鎌倉ちょっと不思議な物語77回
00年1月に失職した私は、やむなく売文稼業で身を立てようとマスコミ各社に売り込みをかけ、奮闘努力の結果ようやく名門K社の団塊世代対象の新雑誌の新米ライターとして初めての取材原稿を書くことになった。
私は天にも昇る気持ちで音羽の編集部を訪れ、担当者のSさんから「銭湯特集」の企画の説明を受け、カメラマンとのコンビで千住の「大黒湯」と、大田区仲六郷の「nuland」、そして地元鎌倉の「滝乃湯」を取材することになった。
御成通りの「滝乃湯」の前に立ったのは、忘れもしない01年5月のある晴れた日のことだった。タイル張りの玄関、苔蒸した築地塀、そしてその塀越しに優しく伸びたもみじの枝がことのほか印象に残った。
当時、この鎌倉最古の銭湯「滝乃湯」は存亡の危機にあった。番台に座り続ける経営者の熊坂紀和子さんは71歳。昭和5年築の銭湯と同い年だった。借地の更新料が払いきれずに、01年2月末に廃業通知を張り紙したところ、常連客を中心に存続嘆願書が殺到。1ヶ月近くでなんと3665通に達したという。
多くの住民の熱望、市の努力と地主さんの好意が結実し、70年の歴史に輝く名湯は、02年3月まで存続できることになったばかりだった。
私が「滝乃湯」に中に入ると、浴場も脱衣場も、照明はただ一本の電燈がぶら下がるのみで、まずこの質素さが心に沁みた。浴場に足を踏み入れると、星空がのぞく高い天井と富士山のペンキ絵が鄙びたいい味を出していた。
新米ライターの私は、さっそく熊坂さんへの取材を開始した。
「滝乃湯」は産後の血行回復、神経痛に効く漢方薬湯が名物で観光客にも人気があり、普通の銭湯と違って、毎日お湯も薬も入れ替えているという。
「うちのお湯はね、3度お湯に入って暖まらないと風邪をひくよ」
「私の夢はここを銭湯保育所にしてねえ、子育てに自信のない母親からお子さんを預かってねえ、オジイチャン、オバアチャンたちといっしょに育てることだったの」
「考えてみると、みんなが裸になって、声をかけあったり、気持を通わせる唯一の場所が、この銭湯なの……」
そんな鎌倉最後の楽園が、ここだった。
私が取材したあとも数年間は営業が続いた「滝乃湯」だったが、とうとう昨年、あの長い煙突も、私が一糸まとわぬヌードモデルとなって入浴した浴槽も、脱衣場も、富士山のペンキ絵も、築地塀も、もみじの枝も、それらのすべてが地上から消えうせて、ご覧のようにどこにでもある駐車場になってしまった。
それにしても、古き良きものは何ゆえに滅びやすいのであろうか?
ちなみに、私が執筆したその雑誌も、創刊わずか2年ほどで廃刊になってしまった。
まことに諸行は無常である。
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