Monday, December 31, 2007

謹賀新年

謹賀新年

♪ある晴れた日に その19

こぞ今年生きてしあればそれでよし

元旦やわれよりもまず家族かな

在庫無く迎える朝に日が昇る

亡き父が釈迦の寝姿といいし山けふも静かに横たわるかな

なにごとのおわしますかはしらねども今年もなんとか生きていくよ

京大和の御節頂く寿福かな

本年もよろしくお願いいたします。

Sunday, December 30, 2007

さらば2007年 亡羊師走詩歌集

♪ある晴れた日に その18


満月やわれに二、三の憂いあり

土佐文旦優しき母の匂いなり

糞1個ひり出す午後の寒さかな

ベット・ミドラーのインタビュー アイアイアイと私が五月蝿い

イヴ・クラインの青切り裂くやF30

大空を2つに切り裂くF-4EJ

袈裟懸けに双子座より落つる流れ星

その縄跳びの輪にどうしても入っていけない自分がいる

沖縄スズメウリ繁茂す 沖縄独立せよ

グルダのヴェートーヴェンとモザールは良いがったく彼奴のジャズのどこがいいのだ

脳漿と精巣はどこかで繋がっているのであらうか

建長寺の若き僧侶の青頭

念仏は脱兎の如し若き僧

こもごもに短き詠歌となえつつ老婆が2人峠越えたり

一座建立一日一恕の幸せを君に

高窓の光のどけき冬の朝妻と並びて抜き手切りたり

当たりの悪き林檎買い来るごと障碍児生まれしかな

会者定離盛者必滅と鵺が鳴く

電車の中で彼女が生涯にわたって絶対見ないであろう部位をじっと見ている私

盲目の老人が独り住む家に今年もたわわに蜜柑つけたり

なにやらんこていな料亭ありしかど無残な更地になりにけるかも

秋晴れの丸一日を費やして描きし路線図を破り捨てたる息子

当たりの悪き林檎買い来るごと障碍児生まれしかな

百葉落ち死者に近しき夕べかな

戦友が放り投げたる赤ん坊をこう突き刺したんだとT氏語りき

あどけなき無言の挽歌うたいつつ小楢散るなり夕陽の丘に

窓際を流るる秋に呼びかけよ かのモルフォ蝶いずくにありやと

年毎に故人増えゆくアドレス帳

人生といふ棒を振ってしもうた男なり

朝な夕な新聞のページ薄くなりあと数日で年改まるか

来年も生きてしあればそれでよし

Saturday, December 29, 2007

空の空なる空はない

♪バガテルop32&鎌倉ちょっと不思議な物語94回

ひところの私の趣味はデジカメで毎日自分の顔と空の写真を撮ることだったが、最近は空を飛翔するものを撮影することに「固まって」きた。

飛翔するものならトンビでも烏でもスズメでもUFOでも何でもいいのだが、圧倒的に飛行機が多い。ジャンボやヘリやプロペラ機やいろいろな飛行機がだいたい5分か6分に1機くらいの頻度でいろいろな方向に飛び交っている。

部屋にいてどこかでブーンという音が聞こえると愛用のデジカメを持って道路や露台に飛び出して上空にキョロキョロ探し求め、ともかくその機影をとらえる。朝から晩までこれをやっているから夜中でもブーンという音が聞こえると目が覚める始末。まるでノーローゼである。

自宅の周囲はあまり空が広くないので、近所の神社や広場や空き地で空にレンズを向けているから、向う三軒両隣の人々はほとんど狂人扱いで、最近は朝晩の挨拶にも顔を背ける人が増えてきたような気が心なしかする。

それはともかく自宅の上空を、毎日毎日これほど頻繁にこれほど多くの航空機が往していようとは夢にも思わなかった。先日横浜の栄区にある栄プールの上空で1機を撮影していたら、もう一機が近接遭遇したので思わずあっと叫んだくらいだ。

鎌倉は最近米軍の陸軍第一軍団前方司令部が進出してきたキャンプ座間にも、同じく米海軍空母の母港である横須賀にも、自衛隊の厚木基地にも近く、おまけに羽田や成田を発着する民間航空機の侵入離脱航路にも近いので、軍民合わせて飛来する頻度がこれほどの数になるのであろう。

幸い大和市や厚木市などのように上空すれすれに巨大な戦闘機が耳を聾せんばかりの轟音をあげながら接近することはないから助かっているものの、一日中鳥しか飛ばないのんびりした空、無人の空、旧約聖書の伝道の書にいう「空の空なる」空はもはや1瞬も存在しないことがはじめて分かった。
航空機に許された飛行範囲がきわめて限定的なものであることを考えれば、いまや大空も陸地並みの交通ラッシュ状態に近づいているといえそうだ。


♪大空を二つに切り裂くF-4EJ

Friday, December 28, 2007

五味文彦著「王の記憶」を読む

照る日曇る日第81回&鎌倉ちょっと不思議な物語93回


京都、奈良、鎌倉、平泉、博多、鳥羽、六波羅、宇治、鎌倉などの都市の形成や発展にまつわる記憶を、それぞれの王権の成立と対置しながら描き出す著者の会心作である。

鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉

という蕪村の句は、西行が出家を願うために鳥羽上皇のいる鳥羽へ急行する有様を詠んだとされるが、鳥羽の離宮は摂関家によって整えられた宇治と同様、都市の別業として造営され「院政期と武士を象徴する場」として記憶されていた、と著者はいう。

発展する京のリゾートとして位置づけられた鳥羽離宮の中心には宇治の平等院を模した大伽藍が造成され、西行など鳥羽殿の御所の武士たちは天皇や上皇に城南寺で流鏑馬を披露した。

後に鎌倉の鶴岡八幡宮の放生会に召されて流鏑馬の芸を伝えた信濃の武士諏訪大夫盛澄もそのひとりだった。盛澄は鎌倉幕府への帰属が遅れたことで囚人とされていたのだが、関東の武士に流鏑馬の芸を伝授したために頼朝の計らいで赦されて幕府に使えるようになったという。頼朝は鶴岡八幡で放生会を行なうためにそのイベントとしての流鏑馬を必要としたのだった。ところが有名な熊谷直実は流鏑馬の的立ての役を忌避して所領を没収されてしまった。

それはともかく後鳥羽の近臣である藤原清範を奉行にして流鏑馬を名目に畿内近国の軍兵を募ったところ1700人の兵が集まり、これが幕府打倒の挙兵へと繋がったという。このように鳥羽は院政期の王権が武士の存在を意識しつつ鴨川の水辺に造った都市であったと著者はいうのである。

またここで話を鎌倉に転じると、鎌倉幕府を開いた頼朝の父義朝の拠点は現在の亀谷の寿福寺にあった。房総の上総の支援を受けた義朝は、水路六浦から私の家の隣を通って横小路を抜けて寿福寺に入った。これが鎌倉の東西を走る北部の交通路であり、南部には旧東海道があった。その途次の逗子の沼浜には義朝の御亭もあった。

また鎌倉にはかつて源頼義とその子義家によって由比ガ浜にもたらされた鶴岡八幡宮、甘縄神明宮、荏柄天満宮があり、この3箇所の宗教的拠点が中世都市鎌倉の宗廟を形成した。義朝の死後幕府を開いて鶴岡八幡宮を北側に転地した頼朝は、治承5年の正月元旦に八幡宮寺に詣でたが、これが後世の初詣のさきがけになった。

すなわち武家国家鎌倉はまず宗教都市として発展したのである。ちなみに由比ガ浜の海岸から北側を眺めた地形が鶴のようだったので「鶴岡」八幡と呼び、それに対して義朝の故地を「亀が谷」と呼ぶようになったという。

頼朝は父義朝を供養するために元暦元年に御所の南に勝長寿院を建てたあと、奥州藤原氏の菩提を慰霊するために平泉の二階堂を真似た永福寺(その名のようふくじは奈良の興福寺に因む)を造営し、妻の政子はその義朝ゆかりの地に寿福寺を立て、(いずれも福という字が使われていることに注意)、悲劇の三第将軍実朝の御願寺は、これも私の家の近くに聳え立っていた壮大な七堂伽藍大慈寺であった。(寿ではなく慈に力点が移行している点に注意)

このように鎌倉はますます宗教都市としての性格を強めていったが、関東長者の王権は脆弱なものであり、建久4年の「曽我兄弟の敵討ち事件」の真相は、頼朝に対する暗殺未遂であるという説もあり、実際に源家は北条氏をはじめとする御家人たちの一揆によって頼家も実朝も殺されてしまう。

鎌倉は王殺しの血塗られた記憶の地でもあると著者はいい、そのことは私の向う三件両隣で夜な夜な現れる血だらけの武者の亡霊たちが800年後も実証しているといえよう。


そして最後に、中世都市の3つの類型は、京都と博多と奈良であり、その類型は原理、基軸、性格の3つの構成要素で区分できると著者は要約している。

都市   原理    基軸   性格
京都   中央    ヒト   政治
博多   境界    モノ   港湾
奈良   異界    ココロ  宗教

これを図式化すると上記のようになる。例えば博多は列島の西に位置し、海の彼方の大陸との接点にあってモノが集まった。唐物と本朝のモノが交換される境界的な場に博多という都市は成立をみたのである。

では中世都市はすべてこれらの類型に収まってしまうのかといえば、そこまで画一的ではなく、同じ政治都市でもたとえば承久の乱以降の鎌倉ではおのずと異なる要素が編入されてくる、と述べながら、規模雄大な構想を持つ本書はあっけなく終わってしまうのである。

♪糞1個ひり出す午後の寒さかな 亡羊

Thursday, December 27, 2007

ジョン・アーヴィング著「また会う日まで」を読む

照る日曇る日 第80回

05年に出たジョン・アーヴィングの最新刊が本書である。上下2巻約2500枚の原稿は書くも書いたり、訳も訳したり、そして読むも読んだりの大長編である。それを簡単に要約すると、著者を思わせる少年がまだ見ぬ父に再会するまでのあれやこれやを例によって世界中を寄り道しながら半世紀にわたって旅する自伝的ビルダングスロマンというようなものであろうか。

しかし前半は刺青の話が延々と続くので消耗する。主人公の母も父もタトーをたしなみ、とりわけ母親は名だたる名人からも高く評価される腕前である。その刺青で客を取りながら自分を捨てて北欧へ行ってしまった主人公の父親を捜し求めるうらぶれた旅路が、これでもかこれでもかと描写される。

父親はオルガンの名手で教会の名オルガンを求めて放浪の旅を続けているがいたるところで女性とトラブルを起こしては追放されているらしいが、親子はついにめぐり合えないままで郷里に戻ってくる。

中盤は一転して主人公の故郷カナダのトロントにおける恐ろしく早熟な性体験と演劇クラブ活動などがアマルガムになった猥雑な小中高、そして大学までの奇妙な学校生活が執拗に描かれる。まことにシュトルムウントドランク、嵐のような青春時代である。

そしていよいよ後半は成人して俳優になった主人公がどういう風の吹き回しかオスカーを手中に収めて著名人となり、最後の最後に瞼の父と再会するのだが、このシーンはあらゆる予想と期待を上回る素晴らしさで、「さすがアービング!」と叫びたくなる。

気が狂う寸前まで本作と取り組んだ成果が、下巻第5部第39章に全面的に発揮され、540ページからそのクライマックッスが訪れる。どうか途中で投げ出さずにおしまいまで読んでください。

余談ながら主人公ときたら、「いつも」いろいろな女性に自分のペニスをつかまれながら、さまざまな映画を見ていたようだ。黒澤の「用心棒」で切られた片腕を銜えた犬が歩いているのを見た三船敏郎の怒った顔がかっこいいと述べているが、そのときだって美貌の女教師にそれをむんずとつかまれていて、「つい勃起してしまった」などと平気で書いているのだが、そんなことで真面目な映画鑑賞といえるのだろうか?
 
1985年のトロント映画祭では、なんと両サイドの美女から2本の手で陰茎をつかまれながら三島のドキュメンタリー映画「ミシマ」を見ていて、その映画館で「ゴダールのマリア」が上映されていると誤解した熱烈なカトリック信者からデモ隊の攻撃を受けているが、それくらいは当然のことだろう。喰らえ生卵!

ちょうどこの年のこの頃、私はパリのシャンゼリゼのたぶんバルザック座で同じ「ゴダールのマリア」を見ていたはずだが、いくら左右を見回してもちょっとでもペニスを触ってくれそうな女性はただのひとりもいなかったことを寂しく思い出したことだった。

♪イヴ・クラインの青切り裂くF30 亡羊

Wednesday, December 26, 2007

ある丹波の女性の物語 第38回 夫と父

遥かな昔、遠い所で第60回

 父と一人娘と養子、というだけでも仲々むずかしい人間関係であるのに、継母との関係もあり、父の積極的な性格に、養子タイプのおとなしい夫の性格は相反して、却って相性がいいのではと、私は思ったのであるが、綾部での同居の生活が始まってからは、それぞれに言い分があり、私にはそれぞれの立場が理解出来るだけに、むずかしい立場に立たされる事が多かった。

 丁度その時私は居合わせなかったので、直接の原因は分らなかったが、一寸したはづみで、夫はもう限界だからこの家を出て行きたいと、父に言う事件が起きた。夫は抑えに抑えて来た思いを抑えきれず、父に投げつけたのである。

 いずれそういう事もあろうかと思っていた私は覚悟はしていたので、父に「長い間お世話になりました。私も夫に従ってこの家を出させていただきます」と言った。
父はただオロオロするばかりであったが、平伏して、「ワシが悪かった。謝る。どうぞ出て行かんでくれ」と夫に詫びた。

その後も、夫は何度か口惜しい思いをしたであろうし、父も我慢出来ぬ我慢をしてくれたであろうが、そうした事は二度と起こらなかった。
 程なく、父は履物店の経営には全く口を出さず、経済的にも干渉しなかった。
 父は甥達2人と京都でネクタイの事業を再開したのである。


秋たけて ほととぎす花 ひらきそめ
 もみじ散りしく 庭のかたえに 愛子

弘安さん納骨の日
なき人を 惜しむように 秋時雨 愛子

Tuesday, December 25, 2007

ある丹波の女性の物語 第37回 大阪

遥かな昔、遠い所で第59回

 9月22日に次男が生まれた。産湯を使うと、一番大きい盥にいっぱいになるような大きな子であった。

 その後、商店街は次々店が開き、戦前の体裁がととのうようになった。
 我が家も夫の就職口もなく、店を再開しょうと私は父と大阪へ仕入れに行った。梅田の駅を降り、堺筋から難波まで市電に乗ったが、途中只1軒、山中大仏道という仏具屋の真新しい、大きな建物が目立つだけで、北から南まで一面の焼野原であった。
父がこの土地を今買っておきたいものだ、といったのを、大阪へ行くたびに思い出し今昔の感にたえぬ。

 一応商品が揃うようになってからと思ったので、他の業者より一歩おくれたけれど、履物店を再開した。おかげで、昔からの信用もあり、女の子1人をおいたけれど、花緒をたてるのが間に合わず、外へ出して頼む程よく売れるようになった。

 23年7月には長女が生まれた。父の思い通り、眞善美の3人が揃ったわけである。
 継母は相変わらず床に就く事が多かったが、夫は健康を取り戻し、店の仕事にも次第に慣れては来たが、初めての経験なので、父を頼りにし、自然父と娘が店の主流になる事が多かった。

露地裏に 幼子の声 ひびきいて
 心はずむよ おとろうる身も 愛子

戸をくれば きんもくせいの ふと匂ふ
 目には見えねど 梢に咲けるか 愛子

Monday, December 24, 2007

鈴木清順監督の家

鎌倉ちょっと不思議な物語91回

クリスマスイブイブの夜に義母と話していたら、彼女たちが昔住んでいた長谷の家は、映画監督の鈴木清順氏の旧宅だったというので驚いた。

そこは吉屋信子氏の斜め前にあって、私もある夏の日に一度だけ訪ねたことがあったが、いまは取り壊されてしまった。なんでも玄関までのアプローチが長く、前庭の左側に丈の高い竹が欝蒼と茂っており、蓋をした井戸があったような気がする。

義母の話では外側はおんぼろだが内部は広く、立派な茶室や映画の機材やフィルムの現像室など数多くの部屋があったそうだ。また鈴木監督が引っ越したばかりで郵便ポストには誰かからのラブレターが入っていたそうだが、どこに届けていいか分からないので結局行方不明になってしまったという。

後年あの傑作「ツイゴイネルワイゼン」でベルリン国際映画祭特別審査員賞に輝いた鈴木監督は、当時おそらく日活から解雇され仕事がなくなりつつあった時期だから、生活費に困って鎌倉の寓居を手放してしまったのだろう。

夜になると鼠が天井裏を走り回り、なんだか怪談じみた不気味な雰囲気をかもし出したというが、確かに真夏の昼なのに、長い廊下や納戸のあたりに暗き闇と中世鎌倉の地霊が棲みついていたような気がする。

鈴木監督の代表作には釈迦堂切通しや小町通りの奥にあるミルクホールなど鎌倉ゆかりの旧跡や隠れ家が登場するが、私は確か「ツイゴイネルワイゼン」で大楠道代が潜んでいた水の底のイメージは、この長谷の閉じられた秘密の井戸にあったのではないかと想像を逞しくしてしまった。

いずれにせよ監督の鎌倉滞在は彼の芸術に決定的な影響を与えたのである。

ところで私自身もこの海岸から遠からぬこの古びた家とその住人に大きな感銘を受け、その翌日生まれて初めてひとつの短歌を詠んだ。

♪鎌倉の海のほとりに庵ありて涼しき風のひがな吹きたり

当時私は神田鎌倉河岸のほとりにある小さな会社に勤務していたが、消費者から受けた苦情に対する謝罪文などを、「どうかご海容下さいませ」などと気どって書いて、それを総務のタイピストをしていた年配の小柄な女性に渡すと、彼女は「へええ、あんた若いのに海容なんて言葉をよく知ってるわねえ」と褒めてくれるのだった。

そこで歌が出来た翌日、早速彼女に私のそのつたない短歌を披露すると、彼女はしばらく考えてから「へえー、生まれて初めての歌にしては悪くないわね。でも最後の「たり」を「おり」にするともっといいわよ」という助言を受けた。

若く傲慢不遜だった私は、「いや、やっぱり「たり」がいいです」と言ってその場を立ち去った。それから間もなく、私はこの不可思議な趣のある旧家に住んでいた若い女性縁あって結ばれたが、その年配の小柄な女性が、俳人として知られる井戸みづえさんであることを知ったのはずいぶん後になってからのことだった。

Sunday, December 23, 2007

日曜日が待ち遠しい

鎌倉ちょっと不思議な物語91回

毎年恒例の市の健康診断を受けた後、横須賀線の鎌倉駅の裏駅のそばを自転車で走っていたら、線路際の料亭『吉兆』が営業を終了していた。この日本料理の店は私の近所の人が経営していて、一時はマスコミにも大きく取り上げられ、クロワッサンなどの雑誌を硬く握り締めたおばさん集団が門前市をなして詰め掛けていたが、好事魔多しでなにかまずいことがあったのだろう、広大な自宅もいつの間にか取り壊されていた。

そのほか鎌倉ではT工務店が倒産して一家が夜逃げしたという噂だし、日本経済の再びの地盤沈下と小泉格差政策の荒波をかぶってあちこちでよからぬ事件が起こっている。物言えば唇寒き師走である。

踏切を越えて小町に入ると、「Vivement dimanche!」なる喫茶店がある。最近世間ではこの「きっちゃてん」という立派な日本語をリストラして、得体の知れないカフェーという呼称に全面的に切り替えようとしているが、「Vivement dimanche!」というおふらんす語をつけていはいても、実態は普通の喫茶店である。店主がトリュフォーの大ファンらしく、店の外装や内装もカラフルで、とりわけ奇妙な看板が印象的である。

Vivement dimanche!というのはフランソワ・トリュフォーというフランスの映画監督の作品のタイトルである。邦題では『日曜日が待ち遠しい!』とネーミングされたこの作品は、前作の『隣の女』に続いて、彼の短い晩年の最後の恋人であったファニー・アルダンが主演し、共演がジャン・トランティニヤン、音楽はお馴染みジョルジュ・ドリリューのコンビによる小粋なサスペンスコメディであるが、何度鑑賞しても白鳥の歌とも思えぬその軽やかな疾走感が、残された私たちをかえって悲しませる。

当時トリュフォーはすでに不治の病に冒されており、翌1984年10月21日の日曜日に亡くなってしまうので、『日曜日が待ち遠しい!』は彼の遺作になってしまった。
私はちょうどその頃、彼を起用してテレビコマーシャルを製作しようと考え、すでにその了承ももらっていただけにこの突然の訃報はショックだった。

しかし幸い同じヌーヴェルヴァーグの監督ジャンリュック・ゴダールが、死せるトリュフォーに代わって私の「世界の映画監督シリーズ!」第1回の企画を救済し、2本のCMを作ってくれたことは大きなよろこびだった。1968年のカンヌ国際映画祭がきっかけで決別したこの2人の間を私が製作したCMがつないだことを思うと、その世にも不思議な奇縁に我ながら驚く次第である。

しかし思えばトリュフォーは、ジャン・ルノワール、オーソン・ウエルズ、ヒッチコックの剄い系譜を受け継ぐアレグロ・アッサイの演出家であった。餘りにも生き急いだ彼は、そのイストワールの余情や余韻をあえてかなぐり捨てて非情とも言うべき乾いた猛烈な速度で進行し、逆にかえってそのことが、観客に対して無上のリリシズムとあえかに夢見られた彼岸への憧憬をもたらしたのである。

Saturday, December 22, 2007

ある丹波の女性の物語 第36回 ズンドコ節

遥かな昔、遠い所で第58回


 そんな暮らしが2、3年も続いた。追々ヤミ商品が街に沢山並ぶようになり、古着も店につるされて売買されるようになった。お金さえあれば、何でも買えるようになったが、貯金は封鎖され新円に切り替えになった。

教会の礼拝に行っている留守の間に、その新円を泥棒にすっかり取られてしまい、当座とても困った。親戚から折角送って来た虎屋の羊羹も、ついでに持って行かれ、甘党の父はすっかりしょげてしまった。

 戦後の開放感が拡がっていった終戦後はじめての21年のお盆には、誰が始めたのか大通りに自然に盆踊りの輪が出来た。それが次第に当時はやりの「ズンドコ節」に変って行ったのである。タンスにしまいこんであった浴衣姿の若者、おじいちゃん、おばあちゃんまで加わり踊りは一晩中続いた。

 何かが爆発したような異常な興奮の渦が街中に広がって行った。その後も毎年盆踊りは続けられたが、ズンドコ節のあの激しさはもう無かった。
 
久々に 野辺を歩めば 生き生きと
野菊の花が 吾(あ)を迎うるよ  愛子

うめもどき たねまきてより いくとしか
 枝もたわわに 赤き実つけぬ  愛子

Friday, December 21, 2007

ある丹波の女性の物語 第35回 虚弱体質

遥かな昔、遠い所で第57回

 早々に復員が始まり、内地に配属されていた近所の人達も帰って来た。
暫くしてガダルカナルで戦死した番頭の兼さんの遺骨も帰って来た。父が引き取りに行き、夜おそく提灯をつけて兼さんの自宅に遺骨は帰った。

出征時おなかにいた末の子は、白木の箱を持ち先頭に立っていた私の父を見て、「お父ちゃん、お父ちゃん」と喜び、みんなの涙をさそった。真夏の事で供える花もないままに、私の庭の秋海棠の花を手折って供えた。秋海棠は、そんな想い出と共に悲しい花となった。

 うちでは夫には召集もなく、みんな揃って終戦を迎える事が出来たが、遠慮のない父は、「うちの輸入品は弱虫ばかりで困る」と、母や夫のことをなげいた。言われる当人達はそれ以上に、この上なく辛い事であったろうが、二人とも呼吸器が弱く、とても労働の出来る身体ではなかった。

私達も頑強ではなかったが、力を合わせて野菜作りにはげんだ。豆の季節には、豆の中にお米がまじっているような御飯、夏ならお芋や南瓜であった。戸棚にごろごろしている南瓜を見ると力強かったし、土間に拡げられたじゃが芋、さつまいもを見ると、心がゆたかになるような気がした。

 父は昔の知り合いを訪ねて、商品の残り物を食品に換えて来てくれたり、以前のお手伝いさんは、私の派手な着物類は農家の娘さん用に喜ばれると、お米と交換してくれたりした。 

水ひきの花枯れ 虫の音もさみし
 ふじばかま咲き 秋深まりぬ 愛子

ニトロ持ち ポカリスエット コーヒーあめ
 袋につめて 彼岸まゐりに 愛子

Thursday, December 20, 2007

より良い古典音楽演奏を求めて

♪音楽千夜一夜第30回

例えば下手な絵描きが描いた下手な絵が、3次元の絵画的空間ではなく、単なる絵の具の堆積として私たちの目に映ることがありますが、ジャンルは異なるとはいえそれとまったく同様な「展覧会の絵」現象がいま全国のコンサート会場で起こっているような気がします。

ではどうしてこういうことが起こるのでせうか?
部外者で素人の私にはよく分かりませんが、それは演奏家とりわけ指揮者の精神の内部に自分独自の音楽がないか、もしいくばくかのそれがあったとしても、それを楽員や聴衆に対して自信を持って的確に伝える能力が欠けているからではないのでせうか?

音楽の創造にとってもっとも重要なこと、どういう音楽を立ち上げ、それをどうやって外部に伝えるかということでせう。しかし現在の音楽教育や演奏の現場では、後者の音楽におけるHOWという機能を最優先するあまり、もっと重要なWHATの創造の課題がおきざりにされているのではないのでせうか。さうして苦労してせっかく手塩にかけて培養した幼く稚拙な創造の芽さえ効果的に周囲に伝達できないので、だからあれほどにつまらない演奏が日夜かくも膨大に流通しているのではないかと思うのです。

いろいろな努力と遍歴を重ねてはみたけれど、自己の音楽ヴィジョンをついに強固に確立できず、ただ楽員とのおためごかしの協調性と協奏のよろこびだけでその場しのぎの音楽をやろうとする指揮者たち(例えば小沢氏のウイーン国立オペラ就任記念演奏会におけるブルックナー9番の演奏やロストロポーヴィッチ氏との最後の「ドンキホーテ」のリハーサルにおけるテンポの設定不指示をカール・ライスター氏に指摘されても反省しない没主体的な指導性)が年々粗製乱造され、その成り行き次第のダルな演奏態度によって現代の再現芸術のレベルを日々劣化させているのではないでせうか?

この致命的な機能不全を解消する秘策はありませぬ。というのは音楽におけるWHATの創造は、音楽以外の暗黙知と広範な人生体験から生まれてくるからです。ひとりの人間としてより深く、より良く生きようとする不断の努力と研鑽からしか良き音楽家は生まれないと私は信じています。

いくら朝から晩までヤマハが買収したベーゼンドルファーを弾きまくっていても、あるいは神仏に祈って7度生まれ変わっても、所詮漢(おとこ)バックハウスにはなれないし、天才コルトーやリパッティには逆立ちしたってなれませぬ。けれどもたとえ永平寺で100年修行を積んだからと言っていい音楽家になれるとは限らないのです。

それではすべてお手上げかというとそうでもなくて、私たちは偉大な先人の音楽文化伝承の技術を丁寧に学ぶことによっていくらかはWHATからHOWへとつながるこの問題をキャッチアップできるはずです。

なぜなら演奏のエッセンスは、楽譜の解釈にあり、楽譜の解釈は楽譜の物語化、象徴化にあり、指揮者の仕事はこの独自な物語とシンボルの立ち上げと効果的な移植にあると考えられるからです。
指揮者(演奏家)は己の脳中と胸中に浮かんだ抽象的なWHATを、あれやこれやの具体的な指示へと置き換えなければなりませぬ。

いつか斉藤秀雄氏の弟子の飯森泰次郎氏が、死せる師匠の指揮法についてピアノを演奏しながら具体的に語っておりました。それは「タンホイザー序曲」の冒頭のシーンでありましたが、「ここは疲労困憊したローマの巡礼たちの思い足取り、ここは彼らにようやく希望の光が見えたかすかなよろこびの瞬間」というふうに、斉藤氏はまるで平家物語の語り部さながらに一小節ずつ弾き振りの指導を行なったといふのです。(ここでセルの演奏を参照してください)

また今は亡き朝比奈氏は、ベートーヴェンの第7交響曲の練習で、「ここは縦の線は無視してください。音は汚くても構わないから歌って、歌って、歌ってください」とまるでトスカニーニのように大フィルを叱咤しておりました。(なんというアバウト小氏との違いでありましょうか!)

さらにはクライバーやチエリビダッケやムラビンスキーやミュンシュやクーセヴィツスキーのリハーサルをご覧あれ。すべてがこの物語化と象徴化による音楽の結晶化作業の連続です。

さうして彼らが楽員に強烈に彼らの物語を解説し、象徴化へいざない、あるいは反抗する楽員を説得し、折伏する指導的言語と、その教育的指導を受けたあとの楽員による演奏は、その前後であきらかに顕著な違いがあるのです。音楽的境地の瞬間ごとの生成進化があるのです。

こうした音楽の物語化は演奏芸術における象徴化作業にきわめて忠実な手法であり、いまでもけっして古びてはいないし、教育的有効性を失ってはいないはずです。

最後に私は、楽譜と音楽は不即不離の関係にこそあっても、楽譜そのものは実は音楽演奏とも、ノイエザハリッヒカイトなんちゅう客体的な楽譜解釈による客観的な?演奏とも、さらには思い切って音楽の本質とも原理的には無関係ではないかと思うのです。

世間で信じているやうに、楽器の演奏ができることと、演奏された音楽の本質が理解されていることとはまるで関係がないので、かのジャン・クリストフではありませぬが、プロより頑是無い子供の素人のほうが演奏されたその音楽の本質を直観していることが多いように思われます。


盲目の老人が独り住む家に今年もたわわに蜜柑つけたり 亡羊

Wednesday, December 19, 2007

徳富蘇峰著「終戦後日記Ⅳ」を読む

照る日曇る日 第79回


徳富蘇峰は1863年熊本生まれで福沢の慶応を嫌って京都に出て新島襄の同志社に学び、1887年に民友社を設立して「国民之友」「国民新聞」などの有力メデイアを発行しいわゆる平民主義を唱道した。
明治、大正、昭和の3代を生き延びた言論人にして政治家の彼は、戦時中は大日本文学報国会会長、大日本言論報国会会長をつとめ、その天皇中心主義を生涯にわたって貫いた。

いわば筋金入りの保守であるが、言論人兼政治家という点では最近の読売社主兼主筆兼3流暗躍政治家のナベツネ、あるいはその先々代の正力と同類項の言行一致型の策士である。不仲であった松方、大隈の両領収手を握らせ、念願の松隈内閣を誕生させた影の立役者こそ誰あろう国民新聞社主の蘇峰だった。

蘇峰のみならず明治の御世には、尾崎行雄、犬養毅、子規の恩人日本新聞の陸羯南をはじめ数多くの新聞記者や社主が政界に進出し、彼らの理想を実行に移そうとしていたのである。平成の御世に生きる一新聞社主が自民民主両政党の連合を企むことはそのアイデアがいかに虚妄であろうともそれをやってはいけないと誰もいうことはできない。しかし彼奴がワンワン吼えても歴史は勝手に動くだけの話だ。

さてその蘇峰が書き継いだ日記「頑蘇夢物語」の完結編「終戦後日記」が本書である。日記といっても当時蘇峰は巣鴨に収容こそされなかったが立派なA級戦犯であり、進駐軍によって監視されていたから外部には公開されないままについに今日に至ったいわくつきの日記である。

本書の前半で、著者はなぜ日本が過ぐる大戦に敗れたか執拗に自問し、自答している。蘇峰が挙げるのはまずは人物の欠乏で、上は恐れ多くも明治天皇と昭和天皇、下は桂と東條、海軍の東郷平八郎と山本五十六、陸軍の大山、児玉と山下、板垣などの人物の出来具合を月旦する。

次はルーズベルトやチャーチル、スターリン、蒋介石とわが帝国首脳のスケールの大小、さらにわが帝国の東亜民族指導の資格欠如、大和民族の先天的後天的欠陥、戦争の構想の欠落、満州から中華事変への暴走起点となった盧溝橋事件の処理方法に言及し、中国の真価を知らずに蔑視して突入した支那事変を「世界戦史上最愚劣の戦争」であったと決め付ける。

ユダヤ人と並びおよそ世界で最強の漢民族と事を構えたわが帝国の無謀と愚劣を痛罵してやまないのだが、ではかつての日清、日露と同様にわが帝国の命運を賭けた大東亜戦争を肯定し、全面的に加担し、積極的に応援したご本人の立場との整合性はいったいどうなるのだろう。

結局は自分ひとりが賢くて優秀で、自分以外の日本および日本人はすべて阿呆であったとでも言いたいのだろうか? しかも日本がこの史上最悪の戦争に突入したすべての原因は、鬼畜米英と悪辣非道なソ連の陰謀にあり、わが帝国の落ち度は皆無であると他方では断言するのだから何をかいわんや。己の過去の言動を正当化する不敵な物言いとしか思えない。もしこの人が存命ならば己と帝国の無謬に乗っかったまんまで次の戦争の準備をするだろう。

しかし後半の「百敗院泡沫頑蘇居士」と題する失敗に満ち満ちた半生の記は、伊藤、井上、松方、大隈、陸奥などとの交友や人物像、東武グループの総帥根津嘉一郎の陰謀によって手塩にかけた国民新聞を追われたいきさつなどを赤裸々に描いてじつに興味深い。

また本書の執筆当時に急激に進行しつつあった米ソ冷戦の初期の動向の観察の鋭さ、その後の世界予測の正確さは、94年の生涯をしたたかに生き抜いた硬骨漢の真骨頂をものの見事に表現しているようだ。


♪ベット・ミドラーのインタビュー アイアイアイと私が五月蝿い 

♪高窓の光のどけき冬の朝妻と並んで抜き手切りたり

Tuesday, December 18, 2007

NHKは大好きなのですが、N響が

♪音楽千夜一夜第29回

先日の「第9」公演では、近くに座った中年男が演奏中にさかんに巨大な望遠レンズをつけたキャメラで舞台を撮影していました。鎌倉の芸術観ではよく頑是無い赤子を泣かす若い母親がいたり、いびきを立てて爆睡するリーマンがいたりしますが、東京では演奏中に携帯で会話する聴衆が後をたたず、マーラーの9番の消えゆく余韻を会場のみんながかみ締めようとした瞬間、突然狂ったようなウラアの蛮声を浴びせかける体育会系男が出没するのみならず、最近は客同士が乱闘したり演奏中に交尾するカプルまで出現したという話を聞くので、私は極力演奏現場から遠ざかってクラシックの演奏を録音や録画を楽しむことが多いのです。

前にも書いたように「NHK大好き人間」の私は、当然NHK交響楽団の演奏を視聴する機会が多いのですが、それにしても昔ながらに相変わらずなんと退屈でつまらない演奏が延々と続いていることでせう。

ケント・ナガノとか準メルクルなぞの日系の若者についてはこれまでは多少応援しながら聞いておりましたが、浦和の闘莉王の素晴らしい仕事ぶりに比べたらまるで月とスッポン、比較の対象ですらなく、さんざん聞いた私が馬鹿だった。もうとうに彼らの将来はあきらめております。

以前の首席のシャルル・デユトワさんも、首になったモントリオールのオケとデッカに入れたフランス音楽の光彩陸離の演奏があまりにも素晴らしかったので大いに期待していたのですが、音響最悪巨砲ホールでのあまりにも空虚な演奏は(最初と最後とその中間の元妻との競演を除いて)いちじるしく精彩を欠き、その跡を継いだアッシュケナダ氏は、力余ってルイ14世の宮廷楽長リュリのように指揮棒で右手を刺し貫いたときには、これからどう大器晩成してくれるかと一抹の不安とともにこれまた大きな期待を小さなこの胸に懐いた次第ですが、やはりその不安が現実のものとなり、哀れ安部首相ともどもシドニー響に転出となった模様です。

彼はバレンボイムと違って指揮よりピアノがやはり本領だったようですね。いっそプレトニコフかロジャー・ノリントンを招くという手もあるかと思ったのですが、アシュケにこりた当局はもはや首席をおかないことにしたようです。

ロバの耳を持つ私には、スクロバチエフスキー(読響にいった)もプレビンもマリナーもつまらなかったし、多少ともましなのはでぶでぶネルロー・サンティさんくらいでせうか。

それにしても近年N響に客演する多くの指揮者たちによる演奏を聞いて感じられることは、彼らの多くが、音楽ではなくて音符を精密機械のように音響工学的に、オートクチュールではなくてプレタポルテ風に、四輪の運転マニュアルのように安直に演奏しているように感ぜられることです。

それは確かに楽譜どおりの演奏なのでせう。しかしながら私個人にとっては音楽的感興に打ち震える瞬間なぞは微塵もないのがとても残念です。だから愛する超ローカルオケ鎌響にせっせと通っているのです。
蓼食う虫も好きずきとはいえ、高いお金を払いながらあの紅白歌合戦ホールに毎月通い続ける定期会員の方々の心根が、私にはてんで理解できまへん。


♪その縄跳びの輪にどうしても入っていけない自分がいる 亡羊

Monday, December 17, 2007

下手な小説のような松木武彦著「列島創世記」を読む。

照る日曇る日 第78回

石器時代から縄文、弥生、そして古墳時代に入るまでの、のちに日本列島と呼ばれることになる地域の歴史物語が、本書である。

あえて物語と書いたのは、この本が単なる石器や土器やらの物理的資料本位の考古学&歴史学概説にとどまることなく、「ヒューマン・サイエンス」とかいう現在欧米の人類学、経済学、歴史学などで大流行の最新型の学説を援用して、この父祖未生以前の時代の来歴について大胆な推理と解釈を施しているからである。

旧態依然とした考古学の分野に、人工物や行動や社会の本質を「心の科学」(認知考古学)によって見極め、その変化のメカニズムを真に迫って描き出そうという若き学徒の言うやよし。さいかしいざ読んでみると、「人間みな人類、我々はみなホモ・サピエンスの末裔であるからして、その心性は15万年間にわたって普遍的である」、と暗に仮定し、「新人も現代人もさぞや同じ知性と感性の働きをするに違いない」、という証明不能の粗放な科学的立場から、大昔の人々の生活と意見をさながら小説のように奔放に語るので迷惑する。
どだい嘘か真か誰にも分からぬ話を、その道の専門家から、いかにも本当でござい、としかつめらしくしゃべられても、こちとらは「ははあ、さようでございますか」、と黙って拝聴するほかないのである。
具体的には、著者は縄文や弥生の時代ごと、地域ごとに「物質文化」の変化の波が現れ、それは土器の過度の修飾などの人工物に「凝り」が盛り込まれる方向性に現れ、その方向性を読み取ると当時個人と集団のどちらのアイデンティティをより強く表現していたかが科学的に解明できる、とかなんとか講釈するのだが、私のみるところではそれこそ跡付けの見てきたような思い付きと主観的な思い込みと想像と予断の積み重ねに過ぎない。せめてそれぞれの講釈の根拠となった資料や引用箇所を網野氏のようにちゃんとそのつど表示してもらいたいものだ。

しかし梅原猛や網野善彦や岡本太郎や和辻哲郎などの思い付きと主観的な思い込みと想像と予断を笑って許せた私だが、著者のそれにはなかなか素直にうなずけなかったのはどちらの人(にん)の出来の所為だらうか。

ただひとつ確かなこと。それは著者もいうように、列島には約4万年前から1500年前までの間に列島が寒冷化していく時期が2回あり、(①第一寒冷化期=後期旧石器後半の約2万年前まで、②第一温暖化期=後期旧石器後半から縄文前期、約2万年前から7千、6千年前まで、③第2寒冷化期=縄文前期から晩期、7千、6千年前から2800、2700年前まで、④第2温暖化期=弥生前半2800、2700年前から紀元前後まで、⑤第三寒冷化期=弥生後半から古墳時代を経て奈良時代後半の紀元前後から後8世紀末ごろまで)この気候変動こそが、現代と同様、列島史を動かした最大の要因であるということだ。


♪脳漿と精巣はどこかで繋がっているのであらうか

Sunday, December 16, 2007

♪日本語で歌う「第9」演奏会を聴く

♪音楽千夜一夜第29回

最近ドイツの長老指揮者ハンス・マルチン・シュナイトを音楽監督に迎え、人気、実力とも赤丸上昇中のオケなのでとても期待していたのだが、結果は見るも、じゃなくて聴くも無残なものだった。

冒頭の「エグモント序曲」で最初の野太い音が出たとき、「ああ、さすがはプロだ。いつもの鎌響とはさすがに違う骨のある音作りだなあ」、と感嘆したのだが、うれしい驚きはそこまでだった。
あとはまるで中学校のブラバン(中学生とブラスバンドには大変申し訳ないのですがものの譬えなのでご勘弁を)のように健康的で、陽気で、元気で、単細胞な音楽が延々と続けられたのだった。

その演奏は精緻なダイナミクスの計算がなく、音色の繊細さや音楽の光と影の交錯に乏しく、それでいて正確無比で、細部が異常なまでに磨きぬかれ、私が評価しない、あるいはできない小沢やサバリッツシュやブロムシュテットやオーマンディやムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団の音楽作りに似ている。

例えば第9のもっとも美しい第3楽章では、なんの叙情も音色の自己耽美もなく音は国道1号線を疾駆するダンプカーのように走りすぎ、最終楽章のはじめのところで、チェロとコントラバスがひそやかに歌い始めた美しい「歓喜の歌」のメロディが2丁のバスーンなどによって同伴される箇所などは、凡庸な指揮者の演奏でも思わず息を呑まずにはいられない霊妙な音楽的佳境の瞬間であるはずなのに、彼ら演奏者は格別の思い入れもなく、淡々と通過してしまう。

それに続くバリトンの第1声がドイツ語ではなく、「わが友よ、歌うならもっと快い歌を歌おう!」という翻訳のゆるい日本語であったのには驚いたが、演奏自体はもはや私にとってなんの感動も伴わず、知性の陰りや理性のひらめきはおろか、ひとかけらの霊感すら天上から降臨しないまま、能天気な音符たちが1時間以上もえっちらおらっち眼前を軍隊行進していき、気がつけばすべてが終わってしまっていたのだった。

最初の「エグモント序曲」で野太い音が出たと書いたが、この音は20年以上も前に愛聴した新星日響の音だと演奏中に気がつき、あとで現田茂夫という指揮者の経歴を調べたらはしなくもこのオケの出身者であった。

あのころの新星日響はコンサートマスターをウイーンフィルのヘッツエルのように不慮の事故で失い、その悲しみを消去しようと毎回それこそ松脂から炎の出るような全都随一の激烈で悲愴な音楽をやっていたが、あれから四半世紀を経ていまや中堅の域に達したこの指揮者になんら進歩の形跡がないことに気づいた私は、「にんげんそう簡単に変わるもんじゃあないぞ」の思いを新たにしたことだった。

私は音楽の生命が光り輝く精霊の森に分け入りたかったのに、案内されたのは鳥も花も死んだ冷たい化石の森だった。嗚呼、冷感症の自称音楽家たちによってずたずたに傷つけられたベートーベンの名曲よ! こんな演奏は悪魔にでも食われてしまえ!と(私だけは)心の中で呪ったことであったよ。

老婆心ながらこれからベートーベンを演奏しようと思う若い人は、間違っても小沢など斉藤秀雄ゆかりの教師につかず、古い図書館の地下室に眠っているロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」を開いてほしい。そしてそのなかで、主人公の少年が生まれて初めて彼の交響曲のライブを耳にした瞬間に彼の魂を震撼させた音楽の圧倒的な素晴らしさ、また音楽が人生を変えることの恐ろしさ、その無上の快楽と毒性について知ってから指揮棒(楽器)を手にしてもらいたいものである。

指揮 現田茂夫 演奏 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
独唱
ソプラノ 亀田真由美
アルト 稲本まき子
テノール 小林彰英
バリトン 末吉利行
合唱 日本語で歌う「第9」2007合唱団
会場 鎌倉芸術館


♪グルダのヴェートーヴェンとモザールは良いがったく彼奴のジャズのどこがいいのだ

Saturday, December 15, 2007

坂口弘著「常しへの道」を読む

照る日曇る日 第77回

1972年2月19日のあさま山荘事件で警察官2名、民間人1名が射殺され、同年3月に群馬県の山林で12人、千葉県で2人のリンチ殺人が行なわれた。そしてこのすべての事件に直接かかわっていた坂口弘の2番目の歌集が、この「常しへの道」である。
その題名は、旧約聖書詩篇49章9節の「魂を購う価は高く、とこしえに、払い終えることはない」によっている。

坂口は、たしかにリンチに加担した。

途方もなきわれらの事件よ
主導者の独りよがりも
桁外れなりき

年雨量の三分の一が降れる日よ
銃撃ちまくれる
かの日思えり

腫れ上がる顔面といふより
膨れ上がる顔面といふべし
リンチの凄惨

坂口は、とても生真面目な性格の持ち主である。

新左翼運動を誰一人として
総括をせぬ
不思議なる国

人の為ししことにて
解けぬ謎なしと
信じて事件の解明をする

指導部の一員なれば
その罪を
組織に代わり負うべきと知る

坂口は、日々死におびえる死刑囚である。

おそらくは
妻子と離縁をせしならむ
苗字を変へて執行されたり

執行のありしこと知り
下痢をしぬ
くそ垂れ流し曳かるるはこれか

望みなき
わが人生の終点に
転車台のごときものはあらぬか

坂口には、愛する家族がある。

明日もしお迎えあれば
今際なる父の食みしごと
林檎食みたし

これが最後
これが最後と思ひつつ
面会の母は八十五になる

また坂口は、啄木を愛する詩人である。

気配せる
闇の外の面に目を凝らせば
ああ落蝉の羽撃きなり

屋上へ運動に行かむ
梅雨なれば
綾瀬川の水匂ひもすらむ

知らぬまに花茎を伸ばし
ふいに立つ
死神のごと彼岸花咲く

しかし坂口には、まだいうべきことがある。

かの武闘を
論外なりと言われしが
核心を衝く批判はされざりき

坂口の
死刑執行がまだされずと
不満を佐々氏が述べてゐるなり

死刑ゆえに
澄める心になるという
そこまでせねば澄めぬか人は

悪党といふ他はなき男はや
絞首刑されよ
とまでは言はずも

そして坂口は、昔のわたしに少し似ている。

演説のできぬ
左翼にありしかど
焚き付くるほどの怒りもなかりき



♪一日一恕の幸せを君に 亡羊

Friday, December 14, 2007

ある丹波の女性の物語 第34回 敗戦

遥かな昔、遠い所で第56回

 8月15日正午の終戦の放送は、ほんとにホットして開放されたという思いがした。
 灯火管制がなくなり、明るい電灯の下で、晴れがましいような思いで夕食を食べた。
 その記憶はこの間のように、ハッキリ思い出す事が出来るのに、その前後の事は、突然フイルムが切れて、何コマかがとんでしまったように思い出す事が出来ない。

 東京で一人で病んでいた夫を、父が迎えに行った事、大阪への転勤が決まり一時、東京の荷物を京都まで運び、その後綾部へ戻した事等が、どんな順序で、いつ行われたのか、どうしても思い出す事が出来ないのは、どうした事なのだろう。

 無我夢中の言葉をそのままに、とにかく長男を加えて、父、継母、夫、私の5人の、今までとは全然ちがった生活が始まったのである。

 そして食糧難時代もいよいよ本番を迎えた。食糧の配給はおくれながらも続けられたが、バケツ一杯の砂糖であったり、とうもろこし粉であったり、今までの主食の観念をまるきりかえてしまうような事もあった。

 それでも戦争に負けたのに、何の危害も加えられず、いままでの敵国から食糧が配給され、無事に日常生活が出来た事を、だれもが一応は感謝していた。

♪拡がれる しだの葉かげに ひそと咲く
 花を見つけぬ 紫つゆくさ


♪拡がれる しだの葉かげに 見出しぬ
 ひそやかに咲く むらさきつゆくさ

Thursday, December 13, 2007

ある丹波の女性の物語 第33回 戦後、幼い子供達

遥かな昔、遠い所で第55回

 昭和19年に入るとあらゆる物が統制になり、店の営業は殆ど出来なくなってきた。これからは食べる事だけのために生きているという時代になったのである。

 綾部のような田舎でも灯火管制が行われ、町内会で防空壕を掘り、飛行機の燃料にと、男の人達の松根堀りの奉仕作業も始まった。

 20年に入ると都会の空襲は激しくなり、舞鶴の軍事施設も爆撃されて、綾部からも夜空に燃えさかる火の手が見られるようになった。

 私は毎晩、赤ん坊の長男をいつでも背負って逃げられるよう、枕元に衣類や負い紐を用意して寝たものである。

 貸していた畑を返してもらい、春にはじゃが芋を植えた。父と二人でじゃが芋の芽を切り分け、灰をつけるのであるが、何分馴れぬ事で、二百坪の畑の畝に適当に並べているうちに日が暮れてしまい、土をかぶせるのは又明朝という事にして帰った。

夕食もすみ、お風呂に薪をもやしていると戸をたたく音がする。畑の近くの人がわざわざ自転車で「芋は上に土をかぶさないと芽がでませんよ」と知らせにきて来れたのである。親切は嬉しかったが、父と大笑いした。


♪炎天の 暑さ待たるる 長き梅雨

♪弟と 思いしきみの 訃を知りぬ
 おとないくれし 日もまだあさきに

Wednesday, December 12, 2007

ソープオペラ

♪バガテルop31&♪音楽千夜一夜第28回

さてお立会い。水はちゃらちゃら御茶ノ水、粋な姐ちゃん立ちしょんべん……
では皆さん、ここで小粋な住宅について考えてみると、縄文時代の早期はほとんど円形または楕円で、後期になると四角、弥生時代には竪穴から平床で西部では床が付きはじめる。んで、わが国に大きな影響を与えた大陸文化には床つきの住宅はなく、床は稲作と結びついて南方から入ってきた。平安初期までのお寺は土間に仏を祭っていた。しかし弥生中期に日本に渡来し国家統一を行なった北方系の……。

♪たりり、たら、たらん。
  頭の中で鈴が鳴る。

毎日毎日くだらない事件ばかりが続く。もういい加減にしてくれええ……

いきなり洪水のような下痢が一晩中続いたり、家族がそれに感染したり、でも面白くもない毎日を面白う住みなすことが人生だったりする、と高杉氏も遺言していたりするし、「たり」は繰り返して使います、とアホバカウインドウズが狂ったように警告したりするので、アホバカとは何ぞやとつらつら考えてみたりすると、馬を呼んでは鹿と呼んだり、鹿を呼んでは馬というたりすることらしいから、いよいよおいらはバガテル人間だあ。

ところで最近巷で極左冒険主義新聞という噂の某夕陽新聞を読んでいたりしたら、フィンランドでは通行証のことを「クルクルパ」というたり、あのルワンダでは唐辛子のことを「ウルセエンダ」と呼んだりするらしいので、おいらはフィガロの結婚の1幕だか2幕だかで誰かが「タスカリマシタ」と日本語で叫んだりしているのがいつまでも耳を離れなかった。

さて本日の結論
およそ現代のご立派な議論にあって、最後に誰かが「so what?」 と反問して一挙に崩壊しない程度にご立派な理屈は存在しない。

♪たりり、たら、たらん。
わが余生よ 安かれ!

so what?

Tuesday, December 11, 2007

ある丹波の女性の物語 第32回 継母

遥かな昔、遠い所で第54回

 私は翌年10月出産と分かり、夫を東京に残し綾部へ帰った。9月はじめと思う。

綾部へ帰れば食糧は何とでもなると安心していた私は、留守中の夫の為に、私の移動申告をしないで帰ってきたのであるが、帰る早々お米の配給がもらえぬと継母に非難され、ひどく困った辛い思い出がある。

なくなった母なら、古い馴染みを通して食糧の確保も容易であったろうが、来たての継母にはむずかしかったにちがいない。産み月せまった私にはどうしょうもなく、片身せまくみじめな思いをした。我が家でこんな思いをと情けなかった。

其の後、父も食糧係りとなり色々カバーしてくれたが、父をめぐる子と後妻との関係は、今まで経験した事のない感情だけに、そのむずかしさを日毎に痛感した。

 昭和19年10月16日、長男が誕生した。秋祭りの翌日早朝の事である。父の喜びはたとえようもなかった。私の3人の子供のうち一番華奢な体つきは胎内での食糧不足で致し方ないが、髪が長くて、女の子のような可愛らしい子であった。

 夫は交通事情も大変むづかしくなっていたのに、等々力で2人で作った大きい大根を土産に帰ってきてくれた。


♪くちなしの うつむき匂う そのさがを
 ゆかしと思ふ ともしと思ふ
                    (注「ともし」は面白いの意。)

♪おさな去り こころうつろに 夜も過ぎて
 くちなし匂う 朝を迎うる

Monday, December 10, 2007

ある丹波の女性の物語 第31回 本郷、青山、銀座

遥かな昔、遠い所で第53回

 日曜日には時々主人と共に本郷教会へ礼拝に出かけた。教会も階下は食糧倉庫になっており、礼拝を守る人数も少なくなっているので、会議室のような所で行われたが、安井てつ女史が黒紋付の羽織姿でいつも出席され、賛美歌の奏楽は大中寅二先生であった。

 昼食は牧師夫人が用意してくださる事もあり、青山5丁目の長兄宅に立ち寄りご馳走にもなった。長兄の家の隣に土屋文明先生のお宅があり、急に身近な人のように感じた。

 銀座へ廻る時もあったが、防空壕が出来るのか、舗道のところどころが掘り返されていた。綾部ではモンペ姿が通常であったが、道行く人は和服の着流しも多く、東京の人の方が余裕があるなとほっとしたが、レストランで出された大根葉のスープには驚いた。

 夫の長姉の夫は海軍主計中将であったので、お祝い事で水交社へ招かれた事がある。ここばかりは昔ながらのフルコースである。まだこんな世界もあるのかと、これにも驚いた。

或る日突然雀部の父が出張で上京し、歌舞伎座へ私達夫婦を招待してくれた。出しものは「菊五郎の襲」と「羽左ェ門の勧進帳」であった。幕際で六法を踏む弁慶の姿が忘れられない。戦前の歌舞伎座で今はない名優の芝居を見た。数少ない東京での豪華な思い出である。


♪十両、千両、万両  花つける
 我庭にまた 億両植うるよ

♪命得て ふたたび迎ふる あらたまの
 年の始めを ことほぎまつる

Sunday, December 09, 2007

宮本常一著「なつかしい話」を読む

照る日曇る日 第76回

民俗学者の宮本常一が生前行なったいくつかの対談のアンソロジーでどこからでも読めて、どれも題名どおりに懐かしい気分につつまれるいわゆるひとつの「珠玉の名篇」である。

とりわけ面白いのは歴史家の和歌森太郎との幽霊対談で、実際には会ったことのない2人が仮想対談する仕組みもユニークだが、中身も面白い。

和歌森が網野と同様、いやもっと昔から化外の民や海民の重要性に言及しているところや、宮本が指摘する「山人の海民化」も興味深い。例えば古代のカモ部は、当初京都賀茂神社や大和葛城などの山中に住んでいたが、次第に瀬戸内海の島々などに降りてきたとか、長野県安曇の山民が滋賀県の安曇川などに降りていって海人部を宰領するようになったという。

「中世雑談」における宮本の「昭和25年の対馬では時計もなく、1日2食で、1日の時間としては朝と夜があるだけで昼がなかった」、時間の経過におそろしく無頓着だったという話も興味深い。わが国の大事な祭りはすべて夜であり、たいまつを焚き、夜を徹して行なわれるお神楽が終わって白々と夜が明けてくるその瞬間に、祖先は一期一会という言葉を実感したのではないかと説くのである。

さらに半農半漁の村でも漁業の民家はすべて田の字ではなく並列型であり、農業はすべて引き戸であるのに対して、後者ではしとみ戸であると指摘し、「衰弱した漁村」と見えるものもその実態は「陸上がりした漁業」であることを、その漁民の間取りに即して具体的に説明しているところには、柳田國男などの前頭葉偏重学者にはないきめ細かな観察と生きた思索の真価がよく示されている。

著者によれば、昔は夕方のいわゆる逢魔が時にはお互いに必ず挨拶をする慣わしがあった。もしも向こうがこちらの挨拶に答えてくれなければ、それは魔物だとされたそうだが、私などは最近朝比奈の峠で多くの魔物に遭遇したことになる。

では最後に、本書で紹介されているなつかしい昔話から、福島県の出稼ぎのをひとつ。

かかあが言うには、「おトト、おまえさん出稼ぎに行くともう半年も会わねいから」というてね朝っぱらから重なった。そしたらそこへ子供が出てきて「おトト、おカカ何してるんだて」。それでおカカ「バカ、トトは出稼ぎいぐんだいや。おまえはあっちいってろ」「あっちいってい、いうたってこんなせまいとこ、どこいくわな」「ニワトリ小屋いってえい」。子供はニワトリ小屋いった。そしたらニワトリもまたチョコンと重なっちもうた。子供たまげてとんできて「「トト、カカ、ニワトリも出稼ぎに行く!」一期ブラーンとさがった。

♪年毎に故人増えゆくアドレス帳

Saturday, December 08, 2007

ある丹波の女性の物語 第30回 等々力

遥かな昔、遠い所で第52回

 父は私達の結婚に先立ち、園部の教会員の未亡人と再婚した。

 私の夫は水道橋にある統制会社につとめていたので、本郷などでは留守番をしてくれるならと、大きな家でも10円位で借りられたが、当時はもう疎開がはじまっており、安全な世田谷等々力に新居を構えた。六畳と四畳半に炊事場がついていて家賃40円であった。夫の月給80円也。家賃は綾部が負担してくれる事に決まった。

 等々力はオリンピックの開催地に予定されていた所だそうで、住居は万願寺玉川神社に近く、周囲には広々とした畑が広がっていた。近所には軍需会社の社長達の邸宅が並んでいたが、私達の隣組は同じような小さい家ばかり、組長さんの家だけは、信州のお殿様の執事だとかで、応接間もある立派な家で、品の良い老夫婦が住んでいた。

 綾部も主食には不自由になってはいたが、東京の食糧不足には閉口した。綾部から持ってきたものには限りがあり、馴染みの店は全くない、家の周囲は畑にかこまれてはいるが、どうして求めていいのやら。隣の奥さんに教えてもらい配給のお酒を手土産に、お芋や野菜を分けてもらう事にした。タンスに入れて持って来た衣類も、フル回転して食物に変わって行った。

東京空襲が近いと言う事で、庭に防空壕を堀り、空き地には大根等も作った。その頃は等々力にはガスも来ておらず、燃料不足で、夫は木場から一束ずつ材木の切れ端を運んでくれた。

銭湯も九品仏まで出掛けねばならなかった。等々力での楽しい思い出はあまりないが、近くの邸宅の垣根の殆どが沈丁花で、春まだ浅いうちから芳香を漂わせ、夜道を上がって来ると、むせぶような香りに包まれた。
夕焼けに空が染まる頃、万願寺さんの林に烏が群れて、やかましく鳴いた事等思い出す。


♪大雪の 降りたる朝なり 軒下に
 雀のさえづり 聞きてうれしも

♪次々と おとないくれし 子等の顔
 やがては涙の 中に浮かびぬ

Friday, December 07, 2007

ある丹波の女性の物語 第29回 谷中

遥かな昔、遠い所で第51回


父はその帰路、谷中の伯父の家へ連れて行ってくれた。そこは公然の秘密にはなっていたが、私の生母の兄の家であり、母の実家であった。

 上野の下町から坂を上がって行くと全くの住宅地があった。玄関をあけると「ガラン、ガラン」と大きな音がして驚いた。玄関の足元から各種の時計や美術品がいっぱいに散らばって並べてあった。

まるで骨董屋である。洋服屋と聞いていたが、まるきりそれらしいものは見当たらぬ。よくは分からぬが、ウェストミンスターと言うのか大きな時計が5分とか10分おきに、ちがった響きのある音で時をきざむので、その美しい音色には魅せられた。

広い庭は草茫々。小川が流れ、陶器を焼く窯があった。手彫りのテーブルの上に手焼きの食器が並べられ、そばをご馳走になった。

 伯父いわく「この戦争は必ず負けますよ。われわれはどうしても生きのびなければならない。私は洋服屋は止めましたが舶来の生地をシッカリ買いこみました。食料は勿論、ビタミン等の薬品類、それにダイヤ等も。あなたも有金全部払戻して必需品を買い込みなさい。」

私達はこの怪気炎にまかれて帰宅した。なかなかその真似事も出来なかったが、これが伯父と姪との最初で最後の出会いであった。


♪今ひとたび あたえられし 我が命
 無駄にはすまじと 思う比頃

注 谷中の伯父とは上口愚朗(作次郎)。明治25年谷中生まれ。小学卆後宮内省御用の大谷洋服店に弟子入り大正末期に「超流行上口中等洋服店」開店。江戸時代の大名時計の収集家としても知られる。旧邸跡地に現在大名時計博物館がある。

Thursday, December 06, 2007

ある丹波の女性の物語 第28回 結婚

遥かな昔、遠い所で第50回

 翌18年、京都のネクタイ工場は強制疎開でこわされてしまった。戦況は日に日に悪化していたが、国民には知らされていなかった。

 10月11日、東京本郷教会に於いて私は田崎牧師夫妻の媒酌により、根岸精三郎を養子として迎える事になり結婚式をあげた。

根岸家は倉敷市で古くから米問屋を営んでいたが、父は早死にし、店はすでに破産していた。

本人は兄弟姉妹合わせて11人きょうだいの七男であったが、その殆どが東京におり、元倉敷の牧師が仲人をして下さったのである。

精三郎のすぐ上の兄が綾部の丹陽教会へ伝道に来ていた事もあり、この話はスムーズにまとまったのである。結婚に先だって父は私をつれて上京、一応見合いをした。おとなしい養子タイプの人であったので、これなら父に従っていけそうだなと思った。


♪みんなみの 窓辺の床に 横たわり
 ひねもす雲の かぎろいを見つ

♪七十年 過ごせし街の 拡がりを
 初めて北より ひた眺めをり

Wednesday, December 05, 2007

ある丹波の女性の物語 第27回 母の死

遥かな昔、遠い所で第49回

 昭和16年3月、寒い日であったが父は丹陽基督教会の代表として、綾部警察署に留置された。

母は病床にあったが、みんなが私を力づけてくれた。毎日食事を差し入れに行くお手伝いさんの「おはようございます。」と言う大きな声に、どれほど勇気づけられたことかと父は後日話した。

 「天皇は神である」と言えと毎日強要されたそうである。父は牧師や信者が拷問に会い多数獄死しているので、万一の時の死をも覚悟したそうであるが、一週間程で釈放された。

 そのうち、主食を始めとして食料品が切符制となり、さらに金属回収も始まり、火鉢、銅の屋根、お墓の扉まで供出した。

 昭和17年9月10日朝、番頭の兼さんが出征した。兼さんは出発の直前まで母の枕元で別れを惜しみ、母も、もう若くない番頭さんの身を案じ共に泣いた。

 父が二十連隊まで送っていった留守に母は息を引き取った。看護婦さんが座をはずし私が1人付き添っている時であった。

 「9月10日風静かにして姉ゆきぬ」
母の弟儀三郎は色々のおもいと共に、棺の中にこの句を入れた。体中の腫れがすっかりひき、美しい母の顔に戻っていた。数えて58歳であった。

 両親、夫、弟妹、家族全員に力おしみなくつかえた一生であった。かつての店員、お手伝いさん達も心からその死をいたんだ。
 優しい母であった。


♪陽ささねど 四尾の峰は 姿見せ
 今日のひとひは 晴れとなるらし 

♪由良川の 散歩帰りに 摘みてこし
 孫の手にせる いぬふぐりの花

Tuesday, December 04, 2007

ある丹波の女性の物語 第26回 結婚前後 

遥かな昔、遠い所で第48回


 幼い日の思い出は私の心の中でもう風化しているので、それなりに美しくなつかしいものとして蘇って来るので、あまり考える事もなくペンを進めて来たが、結婚前後、苦しい戦時中の事となると、何となくためらいがちになるが致し方ない。

 昭和14年頃は、一応戦局は勝ちいくさという事になっていたので、そんなに悲壮感はなく、京都まで出ると、外映も2本立てで古い映画が見られた。「舞踏会の手帳」のように美しい映画も見られたし、コリエンヌリシェールとか言う知的な女優の「格子なき牢獄」も封切られ評判になった。

 店をまかされていた母は、若い店員が皆兵隊に行ってしまい番頭さん一人となったため、お手伝いさんにも店を手伝わせ、なかなか気苦労の多い毎日であった。母はいつも「うちの旦那さんは床柱になるように生まれたお方だ。」と言っていたが、父はいくら貧乏しても下積みの暮らしはした事がないので、思いやりには欠けており、連れそうには人に言えぬ苦労があった。癇癪持ちの父に対等にズケズケ話せるのは、私位しかいなかったのであるまいか。

 母は以前から糖尿の気があり、自分で検尿し、インシュリンを注射していたが、だんだん薬も入手出来にくくなり、腎臓炎を併発、血圧も200を越すようになり、臥せり勝ちになった。

 国民服と言うのが出来、ネクタイも贅沢品ということにはなったが、まだ製造はつづけており、自然私が履物店を守るようになった。

 大政翼賛会が発足し、公務についている人は入会し、川で禊をするような世の中になった。戦争をすすめて行く為には国粋主義を掲げ、国民の気持を一つにまとめて行かねばならなかったのであろう。思想、言論の自由は失われていった。時代の流れに押しつぶされてしまわない為には、一応時代の波に沈まぬよう、たゆとうて自衛するより外なかったのである。

♪師走月 ましろき綿に つつまれて
 ようやく棉の 実はじけそむ    「棉」は綿の木、「綿」は棉に咲く花

♪母の里 綿くり機をば 商いぬと
 聞けばなつかし 白き棉の実

Monday, December 03, 2007

網野善彦著「無縁・公界・楽」を読む

照る日曇る日 第76回

いまから四十年の昔、「なぜ平安末・鎌倉時代に限って偉大な宗教家が登場したのか?」と都立北園高校の1生徒に問われた著者は教壇で絶句してしまう。
しかしその難問に対するおよそ10年後の回答が、中世のみならず日本史全体の書き換えをうながす「革命的な」著作の誕生につながった。それがこの「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」である。

 著者はまず平安末・鎌倉は、非農業的な生業の比率が比類なく高まった時代であるという。供御人、神人、寄人など多様な職能民の集団が、天皇・神仏の直属民として、課税・関料を免除されて活発に活動し、天皇・神仏の奴婢と自称する彼らは、俗世の政治権力に対峙しつつ独自の「聖性」と権益を獲得しつつあった。

またそれと平行して、平民百姓の中にも海民、製塩民、鵜飼、山民、製鉄民、製紙民などの非農業的な生業をいとなむ人々が急増していた。

「百姓」とはその名が示すとおり、農人以外の商人、船持ち、手工業者、金融業者などの平民を多数含んでいた。彼らの多くが堺、中州、川中島、江ノ島などの都市に住み、交易、商業、流通、金融の経済活動を、時の権力から一定の距離をおきながら、独自の自由で平和で初期資本主義的生活を営んでいた。そして非農業的な彼らが生息していた場所こそが、世俗との縁が切れた「無縁」「公界」「楽」と呼ばれた空間であった。

彼らの生産物は、いったん聖なる場=「市庭」に投げ込まれてはじめて「商品」となる。そしてその商品が商品交換の手段としての「貨幣」として神仏に捧げられ、世俗の人間関係から完全に切れた「無縁」の極地とも言うべきその交換機能を果たすことになる。

わが国では、弥生時代以降13世紀までは米、絹、布など、13世紀以降は銭貨、米などがそのような貨幣の機能を果たした。
さらに貸付によって利子をとり、多くの職能民の労働力を雇用して建築土工事業をいとなむための「資本」も神仏の物として蓄積されていくが、そうした巨大な事業を推進経営できたのは中世では絶対権力から「無縁」の勧進聖、上人だけであった。

このように商業・金融などの経済活動はきわめて古くから人の力を超えた聖なる世界、神仏と深くかかわっていた、と著者はいう。

ちなみに、鎌倉時代の治承2年1178年に書かれた「山楷記」には銭を用いた出産時の呪法が紹介されている。
父親は手に99文の銭を持ち新生児の耳に「天を以って母とし、金銭99文を領して児寿せしむ」という祝詞を3度唱える。その後産婦がへその緒を切ると父親は児の左手をひらき、「号は善理、寿千歳」とまた3遍唱える。ここで乳付けが行なわれ父親はさきの銭袋を枕元において儀礼が終わる。
このように出産や埋葬に銭が使われるのは銭が生命を育む大地とつながっていた証であるという。

そして13世紀から14世紀にかけて、この「無縁」「公界」「楽」という舞台で銭貨の交換と資本蓄積によって大きな経済成長を遂げ、「悪党」や「海賊」とも蔑称された彼ら自由民たちの「重商主義」路線は、商業・金融を抑制しようとする権力者側の「農本主義」と政治的・思想的に鋭く対立することになる。

そうしてあくまでも自由を求めてやまないこの「悪人」を積極的に肯定し、自らもその渦中に身をおいた法然、親鸞、一遍、日蓮など鎌倉仏教の始祖たちがこの未曾有の乱世に陸続と登場することになった。

14世紀から15世紀にかけて禅宗、律宗は幕府と結びついてその立場を確立したのに対して、15、16世紀には真宗、時宗、法華宗もその教線を拡大し、とくに真宗は教団として大きな力を持つにいたり、都市型自由民の反逆の戦いとして知られる一向一揆の原動力となるが、最終的には「無縁」「公界」「楽」の重商主義の旗に結集した平民の初期資本主義的・原始宗教的エネルギーは、農本主義を旗印にした世俗権力(織豊政権と徳川幕府)のゲバルトによって圧殺されていったのであった。

私はこの本を読みながら、学問の厳しさを思った。
「武家と朝廷の専制と圧制と抑圧と課税にあえいでいたはずの農民に、いったいいかなる自由と平和があったのか? あれば教えてほしい」というほとんどすべての歴史研究家の嘲笑と否定的評価を、敢然と受けて立った思想家の孤独を思った。

しかし不撓不屈の独創的な反権力者によって営々と書き継がれたこの本は、「学問とは何か?」「学問には何が可能?」という私たちの問いかけに対するひときわ鮮やかな回答でありつづけている。

♪真夜中に武者共喚きて切りかかる物音がする谷戸の冬かな

Sunday, December 02, 2007

ある丹波の女性の物語 第25回 京都へ

遥かな昔、遠い所で第47回


 翌昭和13年春、綾部高女を卒業した私は、京都府立第一高等女学校補習科に入学した。
 
 一学期は銀閣寺近くの寄宿舎に入った。綾部からは薬屋さんの娘さんと二人であった。朝寝坊すると電車では間に合わなくなり、荒神口まで35銭也のタクシーをよく利用した。5人も乗れば市電並みであった。

 「柳橋をこきまぜて都ぞ春の錦なりけり」
春の京阪沿線の鴨川ぞいは和歌の通りに美しく彩られる。私は一寸心にいたみを覚えつつも京阪電車に乗って、実母の待つ桃山へ心はづむ思いで出かけたものだった。

 学校の選択科目には、裁縫、英語、数学、国語があった。私は無条件で国語をえらんだ。
私達4人は源氏物語、枕草子、万葉集などを膝を交えて学んだ。私は紫式部より清少納言に魅力を感じた。万葉集の大らかさに感動し、自然、明星の華やかさより、アララギ派が好きであった。墨汁一滴も輪読した。今の私には、明星の歌にも心ひかれるものが沢山ある。年を重ねた故であろう。

講師として京大から美術の源先生、心理学の岡本先生が出講されたがいずれも、ていねいな講義であった。法隆寺へも案内していただいた。玉虫の厨子はハッキリ覚えているのに、うす暗かった故か壁画が思い出せぬ。もったいないようなあの機会に、どうしてもっと真剣に学ばなかったのかと悔やまれる。

 戦局と共に軍の衿章作りの奉仕や、炊き出しの訓練も行われた。2学期からは父の紫竹のネクタイ工場から通う事になった。
 秋には九州への修学旅行があったが、母の病気の為私は綾部へ帰った。母は追々弱って行くのである。

♪築山の 千両の実の 色づきぬ
 種子より育てし ななとせを経て

♪手折らんと してはまよいぬ 千両の
 はじめてつけし あかき実なれば

Saturday, December 01, 2007

ある丹波の女性の物語 第24回 修学旅行

遥かな昔、遠い所で第46回


 そんな中でベルリンオリンピックがあり、日中戦争も激しさを加えて行った。

 昭和12年5月には、憧れの東京への修学旅行が行われた。あらたに、伊勢神宮参拝がプログラムの最初に加えられ、東海道線を横浜へと向かった。車窓いっぱいに迫って来る富士山に感激し、横浜港では外国航路の船に胸をときめかせた。

 山下公園では、この近くで私は生まれたと聞いていたので、特別のなつかしさを覚えた。
 東京駅へ向かうべく、桜木町駅で待っていたら、「どこから来た」と声をかけられた。「綾部」と答えたら、「大本教か」と云われて一同大憤慨したのを思い出す。

上野駅近くの旅館から夜の自由行動で、とにかく銀座へ行こうと地下鉄に乗ったのはいいが、何丁目で下りたらいいのか分らなくて困った事もなつかしい。
東京見物の後、東照宮、華厳の滝を見て中禅寺湖畔に泊まった。新舞鶴の遊郭の娘さんが、靴下の中に内緒で百円札を入れていたのには驚いた。舞鶴は軍港景気に沸いており、沢山の娼妓さん達からのお餞別との事だった。私も近所のお土産に木彫のお盆を求め、洗濯物にくるんで小包で家へ送った。
女学生らしい学校生活もそれまで位で、追々戦時体制へと移って行くのである。

♪老祖父と 共にくぐりし 古き門            
 想い出と共に こわされてゆく
♪暮れやすき 師走の夕べ 家中(いえじゅう)の
 あかりともして 心たらわん