悩と絶望と背徳と回心と自己放棄の偉大なごみ箱の百花繚乱です。

素晴らしい膂力に満ち満ちた指揮者に率いられた当夜の鎌響は、第1楽章の深い一撃によって開始される闘争に疲れた英雄の生涯をまずは破綻なく演じおおせ、マーラー自身によって指定された5分間の休止を終えると、モーツアルトの緩徐楽章を思わせるアンダンテ・モデラートを天使の夢のように回想し、続いて悪夢のようなスケルッツオに突入します。

第4楽章では深く単純な信仰への回帰をうながすメゾソプラノ木下康子の玲瓏玉のごときアルトの深々とした朗唱が大ホールの隅々まで満たしそれが会場の外で鳴る金管楽器のコラールと天国的な調和を遂げていました。

演奏時間40分になんなんとする終曲の第5楽章に入ってもオーケストラは美感と緊張を絶やすことなく全人未踏の荒野を突き進み、人世の極北で遭遇した神の幻影の前で法悦の歌をうたいつづけます。ここで特筆すべきは鎌倉・戸塚のシニア合唱団によっておごそかに歌われた「私は逝く、生きるために!」の復活の賛歌で、堂を埋め尽くした聴衆はみずからも心の中の楽器を総奏し、壇上のコーラスと共に唇を動かしながら、この奇跡のような宴に参加し、その魂をいくぶんかは浄化することができたのでした。

ほんとうの音楽のよろこびと摂理は、ルーチンとマンネリの疲労困憊の泥沼にあがくプロオケの中ではなく、「一期一会のおんぐあく大革命」に燃え尽きるアマチュアの演奏のパトスとエートスの内部にあるということは、私だけでなくもはや世界の常識ですが、そのことをまたしても最上のレベルで達成したのが当夜の記念碑的な演奏でした。


ほむべきかな もろびとこぞりて称えよ奇跡の夜 こんな演奏を聴けるとは夢にも思わなかった 生きていて良かった 鎌響よありがとう 蝶人

*また別の夜の思い出

Saturday, October 27, 2012

鎌倉文学館で「源実朝展」を見て




茫洋物見遊山記第94  鎌倉ちょっと不思議な物語第263


生誕820年を期しての特別展ですが、狭い2つの会場に並んでいるのは太宰治の小説や斎藤茂吉、小林秀雄、吉本隆明などの実朝論の生原稿、それからいわゆる鎌倉文士どもが色紙に書いた実朝の歌くらいでたいしたものはありません。

それでもいくつかの発見はあって、正岡子規がその生涯をつうじて清書し続けた古今の俳人歌人の作品の墨痕はいまなお鮮やかで、これが一字一句心をこめて記されているさまは般若心経の写教に似ている。明治の短詩形文学の創始者のひたむきな心根にぢかに触れたような厳粛な気持ちになりました。

昔から文人は求めに応じて色紙に揮毫したりすることが多いようですが、不用意に書かれたこれが彼らの人となりをもののみごとに露呈するから面白い。名前はいちいち挙げませんが、あの有名な大作家がこんなつまらない書を書くのかと一〇〇年の恋も一瞬で興ざめになることもままあるので、未来の大作家を目指す人は要注意です。

彼らは自分の好きな実朝の和歌を自分の書で書きおろしているのですが、会場に並んだ筆跡に感銘を受けたのは葉山に住む詩人高橋陸郎ただ一人でした。

そんな次第でいくぶん期待外れに終わった展覧会の会場を出ると、由比ヶ浜から遠く伊豆大島を望む相模湾を背景に赤白黄色の美しい薔薇が咲き乱れており、それらの色と香りがこれで三カ月仕事の無い猫背の労働者の疲れた心を慰めてくれるようでした。


ためらいも恥も無く色紙に書きなぐるほんにお前はアホ馬鹿文士 蝶人

Thursday, March 22, 2012

鎌倉高徳院裏の「故早乙女貢邸」を訪ねて

茫洋物見遊山記第82回&鎌倉ちょっと不思議な物語第261回

鎌倉文学館が主催する文学散歩に着いて行ったら、大佛様の裏手の閑静な住宅街に連れて行かれました。大佛を見下ろす鬱蒼としたこの裏山のどこかに昔小林秀雄が住んでいたのでしょう。

その細道をどんどん歩いていると、「会」と云う字の旧漢字を記した白い旗が掲げられていました。ずいぶん大きなお屋敷ですが、みんながその門の中にどんどん入って行くと「ようこそいらっしゃいました」と丁重に挨拶されて、この豪華な洋館の主は平成20年に亡くなられた早乙女貢という作家であると説明されました。

私は読んだこともないのですが、この人はなんでも会津藩ゆかりの歴史小説などを書いた有名人で、だから家の前に藩旗が翻っていたのでしょう。

関係者の方が故人の人柄と業績についてお話をされた後で、私たちは三三五五彼の書斎や居室や書庫や広大な庭園まで隅から隅まで拝見させていただきました。聞けばこの豪邸のほかにも都心に2つもマンションを所有されていたとか。作家と言えば貧乏人とばかり思い込んでいた私にとって、それはちょっとしたカルチャーショックでありました。

 ひととおり見学が終わってから、司会者の方が「なにか質問はありませんか」とおっしゃったので、私は「東京大空襲関係の御本が無かったようですが」と尋ねてみようかと思ったのですが、それも面倒臭くなってやめてしまいました。ところが、これが大正解。帰宅して調べてみたら、それは早乙女違いのあかの他人でした。沈黙は金、とはよく言ったものであります。


この次の大震災では大佛様は溺れてしまうでせうと皆が囁く 蝶人

Wednesday, March 21, 2012

鎌倉国宝館で「ひな人形」を見る

茫洋物見遊山記第81回&鎌倉ちょっと不思議な物語第260回 &ふぁっちょん幻論第69回


年年歳歳花相似 年年歳歳人不同。あれからもう1年が経ったのですね。

私は今年もまた、春近い朝、鶴岡八幡宮の片隅にある国宝館のひな人形を見物に行きました。享保時代に製作された大きなうりざね顔、引目鉤鼻の享保雛をはじめ、江戸、明治、大正時代につくられ大家、名家、旧家に大切に保存されていた内裏雛や御殿飾り、雛段飾り、立雛、衣装人形、御所人形などが目も綾に陳列され、この一隅だけは早くも春爛漫の雰囲気です。

昨年も触れましたが、平安時代以降本邦では(右大臣より左大臣のほうが偉かったように)、身分地位が上位の者は左側(向かって右)に立つという伝統と風習があったために、この会場の人形はいずれも男雛が左(向かって右)に、女雛が左(向かって右)側に並んで立っています。

ところが昭和三年一九二八年、昭和天皇即位の折にそれが左右逆転したのはいかなる事情があったのでしょうか。恐らくは西洋から来日した貴賓との会見や接待の折に不都合が生じる惧れがあったために古来伝統の作法を急遽曲げてしまったのでしょうが、どうしてこういう問題に過剰反応する右翼や国家主義者たちが反対しなかったのか不可解です。ここでは礼儀作法という名目に潜む西洋と神国ニッポンの存在理由が問われていたのですから。

それにしても昭和天皇の顰に右に倣って、それ以降の人形業界や日本人が西洋流のレイアウトに盲従してしまったことこそ大問題だと思うのですが、そうゆー下らない話よりも今年のパリコレで話題を呼んだコムデギャルソンの少女風のワンンピースの発想の原点は、縄文巻頭衣ではなく「お雛様」にあるとにらんでいるのですが。


*本展は鎌倉国宝館で4月1日までひめやかに開催中

        
平成のすべての女性をお雛様にする川久保玲 蝶人

Monday, March 19, 2012

鎌倉地獄谷成就院付近を歩く

茫洋物見遊山記第79回&鎌倉ちょっと不思議な物語第258回

 春は名のみ。梅はようやくにして咲いたが桜はまだ河津桜だけというこの時期、東京に出かける元気はないので、地元で長く地獄谷と呼ばれた辺をちょっと散歩しようということになりました。

早朝江の電の極楽寺駅を折りたる時ならぬ人だかり。今週の木曜日に終了するフジテレビのドラマのロケを行っていました。鎌倉の市役所に勤務する中井貴一がきょんきょんと熟年の恋をするというお話で、そのタイトルはP.K.ディックの有名なSF小説「最後から二番目の真実」からの無断のパクリです。

長男が「風のガーデン」にも出演したガブさん役の中井貴一の熱烈なファンなので、わたしが早速写真を撮ろうとしたら、無意味に肥ったプロダクション・マネージャーがすっと飛んで来て「駄目駄目」というので、諦めて極楽寺に向かいました。

極楽寺を出てもまだ本番のカメラは回らず、プロマネが声をからして車や通行人を停めたりしています。その間およそ五〇人の俳優やスタッフや警官や駅員は辛抱強く待機したまま。映画でもテレビでも九割は待機時間が続くのです。

観光客目当ての鎌倉市と視聴率目当ての民放が結託した大政翼賛番組を冷ややかな視線で突き放しながら、極楽寺の近所にある成就院に向かいました。毎年梅雨時になると商魂たくましい住職が石段のまわりに植えたアジサイを見物するために各地から観光客が押しかける成就院ですが、この時期には人影もまばらです。

この坂の上のお寺は、承久元年1219年に3代執権北条泰時が都から高僧を招いて創建されましたが、新田義貞が鎌倉に攻め込んで稲村ケ崎のアサリを踏みつぶした元弘3年の戦火で焼亡し、再建されたのは江戸時代です。境内には弘法大師像や八角堂等がありますが、そんなことより境内を過ぎて見下ろす由比ヶ浜の眺望が素晴らしい。

麓の星月井の傍には同院が管理する虚空蔵堂があり、奈良時代に行基が奉ったと称される秘佛虚空蔵菩薩が安置されているので創建はこちらの方が古いのでしょう。

    鎌倉は井あり梅あり星月夜 子規

人寄せにアジサイ植えるあさましさ 蝶人

明鏡山星井寺に詣で星月井に映る名月を愛で名物力餅を食す 蝶人

Thursday, February 23, 2012

鎌倉国宝館で「氏家浮世絵コレクション肉筆浮世絵の美」展を見て

茫洋物見遊山記第78回&鎌倉ちょっと不思議な物語第256回


残念ながら既に終了してしまったが、今月の12日まで開催されていた恒例の「氏家コレクション」について走り書きしておこう。

「氏家浮世絵コレクション」というのは、浮世絵の海外流出を憂えた有徳のコレクター、氏家武雄氏が昭和四九年に鎌倉市と協力してここ国宝館に収蔵された世界的な浮世絵、なかんずく肉筆浮世絵の名品の数々で、今年も北斎、豊広、広重、雪鼎、長春、栄之の優品がおよそ五〇点展示されていた。

さすがに肉筆だけあって大量にプリントアウトされた通常の浮世絵とはその清新さにおいて断然優位に立ち、江戸期アーティストのカラフルで華麗な筆跡が生々しく目を射る。

どんな人物像を描いても生真面目で正攻法の硬さが抜けきらない大家葛飾北斎の「酔余美人図」や「桜に鷹図」、反対にどんな風物を描いても優雅なリリシズムを失わない広重の「御殿山の花図」、加えて西川裕信の「美人観菊図」や懐月堂安度の「美人愛猫図」など春近い古都で鑑賞するにふさわしい「無人の」展覧会であった。

それにしても、と私は思う。最近猫も杓子も大騒ぎのフェメールの良さなど私には皆目理解できず、タダで上げると言われても別に欲しくはないが、これらの肉筆画なら千万両を積んでも手元に置きたいと願うのだ。

こういう我々の先祖先輩が生みだした古拙な真の名人芸には目もくれず、舶来上等限定少数のフェルメール!?なぞにいともかんたんにうつつを抜かす軽佻浮薄な日本人のお芸術趣味が、明治以降の国産優品海外流出の惨を生んだのではないだろうか。 

おお、今も昔も他人の花はなんと美しく見えることか! 蝶人

Thursday, December 22, 2011

五木寛之著「私訳歎異抄」を読んで

照る日曇る日第474回

浄土宗と浄土真宗はつくづく革命的な宗教だと思う。仏や悟りや成仏について自力であれこれ苦労してかんがえたり悩んだり難行に取り組んだりするひつようはごうもない。ただただ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えればどんな人間でも極楽往生できるというのだから。即身成仏をめざす真言宗や六根清浄をねがう天台、法華一乗の徒が怒り狂って朝廷に強訴したのもとうぜんだろう。

それまでの宗教がことごとく自力本願であり、近代以降も人間力の根幹は自己の主体性の涵養であったことをおもうと、この他力本願の思想の簡明さと平民性と思考放棄のラジカリズムにはつねに圧倒される。

されど南無阿弥陀仏だけでくよくよ悩まずに天国に行けたらいいけれど、そんな簡単なことで大丈夫なんだろうか、とかえって心配になってくるほどだ。さらに「悪人なほもつて往生をとぐ。いはんや善人をや。」ということになると、いささか行きすぎのようにも思えてくる。

だがさにあらず。親鸞にとってすべての人間はたまには善人にもなることができる悪人であったから、まずそうゆう普通の悪人がはやく現生を卒業して来世で仏になってはやく現世に戻ってきてくれれば、教祖としてはハッピーなのであった。

 ちなみに歎異抄とは親鸞の著作ではない。開祖没後三〇年、その教説をめぐって数多くの「異」説が登場して相争う状況を「歎」いた直弟子唯円のメモランダムなのである。


年の瀬やバーキンが呉れしリースを飾る 蝶人

Wednesday, December 21, 2011

細川重男著「北条氏と鎌倉幕府」を読んで

照る日曇る日第475回$鎌倉ちょっと不思議な物語第255回


「北条氏はなぜ将軍にならなかったのか?」と自問して始まった本書が、最後の最後に「北条氏得宗は鎌倉将軍の「御後見」なのであり、自ら将軍になる必要もなく、またなりたくもなかったのである」と答えて終わると、「なんだそれは?んなこと最初から分かっていた話じゃないか」と文句の一つも言いたくなります。

しかし得宗とは元は「徳崇」であり、それは時頼期以降に贈られた禅宗系の追号であるとか、北条義時は武内宿禰の再誕であり北条時宗が恐怖の独裁者であったとか、そこに行くまでのお話がなかなか面白い。

これは恐らく著者が「あとがき」で真島昌利の名言として引いている
「難しいことはわかりやすく
わかりやすいことは面白く、
面白いことは深く」
という言葉を実践してやろうと気合を入れてぐあんばったからなのでしょう。

しかしながらこの名言の出所は、このギタリストがこの世に生まれおちる前から劇作家の井上ひさし氏が折に触れて唱えていた
「むずかしいことをやさしく
やさしいことをふかく
ふかいことをおもしろく
おもしろいことをまじめに
まじめなことをゆかいに
ゆかいなことをいっそうゆかいに」 
という名言のパクリであることは、歴然としています。

歴史の専門家でインテリゲンチャンのはしくれである著者が、そんなこととも知らずに感動しているこのミュジシャンは、かつての「ブルーハーツ」、現在の「クロマニヨンズ」におけるわが偏愛の天才パンク・ロッカー甲本ヒロトのベスト・パートナーなのですが、その彼がヒロトの足元にも及ばぬ凡才であることもきっとご存知ないのでしょうね。


じんせいなんてつうつうれろれろつうれれろ 蝶人

Saturday, December 03, 2011

磯見辰典著「鎌倉小町百六番地」を読んで


照る日曇る日第470回&鎌倉ちょっと不思議な物語第252

「かまくら春秋」に連載された生粋の鎌倉生まれの鎌倉育ちの著者が訥々と綴った昭和初期の地元の子供たちの思い出話です。

亡くなる前に井上ひさしが絶賛したという本書のタイトルは別に奇を衒ったものではなく、著者たちが少年時代を過ごした住所の表記名で、そこはちょうど小町通りの入り口の不二屋辺にあたります。

聞けば当時、現在の鎌倉駅東口一帯は、磯見タクシー、磯見旅館など一族の会社や地所が駅をぐるりと取り囲むように立地していたそうです。駅前は子供たちの遊び場で空一面に赤とんぼやシオカラ、オニヤンマが舞い、著者たち兄弟は正月の凧揚げや独楽回し、石蹴り、鬼ごっこ、かくれんぼう、野球まで楽しんでいたそうですからまるで夢のような話ですね。

舗装されない道には馬糞が落ち、朝は納豆売りや豆腐屋、夜にはラオ屋の笛の音が流れる昭和一〇年代の物寂びた雰囲気は、私が当地に越してきた三〇年前にはまだ夜のしじまに幽かに漂っていたと記憶していますが、そんな長閑な小路に次第に観光客があふれ、その観光客を狙う商魂逞しい東京資本がぎんぎらぎんにさりげなく流入してきたのは、比較的最近のことといえましょう。

旧い昔を遠い眼で慈しみながら記したこの朴訥な回顧録を読みながら、私は半丁も歩けば商店も絶えた寂しい小町の通りを懐かしく思い出していました。

鎌倉の駅前広場の赤とんぼわれひとともにたそがれてゆく 蝶人

Thursday, November 17, 2011

商標と「鎌倉エキスト」

広告戯評16&鎌倉ちょっと不思議な物語第251バガテルop147

横須賀の歯医者さんへ行く途中、鎌倉駅のホームで駅に付属している小さな商業施設の看板が目に入りました。鎌倉EKIST(エキスト)という名前ですが、これは悪いネーミングではありません。

恐らくは「絶妙な」という意味の英語exquisiteの転用をはかったのでしょうが、駅とストップ、出口のexit,eqip(必要な物を揃える)、equitable(公正公平な)という英語との連想もしぜんに湧いてきますし、「なになにイズト」というようなその道の専門家というニュアンスもそこはかとなく匂わせている。

さらに深読みすれば存在という意味の英語existがこの軽快な商標の基底部に鎮座ましまして、観光地の中心部に所在する商業施設の存在意義を自問自答しているような気がしてくる。簡明で覚えやすくてなおかつ深い含蓄に富む名称といえるでしょう。

余談ながらこの「鎌倉エキスト」の入口が鎌倉観光総合案内所になっています。当地に観光に訪れた人は必ずここに立ち寄って毎月発行されている「かまくら四季のみどころ」という無料の案内書(A3二つ折り)をもらいましょう。見開きが簡にして要を得た地図になっていて、これさえあれば他の観光地図やガイドブックなんて要りませんよ。

よしだでらではなくてきちでんじ いってみたいな吉田寺 蝶人

Friday, November 11, 2011

横浜銀行由比ヶ浜支店跡を訪ねて


茫洋物見遊山記第70回&&勝手に建築観光45回&鎌倉ちょっと不思議な物語第250回&

鎌倉文学館ツアーの途中で、窓や外装に施したアールデコ風のデザインが印象的な、古くて懐かしい小さなビルジングに出会いました。ちょうど芥川龍之介が亡くなった昭和二年に建てられた横浜銀行由比ヶ浜支店です。昭和一二年に死んだ中原中也もきっとこの銀行を利用したことでしょう。

このビルは大佛様に向かう道など五本の交差する場所に立っていて有名な長谷の六地蔵もこの近所にあり、この界隈のちょっとしたランドマークの役割を果たしています。

私のなけなしの貯金はぜんぶ横浜銀行に預けてあります。こんなお洒落なオフィスなら、駅前からざわざわここまで足を運んでも利用しても構わない、とさえ思うのですが、残念ながら現在はその名も「ザ・バンク」というバーに姿を変えてアルコールを一滴たりとも口にすることを医師から禁じられている私には無縁の存在と化しているのはちょっと残念でした。

鎌倉でお洒落な銀行といえば、お洒落とは無縁なビジネスを展開している三井住友銀行が、最近若宮大路にモダンな外装の支店を開設したのですが、よくよく見ればそれは倒産したラルフローレンの直営店。おされと言わんよりは、弱肉強食を地でいく買収劇の残骸なのでした。

鎌倉では生き残れなかったねラルフローレン 蝶人

Wednesday, November 09, 2011

高浜虚子旧居を訪ねて


茫洋物見遊山記第68回&鎌倉ちょっと不思議な物語第248回&勝手に建築観光44&茫洋広告戯評15

若き日の芥川龍之介の下宿からほどちかいところになんと高浜虚子の旧居がひっそりとたっていました。虚子の死後は次女の星野立子さんが住んでいたようですが、その後は人手に渡って現在に至っているようです。すぐ傍に江の電が走っているのですが、その音がやむとまた秋の日の静寂に包まれてしまいます。

相当に古い木造家屋の前にはかなり広い庭があって、一輪の紅い薔薇が咲き残り、他にもさまざまな花が植えられていましたが、私は隅っこに小さな花弁をつけていたホトトギスに目を奪われました。

虚子が正岡子規の推で俳誌「ホトトギス」を出したのは明治30年のことでしたが、その「ホトトギス」と子規ゆかりの杜鵑草がこの庭にあるのは当然と言えば当然とはいえ、いったい誰が植えたのだろう、もしかして虚子が手ずから植えたのではないだろうかと思って、私はしばらく生垣の間からじっと眺めておりました。

庭の外と狭い路の間には「高浜虚子旧居」の小さな石碑と「浜音の由比ヶ浜より初電車」と立子の書で刻んだ虚子の句碑がうずくまっていました。これなどは例の「花鳥風詠」をうたい文句にした偉大なる俳人のいかにも凡庸な作品ですが、毎朝江の電の由比ヶ浜駅から鎌倉に出て、横須賀線で東京駅の近所の丸ビルになった編集所まで通っていた虚子の几帳面な性格を窺わせるには充分です。

私は時折丸ビルのその「ホトトギス」事務所を用もないのに尋ねては明治の俳人の面影を慕っていたのですが、それにしても、(と話は飛びますが)、その立派なビルジングを耐震性がどうたらこうたらと抜かして1995年に一夜にして倒壊させ、下らないコンクリートの残骸ビルを再建した三菱不動産は許せません。

あまつさえ彼らはてめえがぶっこわした歴史ある建築物の土台となった米国産パイン材をば社長が登場する広告に使って、そのまだまだ使用できる頑丈さを誇示していますが、それならなおさら巨大な犬小屋の新丸ビルなんぞ必要はなかったのではないでしょうか。

「一丁倫敦」を模したジョサイア・コンドル設計の三菱一号館を1968年にさっさと解体しておいて、世間の風潮が歴史や回顧や環境保全の方向にむかうと、突如美術館として再建したよなどといばっている会社は、所詮文化を語る資格のない金もうけだけの土建屋であり、亡くなった虚子も草葉の陰でよよと泣いていることでしょう。

江の電や虚子邸で咲くホトトギス 蝶人

芥川龍之介の下宿跡を訪ねて


茫洋物見遊山記第67回&鎌倉ちょっと不思議な物語第247

恒例の鎌倉文学館の文学散歩で学芸員の方のガイドに導かれて、秋の半日をそぞろ歩きました。自転車から転落して腕の骨を折った細君は無念の欠席です。

今回はまず江の電由比ヶ浜駅から芥川の下宿跡を訪ねました。芥川は大学卒業後横須賀機関学校の教師となり、大正5年から鎌倉に住みますが、その最初の住まいがFMかまくらの向かいにある旧野間西洋洗濯店の下宿でした。彼は同年12月の日記に「朝六時から起きて全速力で小説を書いて居る。鎌倉の物価の高いのにはあきれかえる」と書いていますが、この頃から当地の物の値段は馬鹿高かったのですね。

 高いのは物価だけではありません。税金も気位も高い。あまけに市役所の職員の給料は全国で一番か二番目に高い。私なども細君の実家が当地になかったらまったく無縁の地であったに違いないのですが、気がつけば三〇年以上この海と山と谷間の地にへばりついています。やれやれ。

それはともかく鎌倉は人口に比してクリーニング屋さんが圧倒的に多いのは、そもそもが当時の富裕層の避暑地だったから。街中をてくてく歩いているとすぐに「西洋洗濯店」が見つかります。若き日の文豪もそんなお店に下宿しておそらくは「鼻」か「芋粥」を書いていたのでしょう。

*参考資料は鎌倉文学館に拠る

     秋風に松寥々と聳えけり芥川が「鼻」書きし家の跡 蝶人

Friday, November 04, 2011

鎌倉国宝館で「鎌倉×密教」展を見る


茫洋物見遊山記第66回&鎌倉ちょっと不思議な物語第246

秋風薫る八幡宮の傍らにある国宝館で「秘仏光臨」「鎌倉ゆかりの密教尊像が一堂に集結」と銘打たれた特別展に行ってきました。

どうでもよいことですが、最近は大小を問わず展覧会のタイトルやキャッチフレーズにプロの宣伝マンを起用してああだこうだとカッコを付けていますが、往々にして実態とかけ離れたこけおどしの惹句であり羊頭狗肉そのものです。映画のアホ馬鹿宣伝の悪い影響が芸術美術の世界にまで及んできたようで寒心に堪えません。

さて今回の「鎌倉×密教」展における発見は鎌倉新仏教における密教の怪しい浸透ぶりで、たとえば寿福寺を創始した臨済宗の開祖栄西や浄妙寺を興した同じく臨済宗の退耕行勇は禅宗の僧侶であると同時に密教の徒でもありました。鎌倉新仏教の推進者の大半が密教の熱心な信奉者でもあったということはそれが否定的な媒介として作用したにせよ改めて注目しておく必要があると思われます。

会場には私にはあんまり興味のないまんちゃらかんちゃら曼荼羅の薄汚れた図像がどっさりぶら下がっておりましたが、それよりも2つの木造坐像が私の耳目をとらまえました。一つはしどけなく優美な姿態が印象的な来迎寺の「如意輪観音菩薩坐像」でこれは性的な風紀が乱れに乱れた南北朝の製作ですからここまでセクスイーであることが許されたのでしょう。

もう一つは象の頭と人間の身体を持つ異様な2体が抱擁するように向かい合って立つ「歓喜天像」です。見るからに奇怪なやはり南北朝のこの立像は敵に呪いをかけるための秘仏だそうですが、それ以上に異常なまでの性的なメッセージを会場全体に強烈に発散しているようでした。おお見るだけで目が瞑れそう。怖や怖や。

なお本展は来る11月27日まで当地で開催されています。

せっかく料理をお勉強したいと思っているのに細かいことをグチャグチャいわないでよ 蝶人

Wednesday, October 26, 2011

鎌倉文学館で「芥川龍之介と久米正雄」展を見て


茫洋物見遊山記65回&鎌倉ちょっと不思議な物語245

日毎に深まりゆく秋の日の昼下がり、相模湾の見える庭園に薔薇が咲き乱れる鎌倉文学館を再訪した。

芥川は明治25年に東京、久米はその前年に長野に生まれ帝大の英文科に学び、晩年の漱石に師事してともに作家を目指した親友同士であるところから、こういう特別企画展が開催されたらしい。

されど悲しいかな、私は久米の作品の一篇も読んだことがない。彼が河東碧梧桐の影響を受けて俳諧の道をめざしたが演劇の脚本や「破船」という漱石の娘との失恋をテーマにした私小説を書いたことも、今回の展覧会ではじめて知りました。

所詮は第二流の文学者なのであろうと決め込んで、残る芥川関連の出しものを眺めてみると、漱石が彼の「鼻」を激賞した書簡とか、初期の短編「羅生門」や晩年の「或阿呆の一生」などの生原稿がずらずら並んでいたが、いずれも本郷の森屋の青の縁取りのある原稿用紙で書かれている。これは久米正雄も同様で、いまはなきこの文房具屋謹製の用紙が当時の作家の人気を集めていたのだろう。

芥川は「唯ぼんやりとした不安」を理由に昭和二年七月24日に自殺した(火野葦平も同様)が、こんな抽象的な口実で人間が死ぬはずはない。漱石の後継者と自他ともに認められた彼の死因は、漱石のような長編がどうあがいても書けなかった、という作家的欠陥とそこからくる懊悩によるものに決まっている。

会場には妻の文に宛てた遺言状も展示してあった。これまた森屋の原稿用紙一枚を用いて、万年筆で全部で六項目(最後の項目は「読後焼棄せよ)書き連ねてあったが、驚くべきは「小穴に蘭の花を与えよ」などという呑気なその内容ではなく、眼鏡かルーペで見なければ到底判読できないほど顕微鏡的に細かく、几帳面に書かれたその文字の異様な小ささと限りなく狂気に近い繊細さである。

芥川の研ぎ澄まされたデリケートな感受性を如実に示すその筆跡は、明暗執筆当時に彼の師漱石が描き続けた水墨画の異様なまでに神経質な描線と瓜二つで、私は明治大正の日本文学を代表するこの二人の文学者の思いがけない生理的近親性を、改めて再確認させられたような気がしたのであった。

これまでにかくも繊細なる工芸品を見たことなし夏目金之助氏の細身の名刺 蝶人

Monday, October 24, 2011

さようなら「青砥」


鎌倉ちょっと不思議な物語244バガテルop146

いつもその前の道路をバスで通っていながら気がつかなかったのだが、青砥橋のバス停の近所にあった家庭料理屋の「青砥」がこの3月に閉店していた。

素材を吟味した質朴な家庭料理を上品な家庭婦人が饗するこのひなびた民家の店がこの地に開店したのは、戦後間もなくのことであったらしい。

すぐ近所には浄妙寺や報国寺があるというのに観光客が少なく、いつ行っても空いていてリーズナブルな値段でシンプルな四季折々の日本料理を供してくれるこの店は私の大のお気に入りで、親族の冠婚葬祭の集いにもよく利用したものだった。

離れの日本間の別室では、滑川の向こうの杉林や竹林、庭の植え込みの木々が来客を歓迎してくれるのだが、各室の部屋の床の間には孤高の洋画家熊谷守一(もりかず)の書「五風十雨」が掛けてあった。

いつぞやの集いでもその立派な書をみんなで褒めていると、お店の方が特別サービスで守一95歳の折の書「一去一来」も見せてくださった。最晩年の枯れた書体が背景の軸物の薄茶色や床に活けられた秋海棠と映えて情趣深いものがあった。


 ちなみに「五風十雨」とは5日ごとに風が吹き、10日ごとに雨が降る農作物にとって最善の状態をさし、「一去一来」とは、ひとり去ればまた別の人が訪れる世の中の無常迅速をいうが、鎌倉生まれの鎌倉育ちの由緒ある名店が去ったあとにはいったいどのような珍客が訪れるのであろう。またあの店のおばさんたちや守一の名品はいったいいずこへと流れてゆくのであろうか? 

閉店を告げるポスターの上を、今日も秋風が吹き過ぎる。

さらば青砥五風十雨の恵一去一来の所縁哉 蝶人

Tuesday, October 18, 2011

鎌倉市図書館のポスターを評す


茫洋広告戯評14 バガテルop144鎌倉ちょっと不思議な物語243

鎌倉の御成小学校の辺りを歩いていたら、「万巻の書をよみ 万里の道をゆく」という鎌倉図書館創立100周年の記念ポスターが貼ってあった。明治44年に当時の町民の篤い志によって市のはじめての公立の図書館がこの地に誕生したのである。

私は昔からこの言葉が好きだ。積極的かつ能動的だし若々しい青春のエネルギーを感じさせる名文句で、これを図書館の広告の惹句に据えた人物の才知を高く評価する。少なくとも先日広告文案製作者たちが歴代トップと評価した糸井某の「おいしい生活」などという下品な時代の下半身に媚びた品性下劣な無脊髄コピーより遥かに上等であると思う。

そういえば海江田万里というかつては反小沢だったのに今度は一転してこの闇屋の帝王にペコペコ頭を下げる無節操な政治家がいた。私はこの男の人物と政略を好まないがその名前に限っては好きである。

おそらくこの人の父親は漢籍に明るい文人で、中国明代の書家、董其昌の処世訓を、かくあれかしと願いつつ自分の子供につけてやったに違いない。董其昌は書家にとって最も重要な「気韻生動」を獲得するためには、万巻の書物を読み、万里を歩くべきであると唱え、かつ実践したのであったが、かの海江田氏が万里どころか半歩も進めずに挫折したのは、頃年惜しくも夭折した米原万里嬢に一籌を輸するといふべきか。

いま私ショパンを弾きたいんですという少女 蝶人