照る日曇る日第446回
神を感知するためには出雲大社と伊勢神宮、伸びゆく内部空間を考察するためには円覚寺の舎利殿と三十三間堂、建築の自由形を見るためには三仏寺投入堂と西本願寺飛雲閣という塩梅に、現代の代表的な建築家である著者が6つの切り口で12の名建築を考察していくという今風のスマートな企画です。
古代から現在に至る長大な日本建築の流れを、著者は垂直の方向に伸びる「柱」とその柱を水平の方向に「架構」する2つのムーブメントの相関関係にあるととらえ、わが国の建築史は外国からの「圧力」、それに起因する「内乱」、それが結果する「受容」(もどき)、それが受肉化する「変形」(やつし)の4つのサイクルで回転運動を続けてきた、と著者は筆鋒鋭く説くのですが、さすが4半世紀にわたって現代思想に相亘りつつ建築の「構築する力」を信じて活躍してきた「世界のイソザキ」らしい総括といえるでしょう。
しかし建築家と香具師だけはその言説をうのみにしてはなりませぬ。いや、いくら口先三寸で立派なことをおっしゃしゃってもいっこうに構わないのですが、相撲取りの真価は土俵であり、将棋指しの真価が盤上の勝ち負けにあるがごとく、建築家の真価はその言葉や思想やお説教ではさらさらなくて、彼が構築した建築物そのものの価値にしかないのです。
私はこの人の頭があの有名な安藤忠雄なんかより百層倍も賢いことがすぐに分かったので、彼の難解な幾多の建築哲学書?を全部投げ捨てて巷に出て、その主要な作品をつらつら見て回ったものですが、例えば東京のお茶ノ水スクエアA館やらカザルスホール、ロサンゼルスまで足を延ばして見物した現代美術館にしても、彼の代表作として知られる水戸芸術館のアートタワーにしても、同じ作者の著作物から感じることのできる知的興奮と芸術的感動には程遠く、言行不一致のあまりの落差に呆然として慨嘆するほかなかったのは、まことに残念至極なことでした。
眼高手低とは名人にさえよく言われることですし、口で言うておることと全然無関係の製品が出来上がってくるのも、例えば安藤忠雄や黒川紀章などでは日常茶飯事で、その点でこの建築家を非難しているわけでは毛頭ありませんが、いったいどうすればこのように支離滅裂で頭の中でこねくり回したような不自然な建築を次々に大量生産できるのでしょうか?
GT-M、梅松院、松竹本社、サントリー美術館等の設計者であるテキトー建築屋、隈研吾氏と同様、私には、先行者の拙劣な模倣である以上の建築価値を到底見出すことができないのです。
見る前に飛ぶな褒めるな有名建築家の商品ども 蝶人
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