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Thursday, December 01, 2011

細馬宏通著「浅草十二階」を読んで

照る日曇る日第469回

最近東京の下町に東京タワーよりもぐんと高いジャックの空の樹というけったいな塔が出来るというので世間ではらあらあ騒いでいるようですが、明治23年11月に浅草に凌雲閣別名浅草十二階が完成したときはそんななまやさしいものではなく、明治一の高塔、東都のエッフェル塔にして至高のランドマークということで、江湖の話題を独占したそうです。

当時は世界でも珍しかった本邦初の電動式エスカレーターを装備し、鳴り物入りでオープンした十二階でしたが、ひとの噂も七五日。明治百美人写真の展示や演芸場のにぎやかしで集客を図りますが、やがて閑古鳥が鳴き、大正十二年九月の関東大震災で倒壊してしまいます。

本書はその浅草十二階がどのような経緯で建てられ、当時の文学者たとえば田山花袋、石川啄木、島崎藤村、北原白秋、木下杢太郎、江戸川乱歩などがこの地上一二階、高さ一七二尺(約五二米)の高塔についてどのような感想を抱いたかを論じるとともに、その社会思想的な意義について興味深い考察を行っていますが、著者が紹介している乱歩の言葉のように「どこの魔法使いが建てたのか実に途方もないへんてこりんな代物」であったこの高塔の謎は、追及すればするほど深まっていくかに思えてなりません。

卑小なる己を神に擬しいと高きところめざす者に呪いあれ 蝶人

Friday, November 11, 2011

横浜銀行由比ヶ浜支店跡を訪ねて


茫洋物見遊山記第70回&&勝手に建築観光第45回&鎌倉ちょっと不思議な物語第250回&

鎌倉文学館ツアーの途中で、窓や外装に施したアールデコ風のデザインが印象的な、古くて懐かしい小さなビルジングに出会いました。ちょうど芥川龍之介が亡くなった昭和二年に建てられた横浜銀行由比ヶ浜支店です。昭和一二年に死んだ中原中也もきっとこの銀行を利用したことでしょう。

このビルは大佛様に向かう道など五本の交差する場所に立っていて有名な長谷の六地蔵もこの近所にあり、この界隈のちょっとしたランドマークの役割を果たしています。

私のなけなしの貯金はぜんぶ横浜銀行に預けてあります。こんなお洒落なオフィスなら、駅前からざわざわここまで足を運んでも利用しても構わない、とさえ思うのですが、残念ながら現在はその名も「ザ・バンク」というバーに姿を変えてアルコールを一滴たりとも口にすることを医師から禁じられている私には無縁の存在と化しているのはちょっと残念でした。

鎌倉でお洒落な銀行といえば、お洒落とは無縁なビジネスを展開している三井住友銀行が、最近若宮大路にモダンな外装の支店を開設したのですが、よくよく見ればそれは倒産したラルフローレンの直営店。おされと言わんよりは、弱肉強食を地でいく買収劇の残骸なのでした。

鎌倉では生き残れなかったねラルフローレン 蝶人

Monday, August 22, 2011

本郷館を訪ねて


茫洋物見遊山記第61回&勝手に建築観光第42回

東京本郷森川町の「本郷館」が近々取り壊されるという悲しいニュースをマイミクさんから耳にして、久しぶりに現場に立って見ました。

 本郷館は築106年の古い木造建築で、東大の正門から200メートルほど離れた細い下り坂に沿って雲にそびえる3階建の下宿なのです。延べ面積は約300坪、中庭を囲むようにしてなんと76室があり、かつて作家の林芙美子や多くの学生がここで青春時代を送りました。

今年の3・11の激震にも耐えて1世紀の風雪を越えてきたこの歴史的建造物を保存しようと、地元の住人をはじめ「本郷館を考える会」や多くの人々が努力を続けてきましたが、家主の意向でとうとう8月から解体工事が始まってしまいました。

私がここをはじめて訪れたのは今から20年以上前で、森川町をぶらぶら散歩していた私の目の前に突然出現した建物の思いがかない巨大さと周囲を圧倒するような独特の存在感に圧倒されたものです。

すぐ近所では本郷館を題材にした絵や写真、詩などが街頭に掲示され、この由緒ある建造物の名残を惜しんでいました。

古の森川町なる本郷館生まれ変わりて住みたきものを 蝶人

Tuesday, July 19, 2011

磯崎新著「日本の建築遺産12選」を眺めて


照る日曇る日第446回

神を感知するためには出雲大社と伊勢神宮、伸びゆく内部空間を考察するためには円覚寺の舎利殿と三十三間堂、建築の自由形を見るためには三仏寺投入堂と西本願寺飛雲閣という塩梅に、現代の代表的な建築家である著者が6つの切り口で12の名建築を考察していくという今風のスマートな企画です。

古代から現在に至る長大な日本建築の流れを、著者は垂直の方向に伸びる「柱」とその柱を水平の方向に「架構」する2つのムーブメントの相関関係にあるととらえ、わが国の建築史は外国からの「圧力」、それに起因する「内乱」、それが結果する「受容」(もどき)、それが受肉化する「変形」(やつし)の4つのサイクルで回転運動を続けてきた、と著者は筆鋒鋭く説くのですが、さすが4半世紀にわたって現代思想に相亘りつつ建築の「構築する力」を信じて活躍してきた「世界のイソザキ」らしい総括といえるでしょう。

しかし建築家と香具師だけはその言説をうのみにしてはなりませぬ。いや、いくら口先三寸で立派なことをおっしゃしゃってもいっこうに構わないのですが、相撲取りの真価は土俵であり、将棋指しの真価が盤上の勝ち負けにあるがごとく、建築家の真価はその言葉や思想やお説教ではさらさらなくて、彼が構築した建築物そのものの価値にしかないのです。

私はこの人の頭があの有名な安藤忠雄なんかより百層倍も賢いことがすぐに分かったので、彼の難解な幾多の建築哲学書?を全部投げ捨てて巷に出て、その主要な作品をつらつら見て回ったものですが、例えば東京のお茶ノ水スクエアA館やらカザルスホール、ロサンゼルスまで足を延ばして見物した現代美術館にしても、彼の代表作として知られる水戸芸術館のアートタワーにしても、同じ作者の著作物から感じることのできる知的興奮と芸術的感動には程遠く、言行不一致のあまりの落差に呆然として慨嘆するほかなかったのは、まことに残念至極なことでした。

眼高手低とは名人にさえよく言われることですし、口で言うておることと全然無関係の製品が出来上がってくるのも、例えば安藤忠雄や黒川紀章などでは日常茶飯事で、その点でこの建築家を非難しているわけでは毛頭ありませんが、いったいどうすればこのように支離滅裂で頭の中でこねくり回したような不自然な建築を次々に大量生産できるのでしょうか? 

GT-M、梅松院、松竹本社、サントリー美術館等の設計者であるテキトー建築屋、隈研吾氏と同様、私には、先行者の拙劣な模倣である以上の建築価値を到底見出すことができないのです。

見る前に飛ぶな褒めるな有名建築家の商品ども 蝶人

Tuesday, July 06, 2010

三菱一号館で「マネとモダンパリ展」を見物しながら

茫洋物見遊山記第34回&勝手に建築観光39回

最近買ったばかりのパナソニックのブルーレイレコーダーの電源が勝手に入ったり、やくざと一体化した相撲界がてんやわんやの大騒動になったり、せっかく小沢と鳩山がおん出てくれた政党でなにを勘違いしたのか消費税を10%上げると口走ってまたまた支持率大幅ダウンを勝ち取ったあほばか首相が出てきたり、ともかくいろんな事件が毎日のように起こるのでついつい見そびれていたマネ展をようやく瞥見することができました。

 さて印象派もいろいろありますが、私がこれは印象派だなあと思うのは美術流派としてはポスト印象派に勘定されているセザンヌやらゴーギャンやらゴッホなどであって、モネを例外とすれば、今回のマネもドガもあんまりインプレッションは感じない。むしろ写実の中にある種のインプレッションを求めようと模索したのではないでしょうか。


私はむかしポール・ヴァレリーの「ドガ、ダンス、デッサン」という美術論を読んで、この博学の思想家の絵画を見る目の鋭さに驚きましたが、今回のマネについても「マネは黒だ。黒だ。要するに黒だ」という彼の名言に尽きると痛感しました。マネ独創の黒の中には無数の明度、彩度そして色相さえもが入っていて、それが彼の絵にじつに豊かな感興をもたらしているのです。

例えば有名な「死せる闘牛士」を見よ。牛に刺されて地面に横たわっているトレアドールはあまり死んでいるようには思えませんが、それでも彼が死んでいると分かるのは赤い血と黒い格闘着の漆黒の黒の死の色があまりにも生き生きとして美しいからであって、彼の顔容に死の気配が漂っているからではありません。(つまり私は、マネは死体としての表現は下手くそだけど、ただ黒の素晴らしい彩色で助かっていると主張している)。

次にはあの有名なバルト・モリゾの肖像画の連作を見よ。この愛すべき人物画の主役を務めているのはじつはモリゾというモデルではなくて、黒という色彩の鮮やかな存在そのものであることに見る人は気づくでしょう。
黒、黒、黒! そこがモネの生命線なので、じっさい彼が黒を基調としない人物画や風景画にこれといったものはないといっても過言ではありません。(つまり私は、モネに幽玄の黒なかりせば2流、3流の作家であると主張している。)

ついでに今回初めて訪れた三菱1号館は(もともとがオフィスであったために)いくつもの小さな部屋から成り立っていますから、この狭隘な空間を美術館として使うことは(観客がうんと少なければ別ですが)、視野狭窄、空間重層、移行不自由、美術品安全管理の上で数多くの難点をもたらしています。開館を続行するのはトラブルの元でしょう。ここを美術館として商売に使おうなどというけちな考えは即刻やめてほしいものです。
(つまり私は、こんな場所では絵をじっくり鑑賞することなど断じてできない。同じデベロッパーの森ビルが運営する六本木ヒルズの美術館と並んで都下最悪の美術館ではないかと主張している。)

それにしても巨大デベロパーの考えることはよくわかりません。1894年ジョサイア・コンドルの設計で丸の内最初のビジネスビルジングとして誕生した三菱1号館を2009年になって再建するほどの価値があるなら、三菱地所はどうして1968年にいとも簡単にぶっこわしたのでしょうか?

丸ビルだって新丸ビルだって、どうしてあんな立派な文化資産をいそいそと破壊して、超くだらない超高層ビルに建て替えたのでしょうか?
ああそうだ。いっそそれらも全部ぶっこわしてこの際明治時代の「一丁倫敦」を完璧に再現してみてはどうでしょう。ご当地の英国を含めて世界中から観光客がやって来て、泉下の岩崎弥太郎もごっつう喜ぶのではないでしょうか。


嘘臭い平成超高層うちくだき即一丁倫敦に戻すべし 茫洋

Sunday, July 05, 2009

井上章一著「伊勢神宮 魅惑の日本建築」を読んで

照る日曇る日第269回

これは特に伊勢神宮について論じた本ではなくて、我が国の大昔の建築物は、どんな姿形をしていたかを真正面から論じた「超」の字が2つほどつく力作であり、日本の建築学にとってじつに貴重な価値をもつ書物です。

建築史には、あの築地本願寺や大倉集古館の設計で知られる伊東忠太や太田博太郎など、いくつかの定評ある名著と称されるものがありますが、著者はこの建築の起源問題に関するおよそすべての資料を記紀の時代、平安、江戸時代の文献や研究結果をまるで草の根をわけるようにして精査比較検討し、その結果として、これまでの学説の定説をほぼ全面的に否定し、著者の東大と京大の学閥にかんする興味深い観察を交えつつ556ページに及ぶ大論考を終えています。

著者によれば歴史、建築、考古学の学者や研究者の多くが、伊勢神宮に我が国の古代建築の源泉があると信じてきました。
またご承知のようにこの神宮は、大昔から社殿を20年ごとに建て替える不可思議な営みを、(戦国時代の混乱と謎や改築の際の幾多の歪曲はあるものの)、天武帝の頃からおよそ千年以上にわたって繰り返してきました。

伊勢神宮の社殿は、「棟持柱(棟木を側面から直接支える柱)をともなう高床建築」だそうです。そしてこの神明造りという建築スタイルは、七世紀の末頃まで歳月による風化や大陸からの仏教的な建築様式の影響をかたくなに排除しつつ今日まで存続してきたといわれています。
そもそも「日本」なる国家がそれまでの「倭」に代わってこの列島に登場したのはちょうどその天武帝の時代なので、この伊勢神宮の神明造りこそ日本の最古の建築様式かもしれません。

それで話が終わればめでたしめでたしなのですが、シンプルでモダンなデザインがお好きな我が国の多くの学者たちは、この「日本的な建築の祖形」を、「日本」確立以前の太古や古墳期、さらには遠く弥生、縄文時代の彼方にまで拡大し、遡らせようと「国粋的」かつタコ壺的な努力を夜郎自大に続けてきたのです。 

考古学学者の研究によれば、有史以前の日本列島には伊勢神宮のような棟持柱をともなう高床建築はたくさん建てられていたようです。ところが、これら棟持柱をともなう高床建築は昔から中国の長江や雲南省、さらにもっと南に下がってインドネシアやオセアニア地方などにもたくさん存在しています。

もしかすると伊勢神宮に代表されるこの荘重なまでに日本的な建築の祖形は、ニッポンチャチャチャ学者の大いなる期待と予想に反して、南洋諸島の海岸に立ち並んでいる高床式の簡素なニッパハウスなのかもしれません。

  
♪ご先祖は南洋ニッパハウス住まいぞニッポンチャチャチャ 茫洋

名も知れぬ南の島より流れ来しニッパハウスぞ先祖の我が家 茫洋

Wednesday, May 27, 2009

「大切岸」を望む

「大切岸」を望む

鎌倉ちょっと不思議な物語第184回

法性寺のすぐ近くには逗子側に屏風のように立ちはだかっている垂直に削られた崖があり、「おおきりぎし」と呼ばれています。この崖は鎌倉の覇権を確立した北条氏が三浦半島を拠点とする三浦市の侵入を防ぐ目的で築かれた防御施設であると伝えられています。

現在ではおよそ800mほどしか残っていませんが、北東部はわたしの住んでいるところから、西南方面は住吉城跡まで続いていたといわれています。切岸と平場は2から3段のひな壇状に造られているところもあります。

崖の高さは3から5mで場所によっては10mの絶壁を構えているところもあります。今は個人の所有地(畑)となりましたが、昔の面影は十分に残っています。また切岸上の尾根道は鎌倉城外郭防衛道で鎌倉入口守備隊への物資補給路であったとか浄妙寺に通じる道であったとかいろいろいわれているようです。

ただこの大切岸は本当に防衛遺構なのかというと、それを裏ずける資料はなにもありません。防衛遺構説以前は海蝕による崖岩が隆起したものと唱えられ、現在では石切り場の跡の可能性があるとも説かれ、要するになにがなにやらよく分からないという鎌倉ちょっと不思議な場所なのです。(鎌倉ガイド協会の資料から引用)

♪サムライとおだてられしが異国で討ち死に 茫洋

Tuesday, May 26, 2009

法性寺を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第183回

このお寺はじつは私の家から直線距離にすればそれほど遠くありません。鎌倉逗子ハイランドの坂道を下って、横須賀線の線路にぶつかった右側に馬頭観音があり、そこが入口になっているのです。ところがこの日は海側からではなく、山側の名越切通から尾根伝いに接近したものでから、すっかり土地勘が狂ってしまいました。

以下例によって鎌倉ガイド協会の資料をほぼ丸写しいたしましょう。猿畠山法性寺はなぜだか猿の字が冠されていますが、それは前にも触れましたように、文応元年1260年、松葉ヶ谷の法難の際に、日蓮さんが名越の尾根から尾根へと逃げられたのですが、そのとき山頂にある山王権現の使いとも言われている3匹の白猿が、上人をこの法性寺の祖師堂の横にある岩窟に案内したので、日蓮さんはしばらくこの岩屋で難を避けていたと伝えられています。そして現在その場所には朗慶作と伝えられる五輪塔が安置されているのです。

後日日蓮は、これも山王権現の加護のおかげであると言ってこの地に一寺を建立して恩に報いよと弟子の日朗に命じられ、その弟子の朗慶がこの法性寺の開基となりました。

ところで日朗は晩年東京の池上本門寺に隠棲していましたが、入寂の際に幼少の砌に遊んだ懐かしい猿畠山に戻りたいと遺言したので、朗慶の手で安国論寺で荼毘に付されたのち、法性寺の山頂の四面堂に納骨されました。

現在ではこの一帯に猿は見かけませんが、鎌倉時代にはたくさん棲息していたのでしょう。

♪左後ろ振りさけ見れば左肩根元に走る痛さかな 茫洋

Thursday, May 21, 2009

いにしえの鎌倉砦「名越切通」を歩く

鎌倉ちょっと不思議な物語第182回

「名越切通」は鎌倉七切通のひとつで国の指定史跡となっています。この切通は鎌倉と三浦を結び、峠は鎌倉と逗子の市境になっています。

仁治元年一二四〇年、三代執権北条泰時の治世の際に私の近所の朝比奈切通の工事が行われたと吾妻鏡に記載されていることから推察するとおそらくこの頃にこの「名越切通」も整備されたのではないかと考えられます。

鎌倉から金沢六浦津(現在の横浜市金沢区)に向かう朝比奈切通も、この「名越切通も当時の姿をよく伝えていますが、朝比奈切通が当時の代表的な通商道路(銀座通り)であったとすれば、この「名越切通」は北条氏が最も恐れた三浦氏に対抗するために突貫工事で仕上げた軍事道路であったのではないでしょうか。

道は急峻で通行しにくく、しかもくねくねと折れ曲がり、三浦勢の攻撃と馬の進行を妨害するために巨大な岩石を埋め込んであります。峠の上からこの獣道を弓矢や岩や礫で攻撃されればそう簡単に鎌倉に攻め込むことなどできないでしょう。もっとも銀座通りの朝比奈切通にも大曲には砦になっている巨大なやぐらがあって眼下の敵ににらみをきかせていたことを忘れてはなりません。

なお「名越切通」は、現在では横須賀線と神奈川県道三一一号鎌倉葉山線がトンネル通過しており、交通路としては利用されていません。
(「鎌倉の寺」小事典、鎌倉ガイド協会資料を参考にしました)

♪今年また蛍光りしうれしさよ 茫洋

Saturday, May 16, 2009

山本兼一著「利休にたずねよ」を読んで

照る日曇る日第257回


お茶の大家である千利休さんが太閤秀吉さんに殺されるまでの顛末を、利休の運命的な恋をふとい縦軸に据え、信長、秀吉、家康、堺の茶人衆など多彩な同時代人をほそい横軸に置きながら、巧みなプロットと華麗な文体で鮮やかに描きました。

特に主人公を取り巻く茶人武野紹鴎、山上宗二、古渓宗陳、万代屋宗安、長次郎、黒田官兵衛、今井宗久などの人物像がくっきりと浮かび上がってくる手腕は見事で、著者の努力と研鑽のあとがうかがえます。

そうして異国の運命の女との間を結ぶ一本の赤い紐がこの偉大な茶匠の芸術を生涯にわたって支え続けたのか、とあやうく思いこみそうになるほどです。

しかしよく考えてみると、そんな馬鹿な話はありません。戦国大名三好長慶の求めに応じて村田紹鴎が高麗の李氏ゆかりの美女を誘拐するというのです。これは日本帝国全盛の第2次大戦中ならば日常茶飯事でしたが、安土桃山時代では歴史的にみてもほとんどあり得ません。

その拉致し来った絶世の美女に横恋慕した若き日の利休が、彼女を盗み出し、追い詰められてわが手に掛けてしまい、それが生涯のトラウマになって……なぞというあほらしいプロットは、大胆な推理というよりは、ほとんど奇想天外な与太話の類でしょう。
それをともかく最後まで読ませる著者の旺盛な筆力には脱帽のほかはありません。さすがは本年の直木賞を受賞しただけのことはあります。

驚くべきことには、筆者はこの小説の叙述の時間的な順序を転倒し、あえて利休切腹の当日から遠い過去に向かってさかのぼるかたちで語っていきます。この斬新かつ意欲的な試みを評価することにはけっしてやぶさかではありませんが、これはあまりにも奇をてらいすぎた形式ではなかったでしょうか。

あえて時間のベクトルを逆に設定したために、累積する因果関係が不透明になってしまいました。前に進行するはずの物語は推力を失い、たえず中空にぶら下がって停滞するためにせっかくの読書の醍醐味が半減です。またタイトルも意味不明のみょうちきりんなもので、全然よくありません。堂々とノーマルスタイルで勝負してほしかったと思います。


♪いろいろと死にたき理由はあるらめどこの朝ばかりは飛び込むなかれ 茫洋

Monday, March 16, 2009

「やぐら」はインド、中国渡来 

鎌倉ちょっと不思議な物語第166回


広辞苑によれば「やぐら」とは「岩石に穴を掘って物を貯蔵しておく倉。また墓所。鎌倉付近に多い」と解説され、矢倉あるいは窟という漢字があてられ、イハクラ(岩倉)の訛りではないかと想像されています。しかしこのような即物的な記述ではこの窟の宗教的な背景を捉えそこなってしまうことは前回に申し述べたとおりです。イハクラがどうしてやぐらに転訛したのかも言語学的にはおおいに怪しまれるところです。


斉藤顕一氏の見解では、やぐらという言葉自体が江戸時代になって定着したものだそうです。つまりあのような岩窟を鎌倉時代になんと呼んでいたかは分からないというのです。鎌倉時代から江戸時代までにはおよそ400年の歳月が横たわっていますが、私たちが現在鎌倉と鎌倉時代の文物についてもっともらしく語っている情報の7割以上がで出所が不明か怪しいと言われるのですから、なにを信じ、なにを退けていいのかおおいに迷います。

さてやぐらの形状については、山腹に垂直面、前面に平場、矩形の開口部、垂直の内壁と平天井、玄室・羨道・羨門という特徴を持ち、その機能としては納骨と供養をつかさどります。また火葬にされた骨を埋葬するための骨蔵器が仏像や五輪塔、宝篋印塔、板碑、壁面浮き彫りなどの傍に備え付けられており、床下には壇と龕があります。
やぐらからは華瓶、茶碗、かわらけ、小皿、写経石、古銭、鏡などが出土することが多く、内部で使用されている塗色は胡粉、漆、金泥などです。

またやぐらの起源については、鎌倉時代の宋から渡来したさまざまな文物、宗教、文化などのなかにこのやぐらという思想と建築物があって、時の幕府の要職にあった人々がこれを先進的に取り入れたのではないか、という学説が有力だそうです。ということはこうしたカルチャーはおそらく西インドのエローラ、アジャンターなどの石窟寺院や仏教文化がさまざまな仏像と共に中国に東漸し、これが朝鮮半島を経由してわが国に渡来したのでしょう。

鎌倉の立派な石窟を眺めているとE.Mフォスターの小説「インドへの道」の謎の場面が思い出されます。


♪遥かなるインドエローラ、アジャンター石窟から渡来したり鎌倉のやぐら 茫洋

Monday, February 23, 2009

提案と回答と感想 その1

バガテルop89

○提案

拝啓 松竹本社殿

 貴社築地歌舞伎座建て替え問題についての提言 このたび貴社が、1950年に竣工した吉田八十八設計の第四期の建物を、一九二四年竣工の岡田信一郎設計の壮麗な桃山様式のお手本(第三期)に土台を戻して、通算第五期の新歌舞伎座立ち上げをひとたびはめざされたことは、歌舞伎座のみならず、銀座と東京の建築のあるべき姿に照らしてもっとも賞賛に値する勇気ある決断でした。 このようなよき企てが、都知事の個人的かつ一方的な意見で圧殺され、日の目をみなくなることはとても残念ですし、もしそうなれば銀座、東京のみならず日本全体の大きな文化的損失だと思います。 わが国の最高の芸術のひとつである歌舞伎の聖なる殿堂を、「より新しく」ではなく、「より古く由緒ある姿かたちで再現、再創造」しようというこの歴史的な英断を、「銭湯みたいで好きじゃない」「オペラ座のようにしたほうがいい」などという都知事の鶴の一声で取り下げるとはなんと愚かなことでしょうか。「新しさを求めて意味不明の新しさに迷う」のではなく、「古きをたずねてその新しさをふたたび見出すこと」こそ、貴社が、そして私たちが心の中でひそかに求めている現代建築のあるべき姿ではないでしょうか。 だからこそ辰野金吾設計の当初案を復元しようとしている東京駅のやり方は多くの人々から支持されていますし、数々の由緒ある建物を破壊してきた三菱地所さんもかつて壮麗さを誇った三菱1号館をそのまま再建しようとしています。東京駅の傍にある中央郵便局をなんとかそのままの形で残したいと願う私たちの思いもこれと同じです。 そこであの不朽の「寅さんシリーズ」をはじめ貴社の輝かしい映画歌舞伎製作と興業を愛し続けてきた小生からの切なるお願いは、貴社が先日マスコミ発表された「都知事推薦の現行案」を廃棄して、もう一度「当初のオリジナル案」に戻り、あの素晴らしい歌舞伎座建て替え案を断行していただくことです。 貴社と歌舞伎の愛好者、そして全国の心ある人々は、必ずや貴社の勇気ある決断を支持することでしょう。                     敬具
○回答

この度は、歌舞伎座再開発に関しまして、貴重なご意見をいただき誠にありがとうございました。 また、返信が遅くなりまして、誠に申し訳ございません。 いただいたご意見は関係者に回付いたしました。 歌舞伎座再開発につきましては、耐震性能の確保、劇場機能の改善、環境保全や地域との共生など様々な角度から計画を検討し、 なによりお客様の声を第一に反映できるよう、努力してまいる所存でございます。 今後ともご理解とご支援を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。------------------------------------ 松 竹 株 式 会 社   東 京 本 社


○感想
暖簾に腕押しとはこのことか。関係者とはどこのどなたでござるか。
せっかくおだててあげたのに、あまりにつれない返事にがっかり。
石原都知事の意見など反映せずに、私の意見をしっかり反映してほしい。


人の物は自分の物我良主義強欲主義者横行の世を洗濯すべし立替るべし 茫洋

Thursday, November 27, 2008

玉縄城に登る

鎌倉ちょっと不思議な物語第157回

玉縄城は天然の要害の地である丘陵に空堀や土塁、曲輪などの防衛施設を備えた山城であった。

本丸址は現在の清泉女学院の校舎、校庭の位置にあたるが、昔日の面影はない。ただ清らかな婦女子の嬌声が秋空にこだましているばかり。かろうじて中世鎌倉の雰囲気を漂わせているのは広大な「七曲り」の谷戸、樹木に覆われた「ふわん坂」、高地にある陣地の「諏訪壇」のみである。

「七曲り」は、急坂でいくつにも折れ曲がっているのでこの名がある。玉縄城に上り詰めた両側は土塁となり、土塁の内側の平場(曲輪)で下から攻め上がる敵を攻撃し、城を防御できるようにしていたが、これは同時期の朝比奈峠でも同様である。

「ふわん坂」は急斜面の坂で、かつてはその両側に曲輪があり、登ってくる敵を弓で迎え撃った。

「諏訪壇」はかつて本丸の東側にあった長方形の土塁で、玉縄城の最高地にあって見張りの役を果たしてゐた。ここは城主の最後の避難場所でもあり、現在市役所のちかくに移転した諏訪神社が守護神として祭られていた。

♪七曲り曲輪より射るおおかぶら 茫洋

Monday, November 10, 2008

龍口寺に向かう

鎌倉ちょっと不思議な物語148


江の島には行かずに、今日は龍口寺に向かう。ここは鎌倉時代に日蓮が蒙古来襲の折に北条政権に逆らったために平頼綱(1285年の霜月騒動で御家人筆頭の安達泰盛一族を皆殺しにし、1293年に自害した筆頭御内人)によって斬首されようとした場所である。

ところが一天にわかにかき曇り、天地がぱっと夏の白昼のように明るくなり、介錯の男がよろけて刀を取り落としてしまった。江ノ島の上空に闇を裂いて巨大な光ものが出現したためである。時に文永八年九月一二日夕刻、世に日蓮「瀧ノ口の法難」と称せられる。

一大宗教者の処刑を救うため天が奇跡を起こされたのであろうか。日蓮宗の創始者はからくも一命を取り留めたのであった。

本堂にはこのとき日蓮が敷いていた敷き皮が、境内には当時日蓮が幽閉されていた御霊屈が現存している。

龍口寺の創建は鎌倉時代ではない。1337年になって日蓮の弟子日法が粗末なお堂を作ったが、今日のような完成をみたのは江戸時代の初期に入ってからだから、比較的新しい建築だ。


♪鎌倉の松葉が谷の道の辺に法を説きたる日蓮大聖人 子規

新橋のヘラルド映画の試写室でよく顔合わせし人昨日死にけり 茫洋

今日TBSは死にましたと言いながらTBSに出続けし人死す 茫洋

Saturday, July 19, 2008

コクーンの建築

勝手に建築観光31回

9/11の同時多発テロ以降も、コクーンニングcocooniningの思想はしぶとく息づいている。

私たちはその証左を渋谷東急文化村のシアターコクンや埼玉県大宮市の商業施設コクーン新都心といったネーミング、さらには最近新宿西口に建設中の東京モード学園コクーンタワーや北京五輪メーン会場の建築デザインにもその格好の例を見出すことができる。

北京国家体育場は、プラダ青山店やドイツのワールドカップのメイン競技場、ロンドンのテートモダン美術館などを設計したスイスの有名な建築家デユオ、ヘルツォーク&ド・ムーロンによるものであり、すでに「鳥の巣」の愛称で親しまれている。

またモード学園のコクーンタワーは、名前どおりの繭とも見え、直立させた鳥の巣のようにも見えるが、北京と新宿のいずれもがけっして内に閉じこもらず、外部に向かって威圧的に聳えているようだ。

9/11の同時多発テロ直後のコクーンニングcocooniningの思想が、ともかく安全無害な隠れ家に逼塞しようという温和で後退的な負の姿勢であったのに対して、およそ10年を経て建てられたこの2つの巨大建築では、己の領分と身の安全をしっかりと守りながら、外部世界(先進西欧諸国や競合専門学校)に対して激しく自己を誇示しつつ攻め込み、切り込む姿勢をするどく表明している。

遠くから眺めるその姿は、「繭」や「巣」という平和的な名称とは裏腹に、盾と矛を備え、和戦両様にすばやく対応する現代戦士の象徴のように、私には映るのである。



♪ダガーナイフに罪はない ダガーを持つやつが悪い 茫洋

Friday, December 28, 2007

五味文彦著「王の記憶」を読む

照る日曇る日第81回&鎌倉ちょっと不思議な物語93回


京都、奈良、鎌倉、平泉、博多、鳥羽、六波羅、宇治、鎌倉などの都市の形成や発展にまつわる記憶を、それぞれの王権の成立と対置しながら描き出す著者の会心作である。

鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉

という蕪村の句は、西行が出家を願うために鳥羽上皇のいる鳥羽へ急行する有様を詠んだとされるが、鳥羽の離宮は摂関家によって整えられた宇治と同様、都市の別業として造営され「院政期と武士を象徴する場」として記憶されていた、と著者はいう。

発展する京のリゾートとして位置づけられた鳥羽離宮の中心には宇治の平等院を模した大伽藍が造成され、西行など鳥羽殿の御所の武士たちは天皇や上皇に城南寺で流鏑馬を披露した。

後に鎌倉の鶴岡八幡宮の放生会に召されて流鏑馬の芸を伝えた信濃の武士諏訪大夫盛澄もそのひとりだった。盛澄は鎌倉幕府への帰属が遅れたことで囚人とされていたのだが、関東の武士に流鏑馬の芸を伝授したために頼朝の計らいで赦されて幕府に使えるようになったという。頼朝は鶴岡八幡で放生会を行なうためにそのイベントとしての流鏑馬を必要としたのだった。ところが有名な熊谷直実は流鏑馬の的立ての役を忌避して所領を没収されてしまった。

それはともかく後鳥羽の近臣である藤原清範を奉行にして流鏑馬を名目に畿内近国の軍兵を募ったところ1700人の兵が集まり、これが幕府打倒の挙兵へと繋がったという。このように鳥羽は院政期の王権が武士の存在を意識しつつ鴨川の水辺に造った都市であったと著者はいうのである。

またここで話を鎌倉に転じると、鎌倉幕府を開いた頼朝の父義朝の拠点は現在の亀谷の寿福寺にあった。房総の上総の支援を受けた義朝は、水路六浦から私の家の隣を通って横小路を抜けて寿福寺に入った。これが鎌倉の東西を走る北部の交通路であり、南部には旧東海道があった。その途次の逗子の沼浜には義朝の御亭もあった。

また鎌倉にはかつて源頼義とその子義家によって由比ガ浜にもたらされた鶴岡八幡宮、甘縄神明宮、荏柄天満宮があり、この3箇所の宗教的拠点が中世都市鎌倉の宗廟を形成した。義朝の死後幕府を開いて鶴岡八幡宮を北側に転地した頼朝は、治承5年の正月元旦に八幡宮寺に詣でたが、これが後世の初詣のさきがけになった。

すなわち武家国家鎌倉はまず宗教都市として発展したのである。ちなみに由比ガ浜の海岸から北側を眺めた地形が鶴のようだったので「鶴岡」八幡と呼び、それに対して義朝の故地を「亀が谷」と呼ぶようになったという。

頼朝は父義朝を供養するために元暦元年に御所の南に勝長寿院を建てたあと、奥州藤原氏の菩提を慰霊するために平泉の二階堂を真似た永福寺(その名のようふくじは奈良の興福寺に因む)を造営し、妻の政子はその義朝ゆかりの地に寿福寺を立て、(いずれも福という字が使われていることに注意)、悲劇の三第将軍実朝の御願寺は、これも私の家の近くに聳え立っていた壮大な七堂伽藍大慈寺であった。(寿ではなく慈に力点が移行している点に注意)

このように鎌倉はますます宗教都市としての性格を強めていったが、関東長者の王権は脆弱なものであり、建久4年の「曽我兄弟の敵討ち事件」の真相は、頼朝に対する暗殺未遂であるという説もあり、実際に源家は北条氏をはじめとする御家人たちの一揆によって頼家も実朝も殺されてしまう。

鎌倉は王殺しの血塗られた記憶の地でもあると著者はいい、そのことは私の向う三件両隣で夜な夜な現れる血だらけの武者の亡霊たちが800年後も実証しているといえよう。


そして最後に、中世都市の3つの類型は、京都と博多と奈良であり、その類型は原理、基軸、性格の3つの構成要素で区分できると著者は要約している。

都市   原理    基軸   性格
京都   中央    ヒト   政治
博多   境界    モノ   港湾
奈良   異界    ココロ  宗教

これを図式化すると上記のようになる。例えば博多は列島の西に位置し、海の彼方の大陸との接点にあってモノが集まった。唐物と本朝のモノが交換される境界的な場に博多という都市は成立をみたのである。

では中世都市はすべてこれらの類型に収まってしまうのかといえば、そこまで画一的ではなく、同じ政治都市でもたとえば承久の乱以降の鎌倉ではおのずと異なる要素が編入されてくる、と述べながら、規模雄大な構想を持つ本書はあっけなく終わってしまうのである。

♪糞1個ひり出す午後の寒さかな 亡羊

Wednesday, October 31, 2007

安藤忠雄の「歴史回廊」提言に寄せて

勝手に建築観光26回


最近ベネチア大運河入り口の旧税関跡美術ギャラリーの国際コンペに勝利して意気上がる安藤忠雄だが、この時流に敏感で商機に抜け目のない機敏な建築家が、東京に「歴史の回廊」を作ろうと提唱している。

「回廊」という言葉で誰もがすぐに想起するのは、最近亡くなった黒川紀章の未完の代表作である中国河南省都鄭州市の都市計画で、このコンセプトが「生態回廊」であることはつとに有名である。

これは北京から南西600kmの黄河流域にある人口150万人の古都に山手線内側の倍以上の広さの新都心を2020年までに造ろうという壮大な計画で、まず800hの人口湖「龍湖」を作って都心と結び、緑と水の生態回廊に基づいて各地域間に河川を巡らせ、超低層住宅群、水上交通、岸辺公園を随所にちりばめ、自然と暮らしの共生をめざそうとするものであるが、どうやら安藤の「歴史回廊」は、この黒川案の向こうを張ったとみえなくもない。

それはともかく、安藤は明治の代表的な建築物をつなぐプロムナードを東京駅周辺に作って、国際的にも世界の奇跡とされているこの黄金の時代の記憶を永久に後世に伝えようと、けなげにも提言しているのである。 

具体的には1931年吉田鉄郎設計の東京中央郵便局を破壊から守り、このたび晴れて復元&再建されることになった1914年辰野葛西建築事務所設計の東京駅と1894年ジョサイア・コンドル設計の三菱1号館を、1911年妻木頼黄建築の日本橋までつなげ、日本橋はソウル清渓川にならって高架道路を撤去しようとするそれなりに真っ当なプランであるが、このような“もっともらしい正論”をいまさらながらに提案するのなら、私はこの偉大なる建築家の驥尾に付して、ことのついでに丸ビルと新丸ビル、おまけに有楽町の旧都庁ビルと三信ビルの完全復活再生復元を提案したい。

近年三菱地所がおったてた「醜い巨大ガジェット」である丸ビルと新丸ビル、それに有楽町の「超モダンおばけ廃墟」東京国際フォーラムは、ダイナマイトでこっぱみじんに破砕しなければなるまい。

さうして丸ビルには高浜虚子が主宰するホトトギスの事務所もぜひ復活してほしい。銀座プランタン裏にあってドーリア調エンタシス柱が美しかった1931年徳永傭設計の「東邦生命ビル」と1929年完成の6丁目の交詢ビルジングも、だ。

それなくして安藤流「歴史の回廊」は画龍点睛を欠く。安藤が表参道ヒルズでお仕着せに試みた同潤会アパートの奇形的保存の反省を踏まえ、過去の偉大な建築物を、その地霊鎮魂を兼ねて徹底的に再建してほしいのである。

それあってこその偉大な明治の歴史的再生であり再現ではないだろうか。

Sunday, August 12, 2007

カトリック雪ノ下教会

鎌倉ちょっと不思議な物語71回

私の家はキリスト教の新教、いわゆるプロテスタントであった。幼い頃はまじめに日曜学校に通って、ルター以来のピューリタンでストイックな精神に多少の影響を受けたと思う。

そのピューリタンでストイックなところは教会の簡素な造作に現れており、やたら装飾的なカトリックと違って祭壇のしつらえが簡素である点を私なりに評価していた。カトリックの礼拝に出たことはないが、女性がヴェールをかぶったり、キリストの母親を聖母マリアと称してむやみに崇め奉ることに対する抵抗はいまでもある。

生母を聖母と聖別するのは勝手だが、私は処女だのに懐胎した妻に対する自他の疑惑や不審の念にじっと耐え、キリストの生誕を男らしく受け止めた父ヨセフのほうによっぽど共感でしたし、いまもそうである。

などと、結局は無神論者の私が、神をも恐れぬ暴言を吐いてしまったが、このカトリック雪ノ下教会は1958年(昭和33年)に「絶えざるお助けの聖母」を記念して建造された鎌倉最大の教会である。

そして聖堂外側正面の壁画は、この聖母のモザイク画をフューチャーしているのだが、この金色の装飾が私にはなぜかサラセン(イスラム)風に見えてしまうのであった。

この教会の突き当りの左側には、桃山・江戸初期の鎌倉の殉教者を悼む展示がある。いつか紹介する機会があるかもしれないが北鎌倉の光照寺は時宗遊行寺派の寺であるが、山門の欄間には隠れキリシタンゆかりのクルス紋が掲げてある。

おそらくこの光照寺や極楽寺に潜んでいた初期基督者たちが摘発され極刑に処せられたのであろう。
私はこの恐ろしい拷問の図を眺めながら、到底信仰者にはなれないと改めて悟ったのであった。

Saturday, August 04, 2007

鎌倉ちょっと不思議な物語68回

ハリス記念鎌倉教会

鎌倉駅の東口を出て右折し、海に向かってどんどん歩く。下馬四つ角を過ぎた右側のちょっと凹んだところに、ゴシック調の美しいこの教会が建っている。市の指定景観重要建築物である。

創建は1897年(明治30年)、当初は木造の聖堂であったが、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊し、現在の聖堂が再建された。

名称の「ハリス」はアメリカのプロテスタント派の宣教師メリマン・ハリス氏の名前にちなんでいるそうで、ハリス氏は隣にある付属幼稚園の設立にも尽力したそうである。

建物の最大の特徴は正面のトレーサリーという装飾を伴った大きな尖塔アーチ窓など初期のゴシック風スタイルにある。

礼拝堂に入ると祭壇上部のステンドグラスが十字架を浮かび上がらせている。家具や調度品のほとんどが創設当時のものだが入口に傍にあるオルガンは比較的最近のものである。(以上鎌倉市シルバーボランティアガイド協会資料による)

Tuesday, July 31, 2007

坪内博士記念演劇博物館とシェークスピア

坪内博士記念演劇博物館とシェークスピア

遥かな昔、遠い所で第16回&勝手に建築観光23回


私はずいぶん昔から、このあたりにちょっと気になる時代がかった建築物があることは知っていた。しかし実際にこの場所に足を運び、16世紀イギリスエリザベス朝時代の劇場「フォーチュン座」を模して今井兼次らにより設計されたこの素晴らしい博物館をとっくりと眺めたのははじめてだった。

この演劇博物館は、1928(昭和3)年10月、坪内逍遙博士が古稀の齢(70歳)に達し、その半生を傾倒した「シェークスピヤ全集」全40巻の翻訳が完成したのを記念して、各界有志の協賛により設立されたらしい。

正面舞台にある張り出しは舞台になっており、入り口はその左右にあり、図書閲覧室は楽屋、舞台を囲むようにある両翼は桟敷席になり、建物前の広場は一般席となる。坪内逍遙の発案で、このように演劇博物館の建物自体がひとつの劇場資料となっているということもはじめて知った。

中に入ると床・壁・天井の古い木目がしっとりして好ましく、アールデコ風のランプの照明も胸に迫って懐かしい。館内には小ぶりの演劇図書館もあり、古今東西の演劇関係の展示が所狭しと並べてあり、「古川ロッパとレビュー時代」や佐藤信の黒テントの回顧展、それに坪内逍遙の遺品なども展示してあった。

また入り口に向かって左手には坪内逍遙の銅像の下に
むかしひと こえもほからにたくうちて とかしし於もわみえきたるかも
という八艸道人の歌が刻まれていた。

その坪内逍遙のシェークスピア全集(第三書館から全37作の戯曲を1冊に収めた日英対訳版『ザ・シェークスピア』がたった4200円で出ている!)ほど私を楽しませてくれた翻訳はない。木下、福田、本多、小津、小田島、松岡と数多くの現代語訳が出版されているが、私がいちばん気に入っているのがこの逍遙版である。

最近の翻訳はやたら現代人に媚びるような言い回しをひねり回して巧妙である。しかしその言語生命は手垢にまみれ、すでに壊疽している、死んでいるのである。

ところが当時弟子筋の二葉亭四迷と共に近代のコンテンポラリージャパニーズを国民的に創生中であった逍遥は、その生命力みなぎる黎明期の手作りの言語を実験的に駆使しつつ、史上最大の戯曲家の世界を私たちに口述する。

さうして、その呪術的な言葉の混沌の中から立ち上がる沙翁のブッキッシュな語りが、私たちの疲弊した耳目になんと新鮮に響き渡ることだろう。

例えばあの有名はハムレットの独白、To be,or not to be, that is the questionがある日本人によってわが国ではじめて、「アリマス、アリマセン、アレハナンデスカ」(素晴らしい超訳!)と翻訳されたのは1874年(明治七年)のことである。(「ワーグマン日本素描集」岩波文庫70p)

 1933年、この古今の名文句を逍遥は、
「あるべきか、あるべきでないか、それは疑問だ」 
と訳した。そして私はこの二つの翻訳こそが沙翁の原義にもっとも近しい日本語ではないかと考えるのである。

ところがその同じ逍遥が1949年には、これを「長らうべきか、死すべきか、それは疑問だ」
という日本語に置き換えた瞬間に、この俗耳になじみやすい現代風の訳語が、
「生か、死か、それが疑問だ」(福田恆存1955年)
「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」(松岡和子2001年)
 などの妙に分かった風の一義的なフレーズに「回収!」され、同時に創世記時代の日本語の創造的混沌も完全に閉塞していったのである。