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Friday, December 14, 2012

勝長寿院入口の「文覚上人屋敷跡」を訪ねて




茫洋物見遊山記第97回 & 鎌倉ちょっと不思議な物語第267回

文覚上人(1139-1203)の鎌倉の屋敷跡は、滑川に面した勝長寿院(大御堂)の入り口にあった。

彼は平安末期から鎌倉時代初期の真言宗の僧で、元は遠藤盛遠という俗名の北面の武士だった。芥川龍之介の「袈裟と盛遠」に登場するのがこの遠藤盛遠で、彼は渡左衛門尉の美貌の妻に横恋慕して誤ってわが手で殺めてしまい、仏門に入って熊野で苦行したという。

後に高雄山神護寺を再興し東寺の大修理を主導したほか、源頼朝の挙兵を助け、幕府創設後その帰依を受けたが、頼朝の没後は佐渡・対馬に流罪となった

全盛時代の文覚上人は頼朝に対して影響力があり、平家直系の最後の子孫、平維盛の子、高清、通称六代御前の助命を嘆願して認められ、彼を神護寺に匿っていたが、上人が事件に巻き込まれて佐渡に流されている間に、六代は逗子の田越川の傍で処刑されてしまった。六代御前の墓は、キマグレンというポップグループのメンバーが通っていた逗子スポーツクラブのすぐ近所に実在するが、ここが平家一族の終の住処となった。

一方平家と覇権を争った源氏の一族の最後の地といえば三大将軍実朝の墓地ということになるが、「吾妻鏡」によればそれは文覚上人屋敷跡からほど近い勝長寿院(一説では寿福寺)にあった。実朝と六代の墓の距離は車なら一〇分もかからないので思いのほか近い場所に武士社会を創始した源平二つの部族の末裔が眠っていることになる。

寿福寺は、昔源頼朝の父義朝が住んでいた跡に政子が実朝の師であった栄西を迎えて創建された臨済宗の名刹で、ここにも実朝と政子の墓があるが、形式的なもので実際に骨はないだろう。しかし私はこのお寺を訪れる度に、これらの歴史上の人物が歩んだ苔むした敷石の上を、この境内の借家に住んでいた晩年の詩人中原中也がふらふらと歩いていた姿を思わずにはいられないのである。



ああ亡羊茫洋すべての人は通り過ぎて行く 蝶人


Friday, November 16, 2012

黒澤明監督の「乱」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.346

この作品はこれまで何回かみているが、いつも圧倒されるのは原田美枝子が次郎の君の脇差を奪ってその場に押し倒し、首筋に切りつけながら脅迫恫喝するシーンで、ここでは完全に男女の立場が逆転している。その後根津甚八の馬鹿殿は兄の正妻にまるで女のように犯されたあと、今度は女に戻った楓に泣きを入れられ、美しく狡猾な彼女はそれからは馬鹿殿を自分のいいなりに御していくのである。

このシークエンスに比べると大殿と3人の息子たちやお付きのピーターとの掛け合いなどはずいぶん精彩を欠き、大殿自身の心理を含めて人間関係があざやかに描かれているとはいえない。

その代わりにすこぶる印象的なのは緑の大草原を疾走する馬に跨った武士たちの群像、紅蓮の炎を上げて燃え尽きる城やその中から死人のように白衣でよろけ出てくる大殿、画面狭しと移動する戦士たちの戦闘シーンで、そのさまはまるで一幅の華麗で悲愴な絵巻物を見せられているような気分である。

このような雄大な景観をバックにした勇壮な時代劇は、もはやわが国では二度と撮られることはないだろう。武満徹の音楽も地味ではあるが忘れ難い。


にしてもさっさと民主党を見限りシンクタンクに転職するという神奈川4区長島一由 蝶人

Wednesday, November 07, 2012

山本薩夫監督の「台風騒動記」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.340

杉浦明平のルポルタージュ「台風13号始末記」を原作に山本薩夫がメガフォンをとった1956年の風刺喜劇映画です。佐田啓二、菅原謙次、佐野周二、野添ひとみ、桂木洋子、渡辺篤、藤間紫などが続々出演しているが、わたしが高く評価する三島雅夫のいやらしさが光っているな。

台風の被害よりもその後の人災のほうが被害甚大であるという紋切り型のテーマをどんと据えて、老朽化した小学校の校舎を台風で倒壊したことにして公金を流用しようとたくらんだ地元の政治家や町長や校長や教員や住民たちの奮闘努力と右往左往を巨匠?山本が生真面目に描いておる。

されど原作者と監督の思想傾向がはなからマッチし過ぎており、終始力が入り過ぎ、コメディ特有の軽妙さに欠ける。こういうのはもっと軽薄なタッチで演出してもらいたがこのメンバーでは所詮ないものねだりなのだろう。

野田橋下安倍石破慎太郎どいつもこいつも消えて無くなれ 蝶人

Monday, November 05, 2012

福田晴一監督の「二等兵物語」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.338

伴淳三郎と花菱アチャコの二等兵物語。かれらの悲惨な軍隊生活を通じて反戦を訴えようとしている。

陸軍の兵舎に女性が訪ねてきたり、子供を便所に何日も隠したりできるとも思えないが、そういうことを平気で描いている本作のハイライトは、上官のいじめと虐待と暴力に頭に来た伴淳が、敗戦となって醜い振舞いをする彼らを機関銃で脅しながら、その非を鳴らす大演説をぶつシーンである。

そこでは理不尽な暴力と恐怖で強制的に部下を従属させるのではなく、愛と友情と協同にもとづく愛国的な軍隊組織のヴィジョンが語られるのだが、声涙俱に下りすぎてお涙頂戴の上官の告白まで飛び出す脚本はかえってよろしくなかった。

それにしてもこの映画で描かれたような帝国陸軍軍隊の非人間性は、日本人の最悪の側面であり、その遺伝子はいまなお現行の軍隊組織と我等の精神に生きながらえているのだろう。

左側にハンドルを切り高速を墜ちゆくときの軽き眩暈 蝶人

Sunday, October 14, 2012

ジョン・フォード監督の「三人の名付け親」を見て



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.329


サザエ「1948年製作の映画だというのに鮮やかな色彩美にびっくり。砂漠の砂嵐をあんなに奇麗に見せてくれるなんて! 「アラビアのロレンス」のデビット・リーンはこの映画を真似したんじゃないかしら。」

マスオ「はじめに出てきたなよなよのオジサンが実は凄腕の保安官だったり、銀行を襲撃した凶悪犯たちが砂漠の真ん中で生まれた赤ちゃんに夢中になるとか、人は見かけによらないというか、思いがけないドンデンガエシがあるのが面白いね。」

カツオ「砂漠の真ん中で生まれた赤ちゃんがイエスキリストで、ジョン・ウエインなんかの3人の悪党が西方からやって来た博士たちのように描かれている。聖書のお告げがバンバン出てくるし、この映画って宗教映画みたい。本当に西部劇なの?」

波平「つまり、基督教原理主義と拳銃こそがアメリカの原点、ということがよく分かる映画なんじゃよ。」


異界との通信に夢中なりスマホ族 蝶人

Wednesday, October 10, 2012

シドニー・ルメット監督の「十二人の怒れる男」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.327

一人の少年の父親殺人疑惑事件の陪審員として呼びだされた年齢も、生まれも育ちも、思想も暮らしもまちまちな12人の市民が繰り広げる密室内の討論劇である。

状況証拠から予断に囚われ、はじめはヘンリー・フォンダ一人を除いて全員が有罪を確信していたのだが、疑問を懐いたこの建築家がひとつひとつの問題点を解明していくそのプロセスが、スリルとサスペンスを呼ぶ。

有罪説と無罪説の論理的な戦いというよりも、猛暑にいらだち、野球や私事にかまけて早く評決して帰宅したい多くの普通の市民たちと人間の生死に誠実な判断を示そうとする一人の男の良心のせめぎあいが、この映画の主題である。

最後まで反対し続けるリー・J・コップの孤独な心情がまことに哀れであるが、一二名の無名の市民の良識に一人の人間の命運を託す合衆国の法的制度の素晴らしさと恐ろしさを、二つながらに体感する映画でもある。


朝っぱらからオオミズアオの幼虫を4匹も殺してしまって気色悪し 蝶人


Thursday, July 26, 2012

舛田利男監督の「二百三高地」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.283

駄優、あおい輝彦を主人公に、往年の有名スターがどっさり出演している日露戦争夜話であるが、演出がひどすぎる。

恋人を戦地に送り出した新婚ほやほやの夏目雅子をフューチャーしながら、さだまさしの聴くだに恥ずかしくなるようなおセンチな音楽がこれでもか、これでもかとかぶさる。

映像だけで語り尽くせない不安と自身のなさから、こういう感傷過多の三流演歌におんぶにダッコだっこするのである。なにが「愛は死にますか」だ。そんな恥ずかしい歌を臆面も無く歌えるもんだ。お前が勝手に死ね。

笠原の脚本も酷過ぎる。児玉源一郎の加勢でようやく二百三高地を落とした乃木将軍(仲代達矢)が明治天皇の前で報告書を読みあげながら万感胸に迫って号泣、号泣、また号泣するというお涙頂戴の茶番劇に堕してしまった。

それにしても三船敏郎の明治天皇はないと思うけど。


夕間暮れ君と歩けば茜雲消えゆく空にカナカナ鳴きたり 蝶人


Monday, July 16, 2012

古澤憲吾監督の「ニッポン無責任時代」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.278



植木等が自称日本一の無責任男になって大活躍するといいう1962年製作のアホ馬鹿映画だが、根本的なアホ馬鹿映画ではなくてその背後に通底する暗さとその全体を覆う妙に背伸びした強勢感、圧迫感が最後まで気になる奇妙な映画だ。

学歴も金もコネもないリーマン1年生が、時代錯誤の能天気と度胸だけでのし上がって当時の時代閉塞の現状を変えようとぐあんばるお話だが、とどのつまりが北海道の水産関連の社長に就任し、後輩の結婚式が行われている今は亡き横浜プリンスホテルの高台でアホ馬鹿ソングを歌って万歳万歳おしまいという映画で、これではどこが無責任野郎なのかさっぱり分からない。

現実は高度成長経済が驀進している世の中なのだから、映画がそれをなぞるのではなくもう少し既成秩序と権力を打破して革命的脳天気資本主義社会をデッチ上げてくれるのかと期待していたのだが、これでは元の黙阿弥ではないだろうか。

「ハイそれまでヨ」というテーマ音楽がぴったりの空虚で虚妄な映画であるが、この明るい空しさこそが現在まで続く戦後ニッポン社会の本質であった。




なんとか教の教祖に成りあがりたる夢を見て教組も大変だと夢の中で思う 蝶人

Sunday, July 08, 2012

根岸吉太郎監督の「ウホッホ探検隊」を見て



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.274

この監督で私がいたく感じいったのは「ひとひらの雪」(津川雅彦の名演!)だったが、出来不出来もある人で、「探偵物語」とかこの作品ではその実力はほとんど発揮されていないといえよう。
 
 そもそも田中邦衛が藤真利子と浮気したり、十朱幸代が主婦兼ライター役という配役自体に問題がある。ゆいいつよい味を出していたのは野球選手役の柴田恭平くらいで私が好きな斎藤慶子ともっと好きな速水典子はいまイチ、いまサンだった。森田芳光の脚本も冴えない。

 干刈あがたはもう少し生きて、いろんな小説を書いて欲しかった。


一人しか子供産ませぬその国に自由と人権あるはずはなし 蝶人

Monday, June 11, 2012

行定勲監督の「遠くの空に消えた」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.258

物語はとうとう完成した空港の一角にうずもれた1足の靴型から始まる。

ちょっとに似た少年少女思い出物だ。最初から脚本と音楽のコンビネーションが拙劣で一体これはどうなるのか先が危ぶまれたが、三日月が満月に膨らむ頃には監督の脳髄に浮かんだ夢と浪漫の幻想譚は次第に大きな輪郭を描きはじめ、人力飛行機が夜の森に舞う。

ヒコーキは高級物理学上では飛行できないのに、それを可能にするのは飛ぼうとする意志であるというシナリオは日ごろのわたくしの考えと一致していてうれしかった。ラストは冒頭に戻って予定調和の美しい円弧を描く。


自公民駄目民社駄目その他も皆駄目と思う心の皐月闇 蝶人



Sunday, June 10, 2012

中島哲也監督の「下妻物語」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.257

嶽本のばらの原作を中島哲也が映画化した快速ジェットコースター&スラップスティックワンダーランドムービー。下妻のロリータちゃんに扮した深田恭子とヤンキーに扮した土屋アンナの圧倒的な怪演を引き出した監督の手腕には脱帽の他はない。

驚きと緊張と笑いが凝縮した短いシークエンスを次々に積み重ねていく手法は長丁場で失速する危険をともなうものだが、この中堅ディレクターは恐るべき膂力でなんとかかんとか持ちこたえ、あっと驚く大団円になだれ込むことに成功している。

深キョン一世一代の大啖呵はじつに見事だが、冒頭のバイク交通事故でどうして死んでしまわないのかはちと疑問。死んで花実を咲かせる展開になるのかと観客は思うに違いなし。

歌も人間も失敗作のほうが味がありますね 蝶人

Thursday, June 07, 2012

フィリップ・ジョルダン指揮パリオペラ座バスチーユの「ペリアスとメリザンド」を視聴して




♪音楽千夜一夜 第261回

何の期待もせずに見物しはじめたビデオだったが、ロバート・ウイルソンの美術と演出が素晴らしい。04年10月15日の大野和士指揮のモネ劇場の「アイーダ」でも、さながらルネ・マグリットの演出でイプセンの演劇を見せられているような不思議な気分になったのだが、ここでは効果的で簡素で抽象的な舞台に登場人物を影人形のように取り扱ったり、能のような所作をさせたり、手首に手話のような振りつけを施したり、創意工夫の限りを尽くして巴里の観衆を楽しませている。

当節の新進気鋭の演出家、例えば昨日紹介したアホ馬鹿クリストフ・ロイのような手合いは、歌劇の本質とは無縁な仕掛けを強引に外部から持ち込んで音楽と歌唱の有機的な流れをずたずたに断ち切って恬として恥じることがない最低野郎だが、この英国紳士はフランス風トリスタンとイゾルデとでも評すべき神秘的な純愛物語に終始優しく寄り添いながらかつてのブーレーズ&ウエールズ国立歌劇場に比肩するような名舞台を鮮やかに立ち上げている。

指揮者のフィリップ・ジョルダンはかつてスイス・ロマンド管のシェフであったアルミン・ジョルダンの息子だが、父親の凡庸さをそっくりそのまま引き継いだような交通整理的凡演を繰り広げており、その演奏はブーレーズはもちろん大野和士の音楽性には到底及ばないが、世界のオペラハウスはこういう痛くも痒くもない衛生無害の連中によって占拠されてゆくのだろう。

バスチーユの劇伴はなんせ本場物ということでまずは無難にこなしているが、第4幕の幕切れなどは指揮者ともどももっと死ぬ気で感情を込めて演奏してほしいものだ。これならわが東フィルのほうがもっとちゃんと仕事をするに違いない。

 ところでこのオペラのキモは国王アルケルの配役だが、フランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒはまずまずの出来栄え。ジュヌヴィエーヴ役のアンネ・ソフィー・フォン・オッターが衰えたのは悲しい。
ペレアス:ステファーヌ・デグー、ゴロー:ヴァンサン・ル・テクシエ、アルモンドの国王 アルケル:フランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ、イニョルド:ジュリー・マトヴェ、医師:ジェローム・ヴァルニエ
ゴローの妻 メリザンド:エレナ・ツァラゴワ、ジュヌヴィエーヴ:アンネ・ソフィー・フォン・オッター 
なおこの日のNHKBS3には、パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルによるベートーヴェンの6番と7番の交響曲ライヴがグリコのおまけのようについていたが、こーゆー過去の凡演に屋上屋を積み重ねるような演奏はもうたくさんだ。重箱の隅をつつくようなちまちました新解釈を喜んでいるのは演奏しているあんたたち当事者と一部の変態的な暮し苦音楽関係者だけで、一般の普通の聴衆はもううんざりなんだよ。

皇室を飛び出し障碍者のために働きたかったんだってね髭の殿下逝く六十六歳 蝶人

テングチョウとルリシジミ数多生まれた日髭の寛仁殿下蒙じたり 蝶人

Wednesday, June 06, 2012

ティーレマン指揮・ウイーンの「影のない女」を視聴して




♪音楽千夜一夜 第260回

2011年のザルツブルク音楽祭における公演をライヴ収録した映像です。

演出のクリストフ・ロイという奴が天下一品の大馬鹿者で、ホフマンスタールの原作を現代にもってくるのはまあ仕方がない、(けっして良いとは言わない)が、その舞台をこの公演のライヴ録音スタジオに設定するという(演出家本人だけが得意になって大喜びしている)糞アイデアのお陰で、聴衆はもちろんオケも指揮者も手ひどいダメージを喰らっています。

ここで出演者を除外したのは、可もなく不可もない彼らの全員がつねにこの作品のオリジナルスコアを携行していて事あるごとにアンチョコを覗き見できるという利点!?があったからで、本来丸暗記すべきあの長いオペラのセリフや♪をずいぶん省エネできたのではないかと愚考するからです。

リヒアルト・シュトラウスを得意とするドイツ期待の俊英クリスチアン・ティーレマンの指揮はこの音楽の本質を精妙にとらえ、名門オケを完璧にドライヴしながら緩急自在な歌の調べを繰りだしますが、ともかくこのちょいと出ました演出野郎に完全に足を引っ張られ、画面は見ないで音楽だけ聴いていたほうがよっぽどマシというザルツブルク音楽祭史上最悪の公演でした。

その日金星は一匹の黒い天道虫になって向日葵の花の周りをゆっくり歩いていきました 蝶人


Sunday, June 03, 2012

穂村弘選手に「日経歌壇」で選ばれて




バガテルop154

最近はここで「一日一歌」と題して下らない唄のような屁のやうなものをアップしているわたくしであるが、時々日本経済新聞の俳壇や歌壇に投稿することもあるのだ。

 思い返せば今を去る一〇年ほど前、日経俳壇の黒田杏子氏に

死者のこともう忘れよとダリア咲く

という母哀悼の句が選ばれたので、意を強くして毎週じゃんじゃん投稿していたのだが、それっ切りで全然選ばれない。頭にきて放置していたら、「ハガキでなくてネットでも投稿可能」に規定が変わったので、よおしこれならお手軽にできるぞ、とまた投稿をはじめたんだ。

ところがくだんの黒田嬢ならぬ黒田婆は、「ネットでの投稿は認めない」という偏屈女、もしくは古式豊かなインテリおばさん。仕方なく短歌路線に切り替えてときどきトライしていたら今日の「重い崖無い」吉報が舞いこんだという次第です。で、くだんのお作は

障碍の息子を持ちて身につけし障碍の子を見つける速さ 蝶人

というきわめて個人的な事情をそれこそひそかにつぶやいてみたものだが、わたくし的には最近余り良い事がなかったので、それなりに心が晴れたうれぴい一日でした。

そもそもこの穂村選手が小生の拙い短歌を選んでくれたのはやはり今からおよそ一〇年程前のこと。当時マガジンハウスで編集者をしていたSさんに誘われて、彼が主宰するネット短歌会『猫又』の「夏の思い出」というお題に

ひとしきり手のひら這いし黄金虫やがて消え行くゆきあいの空

という歌を投じたらがいきなり選ばれてうれしかったなあ。(これは角川ソフィア文庫「ひとりの夜を短歌とあそぼう」所収)。同じ『猫又』で穂村選手に選ばれた作品は、他にもあって、

朝寝して宵寝するまで昼寝する槿の下のムクになりたし

「狂犬病の注射に出頭されたし。佐々木ムク殿」と鎌倉保険所は葉書を寄越せり

くれないの琉球絣ひらひらと陋屋を行く隠者がひとり({くりひろい}の折句)

黒髪のりんどう娘ひめやかに路銀数えぬ一夜の宿に(同上)

などを選首していただくたびに、狂気でもなく凶器でもなく狂喜していたのだが、

耕ちゃんがもし障害児じゃなかったら眞とは別れていたよと美枝子いいけり

という涙なしには読み返せない世紀の迷作は、関川夏央著「現代短歌そのこころみ」(NHK出版)において関川選手拍手喝采絶賛の上で再録されている。なんちゃって。

思えば流星幾星霜、わたくしが生涯はじめて歌らしきものを舌上に転がらせたのは、当時鎌倉は長谷の海岸近くの旧鈴木清順邸に住んでいた、のちにわたくしの妻君になる人の住居を訪ねた折のことで、わたくしが

鎌倉の海のほとりに庵ありて涼しき風のひがな吹きたり

と詠んで悦に入っていたら、当時わたくしの勤務先の総務課にいらした俳人の井戸みづえさんが、「たり」より「おり」の方がいいわよと助言してくださった。その時はふふんと嘲笑って長く顧みなかった生意気なわたくしであったが、最近ようやく先達の彼女の意図が成程と呑み込めたことであったわいな。

鎌倉の海のほとりに庵ありて涼しき風のひがな吹きおり

んで、今後のわたくしとしては、今日の日を区切りに、一連の愛犬物やまたかと嘲弄されそうな障碍物を遠く離れて、俳句にしろ短歌にしろ自由詩にしろ、自分ならではの雲古無手勝創歌流の只一筋の道を人知れず歩み続けたいと念じておる次第であるんであるんであるん。


風に向かいてわれ歌を放つ唄をうそぶく 蝶人


Friday, May 25, 2012

「山本周五郎戦中日記」を読んで




照る日曇る日第516回


本書には1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃の日から1945(昭和20)年2月4日までの日記が全文復刻されている。

当時彼は38歳。東京大森の馬込文士村に居を構え、連夜の空襲の中を防空壕と行き来しながら代表作となる「日本婦道記」などを雑誌に連載していたようだが、空襲を今か今かと待ちながら彼は「鉄兜をかぶって玄関先で小説を書き」、空襲警報が鳴ると組長として隣組を駆けずりまわって避難させ、敵機が去るとまた原稿用紙を広げ、ヒロポンを打ちながら徹夜して書きまくという日々が続くのである。

この頃の出版社は用紙が配給になり短編の依頼ばかりだったようだが、作家は愛する妻子のために、否それ以上に鬼畜米英と戦う祖国と同胞のために、彼の最善の小説を書くことをもって彼の戦争とみなしている。ここでは書くことが最前線で敵と砲火を交えている兵士の戦闘と完全に等価になっており、空襲で死ぬことも恐れぬ文字通り「決死の文学戦争」が書斎で戦われていたことが分かる。

 昭和19年11月9日には「スターリンが革命記念日に日本を侵略者と断言した。この事実の重さを責任者は正当に理会しているのか」という記述があるが、著者の願いも空しく当局はソ連に対する備えを怠り、昭和20年8月の対日宣戦と南樺太や北方領土の不法占領を許したことを我々は記憶し続けなければならない。

 「己には仕事より他になにものも無し、強くなろう、勉強をしよう。
 己は独りだ、これを忘れずに仕事をしてゆこう。
神よ、この寂しさと孤独にどうか耐えてゆかれますように」(昭和19年10月19日)

「しっかり周五郎」と綴った著者だったが、この日記が終わったあとの3月には東京大空襲で長男が行方不明となり、5月には愛妻を喪う。作家の命懸けの戦いは、その後も長く続いたのである。


過去に向きあうなんてそんな恐ろしい事あっしにはできまへん 蝶人


Wednesday, May 23, 2012

ロバート・マリガン監督の「アラバマ物語」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.253

原題はTo Kill a Mockingbirdで、「モッキンバード(マネシツグミ)を殺すこと」は良くないとこの映画の原作者ハーバー・リーは言いたがっている。物語の場所は確かに60年代のアメリカ南部アラバマ州の田舎町だが、日本の映画会社が勝手に題名を付け替えるのには後々まで迷惑する。「勝手にしやがれ」は「息も絶え絶え」、「大人は判ってくれない」は「400回の殴打」であるべきだ。

さてさて、この映画の表向きの主題は「南部アメリカにおける人種差別問題の告発」であり、無実の罪で告発された黒人を正義の味方である白人弁護士(グレゴリー・ペック)が身を挺して守ろうとする背筋をピンと張ったお話だが、世の中のマネシツグミ的な存在の大切さをアピールすることこそ、この映画のもっと重要な隠されたテーマなのである。

マネシツグミは南米を中心にアメリカに棲息するツグミの仲間であるが、美しい声で囀り、他の鳥と違って人間に害を与えない鳥らしい。

父親は子供たちに「射撃が上手になって鳥を撃つような日がきても、無害なマネシツグミだけは撃ってはいけない」と諭すのだが、じつは孤立無援で村八分にあいそうになる父親の危機をその裏側で救うのは、彼の幼い愛娘であり、その隠れた友人の知的障碍者(ロバート・デュバル)なのである。

この映画では、喰うか食われるか白黒激突の修羅場を危機一髪の瞬間に割って入り、その対立を思いがけない方向から解消するのは、「弱くて無力なモッキンバード的な存在」であることがワーグナーの「パルシファル」のようにものやわらかに示唆されている。

 それにしてもこういう局面で命懸けで戦う正義漢を演じたら、我等のグレゴリー・ペックに敵う者はいない。無実の罪に問われた青年を弁護して引き上げる弁護士を称えて2階席の黒人の全員が起立するシーンは、思わず涙が出るほど感動的だ。


新しいバベルの塔が建ちましたいさあさ皆さんご一緒に 蝶人

Tuesday, May 22, 2012

小津安二郎監督の「お早よう」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.252

1959年制作の「彼岸花」に次ぐカラー映画だが、最新型のデジタル・リマスターで鑑賞したので、屋外も室内も洋服もインテリアも驚くほど精妙で美しい。

出てくる場面はいつもの廊下と突き当たりの玄関、4丈半と6畳の居間なのに、例えば時計と花瓶とが補色関係でカラーコーディネートされていて、物語の内容や進行は別にして見ている目が見ることの快楽で打ちふるえていることがわかり、それが小津映画の本質であり、小津を見ることのせつないよろこびそのものなんだ。

で肝心の内容の方だが、向こう三軒両隣のおばはんとかその息子なんかが出てきて、おでこをつついたら屁がぷーと出るとか、家でテレビを買ってくれないのでむくれているうちに笠智衆の父親に起こられて沈黙ストライキに入るというような他愛もない話で、その他愛もない話を血が咲きの茅ヶ崎の旅館に籠った野田高梧と小津が酒も飲まずに鉢巻き巻いて必死で書き継いだ笑話だから、あまりにも理知走り過ぎている。

そもそもが「東京物語」のような深刻な大テーマの映画ではないので、むしろあんまり面白くもない軽喜劇をさらり作りおおせたというところに、この類を見ない大人の監督のいわゆるひとつの至芸を見たと思ったらよろしいのだろう。


口丹波春の綾部の寺山にふわり浮かびしギフチョウの羽根 蝶人

Sunday, May 20, 2012

ビクター・フレミング監督の「風と共に去りぬ」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.250

原作を読んだことはありませんが、お話も映画の作りもかなりゾンザイなもので、どうしてこんなウドの大木のようなぬるい3流映画が世紀の名作扱いになっているのが不可解ですが、マックス・スターナーのテーマ音楽、アトランタ駅前の大俯瞰やビビアン・リーとクラーク・ゲイブルのなかなかの好演、なによりも辣腕デビッド・セルズニックのプロデュース力に依るもんでしょうな。

特にビビアン・リーは彼女のほんらいの性格を地でいった感じで、もともと演技は下手くそだけどここでは実力以上の存在感を発揮しています。

しかしこういうビビアン・リーというかスカーレット・オハラというような手合いは、南部のハイソサエテーならずとも昔からどこにでもいる嫌なやつですな。普通なら誰も見向きもしないが、たまたまちょいと美人だと男どもがちやほやして寄って来る。クラーク・ゲイブルなんかは、(撮影中にリー嬢から口が臭いと非難されていたようだが)、ついつい手が伸びて、結局お互いの貴重な人生を無駄にしてしまう。世間でまっとうなのはアシュレーとメラニー選手の方で、哀れと言うも愚かな気狂い御両人である。

されどあれだけ周囲に迷惑と面倒を掛ければ、さしものゲーブル選手だってもう帰ってきやしない。やれやらこれでお前さんも一貫の終わりかな、と思ったら、まだまだタラがある、とくらあ。大地主はいいね。

そんな便利なタラがあったら、ちょいとこちとらにも分けてくれえ、と言いたくなる。見たことも読んだこともないけど、さだめし続編ではまたぞろゲーブル選手に秋波を送るんでしょうな。

ところで東京生まれのオリビア・デ・ハビランド選手は、御年95歳で健在だとか。長生きしたもんが勝ち。ですかな。


しょうぐあいのある人が盲目にならぬよう月曜日には雨が降りますように 蝶人

Friday, May 18, 2012

クロード・オータン=ララ監督の「赤と黒」を見て



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.249

スタンダールの原作による1954年制作の仏伊合作映画でこのたび色鮮やかなデジタルマスタープリントに仕上がった。なんせ有名な大作家のネタの映像化であるし、美男ジェラール・フィリップと美女ダニエル・ダリュー(御年96歳で健在!)の競演だから文句のつけようもないが、世評の高さと裏腹に小説も映画もどうということはない。

原作が階級闘争を描いた社会主義小説の嚆矢だなどと嘯く文芸評論家もいたようだが、さあそれはどうでしょうょうかねえ、小西さん。王政復古の腐敗と堕落を鋭く抉って7月革命を幻視したなぞというふやけた結果還元機能法なぞにたやすく依存しないよう気をつけてください赤頭巾ちゃん。

面白いのは主人公のジュリアン・ソレルが、いつも世が世ならば「赤」服を着てナポレオンの指揮下で勲を立てたと切歯扼腕することで、仕方なく黒い僧服を纏って貴族の女をたぶらかすわけだが、ここら辺はスタンダールことアンリ・ベールの実体験をなぞっているのだろう。この人はヴェートーヴェンと違って最後まで奈翁に対する幻想から抜けきれなかった最後の浪漫主義者であったのかもしれない。

もう映画なんか明後日のほうへ飛んでしまったが、スタンダールで面白いのは大岡昇平選手が激賞する小説ではなくて、自伝と音楽論と恋愛論くらいか。映画と違ってこれだけは「いくばくかの読者を幸福にする」こと請け合いである。

スタンダールは政治などにはトンチンカンだが、女を愛することにかけては天下一品だった。別に彼がいち抜けても、フランス文学史は全然困るこたあねえわな。


スマホもfacebookも要らないでしょ、ホントは 蝶人

Thursday, May 17, 2012

イサベル・コイシェ監督の「エレジー」を見て



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.248


フィリップ・ロスの原作をイサベル・コイシェが2008年に映画化した老いらくの恋の物語です。

古希に達した大学教授の主人公ベン・キングズレーが、花も恥じらう女子学生ペネロペ・クルスを落として朝な夕なにもてあそぶのだが、そのうち世間でよくあるように立場が逆転して突然ぽいと捨てられてしまい、身も世もなく毎日毎晩よよと泣き崩れる。その失楽園オヤジを慰めるのがなんとデニス・ホッパーでこれが彼の遺作となりました。

ところが若い男に走ったペネロペ嬢がある夜突然70爺に電話してきて、やっぱあなたが忘れられないわなぞとほざいてまた撚りを戻すという与話情浮名横櫛なもうやってられません、見てられませんなお噺。私はベン・キングズレーも嫌いならペネロペ嬢のからだのどこにも魅力を感じられない不幸な男なので、まったく感情移入することなくみ終えた次第です。

気になるのは老爺が若娘を落とす手口です。この映画の爺は教え子が卒業してからパーテーィなどでくどくので、「この狒狒爺、賢いなあ」と思ったのですが、以前私と同じ学校で長く教師をしていた先輩の話では、毎年複数のうら若き乙女が、「先生あたいとホテルへ行こ行こ」と毎年毎年誘ってきたらしい。

けれども私の場合にはただの一回も、そーゆー電撃フリントゴーゴー作戦のような大胆不敵な楽しい肉団子提案なぞ皆無だったので、この話を小耳にはさんだときにはかの9.11よりもあの3.11よりも激烈なショックを受けたのでした。やれやれ。

思い屈したる時は黙っているより発語したほうが楽になるよ嗚呼 蝶人