Thursday, December 13, 2007

ある丹波の女性の物語 第33回 戦後、幼い子供達

遥かな昔、遠い所で第55回

 昭和19年に入るとあらゆる物が統制になり、店の営業は殆ど出来なくなってきた。これからは食べる事だけのために生きているという時代になったのである。

 綾部のような田舎でも灯火管制が行われ、町内会で防空壕を掘り、飛行機の燃料にと、男の人達の松根堀りの奉仕作業も始まった。

 20年に入ると都会の空襲は激しくなり、舞鶴の軍事施設も爆撃されて、綾部からも夜空に燃えさかる火の手が見られるようになった。

 私は毎晩、赤ん坊の長男をいつでも背負って逃げられるよう、枕元に衣類や負い紐を用意して寝たものである。

 貸していた畑を返してもらい、春にはじゃが芋を植えた。父と二人でじゃが芋の芽を切り分け、灰をつけるのであるが、何分馴れぬ事で、二百坪の畑の畝に適当に並べているうちに日が暮れてしまい、土をかぶせるのは又明朝という事にして帰った。

夕食もすみ、お風呂に薪をもやしていると戸をたたく音がする。畑の近くの人がわざわざ自転車で「芋は上に土をかぶさないと芽がでませんよ」と知らせにきて来れたのである。親切は嬉しかったが、父と大笑いした。


♪炎天の 暑さ待たるる 長き梅雨

♪弟と 思いしきみの 訃を知りぬ
 おとないくれし 日もまだあさきに

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