鎌倉ちょっと不思議な物語74回&遥かな昔、遠い所で第20回
台風一過、もうミンミンゼミが鳴いている。今から10数年前のこんな嵐の夜に、朝比奈切通しの坂道の途中にあるお地蔵様が鎌倉時代から安置されていた岩の下の台座から転げ落ちてしまった。
翌朝私と家内が峠を登っていくと、そのお地蔵様はお労しや大小3つに砕けて峠の坂道にひっくりかえってござった。夫婦でふうふう言いながら元の台座に戻そうとしたが、あまりの重さにそれは叶わず、仕方なく坂道の端っこに安置した。
翌日市役所に電話したのだが、担当者は砕けた断片をしばらく捜索したのみで、応援を頼んで原状回復さえせず、星霜10年、いや15年になるだろうか、今日に及んでいる。
ときおりこのお地蔵様や峠の頂上にある磨崖仏を大昔からここに在るように書いているブログがあるが、とんでもない。くだんの磨崖仏などは昭和30年代に当時横須賀市在住のおじいさんが腕をふるって刻んだアマチュア現代アートに過ぎない。
余談はさておき、このお地蔵様の砕けた右側に「延宝三年丹波之住人浄誉向入」という銘が刻まれている。「吾妻鏡」によると朝比奈峠は仁治元年1240年北条泰時によって開鑿されたが、その後3回改修工事が行われており、延宝三年1675年の第1回の大改修を勧進したのがほかならぬこの浄誉向入上人だったと思われる。(その後この切通しは安永9年1780年、寛政9年1797年、文化9年1813年の計3回改修工事が行われ、それぞれの改修碑が峠道のあちこちに残されている。)
12世紀の重源の頃から鋳物師や石工などの職人集団と結びついて各地の寺社の修造や池・橋・港湾の修築に当たったのが勧進聖、勧進上人である。
13世紀後半から14世紀にかけては北条時宗の援助を受けて東寺の工事に鋳物師を総動員した願行上人憲静や津・泊などに関を立て、回船人・商人から関料を徴収した禅律僧の恵観など数多くの勧進上人たちが活躍した。
鎌倉の勧進上人忍性などは北条氏などの権力者と結びついて公共工事を行い、その資本を調達するために神仏への初尾寄付の名目で関料を徴収し、その資本で工人、船頭、水主を動かして中国との貿易に乗り出して巨利を得た。彼らは一種の企業家、貿易商人といえるだろう。
わが丹波ゆかりの浄誉向入上人の足跡を辿ると、『新編相模国風土記稿』に「峠坂あり。村中より大切通に達する坂なり。延宝の比浄誉向入と云ふ道心者坂路を修造し往還の諸人歎苦を免ると云。此僧延宝三年十月十五日死、坂側に立る地蔵に、此年月を刻せしと【鎌倉誌】にみゆれど、今文字剥落す」とあった。
どうやら浄誉向入上人は自ら勧進した切通し大改修に着手、完了したその年にみまかったらしい。
ああ、偉大なるかな丹波の僧よ。大願成就、もって瞑すべし
とでも申すべきであらうか。
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