Saturday, September 29, 2007

柳美里の「山手線内回り」を読む

降っても照っても第58回

私は、小説というジャンルの内容や形式の新しさなどはもはや出尽くした、と勝手に考えていたが、そうは問屋が卸しはしなかった。まだまだ前人未到の領域が残されていることを著者は見事に証明して見せたのである。

まず「山手線内回り」というタイトルだが、ここには東京の代表的な交通エリアに物語の場所を据え、駅周辺に生活する三人の都会人の最先端の生を描くと共に、その三つの生の最期と一体化された冷酷無残なギロチンとしての電車を終幕に登場させるという趣向なのである。

3つの短編にはそれぞれの主人公がいちおう存在するのだが、物語の真の主人公は、山手線の電車に象徴される現代社会がはらむ無機的な非情さと無関心と敵意と孤独そのものなのである。

第1作の最初のページは、「女は便器に越をおろすと、タイトスカートをへその上までまくりあげ、パンツをふとももまでずりおろした。緊張が内にこもっているようなおまんこを右手におさめ、右手の上に左手を重ね、最初はそっと、徐々にこねるように、そしてなか指をクリトリスに押し付けて左右に強く―、」という卑猥で下品で文章で始まる。

私は著者の人格を思わせるそのあまりの「えぐさ」に不愉快になり、かててくわえてその擬音や雑音や地口や広告やチラシの無秩序な引用やらにムカついて、あやうく本書を文字どおり放り出そうとしたのだが、「しかしこれはセリーヌに比べたらまだひよっこみたいなものだ」と思いつつ、ぐっとこらえているうちに、しだいに著者の術中にはまり込み、「まもなく4番線に上野・池袋方面行きが参ります、危ないですから黄色い線の内側までお下がりください」という最後の文章を読むころには、あろうことか著者の力量にすっかり脱帽してしまった。

次の「JR高田馬場」、さうして巻末におかれた「JR五反田駅東口」では、著者の実験的手法は(少なからざる失敗と大きな逸脱はあるものの)、着実な成果をあげることに成功し、最後の作品の最後の文章(記号!)を眼にした人は、容易に忘れられない感銘を覚えるにちがいない。

著者は、通常の作家が見落としている非文学的な領域にあえて下降して、もっとも文学的ならざる醜い文体、無意味な記号、漂流するネット情報の断片などを丁寧に拾い上げ、それらの糞のようなガジェットどもを総動員して見事な平成文学を荒々しく紡ぎ上げた。

これは、まさしく泥池に咲いた一輪の美しい蓮の花であり、醜いアコヤ貝に育まれてついに世に出た一粒の真珠であり、さらにいうなら、閉塞する現代文学に対して投じられた起死回生の手榴弾である。

Friday, September 28, 2007

寂しい異端派

♪音楽千夜一夜第27回

いまどきの人は誰も読んでいないだろうが、音楽之友社という出版社から「レコード芸術」というクラシック趣味のマニアックな雑誌が出ている。私は吉田秀和氏のエッセイが連載されているので毎号必ず目を通しているのだが、巻頭の目玉記事は月評ということになっていて、いろいろな音楽評論家が、(読者の大半が馬鹿にしているとは知らないで)手前勝手に新作CDの批評をしている。

昔はここで高く評価されると実際にレコードが売れることもあったのだが、この節ではそのような幸福なめぐり合わせは絶えてないようである。

さてこの月評で面白いのは、交響曲担当者の小石忠雄氏と宇野功芳氏の見解と評価が毎回ほとんど一致しないことで、一方が推薦しているCDを、他方(その大半が宇野氏である)がくそみそにけなしていることだ。

例えば07年9月号では小澤征爾指揮水戸室内管弦楽団によるモーツアルトのリンツやプラハの演奏を、小石氏は「小澤のモーツアルト世界が構築されている」と絶賛しているのに対して、宇野氏は「両曲とも平凡で、自分はこういうモーツアルトをやりたいのだ、という意志がなく、とても名曲とは思えない」と一刀両断している。

同じ指揮者の同じ演奏を前にして天地さかさまの評価が出るのは、当たり前といえば当たり前だろうが、もし芸術に鑑賞者の能力や資質や好悪を超え、各人各様の恣意性を超えた客観的かつ絶対的な評価基準があるとすれば、「どちらの意見も正しい」、あるいは「めくら千人、目明き千人」とはけっしていえないはずである。

ちなみに私も宇野氏とまったく同じ評価なのだが、どうやら世間ではあいもかわらず小澤と巨人軍(たかが野球なのにお前は軍隊なのか!)と自民党ファンが主流派らしく、少数異端の私などは、いずれ君たちにも分かる日も来るさ、と寂しくつぶやきながら黙って耐えているしかなさそうである。

Thursday, September 27, 2007

コーリン・デイビス80歳

コーリン・デイビス80歳

♪音楽千夜一夜第26回&遥かな昔、遠い所で第20回

今日もロンドンで放送しているBBC3のライブをポッドキャスティングで聞いている。コーリン・デイビスが80歳になったのでそれを記念したライブやこれまでの演奏を紹介しているのである。白髪のコーリンがフィガロの第二幕とか幻想交響曲と、シベリウスなどのおはこを楽しそうに振っているのが目に見えるようだ。

幕間のインタビューで内田光子が、コーリンのモーツアルトへの愛を例によってとても興奮した口調で喋っていたが、そんなに大げさに褒めることもあるまい。コーリンはいつでも謹厳実直で温和で、しかしここぞというときには激しい精神の火花を散らす音楽家であり、今では数少なくなった古きよき時代の英国の紳士なのである。

私が彼の音楽をはじめて耳にしたのは今から30年以上も昔の東京文化会館で、来日したコーリンがブリテンの「ピーターグライムズ」とベルリオーズの大作「トロイ人」を指揮して、それが私の生まれて初めてのオペラと英仏音楽体験となったのだった。ピーターグライムズを熱演したジョン・ヴィカーズのあの逞しい体躯!

コーリンよ、どうかいつまでも長生きして彼独自の優美なモーツアルトのオペラを聞かせてほしい。

Wednesday, September 26, 2007

吉本隆明著「自著を語る」を読む

降っても照っても第57回

吉本の人間と思想から決定的な影響を受けて雑誌「ロッキング・オン」を創刊したロック評論家渋谷陽一による吉本へのインタビュー本である。渋谷陽一のロック評に私はかつて一度も裏切られたことがないが、渋谷はここでも著者に対する的を射た的確な問いを発し、著者の誠実な回答を引き出すことに成功している。

吉本は渋谷の手引きによって忌野清志郎や遠藤ミチロウの「スターリン」のライブに出かけたそうだが、吉本とスターリンの取り合わせの妙には笑ってしまった。

それはさておき、本書では、初期の「固有時への対話」「転位のための10篇」から始まって、「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論」にいたる著作の執筆動機や時間的経過を経ての振り返りが、吉本の難解な表現に辟易した私のような読者にもわかりやすく語られている。

渋谷が断じたように、「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論」の3部作とは、小林秀雄とは違った形の吉本の「詩」であったのもかもしれない。ちなみに吉本は小林の評論を「無思想な詩」であると総括している。

しかし子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」の名句である所以、芸術作品としての価値は必ずや一字一句微分積分できるはずだと、相変わらず頑固に主張するこの数理学者の言語論には首をひねらざるをえない。

もしもその理屈が可能になったとしても、その機能還元主義的分析の極限は子規の人格そのものであり、吉本主義的分析は、俳句創造の精神とはついに無縁なものであるだろう。吉本があこがれる朔太郎や中也は、別に後世に残る名詩を書きたくて詩人になったわけではない。

吉本において、言語美とは自己表出と指示表出の「織物」であるそうだが、So What?  いったいそれがどうしたというのだ。私たちの作句の精神作用となにか関係の絶対性でもあるのだろうか? ここには「文学に科学を介在させることが進歩的である」という奇妙な錯覚がある。

Tuesday, September 25, 2007

小池昌代著「タタド」を読む

降っても照っても第56回

今日の朝日新聞によれば、文芸誌の書き手が既存の専業作家から演劇畑などの異業種に拡大されつつあるそうだが、国会議員にお笑いタレントや格闘技選手が進出しているご時勢なのだからこれは遅きに失した当然の成り行きだろう。

才能の発掘の余地はつねに広く開かれていなければならない。本書の著者も本職は詩人であるが、詩人らしい繊細な感性を生かしてなかなか面白い短編を3本並べてくれている。

表題の「タタド」というのは、意味不明のタイトルで始末に終えないが、要するに海の傍の広い1軒屋に集った2組の熟年カップルが、ふとしたはずみにスワッピングしてしまう話で、ひとつ間違えば低俗ポルノに堕しかねないプロットを、著者はその寸前で見事に持ちこたえて、絶妙なクライマックッスを築くことに成功している。

しかしその文尾は、「寝室から、タマヨのあげる大きく荒々しい声が聞こえてきた」というのだが、詩人にしては少しく下品な日本語ではないだろうか。

「波を待って」もやはり舞台は海であり、この短編の主人公は、終始海から吹き続ける夏の終わりの風である、といってもよいだろう。突然サーフィーンに狂ってしまった夫の帰還をひたすら海辺で待ち続ける妻のモノローグは、どこかヴァージニア・ウルフの「波」の独白を思わせるところがあった。

私の隣人もサーファー夫婦だが、この小説を読んで、若い彼らがいったいなににとりつかれて毎日のように海に行くのか、その一端がおぼろにつかめたような気がした。

最後におかれた「45文字」は物語の設定がやや強引に過ぎると思うが、末尾の二人の登場人物のこれからが気になる。

このように著者の短編は、はじめは処女の如くおずおずと助走を開始し、徐々に加速しながら最終地点で脱兎の如く読者めがけて投じられる長弓のように、むしろ物語が果てた後で、その大きな震動が私たちを揺るがし始めるのである。

Monday, September 24, 2007

五木寛之著「21世紀仏教への旅ブータン編」を読む

降っても照っても第55回

2500年前にインドで起こった仏教は、中国や朝鮮半島を経由して日本に渡り、インドでヒンズー教と習合した後期大乗仏教が、チベットに入って土着のボン教と習合してチベット密教となり、それがブータンに入ってブータン仏教徒となった。

ブータンでもっとも信奉されているのはニンマ派の開祖で「第二の仏」と称されているグル・リンポチエで、グル・リンポチエは時と場合に応じて釈迦、王、僧侶、歓喜仏、王族、修行僧、憤怒尊など8つの姿に変身して出没するという。チベット密教の影響を強く受けたブータンの仏教が、わが国の仏教とまったく相違するのも当然であろう。

ブータンの人々はけっして蝿や蚊を叩いて殺さない。死して49日後には輪廻転生して次の人?生に生まれ変わることを信じているから、位牌を持たず、先祖供養をせず、インドと同様墓を所有しない。

インドでは遺灰はガンジスなどの川に流すが、ブータンでは手のひらほどのピラミッド型の泥細工にされて山陰や仏塔のたもとに供えられ、歳月とともに風化して土に還っていくそうだが、私はこの考え方にとても共感を覚える。

ブータンといえばGNP(国内総生産)という物神思想を廃し、国民総幸福量GNHで人間の幸福を図ろうとする価値観をなんと28年前の1979年に世界に向かって発信したことで知られる。

この國ではいかにして金儲けするかではなく、いかにして幸せに生き、幸せに死ぬか、ということが最大のテーマなのである。

Sunday, September 23, 2007

村上春樹編著「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」を読む

降っても照っても第54回

著者が偏愛するスコット・フィッツジェラルドの短編、エッセイ、故地探訪記、そしてスコット・フィッツジェラルドを助けた「エスクアイア」編集者によるアーネスト・ヘミングウエイとスコット・フィッツジェラルドのエッセイを付け加えた興味深いアンソロジー(いずれも村上の書下ろしと翻訳、解題による)である。

私にはわけてもスコットのファム・ファタールであるゼルダの伝記と最後の思い出話が興味深かった。
ゼルダ・セイヤーはスコットが「アラバマ、ジョージア2州に並びなき美女」と絶賛したそうだが、写真に見るその顔はそのような美人ではない。彼は彼女が発する凄まじい生命力の虜になったのだろう。

退屈のあまり消防署に「子供が屋根に上ったまま降りられないから助けて」と電話してから屋根に上り、はしごを外して救援の到着を待つ少女ゼルダ、そして20年代ジャズエイジのフラッパーとなって酒とパーテイとダンスに明け暮れ、酔っ払って断崖絶壁から深夜の海に飛び込む命知らずの女を私は好きになれないが、タデ喰う虫も好きズキ、そんな生命の爆発的な輝きにスコットは限りなく魅せられたのだろう。

しかし自由と自立を求めて、愛する恋人スコットとも戦う中で精神を病んだゼルダの晩年は、1940年、ハリウッドで心臓発作で急死したスコットと同様、目を覆いたくなるように悲惨である。1947年11月、ゼルダはアッシュビルのハイランド病院で火事に遭い他の8人の患者と共に黒焦げになって焼け死んだ。享年48。「彼女を知るものは誰一人としてその人生を短すぎるとは感じなかった」、と村上は記している。

アーノルド・ギングリッチによって書かれた巻末の「スコット、アーネスト、そして誰でもいい誰か」は、スコットとヘミングウエイの二人の共通の友人による交遊録と両者の比較であるが、ギングリッチはその人物、文学的価値のいずれをとってもスコットに軍配を上げている。

「皮肉なことに存命中には大成功しそうに見えたほうが挫折のうちに死に、挫折のうちに死んだ方が見事な成功を手にした。やがてヘミングウエイ再評価がやってくることもあるだろう。ちょうど私がドライサー再評価の到来を信じているように。でもフィッツジェラルドには再評価はもう必要ない。フィッツジェラルドは、将来必要とするであろうものまで既にすっかり手に入れてしまった。そしてヘミングウエイがいまだ辿り着いていない不動の地位をも獲得した。それはまったくのところ、スコットの好みそうな趣向である。しかしそれを鼻にかけたりすることはなかったはずだ。彼はそういうことをけっしてしない人だったから」

この1966年12月に書かれた追悼文を、泉下のスコット・フィッツジェラルドに読ませたかったと思うのは、私だけではないだろう。

Saturday, September 22, 2007

G・ガルシア¬¬・マルケス著「悪い時」を読む

降っても照っても第53回

表題作のほかに「大佐に手紙は来ない」「火曜日の昼寝」「最近のある日」「この村に泥棒はいない」などの短編を9本収録した作品集である。


前作の「落葉」は著者の生まれ故郷のアラカルタをモデルにしたマコンドの物語であったが、本作の舞台はコロンビアのとある町に変わっている。

マルケスは50年代に発表の当てもなく「悪い時」をパリで書き始めたが、その途中で「悪い時」の登場人物が、前述の「大佐に手紙は来ない」など、それぞれ自分を主人公にした物語を書くことをマルケスに要求したため、「悪い時」の完成は1962年を待つことになってしまった。

個人を描きながら、全体としての町を描き、些細な事物をきめ細かく叙述しながら、その町を取り囲む政治、経済、社会の動向を刻一刻と記録していくその手法は、ドキュメンタリーとロマンチックなドラマツルギーの双方向的融合であり、著者が目指したのは虚実をあわせ含む現代の総合全体小説といってよいだろう。そしてその試みは後の「百年の孤独」において見事に結実するのである。

 それはともかく、この作品集におさめられた「失われた時の海」における海底都市の幻想的な美しさには息を呑む思いであった。

Friday, September 21, 2007

叱られて今日はどこまでゆくのでしょう

♪ある晴れた日にその13&鎌倉ちょっと不思議な物語79回


 年々蛇も少なくなる。

ここ太刀洗はヤマカガシがうようよしていて、私が大切にしているオタマジャクシを食べてしまう。「ダメダメ」と追い払っているうちに秋が来るのが常だったが、今年はそんな必要もなさそうだ。

ヤマカガシよ、しっかり生き延びて大きく育ち、ここいらへんにやって来る「杉並歩こう会」のおばはんたちをびっくりさせなさい。

Thursday, September 20, 2007

クワガタの指に食い入る痛さかな

♪ある晴れた日に その12

一昨日の朝は私が、そして昨日の朝は家内が、玄関先の同じ場所で小さなクワガタに親指の肉を噛まれた。

仰向けになって必死でもがいているので、可哀相だから起してやろうと掴んだところを、クワガタの両手で深々と挟まれた。しかも私はオスに、家内はメスに噛まれたのである。

世の中には不思議なこともあるものだ。そうして不可思議な似た者夫婦もあるものだ。

Wednesday, September 19, 2007

原聖著「ケルトの水脈」を読む

降っても照っても第52回

講談社の「興亡の世界史」第7巻が本書である。80年代に入ってアイルランドのリバーダンスやエンヤの癒し?音楽など、いわゆるケルトブームが世界中で巻き起こったが、そのケルトとは何かをあれこれぐちゃぐちゃ論じている。

しかしケルト人とは何か、と問うても諸説紛々でいまいち定説がなく、基本的にはカエサルが「ガリア戦記」で述べているガリア人と同じであるらしい。ただ確かなことは古代からケルト文化の淵源はアイルランドやスコットランドなどではなく、ガリアの本拠である現在のフランスのブルターニュ地方であり、昨今のアイルランドやスコットランド中心のケルトブームは、先祖探しに狂奔するそれらの國の政治的戦略でもあるらしい。

キリスト教を国教にしたローマは、ギリシアローマ神話のみならずありとあらゆる非キリスト教的なる神話や伝説を皆殺しにしたが、このブルターニュ地方にはかなり長くケルト文化が残り、地下水のように細々と流れながらその遺産を現代に伝えているらしいのである。

その水や泉や巨石や聖なる山、ドルイドと呼ばれたケルトの僧侶が太陽崇拝を行った聖なる火、フレーザーが「金枝篇」で研究したヤドリギなどの木や植物、鬼や魔女や妖精や妖怪、アンクウと呼ばれた死神などは、いずれもケルトを代表するカルチャーであった。


著者によれば、フイニステール県の海岸部では、死者を運ぶ「霊魂の船」が人知れず夜中に航行するが、霊魂の呼びかけがあっても絶対に「アーメン」としか答えてはならない。もしそうしなければ一緒に連れて行かれてしまう。

またブルターニュ地方ではあの世からの帰還を求めて夜に洗濯する女の幻影が古来数多く見られるという。死後の霊は蝶、野うさぎ、ネズミ、小蝿、黒猫、ガチョウなどに姿を変えてこの世に戻ってくるというのだが、これはまったく非キリスト教的な考え方であり、むしろわが国の仏教に似ているのではないだろうか。

そんな次第で、このさい改めて西欧世界の歴史を学びなおし、NYの聖パトリック教会の由来や、アーサー王伝説などについてくわしく知りたい人には手ごろな教材になるだろう。

Tuesday, September 18, 2007

エットレ・スコーラの『星降る夜のリストランテ』を観る

降っても照っても第51回
                              
この映画は『特別な一日』や『ル・バル』や『マカロニ』のエットレ・スコーラ監督の作品だから、少し乱暴だけれども、あら筋がどうだこうだと書くのはいっさいやめよう。108分間、黙ってみていれば十二分に楽しませてくれる。

原題の『ラ・セーナ』は、イタリア語で「晩餐」。前菜やデザートや洒落た会話や悲喜こもごもの人間模様の数々を、監督は美味しく料理してくれる。そして最後に、夜空の星がぼおっと映し出されて、スコーラさんは、このシーンを撮りたかったのだとわかる。モーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」の溶ろけるようなアンダンテを、リストランテの全員がしんみり聞き惚れるシーンは素敵だ。もういちど人間を、人生を好きになれる映画、かも知れない。

以上で終り、のセンス良し映画なのだが、僕としては、ある女性に再会できて嬉しかった。
ファニー・アルダンである。もう相当の歳なのに、色っぽい。レストランの女主人という役どころ。ベージュの前開きワンピースをゆったりと着こなし、ちょっと胸元をのぞかせ、あの人懐こい笑顔、大きな口を開けて「ヴオナセーラ」とお客様にご挨拶ーー
眼を凝らして、肩紐を何回もチェックしたが、多分ノーブラOR恋するブラであろう。

80年代の前半に、フランスかイタリアの田舎町でアルダンの映画を見た。アルダンが海辺の汚いバーのトイレに行く。ドアを開けたまま、パンストとスカートを一気に下ろして便器にしゃがむ。その時陰毛がくっきり映っているので僕は吃驚した。これ見よがしにシャアシャアと用便するアルダンめがけて、若きジャックニコルソン風労務者が欲情をムキダシにして進んでゆく……。

嘘みたいなシーンだったが、僕はこの眼でしかと見たのだ。しかし、このあと2人がどうなったのかまったく覚えていないのが残念。日本未公開の超B級作品だとおもう。恋人トリュフォーを失ったアルダンの自暴自棄がアナーキーに出ていた。できるだけ下らない映画に出て、自分を痛めつけてみたかったのだろう。

トリュフォーの遺体に取りすがって、アルダンがわんわん泣いたという記事を読んだこともある。その瞬間、僕はなぜか彼女のわんわん泣いている有様が、まるで映画のワンシーンのように脳裏に浮かんできて、大根女優の彼女を、はじめて好きになったのだった。
熟女アルダンのしどけなく、臈(ろう)たけた感じがなかなかいい。死ぬまでノンシャランにやってくれい。

Monday, September 17, 2007

映画『こころの湯』を観る

降っても照っても第50回

いっけん平凡で退屈そのものの日常生活の中にも、ある日突然ひとつの「映像」がやって来る。そして、ああ、人生はいいなあ、まだまだ世の中も捨てたものではないなあ。と私たちに切実な印象を残して、その「映像」はいずこかへ飛び立ってゆく。消え去ったのではない。折に触れてそれらの「映像」は、わたしたちの心に、鳥のようにふんわりと降り立ち、再会の歌を静かに歌い、疲労と失意のどん底にある者を励ましてくれるのである。

私にとってその「映像」とは、例えば、天安門広場で両手を広げて戦車の前に立ちふさがったひとりの中国人の若者の姿であり、あるいはマルコス大統領を追放してマラカニアン宮殿にアキノ新大統領を迎えたフィリピンの大衆の歓喜の姿である。

『こころの湯』は、北京の下町の古風な銭湯「清水池」の滅亡の物語だ。チャン・ヤン(Zhang Yang)監督の話では、現在北京には40~50軒の銭湯があるが、昔ながらの銭湯はわずか4,5軒。どんどん姿を消して、日本と同様の健康ランド、総合レジャー的なものに変身しているという。超ハイテク工業化が進行する中国で、前近代的な建築物やコミュニティや人関関係が、古き良き時代の思い出と共にゆっくりと壊れていく姿を、チャン監督は、淡々と描いていく。

夜な夜なコオロギを戦わせたり、鍼灸、囲碁将棋を楽しんだり、幸福な時間を過ごした「清水池」の常連たちは、最後に行き場を失う。ローマや江戸の庶民が、心ゆくまで享受したこの至福の裸体文化も、いつかは終焉の日を迎えるのだろうか。

銭湯の経営者には、かつて日中合作のNHKドラマ『大地の子』で養父役を好演した名優チュウ・シュイ(Zhu Xu)が扮している。そして、老いた父といっしょに暮らしている障害者の次男役は、ジャン・ウー(Jiang Wu)。この姜武さんの風体と演技が、どうも誰かによく似ている。と思ったら、知恵遅れの障害者である僕の息子にそっくりなのであった。従って、これぞ迫真の名演技と断言できる。そうチャン監督に伝えたら、なんと朱旭さんの息子さんも障害者らしい。そんな因縁がある分、朱旭さんの演技にも力が入ったのかも知れない。

この映画の原題は、英語で『SHOWER』となっている。姜武さんが、イエスを洗礼したヨハネのように、ある若者の頭にシャワーを注ぐシーンを見ながら、突然、僕は知的障害者施設の先駆けである近江学園の設立者糸賀一雄氏の逸話を思い出した。

ある知恵遅れの少年が、来る日も来る日も花壇の花に水を遣っていた。そしてある日、糸賀さんは、雨がザンザン降るのに、傘も差さずに如雨露で花に水を注ぐ少年の姿を目にして、なにか大きく深いものを感じ、彼らのために一生を捧げようと決意されたそうだ。
雨の日に花に水を遣る少年―-理由は分からないのだが、いつも涙が出てくるその「映像」を何年ぶりかで脳裏に思い浮かべ、僕は息子のことをちょっぴり考えた。

Sunday, September 16, 2007

御成通りに幻の「滝乃湯」を訪ねる

鎌倉ちょっと不思議な物語77回


00年1月に失職した私は、やむなく売文稼業で身を立てようとマスコミ各社に売り込みをかけ、奮闘努力の結果ようやく名門K社の団塊世代対象の新雑誌の新米ライターとして初めての取材原稿を書くことになった。

私は天にも昇る気持ちで音羽の編集部を訪れ、担当者のSさんから「銭湯特集」の企画の説明を受け、カメラマンとのコンビで千住の「大黒湯」と、大田区仲六郷の「nuland」、そして地元鎌倉の「滝乃湯」を取材することになった。

御成通りの「滝乃湯」の前に立ったのは、忘れもしない01年5月のある晴れた日のことだった。タイル張りの玄関、苔蒸した築地塀、そしてその塀越しに優しく伸びたもみじの枝がことのほか印象に残った。

当時、この鎌倉最古の銭湯「滝乃湯」は存亡の危機にあった。番台に座り続ける経営者の熊坂紀和子さんは71歳。昭和5年築の銭湯と同い年だった。借地の更新料が払いきれずに、01年2月末に廃業通知を張り紙したところ、常連客を中心に存続嘆願書が殺到。1ヶ月近くでなんと3665通に達したという。

多くの住民の熱望、市の努力と地主さんの好意が結実し、70年の歴史に輝く名湯は、02年3月まで存続できることになったばかりだった。

私が「滝乃湯」に中に入ると、浴場も脱衣場も、照明はただ一本の電燈がぶら下がるのみで、まずこの質素さが心に沁みた。浴場に足を踏み入れると、星空がのぞく高い天井と富士山のペンキ絵が鄙びたいい味を出していた。
新米ライターの私は、さっそく熊坂さんへの取材を開始した。

「滝乃湯」は産後の血行回復、神経痛に効く漢方薬湯が名物で観光客にも人気があり、普通の銭湯と違って、毎日お湯も薬も入れ替えているという。

「うちのお湯はね、3度お湯に入って暖まらないと風邪をひくよ」
「私の夢はここを銭湯保育所にしてねえ、子育てに自信のない母親からお子さんを預かってねえ、オジイチャン、オバアチャンたちといっしょに育てることだったの」
「考えてみると、みんなが裸になって、声をかけあったり、気持を通わせる唯一の場所が、この銭湯なの……」

そんな鎌倉最後の楽園が、ここだった。

私が取材したあとも数年間は営業が続いた「滝乃湯」だったが、とうとう昨年、あの長い煙突も、私が一糸まとわぬヌードモデルとなって入浴した浴槽も、脱衣場も、富士山のペンキ絵も、築地塀も、もみじの枝も、それらのすべてが地上から消えうせて、ご覧のようにどこにでもある駐車場になってしまった。

それにしても、古き良きものは何ゆえに滅びやすいのであろうか?

ちなみに、私が執筆したその雑誌も、創刊わずか2年ほどで廃刊になってしまった。
まことに諸行は無常である。

Saturday, September 15, 2007

御成り通りのおもちゃやさん




鎌倉ちょっと不思議な物語77回

鎌倉裏駅「御成り通り」の海側の端っこにある「くろぬま」こそ、この商店街のご本尊であろう。

昔は和洋の紙屋であったが、その後袋物を扱い(現在も各種ビニール袋がずらりと並べてある)、それからおもちゃ屋さんに転身した鎌倉随一の不可思議な商店である。

私たちは幼い子供のためにこの店で花火を買ったが、子供だけでなく大人も楽しめるいろいろなグッズが、ざっかけない店内に雑然と並んでいる。

ウナギの寝床のようなお店の奥に座って新聞を読んでいるメガネのおじいさんも古めかしい店舗の風情ぴったり合っている。

Friday, September 14, 2007

ドナルド・キーン著「私と20世紀のクロニクル」を読む

降っても照っても第50回

「日本文学の歴史」全18巻、「明治天皇」、「足利義政」そして「渡辺崋山」。いずれも素晴らしく読み応えのある書物であったが、その著者による自叙伝が本書である。

この人は幼い時に妹が亡くなり、両親が離婚するという悲運に見舞われながらも、いつも古きよき時代のアメリカ人だけが持っていた明朗闊達さを失わず、その文章はまるでモーツアルトのハ長調のような透明な単純明快さがある。

ここらあたりが源氏物語を翻訳したアーサー・ウエイリー、ラッセル、フォスターのみならず、谷崎、川端、三島、吉田、河上、石川、安部、永井、篠田、嶋中など日本の代表的な文学者、書店主に愛された理由であろう。

1945年に生まれて初めて朝日に染まる雪の富士山を見て涙し、飛行機の中で荷風の「すみだ川」を読んで泣き、茂山千之丞に狂言を学んだ初めての外国人キーンは、日本人以上の日本人かもしれない。

50年前の京都や原宿の暮らしに寄せる懐旧の情も胸を打つが、著者が傷だらけになった日本の現在、そして未来に寄せる深い愛情こそ貴重なものに思われる。

1938年、16歳で初めて見たメトのオペラ「オルフェウスとエウリデーチエ」やフラグスタートのワグナー、マリア・カラスの「ノルマ」(このライブ録音のレコード&CDには著者のブラーヴァ!の絶叫が収録されている)するなどオペラ黄金時代の感動的な体験を読むとうらやましい限りである。

しかしもっとも印象的なのは三島由紀夫との交友の思い出である。
三島が70年11月の自栽の前夜に書いた著者への手紙は最近出版された「三島由紀夫全集」の書簡編に収録されているが、本書には最後から2番目の手紙が紹介されている。

『豊饒の海』は月のカラフルな嘘の海を暗示した題で、強いていへば宇宙的虚無感と豊かな海のイメージをダブらせたやうなものであり、禅語の『時は海なり』を思ひ出していただいてもかまひません。

私はこの『時は海なり』という言葉のなかに、三島の世界観が要約されていると思った。

Thursday, September 13, 2007

四方田犬彦著「先生とわたし」を読む

降っても照っても第49回

著者の生涯の師、由良君美への追悼の思いにあふれた1冊である。

由良は知る人ぞ知る博識の英文学者であったが、文芸、哲学、美術などの隣接諸学を広く深く渉猟し、狭いアカデミズムのたこつぼに閉じこもらず、目を古今東西の遠近に放った人であったらしいが、1990年8月に61歳で亡くなった。

若くして知の悦び、学びの楽しさを教えてくれた師であったが、著者が思想的に自立するに従って師弟のギャップと誤解が生じ、それはついに取り返しがつかないものになったまま2人は幽明境を異にするのだが、本書の「先生とわたし」の物語はそこから始まる。

自分が先生から享けたものは何か、先生に還したものは何か、はたまた師弟の本来あるべき姿とは何か、がこの出藍の誉でもあり、不肖の弟子でもある著者によって真摯に問われてゆく。

さうして師の真像に肉薄しようと超人的な追跡を続行する著者の内面の旅は、師の先祖の来歴探しや全生涯の振り返りにまでおよび、さながら師ヴェルギリウスと永遠の恋人ベアトリーチエの幻の影を慕うダンテの天路歴程を想わせるものがある。

このような弟子を持った師の泉下のよろこびはいかばかりであらう。以って瞑すべしとでもいうべきだろうか。

Wednesday, September 12, 2007

鎌倉聖ミカエル教会を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語76回

横須賀線が北鎌倉のトンネルを抜けた瞬間に空気が少しひんやりする。しばらくして鎌倉駅のプラットフォームに降り立つと、潮の匂いが微かに鼻腔を衝く。そしてこれが鎌倉という田舎町に住むことの最高の贅沢なのである。

しかし今も昔も東口から出る霊園方面の京急バスの最終は10時15分、ハイランド行きの最終は45分なので、私は混雑するタクシー乗り場を捨てて、たまには夜の小町通を八幡宮に向かって歩いた。

今から30年くらい前の小町通にはお茶屋と信用金庫と2つの喫茶店と玩具屋と駄菓子屋と古本屋と中華料理屋と呑み屋とひき肉屋と牛乳屋とピロシキ屋と薬局と医院と寿司屋とクリーニング屋と氷屋以外はほとんどなにもなかった。

現在のような阿呆な芋アイス屋やスイーツ屋や煎餅屋やブチックや雑貨屋やカフェなどは、ただの1軒もなかった。

ほの暗い街灯の下を私はとぼとぼと歩いた。しもた屋も貧しい民家もかたく門を閉じて寝静まり、狭くて細い道に人影はなく、舗道をうつ私の靴音だけがぴたぴたと音を立てていた。

小町通りの舗装が尽きるあたりに竹製品などを売る生垣屋があり、その左側に聖ミカエル教会が静かに佇んでいた。鎌倉には明治時代から多くの外国人が居住したために市内には22の教会が現存しているそうだ。

四人の大天使のうちの1名の名を冠したこのカトリック教会は、最近“ぴかぴかに醜く”立て直された。木造の聖堂部がかろうじて当時の姿をとどめているだけで往年の面影はない。市の指定景観重要建築物だというが、その価値はなさそうだ。

私は久しぶりにこの教会の前に立ち、この教会が経営する施設に障碍児の息子を入れていただけるかどうか神父様に相談に行った遠い昔の日を思い出した。礼拝堂に入ると格天井などさすがに内部の意匠が歴史を感じさせたが、それより驚いたのは私の亡くなった母と同じ名前の女性が最近神に召されたという知らせに出会ったことだった。

Tuesday, September 11, 2007

アクオス小百合よ ゴッホの話はやめてけれ

♪バガテルop27

「解剖台の上でミシンとこうもり傘が出会ったように美しい」(ロートレアモン「マルドロールの歌」という言葉は、広告制作の本質を捉えている。

広告の作法とは、無関係なもの同士を同一平面状に並べて、それらが思いがけない異化作用を引き起こし、さながら核融合に似た法外なエネルギーを世間に放出する文字通りアナーキーなたくらみにあるからだ。

さて、この一枚のB倍版のポスターの上で出会ったのは薹の立った女優と液晶テレヴィと孤高の画家の名作のアトランダムな組み合わせ。ほんらいなんの関係もない3つの要素が、金と冗談と機知にまかせて世界中のあちこちから呼び集められ、今夜ここでの一盛り、虚栄の歌を歌おうとしている。

されどアクオスよ、小百合よ、私は断じて君たちからヴァンゴッホのお芸術の話を聞きたくないのだ。

退け、サタンよ! 驕るなかれアドバタイジング!

Monday, September 10, 2007

朝顔のうた




♪ある晴れた日に その11




天青のなかに 海と 空がある

♪バガテルop26

どうしても 好きになれない 人がいる

Saturday, September 08, 2007

コリン・マッケーブ著「ゴダール伝」を読む

降っても照っても第49回

映像の天才詩人、ジャン・リュック・ゴダールに関する包括的な評伝が初めて刊行された。私はむかしからヌーヴェルバーグの作家や作品は嫌いではなく、特にゴダールとは1985年にテレビCMを2本作ってもらうために彼がいまも住んでいるスイスの小村ロールに出向き、やあこんにちはと挨拶したこともある(その頃ちょうど「こんにちはマリア」が公開されていた)ので懐かしく手にとった。

著者のコリン・マッケーブは名前からも分かるようにアイルランド系の英文学者兼映画研究家兼映画製作者。文学のみならず歴史や哲学の造詣が深く、英国映画協会の製作部長時代にゴダールに番組制作を依頼したりインタビューしたりしている。

文章が突然「分節化」されたり、精神分析の論文と化したりして無学な私には理解を超える個所もないではないが、この不世出の映像作家の先祖代々の系譜や幼年時代のエピソード、さらにこれまであまり解明されていなかった革命的ジガ・ヴェルトフ時代の活動、さらに生涯の伴侶アンヌ・マリ・ミエヴィルとの愛と創造の共同生活などを、映画史におけるゴダールの好意的評価とともに要領よく紹介している。

本書によれば、ゴダールは昔から盗癖があり、1952年にチューリッヒの刑務所に入るまでの5年間繰り返し盗み、捕まることを繰り返しているが、これは彼のブルジョア的な成育環境とそこで植えつけられたピューリタン的宗教教育への敵意・反発が潜んでいるようだ。

祖父が大事に所有していたヴァレリーの署名入り初版本を盗んで古本屋にたたき売る少年ゴダール。そんな少年の内気な態度や長い沈黙は、彼のパナマ、リマへの長い南米旅行から始まった、とトリュフォーは語っている。

若きゴダールはパリでの大学受験勉強に失敗してスイスに舞いもどり、アルプスの高地にある巨大な大型ダム建設現場で働き、これがプロレタリアートとしての自己確認の原点となった。

しかし渡世人ゴダールの振り出しはクロード・シャブロルから譲られた米フォクス映画の宣伝広報担当への就職で、このポジションはわが国の不世出の映画評論家淀川長治のそれを想起させるものがある。
ゴダールは米国映画帝国主義への敵意と反感をいまでも隠さないが、「勝手にしやがれ」のプレスキャンペーンやマスコミ対応などは不倶戴天の敵国の作法をしたたかに流用しているのである。

ゴダールの出世作「勝手にしやがれ」は、オットープレミンジャーの「悲しみよこんにちは」における冷酷な仕打ちにこりごりしていたジーン・セバーグちゃんと、当初ゴダールを黒眼鏡のホモだと思って毛嫌いしていたジャン・ポール・ベルモンドを得て大成功を勝ち取った。サンジェルマン・デ・プレで撮影されたベルモンド、ゴダール、ボールガールの写真はカッコいい。

ゴダールの生涯をきらびやかに彩るファム・ファタール第1号は石鹸の広告モデルをしていた18歳のデンマーク人、ハンネ・カリン・バイヤーである。

彼女が「エル」の撮影をしていたとき、女優になりたいという願いを聞いたココ・シャネルから「そんな名前ではたぶんなんれないわよ」といわれたのが、アンナ・カリーナ誕生の瞬間だった。

カリーナを恋人から奪って始まったこの至上の恋は「女は女である」「女と男のいる舗道」「はなればなれに」「アルファビル」まで持続したが、なんといってもゴダールとの間にできた男児の流産が二人に致命的な打撃を与えたようだ。

ファム・ファタールの第2号は、白系ロシア人貴族の娘にしてかの有名なフランソワ・モーリアックの孫娘であるアンヌ・ヴィアゼムスキーであった。

68年の5月革命を共に駆け抜けたヴィアゼムスキーとゴダールの結婚は当時大きな話題を呼んだという。アンリ・ラングロワのシネマテーク館長解任に反対してドゴールとアンドレ・マルローに抗し、パリの学生・労働者と共に市街戦の指揮を執っていた40歳のゴダールの姿はいまなお輝かしい。

けれども「軽蔑」の主演女優BBのご機嫌を取るために得意の逆立ちをするゴダールや、ポランスキーの妻シャロンテートが惨殺されたニュースを聞いて「いいぞ、あいつは例の作品の権利を僕から盗んだ奴だからな」と暴言を吐き、アポロ13号に搭乗中の三人の宇宙飛行士に対し「地球に戻らず宇宙で死ねばいい」と何度も表明する姿はとても醜い。

全裸の映像をおぞましいポルノグラフィーに転化しないために陰毛が映っているカットが必要であると女優に強制したり、疲労困憊して顔で「パッション」のスタジオ入りをしたハンナ・シーグラに向かって、「一晩中やっていたんだ。顔のしわをみんなに見せてやればいい」と怒号するゴダールの姿もとても醜い。

「人生における最大の価値は、真であり、善であり、美であるからその格率を体現する作品をつくってほしい」という、(クライアントである)私のCM企画意図に賛同し、プレゼン用のビデオ作品を自主的に制作し、見事な作品をつくってくれたゴダールその人だけに許せない思いが強いのである。

けれどもマオイストとなって永久革命の夢からさめることができなかったゴダールのおいさらばえた精神と肉体に愛と休息の場所を与え、1979年製作の「勝手に逃げろ/人生」で奇跡の映画復帰をもたらし、いまなおスイスの小さな隠れ家でにあって世界一孤独で唯一無二の映像革命作家をしっかりと支えているのが、彼の3番目の運命の女性、アンヌ・マリ・ミエヴィルなのだった。

昔の光、いまもなお。古我邸&庭園を歩く

鎌倉ちょっと不思議な物語75回

鎌倉文学館(旧前田邸)、華頂宮邸(旧宮家)とならぶ鎌倉3大洋館のひとつが、この古我邸&庭園(旧荘清次郎邸・非公開)である。

大正五年、夏目漱石が亡くなった年に、かつて恐らくは智岸寺という廃寺があったと想定される場所に三菱銀行の重役荘清次郎の別荘が建築された。

設計は三菱銀行などの建築を手がけた櫻井小太郎。見るからにイングランド郊外の英国貴族の館を思わせる英国コテージ様式のすばらしい洋館が扇ガ谷近辺の山麓に現存している。

建物は木造2階建てで外壁はこげ茶色の板をウロコ状に張ったシングル張りという珍しいもの。昭和初期には浜口雄幸、近衛文麿などの総理大臣が別荘として使用し、現在は日本人で初めてカーレーサーになった古我信生夫人がご高齢にもかかわらず、まだ実際に居住されている! 

当初この一帯は「三菱村」といわれ、岩崎家はじめ三菱財閥の要人が別荘を構えていたという。実際に拝見したが、豊かに緑なす広い前庭と瀟洒な後庭に取り囲まれた重厚な洋館は、いつまでも後世に伝えたい懐かしい風韻を醸し出していた。
(鎌倉シルバーボランティアガイド協会資料より引用)

Thursday, September 06, 2007

嵐の夜に

鎌倉ちょっと不思議な物語74回&遥かな昔、遠い所で第20回

台風一過、もうミンミンゼミが鳴いている。今から10数年前のこんな嵐の夜に、朝比奈切通しの坂道の途中にあるお地蔵様が鎌倉時代から安置されていた岩の下の台座から転げ落ちてしまった。

翌朝私と家内が峠を登っていくと、そのお地蔵様はお労しや大小3つに砕けて峠の坂道にひっくりかえってござった。夫婦でふうふう言いながら元の台座に戻そうとしたが、あまりの重さにそれは叶わず、仕方なく坂道の端っこに安置した。

翌日市役所に電話したのだが、担当者は砕けた断片をしばらく捜索したのみで、応援を頼んで原状回復さえせず、星霜10年、いや15年になるだろうか、今日に及んでいる。

ときおりこのお地蔵様や峠の頂上にある磨崖仏を大昔からここに在るように書いているブログがあるが、とんでもない。くだんの磨崖仏などは昭和30年代に当時横須賀市在住のおじいさんが腕をふるって刻んだアマチュア現代アートに過ぎない。

余談はさておき、このお地蔵様の砕けた右側に「延宝三年丹波之住人浄誉向入」という銘が刻まれている。「吾妻鏡」によると朝比奈峠は仁治元年1240年北条泰時によって開鑿されたが、その後3回改修工事が行われており、延宝三年1675年の第1回の大改修を勧進したのがほかならぬこの浄誉向入上人だったと思われる。(その後この切通しは安永9年1780年、寛政9年1797年、文化9年1813年の計3回改修工事が行われ、それぞれの改修碑が峠道のあちこちに残されている。)

12世紀の重源の頃から鋳物師や石工などの職人集団と結びついて各地の寺社の修造や池・橋・港湾の修築に当たったのが勧進聖、勧進上人である。
13世紀後半から14世紀にかけては北条時宗の援助を受けて東寺の工事に鋳物師を総動員した願行上人憲静や津・泊などに関を立て、回船人・商人から関料を徴収した禅律僧の恵観など数多くの勧進上人たちが活躍した。

鎌倉の勧進上人忍性などは北条氏などの権力者と結びついて公共工事を行い、その資本を調達するために神仏への初尾寄付の名目で関料を徴収し、その資本で工人、船頭、水主を動かして中国との貿易に乗り出して巨利を得た。彼らは一種の企業家、貿易商人といえるだろう。

わが丹波ゆかりの浄誉向入上人の足跡を辿ると、『新編相模国風土記稿』に「峠坂あり。村中より大切通に達する坂なり。延宝の比浄誉向入と云ふ道心者坂路を修造し往還の諸人歎苦を免ると云。此僧延宝三年十月十五日死、坂側に立る地蔵に、此年月を刻せしと【鎌倉誌】にみゆれど、今文字剥落す」とあった。

どうやら浄誉向入上人は自ら勧進した切通し大改修に着手、完了したその年にみまかったらしい。
ああ、偉大なるかな丹波の僧よ。大願成就、もって瞑すべし

とでも申すべきであらうか。

Wednesday, September 05, 2007

犬も歩けば「鎌倉史蹟指導標」

鎌倉ちょっと不思議な物語73回

 鎌倉を歩くと市内のあちこちに大きな石造りの案内標が建っている。

こんなに大きく頑丈で立派な表示物は日本全国、いや世界中どこにもないだろう。文化と歴史と時代の風格を漂わせるこの立派な表示は、正式には「史蹟指導標」と称され、全部で80基が現存しているそうだ。

そのうちの77基は、大正6から10年は鎌倉の「青年会」、以後昭和15年までは「青年団」、16年には「壮年団」が三基建立し、戦後は昭和31年に「友青会」が三基追加した。

大正から昭和初期の製作費1基200円也は、現在ならいくらになるだろう? 昔の青年団は偉かった。

Tuesday, September 04, 2007

海野弘著「20世紀」を読む

降っても照っても第48回

20世紀の100年間を10年ずつのディケイドに分かち、そのディケイドから20くらいの出来事や傾向を選んで自在に物語ることによってその年代の全体的な特徴をつかみだそうとする気宇壮大、骨太の現代史が本書である。

たとえば1900年代は「春のまどろみ」、10年代は「大いなる戦い」、20年代は「ローリング・ジャズエイジ」、30年代は「トラブルの時」、40年代は「引き裂かれた時代」、50年代は「ヒチコック・エイジ」、60年代は「大動揺時代」、70年代は「ナルシス・エイジ」、80年代は「幻想と欲望の時代」、90年代は「20世紀末」と銘打たれ、その各年代ごとに原稿用紙で100枚を費やし、10章で約1000枚、索引と参考文献を含めて総計607ページの大著であるからはなはだ読み応えがある。

10年代で出てくる野口英世の科学史の業績問題(黄熱病の病原菌は菌ではなくウイルスであり、野口はそのことを知らなかった)、第一次大戦の後始末役の米大統領ウッドロー・ウイルソンやその後継者のセオドア・ルーズベルトの「革新主義」と「発展膨張主義」こそが、現代アメリカのグローバリズムの源流であること、米国20年代の「クークラクッスクラン」が古き良きアメリカを守ろうとしたプロテスタント基本主義の原点であり、その頑なな原理主義が現在のブッシュ流米国覇権主義につながっていること、20年代のパリでシャネルは香水のロイヤリテイによる莫大な収入によってはじめてファッションデザインに専念することが可能になり、それが今日のラグジュアリービジネスのスタイルを創始したこと、エンパイアー・ステートビルのエンパイアー・ステートというのは他ならぬニューヨーク州であること等々、どのページを読んでも興味深い記述が端々に転がっているが、図抜けた知の案内人と共に広大な20世紀の海を逍遥する楽しさを味わうことができる。

著者はグローバリゼーションとは世界を縮小していく過程であり、それは最終的には携帯の小さな画面に1枚の平面として集約されるようになったという。20世紀末に世界はどんどんフラットになり、奥行もなく、前後左右もなく、時間も歴史も消え去り、すべてがくまなく見えるものになった。従って20世紀の終わりをフランシス・フクヤマのように「歴史の終わり」と見ることもできよう。

しかし興味深いのは、著者が歴史は繰り返すと信じていることで、調べれば調べるほど20年代と50年代と世紀末にはある共通項が備わっているという。著者は世界の文化はほぼ30年の周期で繰り返しているのではないかという仮説をなかば信じているようだ。

しかしすべてが見える物となり、陽の下になにも新しきものはなくなり、世界がフラットと化して動かなくなれば、私たちはどうなるのだろう?

著者はすでにこの世に表われたもの、経験されたもの、既存のものをあたかもトランプのカードのようにかき混ぜ、再度カットし直してもういちど「21世紀ゲーム」を始めればよいのだと主張する。

そして最後にこう断言するのである。

「私は歴史は繰り返すと思う。もしそうでなければすべての出来事はたった1回だけで過ぎていき、私たちは歴史に学ぶこともなくただ流れていくことになろう。それではただ今だけに生きて終わりということになるだろう。感覚的な快不快はあるかもしれないが、本質的な成功も失敗もないことになるだろう。私たちの人生と世界がそんなことであっていいはずがない。私は歴史は繰り返すと思う。そうでなければ歴史を学ぶ意味などないのだから」

Monday, September 03, 2007

ある丹波の老人の話(50)最終回

ある丹波の老人の話(50)最終回

こうして幌付きの人力車に乗っているうちになんとかなるだろう、と思っておりましたが、そのうちに車夫がこの得体の知れない日本人をもてあまして「降りろ」と要求しはじめました。

私は財布からお金をつまみだして、「コレだけやるからもっと乗せろ」というたんですが、車夫は正直に20銭だけ受け取って、私を引きずり降ろしてしまいよりました。

私は途方に暮れてもう歩く元気もありまへん。しかしそのときやっと気づいて私はその場にたたずんで一生懸命神に救いを求めて祈りました。

するとどうでしょう。「その道をまっすぐ行け」という神のお告げを感じたのです。私はようやく元気を取り戻して歩きはじめました。

しばらく行くと兵隊らしき者に出会いました。兵隊は私の姿を認めるや否や銃を構えて「止まれ!」と大声で叫びました。よく見ると日本の兵隊です。
そこで訳を話すと大いに同情してくれて、電車通りに出る道を教えてもらい、無事にホテルまで辿り着くことができたんでした。

前にお話した難船の場合と同じで、これこそは私は子供のときから持ち続けた「祈れよ、さらば救われん」の実証でした。私はこれまで足掛け70年の生涯を、この恩寵の中に生きてきたことを微塵も疑ってはおりまへん。             終


――明治18年2月22日、丹波の小さな盆地に生まれたこの老人は、その晩年はホテルなどに紅い表紙のギデオン協会の聖書を贈呈することに情熱を注いでいたが、昭和37年6月21日、大津びわこホテルにおいて、信徒会の席上自分の抱負を語りつつ「イエス、キリストは………」という言葉を最後に倒れ、天に召された。

Sunday, September 02, 2007

網野善彦著作集第10巻「海民の社会」を読む

降っても照っても第47回&鎌倉ちょっと不思議な物語72回 

百姓という言葉は農民を意味せず、農民、海民、工人など多種多様な職能に従事する公民をを意味する、というのが著者の創見であったが、本巻ではその海民についての論文がたくさん収められている。

中世の鎌倉は陸では四通八達の鎌倉街道を、そして鎌倉の滑川、金澤の六浦から発して埼玉県三郷や茨城県稲敷、東京都葛飾や神田など全国各所に散在する鎌倉河岸に通じ、霞ヶ浦四十八津などの水上河川、さらには伊豆、房総、西国、中国、九州にいたる広大な太平洋の交通路を開拓することに成功し、すでに11~12世紀には列島全域に廻船の安定したネットワークが完成していた。

私の家の近い金沢六浦は中世の巨大な港湾であるが、鎌倉時代にこの六浦相を治めていたのは上総に拠点を持つ武将和田義盛であった。和田氏はその後北条氏の悪辣な陰謀によって滅ぼされるが、その後を襲った三浦氏や金澤(かなさわ)氏によってその海上の道をますます整備させることになる。

この和田合戦の折に和田義盛の子、朝比奈三郎義秀は500騎を率い、6艘の船に乗って安房の國に行き、そのまま行方不明となった。一説には高麗に渡ったとも言われているが、これまた私の近所にある朝比奈峠は、豪傑三郎が1夜にして切り開いたという言い伝えがある。

いまを去る数十年の昔、私が初めて勤務した会社は神田鎌倉河岸にあり、高速道路の下にひたひたと打ち寄せる黒い水を疲労困憊した昼休みによく眺めていたものだが、本書によって初めて現在私が居住する鎌倉とくだんの鎌倉河岸とが時空を超えて一挙に結合されるのを感じた。

またその鎌倉では、忍性など多くの勧進聖、勧進上人が幕府と結びついて国内のみならず外国との貿易や文化交流を行い、中世社会のインフラを整備したことはよく知られている。極楽寺にいた忍性は、自らの船で貴重な宋本大般若経を鳥羽まで運び、奈良の叡尊に届けていたのである。

3大将軍実朝が由比ガ浜での大船製造に失敗した逸話は有名であるが、唐船建造が失敗して実朝が宋に行けなかったのは、かつて小林秀雄や吉本隆明が説いたようにあの時期の政治的事情と混乱によるものであり、中国人技術者の援助を得て日本で作られた多くの唐船が日本海を渡って交易していたことのほうを重視するべきであろう。

「海は櫓櫂の続くまで」と人口に膾炙したように、中世は海の時代であり、海民社会の誕生なくして日本の中世社会は存在しないのである。

君は“空飛ぶチンポコ”を見たか?

シアターΧ・プロデュース公演 サラ・ケイン作「フェイドラの恋」を観る

降っても照っても第46回


連日連夜の熱帯夜の眠れない夜の明け方に、私は眼裏に右から左に飛翔する面妖なものを見たような気がした。寝ぼけ眼で今度は左から右へと飛び去るそいつをよーく見ると、それはかなりの重量感にあふれた陰茎であった……。
以下は→http://www.wonderlands.jp/

Saturday, September 01, 2007

07年8月亡羊歌集

♪ある晴れた日に その10

交わりのその頂きで轢死せるミンミン蝉を蟻共喰らう

麦藁帽脱ぎて初めて挨拶すそっぽ向きおりし住職とわれ

夏空の奥の奥まで舞い上がる雌雄の蝶の行方知らずも

わが下肢の股の隙より洩れ出ずる悪しき臭いよ真夏の午後よ

昼も夜もなめくじのごとくゆるやかに世界の果てまで歩ましめよ

躊躇なくゴキブリ殺せし我が足よではなにゆえにコオロギを踏まぬ

働いたってそんなにいいことなんかないぞでもまあ働くんだな君

満月の逗子の海にてはぜる火よ光は見えず音のみを聴く

ニイニイアブラミンミンカナカナ麦稈真田の夏は過ぎ行く

祈れども息子のことは仕方なし

残尿の朝まで続く残暑かな

ミンミンもカナカナも鳴く午前5時