Saturday, November 29, 2008

西暦2008年茫洋霜月歌日記

♪ある晴れた日に 第46回


ありがたやムラサキシジミの深き青

残し柿ひとつ残さず喰いにけり

亡き人の胸に塞がる菊の花

朝比奈の峠に斃れし土竜かな

生温し地震来るやうな風が吹く

きゃわゆいきゃわゆいとあほばか腐女子絶叫す

われかつて龍宝という名の上司に仕えたり

世を呪い人を恨みて満福寺

城破れ敗れ咲き遅れたる山椿 

七曲り曲輪より射るおおかぶら

大船や大きな船がいま沈む

残金は3万円と息子いう

人生はうれしやかなしやどですかで

人の世はさはさりながら愛ありて



さわに生りし
蒼き柚子の実
もぎ取れば
強かにわが指刺せり
その処女の実

屋根の上
アンテナ立て終えたる
2人連れ
風に吹かれて
煙草のみおる

降る雨の中
五人の職人が
家を
直している

夢の中で
眠りながら
星のやうに美しい歌を
うたっていた

窓を開ければ
くわんのんさまが見える
そんな部屋にて死にたい
と願いし老人

玉縄の
河の畔に巨樹茂り
猛き武将の
勲しとどめむ

今日TBSは死にました
と言いながら
TBSに出続けし人
死す

新橋の
ヘラルド映画の試写室で
よく顔合わせし人
昨日死にけり

熊野神社の参道で
ひたひたひたと
私をつけてくる
者がおる

労働に
捧げられたる献身を
さも尊しと
見做しおる我

いい歳したあほばか腐女子が
大口開けて
きゃわゆいきゃわゆい
と叫ぶなり

さあ働け、
働けば天国の門は開かれる

誰かがささやいている

いま聴きし
グラン・フィナーレが高鳴るよ 
鎌響定期
マーラー5番

マーラーの
アダージェエット聞けば
われは蝶 
海の彼方に
一人旅立つ

黄色い顔に白き嘴
ピラカンサ啄ばみて
ピーと鳴きし
細身の鳥の名をば知りたし

ジャンプ一番
ようやく掴みし烏瓜
ひとつはつまに
ひとつは吾子に

授業せねばならん
本読まねばならん
あほ原稿書かにゃならん
病院いかにゃならん
いったいどうせえちゅうんじゃ

我が庵に
いつしか住みける
矢守ありて
雨戸を閉めれば
キュウと泣きけり

井守と家守を
間違えし
五歳の吾子が
なつかしきかな

だって
いつだってあえるじゃない
といいながら
死んじまった

市ヶ谷の
タヌキ屋敷を訪ぬれば
帝国軍人
健在なりき

枚方の
厚物咲きの菊人形
曽我兄弟が祐経討てり
 
丹波なる
綾部の街の由良川の
ほとりに咲きし
大輪の菊

ト短調
モーツアルトが
泣きながら
歌っている

Friday, November 28, 2008

大船フラワーセンターを訪ねる

鎌倉ちょっと不思議な物語第158回

大船には神奈川県立の大きな植物園、大船フラワーセンターがある。ここは観賞植物の生産振興と花卉園芸の普及を目的として、昭和37年に神奈川県農業試験場の跡地に開設されたが、大正時代からこの地で改良・育成された170種の芍薬、200の花菖蒲や360の薔薇、50の石楠花や躑躅、100の牡丹、300の洋蘭、200の椿、40の桜などを中心として四季折々におよそ5千余種の植物が公開されている。
この節はやたらと背が高くて大きな青い花が咲くテイオウダリアが人気だそうだ。

私が訪れた11月の下旬は恒例の菊花の展示会が開かれていたが、一口に菊というても、これほど多種多彩な菊の仲間があるとは夢にも思わなかった。多年にわたる品種改良の賜物なのであろう。

私はロティのお菊さんやベネディクトの「菊と刀」、漱石の三四郎の団子坂の菊人形見物の浪漫的なくだりを思い出しながら、コンテストに当選した華麗なchrysanthemumの数々を眺めていると、いつのまにかその強烈な芳香に頭が次第にのぼせていくのを覚えた。

菊は見た目も典雅であるが、その匂いがまた格別香ばしい。少年時代にたった一度だけ見た枚方の大規模な菊人形の圧倒的な展示を前にして、生まれて初めて花に酔った記憶が突如よみがえったことだった。

枚方の厚物咲きの菊人形曽我兄弟が祐経討てり 茫洋

丹波なる綾部の街の由良川のほとりに咲きし大輪の菊 茫洋

特報! 横浜アート&ホームコレクションを見る

照る日曇る日第192回

今日と明日の2日間限定で横浜桜木町・みなとみらいの住宅展示場で面白い展覧会が開かれている。積水、住友林業、三菱地所、ダイワハウスなど全部で17の展示棟のなかで、小山登美夫ギャラリー、児玉画廊、東京画廊、南天子画廊など東京の代表的なギャラリーがそれぞれの傘下の作家の作品を展示・即売しているのである。

伝統的なタイプからスエーデンハウスなどの2×4などモデルハウスの内装やしつらえも種々様々なのだが、それらのインテリアにうまく調和させた個性的な油彩、アクリル、水彩、オブジェ、ビデオ・インスタレーションなどの作品群が、リビングやキッチンやバスルームなどの思いがけないコーナーに展示してあるので、家つくりを研究しているひとも、ビジネスマンや学生の現代美術ファンも思い思いに楽しめる新機軸のイベントである。

私も半日かけてすべてのハウスと作品をじっくり眺めて、今帰宅したところだ。奈良美智や東芋など著名作家の作品も出品されていたが、私のお眼鏡に叶ったのは、三菱地所ホームに展示されていた佐々木健のランプやアンプやブルドッグのアクリル画で、それらがたった5万から15万で買えるとはいくら絵画バブルがはじけた直後とはいえあまりにも安すぎるのではないかと思ったことだった。

明日29日土曜日の午後2時と4時からは2つのトークセッションも予定されているようだ。


→横浜アート&ホームコレクションhttp://www.yaf.or.jp/yahc/#wrapper

Thursday, November 27, 2008

玉縄城に登る

鎌倉ちょっと不思議な物語第157回

玉縄城は天然の要害の地である丘陵に空堀や土塁、曲輪などの防衛施設を備えた山城であった。

本丸址は現在の清泉女学院の校舎、校庭の位置にあたるが、昔日の面影はない。ただ清らかな婦女子の嬌声が秋空にこだましているばかり。かろうじて中世鎌倉の雰囲気を漂わせているのは広大な「七曲り」の谷戸、樹木に覆われた「ふわん坂」、高地にある陣地の「諏訪壇」のみである。

「七曲り」は、急坂でいくつにも折れ曲がっているのでこの名がある。玉縄城に上り詰めた両側は土塁となり、土塁の内側の平場(曲輪)で下から攻め上がる敵を攻撃し、城を防御できるようにしていたが、これは同時期の朝比奈峠でも同様である。

「ふわん坂」は急斜面の坂で、かつてはその両側に曲輪があり、登ってくる敵を弓で迎え撃った。

「諏訪壇」はかつて本丸の東側にあった長方形の土塁で、玉縄城の最高地にあって見張りの役を果たしてゐた。ここは城主の最後の避難場所でもあり、現在市役所のちかくに移転した諏訪神社が守護神として祭られていた。

♪七曲り曲輪より射るおおかぶら 茫洋

Wednesday, November 26, 2008

玉縄城址

鎌倉ちょっと不思議な物語第156回

玉縄城は戦国時代の典型的な山城で、「当国無双の名城」として知られていたが、現在は学校や住宅の造成で昔日の面影はほとんど失われている。

 この城の築城と戦歴は以下のごとし。

1512年永正9年 北条早雲(伊勢新九郎)が三浦道寸攻略のために築城。

1526年大永6年 安房の里見氏が鎌倉に乱入し、初代城主氏時が戸部川(現柏尾川)のほとりで防戦。(前前回の玉縄首塚周辺参照)

1561年永禄4年 上杉景虎(謙信)が小田原を攻めあぐみ鶴岡八幡宮へ参拝し、管領になった報告をしようと鎌倉に引き返したとき、2代城主綱成の玉縄城を攻略しようとしてまたも果たせず越後へ引き返した。

1569年永禄12年 小田原攻めのとき、甲州勢は玉縄城北方を素通りし、藤沢の大谷氏の砦を落とす。

1590年天正18年 豊臣秀吉の小田原攻めのとき、4代城主氏勝は山中城に援軍したが落城したことを恥じ玉縄城に籠城。このとき秀吉の命で徳川家康は氏勝の叔父にあたる大応寺(前回登場の龍宝寺)の住職良達を通して降伏を説得し、開城となった。玉縄城はその後水野正忠に預けられたが1619年元和5年廃城。


♪城破れ敗れ咲き遅れたる山椿 茫洋

Tuesday, November 25, 2008

龍宝寺にて

鎌倉ちょっと不思議な物語第155回

鎌倉氏の資料によれば、この曹洞宗のお寺は玉縄城第2代の城主北条綱成が建てた瑞光院がはじまりであったが、1575年天正3年に4代城主氏勝が3代城主の氏繁を弔うためにこの地に移し、氏繁の戒名によって龍宝寺として建立したそうである。

創建以来玉縄北条氏の菩提寺で、綱成、氏繁、氏勝の位牌もここに祀られている。境内には江戸時代の典型的な建築物である旧石井家住宅が移築されており、さらにこの近所に住んでいた新井白石の碑もあった。

古拙の趣がある典雅なお寺で、境内には多くの花や樹木が植えられていた。山門の後ろにはかつての玉縄城の諏訪壇を望むことができる。

♪われかつて龍宝という名の上司に仕えたり 茫洋

Monday, November 24, 2008

玉縄首塚周辺

鎌倉ちょっと不思議な物語第154回


さて大船観音の高台を降りた私は、これからこの地域を支配した武将たちの拠点である玉縄城をめざすのだが、その途中の路地に昭和初期の瀟洒な建物を発見した。日本で初めて駅弁をつくった「大船軒」の社員寮である。その入口には、アールデコ風の飾りがあった。

この「大船軒」のオーナーは有名な鎌倉ハムの製造者富岡氏で、その立派な邸宅もその近所にあった。ちなみに我が国のハム製造技術は、明治7年に英国人ウイリアム・カーチスがもたらしたという。

大船軒と鎌倉ハムゆかりの地のすぐそばにあるのが、玉縄首塚である。

鎌倉市の資料によれば、一五二六年に安房の武将里見氏が鎌倉に攻め込んだとき、玉縄城主であった北条氏時は、渡内の福原氏やここ大船の甘粕氏とともに防戦したという。激しい戦闘が数度行われ、彼らは里見の軍勢をようやく追い払ったのだが、甘粕氏などおよそ三五名がここで斃れ、彼らの首を祀ったのがこの場所だった。

毎年八月一九日の玉縄史跡まつりには、塚の供養やこの傍らを流れる柏尾川で慰霊の灯篭流しが行われるという。

    ♪玉縄の河の畔に巨樹茂り猛き武将の勲しとどめむ 茫洋

Sunday, November 23, 2008

「大船」考

鎌倉ちょっと不思議な物語第153回

ところで「おおふな」という地名は、どこから来ているのだろうか?

縄文時代の大船はもちろんその大半が海没していたが、ほんのわずかな高地だけが現在の相模湾の岬を形成しており、そこには縄文人が棲んで魚介を収集して生活していた。

彼らは我々の想像を超えた偉大な航海者でもあり、当時としては非常に進んだ造船技術を駆使して縄文船を製造し、列島各地を海上交通していたが、ある日のこと現在の大船観音あたりに立って南の海上を遠望していた縄文人たちが一艘の丸木舟を発見し、「嗚呼船!」(oo fune!)と叫んだのだが、この感嘆符がなまって現在の「大船」という地名になったと言われている。

しかし私自身は、それよりも鎌倉の三代将軍実朝が宋に渡ろうとして由比ガ浜の海に造らせた巨大な渡宋船からその名が来ていると考えたくて仕方がないのである。


♪大船や大きな船がいま沈む 茫洋

Saturday, November 22, 2008

大船観音詣

鎌倉ちょっと不思議な物語第152回

大船駅の上に聳えている白亜の巨像がこの“くわんのんさま”です。

市の資料によれば、1929年昭和4年に永遠平和のために地元有志がその建立に着手し、1934年昭和9年に像の輪郭ができあがたそうです。私のおぼろな記憶では、その基本デッサン作業には彫刻家の朝倉文夫さんも加わっておられたようです。

その後戦争などにより未完のままになっていたのを、戦後曹洞宗永平寺管長の高階禅師らが中心となり大船観音協会が設立され、1960年昭和35年に完成し、1981年昭和56年からは曹洞宗の大船観音寺になった、そうです。

それはどうでもいのですが、ここ大船周辺には曹洞宗、北鎌倉から鎌倉には建長寺、円覚寺など臨済宗のお寺が多く、同じ禅宗とはいえ鎌倉時代からお互いの教線がするどく対峙していたことがうかがえます。

大船観音に実際に上って見ると、かなりの急坂で、少し息が上がりましたが、すぐに頂上に達し、そこからは駅や電車やビルや山々をのぞむことができます。
改めて“くわんのんさま”のお顔を拝しますと、さすがに慈愛に満ちたかんばせです。けれど、なにやらいまひとつ物足りない。できたら今は亡き岡本太郎先生に登場していただきたかったと思わないでもありませんでした。

晴れ上がった秋の空に伏し目がちに慈愛の眼差しを注いでいる“くわんのんさま”を眺めているうちに、こんなことを思い出しました。
私は25年ほど前に、鎌倉で住まいを捜していましたが、ある時地元の不動産屋さんが「どこでもいい。“くわんのんさま”のお姿が拝める部屋に住みたいと願っているお年寄りがいるんです。変わった人ですな」と嘲笑っていたのです。そのときこの私までもが破廉恥にもえへらえへらと憫笑してしまったことが今になって悔やまれます。

あれほど親切に、あれほど多くの物件を一緒に探してくれたのに、私は結局その不動産屋さんの世話にはならずに別の業者の紹介で現在の家を手に入れたのですが、彼の自慢の美人の奥さんも数年前に亡くなり、近所にある彼の家は障子の紙は破れ放題になって秋風に震えています。歳月を経て老人の心のありようについていささか思い知らされた私たちですから、いまなら彼も黙ってそのような条件の部屋を熱心に捜してやったことでしょうに。

あのとき話題になった老人は、どこかこの近くのアパートでも見つけることができたのだろうか。そしていまなお健在なのだろうか、と私はトンビが“くわんのんさま”の頭上をくるりくるりと飛び回る高台で考えたことでした。


♪窓を開ければくわんのんさまが見えるそんな部屋にてわれも死にたし 茫洋

Friday, November 21, 2008

黒澤明の「どですかでん」を見る

照る日曇る日第191回

黒澤の「どですかでん」は昔一度見たきりで、あまり良い印象を受けなかったが、今回は随所に映画を見る楽しみが転がっていた。

この映画では、冒頭で頭師選手演ずる障碍少年が登場してドデスカデン、ドデスカデンと架空の電車を走らせるのだが、実際はその前に法華経の熱烈な信者である母親の菅井きんとの奇妙なやりとりがある。

母親は息子の知的障碍を苦に病んで、彼がこの障碍から回復してくれることだけを日蓮上人に祈願して♪南無妙法蓮華経を絶叫しているのだが、そんな訳があるとは露思わない六ちゃんは、訳もわからずに♪南無妙法蓮華経を絶叫するクレージーな母親の病の治癒を心から願っており、結局は親子二人で♪南無妙法蓮華経を絶叫するというナンセンスに着地するのだが、最初見た時、私にはそのナンセンスが下手くそでただのつまらぬナンセンスであるとしか思えなかった。

実際にはこの映画は、キャメラがそこからパンしていくと私の好きな武満徹による私の嫌いなギターが奏でる哀愁に満ちた主題歌が流れてこの映画のプロローグを形作り、およそ二時間後の同じ趣向によるエピローグと対をなしてこの山本周五郎原作の長屋物語の幕を閉じる。

その間に伴淳三郎による涙なしでは見られない夫婦愛の異常な発露、芥川比呂志と奈良岡朋子による新派風ホラー悲劇であるとか、幻想の建築ゲームに酔いしれて子を犠牲にしてしまう乞食とか、暴れん坊ジェリー藤尾の乱暴を見事におさめる長屋の長老渡辺篤などの怪演技が次々に我々を楽しませてくれるのだが、当時の私はもはやそのような本編の多彩なエピソードに魅入られることはなかった。

この映画が製作されたのは一九七〇年であるが、ここに登場する六ちゃんやら乞食の三谷昇によって死に至らしめられる少年の悲しみをほんとうに理解するためには、この映画を見てから何年も経って私と家族が六ちゃんのお仲間となってそういう身の上の切実さを身をもって知ることができてからのことだった。

♪人生はうれしやかなしやどですかでん 茫洋

小動神社と太宰治

鎌倉ちょっと不思議な物語第151回


私は、まだ腰越界隈を漂流しているのだった。

気がつけば、ここは源氏の武将佐々木盛綱ゆかりの小動神社である。私の実家と同じ御紋が甍の上に燦然と輝いている。「鎌倉志」によれば、古来この神社の山の端には海辺へ突き出た松の木があり、風もないのに常に幽かに動いているので「こゆるぎの松」と称したという。

私は本殿のたもとに今もそびえている松の木の葉をじっと見つめた。確かに松の木は枝は枝として、葉は葉としても小刻みに揺れ動いているやに見える。しかし神社の周囲は幸か不幸か秋風が立っているために、この微動が物理の現象なのかそれとも神事であるのかはついに見定めることができなかったのである。

神社の境内が尽きるとそこはもう腰越の海だった。思いっきり首を伸ばして切り立った断崖の真下を覗き込むと岩礁が荒波に打たれている。小動岬だ。
昭和5年1930年、帝大生太宰治が銀座のカフェーの女給田部シメ子とカルモチン自殺を図ったのがちょうどこの黒く光る岩の上だった。
その体験が「道化の華」を生んだが、事実は小説とは違って2人は荒れ狂う波間に飛び込んだのではない。大量のブロバリン(カルモチン)を服用し、若い男は生き残ったが、女は死んだ。

幾度も自殺を試みたこの作家は、昭和23年1948年山崎富枝に縛せられて玉川上水の露と消えたが、惜しみても惜しみてもなお余りある非業の死であった。当時の太宰が作家として絶好調にあり、みじんも自殺する意思がなかったことは、彼の遺作「グッド・バイ」の最終回を読めば歴然としている。彼は彼の弱さによって馬鹿な女に殺されたのである。

太宰がどれほどの天才であったかは、死の前年に締め切りに迫られて、新小動潮社の野原一雄の目の前でビールを飲みながら口述筆記させた短編「フオスフオレセンス」を読めば2002年の2月に死んだ我が家の愛犬ムクにだって分かるだろう。この荒技ができるのは、太宰のほかにはスチーブンソンだけだろう。生れながらの小説家とはこういう人のことを言うのだ。

では諸君、読んで見給え。短いから2分で読めます。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/310_20192.html


「なんて花でしょう。」 と彼にたずねられて、私はすらすらと答えた。
「Phosphorescence」

ところがこの花が永遠の謎の花であるところがまた素晴らしい!




♪さわに生りし蒼き柚子の実もぎ取れば強かにわが指刺せりその処女の実 茫洋

Wednesday, November 19, 2008

雑賀恵子著「エコ・ロゴス」を読む

照る日曇る日第190回


「存在」と「食」をめぐる著者の思考は、時空を超えて軽やかに飛翔しながら私たちを未踏の領域に導いていく。

「最初の食欲」では食べるということの本質が解き明かされ、「遥か故郷を離れて」ではカインとアベル以来私たちが殺してきたものを見つめ、「草の上の昼食」、「パニス・アンジェリクス」では大戦中の兵士や船長が直面した殺人と食人の現場における「倫理」のありかについて光を与え、「ふるさとに似た場所」では、私たちの生の本質は「骰子一擲」であり、その不断の歩みに回帰すべき場所はないこと、「嘔吐」では私たちが他者、他の存在とかかわる劇場の中で生きていること、「舌の戦き」では舌が他者との交通の歓びを味わい、その快楽の記憶を呼び起こす器官であること、「骸骨たちの食卓」では、私たちがたとえ檻の中に捕われたカフカの「断食芸人」であろうとも観客の眼差しとは無関係に愚鈍に生きるべきこと、「ざわめきの静寂」では私たちは瞬間毎に新たに立ち現れる存在であること、が叙事詩のように力強く、抒情詩のように美しく語られる。

そして著者が終章において、まるでサッフォーのように、あるいはまた「星の海に魂の帆をかけた女」のように次のように語るとき、私たちはこの誠実で真摯な探究のひとまずの結論を、大いなる共感とともに受け止めないわけにはいかないだろう。

「言語を持ったわれわれは、歴史を持つ―すなわち過去を振り返り、傷みを感じつつ検証することが出来るということでもある。わたしたちは死すべきものであるのだから、生は他者の死との連関の中で繋がれるものだから、だからなのだ、根源的な殺害の禁止は、絶対的なものであり、つまり他者の殺害ばかりではなく、自己の殺害の禁止をも含むものなのだ。」

「生きるとは、ともに在ることであり、倫理とは、生きようとする意志のことだ。…言葉でもって、生きる場所の論理を語ること。確かに、それは、どれほどの試みを積み重ねても、失敗し続けるだろう。だが、言語によって、われわれは歴史をもったとともに、未来というものをわれわれの思考の中に導き入れたのだ、未来、希望というものを。」

この本は、著者の存在を賭した精神の大旅行記というべきだろう。


♪屋根の上アンテナ立て終えたる2人連れ風に吹かれて煙草のみおる 茫洋

満福寺徘徊

鎌倉ちょっと不思議な物語第150回

江ノ電の線路をまたいで松の茂った急な階段を見上げると、そこは義経の腰越状で名高い満福寺であった

元暦2年1185年、平家を壇ノ浦に滅ぼし鎌倉へ凱旋してきた義経は、この寺に滞在して兄の怒りを解くべく一通の書状をしたため、これを大江広元に託した。しかし梶原景時の讒言によってついに兄頼朝との再会がかなわず、ここ腰越から泣く泣く京へ引き返したのである。

義経はそれからご存じのように奥州藤原氏に匿われたが、文治5年1189年6月の中旬、藤原泰衡によって衣川で討たれ、その首は百三十里をゆるゆると四十三日かけて鎌倉に送り届けられ、その首実験はところも同じここ満福寺において梶原景時と和田義盛によって行われた。

この両名はいずれも数年後には北条氏の陰謀によって撃滅窮死せられる御家人であったが、おりしも八月初旬の暑い盛りの節だったから、いくら義経の首が酒にとっぷり浸されていたとはいえ、その形状は原形をとどめず、その発する腐臭は耐え難いものだったろう。

ゆえに後世ここから偽首ではないかという嫌疑が生じ、さらに大きく逸脱して義経ジンギスカン説などの浪漫伝説を生むことにもなったいわくつきの寺であるが、いまなお境内も本堂もどことなく怪しくいかがわしい空気がみなぎっている。

本堂の甍にはなんと源家の文様の瓦が載せてあるし、弁慶が書いたと伝えられる腰越状の下書きにしても醜い褐色にたらしこまれ、真贋いずれとも判別できない。しかし念の入ったことには弁慶の筆をうるおした硯の水を汲んだ池まで現存しており、数匹の緋鯉まで泳いでいるとあっては、もはや何をかいわんや、であった。

池の突き当りは広大な墓地になっており、墓地の上の小高いところには義経旅館と料亭まで兼備されているのでお暇の方はぜひ訪れられよ。


♪世を呪い人を恨みて満福寺 茫洋

Tuesday, November 18, 2008

腰越界隈

鎌倉ちょっと不思議な物語149


腰越は鎌倉の空虚なにぎわいからきっぱりと遠ざかり、山と川と海のすぐそばにへばりついた漁村であるが、時折潮風に吹かれて江ノ電が通りの真ん中を勢いよく走るとき、なにやら嬉しそうな表情を浮かべるのである。

ここには昭和の初期に昔肺浸潤を患った山本周五郎が療養を兼ねて住んでいて、商店街のまんなかへんにある「いずみや」という西洋料理屋でハムエッグやらハンバーグだのを生まれてはじめて口にしたそうだ。

私たちは「いずみや」の旧跡あたりで生イワシを15匹500円で買い、その近くの一〇銭飯屋でとれたての生シラスの丼を頂いてその日の午餐としたのであった。

♪ありがたやムラサキシジミの深き青 茫洋

Monday, November 17, 2008

川上弘美著「風花」を読む

照る日曇る日第189回

そんじょそこいらのどこにでいそうな主婦が亭主に浮気されて、それをしおに彼女は自分自身を、夫を、そして世界というものを見つめなおし、自分と自分を含めた全部の世界を取り返そうとする。そういういわば世間でも小説世界でもありふれたテーマを、作者はこの人ならではの文章できちんと刻みあげていき、最後の最後でどこかお決まりの小説とはかけ離れた非常な世界へと読者を連れ込んでそのまま放置する。これこそ当代一流の文学者の凄腕だろう。

その平成恋愛小説史上最高といわばいえるような、壮絶にして超クールなめくるめくラストシーンを引用するかわりに、ここでは小説のプロットとはあまり関係のないこまかな描写をいくつか書いておこう。

―「なに見てるの」卓哉が突然聞いた。
え、とのゆりは聞き返す。
「魚みたいな目をしてる」
さかな。のゆりはよく訳が分からないまま、卓哉の言葉を繰り返す。(中略)
さかなは、かわいいよ。夜中のしんとした部屋の中で、のゆりは声に出して言う。それから、頭をぶるっと振る。

―のゆりが取ったキスの天ぷらは、天つゆにつけたとたんに、しなりとのびひろがった。


―のゆりはその無言電話がかかる一瞬前に、電話がかかってくることを予見できる。音はまだ鳴っていないのに、空気が揺れたりするわけでもないのに、なんとなく電話全体がふくらむような感じに、なるのだ。

―「おいしそうだね」
のゆりが声をかけると、男の子は恥ずかしそうにうつむいた。それからすっと顔を上げ、「おいしいねん」と、はきはき答えた。

―ホテルに着いたのは午後遅くだった。(中略)部屋はシングルで、メネラルウオーターの瓶が一本、テレビの横に置いてあった。

―わん、という音がして、向かいのホームの前を下りの新幹線が通り過ぎた。一瞬、空気が大きくたわむ。


神は細部に宿り、作家はその細部を、神の降臨を待ち望みつつ永遠に紡ぎ続けるのである。


♪夢の中で眠りながら星のやうに美しい歌をうたっていた 茫洋

Sunday, November 16, 2008

マーク・ストランド著・村上春樹訳「犬の人生」を読んで

照る日曇る日第188回

著者は一九三四年、カナダのプリンス・エドワード島生まれ。アメリカ現代詩界の代表的存在だそうであるが、彼の初の短編小説集が本書である。

当たり前のことであるが、短編はともかく短いから長編と違ってすぐに読めてしまうのがよい。この本に集められた作品の多くは短編というよりは掌編というべき短さなのですらすらと読めてしまうのだが、プロットも文体も普通の小説家のものとは相当違っているので大いに面喰う。

例えば表題作では「ヴラヴァー・バーレットと妻のトレイシーは、キングサイズ・ベッドに横になっていた」という素敵な書き出しから始まり、「彼がそのとき口にしたことは、もう二度とふたりのあいだで持ち出されることはないだろう。それは慎み深さ故でなく、あるいはまた相手を思いやってのことでもない。そのような弱さの露呈は、そのような抒情的なつまずきは、あらゆる人生において避けがたいことであるからだ」というところで終わるのだが、その間わずか新書版サイズの本で五ページにも満たない短さである。

しかし、この最短距離で慌てず騒がずゆったりと語られる西洋版「父母未生以前」の物語のなんと神秘的でなんと喚起的で、なんとシリアスなことよ。目が眩むような幻想と氷のような冷鉄の相反する世界を男女の背中越しに魔術的に貼り合わせている。

もちろんそのほかの作品もとても興味深いものがあるのだが、ここまで書いてきて分かったことがある。それは彼の作品が他の短編作家と違うのは、最後の一行、最後の一句で完結しない、ということだ。いかにも詩人が書いた小説である。


♪残金は3万円と息子いう 茫洋

Saturday, November 15, 2008

吾妻鏡第4巻「奥州合戦」を読んで

照る日曇る日第187回


我が国に初めて武家政権を樹ち立てた二品頼朝に対する評価は高いようだが、吾妻鏡を読み進むとこの武士の人間性がだんだん厭になるような気がするのは、後に源家を簒奪した悪辣非道な北条氏がこの歴史書を編纂したからだろう。

しかし平家追討、殲滅に多大の貢献をした弟の伊予守義経や、それほどの武勲はなかったが義理の兄の代理として西国を連戦した範頼への冷酷極まりない処遇には、冷徹非情な政治家の決断を褒めそやす以前に、大いなる違和を覚える。

所詮この男は老獪な北条時政や梶原景時などの側近に目を眩まされ、己の真の敵と味方とを弁別できず、己の内部に異端や外様や取り込んで清濁併せ呑むことができなかった悲劇の将軍ではなかっただろうか。

とりわけ平家掃討戦に軍の矢面に立たなかったくせに、伊予守の殺戮を命じてやむを得ず実行した藤原泰衡の追討には中央軍の陣頭指揮を取っており、なにもそこまでしなくとも、という気がするのである。

藤原氏征討直後の文治五年一一月一七日、二品は藤沢市の大庭御厨の近くで一匹の狐に遭遇する。数十騎で取り囲み、頼朝が弓矢を番えてヒョウと射たところ、彼の矢は当たらず、傍から射た弓矢の名人篠山丹三の矢が狐の腰に当たった。頼朝はそのことを知りながら、「命中した!」と声を発した。

すると丹三は忽ち馬より降りるや頼朝の矢を己の矢と入れ替えて狐に立て、これを掲げて二品に奉った。翌日御所に帰還した頼朝は、丹三を召し出して側近く使えるように命じたというのであるが、これほど嫌な話もない。

頼朝という人のほんとうは、結局この程度の者であったと思わないわけにはいかない。


♪亡き人の胸に塞がる菊の花 茫洋

Friday, November 14, 2008

雑賀恵子著「空腹について」を読む

照る日曇る日第186回

新進気鋭の科学者にして社会思想家による構想雄大、真率にして繊細、知情兼ね備えた詩人哲学者の清々しいエセーである。

「あらゆる人間の営為は、物質の動きによって表現される。
たとえば、愛。触れ合う唇の湿り具合。絡み合う指の温度。鼓動の響き。肌の触感。あどけない笑顔からこぼれる生えかけの小さな歯。抱いた時の心地よい重み。日向くさい頬に透ける血管。留守番電話に残された「お休み、いい夢を」という囁きを反芻するせつなさ。熱で苦しんでいると、ひたとも動かず凝っと見守り、時々冷たい手の肉球を唇や頬にあててくれて鼻先を近づけそっと嘗める猫の潤んだ瞳。
そういうものの積み重ねであり、個別の他者の持つ個別の記憶に支えられている」

という文章に接した人は、もうどうあってもこのあまりにも魅力的な詩文ファンタジーの世界の扉を押さないわけにはいかないだろう。

まず「なぜお腹が空くのか?」と考え始めた著者の夢想と空想は、次いで「なにが美味しいのか?」という考察に向かい、ここで突如「残飯をめぐる歴史的研究」に転身し、最低辺の貧民や女工がどのように悲惨な食生活を強いられていたかを一瞥し、さらに軍隊における軍用食の問題に潜入すると、ついに脚気と食物の因果関係を認めようとしなかった頑迷な陸軍軍医鴎外森林太郎が日露戦争で多くの脚気羅病者を出してしまったこと、「戦争をするために軍隊があるのではなく、膨れ上がり自国内部でもてあました空腹が他者を食いつぶすために戦争がある」と喝破するに至る。

 餓島ガダルカナルにおける悲惨な戦闘と絶望的捕食に触れた著者は、さらに「食人」の問題に言及進み、我が国で古来幾多の大飢饉に際して食人が珍しくなかったにもかかわらず、わたしたちの現在の社会で食人が起こるとは想定されず、それを禁じる法律すらないという異常さを指摘する。そして「現在の地球人口と資源および生産形態から見れば、いずれ人体を食料資源として考慮に入れなければならないとする議論が確実に出てくる」とカッサンドラのように不吉な予言をするのである。

 かつて学生時代のある時期に、動物実験で毎日のようにマウスやラットを数匹以上殺していたという著者は、養鶏場の近代的な工場で機械製品を作るように大量生産されるブロイラーや霜降り肉を生み出すために飼育されている大量の牛たちに対して、人間はいったいどのように向き合うべきか? 資本の論理に貫徹された食肉生産の現場において、人間が動物に対する優しさや残酷さとはいったい何か? と自問する。

 最後に、飢餓をはじめとする「世界の貧困」について、その歴史的政治経済的分析を終えたあとで、著者は次のように述べる。

「慎ましくも必要とされるのは、道徳ではなく、倫理である。正義の軸を設定し神殿に納め、それに礼拝跪して異教審問の過程で排除項を生み出していくのではなく、不快さを不快であると叫び続けること。システム内に繋留された倫理=道徳から身をひきはがし、個人の身体感覚から不快を問い続ける倫理から想像を他者に投げかけること。そうしたエロスの投げる網によって他者の苦痛を新しく見出す営みを持続させること。それが知るということである。他者を理解することはできない。しかし他者を理解しようとするその試みこそが、人間の営為なのである」

 このようにおぞましさと嘔吐と矛盾と困難と悲喜劇にみちあふれた、この毎日が世紀末の人の世を、著者は「生命体としてのわたし、身体をもつわたしに根ざしたこの倫理」をひしと抱きかかえ、冷酷非情の法-規範、道徳との狭間に立ちすくみながらも、「いま何をなすべきか?」とレーニンやハムレットのように胸に問いつつ、愛描綱吉と共に今日もけなげに前進しているのである。


♪人の世はさはさりながら愛ありて 茫洋

Wednesday, November 12, 2008

佐々木健“Score”展を見る

照る日曇る日第185回

曇天を冒して2つの展覧会を見た。ひとつは東京新宿区西落合の「ギャラリー・カウンタック」で今月15日土曜日まで開催されている佐々木健“Score”展である。

スコアというからすべて音楽や音符にちなんだコレクションかと思ったのだが、さにあらず。芽吹いたジャガイモやらカラフルな毛糸のセーターを着せられた可愛いブルドックなどもそこここに配置され、作者のたくまざるヒューモアをさりげなく体感させてくれる。

もちろんドラムス、ベース、アンプなどの楽器やドライバーなどの道具や機材もたくさん描かれていて、それらはほんらいは無機的な物たちなのだが、じっと見つめているとあたかも生命あるもののごとく陰微におののきはじめるような気がしてくるから不思議であり、やや不気味でもある。

私たちの日常にありふれたモノを凝視する作者のまなざしがそのモノをくしざしにするとき、モノはモノならざるものに変容し、なにやらなつかしい言葉を発しているようにも思える。作者はかつて無機を有機と化そうとしたアール・ヌーボーをば、この平成の御代に再来させようと試みたのであろうか。

http://gallery-countach.com/contents/exhibition/exhibition_frame.htm

なお今回の作品の一部は11月28(金)、29(土)日の2日間横浜市西区のみなとみらいで開催される「横浜アート&ホームコレクション」の三菱地所ホーム×Gallery Countachのコーナーでも見ることができる。

http://www.yaf.or.jp/yahc/#wrapper

もうひとつは閉幕間際の「大琳派展」。琳派関連は最近ものすごく増えたので、あまり期待しないで行ったのだが、質量とも最大規模の素晴らしいコレクション。光悦、宗達、光琳、乾山、抱一、其一ときて、やはり図抜けて、神がかって、偉大なのは俵屋宗達。その作品をこんなにどっさり見せてくれるなんて、ありがたや、ありがたや。これで死に土産ができました。

「風神雷神図屏風」もさることながら「源氏物語図」、「伊勢物語図」、そしてきわめつけは若冲をはるかに凌駕するシュールな「白象図・唐獅子図杉戸」(京都・養源院蔵)。神韻縹渺とはこの人のためにある言葉だろう。

Monday, November 10, 2008

龍口寺に向かう

鎌倉ちょっと不思議な物語148


江の島には行かずに、今日は龍口寺に向かう。ここは鎌倉時代に日蓮が蒙古来襲の折に北条政権に逆らったために平頼綱(1285年の霜月騒動で御家人筆頭の安達泰盛一族を皆殺しにし、1293年に自害した筆頭御内人)によって斬首されようとした場所である。

ところが一天にわかにかき曇り、天地がぱっと夏の白昼のように明るくなり、介錯の男がよろけて刀を取り落としてしまった。江ノ島の上空に闇を裂いて巨大な光ものが出現したためである。時に文永八年九月一二日夕刻、世に日蓮「瀧ノ口の法難」と称せられる。

一大宗教者の処刑を救うため天が奇跡を起こされたのであろうか。日蓮宗の創始者はからくも一命を取り留めたのであった。

本堂にはこのとき日蓮が敷いていた敷き皮が、境内には当時日蓮が幽閉されていた御霊屈が現存している。

龍口寺の創建は鎌倉時代ではない。1337年になって日蓮の弟子日法が粗末なお堂を作ったが、今日のような完成をみたのは江戸時代の初期に入ってからだから、比較的新しい建築だ。


♪鎌倉の松葉が谷の道の辺に法を説きたる日蓮大聖人 子規

新橋のヘラルド映画の試写室でよく顔合わせし人昨日死にけり 茫洋

今日TBSは死にましたと言いながらTBSに出続けし人死す 茫洋

Sunday, November 09, 2008

江ノ島遠望

鎌倉ちょっと不思議な物語147

江の島は、片瀬との間をつながれたり海で切断されたりして長い歳月を送ってきた。

明治時代の江の島は、小泉八雲が「日本瞥見記」で記したように、夢のようにのどかな浅葱色の海だった。

「江の島の、ちょうど対岸にあたる片瀬という小さな部落で、われわれは人力車を乗り捨てて、そこから徒歩で出かける。村と浜のあいだに小路は、砂が深くて、くるまを引くことができないのだ。われわれよりも一足先に来ている参詣者の人力車も、幾台か村の狭い往来で待ち合わしていた。もっとも、この日、弁天の社に参詣した西洋人は、わたくしひとりだそうだ」

同時代の正岡子規は、あの短かすぎた悲壮な生涯で、2度も江ノ島を訪れているが、最初はたしか文科大学の一年生の頃で、当時落語と漢詩に打ち込んでいた漱石と一緒だったと記憶している。彼らは暴風雨を冒して八幡宮、大塔宮この景勝の地に渡ったのであった。

だから次ののどかな短歌は、その時ではなく二回目に病床にあった鎌倉の友人を見舞った折の歌に違いない。

   江の島へ通ふ海原路絶えてみちくる春の汐の上の雨

寄せては返す波のうねりに乗って繰り広げられる美しく古式豊かな日本の歌の調べは、
中原中也が口ずさんだチャイコフスキーの「四季」の舟歌のメロディを思い出させる。

そしてその細やかで抒情的な音律は、3代将軍実朝による好一対の春秋の歌

箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に浪のよるみゆ

にもどこか遠いところで通底しているようだ。

*資料提供は鎌倉文学館


♪生温し地震来るやうな風が吹く 茫洋

Thursday, November 06, 2008

保坂和志著「小説、世界の奏でる音楽」を読んで

照る日曇る日第184回

とりあえずは大仰なタイトルといかにもな表紙の写真に辟易させられるが、本編に入るとこの人独特の小説とも評論ともつかぬ小説に対する思索やら随想がまるで牛の反芻のようにしつこく繰り返され、牛の唾液のように夥しく垂れ流される。

それらはところどころ抜群に面白く、確かに一定の意味があり、新たな発見もあり、私たちが小説や思想や哲学や絵画や音楽や、さらには人の世や人生などについてそれほどきちんと理解していないことをだんだん解き明かしてくれるのだが、それにしても先月号の「ソトコト」で田中選手だったか浅田選手だったかが、そのどっちがそう発言していたのかはもう忘れてしまったが、この本の著者が暇にあかしてどうでもいいことどもを日がな一日微分積分してよろこんでいる、だったかな、それともうつつを抜かしている、だったかな、ともかくそういう風にバッサリと斬って捨てていたけれど、まただからといってこのおふた方による気宇壮大な天下国家憂国談義の空論が、この本の著者によるいわば深く静かで音楽的かつミニマリズム的洞察よりもいちだんと高尚でハイセンスだというつもりなぞ毛頭ないのだけれど、いくら連載の締め切りが迫っているからと言って己の頭の奥底に仕舞っておいて発酵するのをじっくりと待っていたほうがモアベターな思藻の断片を無理やり記事にすることもないのではと思わないわけにはゆかなかった。

けれども、そのなかでもやはり著者が突如というべきか、それとも予定調和的にというべきか、死んだ小島信夫に成り替わって、というか憑依して、いかにもありそうであらぬことどもを「小説霊」にしゃべらせているくだり、それから次に紹介する長嶋茂雄がスランプに陥った掛布を電話で激励する逸話などは出色の出来栄えだった。

 「掛布くーん、いまちょっとスランプみたいですねー。ちょっと素振りしてみてくれる?」
「え?いまですか?」
「そうですよー。いまです」
で、掛布が受話器を置いて何回か素振りをして電話に戻ると、長嶋は
「3回目のがよかったねー。もう一度思い出してやってみてくれる?」
 と言ったという。

 著者は、「私はこの話を信じるし、長嶋茂雄という人はそれくらいの人であったと思いたい。その夜を境に掛布がスランプを脱出したのは言うまでもない(きっと)」と書いているが、どうして掛布もなかなかの者ではないか。

朝比奈の峠に斃れし土竜かな 茫洋

Wednesday, November 05, 2008

バガテルop73

バガテルop73


オバマがマケインを下したというので、抱き合って涙を流している民主党支持者の熱狂を眺めていると、それがそんなにうれしいことなのかよ、と興ざめするとともに大いなる違和感を覚える。

かつて手前勝手な自国の利害だけで世界中を振り回し、パックス・アマリカーナを謳歌していた唯我独尊帝国は、政治的にはイスラム教国や無手勝流北朝鮮との闘争、経済的には中国、ロシアなどBRICsやEU諸国との闘争に一負地にまみれ、あまつさえサブプライム・ローンに端を発する世界金融危機の元凶として聖金曜日にクンドリから致命傷を負ってしまったために、もはや長期的には歴史の花舞台から徐々に退場するほかはないだろう。

いつも陽気なヤンキーたちは、あのように何ヶ月間も「チエンジ!チエンジ!」と馬鹿のひとつ覚えのやうに絶叫していたわけだが、現在のブッシュにできなかったことが、オバマやマケインやヒラリー・クリントンにできるとはとうてい思えないのである。
帝国の沈没はもはや時間の問題となった。

しかしそれではわが最愛のヤマトンチュウ帝国はどうであろうかと一瞥すれば、口先のひんまがった炭焼き炭坑節男が、長らくのお待ちどう。近々ようやっと解散総選挙に打って出るそうな。
それというのも聖なる日蓮上人の非嫡子の末裔たちの悪知恵で、一人あたり二万円也の公金ばらまき作戦を思いついたから。しかも飴玉くれてやる代わりに、三年後にショウヒゼイ取るぜ、とどすの利いただみ声でおしきせがましく駄目を押す。これって脅迫じゃあないの。

おいおいそこの出目金、その金は誰の金だと思っているのだ。国民の血税をエサにして奇跡の衆院逆転勝利返り咲き、返す刀で恐怖の増税たあ、コムロテツヤも真っ青な悪辣詐欺よ。そんな幼稚な手練手管でわれら陛下の忠良なる臣民が騙されると思ったら大間違いだぜ。

(いや、ころっとだまされちゃうのかな?)

おまけに今頃になって旧帝国軍人の生き残りが、フィリピンならぬ市ヶ谷界隈から黒タヌキのように飛び出して、悪いのは米帝だった、日帝はちいとも悪くない。あんときゃ鬼畜米英に強いられて、いやいやアジアに鷹狩りに行ったのだ。南京、上海、満州、韓国、台湾のお友達に無上の幸せを運んでやったのだ。五族協和、亜細亜解放ツアーにちょっくら行ってきただけよ。それがあんまり嬉しくて楽しくて、お礼の花束までもらったので、近いうちにまた行きたいな、などとぬかしやがるのだ。

タヌキ親爺は百叩きのうえ市中引き回しのうえ縛り首の刑も受けず、なんと退職金をたんまりもらって浅草の奥山辺りに逃げ込んだそうだが、もしかして市ヶ谷村にはこんなタヌキ親爺がほかにもワンサと棲息しているのではあるまいなあ。



♪市ヶ谷のタヌキ屋敷を訪ぬれば帝国軍人健在なりき 茫洋

Sunday, November 02, 2008

2つのコント

バガテルop72

その1 父子の2人で朝比奈峠を登りながら…

私 ではここで問題です。あなたがいちばん好きな人は、つぎの3つのうち、何番でしょう?
1番 お父さん
2番 お母さん
3番 弟のKクン

息子 (しばらく考えてから)両方ですお。


その2 3人で食事をしながら…

息子 お父さん、自閉症って何?

私 (一瞬ギョッとしながらも冷静に)つまり君のことだよ。自分のことなんだから、自分が一番わかるでしょ。

息子 (しばらく考えてから)わかんないお。

ちなみに、自分で自分が自閉症だとわかっている人が高度自閉症、わかんないひとが普通の自閉症。どっちも脳障碍者なのに、いかにも前者が賢そうに思えるのはあほばかネーミングのせいだろうか。

ややこしい人間が目の前に現れると、「発達障害」などという安易なレッテルをペタペタ貼って、なにかがわかったような気になっている学者や専門家もとんでもない食わせ者だ。


♪黄色い顔に白き嘴ピラカンサ啄ばみてピーと鳴きし細身の鳥の名をば知りたし 茫洋

水本邦彦著「徳川の国家デザイン」を読んで

照る日曇る日第183回&ふあっちょん幻論第23回 

徳川時代の日本は、中国などの海外から生糸、絹織物、砂糖などを輸入し、その見返りとして銀、銅、俵物などを輸出していた。「俵物」とは初めて聞く言葉だが、岩波の広辞苑を引くと、なんと煎り海鼠、乾し鮑の2品のことで、のちに鱶鰭が加わった、とある。

いずれも海産物であるから、これらを本邦の海民たちが俵に包んで港から搬出したのだろうが、当時の代表的な輸出商品が珍奇な海の幸であったことに意外の感を受けた。ナマコもアワビもフカヒレも日本というよりは中国、東南アジアの特産物かと思っていたが、当時はそれらの国では収穫する海人や技術がなかったのであろうか。

かのマルコ・ポーロが「黄金の島」と紹介した我が国では、黄金はともかく大量の銀、そして銀の産出が尽きてからは銅を海外に放出していたようだ。本書によれば、17世紀の全世界の銀産出量年間60万キログラムのうち日本銀は最盛期にはその3割から4割を輸出していたというからあきれてしまう。きっと明治の不平等条約のひな型のようにポルトガル、オランダ、中国などの諸外国から大いにぼられていたに違いない。

しかし石見銀山などからの貴金属大出血放出の見返りとして我が国にもたらされたものは、膨大な中国製生糸であった。16世紀後半の生糸輸入量は、年間六万から十五万キロ、1930年代には18万から24万に達し、我が国のアパレル業者たちはこれらすべてを原料にして、せっせせっせとおよそ13万から18万着の絢爛豪華な絹織物に変身させたのだという。(同書第6章P287~289)

15世紀末ごろから栽培が始まった木綿が、麻布に代わって庶民の日常着の主役に変わり、今度は最高級の絹の着物が陸続と登場すると、ホップ、ステップ、ジャンプ、男も女も少女も娘も、50歳を越した人妻も狂ったように絹の薄衣を身にまとったのだった。ああ、なんと贅沢の素敵なことよ!

絢爛豪華な桃山文化も、後水尾院を中心に花開いた寛永文化も、地中奥深くから最貧労働者共が血まみれになって掘り出した貴重な鉱物資源と引き換えにもたらされた、と著者は言いたげである。その後歴史は何度となく繰り返されたが、織豊政権の昔から、わが国の得意技はバブリーな蕩尽だったのである。


♪さあ働け、働けば天国の門は開かれると誰かがささやいている 茫洋

Saturday, November 01, 2008

鎌倉交響楽団の「マーラー5番」を聴く

♪音楽千夜一夜第49回&鎌倉ちょっと不思議な物語146回


秋晴れの土曜日のマチネーで第92回の定期演奏会が開かれ、鎌響がマーラーの嬰ハ短調の交響曲を取り上げました。全5楽章、演奏時間およそ80分の大曲です。

こんな難曲をつつがなく終えられるのかと案じていた私でしたが、第1楽章のはじまりのトランペットの正確で、厳格な、荘重なファンファーレの吹奏を耳にして、今日の演奏の成功を確信しました。

この曲では金管楽器がその能力の極限まで試されますが、鎌響の各パートは見事にその試練に耐え、とりわけホルンの美しい音色は満場の観客を完全に魅了したのでした。

第二、そして第三楽章のブラスの咆哮とパーカッションの雷電、それらを下支えする弦の重層低音は、指揮者の横島勝人の知と情を兼ね備えた情熱的な棒さばきによって透明に溶解し、マーラーの精神分裂症気味の錯綜したスコアの尽きせぬ魅力を、まるで手に取るように、隈なく白日の下に暴きだしました。

 音を割った金管の舞踏がようやく終わると、それは弦楽器とハープによって奏でられるまことに甘美なアダージェエットの総奏です。きわめてゆっくりと13挺ヴィオラから開始された夢見るような旋律は、9挺のチエロと、おなじく9挺のコントラバス、それからおよそ30挺の第1、第2ヴァイオリンに受け渡され、まるで初夏の相模湾の青い海を渡るアサビマダラのように高く、低く飛翔してゆきます。これほど美しいため息の出るような音楽を聴いたのは久しぶりのことでした。

 曲はそのままアレグロのロンド・フィナーレに突入し、またふたたびの管と弦の狂想的輪舞が開始されましたが、よほど練習を重ねたのでしょう、われらが手だれの鎌響の演奏はますます熱と光と輝きを増し、とうとう歓喜あふれる大団円になだれこんだのでした。

 これほど素晴らしいマーラーの演奏を地方の一ローカルオーケストラがやってのけるとは! 音楽のよろこびに満たされ、このささやかな幸せを抱きしめながら夕べの家路をたどる私の胸には、マーラーの5番がまたしても高らかに鳴り響くのでした。

♪いま聴きしグラン・フィナーレが高鳴るよ 鎌響定期のマーラー5番 茫洋

♪マーラーのアダージェエット聞けばわれは蝶 海の彼方に一人旅立つ 茫洋