Friday, August 31, 2012

大林宣彦監督の「異人たちとの夏」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.299


観光とは、文字通り「光を見る旅」、その土地に眠る霊たちを巡る旅である。

だから広島・長崎へ観光した人は原爆の灼光を見、京都では応仁の乱、奈良では聖徳太子や長屋王一族の死者たち、鎌倉では北条一族と彼らが虐殺した御家人たちの怨みをのんだ最期の眼の光を、彼らがそぞろ歩く地面の下に痛々しく感じるのである。

よしんば観光客が地表の風物しか見ていなくとも、地底深く眠る諸霊たちはその血まみれの視線を地表に向けている。移動する彼らは、意識しようがしまいが、地霊から見張られ続けているのだ。

昭和201945)年310日未明、現在の台東・墨田・江東区のいわゆる下町地区は、米軍の爆撃機B29による空襲を受け、死者およそ10万人、負傷者4万人、罹災者100万人という未曾有の大被害を被った。そして今でも浅草を訪れて、雷門から仲見世を通り、観音堂の裏手に至ると、この業火に焼かれて死んだ亡者たちが水を求める声がいまなお聞こえてくる。

「異人たちの夏」は、原作者の山田太一がその浅草で非業の死を遂げた人々の霊に捧げた鎮魂歌である。そして浅草伝法院通りの葡萄棚の露店を潜り抜ければ、今でも秋吉久美子と片岡鶴太郎夫婦が、私たちを歓待してくれるだろう。

たった一匹のお前のためにもうもうと焚く蚊取線香 蝶人



Thursday, August 30, 2012

西暦2012年葉月 蝶人狂歌三昧




ある晴れた日に 113 


大潮が四日続くや由比ヶ浜

赤白と千切って流す蓮の花

メダルより君には似合う夾竹桃

八月や名刀鍛える眼の光

八月や白装束で母逝きぬ

八月や胸にメダルの無い帰国

紅白の蓮投げ入れし祖母の棺

八月や凡作もある名監督

来る度に潮目が変わる由比ヶ浜

今日もまた黄色の旗なり由比ヶ浜

青天の霹靂それが恋である 

ブログ書く自己満足の馬鹿ばかり

二列目の朝顔が咲かぬもどかしさ

暑中見舞いに返事が来ない不気味さよ

ディーリアスの曲流してや盂蘭盆会

広大なクラッシックの海にぽつり浮かんだケンプ島懐かし

坊さんの読経にこたえアブラ鳴く十三日は盆の入りなり

歌って踊って叫んでいるのはどうでもいいよな事ばかり

介護される方が死ぬか介護する方が死ぬかそれが問題だ

武雄さん武雄さん亡夫の名を呼びながら義母はわが手を握り締めたり

三人の娘に手厚く介護され九十一を全うせしひと

お疲れ様遂に終わりぬ九十一年の生涯五年の介護

それが恋青天の霹靂我らを直撃す

尖閣諸島、竹島問題よりも大切なことが世の中にはあるんだ 

由比ヶ浜の沖合遥か抜き手切りオシッコしてから浜に戻れり

三党協議党は最低だが橋下慎太郎ファシスト新党は史上最悪だろう

革命の原点は食料暴騰人心不安いずれその日も遠くあるまじ

革命てふ言葉なんて発する力なくヤマトシジミ地べたに伏せる

昔から自分勝手な奴だったチャンスには滅法弱い鈴木一郎

親交が深いというは言い過ぎで友誼に厚いと申すべきなり 

東電のコンクリートの電柱で朝も早からミンミン鳴くなり

東電は潰れてしまえと言えぬのはK子ちゃんさんが働いているから

毎日必死で映画見ていますHDDからこぼれださないように

喰うても喰うても冷蔵庫に一杯残っているよ愛知和合の巨大西瓜

「次回は九月一日午前一〇時です」歯医者に告げられしその三ヶ月後の自分が見えない

生きていくことは大変だねと横須賀のうどん屋のおばさんと一致したり

関内で人死にありという電車血ぬられし線路を全速で過ぎたり

大ウナギはタヒチの神様ヤシの実に顔が似ているから誰も捕らない

自分で手を下さず他人に殺してもらおうとするこの横着者め

樹脂の香は悩ましくないか樹脂会社に勤める甥っこよ

NHKおはよう日本まちかど情報室鈴木奈穂子と鹿島綾乃は飛びっきりの仲良し

セールスマンは「ライムホワイトパールです」と力むけどつまりは白いセダンでした

誰ひとり読まぬブログを描き続ける人の心の闇を吾知る

思い出は遥かに遠くディーリアスの「夏の歌」聴きし千歳烏山の夜

「お父さん浮輪潰してください」の一言で我が家の夏休み終わりぬ

 

八月や壺には熱き母の骨 蝶人

Wednesday, August 29, 2012

歌って踊ってメッセージ



バガテルop158広告戯評17&♪音楽千夜一夜 278


マツケンサンバが登場したときはちょっと新鮮だったが、しばらくすると彼奴はどうも軟弱かつ邪道であると思うに至り、かの東海林太郎や藤山一郎が直立不動の姿勢で朗々と歌い上げるあの姿を懐かしく思い出すようになった。

そこで改めてこの節のミュージック番組を見ると、その多くが歌いつつ踊っているので驚く。SMAPなんてあれくらい下手な歌い手は素人でも珍しいのに、懸命に下手な踊りもやっているし、EXSILという集団には凡庸極まりないボーカルが2人くらいいるが、なぜか歌も歌えない黒幕が金魚の糞のように背後で踊りまくっている。

またPerfumeという能面女子3人組は歌詞の速さについていけないのかいつも口パクだが、ああやって死にもの狂いで踊っているのが良しとされるのだろう。ともかく今が歌より踊りの時代であるということだけはよく分かる。

先頃NHKで放送されていた70年代のロックミュージックのライブ映像集をつらつら眺めていたのだが、ビートルズもアバもデビッド・ボウイも歌うだけで踊ってはいない。ジャクソン・ファイヴやローリングストーンズは踊っているが、やはり歌がメインで踊りはつけたしである。同じ番組の80年代シリーズもすこし前に放映されていたが、ここでも歌って踊る派は少数派で、ダンスミュージックや「終始歌いつつ踊る歌手」が主流になったのは80年代の終わりから90年代にかけてと言えそうだ。

そういえばバブルがはじけてからは唯脳的な思想の限界が指摘されて、従来看過されていた身体や身体論の大切さが見直されたり、再発見されたりするようになった気がする。

音楽からちょっと離れるが、げんざいのテレビCMの基本パターンは、数名の人物が画面に登場するなり奇妙なポーズで踊りながら商品に関連する歌を数フレーズ歌い、15秒後にロゴが出るというものだが、それが全業種全サービスに共通していることが甚だ興味深い。企業が消費者に対してコミュニケートしようとする際に、「挨拶代わりの前戯として歌って踊りつつメセージする」というスタイルが既に確立されて久しいのである。

歌って踊れば一丁上がり。過去20年に亘って保守の牙城のごとくに打ち建てられたポップスとCMにおける「歌って踊ってメッセージ」という定型をいかに打破するか。それがこの業界のみならずわたしたちに課せられたひとつの課題だろう。


歌って踊って叫んでいるのはどうでもいいよな事ばかり 蝶人

Tuesday, August 28, 2012

ジョン・フォード監督の「タバコ・ロード」を見て



 闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.298

コールドウエルの原作を1941年にダリル・F・ザナックが映画化したモノクロ映画。ジョン・フォードの映画とはいってもその大半は大物実力プロデューサー、ザナックが縦横無尽に切り刻んだものであることは彼の浩瀚な自伝を読むとありありと書かれている。偉大な名監督といってももっと偉大なプロデューサーにかかってはかたなしであるな。

時代に取り残された南部の農園を舞台に貧乏な小作人が新興金持ち勢力に駆逐されてゆく成り行きを描いた作品であるが、勝者が乗り回すフォードの新車、弱者が馬に曳かせる粗末な馬車。その時代の変転に泣く者、悲しむ者、踊り狂う者たちをジョン・フォードのキャメラが冷徹に見据える。

中原中也の「泣くも笑うもこの時ぞ、この時ぞ」というリフレインを思い浮かべながらしばしモノクロ画面を眺めていた。


ディーリアスの曲流してや盂蘭盆会 蝶人

Monday, August 27, 2012

「ディーリアス生誕150周年エデション18枚組CD」を聴いて




音楽千夜一夜 277

このEMIの18枚組セットに収められたディーリアスの「夏の歌」を聴いて思い出すのは、1969年か70年の初秋にNHKで放送されたケン・ラッセル監督・BBC製作の同名のドラマである。

視力を失い全身がマヒして創作活動に支障をきたしたディーリアスの助手として自宅に住みこんだ弟子フェンビーの愛と葛藤を描くこのセミ・ドキュメンタリードラマは、私に終生忘れ難い感銘をもたらしてくれた。
 
愛弟子の奮闘空しく偉大な英国の作曲家はとうとう亡くなり、フェンビーは遺されたディーリアスの妻と2人で在りし日の思い出に浸っている。やがて応接間のテレビで彼の追悼番組がはじまると、冒頭に流れてくるのがこの「夏の歌」。その場によよと泣き崩れる妻の後ろ姿からキャメラは静かに遠ざかり、それがそのままこの叙情的なドラマの鮮やかなエンデイングになるのだった。

 そのときの演奏がフェンビー自身の手になるものだったかどうかはもう憶えていないが、ここで聴けるバルビローリ指揮ロンドン交響楽団の演奏も見事なものである。

 思い出は遥かに遠くディーリアスの「夏の歌」聴きし千歳烏山の朝 蝶人

Sunday, August 26, 2012

夏の終わりに




バガテルop157&茫洋物見遊山記第91


長男と妻と3人で由比ヶ浜の海水浴場へ行く。毎年17,8回はここへ通うのだけれど、今年は天候不順や義母のお葬式で今日で11回目の海行きである。

 幸い県営の駐車場は空いていたのだが、生憎の台風で遊泳禁止の赤旗が強風にはためいている。鎌倉の全部の海水浴場が同じ状態だというので、急遽逗子海岸に向かった。悪名高き東京都知事の別荘がそびえる山頂の下に広がるこの海水浴場は、内海でいつも波ひとつなく凪いでいるのだが、さすがに今日はかなり波が打ち寄せている。

しかし監視所の上に歯は黄色い旗が出ているので遊泳は可能だ。私は息子と一緒に混雑する浜辺に降りていった。妻は10年目のカローラで懸命に駐車場を探しているが、夏休みもおわり間近の日曜の昼下がりでは無理だろう。

長男は子供のころから海水浴が大好きで、施設が休みになる土日は必ず海に連れて行けと親に命じるのである。彼は泳げないのだが、派手な星条旗のデザインの浮輪にどっかりと身をゆだね、まるで銭湯に浮かぶように入道雲の相模湾に浮かんでいる。

いつものように3、4回海に入り、その都度持参したお茶をゴクゴクと飲み、だいたい40分経過したところで「もう帰ります」とのたまわったので、携帯で妻に連絡し海岸道路で拾ってもらって帰宅した。

鎌倉も逗子も海水浴客は年々減っているようだが、浜に甍を並べたド派手な着脱所が揃って8拍子の無粋で不気味なビートを連打していてうるさくてかなわない。セーラムをくわえたビキニの女たちが虚脱した表情で踊り狂っていたが、世界中どの海岸へ行っても夏の浜辺は静謐そのもの。海水浴と無為無音そして夢想を楽しむのが夏の掟であることを知ってもらいたいものだ。

「お父さん浮輪潰してください」の一言で我が家の夏休み終わりぬ 蝶人


Saturday, August 25, 2012

半藤一利著「日露戦争史1」を読んで




照る日曇る日第535

満州から朝鮮半島へと南下してくる西欧の超大国ロシア。朝鮮を落としたら彼奴は日本海を渡って帝都を侵すに違いない。臥薪嘗胆、仏の顔もここまでだ、二度と「三国干渉」の憂き目を見てはならない。今こそ北方の巨熊にひと泡ふかせるのだ。そしてついに明治37年2月4日、涙の御前会議で対ロ戦争の聖断が下され、ここに世紀の一戦が始まるのだった。

それにしてもいっこうに要領を得ないのが日露戦争だ。日清、日露、第一次大戦の進軍があって大東亜戦争があり、その悲惨な結末の終点が現在ならば、当時いくら西欧列強のアジア侵略が猖獗をきわめていたにせよ、我が方のみは(山本海軍大将が唱えたように)朝鮮半島はもちろんあらゆる外地に介入せずに現列島版図をかたく保守していたほうが、よっぽど「東洋及び世界の永遠の平和に資する」こと大であったはずだからだ。

などと抜かすのは、厳しい現実(飢、物価高騰と鬱々たる社会不安)を知らぬ平成の脳天気ボーイの妄言であろうが、本書を読むとこの成算無しの無謀な戦争に最後まで反対し、抵抗していたのは帝国の滅亡に頭が及んでいた伊藤、山県の二元老と他ならぬ明治天皇であったと知れる。(大東亜との何たる相違!)

戦争への道に最初に踏み込んで行ったのは政治家や指導層ではなく、一部の右翼や官僚、軍人、アホ馬鹿東大七教授や国粋的新聞社で、彼らがつけた口火は当時の一般大衆によって巨大な烽火となって燃え盛り、(「清水の舞台から飛び降りる」東条内閣などとは雲泥の差の)冷徹果断な桂内閣を激しく揺さぶることになる。

はじめは戦争に反対していた新聞社も、国民世論が「対ロ憎し」で沸騰すると、社論を投げ捨てて大衆に屈服して好戦的な論陣を張り、それがまた大衆のナショナリズムを燃え上がらせ、新聞社の部数は爆発的に増加する。大東亜とまったく同様に、戦争はマスコミは戦争で儲けるのである。

膨大な資料を読みこなしながら著者は日露戦争の真因に迫ろうとする著者には、二度と戦争許すまじの老いの一徹の迫力があるが、著者が明言するように、「戦争が不可避であるという確信が戦争を引き起こす」(トゥキディデス『戦史』)のであろう。

 われわれは尖閣、竹島よりも大事なことが、世の中にはいっぱいあることを忘れてはならない。

    尖閣、竹島よりも大切なことが世の中にはあるんだ 蝶人

この動画を見よ!


Friday, August 24, 2012

佐藤賢一著「ジロンド派の興亡」を読んで




照る日曇る日第534

長らく中断していた佐藤賢一氏の「小説フランス革命」シリーズがいよいよ第2部に入り、その再開第一弾の第7巻が数年振りに刊行されたのは誠に慶賀に堪えない。

この巻では革命第4年に入った1792年のジロンド派とルイ16世の角逐を主にロラン夫人の視点から描いているが、内務大臣に就任することになった夫よりもはるかに凄腕のこのサロンの女主人の容貌、人柄、政治的経綸が、繰るページの奥からぞめき立ってくるような描写に舌を巻かされる。

とりわけロラン夫人が、夫やダントンを唆して市民の蜂起を実現するものの、ルイ16世が、アホ馬鹿ロバの王様どころか、抜群の知性と忍耐力で、チエルリー王宮に侵入したパリの貧民、サンキュロットの暴徒たちを鮮やかに撃退する光景は生彩がある。

かつては革命の寵児としてパリに令名をとどろかせたデムーランが、愛児の誕生を目前にして再度の蜂起に尻ごみするくだりや、「両大陸の英雄」ラ・ファイエットの哀れな悪あがき、王からつかまされた黄金で再び暴動を企もうとする不屈の反逆者ダントン、暗殺の恐怖にちぢみあがる小心者のロベスピエールなど、フランス革命を担う群像たちを、著者はこれまでのどの巻よりも見事に活写してやまないのである。


革命の原点は食料暴騰人心不安いずれその日も遠くあるまじ 蝶人


*全国の学友諸君、この演説を聴け!


Thursday, August 23, 2012

テリー・ギリアム監督の「バロン」を見て





闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.297


未来世紀ブラジルで圧倒的な映像美で全世界のシネフィルを戦慄させたテリー・ギリアムが次に手掛けたのが「法螺吹き男爵の冒険」を原作とするこの映画である。

 けれども男爵が月へ飛んだり、鯨に呑みこまれたりするたんびに、一目千本吉野桜の1本1本の特殊撮影に物凄い製作費が投じられているのはよーく判ったが、お話自体がいっこうに弾まないのが困りもの。大山鳴動して鼠1匹。なんだかんだで印象に残ったのは主人公の2人の役者だけだった。


親交が深いというは言い過ぎで友誼に厚いと申すべきなり 蝶人

Wednesday, August 22, 2012

「カラヤン60 全82枚組」を聴いて




音楽千夜一夜 276

カラヤンが1960年代にドイッチエグラモフォンに録音したすべてのLPをそのまま82枚のCDセットに再構成したもので、1枚当たり212円の廉価盤である。

アルビノーニ、バッハからモーツアルト、スッペ、ヴィヴァルディまで、カラヤンはそれこそ隅田川でダボハゼを釣りあげるが如く交響曲や管弦楽曲、協奏曲を張りきって演奏しまくっているが、いずれも演奏の水準は高く、それがどんな作曲家のどんな小曲であっても(フルトヴェングラーと同様)全力を尽くしているので好感が持てる(なんのために全力を尽くしたのか、その理由は天と地ほども異なるとはいえ)。

オーケストラがベルリンフィルに完全に切り替わっているために、演奏と録音の精度がさらに向上しているが、音楽の内容自体については、すでにEMIに入れた管弦楽とオペラの全録音を聴き終えた耳にさほどの驚きはなく、カラヤン一流のレガート奏法が気にならないといえば嘘になる。

己が醸し出す官能の幻影に自ら酔いしれるようなこの耽美的な奏法は70年代以降になるともっと露骨になるので、この時期の初々しいベートーヴェン、チャイコフスキー、ブラームス、R.シュトラウスの表情を高く評価する人も多いだろう。

しかしここに聴かれる数多くの名演奏の中で、そのベストワンを挙げよと言われたらどうしても「オペラ間奏曲集」ということになってしまうのは、カラヤンの本領がやはりオペラの世界にあるからだろう。たとえ彼が天人に許すべからざるナチ党員であったとしても、この魔術的なオペラ演奏の価値を否定することは誰にも出来ないだろう。

お疲れ様遂に終わりぬ91年の生涯5年の介護 蝶人

Tuesday, August 21, 2012

「ディーリアス・エデション8枚組」を聴いて




音楽千夜一夜 275

夏に聴く音楽といえばやはりフレデリック・ディーリアスだろう。あらゆる英国の音楽家のうちで私がもっとも愛するこの作曲家の曲は、しかしあまり英国的とはいえず、彼が長く住んだフランスや、どこか北欧やアメリカやドイツからの遠い呼び声も聞こえてくる。要するに「雲白く遊子悲しむ」近代的なコスモポリタンの放浪歌なのである。

ディーリアスはビーチャムやバルビローリの演奏で有名だが、このデッカの選集はチャールズ・マッケラスがウエールズの国立オペラ管を率いて演奏したものが主体になっている。ビーチャムやバルビローリのような格別の色濃い思い入れをあえてせず、あえて肩の力を抜いた淡白な表現だが、それがかえってディーリアス特有の哀愁と叙情、そして人生の儚さを浮き彫りにしているように感じられる。一種の名人芸といってよいだろう。

私にこの憂愁の音楽を教えてくれた三浦淳史氏が逝ってすでに15年。かの吉田翁よりも宇野大人よりも優れた批評文を北の国から届けてくれた偉大な詩人が懐かしい2012年の盛夏である。

セールスマンは「ライムホワイトパールです」と力むけどつまりは白いセダンであった 蝶人

Monday, August 20, 2012

「ヴィルヘルム・ケンプ・ソロ35枚ボックス」を聴いて




音楽千夜一夜 274

ケンプといえばやはりシューべルト全集ということになるのだろうが、このたび聴き直してみてさしたる感銘を覚えなかったのはなぜだろう。シフや内田などを耳にした後ではゆるすぎて核心に欠け、もはやその表現自体が古くなったと言わざるをえない。

グールドやシフに比べると、バッハの演奏ももちろん旧時代そのものなのだが、教会カンタータ「心と口と行いと生活で」BWⅤ147の第6曲のコラール「主よ、人の望みの喜びよ」を聴くと、ここにこそケンプの謙抑の精神の本領が発揮されていると感じられる。

昔あるブランドの新作発表展示会で映像ソフトを作ったのだが、そのBGMでケンプが演奏するこの曲を流すと、一瞬にして会場がおごそかな教会堂と化してしまったことがあった。そういう意味ではケンプのバッハには、いまなお格別なものが内蔵されているようだ。

このボックスには196465年にハノーファーのベートーヴェンザールで録音したベートーヴェンも含まれている。しかしその演奏は(ケンプ自身も告白しているように)DGのアホ馬鹿録音技師が「パーツ録り」を強要したために、モノラルの旧録音に比べていちじるしく自然な推進力が失われているのが惜しまれる。

それにしてもケンプがDG・DECCAに録音したバッハ、シューベルト、シューマン、ブラームス、リスト、モーツァルトなどの名盤が1208円で手に入るのは、まことに近来の慶事である。


武雄さん武雄さん亡夫の名を呼びながら義母はわが手を握り締めたり 蝶人


Sunday, August 19, 2012

林望訳「謹訳源氏物語8」を読んで




照る日曇る日第533

源氏が「雲隠」してから物語は第2部の宇治十帖に入り、薫が美しき姉妹を相手にむなしい独り相撲を取る。

薫の推でたちまち妹の中君をものにした匂宮とは正反対に、薫中将はなにごとにつけてもぐずぐず考え込み、慎重で積極的に行動せず、常に大魚を逃している。こういう人は今も昔も世間には大勢いて、他ならぬ私もその一人だが、こういう小説の中で読まされるとじつにいらいらする。

恋焦がれる大君を喪ったあとで、アホ馬鹿な薫がひとりごちたように、うまく立ちまわりさえすれば、彼は宇治の陋屋に隠れ棲む身寄りのない姉妹を二人ともおのが手中に収め、大君を死なせずにすんだはずだが、そういう駄目さ加減がこの悲劇の主人公の持ち味であり、著者の紫式部が絶妙に仕組んだ現代的な役どころであった。

同じようにいやらしい匂いを周囲に撒き散らすライヴァルの二人ではあるが、女を肉欲の対象とせず、まずは一人の人間とみなす立場を終始堅持している点で、アホ馬鹿薫は肉食ノータリン男の匂宮を数頭抜いていると考えられる。


東電は潰れてしまえと言えぬのはK子ちゃんが働いているから 蝶人

Saturday, August 18, 2012

磯崎新著「気になるガウディ」を読んで




照る日曇る日第532回&勝手に建築観光50 

「眼高手低」とは私が磯崎新につけたキャッチフレーズ。建築にかんする蘊蓄を語らせたらこの人の右に出る者はいないが、実際に作っている作品が口ほどにもないのがこの本の著者である。

しかし、ガウディ建築は不合理にあらず。それを基底で支えたのは「カタルーニャ・ヴォールト」という薄肉レンガ工法で、これによって建築家は型枠不要で限りなく平面に近い曲面を自由自在に造形することができた、

などと説かれると、さすが磯崎と膝を打ちたくなるし、もはや故人の意図とはかけ離れたところで観光目的で突貫工事が進んでいるサグラダ・ファミリア聖堂はそのまま未完成で放置せよという所説にも説得力がある。

著者によればガウディの最高傑作は1904年から6年にかけて建てられた「溶けてゆく家、カサ・バトリョ」だそうで、本書に添えられた写真を見ると屋外ではぬらりとした鱗のような屋根瓦の上をドラゴンの背骨が蛇行し、室内では柔らかなマシュマロのような質感の天井や壁が琴瑟相和して優しいハーモニーを奏でている。

ふーむ、するてーとこのカサ・バトリョの「溶けゆく家」というコンセプトを密輸入したジャン・ヌーヴェルが、あの下らない汐留の電通本社ビルをおっ立てたわけか。恐らくヌーヴェルはいわく言い難い後ろ暗い所業に手を染めているに違いないこのメガエージェンシー全貌を、外部からは簡単に見分けられないようにしようと企んだのである。


東電のコンクリートの電柱で朝も早よからミンミン鳴くなり 蝶人


Friday, August 17, 2012

「オペラ・イタリアーナ」40枚組CDを聴いて



音楽千夜一夜 273

400年に及ぶ歴史を誇るイタリアオペラの中から20人の作曲家を選んで11曲全部で40枚組のセットに編んでいます。

1100円の超廉価盤ですが、メルカダンテの『イル・ブラーヴォ』、ジーノ・マリヌッツィの『ジャクリーの乱』、ジャン・カルロ・メノッティの『ゴヤ』、ボッケリーニの『慈悲深い女』、ガッツァニーガの『ドン・ジョヴァンニ』など、これまで聴いたことも無い珍しいオペラの数々を、スイス・イタリア放送管弦楽団&合唱団など私の偏愛するマイナーなオケ伴、そしてマイナーではあるけれど小澤征爾のように凡庸ではない指揮者たちの演奏で堪能できるのがたまりません。

きわめつけはロシア・フィルハーモニー管弦楽団!をなんとルネ・クレマンシックの棒!でエヴァ・メイ!が熱唱するサリエリの『オルムスの王アクスル』。これを聴くとサリエリの素晴らしさとなぜ彼がモザールに一籌を輸さざるを得なかったのかがよく分かります。

 
     暑中見舞いに返事が来ない不気味さよ 蝶人

Thursday, August 16, 2012

ジョセフ・フォン・スターンバーグ監督の「間諜Ⅹ27」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.296


いつもそうとは限らないが、1931年製作のこの映画ではヒロインのマレーネ・ディトリッヒの顔容が異様なくらいいつまでも眺めていたいくらいに美しい。これが後年になると妙に崩れてエグくなるから俳優稼業もつらいものである。

然しお話はまことに下らない。注→ここからはネタばらしにかかりますので、知りたくない人は読むのを止めてくださいね。

娼婦稼業のマレーネをオーストリアの間諜部長が浣腸じゃなくて間諜に仕立て上げる。彼女はうまく立ち回って母国のために好成績を挙げるが、ある時ロシアの男の間諜に捕まってしまい、危うく処刑されるとこころをお色気と機知で間一髪逃れたのだが、今度は捕えられたその間諜を逃がしてやったために自分が処刑されるという因果話なのであるんであるんである。

でもいきなり射殺されては映画にならないので、処刑担当医の青年将校がお国のためとはいうても女を殺したくない、と絶叫してその他の兵隊に交代させられたり、(その間なんとマレーネは元の娼婦姿でガードルを直したり口紅を塗ったりしている! )んだが結局銃殺されてしまいます。

そもそも食うためとはいえ娼婦がスパイになるシナリオに無理があるのですが、黒猫とピアノを愛するヒロインが、楽譜で暗号を書いたりするシーンが面白かった。


生きていくことは大変だねと横須賀のうどん屋のおばさんと一致したり 蝶人

Wednesday, August 15, 2012

プルースト著・吉川一義訳「失われた時を求めて4」を読んで



照る日曇る日第531

14冊の文庫本の4冊目に当たる本巻は、第2編「花咲く乙女たちのかげに2」第2部「土地の名―土地」の全訳です。

パリを離れた主人公は、祖母や女中のフランソワーズと共にノルマンディー海岸の保養地バルベックにやって来て華やかな夏の避暑生活を享受します。

プルーストの分身である若き主人公は、やはり都会からやって来たアルベルチーヌやアンドレ、ジゼルなどのうるわしき乙女たちと出会い、そこで男女の駆け引きが始まるのですが、さすがにプルーストともなると、その道行は一筋縄ではいかない。

群生する様々な薔薇のような少女たちから徐々に朝霧のヴェールが取り払われると、おもむろに彼女たちの面差しや姿態、わけても人差し指の美しさやふっくらした柔らかさなぞに光が当てられ、一人ひとりの官能的な、そして知性的な特徴が微細に描写されていきますが、この様相をある詩人は、a rose is a rose is a rose is a roseとはしなくも歌ったのでした。

対象化された少女を対象化する自意識の微分積分、愛の結晶作用に関するスコラ的な思弁とコルクルームの内部の偏奇的な生の形上学が、浜辺に打ち寄せる波のように果てしなく繰り返されるかと思うと、若者らしい常套手段に走った主人公が、思いびとアルベルチーヌをベッドに押し倒そうとして、思いっきり非常ベルを鳴らされる。

好きな女に一指を触れるまでに数年と数百ページを閲してはばからないのがプルースト的恋愛審美学の真骨頂ですが、またとなく主人公の欲情をそそる美少女を数ブロック追いかけ、やっとその顔をのぞきこむや、なんとなんと年老いたヴェルデュラン夫人だった、という逸話こそ、本巻の要蹄でありましょう。


二列目の朝顔が咲かぬもどかしさ 蝶人

Tuesday, August 14, 2012

矢口史靖監督の「スウィングガールズ」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.295

柳の下にはもう一匹どぜうがいた。ウオーターボーイの後はスイングガールと来たぜ。
これは脚本や監督の演出、役者の活躍をうんぬんする以前にやはり企画の勝利というべきだろう。

 はじめは全然やる気のなかった高校三年生がひょんなことから楽器の魅力に取りつかれ、ジャズのビッグバンド演奏に夢中になっていく。今回の選手は楽譜も読めないのにまたしてもコーチに祭り上げられてしまうも面白い役どころ。

 ラストの東北大音楽祭での演奏はなかなか見せる。この個人プレイ満載のど派手なパフォーマンスが少女ジャズバンド人気に火をつけたことはよく分かるが、通常の吹奏楽の演奏もなかなかに奥が深い事を忘れては困ります。


坊さんの読経に応えアブラ鳴く13日は盆の入りなり 蝶人