勝手に建築観光33回
「新しさを求めて意味不明の新しさに迷う」のではなく、「古きをたずねてその新しさをふたたび見出すこと」。これが私たちが心の中でひそかに求めている現代建築のあるべき姿ではないでしょうか。
だからこそ辰野金吾設計の当初案を復元しようとしている東京駅のやり方は多くの人々から支持されていますし、数々の由緒ある建物を破壊した悪評高い三菱地所もかつて壮麗さを誇った三菱1号館をそのまま再建しようとしています。
東京駅の傍にある中央郵便局をなんとかそのままんも形で残したいと願う私たちの思いもこれと同じです。
だとすれば、このたび松竹が、1950年に竣工した吉田八十八設計の第四期の建物を、一九二四年竣工の岡田信一郎設計の壮麗な桃山様式のお手本(第三期)に土台を戻して、通算第五期の新歌舞伎座立ち上げをめざしたことは、歌舞伎座のみならず、銀座と東京の建築のあるべき姿に照らしてもっとも賞賛に値する勇気ある決断でした。
このようなよき企てが、都知事の個人的かつ一方的な意見で圧殺され、日の目をみなくなることはとても残念ですし、もしそうなれば銀座、東京のみならず日本全体の大きな文化的損失だと思います。
以上の観点から、松竹本社は昨日マスコミ発表された都知事推薦の現行案を廃棄して、もう一度当初の案に戻り、あの素晴らしい歌舞伎座建て替え案を再検討していただきたいのです。心ある市民は必ずや松竹オリジナル案を支持することでしょう。
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Thursday, January 29, 2009
Wednesday, January 28, 2009
松竹は「石原都知事案による歌舞伎座建て替え」を中止せよ
勝手に建築観光32回
東京築地の歌舞伎座では、いま異例のさよなら公演を行っています。
1924年に建てられ、米軍機による空襲で被災し、50年に改修され、02年に国の登録有形文化財に指定されたこの由緒ある建物については、私もこれまでこの日記で再三触れてきましたが、その老朽化が進んだためにどうしても建て替えるというのです。
物には寿命があるので建て替え自体は仕方がないのでしょうが、親会社の松竹が都に申請した第1次建て替え案を石原東京都知事が却下したために第2案に変更したというので驚きました。
今回の計画に携わった伊藤滋・早大特命教授らによれば、当初松竹は現在の歌舞伎座の原型となった太平洋戦争前の歌舞伎座を復元する計画だったそうです。ところが知事が事前の調整段階で注文をつけて、私見ではこのきわめてまっとうな復元計画を己の一存で葬ったというのです。
28日附の朝刊にはその改定案の写真が掲載されていましたが、それはこれまでも丸ビルや表参道ヒルズなどで実施されていたオリジナルの一部を形式的に踏襲する中途半端な折衷案でした。しかし施主が当初目指していたのは、価値ある文化財を単に復元するのみならず、光輝ある歌舞伎の殿堂をより歴史に忠実に再現復古しようとする意欲的な方法論でした。
これはたとえて言えば両国の国技館の立て直しにあたって江戸時代の回向院の相撲小屋、連合軍の爆撃によって崩壊したドレスデンの国立オペラをその一時代前の様式で再建しようとする試みにも似た「本格的な復古再現建築」への挑戦でした。
わが国の最高の芸術のひとつである歌舞伎の聖なる殿堂を、「より新しく」ではなく、「より古く由緒ある姿かたちで再現、再創造」しようというこの歴史的な英断を、「銭湯みたいで好きじゃない」「オペラ座のようにしたほうがいい」などという一知半解の近代化論者の一声で取り下げるとはなんと愚かなことでしょうか。
逗子海岸の丘の上の豪邸に住み少年時代から金持ちのぼんぼんとして育ったこの人物は、おそらく生まれてから一度も銭湯などに入ったことがないでしょうし、宮大工が秘術を尽くして建造した全国各地の銭湯建築や、庶民のあこがれが生み出した富士山のタイル絵の実物を見たこともないでしょう。
東京千住「大黒湯」の絢爛豪華な外装と内装の華麗な宮造りスタイル、花鳥の絵が色彩豊かに描かれた格天井、大寺院にもひけをとらないその完成度を一度でも目にした人なら、「銭湯みたいで好きじゃない」などとは口が裂けても言えないはずです。そのような不遜な言い草は我が国が誇る「銭湯文化」に対する無知であり、いわれなき差別でもあります。
また歌舞伎はいわば日本のオペラで、西欧のオペラとほぼ同じころに誕生した芸能ジャンルですが、それぞれに深い歴史と伝統がありますから、それにふさわしい建築様式で敬意を表さなければなりません。とりわけ本邦の歌舞伎建築においては、オペラ座の大理石と鉄とガラスではなく、重厚な木と紙と漆喰の壁で構築しなければ長唄、下座音楽、義太夫、清元の音響がなじまないのです。
ちなみに現在の歌舞伎座の音響の精妙さは国立劇場はもとより、サントリーホールやカーネギーホールなどをはるかにしのぎ、世界の劇場でも有数のものであることをほとんどの人が知りません。知事がいったいどこのオペラ座を想定しているのか知りませんが、新歌舞伎座は断じて「オペラ座のようにしては」なりません。
また知事周辺は「建て替えに反対したわけではない。ただ劇場とビルの調和がとれていなかった」と話しているそうですが、この場合、調和を破っているのは、そんじょそこらのどこにでもあるモダンなビルのほうです。
古今東西にわたって永久不滅の銀座の象徴であるべき劇場が、もしもありきたりのモダンなビルと調和していたならば、そのビルの外装やデザインをこそ劇場(新歌舞伎座)に合わせて根本的に変えなければならないはずです。
銀座のランドマークともいうべき交詢社ビルや和光ビルの形式的な保存改装が、首都の建築遺産にどれほどの文化的損失を与えたかを考えるとき、残る唯一無二の「世界に向かって開かれた銀座の顔」をどのように維持・保存・強化するのかはきわめて重要な問題です。
わたくしはこの際松竹本社に対して、フランスや中国の文化に圧倒的に無知で無理解な知事のアホ馬鹿勧告を勇気をもって退け、今回発表された改造案をただちに白紙撤回して当初原案に基づく新改築計画に復帰されることをせつに望むものです。
時こそ今は 傾け歌舞伎座!
♪今こそは天下分け目の関ヶ原松竹は断固石原案を退けよ 茫洋
♪歌舞伎座やオリンピックごっこする暇あらば新銀行の算盤弾け石原都知事
東京築地の歌舞伎座では、いま異例のさよなら公演を行っています。
1924年に建てられ、米軍機による空襲で被災し、50年に改修され、02年に国の登録有形文化財に指定されたこの由緒ある建物については、私もこれまでこの日記で再三触れてきましたが、その老朽化が進んだためにどうしても建て替えるというのです。
物には寿命があるので建て替え自体は仕方がないのでしょうが、親会社の松竹が都に申請した第1次建て替え案を石原東京都知事が却下したために第2案に変更したというので驚きました。
今回の計画に携わった伊藤滋・早大特命教授らによれば、当初松竹は現在の歌舞伎座の原型となった太平洋戦争前の歌舞伎座を復元する計画だったそうです。ところが知事が事前の調整段階で注文をつけて、私見ではこのきわめてまっとうな復元計画を己の一存で葬ったというのです。
28日附の朝刊にはその改定案の写真が掲載されていましたが、それはこれまでも丸ビルや表参道ヒルズなどで実施されていたオリジナルの一部を形式的に踏襲する中途半端な折衷案でした。しかし施主が当初目指していたのは、価値ある文化財を単に復元するのみならず、光輝ある歌舞伎の殿堂をより歴史に忠実に再現復古しようとする意欲的な方法論でした。
これはたとえて言えば両国の国技館の立て直しにあたって江戸時代の回向院の相撲小屋、連合軍の爆撃によって崩壊したドレスデンの国立オペラをその一時代前の様式で再建しようとする試みにも似た「本格的な復古再現建築」への挑戦でした。
わが国の最高の芸術のひとつである歌舞伎の聖なる殿堂を、「より新しく」ではなく、「より古く由緒ある姿かたちで再現、再創造」しようというこの歴史的な英断を、「銭湯みたいで好きじゃない」「オペラ座のようにしたほうがいい」などという一知半解の近代化論者の一声で取り下げるとはなんと愚かなことでしょうか。
逗子海岸の丘の上の豪邸に住み少年時代から金持ちのぼんぼんとして育ったこの人物は、おそらく生まれてから一度も銭湯などに入ったことがないでしょうし、宮大工が秘術を尽くして建造した全国各地の銭湯建築や、庶民のあこがれが生み出した富士山のタイル絵の実物を見たこともないでしょう。
東京千住「大黒湯」の絢爛豪華な外装と内装の華麗な宮造りスタイル、花鳥の絵が色彩豊かに描かれた格天井、大寺院にもひけをとらないその完成度を一度でも目にした人なら、「銭湯みたいで好きじゃない」などとは口が裂けても言えないはずです。そのような不遜な言い草は我が国が誇る「銭湯文化」に対する無知であり、いわれなき差別でもあります。
また歌舞伎はいわば日本のオペラで、西欧のオペラとほぼ同じころに誕生した芸能ジャンルですが、それぞれに深い歴史と伝統がありますから、それにふさわしい建築様式で敬意を表さなければなりません。とりわけ本邦の歌舞伎建築においては、オペラ座の大理石と鉄とガラスではなく、重厚な木と紙と漆喰の壁で構築しなければ長唄、下座音楽、義太夫、清元の音響がなじまないのです。
ちなみに現在の歌舞伎座の音響の精妙さは国立劇場はもとより、サントリーホールやカーネギーホールなどをはるかにしのぎ、世界の劇場でも有数のものであることをほとんどの人が知りません。知事がいったいどこのオペラ座を想定しているのか知りませんが、新歌舞伎座は断じて「オペラ座のようにしては」なりません。
また知事周辺は「建て替えに反対したわけではない。ただ劇場とビルの調和がとれていなかった」と話しているそうですが、この場合、調和を破っているのは、そんじょそこらのどこにでもあるモダンなビルのほうです。
古今東西にわたって永久不滅の銀座の象徴であるべき劇場が、もしもありきたりのモダンなビルと調和していたならば、そのビルの外装やデザインをこそ劇場(新歌舞伎座)に合わせて根本的に変えなければならないはずです。
銀座のランドマークともいうべき交詢社ビルや和光ビルの形式的な保存改装が、首都の建築遺産にどれほどの文化的損失を与えたかを考えるとき、残る唯一無二の「世界に向かって開かれた銀座の顔」をどのように維持・保存・強化するのかはきわめて重要な問題です。
わたくしはこの際松竹本社に対して、フランスや中国の文化に圧倒的に無知で無理解な知事のアホ馬鹿勧告を勇気をもって退け、今回発表された改造案をただちに白紙撤回して当初原案に基づく新改築計画に復帰されることをせつに望むものです。
時こそ今は 傾け歌舞伎座!
♪今こそは天下分け目の関ヶ原松竹は断固石原案を退けよ 茫洋
♪歌舞伎座やオリンピックごっこする暇あらば新銀行の算盤弾け石原都知事
Monday, April 23, 2007
国立新美術館を見る
国立新美術館を見る
勝手に東京建築観光・第8回
黒川紀章が設計した新しい国立美術館を訪れ、ついでにモネ展を見物してきた。
まず美術館だが、さすが人騒がせな黒川らしくダイナミックな外装である。ガラスが丸みを帯びて大きく波打っていた。
鉄とコンクリとガラスという冷徹な素材に、なんとかやりくり算段して温和性、運動性、そしていくばくかのヒューマニティを盛り込もうとする黒川の意図はよく分かる。
内部に作られた逆キノコ状の漏斗も無機的な内装に一定程度の植物性をもたらす効果を上げている。
が、褒められるのはここまで。それなりに工夫されたスケルトンが内包するリフィルには、いたずらに空虚な大空間が広がるのみだ。
しかも区画整理があまりにも機械的で、入場者の入退場の便などいっさい考慮されていない。とくにエントランスやトイレやクロークの狭さは言語道断。国内最大規模の貸ホールなのに、これで3階の全ホールが使用された暁には(そんなことは絶対にないだろうが)会場内は大混乱するであろう。
展示会場に入ると、その導線と照明が良くない。モネ展など入場したその次の空間の処理が悪いから、客の流れが混雑を起こしている。中学や高校の文化祭以下のレイアウトである。
モネの「睡蓮」の大作の表面がガラスで覆われており、そこに普通のライトを当てているから、客が画面を覗き込もうとすると自分の顔が見える。
きっとありきたりの印象派の展覧会だとつまらないので、最近復活してきた「モノ派アヴァンギャルド展」風に演出したのであろう!?
それやこれやでともかく国内最低の美術館のひとつであることは間違いがない。
しかしたったひとつだけこの美術館に見所があった。それは本館左側の別館の前に安置された旧陸軍歩兵第三連隊のレンガの入り口の一部である。
思えばあの昭和11年の2.26事件の首謀者のひとり安藤輝三第6中隊長は、兵を率いてこの場所で決起し、他の2名の士官とともに反乱罪で死刑に処せられたのであった。
驚いたことに、既成秩序に反逆した者たちの「遺物」としてのレンガの断片は、黒川のうそすそとしたガラス細工の虚構の幻影をすべてをぶちのめす、異様なまでの存在感に満ちていた。(写真)
勝手に東京建築観光・第8回
黒川紀章が設計した新しい国立美術館を訪れ、ついでにモネ展を見物してきた。
まず美術館だが、さすが人騒がせな黒川らしくダイナミックな外装である。ガラスが丸みを帯びて大きく波打っていた。
鉄とコンクリとガラスという冷徹な素材に、なんとかやりくり算段して温和性、運動性、そしていくばくかのヒューマニティを盛り込もうとする黒川の意図はよく分かる。
内部に作られた逆キノコ状の漏斗も無機的な内装に一定程度の植物性をもたらす効果を上げている。
が、褒められるのはここまで。それなりに工夫されたスケルトンが内包するリフィルには、いたずらに空虚な大空間が広がるのみだ。
しかも区画整理があまりにも機械的で、入場者の入退場の便などいっさい考慮されていない。とくにエントランスやトイレやクロークの狭さは言語道断。国内最大規模の貸ホールなのに、これで3階の全ホールが使用された暁には(そんなことは絶対にないだろうが)会場内は大混乱するであろう。
展示会場に入ると、その導線と照明が良くない。モネ展など入場したその次の空間の処理が悪いから、客の流れが混雑を起こしている。中学や高校の文化祭以下のレイアウトである。
モネの「睡蓮」の大作の表面がガラスで覆われており、そこに普通のライトを当てているから、客が画面を覗き込もうとすると自分の顔が見える。
きっとありきたりの印象派の展覧会だとつまらないので、最近復活してきた「モノ派アヴァンギャルド展」風に演出したのであろう!?
それやこれやでともかく国内最低の美術館のひとつであることは間違いがない。
しかしたったひとつだけこの美術館に見所があった。それは本館左側の別館の前に安置された旧陸軍歩兵第三連隊のレンガの入り口の一部である。
思えばあの昭和11年の2.26事件の首謀者のひとり安藤輝三第6中隊長は、兵を率いてこの場所で決起し、他の2名の士官とともに反乱罪で死刑に処せられたのであった。
驚いたことに、既成秩序に反逆した者たちの「遺物」としてのレンガの断片は、黒川のうそすそとしたガラス細工の虚構の幻影をすべてをぶちのめす、異様なまでの存在感に満ちていた。(写真)
Wednesday, March 21, 2007
黒川紀章の挑戦
勝手に東京建築観光・第7回
建物と緑を切り分ける直線を避け、膨らんだガラス壁が波打つ…。
東京ミッドタウンの国立新美術館を設計した黒川紀章選手が、今度は都知事選に立候補した。
あの安藤忠雄選手とつるんでオリンピック大建築計画を打ち出したあほばか東京都知事、石原慎太郎に一矢報いようとでもいうのであろうか?
いやあ老いてますますお盛んなことである。
さて建築家、黒川紀章の特質は、時流を見極め、それに乗じることが実に機敏であるということである。
現在安藤忠雄、隈研吾など多くの建築家がエコロジーと建築をにわかに結び付けようとしているが、黒川選手は、とっくの昔に彼のエコシティ構想によって河南省都鄭州市都市計画国際設計コンペで1等になった実績を誇る。
鄭州は北京から南西600kmの黄河流域の150万人古都であるが、山手線内側の倍以上の規模1万5000haを再開発し、旧市街に新都心を造っている。
800hの人口湖「龍湖」など緑と水が都心と融合する。そのコンセプトは、「生態回廊」と称するもので、各地域間に河川を巡らせて水上交通を盛んにし、岸辺には公園を作る。さらに一部の高層ビルを除いて高度15mに制限するなど、自然との共生をめざす大規模都市全体計画にすでに取り組んでいるのである。
表参道ヒルズひとつ作るのに保存と再生、住民と森ビルの合間でノーアイデアに陥ってしばし立ち往生した安藤選手なんか、ちゃんちゃらおかしくって、というところだろうか。
しかし時流に敏な建築家黒川紀章の原点は、やはり1972年に銀座8丁目に完成した集合住宅「中銀カプセルタワー」であろう。(写真)
すべての家具や設備を1つの箱に出来合いのパッケージとしてユニット化し、2本の鉄筋コンクリートのシャフトにボルトで接続したプレハブ住宅は、黒川と私が大嫌いな建築家、菊竹清訓が考案したメタボリズム=新陳代謝主義という思想に基づいて設計されたといわれている。
人間の体は60兆個の細胞でできており、その細胞は1秒ごとに1000万個が死滅して新しい細胞に生まれ変わっている。この有様をミクロで観察すると、人間は2ヶ月余りでまったく新しい存在に再生していることになる。
そこで時々刻々と変化する社会や時代に合わせ、まるで生物のように建築や都市を変化させよう、とするのがメタボリズム的な建築哲学、だそうだ。
しかし現地に立ってつくづくこのマンションを眺めていてもあまりメタボルな感じは沸いてはこない。むしろ黒川選手が本当に影響を受け、参考にしたのは、「現代のレ
オナルドダヴィンチ」といわれたバックミンスターフラー(R.BuckminsterFuller1895-1983)ではなかったろうか?
「最少のもので最大の効果を」、「グローバルに考え、ローカルに行動しよう」と唱え「宇宙船地球号」というコンセプトを創案したこの米国の建築家・数学者は、「最小の資源で最大の容積を確保できるフラードーム」の発明者でもあった。
東京ドームや木下サーカスのテントの下のオートバイ激走鉄球、さらにはフラーレンの構造にも似たそれは球体であったが、実はバックミンスターフラーは50年代からシンプルで機能的な矩形のプレハブワンルームの設計も世界にさきがけて取り組んでいた。
それを黒川選手が器用にパクッて日本流にアレンジしたものが、この中銀マンションではなかったかと、私は勝手に想像しているのだが……。
しかしモダンリビングの1典型として一世を風靡し、かつて私がこよなく愛したカプセルホテルの原器となったこの名建築も、寄る年波には勝てず、上下水の工事や補修にもはや対応できないという理由でまもなく取り壊されるそうだ。
建物と緑を切り分ける直線を避け、膨らんだガラス壁が波打つ…。
東京ミッドタウンの国立新美術館を設計した黒川紀章選手が、今度は都知事選に立候補した。
あの安藤忠雄選手とつるんでオリンピック大建築計画を打ち出したあほばか東京都知事、石原慎太郎に一矢報いようとでもいうのであろうか?
いやあ老いてますますお盛んなことである。
さて建築家、黒川紀章の特質は、時流を見極め、それに乗じることが実に機敏であるということである。
現在安藤忠雄、隈研吾など多くの建築家がエコロジーと建築をにわかに結び付けようとしているが、黒川選手は、とっくの昔に彼のエコシティ構想によって河南省都鄭州市都市計画国際設計コンペで1等になった実績を誇る。
鄭州は北京から南西600kmの黄河流域の150万人古都であるが、山手線内側の倍以上の規模1万5000haを再開発し、旧市街に新都心を造っている。
800hの人口湖「龍湖」など緑と水が都心と融合する。そのコンセプトは、「生態回廊」と称するもので、各地域間に河川を巡らせて水上交通を盛んにし、岸辺には公園を作る。さらに一部の高層ビルを除いて高度15mに制限するなど、自然との共生をめざす大規模都市全体計画にすでに取り組んでいるのである。
表参道ヒルズひとつ作るのに保存と再生、住民と森ビルの合間でノーアイデアに陥ってしばし立ち往生した安藤選手なんか、ちゃんちゃらおかしくって、というところだろうか。
しかし時流に敏な建築家黒川紀章の原点は、やはり1972年に銀座8丁目に完成した集合住宅「中銀カプセルタワー」であろう。(写真)
すべての家具や設備を1つの箱に出来合いのパッケージとしてユニット化し、2本の鉄筋コンクリートのシャフトにボルトで接続したプレハブ住宅は、黒川と私が大嫌いな建築家、菊竹清訓が考案したメタボリズム=新陳代謝主義という思想に基づいて設計されたといわれている。
人間の体は60兆個の細胞でできており、その細胞は1秒ごとに1000万個が死滅して新しい細胞に生まれ変わっている。この有様をミクロで観察すると、人間は2ヶ月余りでまったく新しい存在に再生していることになる。
そこで時々刻々と変化する社会や時代に合わせ、まるで生物のように建築や都市を変化させよう、とするのがメタボリズム的な建築哲学、だそうだ。
しかし現地に立ってつくづくこのマンションを眺めていてもあまりメタボルな感じは沸いてはこない。むしろ黒川選手が本当に影響を受け、参考にしたのは、「現代のレ
オナルドダヴィンチ」といわれたバックミンスターフラー(R.BuckminsterFuller1895-1983)ではなかったろうか?
「最少のもので最大の効果を」、「グローバルに考え、ローカルに行動しよう」と唱え「宇宙船地球号」というコンセプトを創案したこの米国の建築家・数学者は、「最小の資源で最大の容積を確保できるフラードーム」の発明者でもあった。
東京ドームや木下サーカスのテントの下のオートバイ激走鉄球、さらにはフラーレンの構造にも似たそれは球体であったが、実はバックミンスターフラーは50年代からシンプルで機能的な矩形のプレハブワンルームの設計も世界にさきがけて取り組んでいた。
それを黒川選手が器用にパクッて日本流にアレンジしたものが、この中銀マンションではなかったかと、私は勝手に想像しているのだが……。
しかしモダンリビングの1典型として一世を風靡し、かつて私がこよなく愛したカプセルホテルの原器となったこの名建築も、寄る年波には勝てず、上下水の工事や補修にもはや対応できないという理由でまもなく取り壊されるそうだ。
Tuesday, March 20, 2007
勝手に東京建築観光・第6回
木挽町の歌舞伎座のすぐ近所に、改造社の本社ビルを見つけた。
屋上の少建築物を含めると5階建ての鉄筋コンクリート造りで昭和通に面して由緒ありげに立っている。とりわけ窓枠のリリーフの仕上げが美しい。
この近辺は歌舞伎座をはじめ米軍の空襲でほとんど焼失したが、奇跡的に往時の面影を残しているのである。また、ほんらいは右側の菓子屋「銀座日の出」も改造社が使用していたものと思われる。
改造社書店といえば雑誌「改造」で余りにも有名である。以下面倒くさいのでウイキペディアの記述を大幅に引用しよう。
「改造」は社会主義的な評論を多く掲げた大正、昭和にかけての代表的総合誌で1919年(大正8年)に山本実彦の改造社から刊行された。小説なども掲載していたが、労働問題、社会問題の記事で売れ行きを伸ばした。
当時はロシア革命が起こり、日本の知識人も社会問題や社会主義的な思想に関心を寄せるようになった時期であり、キリスト教社会主義者の賀川豊彦、マルクス主義者の河上肇、山川均などの論文を掲載して、好評を博した。(ちなみに「死線を越えて」の社会思想実践家、賀川豊彦氏は、私が少年の頃我が家を何回か来訪され、その大宅壮一に似た風貌をいまもありありと思い出すことができる。)
また「改造」は、小説では志賀直哉「暗夜行路」を連載した。先行する総合雑誌として『中央公論』があったが、より急進的な『改造』に押されるほどになったのである。
改造社の山本社長は、1922年にかのアインシュタインを日本に招聘、さらに1926年には『現代日本文学全集』を1冊1円で発売し、いわゆる「円本ブーム」を巻き起こし、1929年、岩波文庫に対抗して改造文庫を発刊するなどまさに昭和出版界の風雲児の名をほしいままにしたのであった。
しかし第二次世界大戦中の1942年、掲載した論文が共産主義的であるとして弾圧を受け(横浜事件)、1944年に廃刊となる。(この横浜事件は現在も最高裁での再審と無実宣言を遺族が請求中)
「改造」は終戦後の1946年に復刊するが、その経営は思わしくなく、労働争議のすえ、ついに1955年に廃刊となった。
しかしその本拠地は、依然として平成の御世に赫赫として現存している。
ただし現在の建物の所有者は山本家とは無関係。いまは単なる書籍販売業を営み、1階は小売、上層部は書籍販売営業に使われているそうだ。
屋上の少建築物を含めると5階建ての鉄筋コンクリート造りで昭和通に面して由緒ありげに立っている。とりわけ窓枠のリリーフの仕上げが美しい。
この近辺は歌舞伎座をはじめ米軍の空襲でほとんど焼失したが、奇跡的に往時の面影を残しているのである。また、ほんらいは右側の菓子屋「銀座日の出」も改造社が使用していたものと思われる。
改造社書店といえば雑誌「改造」で余りにも有名である。以下面倒くさいのでウイキペディアの記述を大幅に引用しよう。
「改造」は社会主義的な評論を多く掲げた大正、昭和にかけての代表的総合誌で1919年(大正8年)に山本実彦の改造社から刊行された。小説なども掲載していたが、労働問題、社会問題の記事で売れ行きを伸ばした。
当時はロシア革命が起こり、日本の知識人も社会問題や社会主義的な思想に関心を寄せるようになった時期であり、キリスト教社会主義者の賀川豊彦、マルクス主義者の河上肇、山川均などの論文を掲載して、好評を博した。(ちなみに「死線を越えて」の社会思想実践家、賀川豊彦氏は、私が少年の頃我が家を何回か来訪され、その大宅壮一に似た風貌をいまもありありと思い出すことができる。)
また「改造」は、小説では志賀直哉「暗夜行路」を連載した。先行する総合雑誌として『中央公論』があったが、より急進的な『改造』に押されるほどになったのである。
改造社の山本社長は、1922年にかのアインシュタインを日本に招聘、さらに1926年には『現代日本文学全集』を1冊1円で発売し、いわゆる「円本ブーム」を巻き起こし、1929年、岩波文庫に対抗して改造文庫を発刊するなどまさに昭和出版界の風雲児の名をほしいままにしたのであった。
しかし第二次世界大戦中の1942年、掲載した論文が共産主義的であるとして弾圧を受け(横浜事件)、1944年に廃刊となる。(この横浜事件は現在も最高裁での再審と無実宣言を遺族が請求中)
「改造」は終戦後の1946年に復刊するが、その経営は思わしくなく、労働争議のすえ、ついに1955年に廃刊となった。
しかしその本拠地は、依然として平成の御世に赫赫として現存している。
ただし現在の建物の所有者は山本家とは無関係。いまは単なる書籍販売業を営み、1階は小売、上層部は書籍販売営業に使われているそうだ。
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