Saturday, July 30, 2011

西暦2011年文月 蝶人狂歌三昧


♪ある晴れた日に  第94

天啓の如く鮎閃きぬ

土曜日はゴマダラカミキリと遊びけり

ニイニイゼミ鳴きて夏綻びぬ

ものみながはげしくにおう夏の夜

少数の見知らぬ友に日記書く

丸印は性交ありし日か荷風日記

かにかくに今日もなんとか生きている

秋風やパソコン嫌いの女がひとり

佳麗衆カレー週加齢臭鰈集華麗秀

今宵特許許可局開店杜鵑

かくかくしかじかてふコマーシャルが大嫌いなわたし

親子丼食えば死んだ鶏を食うておる心地す

ガンにならないように麵麭の黒焦げを削る

この子居所がないこの老人居所がない

祖父に巻いてもらいしゲートルの柔らかきこと

見る前に飛ぶな褒めるな有名建築家の商品ども

一匹の雌を争い二匹の巨大雄ウナギが滑川に躍りあがる満月の夜

柳腰の雌を狙いし雄ウナギ噛み合いしまま水面を超えたり

空青く草は緑に燃える日よわが生命も赫奕と燃ゆ

原発はニッポンを死に至らしめるガンである撲滅せよガン

だんだん好きな人が減って嫌いな奴が多くなる

三台も自動車を並べている家の玄関をモンキアゲハが通り過ぎる

人一人殺しちゃっても死刑にならぬ日本は素敵な法治国家

駅近く線路の傍にカンナ咲き鎌倉の夏今年も来にけり

全国の男の顔色なからしめ花咲き誇る三千世界

性愛の極意を生きた小島信夫永井荷風の跡を継ぎしか

人として最低の人を任命する最低の人辞表受け取る

ニッポン戦場、ニッポン洗浄、ニッポン沈没、ニッポン脱出

ひめじおんのうえで胡蝶たちがつかのまたわむれるやうに

父上の死に目にも母上の死に目にも会えなかった

築地なる朝日新聞コケルとも鎌倉朝日とわに栄えん

君知るや消えちまった私の行方を 蝶人

市川昆監督の「おとうと」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.135


1960年製作のこの映画は、黒白のコントラストを強調した世界初の「銀残し」という画像処理を施された映画ですが、その特色は本作よりはスピルバーグの「マイノリテイ・レポート」などでもっとよ強烈に生かされていましたが、この映画でもヒロインの岸恵子の陰影のあるくまどり、父親役の森雅之の深みのある重厚な表情にその効果を発揮しています。


原作は幸田文、脚色は水木洋子、そして監督が市川昆ですから、姉の岸も「おとうと」の川口浩も大船に乗せられたようなもの。父役の森と義母役の田中絹代の強烈な助演を受けて、薄命の少年の哀しい映像物語ができました。

不良でろくでなしの弟を若くしてガンで亡くなった川口が熱演しているが、その弟を「熱愛」する姉の岸もまけじと張り合う。ラストで臨終の弟が差し伸べた腕を抱けなかった姉が、つかの間の失神から甦って無意識にエプロンをつけながら病室に飛んで行くストップモーションにすべてのスタッフの情念が籠っているようです。

岸恵子がデパートで万引きしたと疑われて非人間的な取り調べをされるシーンや、半身不随の意地悪で孤独な義母役の田中絹代が、キリスト教信者仲間の岸田今日子とひそひそ陰微に密談を交わすシーンも忘れ難いものがあります。

ニッポン戦場、ニッポン洗浄、ニッポン沈没、ニッポン脱出 蝶人

Thursday, July 28, 2011

アルフレッド・ヒッチコック監督の「ロープ」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.134

1948年に製作されたヒッチコックのサスペンス映画です。

いきなりロープでの殺人シーンがでてくるのがいかにもヒッチですが、話の中身はジエームズ・スチュアート扮する大学教授の「超人!」思想を真に受けた教え子2人が共謀して、自分より劣る(と思われる)友人を殺害するというもの。1924年に起きた実際の事件を元にしたお芝居を原作にしているそうです。

どんな脚本でも素晴らしい映画に仕上げる名人ヒッチコックですが、ラスコーリニコフ張りの犯罪理論を実際にやってのけた大馬鹿者を当のスチュアート先生がとっちめるという珍奇珍妙なお話を微に入り細にわたってリアルに演出すればするほど台本の底の浅さが露呈されて、これを名匠の傑作として鑑定することは中島誠之助といえども難しいでしょう。

追伸 原発に関する驚くべき情報!

http://t.co/GeWgLHh

ガンにならないように麵麭の黒焦げを削る 蝶人

ロマン・ポランスキー監督の「チャイナタウン」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.133

この映画もこれまでに何回か見たはずなのに、それを忘れてまた見てしまった。ロサンジェルスの水道をめぐる殺人事件をジャック・ニコルソンの私立探偵が巻き込まれ最後はファム・ファタール役のフェイ・ダナウエイがロスのチャイナタウンで非業の死を遂げるところまでポランスキーは一気呵成に見せてしまう。

ダナウエイはミスキャストだと思うが、彼女にしてはベストパフォーマンスをみせ、父に犯されて妹でもある娘を孕まされる悲しみを好演しているし、その阿漕な父親を演じるジョン・ヒューストンの怪演が素晴らしい演技を見せたニコルソンのお株を奪っている。ニコルソンの鼻をナイフで切り裂くカメオ出演の役者ポランスキーの圧倒的な存在感も見事。

1930年代のロスを再現した美術セット、ジェリー・ゴールドスミスの音楽も演出の意図にはまったもので、砂漠の上の仇花ロサンジェルスを流れる河があり、毎晩突然鉄砲水が奔出するというプロットも出色で、これぞハリウッドフィルムノワールの傑作と評すべきであろう。

この子居所がないこの老人居所がない 蝶人

Wednesday, July 27, 2011

清水宏監督の「風の中の子供」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.132


これは懐かしい坪田譲治原作の映画だ。ご存知善太と三平の兄弟が主人公となって、日本軍が南京で中国人を大虐殺していた頃の貧しい地方の暮らしをいっけんのんびりと描く。

しかし彼らの父親は文書偽造の嫌疑をかけられて逮捕され、三平は母と善太から引き離されて親戚にあずけられるなど苦労を強いられるのである。

大人の世界も息苦しいが、子供の世界だって極度の緊張と暴力の予感に満ち満ちた尋常ならざる世界だ。そこをなんとかかんとか潜り抜けないと、人は一人前の人になれないのである。

その嫌疑がようやく晴れて父親と2人の息子が庭で相撲を取るハッピーエンディングを見るとなんだかほっとする。そしてまた子供軍団が歓声を上げて兄弟に駆け寄り、善太がライバルの悪たれ小僧をその仲間に入れてやると、もっとほっとするのであるが、その風の中の少年たちを待っていたのは、太平洋戦争の地獄だった。

ものみながはげしくにおう夏の夜 蝶人

Monday, July 25, 2011

伊集院静著「なぎさホテル」を読んで


照る日曇る日第
448

これは昔逗子海岸にあったホテルを舞台にした、著者の青春回顧小説である。

離婚の慰謝料や借金をかかえ実質的には一文なしの風来坊が偶然逗子の海を訪れ、なぎさホテルの支配人の格別の好意に恵まれて出生払いということでその夜から寄宿し、およそ六年間の歳月を海岸に打ち寄せる波の音を枕の友として文学全集を読破し、短編小説を試み、浴びるように酒をくらい、危ない橋を渡り、鎌倉の漁師や寿司屋の主人やおじさんやおばさんと仲良くなり、人気女優と熱愛し、とうとう結婚して思い出多い逗子なぎさホテルを去るまでの夢のような、幻のような、しかし確かに実際にあった物語がとつとつと綴られている。

この作家の文章はどちらかというと拙劣で、用字用語的に都会的で洗練された要素は皆無だが、一字一行をひたすら実直に書き連ねたその下手くそな文章を読んでいるうちに、この人の内面に潜んでいるある種の清々しい倫理観、書かれた内容に関する好ましい節度と誠実さというものが読者の心に少しずつ岩肌から垂れる清水のように沁み込んできて、それがおのずから他の作家との違いを形づくっているような按配である。

こうした著者の芸は、俳優にたえれば高倉健、野球選手にたとえれば松井秀喜といった人物のパフォーマンスに酷似している。高倉健の演技など下手くそでどうにも見ていられないが、じつはその下手くそさが彼の最大の魅力であり、大衆をつかむ武器ともなっているのだ。

かつて私が高倉健氏にインタビューするためにたった一度だけお会いして名刺を渡した時、氏はあの黒々と耀く両のまなこで私を射竦めながら、東映映画のスクリーンに響き渡る太く低い声で「頂戴致します!」と一言いって、両の手を剣のように突き出して紙片を押し頂いてから、深々と一礼された。

私は伊集院氏には会ったことはないが、もしかすると健さんのような振舞いをする人物ではないかな、とふと思った。彼は絶対に上手な文章を書かないように己を戒めることによって、最良の自分を表現しようと努めているのだ。

ああひめじおんのうえで胡蝶たちがたわむれているよ 蝶人

◎「佐々木健グループ展」開催中

「モンブラン・ヤングアーティスト・パトロネージ・イン・ジャパン2011

会期:201177日(木)~921日(水)
場所:モンブラン銀座本店3階(営業時間:11:00-20:00
東京都中央区銀座7-9-11モンブランGINZA Bldg 銀座中央通り・資生堂斜め向かい

http://ow.ly/5IDQN


Sunday, July 24, 2011

ベルンハルト・シュリンク著「週末」を読んで


照る日曇る日第447

60年代の後半から70年代にかけては左翼の武装闘争が全世界で荒れ狂った。日本では赤軍派などは牢屋に入れられたままだが、ドイツでは少しずつ釈放されているらしい。

本書は当時のドイツの資本主義の中枢にいた財界人などを殺した赤軍派の元リーダーが既往を悔いて出獄した直後の週末に起こったさまざまな事件と波紋を描いているが、こう要約しただけでこの小説の作者の魂胆が見え透いてくるようで私などは非常にいやな感じがする。

まず、かつて輝けるテロリストだった男が大統領の恩赦を受けて20年振りに出所してくるというので、彼の恋人兼母親のような姉が彼女の別荘に男の旧友を呼び集めて慰労会?を催す、などという設定が小説としても不自然である。

普通はどんな親友にも知らせず、1年くらいは心身の疲れを癒し、新たな社会復帰の準備をするのが世間の常識だと思うのだが、911について思いを巡らせる英語教師!やら、弁護士、この男に振られた過去を持つ女性ジャーナリスト、聖職者、男を闘争のシンボルに担ぎあげようともくろむ左翼の生き残り、しまいには行方不明だった男の息子まで乱入してきて、ドイツ赤軍派の思想と行動を金土日の3日間でいっきに総括しようと意気込むのだが、それって相当無理だよね。

こういうありそうで絶対にない都合のよい図式とお下劣な主題の設定そのものが、昔ながらの通俗読み切り三文赤小説であることに著者は最後まで気づかず、あたかも今世紀最大の深刻な思想小説であるかのように粋がっているから始末に負えない。

もちろんかつてのテロ行為を攻撃したり非難したり自己批判を要求したり、さらなる権力闘争への加担を呼び掛ける人物やテロリストをあの時代の「空気」では当然のことだったと擁護する人物なども続々登場して、これを映画や芝居の群像劇に仕立てたらかなり面白いとは思うが、主人公の病気で主人公への肉薄が全て放棄されるなどすべてがご都合主義のポンチ絵であり、ここに芸術的な真実が吐露されているとは到底思えない。

そもそも当時法学部の学生でたった2回だけデモに参加した男がドイツ赤軍派についてどれだけのことが書けるというのか? 君は売れそうな題材ならなんでも書くのか?

すべてはベストセラー作家の次なるベストセラー小説へのマーケテイングの空虚な試みにすぎない。

親子丼食えば死んだ鶏を食うておる心地す 蝶人


Saturday, July 23, 2011

続々 狂言綺語


バガテルop139

世界の「水泳飛び込み競技」においてスプラッシュ(水しぶき)を消すことが最大の努力目標になっているようだが、そのどこが素晴らしいのか。じゃんじゃん飛込み、バンバン水しぶきを上げるのがこの競技の最大の見どころではないか? こんな阿呆な技術を発明し、飛んだ痕跡を消すことに憂き身を窶す変態競技に血道を上げている奴らはくたばっちまえ!

クラシックが大好きな保守派の私はどうもジャズが苦手で、大家の最初のイントロを耳にしただけでもうすべての展開と終結が分かったような気がして毎度おなじみの友川かずきで口直しすることになるのだが、セロニアス・モンク選手だけは別だ。

この人のはやはりフリージャズの仲間に入れられているのだろうが、そういうフリーを呼号する連中とは違って、ほんとうに純粋無垢の自由な音楽をやる人なのだ。その演奏はいくぶんグレン・グールドの自由さに似ているところもあるやうだ。

私がどうしても耐えられないアナヌンサーの声、それはフジテレビの「ウチくる!?」という番組の局女子アナの脳天に突き抜ける黄色い絶叫、そして官許NHK放送のクラッシック担当の山田なんとか女史の男に媚びるような厭らしい物言い。菅よりも君たちが先に退場しなさい。 

台風一過の朝比奈峠でヒメジオンの花の上で交尾する雌雄のモンシロチョウを見た。その行為の純一無雑さに感嘆す。人の一生もかくありたし。

マリナーズ14連敗。もうイチローもただの人。連続200本安打も絶望的になった。

秋風やパソコン嫌いの女がひとり 蝶人

Friday, July 22, 2011

続 狂言綺語


バガテルop138

今年のセミが鳴かないとか少ないとか騒いでいるが、こと鎌倉の十二所地区に限ってはそんなことはない。当地で例年ニイニイゼミが鳴き出すのは7月の4日前後であるが、今年のニイニイゼミの初鳴きは6月27日でいつもより早く、その日から今日までたくさん鳴き騒いでいる。ニイニイからアブラゼミの間には梅と桜ほどではないが少し間隔があり、その合間を縫ってカナカナが鳴き出し、本格的な盛夏の到来を告げるアブラゼミやミンミンゼミが鳴くのは、当地では7月22から29日の間である。

以上は小生の過去6年間のデータに基づいて書いているが、もし可愛いセミたちの今年の全国的な発生が遅れていたり、最悪の場合発生数が少なかったとしたら、それは累積温度やまして福島第一原発の累積放射能せいなどではなく、数年前の発生個体数が少なかったからだと考えられる。

日本経済新聞には俳句と和歌の投稿欄がある。かつて私は黒田杏子という女性が選句する「日経俳壇」に拙い一句を「葉書」で投稿して採用されたことがあった。最近インターネットでも投稿できるようになったというのでまたやってみようとしたら、2名の選者のうちくだんの黒田女史だけはネット投稿を認めていないというので驚くとともに、その見識の高さに脱帽した次第である。所詮横書きは俳句にはなじまないと彼女はよく知っているのだ。

残念ながら今年のイチローの200本安打は絶望的だ。どんな天才にも末路はくる。晩節を汚さずに潔く引退するか、それとも松井のようにぼろぼろになってどさ回りの道を選ぶか。私は苦闘する後者の姿を見たい。

丸印は性交ありし日か荷風日記 蝶人

狂言綺語


バガテルop137

 原発の本質は核の爆発である。原発を全廃しようとする国民の総意に反対する経産省大臣や与野党の議員や経団連や東電や大企業の指導者は、エネルギー政策の転換に伴う利権の棄損やもたらされるかもしれない経済的混乱に反対しているのではなく、この国の最終的な核武装放棄に、深層心理下で反対しているのだ。

これまで原発推進に賛同し、直接間接に支持してきた人たちが、あれだけの大惨事になった福島原発事故のあとでこれまでの自分の言動を反省したり、そうしないまでも何らかの意思表示をしないのはどうしてだろう(どこかでしているかも知れないが)。

私は自民党のアホ馬鹿議員よりも、例えば東電の安全キャンペーンの旗を振った小林亜星氏や、わが国の原子炉は30年以上無事故であるからなどと称してその科学技術力の高さを盲信していた吉本隆明氏などの声を聞きたいと切におもうのだ。

資本主義が飽くことなき生産力と利潤の追及をモットーにしていることはよく知られているが、その前提は富と豊かさの肯定であり、さらにその前提には個人の欲望の全面的な肯定がある。戦争や内乱、原子力発電への制御を含めて乱熟した資本制社会の内部矛盾は最高のレベルに達しているが、この矛盾は先進国と後進国を問わず地表に残存する諸個人の放恣な欲情と過剰な欲望を、中国が一人っ子政策において敢行したように、国家権力が暴力を発動して鎮圧するか、新たな倫理観に目覚めた個人が自主的に抑止しようと決意し実行しない限り、解決できないだろう。

人は論争によってはけっして説得されず、たとえ論理的に破綻しても絶対に己の見解を変えたりはしない。人を変えるのは合理的な論理ではなく、没論理の不条理な感情である。才人が小理を振りかざして大衆を折伏しようなどとは愚かなことだ。

少数の見知らぬ友に日記書く 蝶人

Thursday, July 21, 2011

梟が鳴く森で 第3部さすらい 第4回


bowyow megalomania theater vol.1

12月3日 曇

今年はいつもより暖かい冬だったのですが、だんだん寒くなってきました。谷戸を渡る風は冷たく、鎌倉時代の武士たちのお墓であったやぐらを仮の宿とする僕たち3人を取り巻く環境は日一日と厳しいものになってきました。

夜は3人が抱き合ってお互いの身体を暖めあって眠ろうとするのですが、歯の根も合わないほどの寒さなのです。昨夜は初めての雪が降り、シイ、ドングリ、野イチゴ、カキ、クリなどのわずかばかりの蓄えも底が尽いたので、今朝僕たちは近くの禅宗のお坊さんの真似をしてたくはつに出かけました。

およそ1時間ほどかけて町内のにぎやかな大通りに出ると、僕たちはいつか見たお坊さんの見よう見まねでナムアミダブツナムアミダブツと念仏を唱えながら、一軒一軒の前で神妙に手を合わせました。しばらくそうやっていると、その姿がいつもの建長寺や円覚寺の若いお坊さまでなく薄汚れた少年と少女であっても、哀れみをかけてくれたおじいさんやおばあさんたちが、お米や野菜、時によるとお金やおいしい鳩サブレーのお菓子などを恵んでくれるのでした。

お米をもらっても簡単に食べることができない僕たちは、いろいろ苦労を重ねた挙句、一軒の農家のおばさんに頼みこんで、お米を炊いてもらったのでした。

三台も自動車を並べている家の玄関をモンキアゲハが通り過ぎる 蝶人

Tuesday, July 19, 2011

磯崎新著「日本の建築遺産12選」を眺めて


照る日曇る日第446

神を感知するためには出雲大社と伊勢神宮、伸びゆく内部空間を考察するためには円覚寺の舎利殿と三十三間堂、建築の自由形を見るためには三仏寺投入堂と西本願寺飛雲閣という塩梅に、現代の代表的な建築家である著者が6つの切り口で12の名建築を考察していくという今風のスマートな企画です。

古代から現在に至る長大な日本建築の流れを、著者は垂直の方向に伸びる「柱」とその柱を水平の方向に「架構」する2つのムーブメントの相関関係にあるととらえ、わが国の建築史は外国からの「圧力」、それに起因する「内乱」、それが結果する「受容」(もどき)、それが受肉化する「変形」(やつし)の4つのサイクルで回転運動を続けてきた、と著者は筆鋒鋭く説くのですが、さすが4半世紀にわたって現代思想に相亘りつつ建築の「構築する力」を信じて活躍してきた「世界のイソザキ」らしい総括といえるでしょう。

しかし建築家と香具師だけはその言説をうのみにしてはなりませぬ。いや、いくら口先三寸で立派なことをおっしゃしゃってもいっこうに構わないのですが、相撲取りの真価は土俵であり、将棋指しの真価が盤上の勝ち負けにあるがごとく、建築家の真価はその言葉や思想やお説教ではさらさらなくて、彼が構築した建築物そのものの価値にしかないのです。

私はこの人の頭があの有名な安藤忠雄なんかより百層倍も賢いことがすぐに分かったので、彼の難解な幾多の建築哲学書?を全部投げ捨てて巷に出て、その主要な作品をつらつら見て回ったものですが、例えば東京のお茶ノ水スクエアA館やらカザルスホール、ロサンゼルスまで足を延ばして見物した現代美術館にしても、彼の代表作として知られる水戸芸術館のアートタワーにしても、同じ作者の著作物から感じることのできる知的興奮と芸術的感動には程遠く、言行不一致のあまりの落差に呆然として慨嘆するほかなかったのは、まことに残念至極なことでした。

眼高手低とは名人にさえよく言われることですし、口で言うておることと全然無関係の製品が出来上がってくるのも、例えば安藤忠雄や黒川紀章などでは日常茶飯事で、その点でこの建築家を非難しているわけでは毛頭ありませんが、いったいどうすればこのように支離滅裂で頭の中でこねくり回したような不自然な建築を次々に大量生産できるのでしょうか? 

GT-M梅松院、松竹本社、サントリー美術館等の設計者であるテキトー建築屋、隈研吾氏と同様、私には、先行者の拙劣な模倣である以上の建築価値を到底見出すことができないのです。

見る前に飛ぶな褒めるな有名建築家の商品ども 蝶人

Monday, July 18, 2011

文化学園服飾博物館で「暑さと衣服」展を見る


茫洋物見遊山記第60 &ふぁっちょん幻論第64

うだるような暑さの中で「民族衣装にみる涼しさの工夫」と題した恰好の展覧会を見物しました。

この節はスーパーの付いたクールビズとやらで全国で落ち目の百貨店のみならず青木青山春山ユニクロなどのメンズの売り上げが浮揚しているのは慶賀に堪えません。先日は環境省の伊集院光のように醜く豚太りした役人がなんと派手なデザインのアロハシャツを一着に及んで登所しておりましたが、ここまでスーパーが過熱逆上すると嫌な感じを通り越していい加減にしてくれと叫びたくなります。

クールビズについては、これが本当に二酸化炭素排出に貢献しているのか否か、女性のそれが等閑視されているのは何故か、このような行きすぎた簡素化、カジュアル化がはたしてビジネスと服飾のあるべき姿形なのか等々さまざまな疑問が沸き起こって参りますが、ここではクールビズそのものではなく、それに関連するもっと興味深い2つの事象について触れておきましょう。

ひとつは過去三〇年以上に亘って服飾デザインのみならず衣食住遊休知美商品世界を主導してきたカジュアル化現象の終焉とその反動です。最近のパリコレやミラノコレ、車のデザインの保守反動セダン化や耐震化住宅の要塞化などはそのいささか早すぎる予兆といえるでしょう。

次は列島の「燃えよドラゴン熱帯化現象」です。

例えばアパレルについては旧来の秋冬物とアウターウエア重視の企画内容を春夏物&インアー主力に逆転させる必要がありますし、他の業界にとっても地球温暖化の進行によって年中亜熱帯国と化した我が国のマーチャンダイジングをどのように変容させるかは重要な課題となるでしょう。

熱に浮かれてそんなあほらしいことを考えながら東南アジアやアフリカなど世界中の夏の民族衣装を見物していた私の眼に飛び込んできた、「節電節エコで摂氏二八度の労働条件に耐える究極のスマートウエア」。それはなんとパプアニューギニアの先住民族が愛用しているペニスウエアでした!

一糸もまとわず一本のペニスウエアだけで銀座七丁目を闊歩する。これこそ、この夏もっともイケテル、クールビズファッションではないでしょうか?

*なお本展は来る9月24日まで東京新宿の文化学園服飾博物館にて開催中。休館日は日曜日&祝日、夏季休暇は8月1320日。

全国の男の顔色なからしめ花咲き誇る三千世界 蝶人

Sunday, July 17, 2011

成瀬巳喜男監督の「めし」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.131

この映画は原節子扮する主人公の人妻が、女の幸福とは懸命に働く夫を陰ひなたなく支える夫唱婦随のささやかな喜びにあるのではないか、と殊勝に呟くシーンで終わっているが、こんなくだらない結末を、原作者の林芙美子が書く訳がない。明らかに川端康成による悪しき助言の副産物であろう。

そのせいでいっけん一昔前の封建的なイデオロロギーを前提にした男尊女卑の映画と受け取られがちだが、さにあらず。原節子と上原謙のそのような定型的な夫婦関係の横合いから予告なく闖入して安穏な市民の平和をかき乱すこの映画の真のヒロインは、上原謙の姪を演じる島崎雪子の小悪魔ぶりにあって、中産階級のちょっと可愛い馬鹿娘が、己の若さと美貌と無意識のコケットリーを武器にして世の男どもを手玉にとり、徹底的な自己中で周囲を引っ掻きまわす悪意に満ちた天衣無縫さこそ、この映画の最大の見どころであり、原作者がしっかりと見据えていた、弱そうでつよい女の本質がこれでもか、これでもかとばかりに鋭く抉り出されているのである。

いまならどこにでもいる身勝手なアホ馬鹿娘であるが、1951年に成瀬巳喜男がいち早く造型してみせたこの令嬢風アプレゲールの自由奔放さはいま見ても新鮮で、小林桂樹をのぞくすべての定評ある出演者の存在感を食ってしまっている。

最後に注目すべきは成瀬の演出が驚くほど小津に酷似していること。成瀬は小津のような長回しをせずに早いカット割を繰り返すところだけは違うが、原節子と二本柳寛が並んで上野の博物館をそぞろ歩くシーンなどは瓜二つであった。

柳腰の雌を狙いし雄ウナギ噛み合いしまま水面を超えたり 蝶人

Saturday, July 16, 2011

藤井譲治著「天皇と天下人」を読んで


照る日曇る日 第445

講談社から刊行されている天皇の歴史シリーズの第5巻であるが、ここでは戦国時代に我が国を天下統一に導いた三英傑と天皇の関係について述べられている。

己を天下人であり国王であり天皇以上の存在でありと自負していた織田信長は、一貫して朝廷とは距離を置き、彼にひたすら媚を売る正親町天皇を適当に利用しながら、基本的に無視していた。天皇と天皇制を見事なまでに小馬鹿にしていたのである。

信長は後継の秀吉、家康と違って、徹底的に朝廷の権威や秩序を無視して己の唯我独尊を貫こうとしたあたりがいっそ快い。

 秀吉の交渉相手も信長と同じ正親町天皇であったが、同じ天下人とはいっても成り上がりの秀吉と信長ではなかなか対等という訳にもいかず、雲上人のご機嫌(天気というそうだ)を取り結びながら下から籠絡しようとする態度が印象的で、関白の位階欲しさに正親町にすり寄る秀吉の姿は醜い。

秀吉が信長と同様に朝廷を牛耳るようになるには御陽成天皇の就任を待たねばならなかった。しかし秀吉の死後彼が望んだ後継者を拒否し、彼が願った「新八幡」の神称を拒んだのは他ならぬ御陽成天皇であった。

 前任者たちの対応を醒めた目で観察し、天皇および天皇制にもっとも致命的な打撃を与えたのは、やはりというか、さすがというか天下の知恵者徳川家康であった。彼は死の直前にみずからの発案で禁中並びに公家中諸法度を制定し、御陽成の後継者である御水尾天皇の権威と権力を完全に奪い取り、名実共に朝廷を武家の支配下に治めたのである。

 こうしてつらつら眺めてみると、信長が搗き秀吉が捏ねた餅を家康がうまそうに頬張るという図式もあながち漫画ではないような気がしてくるから不思議である。恐らく三英傑のうちで最も優れた政治家は最後の者であったのであり、彼が主導して統治した256年間が、この国の民衆にとって最も幸福な時代であったのもむべなるかな、と言わずにはおれない。

だんだん好きな人が減って嫌いな奴が多くなる 蝶人

Friday, July 15, 2011

オリバー・ストーン監督の「JFK」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.131

ケネディ大統領が殺された日のことはよく覚えている。私は京都市左京区の田中西大久保町の下宿を出たところで近くから流れてくるFEN放送のコールサインに続くプレジデントケネデイワズアササンドという悲痛な繰り返しに耳をうばわれ、しばらくその場に立ち止まって呆然としていた。それは1963年11月23日のお昼前のことで、京の秋空は雲一つない快晴だった。

 1991年にオリバー・ストーンが監督したこの映画は、ニューオーリンズの地区検事長ジム・ギャリソンの視線で第35代米国大統領の暗殺事件の謎に挑む。ストーン=ギャリソンは、この虚構を交えた3時間を超える大長編映画を通じて、キューバやベトナムへの軍事介入から手を引き、黒人の公民権を獲得させようとした「民主的で進歩的な大統領」を、軍と軍需産業、保守派の政治家とCIA、FBIなどが暗黙裡に連合戦線を組み、陰謀と狡知の限りを尽くして白昼公然の暗殺に成功し、この醜い影のテロリストたちは余勢を駆ってキング牧師やロバート・ケネディを葬り、米国を輝かしい自由の国を野蛮なファシスト支配の国に変えてしまったと訴えるのである。

 私は別にケネディや巨人や大鵬や卵焼きを好きでもないし、格別偉大な大統領とも思わないし、この国が自由の国であるともファシズムの国だとも思わないが、この映画を見ている限りではストーン=ギャリソン説が真実であるかどうかは2029年のオズワルドやジャック・ルビー等の証言記録の公開を待たずして軽々に確言はできないと思った。

 映画の中で紹介されるのはすべて状況証拠ばかりであるし、肝心の証人がほとんど死亡するか殺されてしまっている。それにもかかわらず映画の中ではギャリソンに扮したケビン・コスナーが正義の味方よろしく「死にゆく王に権威なし」と、殺された王の遺徳を称える大演説をしている。映画の中で政治的主張をしても構わないが、そのことがその主張を正当化したり、まして映画の価値を高めるかと言うとそんなことがあるはずがないのである。

ロバート・ケネディが暗殺された瞬間から妻のシシー・スペイセクが夫の仕事を理解し夫婦が一体化されていうといううるわしい成り行きも映画的真実に大きく反していて、要するに本作はオリバー・ストーンと同様相当程度にいかがわしい映画である。

空青く草は緑に燃える日よわが生命も赫奕と燃ゆ 蝶人


Thursday, July 14, 2011

河野多恵子著「逆事」を読んで


照る日曇る日第444

十九世紀の終わりに英国の心理学者ウイリアム・ジェームズが唱えた「意識の流れ」という考え方にもとづく小説作法をジェームズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフなどが実践したそうだが、5つの短編を集めたこの本もまたそういう書き方がなされていると思った。

別段なんということもない住まいの世間話をしているうちに語りの濃淡がうすれ、著者が自分の小説の行方に無関心になってエアポケットに入ってしまったように思われた瞬間に、マンションの隣人がどすんと音を立てて地面に飛び降りたり、これまた退屈な世間話に興じていたはずの夫婦が突然性交をはじめて、その顛末が驚くほど、事実と言うよりは真実に突き刺さるように描写してあるので、こんなことをこんなふうに書いてもいいのだ、これはポルノより凄いと読んでいて妙に感動したりする。

著者は自分の意識の流れに沿うて人事百般、過去現在未来を行きつ戻りつ自在に行き来しながら、短い物語を終えるまえに、「ああこれを言うのを忘れていたわ」とでもいうように、突然超現実的な挿話を我々の前にポンと投げ出し、そのまま明後日の方へ去ってしまう。心憎いばかりの小説名人といえよう。

辞書を引くと、表題の「逆事」とは、「真実に反することや親より子が先立つさかさまの物事」を指すそうだが、ここでは古来の文学者などが谷崎潤一郎や佐藤春夫などおおかたは順当に「引き潮」の際に死んでいるのに、独り三島由紀夫は満ち潮の時刻に自死してと書きだしながら、話は突然真鶴の海岸の引き潮の折に死んだ蟹の「蟹夫」の急死に飛び、キリスト者でもない著者が讃美歌の「主よみ許に近づかん」を歌ってやる美しいエピソードに至り、これで終わるだろうと思っていたら、最後に靖国神社にハムレットのような亡霊が出る。見事である。

原発はニッポンを死に至らしめるガンである撲滅せよガン 蝶人

◎「佐々木健グループ展」開催中

「モンブラン・ヤングアーティスト・パトロネージ・イン・ジャパン2011

会期:201177日(木)~921日(水)
場所:モンブラン銀座本店3階(営業時間:11:00-20:00
東京都中央区銀座7-9-11モンブランGINZA Bldg 銀座中央通り・資生堂斜め向かい

Wednesday, July 13, 2011

ビリー・ワイルダー監督の「フロント・ページ」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.130   


1928年ニ「ブロードウエイで上演された戯曲を、1974年にビリー・ワイルダー監督が映画化したコメディです。

お馴染みジャック・レモンがシカゴの熾烈な新聞記者生活から足を洗って上司のウオルター・マッソーの制止を振り切ってスーザン・サランドンのピアニストと結婚するためにフィラデルフィアに発とうとした晩に、絞首刑に処せられようとしていた警官殺しの死刑囚を巡るドタバタ事件が発生。

世紀の特ダネを目の前にして記者本能に火がついたたレモンは婚約者をほっぽりだして大活躍。ついに堪忍袋の緒が切れたサランドンは怒り狂って独りで駅に向かいますが、結局物語は落ち着くべき所に収まる、という一幕物で、ワイルダーお得意の魔術的喜劇皿回しが冴えわたる。

まあ面白いといえば面白いのですが、そのトリックの仕込み方がこれでもか、これでもかとしつこすぎて嘘っぱちの度合いがエスカレートするので、少々辟易します。過ぎたるはなお及ばざるがごとし。

もっと自然なお笑い映画を作って欲しいのですがこれはちとないものねだりか。最後にサランドンがストコフスキーの甥を一緒になるという落ちの付け方には笑ってしまいましたが。

佳麗衆カレー週加齢臭鰈集華麗秀 蝶人

Tuesday, July 12, 2011

マイケル・ゴードン監督の「夜を楽しく」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.129

1959年のアメリカの喜劇PillowTalkをこう邦訳するとはおぬしなかなかできるな。辞書には寝物語あるいは性交後のうちとけた会話などとあるが、「夜を楽しく」とはねえ。そして実際に見ての感想も、そのタイトルから想像される領域をほとんどでることはないく、内容よりよっぽど気が効いている。

ヒロインにインテリアデザイナーのドリス・デイ、ヒーローに人気作曲家のロック・ハドソンだが、監督のマイケル・ゴードンがどうして揃いも揃った大根役者を起用したのか理解に苦しむ。いや起用したのはプロデューサーか。

映画は、はじめはけんか相手だった2人が実際に出会ってからぐんぐん惹かれていき、そこで思いがけない邪魔が入って一大事が起こり、ついに大恋愛も一巻の終わりかと思われたところで逆転満塁ホーマーというお決まりのプロットを辿ってなんなくPillowtalkへと潜り込むのだが、2人の最初のかかわり合いがなんと共同契約電話だというので驚く。50年代のニューヨークでもまだまだ個人加盟はそれほど普及せず、妊娠している人は優先されたというのである。

それで、ドリス・デイに見つからないように産婦人科に飛び込んだロック・ハドソンが、医者から世にも不思議な「妊娠した男性」扱いされるというお笑いにつながっていくプロットは、しかし語るに落ちてあんまり面白くもないね。ゴードンの演出もデイの衣装も冴えない。

人一人殺しちゃっても死刑にならぬ日本は素敵な法治国家 蝶人

Monday, July 11, 2011

ビーチャム指揮「英国音楽集CD6枚組」を聴いて


♪音楽千夜一夜 212

ロイヤルフィルの創始者にして英国音楽の泰斗トーマス・ビーチャム卿が指揮するデーリアスと聞いて胸が躍らぬクラシック愛好家はいないはずだが、聞いてびっくり期待とは裏腹にわが心には初夏のそよ風さえ吹かず、緑の蓮池にささなみひとつ立たなかったのは何故?

あんまり下らぬ賃労働に従事しすぎたためにロバの耳が山羊の耳へと退化してしまったのであろうか? あの名曲「丘を越えて遥かに」も「河の上の夏の夜」も、「春一番のカッコウを聴いて」、さらに「高い丘の歌」、「夜明け前の歌」、「日没の歌」を耳にしても乾き切った魂に一滴の甘露さえ注いではもらえない始末。

かろうじて彼の歌劇「村のロメオとジュリエット」でいささかLP時代の卿との久闊を叙すことができたやうな気もしたが、それとて夏の夜の夢かもしれぬ。仕方なくサー・ジョンとハレ管弦楽団の演奏で聴き直したら、そこにはビーチャムにない北国の男の旅情とロマンネスクが、レブンウスユキソウのような白い花を咲かせていましたよ。ビーチャムは、お国ものよりフランス音楽の方がいいのかもしれぬ。

駅近く線路の傍にカンナ咲き鎌倉の夏今年も来にけり 蝶人