Monday, April 30, 2007

少年よ、偉くなるな!

少年よ、偉くなるな!

♪バガテル op17

財団法人「日本青少年研究所」の調査では、「偉くなりたい」と思っているわが国の高校生の割合は、米中韓国の3分の1程度の8%だという。

ちなみに中国が34%、韓国23%、米国22%だそうだが、この結果はたいへん結構だと私は思う。

さらに結構なのは、「のんびりと暮らしていきたい」高校生は、わが国が43%と最高。「多少退屈でも平穏な生涯を送りたい」でも最高ポイントの21%、「大きな組織の中で自分の力を発揮したい」では諸国中最低の29%というので、私は実に実に久しぶりにうれしくなった。

他人や他国の人々よりも「己を偉くせよ」、などという、わかったような、しかしまるで訳の分からない無内容な前進教育を、かの聖徳太子の御世から受け続けた結果が、天地天皇と豊臣秀吉による朝鮮侵略であり、飛んでイスタンブール、じゃなかった日清、日露の大戦であり、その結果がすぐる2度の世界大戦である。

黄色い猿のような顔をした(漱石)アジアの孤島の田舎者が、夜郎事大に極東の解放者、などと思い上がり、あまつさえ西欧世界に覇を唱えようとイソップの蛙よろしく愛国的に力みかえる。

いつか来た道をまたぞろ我ら陛下の臣民、屁にこそ死なめと一億3500万こぞりて辿らんとする今日この頃、「偉くなりたくない」「のんびりと暮らしていきたい」若者たちの登場こそは、げに神国ニッポンの未来を照らす唯一の光明である。

万歳!

Sunday, April 29, 2007

追悼 ロストロポーヴィッチ

♪音楽千夜一夜 第18回

風薫る5月を目前にしてエリツィン前大統領の後を追うように、ロシア、というよりは旧ソ連のチェリスト&指揮者ロストロポーヴィッチがガンで80歳で亡くなった。

チェロ奏者としてのロストロの代表作は、やはり晩年のバッハの無伴奏組曲ということになるのであろう。

しかしそれはヨーヨーマの演奏よりはましとはいえ、残念ながら私にはつまらなかった。むしろ往年リヒテルとフィリップスに入れたベートーヴェンのチェロソナタの燃え滾る劇演が忘れがたい。

世間では、指揮者としてのロストロについてはまるで評価していないようだが、ワシントンナショナル響を率いて入れたショスタコーヴィッチの交響曲全集や20世紀最高のオペラのひとつ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の名演は、いつまでも私たちの胸を焦がすだろう。

しかし音楽の仕事もさることながら、ロストロ氏は、旧ソ連の社会ファシズム体制にあって人権と芸術表現の権利を守るために命懸けで戦った自由の戦士として後世に名を留めるであろう。

あのソルジェニーツィンを身を挺して自宅に匿い、頑迷な共産主義者と戦うためにエリツィン前大統領と共に内務省に立てこもった戦う老インテリゲンチャの姿は、中国天安門事件の民主化運動で戦車の前に立ちふさがった少年の姿に重なるようにしてときおりは私たちの脳裏に甦ることだろう。

Saturday, April 28, 2007

暴かれた秘境

勝手に東京建築観光・第12回


ある年の夏の夕べ、私は千代田線の乃木坂を降りてS山紀信氏のアトリエを訪れた。

仕事の打ち合わせを終えた私が、アトリエの前の小路をぶらぶらと歩いていると、S昌夫という歌手が経営しているスタジオがあった。

そこを過ぎてさらに進むと、瀟洒な煉瓦色の低層住宅が静まり返っていた。

鬱蒼とした森に囲まれたその一画は、楠や椎の頭上からセミの鳴き声が響き渡り、舗装されない地面には木漏れ陽がゆらゆらと揺れ、群青色の夏の空には白い大きな雲が浮かんでいた。

静かだった。そして、誰もいなかった。

住宅群の入り口にはI倉建築事務所と書かれた門札があり、無人のエントランスを直進すると、同じ建築仲間のビッグネームI氏の名前が記されていた。

現代思想家としても知られるこの孤高の天才は、誰もがうらやむような東京に残された最後の秘境に住んでいたのだった。

それから十数年が経った。

ある日突然、クレーン車がうなりを上げてこの緑の館の隣接地に突入し、昼夜をわかたぬ突貫工事が始まった。当世流行の商業施設の建設が開始されたのである。

しかし秘境に住む二人の建築家は、このプロジェクトには招聘されなかった。

けれども彼らの最大のライバルが指名され、彼らの最愛の地からわずか数十メートルの地点に奇怪な両翼の鉄板長屋をこしらえるにおよんで、さすがに温和な紳士も内心の憤りを隠すことはできなかっただろう。

『この建築意匠は、そもそもは私の発想ではないか。それなのにどうして君が指名されるのだ? 私ならもっと素晴らしい建築を創造できたはずだ。君の東京案よりも私の福岡案が幾層倍も優れていたように……。いや、そんなことなどもはやどうでもよい。私の終の住処を、君たちはどうして白日の下に曝け出し、暴きだすのか? おお、建築家よ、呪われてあれ! かくも因果な職業がこの世にあるだろうか?』

東京ミッドタウンの「21-21デザインサイト」の前に立つと、私にはI氏のこんなうめき声が聞こえてくるような気がするのだ。

Friday, April 27, 2007

東京ミッドタウンのガーデンを眺めながら

勝手に東京建築観光・第11回

 
歴史的風土を切り捨て、市場原理だけを優先して商業施設を乱開発する人たち。その土地固有の植生を無視して自分勝手な好き嫌いや趣味や流行で公共の場の園芸プランをわたくしする人たち。見た目や手入れや費用だけで街路樹を選定するおぞましい人たち……。

彼らはその土地に古くから棲む精霊の御業によって成仏できず、われら現代人の永遠の憧れである、あのワンダフルな靖国神社に小泉前首相や石原都知事とともに合祀されることも許されず、未来永劫にわたって神国不敬罪の罰を受けることだろう。

東京ミッドタウンのアトリウムや庭園に植えられている植物は、ほんらいは長州藩毛利家下屋敷の植生を想起すべきだと私は考えるのだが、実際に植えられているのは地霊になんの敬意も払わない“任意の素敵な植物群”である。

この庭にはナミアゲハやアオスジアゲハやモンシロチョウやエノキチョウが飛来することはあっても、その産卵と孵化が行われることはない。

土壌の設計の段階で、動植物の再生と再生産という視点が見失われ、生態系の循環が切り捨てられているのだ。

この土地の真の主人公である地下の微生物の「生産」を捨象し、この土地に定住しない人間たちの「消費」しか想定しない庭園では、時間と共に推移する生命に満ちた豊穣な自然は本質的には存在していない。

だからこの庭園は晴れやかではあっても、無個性であり、太宰のいう「ホロビニイタルアカルサ」に包まれた“カルチャーなき仇花”なのである。

そのガーデンは、東京のど真ん中で、生命の流通と交換を絶たれたまま、中空に停止している。根無し草として串刺しになり、すでに仮死の状態にある。

私はこれと同様な光景を、数年前の神宮外苑の「第1回ガーデニング大会」で見たような気がする。

そこには「我が懐かしき庭の記憶」というタイトルで、昭和初期の木造住宅と小さな庭が設営され、物干しに干された洗濯物が翻っていた。

驚いたことには、会場のいたるところに人工林が作られ、白樺林の間を縫って清らかな小川までがさらさらと流れているのであった。

それは確かに懐かしい光景ではあったが、あくまでも大量の資金と大量の植物や水や土土砂をどこかの自然を破壊してこの人工舞台に持ち込んだ“まがいもの”であった。

このイベントが終った後、誰がその白樺や桜や無数の草花を元の生育地に返還するのだろうか?

それなのに人々はその“贅沢なまがいもの”を、心の底から賛美しているのであった。

おお、なんと退廃した大宮人たちよ。そなたの鋭敏な感性と知性こそ呪われてあれ!

うるおいのない都市生活に自然を取り戻そうとするガーデニングに人気が集まり、その手法や技術が洗練されるのは文化の進歩である。

しかしこれは自然の復権ではなく、その反対の暴挙ではないだろうか。

そこには、長年に渡って田舎のゲンジボタルを乱獲し、観光ホテルの庭園に放って観光客を誘致していた都会人の傲慢と共通するような無知と傲慢が流れていた。

ゲンジボタル1匹と共生できなくて、なんの己がにんげんか!

いずれにしても、これからの建築は本体と同様、あるいはそれ以上に庭園や植樹のあり方に高邁な思想の差配が必要である、

と、私は砂上の楼閣に似た白痴的ガーデンの虚栄の美を見るともなく眺めながら考えたことであった。

Thursday, April 26, 2007

安藤忠雄と21-21デザインサイト

勝手に東京建築観光・第10回

東京ミッドタウンの乃木坂寄りには庭園があり、その奥には三宅一生氏などが立ち上げたデザイン開発の拠点「21-21デザインサイト」が低くかがまっていた。

設計はおなじみの安藤忠雄であるが、ここのコンセプトが三宅一生の“1枚の布”から生まれたものであるという安藤の主張はきわめていかがわしいものと思えた。

まあ一種のこじつけであろう。しかしながら、この「低く地面にかがまっている姿勢」は、その右側にまるで権力の象徴のように高く聳えるパワータワー(オント! オント!日建設計)よりも少しく謙虚であり、いくぶん知的であり、しかも、驚いたことにはそれらの虚塔より目立ってもいるのである!
 
超高層よりも低層平屋建てのほうが、豊かで人間らしい建築物であることは、すでに70年代から磯崎新などが唱えていたし、実際に磯崎が新宿副都心都庁案で師丹下健三のノートルダム案と敗北覚悟で張り合った提案でもあった。

だから安藤の「地上すれすれ案」とか「地下沈没案」などは磯崎案の周回遅れのアイデアかもしれないのである。

安藤は素朴な創案家だが、建築の先達のコンセプトを臆面もなく剽窃するし(「光の教会」など)、やれ環境だの、緑だの、花だの、人間性だのと、そのつど派生する流行のトレンドにはきわめて敏感な人だ。そうしていつものことながら細部の仕上げは見事な手際である。

しかしそのやり口を岡目八目よろしく眺めていると、彼特有の骨太コンセプトの適用がかなり大ザッパで、実際は環境問題の本質などには肉薄していないことが分かる。

例えば安藤は震災後の神戸にうるおいを取り戻すため、町のいたるところにハナミズキを植樹することを提案し、行政側に受け容れられた。

その結果、ほんらい神戸の植生とはまるで無関係な米国産のこの白い花は次第に神戸の市内に氾濫し、街は遠からずハナミズキだらけになるだろう。

それは新しい神戸らしさの植え付けには寄与するだろうが、海を渡ってやって来た古代の神々が戸をたたいたと伝えられるこの小さな漁港の来歴と風土と動植物にふさわしい贈り物であるか否かは、はなはだ疑問である。

またこれは安藤が手がけた淡路島の淡路夢舞台と直接関係はないと思うが、この島では様々な花を植えて全島で島起しをはかっているそうだ。

しかしながら、淡路島伝来の植物を夜郎自大に外部から持ち込むことは、他の動植物の外来種侵入と同様、生態系の維持にとって好ましくないのではないだろうか。

Wednesday, April 25, 2007

東京ミッドタウン見物

東京ミッドタウン見物

勝手に東京建築観光・第9回

六本木の自衛隊跡地に三井不動産が開発した東京ミッドタウンを見物した。
 
ここは、江戸時代長州藩毛利家の下屋敷、明治以降は陸軍歩兵第1連隊が置かれた場所である。

戦後米軍の接収を経て防衛庁が置かれたが、2000年5月に市ヶ谷移転したあとは自衛隊が使用していた。

当時は自衛隊といってもあまり殺伐とした雰囲気はなかった。低層平屋の建物があちこちに散在するなかを制服姿の隊員たちが談笑したり、のんびり敬礼などしている姿を見かけたものである。

ところで都民の迷惑を顧みず、天下の大東京を前後左右上下に開発する4つの巨大デベロッパーといえば東京都と三井、三菱、森グループだが、まずこの3番目の不動産屋が、かの六本木ヒルズを天空高くでっちあげた。

するてえと、名門?三井不動産も負けるものかと勇み立ち、おっとり刀で東京どまん中まで駆けつけ、最高級ホテルザ・リッツ・カールトン東京が入居する高層タワーやら、東西2個のビジネス棟やら、サントリー美術館やら、流行の商業施設やらをてんこもりにした複合施設東京ミッドタウンなるものをでっちあげたのであるんである。

開店してからそうとう日にちが経つというのに、そこらはおばはんの団体やら視察ビジネスマンやら上流社会を華麗に生きるあほばかセレブリティの母娘などなど、大勢の善男善女たちがうろうろしていた。

しかし私はといえば、彼らと私には何の精神的物質的紐帯がないことだけが残念であった。

私が知るこの一帯は、浪費と虚飾に少し倦み疲れた六本木のすがれた風情がかつては垂れ込めていて、その点だけは悪くなかったのだが、きょうびはいかなる風情も人情も皆無の無味乾燥無機地帯と化していた。まるで白痴の土地とはあいなった。

そのかわりに、ここは汐留であるといってもよく、品川と称してもよく、なんなら香港でも桑港でもロスでもNYというても代入可能な、大量の鉄とコンクリとガラスの大群が勝手にそそりたって、我ら人民を睥睨しておったのである。

「富士フィルムの人よ、君たちはほんとにこんなオフィスで働きたいのか?どっちかいうと夕張のほうがまし環境だと思うけど」と私はつぶやいたが、インフメーションの案内嬢は聞こえなかった振りをした。

もしかして大ガラスの1羽も飛んでいまかいか、と私はいまにも雨の降りそうな曇り空を見上げたが、幻影のそれさえ近づいてはこない。

しかたなくこの東京中央町ビルジングをもういちど凝視すると、驚いたことには、それは既にして21世紀の廃墟そのものなのであった。
「創建されるや否や既にして廃墟なのに、それがお前の眼には見えぬのか? 汝臣民、何故にあっけらかんと空虚なアトリウムをさすらうのじゃ? このかわいい阿呆どもよ」
と、私はひとりごちた。

 ちなみに東京ミッドタウンの大半は、日本人好みの最大公約数メーカー日建設計が手がけ、サントリー美術館などの一部を隈研吾氏が担当したそうだ。

その隈氏は、相変わらず和風の木や紙にこだわっているというのだが、現地ではそれらは建築物総体のほんの一部を構成しているのみで、例えば青山の梅窓院やONE表参道と同様ほとんど存在感はない。

彼は「負ける建築」などとかっこいいことを言っているが、実際には「資本に負けた建築」、「世間に対するおためごかしの建築」ばかり作っているのではないだろうか?

Tuesday, April 24, 2007

モネ展を見る

降っても照っても 第8回

さて肝心の展覧会だが、私は印象派もモネも好きだが、このモネ展はあまり感心しなかった。

確かにあの睡蓮や英国の国会議事堂やビッグベンやウオータールー橋やルーアンの大聖堂などの名作は並んでいた。しかしなんだか世界各地から準主力作品の寄せ集めという希薄な印象はまぬかれない。

パリのオルセー美術館からやって来た「日傘の女性」(本展のポスターになっている)も、あそこにどっさり並べてある連作のうちの、比較的印象の薄い1点のみで、どうも隔靴掻痒の感がぬぐえない。

最近の東京はまたまたいやらしいバブルの時代に突入したとみえて、やたら美術館と演奏会場と展覧会とコンサートが増えてきた。

そうしてそのぶんどの展示も中身が薄くなってきているから、このモネ展もどうせそんなもんだろうと予想していたら、案の定そうだった。別に驚きもしなかったが、久しぶりの美術巡りなのでちと寂しくもあった。

さて世界から寄せ集めた全97点中、私のベスト2は、なぜかアサヒビール所蔵の「睡蓮」と「日本風太鼓橋」。

特に後者はお持ち帰りしたかった。でもサントリーならともかく、どうして営利第一のこんなビール会社がモネを持っているのだろう? 

もしかしてトップに隠れた目利きがいるのかな。謎だ。

Monday, April 23, 2007

国立新美術館を見る

国立新美術館を見る

勝手に東京建築観光・第8回
 
黒川紀章が設計した新しい国立美術館を訪れ、ついでにモネ展を見物してきた。

まず美術館だが、さすが人騒がせな黒川らしくダイナミックな外装である。ガラスが丸みを帯びて大きく波打っていた。

鉄とコンクリとガラスという冷徹な素材に、なんとかやりくり算段して温和性、運動性、そしていくばくかのヒューマニティを盛り込もうとする黒川の意図はよく分かる。

内部に作られた逆キノコ状の漏斗も無機的な内装に一定程度の植物性をもたらす効果を上げている。

が、褒められるのはここまで。それなりに工夫されたスケルトンが内包するリフィルには、いたずらに空虚な大空間が広がるのみだ。

しかも区画整理があまりにも機械的で、入場者の入退場の便などいっさい考慮されていない。とくにエントランスやトイレやクロークの狭さは言語道断。国内最大規模の貸ホールなのに、これで3階の全ホールが使用された暁には(そんなことは絶対にないだろうが)会場内は大混乱するであろう。

展示会場に入ると、その導線と照明が良くない。モネ展など入場したその次の空間の処理が悪いから、客の流れが混雑を起こしている。中学や高校の文化祭以下のレイアウトである。

モネの「睡蓮」の大作の表面がガラスで覆われており、そこに普通のライトを当てているから、客が画面を覗き込もうとすると自分の顔が見える。

きっとありきたりの印象派の展覧会だとつまらないので、最近復活してきた「モノ派アヴァンギャルド展」風に演出したのであろう!? 

それやこれやでともかく国内最低の美術館のひとつであることは間違いがない。


しかしたったひとつだけこの美術館に見所があった。それは本館左側の別館の前に安置された旧陸軍歩兵第三連隊のレンガの入り口の一部である。

思えばあの昭和11年の2.26事件の首謀者のひとり安藤輝三第6中隊長は、兵を率いてこの場所で決起し、他の2名の士官とともに反乱罪で死刑に処せられたのであった。

驚いたことに、既成秩序に反逆した者たちの「遺物」としてのレンガの断片は、黒川のうそすそとしたガラス細工の虚構の幻影をすべてをぶちのめす、異様なまでの存在感に満ちていた。(写真)

Sunday, April 22, 2007

ある丹波の老人の話(19)

私の家には、“北向きのえびす様”という小さいえびす大黒の像がありました。

小さい板が12枚あって、願い事を叶えてもらうたんびに板を一枚ずつ供えることになっとりました。

父母が信仰しておりましたから、私も商売をやるようになってからは毎晩お灯明をあげて一生懸命に商売繁盛を祈り、それがうまくいったもんですから12枚の板を積み上げては下げ、また積み上げては下げ、それを何度も何度も繰り返したもんでした。

差し押さえの封印を解いてもらう話し合いでも、ちいともいじけずにテキパキやってそれが全部予想以上に成功したのも、この福の神さんが私に度胸をつけてくださったお陰やと思って、お礼の板を重ね重ねしたもんどした。

あの大阪の座摩神社にしても、あれほど入ろうにも入れなかった問屋の店へ3度目には勇敢に飛び込んで無理な取引を快く承知してもろうたんも、けっして私の力だけではなく、座摩神社やお稲荷様があんとき私に乗り移っておったとしか思えなかったんでした。


もともと私は下駄屋なんかやる気はなかったんですが、あんがい調子よく行ったので、すっかりおもしろくなり、松山落ちなどはとっくの昔に断念して一生懸命下駄屋をやりました。

そして養蚕期になると店を妻に任せて教師に行き、この頃は中上林の睦合や物部に勤め、その給料はふたたび大幅に家計の上に物を言ってきました。

そのうちに高木銀行支店が、五百円程度の融資はいつでもしてくれるようになり、下駄屋もだんだん充実してきました。

私が後年キリスト教に入り、聖書の

『それ有てる人はなほ興えられ、有てぬ人は有てるものをも取らるべし』(マルコ伝第四章二十四節)

を読むたびに、浮き沈みの多かった私の青年時代を回顧し、有たざりし時の締め木にかけられるような苦しみ、有つようになってからのトントン拍子などと思い合わせて万感無量なるもんがあります。
(第三話 貧乏物語終わり)

Saturday, April 21, 2007

ミニHALから遠くのがれて

ミニHALから遠くのがれて

♪バガテル op16

新宿のタワーレコードの9階まで昇るエレベーターのなかには右上方の一角に監視カメラが取り付けてある。

そいつは映画『2001年宇宙の旅』の主人公であるコンピューターターHAL(ご存知の通りIBMのひとつ手前のアルファベット)のように不気味な顔で乗客を睨んでいる。

それはもちろんタワーだけではない。街頭でも商業施設でも集合住宅でもわが国の都市のいたるところにミニHALが配置され、潜在犯罪者としてのわれわれを押し黙って監視し続けているのである。

私がはじめてキューブリクのこの映画を観たり、P.K.ディックの作品を読んでおもしろがっていた頃は、こんなけったくその悪い監視機械が、こんな極東の孤島に登場しようとは、夢にも思わなかったものである。

われわれは、まずそのアブノーマルさに対してもっと驚く必要があるのではないだろうか? 

わが国でいくら凶悪な犯罪が増加し、その結果、私やあなたが新宿のタワーレコードの四角い空間でよしや暴行傷害に被害に遭い、虐殺されようとも、私は公共空間をあらかじめ犯罪準備空間とみなす施設の管理者が私の顔や身体や不用意に露出しているかもしれない局部を勝手に撮影したり、録画したり、彼ら管理者や当局の視線にさらされることに対して断固反対する。

それは肖像権の侵害であり、市民の自由な活動に対する規制であり、誰によっても合法化されえないスパイ活動そのものである。

もしもわれわれがこのような認識に立つことができたなら、われわれはタワーレコードや由比ガ浜駐車場のシンドラー社製のエレベーターに入るや否や、すかさず目出し帽をかぶったり、尊顔にイスラム風のヴェールを掛けたり、あっかんべーをしてそっぽを向くべきではないだろうか?


ところで、このように本邦のみならず全世界で猛威をふるっているミニHALに対して、朝日新聞のロンドン特派員がまったく素敵なお知らせをもたらしてくれた。

交差点や商店街、駅構内など英国中の街角に設置されているCCTV犯罪監視カメラは420万台以上にのぼり、それらは地区の管理センターで24時間モニターされているそうだが、最近登場した最新型では係員が映像を見ながら、

「あなたの行為は犯罪です。直ちにやめなさい」「ゴミを捨ててはいけません」「この付近は飲酒禁止です」

などと突然の音声で警告を流すのだそうだ。

英国北部のミドルズブラ市で今年初めからこいつを導入したところ「反社会的行為」が昨対70%減少し、世論調査でも88%の市民が設置に肯定的!だという。

この結果に気をよくしたリード内相は、今後首都ロンドンはじめ全英20地区で取り付けるのだと意気込んでいるそうだが、誇り高い大英帝国の臣民がそこまで唯々諾々と公権力の介入を許すとはじつに不可解。黄昏の、あるいは断末魔のロンドンにふさわしい“そうとう不気味な”(中原中也)話ではないだろうか?

遠からずわが国でも、かの治安大好き都知事などが、あの下品な顔でうれしそうに舌なめずりしながら、このエキサイティングなホラーサスペンスの世界に身を乗り出してくるのだろう。

乱世にありて災厄に遭いてはまさに遭うべく、死するときにはむざと死すべし。

Friday, April 20, 2007

ロックする人、しない人

降っても照っても 第7回 

2つの人種がある。ひとつはロックする人であり、もうひとつはロックしない人である。

これらの人々が小説を書くと、前者からは高橋源一郎のごときロック小説が生まれ、後者からは渡辺淳一や石原慎太郎の如き非ロック小説が生まれる。音楽もまたコレに準ず。


ところがこのロックする人のなかにあって、稀に町田康のやうにパンクする人がいる。

町田康の「真実真性日記」は、まあ、そのおう、いわゆるひとつのパンク小説である。

内面に煮えたぎるカオスはたえず外界にあふれようとし、作者は四分五裂する己をかろうじて抑制しようとするところに、これらギタギタの妄文が生まれる。

それはパンクな音響を湛えた乱反射文学である。ロックはローリングストーンズのように古典化したり老成化したりできるが、パンクにはそれが許されないのである。

さうして町田康は、いずれ平成の不如帰となって逗子の海岸に真紅の血を吐くだろう。


さういえば近頃世間では、パンキーなやくざどもがピストルやマシンガンやバーズカ砲で市長や市民をバンバン撃ち殺しているやうだが、いったい「にゃろめの警官」はなにをしているのだ。

亡霊と化した青島や植木といっしょに国会や都庁に乱入して、一刻もはやく山口組をはじめとする超右翼体育会系暴力団を徹底的に退治せよ。にゃろめ!

Thursday, April 19, 2007

吉田秀和と中原中也

鎌倉ちょっと不思議な物語56回

吉田邸は敷地は広いが、家は年代物のまことに粗末な平屋であるがまだ存在しているのに、数寄を凝らした小林邸は跡形もない。(小林の家と庭の無残な崩壊のてんまつについては吉田秀和全集23巻「小径の今」を参照のこと)

ここからわずか10数メートルの距離に大仏次郎茶亭がよく保存されているのを見るにつけ、まことに残念なことだったと思う。

吉田氏によれば、中原にとって音楽は生きるうえで必要不可欠なもので、彼の音楽論はすばらしく面白かったそうだ。

吉田氏と中也はよく一緒にモーツアルトやバッハを聴いたそうだが、あるとき「陽気な音楽にはもう飽きたよ」と言い出した。長谷川泰子との失恋はそれほどの衝撃を中也に与えた。「中也はあの失恋だけで一生を過ごしたようなものだ」と吉田氏は語っている。

可哀相だた、中也のことよ。

しかし、レコードが中原の手に入ると、いつも行方不明になったという。

大岡昇平が阿部六郎に持ってきたシューベルトの『死と乙女』の3枚組みは、たちどころに消えて中原に呑まれてしまった。

呑むためには金が必要で、中原は金のある奴に払わせてせっせと質屋に運んでいく。それを恩師の阿部は笑って許していたそうだ。ここらへんは辰野隆と小林秀雄の関係にちょっと似ている。

音楽、そしてフランス語の師匠であった中原を負かしてやろうと思って、吉田氏は奥さんのために買ったピアノで、毎日ヴェートーヴェンのピアノソナタを弾いていた。

その吉田氏の傍に来て阿部夫人は、ハーッとため息をついていたそうだが、こういう話をきくと阿部六郎夫妻の偉大さはますます光り輝いて見える。
ちなみに阿部六郎は独文学者でかれが翻訳した角川文庫の『ツアラストラかく語りき』は私の愛読書でした。

それから、「吉田秀和全集第23巻」には、吉田氏が中也と麻布二の橋の青山二郎の家に泊まったときのエピソードが書かれていて、なかなかおもしろい。

当時青山は舞踊家の武原はん(もちろん先代の)と同棲していたが、吉田氏は彼女の素足の美しさに惹かれる。

そしてその翌日、二階の雨戸の隙間から朝の光が入ってきて、天井に光の条が何本かちらちらするのを見て、それが中也の「朝の歌」とまったく同じ光景であることに驚いたそうだ。

Wednesday, April 18, 2007

吉田秀和と小林秀雄

鎌倉ちょっと不思議な物語55回


音楽評論家にして最後の文人作家、吉田秀和氏は、2003年に愛するバルバラ夫人を亡くされ失望落胆の日々を送られていたが、最近ようやく再起されたようである。

朝日新聞、「レコード芸術」、「すばる」などに健筆を振るわれているのはご同慶の至りである。

その吉田氏が「中原中也のこと」というエッセイで彼の思い出を語っている。

『中也がもっとも好んだのは百人一首にある、♪ひさかたのひかりのどけきはるのひに しづこころなくはなのちるらん の1首だった。これを中原はチャイコフスキーのピアノ組曲『四季』の中の6月にあたる「舟歌」にあわせて歌うのだった。彼は枕詞の「ひさかたの」はレチタティーヴォでやって「光のどけき春の日に」から歌にするのだったが、そこはまたあのト短調の旋律に申し分なくぴったり合うのだった。私は彼にかつて何をせがんだこともないつもりだが、もしこういうことが許されるのだったら、彼にもう一度この歌を歌ってもらいたい。』

中也にフランス語を教えたのが小林秀雄で、吉田氏にフランス語を教えたのが中也だから、小林は吉田氏の大先生ということになるが、小林は晩年、現在の吉田邸の向かいに住んでいた。ちょうどその頃、私は由比ガ浜に向かって背筋をピンと伸ばして歩いていく小柄な男に下馬四つ角でぱったり出くわしたことがあるが、それが私が小林を見た最後の姿だった。

小林秀雄はグレン・グールドが死んだ翌83年に死んだ。小林は英国のピアニスト、ソロモンの弾くヴェートーヴェンが好きだった。

Tuesday, April 17, 2007

吉田秀和とバルバラ

鎌倉ちょっと不思議な物語54回

 私は評論家吉田秀和夫妻が手に手をとって、中原中也が死んだ清川病院の傍をゆるゆると歩いている姿を見かけたものだ。

平成15年10月、吉田秀和の妻、バルバラは半年間に及ぶ入院生活ののち、骨盤内腫瘍悪化のため76歳8ヶ月の生涯を鎌倉雪ノ下で閉じた。

ベルリン生まれのバルバラは、自分の故郷は変わってしまったので、死んだら吉田の先祖の眠る墓に埋めて欲しい、といって、和歌山県那智勝浦の町外れにある吉田家先祖代々の墓に葬られたという。

バルバラは、死の直前まで永井荷風の「断腸亭日乗」のドイツ語訳に心血を注ぎ、昭和12年の1月分までをようやく完成し、痛みをこらえながらベッドで腹ばいになって校正し、訳者の序文、あとがきを書き終え、装丁も自分の好みのものを指定してから亡くなった。

バルバラは「源氏物語」をはじめ平安期以降の日本女性の文学の素晴らしさに気付き、宇野千代、円地文子ら現代作家の短編集を欧州に紹介し、田山花袋、谷崎純一郎、川端康成などに関心を持ち、永井荷風の「墨東奇譚」を全訳し、漢学の素養を生かして「断腸亭日乗」の全訳に取り組んだのだった。

バルバラを失った吉田は、翌平成16年秋、「二人でいたときが一番幸せだった。オルフェオとエウリディーチエの神話のように黄泉の国に行って妻を連れ戻したい、とほんとうに思う」と語ったという。


(以上、07年2月2日号「鎌倉朝日」掲載の清田昌弘「かまくら今昔抄」より抜粋。写真はイタリア北部のマントバ近郊で発掘されたおよそ6千年前の新石器時代の抱き合う男女の遺骨)

Monday, April 16, 2007

大仏次郎茶亭にて

鎌倉ちょっと不思議な物語53回

年に2回の公開日ということなので、大仏次郎茶亭に行ってみた。

世間では「鞍馬天狗」で知られるこの作家の本宅はこの茶亭の斜め前にあったが、いまは別人が当時とは別の建物に住んでいる。

広い庭の真ん中に今では少なくなった茅葺の日本家屋の平屋がちんまりと控えている。

庭にはきれいどころが抹茶を接待し、縁側にはこの作家の代表作である「天皇の世紀」の冒頭ページと作家の死によって未完の絶筆となった最終ページが並べてあった。

それは長岡藩家老の河井継之助が最期を迎えるシーンである。

大仏は長期にわたって朝日新聞に連載したこの作品を、どうしても完成させたかった。

戊辰戦争が終結し、御一新が成就し、明治天皇が即位するところまでを、なにがなんでも書きたかったのである。

横浜の大仏次郎記念館に行くと、築地のがんセンターの病室に寝たまま執筆できるように木でつくった特製の執筆板を見ることができるが、それはまさに鬼気迫る遺品である。

彼の明晰な頭脳の裡ですでに構想は固まり、おびただしい資料は書庫にうずたかく積まれ、モンブランの太字が原稿用紙に走り始めるのを待ちかねていた。

しかし作家のからだを蝕んだがん細胞が、その続きの執筆をはばんだ。

花曇の空の下で、その悔しさ、無念さ、恨めしさがブルーブラックのインキに深くにじんでいた。

茶亭の別室の縁側には、「われは小さき杯より持たねど、それにてわが真心を汲み出すなり」という小デュマの言葉が、作家の自筆の色紙に毛筆で記されていた。

ちなみに、アレクサンドル・デュマ・フィスDumas fils(1824-95)は、「三銃士」「モンテクリスト伯」などを書いた父アレクサンドル・デュマの私生児で、ヴェルディのオペラ「椿姫」の原作を書いたことで知られる。

Sunday, April 15, 2007

前略 神奈川県知事 松沢成文殿

前略 神奈川県知事 松沢成文殿

長洲知事時代の神奈川県は、飛鳥田市制の横浜市と並んで全国の障碍福祉対策のトップを走っていました。

ところが近年貴殿が知事になってからは、私たち障碍者関係者にとってろくなことはほとんどありません。

その原因は靖国神社が大好きだった前首相が成立させた、悪名高い「障害者自立法」にあります。

この法律は名前だけは立派ですが、障碍者に対しては過酷なまでの自己責任と社会復帰を、福祉施設に対しては過酷なまでの経営効率第1主義、成果主義を強引苛酷に押し付けようとするものです。

そのため、ほんらい労働という概念すら理解できず、実作業にもまったくなじまない知的!?障碍者である私の息子なども、いやおうなく効率労働に駆り立てられざるを得ず、慈愛に満ちた心優しき施設スタッフたちも、過酷なノルマと管理主義の哀れな奴隷となりつつあるのです。

いままでの社会福祉施設は、心身の最弱者を優しく保護しようというものでした。

しかしこれからは、純情可憐なナイチンゲールにアメリカ直伝の経営学を叩き込み、「生き残り&金儲けのための福祉工場」に大変身させよう。社会的弱者にも、福祉施設にも、一般世間と同様の競争原理の荒波にさらし、勝ち組と負け組みの格差をつけ、敗北者はこの世から退場していただこう、というのが小泉前首相以降の現政権担当者のシナリオなのです。

このような障碍者と障碍施設殺しの悪法の施行にあわせ、いま神奈川県は、施設に対する運営費補助を全廃する暴挙をくわだて、平成19年度予算では昨年比4分の1、金額にして3億6700万円のカットを実施しようとしています。

その結果、私の家族などが通っている福祉施設では、

1)重度の障碍者の受け入れがとても難しくなり、

2)同性介護など利用者の人権を守るための支援ができにくくなり、

3)さまざまな地域生活支援事業が展開できなくなり、

4)職員の雇用にさらに支障をきたし、労働環境がさらにさらに悪化しようとしています。

貴殿を支持する民主党などでは「格差社会はけしからん」と騒いでいますが、私に言わせれば、それは健常者のわがままで、生まれながらに“あらかじめ格差をつけられている”のは障碍者(児)たちです。

ハンディキャップのある人たちの生活を守るために、どうか民間社会福祉施設運営費補助金を存続してください。 

また、障碍者(児)たちの生活を支えるために、同補助金の水準を現状維持し、これ以上ビタ一文削減しないでください。

以上、緊急に要請します殿

流鏑馬を見る

鎌倉ちょっと不思議な物語52回

今日は鎌倉まつりの最終日で八幡様で流鏑馬神事がとり行われていたので、自転車に乗って見に行った。

流鏑馬は久しぶりだが、いつもながらの大迫力である。

武具に勇ましく身を固めた武者が、美しい優駿にまたがり、八幡様の数百メートルの間道を、東の端から西の端まで全力で疾走し、その間に三つの的を射る。

走りながら身をひねって矢をつがえ、的を狙い、ひょうと的を射るのである。

素人では到底できない神業であるが、今日は全的的中の名技が相次ぎ、つめかけた観衆からやんやの喝采を浴びていた。

流鏑馬は観光客めあての曲芸のように思われがちだが、実際は鎌倉時代の武士の遺風をいまに伝える豪壮な殺戮の荒業である。

往時百メートルの距離から弓を引いて百発百中、と伝えられる鎌倉武士の実力が、けっして嘘偽りのものではなかったことを、それこそ我々は目の当たりに実感するのである。

弓術の最後に到達すべき境地、それは弓も矢もなしに射当てることである。(オイゲン・ヘリゲル「日本の弓術」)

ひょうと射て はらりと散るか八重桜  芒羊

Friday, April 13, 2007

降っても照っても 第6回 

降っても照っても 第6回 

*G・ガルシア=マルケス著「わが悲しき娼婦たちの思い出」を読む。

翻訳は原作とはまったく違うものである。両者は似て非なるもの、である。

それなのに私たちは翻訳を読めば原作を読んだと錯覚してしまう。これはじつに奇妙な話だ。そのことは原文を読み、いくつかの翻訳を読み比べてみると分かる。日本語でも源氏物語の原文と谷崎や与謝野の現代語訳の遠い遠い距離を思えばそれが理解できるだろう。

だからこのG・ガルシア=マルケスの本もこの木村榮一氏の翻訳で読む限りは「わが悲しき娼婦たちの思い出」をほんとうに読んだことにはならない。

それはともかく、川端康成の「眠れる美女」の主題によるマルケス版変奏曲が本書である。

川端が、「たちの悪いいたづらはなさらないで下さいませよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した。」とラールゴで演奏を開始したのに対して、

マルケスは、「満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしようと考えた。」とアンダンテ・ポコ・モッソで第1主題を歌い始める。

ここに両者の、あるいは日本文学とラテン文学の違いがあざやかに示されている。

おなじノーベル賞を頂戴しながら、逗子マリーナで芥川譲りの「漠然とした不安」におののいて自死を遂げる作家と、老いてなお馬並みの巨大な逸物で少女を貫こうとする不滅の老人の生の躍動! そのあざやかな対比を見よ!

*山田詠美著「無銭優雅」も読む

これは吉祥寺を舞台にした、熟女と中年男の恋愛譚でなかなか読ませます。

エルメスよりユザワヤがおしゃれ、という視点は大賛成です。

軽薄現代カジュアル文体が不愉快だったが我慢して読んでいると次第に引き込まれました。

章間の縦横無人の引用が隠された第二の小・小説であり、それらが次第にクレッシェンドして絶妙な効果を発揮し、最後の最後にとんでもないところまで連れて行かれてしまいました。

しかしこの結末はいったいなんなんだ? 

Thursday, April 12, 2007

降っても照っても 第5回 

「吉田秀和全集第24巻ディスク再説」を読む

キャンバスを前にして、人物や風景を描こうとするときには目と頭が必要だが、ドガのように線で描くか、セザンヌのように色で描くか2つの方法があるのではないだろうか。

前者は対象を知的・分析的にとらえ、後者は直観的・直感的にとらえる。

「デッサンとはフォルムではない。フォルムの見方である」と語ったドガは、「橙色は彩り、緑色は中性化し、紫色は影をなす」とも語った。

しかしセザンヌは、「君たちのいう有名な線はどこにあるのか? 私には自然の中には色しか見えない」というドラクロアの思想をさらに徹底的に延長し、「色彩が充実豊富になればなるほど表現は精密的確になる」と考えた。

それもさまざまな色彩を使い分けたり、複合的に組み合わせたりしながら個々の物体、あるいはいくつもの物体の集合を描くだけではなく、そういった物体だけの存在する空間そのものを画面に掬い取り、現出させることを目的とするようになった。

自然の世界に見出される「あれやこれやの個々の物体」でなくて、描くことによってはじめて生まれてくる空間、つまり絵画的空間を作り出すこと。これがセザンヌの仕事が終局的に到達すべき地点だった。

セザンヌはまず水平と垂直の軸を定め、そこにこれから現出させようと望む空間の枠、いや正確には骨組みを設定する。

「水平に平行の線は広がりを、その水平に対し垂直の線は奥行きを表す。そうして人間にとっては自然は横の広がりよりも縦の奥行き、深さを通じてかかわってくるのである」

セザンヌはそうやって設定された骨組みを絵画的空間として「実現する」段階にどんどん深入りする。それが「線でなく色で描く」彼ほんらいの作業である。

ある丹波の老人の話(18)

第三話 貧乏物語その5

続いて翌年の正月の大売出しも千客万来で、他の店からうらやまれ、「なかなかやるもんじゃ。さすがは春助の子じゃ。と人からも褒められるようになりました。父は道楽で身を誤まったんでししたが、商売は上手やったんです。

このように私の店がはやるのを見て、あれほど詰め掛けた借金取りもバッタリ来なくなりました。

差し押さえの口にはわたしはが直接行って話し合い、だいぶまけてはもらいましたがともかく皆済し、正月には封印の取れた畳の上でめでたく雑煮が祝えたんどした。

まだ借金は残っとりましたけど、誰も取立てを催促する者はなく、それどころかまだ大口三百円も残っている債権者から、「また入ったらいつでもつかっておくんなはれよ」と言われるほど、昨日の鬼も仏になって、急に融通も効きはじめたんでした。

今までは元値を切って売っていたもんですから、全然儲けにはなっとらへんのですが、とにかく商品がよく捌けて相当額の金が不自由なく融通がききだし、店の名前があちこちで話題になり、お得意先が増えたことは商人にとって絶対の強みでした。

問屋筋へも決して遅滞せず支払いを済ますことができたんで、信用は満点で先行きは明るく、まだ借金が残っていることも格別気にはなりまへんでした。

Tuesday, April 10, 2007

第三話 貧乏物語その4

ある丹波の老人の話(17)

私は「今は金がないが、けっして不義理はしないから、これだけでできるだけ多くの商品を卸してください」と十円を出して頼むと、主人は案外快く承諾して五十円ほどの下駄と下駄の緒を送る約束をしてくれました。

この勢いで第二の店、第三の店へ行き、五円ずつ金を渡して商品を送ってもらう約束をし、それが豆仁という運送屋に出荷されるところまで見届けて郷里に戻ったんでした。

それから秋祭りももう終っており、時期はずれではありましたが、私は赤提灯を五つ六つ店の軒にぶらさげて下駄の大安売りを開始し、元値を切っての大バーゲンを敢行したんでした。

案の定安い、安いと飛ぶように売れたので、私はその金を持って再び大阪に行き、前の残金をきれいに払い、今度は前金なしに前より遥かに多く三つの店から商品を卸してもらいました。

それがちょうど年に一度のエビス市に間に合い、私はまたもや元値を切ってジャンジャン下駄を売りまくりました。

毎日毎晩お客がアリのように群がり、おもしろいほどよく売れました。

そして「この町は下駄がめっぽう安いげな」という評判が立ち、福知山や舞鶴からも買い手がやって来るようになり、私の店ははやりにはやりました。

Monday, April 09, 2007

ある丹波の老人の話(16)

第三話 貧乏物語その3

これまでの概略→ 丹波の国のある老人の物語。青年時代に養蚕教師をしていた主人公は父親の借金の返済に追われてとうとう夫婦で愛媛県に夜逃げする羽目になってしまった。


私は差し押さえ残りの手回り品と売れ残りの下駄を信玄袋三つに詰め込み、駅の近くの知人の家に預けました。手元には必死で工面したお金がようやく二十円あまり、これでは松山までの旅費しかありまへん。それがほんまに心細かったんですわ。

それから舞鶴に嫁いでおる妹のことや福知山の二〇連隊に入隊しておった弟のことを思い、弟が満期退営しても帰る家がなかったらえろう困るやろ、などと思いだすと、ますます心配になって、夜逃げの決心もだんだん鈍ってきよりました。

思い余って頭のうしろに両手を組み、ゴロンと寝転んで考え込んでいたとき、ちぎれた新聞紙が枕元にあったので、何気なく目を通すと三文小説が載っていました。

そこには不思議なことに、私のように借金取りにいじめられている男のことが書かれていて、
「今はなんといわれても金は一文もねえ。ただし俺も男だ。キンタマだけは一人前のを持っているから、これでよかったら持って行け!」
と、タンカを切るところがありました。

これを読んだ私は、メソメソしている自分をふがいないと思いました。そしてこの小説の男のように、もっと図太くやらんとあかんと思ったのです。

そうだ、夜逃げなんか止めにして城を枕に討ち死にの覚悟でここに踏みとどまろう。そしてなんとかして少しでもまとまった金を手に入れよう。逃げるにしてもそれからだ、と思い直したんですわ。
そこで私は、虎の子の二十円あまりを持って大阪へ鼻緒などの仕入れに行きました。

しかし今まで取引しておった問屋へは借りがあるから顔出しができまへん。

そこで御堂筋の方へ行って別の問屋を探しました。すぐに二、三軒見つかりましたがなにしろ二十円足らずのはした金を持って虫の良い無理を言おうというんでっからどうも敷居が高うて店の中へ入れまへん。

行ったり戻ったりしていると、近くに座摩神社ちゅう立派なお宮があったので、そこへお参りしていきなり鈴をメチャクチャに鳴らして祈りました。
「どうか私を強くしてください! どうか私に勇気を与えてください!」とね。

それから、ヨーシと勢いをつけて店の前まで戻たんですが、どうにも敷居がまたげない。

仕方なくまた神社に引き返して、今度は傍にあるお稲荷さんにも祈ったんですが、やはり入れない。

また引き返して三度目を拝んでいったら、今度は入れました。

Sunday, April 08, 2007

畏るべし、友川カズキ

♪音楽千夜一夜 第18回

土曜日の夜に、NHK-BSの「フォークの達人」で友川カズキという物凄い歌手のうたを聴いた。

友川は1950年に秋田で生まれ、70年代から活躍していた詩人で、画家で、博打打で、歌手でもあるという。眉目秀麗な大酒呑み、だそうだが、一聴一見、とにもかくにも圧倒された。

ありふれた言い方だが、このように己の全存在を1曲に賭け、ギターを叩き付け、殴りつけ、己のはらわたをギターで掴んでは投げ捨て、捨て身の歌唱に生き様を晒すような歌い手が、この平成の御世にも残存していようとは、ああ不覚にも知らなんだ。

もっとも、彼を知らないのは私だけかもしれない。

が、遅すぎたにもせよ、このような魂を直撃する芸能者にようやく巡り合えた感動と喜びを伝えないわけにはいかない。

冒頭の「生きてるって言ってみろ」でショックを受けた私は、アンコールで歌われた中原中也の詩による「坊や」までの全17曲、1時間半の吉祥寺ライブを、ただただ口をあんぐり開き、よだれを垂らし、呆然自失して聴き惚れておりました。

こいつの前では吉田拓郎、三上寛、友部正人、高田渡も到底敵ではない。まさに縄文人の魂の絶唱、絶叫であります。

生の跳躍が、そのまま、息も絶え絶えのうたになる。

歌うも命懸け、聴くも命懸けとは、げにこの人の音楽道であろう。

とても生半可に聞き流せない音楽を、この人はする。大量の焼酎を呷りながらシャウトする。飲まずには生きられぬ、飲まずにはうたえないという一見破滅型ながら東北人特有の図太く粘り強い冷静さも合わせ持っていて、その二重性もまた魅力的である。

「サーカス」、「また来ん春」、「坊や」など中也原作の詩に作曲したものもいいが、自作自演はもっとすごくて、素晴らしい。

「似合った青春」、「夢のラップもういっちょう」「おじっちゃ」の激情、「訳のわからん気持」「乱れドンパン節」のアナーキズム、「ダンス」「ワルツ」の退廃の美……
これを至高の芸術と呼ばずしてなんというのだ! 

石塚俊明、永畑雅人、松井亜由美、金井太郎など、元頭脳警察のメンバーを交えたバックの演奏がまたすごくて、素晴らしい!

NHKさん、またしてもいい死土産を見せていただきました。この放送はおそらく再放送されるだろう。また今すぐならYOUTUBEでもこれらの名曲の一部を視聴することができます。

友川カズキ、断じて逸すべからず!

Saturday, April 07, 2007

ふあっちょん幻論第6回

1750年まで、中国は生活水準と文明の発展において欧州と肩を並べていた。
いや、繁栄の度合い、政治、芸術のいずれにおいても勝っていたといえよう。

しかし産業革命がすべてを変えた。綿の織物産業における中国の家内制手工業の優位を打ち破ったのは、英国のジェニー紡績機と蒸気エンジン、そして専門家による分業生産システムであった。

中国を打倒し、世界の綿糸需要の半分近くを供給した英国の綿産業は、1930年代に大量生産方式の米国にその優位を奪われ、18世紀後半になると世界最大級の工場はすべてニューイングランドに集中していた。

また米国における綿生産の中心地は次第に南部に移り、その唯一最大の成長エンジンは中国への輸出だった。19世紀末、米国の織物輸出の半分以上を中国が消費し、米国から中国への輸出の半分以上が綿織物だった。その大半を製造したのが例の映画「風と共に去りぬ」に出てくる奴隷制で知られる南部だった。

そこに登場したのが旭日昇天の日本帝国で、1930年代半ばには日本が世界の綿製品輸出のほぼ4割を担うようになるのである。

英国に100年遅れた日本でも、この産業に従事する労働者は半分以上で繊維製品は輸出の3分の2を占めていた。第2次大戦前までの日本にとって世界で通用する唯一の産業が綿織物だったのである。(「ある丹波の老人の話」を参照)

日本の紡績能力は大戦中に9割以上が破壊されるが1950年代にはトップの座を取り戻すことになる。当時の日本は繊維のみならず衣料品貿易においても世界を主導していた。

ところが60年代になると二つの領域における日本の貿易シェアは次第に減り、さらに安くて従順な労働力を持ったアジアの国々が競争をリードするようになる。

そしてついに70年代には香港、韓国、台湾の新興工業国・地域が日本を抜き去り(アジアの奇跡)、70年代半ばに香港が世界最大の衣料輸出国に躍り出る。

しかし、本命はその背後から迫っていた。

1980年以来中国の衣料品輸出は毎年平均して3割以上の成長を続け、1993年には世界最大の衣料品輸出国になり、今日もなお米国が綿の世界市場に君臨するのと同様、その後もずっとその位置を維持している。

2005年に多国間繊維取り決めMFAが廃止され、中国の繊維製品は欧米の港に押し寄せたが、欧米諸国は改めて中国に厳しい輸入制限を課し、自国の繊維産業を懸命に保護したのであった。

先進国と発展途上国の貿易摩擦の対立は、これからますます熾烈なものになるだろう。

(参考 森安 孝夫著「シルクロードと唐帝国」、ピエトロ・リボリ著「あなたのTシャツはどこから来たのか?」)

Friday, April 06, 2007

さようなら中也

さようなら中也

鎌倉ちょっと不思議な物語52回

去る平成10年10月9日から11月23日まで、鎌倉文学館で特別展中原中也-鎌倉の軌跡―が開催された。

この展覧会を見た私の記憶に今なお残っているのは、中也遺愛のコートである。

中也にはアストラカンコートを歌った詩もあるが、中原夫人美枝子氏蔵にかかる一着の黒のウールのコートにはおもわず息を呑んだ。

素材も仕立てもカッテイングも素晴らしいそれは、まるで中也の青春の象徴のようであり、詩人は死んでもその存在をまさに眼前にあるがごとく生き生きと伝えていたのであった。

肉体はたやすく死すとも、物質は遥かに長く地上に残り、孤高の詩人の魂は、父母未生以前の永遠に残るのであろう。

なおこの中也と鎌倉のシリーズでは、このときの特別展のパンフレットの記事を参考にさせてもらった。

では最後に私がいちばん好きな中也の詩を読んでください。BGMはチャイコフスキーの「四季」の舟歌か、ハイドンの中期の交響曲のメヌエットで…。

なお、この詩は中也が代々木上原の友人の下宿に泊まった翌朝に生まれたものです。

天井に 朱きいろいで
戸の隙を 洩れ入る光、
鄙びたる 軍樂の憶ひ
手にてなす なにごともなし。

小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、
倦んじてし 人のこころを
諫めする なにものもなし

樹脂の香に 朝は悩まし
うしなひし さまざまのゆめ、
森並は 風に鳴るかな

ひろごりて たひらかの空、
土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。

Thursday, April 05, 2007

謎が解けた!

謎が解けた!

♪音楽千夜一夜 第17回
 
あの有名なバッハ・コレギウム・ジャパンの音楽監督で、チェンバロ・オルガン奏者でもある鈴木雅明氏は、高校三年の半ばまでは脳外科医を目指して猛勉強をしていたそうだ。

ところがそんな夏のある日、氏はたまたま作曲家の萩原秀彦氏のレクチャーを聞いたそうな。

萩原氏はバッハの平均律クラヴィーア曲集の第8番を解説して、「この曲に出てくる5度の跳躍、3度の下降、そして3度の上昇は、父とキリストと精霊の三位一体を表わす」と言ったそうだ。

その瞬間、鈴木氏は猛烈な感銘を受け、「やはり音楽はすごい。バッハはすごい!」と痛感し、脳外科医の夢はどこかへすっ飛んで晴れて音楽家になった、という。

この話を聞いてなにやら不可解な疑惑を抱いた私は、グールド、リヒテル、ロザリン・チュレック、シュナーベル、ニコラーエワ、グルダ、アファナシエフ、マーチン、シフ、アスペレンの計10名の演奏で、同曲のプレリュードとフーガを繰り返し、繰り返し聴いた。

そしてそのたびに「5度の跳躍、3度の下降、そして3度の上昇」は何度も何度も登場したのだが、不幸なことにいくら耳を澄ませても、不信心な私にはそれが「父とキリストと精霊の三位一体を表わす」ものとは聴こえなかった。

そして昨日、ついに私はその理由がわかった。

私は高校時代の世界史でニケーアの公会議(325年)について学んだとき、三位一体説を唱えた勝ち組のアタナシウス派よりも、三位一体を否定する負け組のアリウス派に共感を抱き、それがかの名曲迷鑑賞の大いなるさまたげになっていたのだった?!

中原中也の最期

鎌倉ちょっと不思議な物語52回

昭和12年夏、中原中也は詩的再出発を目指し、詩生活に沈潜するために故郷山口の湯田への帰郷を決意する。

中也は疲労困憊した精神と肉体をふるさとで回復して、ふたたび文壇に復帰するつもりだった。

しかし中也の衰弱は激しく旧友安原喜弘を訪ねた翌10月5日に結核性脳膜炎を発病、翌日鎌倉養生院に入院した。それが現在の清川病院である。(写真)

これまた余談ながら、私の行きつけの病院もこの清川病院である。

そして昭和12年10月22日、詩人の中の詩人、中原中也は家族と友人たちに看取られながら永眠した。

おまへはもう静かな部屋に帰るがよい。
煥発する都会の夜々の燈火を後に、
おまへはもう、郊外の道を辿るがよい。
そして心の呟きを、ゆっくりと聴くがよい。(「四行詩」)

これは詩人、中原中也(明治40年~昭和12年)が入院前に書きのこした最後の詩である。


小林秀雄に託された詩集「在りし日の歌」は翌13年に出版された。遺骨は郷里での告別式のあと、吉敷の中原家先祖代々の墓に葬られた。


ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破って、
しらじらと雨に洗はれ、
ヌックと出た、骨の尖。  「骨」

Tuesday, April 03, 2007

ポール・ヴァレリーの「ドガ ダンス デッサン」を読む

ポール・ヴァレリーの「ドガ ダンス デッサン」を読む


降っても照っても 第4回

わが偏愛の思想家による偏愛の書に清水徹氏の新訳が出た。

これは正確という病にとりつかれた孤独な思想家ポール・ヴァレリーが書いた、言葉の厳密な意味でもっともで楽しく、もっとも正統的で保守的で、才気煥発たる美術論考であり、小林秀雄の初期の美学論の源泉がここにある。

 その中からいくつかの言葉を紹介しよう。

 ・デッサンとはフォルムではない。フォルムの見方である。ドガ。
 ・橙色は彩り、緑色は中性化し、紫色は影をなす。ドガ。
・航海術の言語あるいは狩猟の言語ほど美しく実証的なものがあろうか? ヴァレリー。
・詩句は言葉でつくられる。マラルメ。
・「人間は自然の敵である」フランシス・べーコン→エミール・ゾラ→ドガの言葉
・私が「大芸術」と呼ぶものは、単純にひとりの人間の全能力がそこで用いられることを要請し、その結果である作品を理解するために、もうひとりの人間の全能力が援用され、関心を向けねばならぬような芸術のことである。(中略)恣意的なものから必然的なものへの移行、これほど驚嘆すべきことがあろうか? これこそは芸術家の至高の行為であり、それ以上に美しいものがあろうか?ヴァレリー。

 私はこのうち最後のヴァレリーの言葉に導かれて、自分がもっとも軽蔑し、もっとも不案内であった領域の職業にあえて従事する決意を固め、その醜い軌跡が私の人生そのものとなった。

私はなんとヴァレリーの言う「完全なる人間」をめざしていたのである。(笑)

中原中也と小林秀雄

鎌倉ちょっと不思議な物語51回


晩春の夕方、中原中也と小林秀雄は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた。

花びらは死んだような空気の中をまっすぐに間断なく落ちていた。

花びらの運動は果てしなく、小林は急に嫌な気持ちになってきた。我慢ができなくなってきた。

その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいいよ、帰ろうよ」と言った。

小林ははっとして立ち上がり、「お前は相変わらずの千里眼だよ」と吐き出すように応じた。

中原はいつもする道化たような笑いをしてみせた。

それから二人は八幡宮の茶店でビールを飲んだ。

夕闇の中で柳が煙っていた。

『中原はビールを一口飲んでは「あヽボーヨー、ボーヨー」と喚いた。「ボーヨーって何だ」「前途芒洋さ、あヽボーヨー、ボーヨー」と中原は眼を据え、悲しげな節をつけた。詩人を理解するということは、詩ではなく生まれながらの詩人の肉体を理解するということはなんと辛い想いだろう…。』
(小林秀雄「中原中也の思い出」より)


余談ながら、私の俳号である芒羊はこの下りと漱石の三四郎の「ストレイシープ」からとりました。

愛するものが死んだ時には
自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだ時には
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも業が深くて
なほもながらふことともなったら

奉仕の気持ちに、なることなんです。
奉仕の気持ちに、なることなんです。       「春日狂想」

Sunday, April 01, 2007

中原中也とキリスト教会

「鎌倉ちょっと不思議な物語」第50回特別記念号

 
中原中也は母の従妹の西川まりゑと一緒によく天主公教会大町教会を訪れ、ジョリー神父の話を聞いた。

この教会は現在も同じ場所にあり、建物は改築されたがカトリック由比ガ浜教会として現存している。

礼拝堂の前にはマリア像、右側には司祭館、奥にも離れがありかなり広大な敷地にさまざまな花が植えられている。長谷の大通りを少し入った驚くほど静謐な環境である。

中也と教会、それはランボオとの交友から足を洗ったヴェルレーヌの改心を思わせる。


老いたる者をして静謐の裡にあらしめよ
そは彼等こころゆくまで悔いんためなり

吾は悔いんことを欲す
こころゆくまで悔ゆるは洵に魂を休むればなり
「老いたる者をして」(空しき秋第12)

中原中也と空気銃

鎌倉ちょっと不思議な物語49回

昭和12年当時の鎌倉には小林秀雄、今日出海、大岡昇平、中村光夫、島木健作、岡田春吉、高原正之助などが住んでいたが、中也は足しげくこれらの友人たちを訪ねた。また街中の散歩にもよく出かけ、映画館や書店や商店や寺社仏閣を訪ね歩いた。

中也は林屋という百貨店で空気銃を買い、以後しばしば鎌倉八幡宮や大塔宮へ雀を撃ちに出かけている。かつての林屋百貨店は現在では林屋材木店になっている。(写真左)

また中也は長谷の「からこや」というおもちゃ屋ではドミノを買った。

今年3月中旬にその「からこや」を久しぶりに訪ねたら、なんとシャッターが下りていた。(写真中)

愛嬌のある三人姉妹がいらっしゃーいと迎えてくれるいい店だった。2月の中旬にさよならバーゲンをして閉店したばかりだという。

同期の桜が散ったようでとても寂しいが、「からこや」のご主人は長谷商店街の会長さんなので閉店後も一人残って町の存続のために頑張ってくれるという。(お向かいの金物屋さん談話)

ドミノも空気銃も買えなかった私は、小町の商店街のたった1軒のおもちゃやで、パチンコと玉をセットで352円で買った。(写真右)

これで鎌倉の山々と動植物を荒らすタイワンリスをビシバシ撃ち殺すつもりだ。

ひねもす空で鳴りますは
あヽ電線だ、電線だ
ひねもす空で啼きますは
あヽ、雲の子だ、雲雀奴だ

碧い 碧い空の中
ぐるぐるぐると 潜り込み
ピーチクチクと啼きますは
あヽ雲の子だ、雲雀奴だ                  「雲雀」