照る日曇る日第189回
そんじょそこいらのどこにでいそうな主婦が亭主に浮気されて、それをしおに彼女は自分自身を、夫を、そして世界というものを見つめなおし、自分と自分を含めた全部の世界を取り返そうとする。そういういわば世間でも小説世界でもありふれたテーマを、作者はこの人ならではの文章できちんと刻みあげていき、最後の最後でどこかお決まりの小説とはかけ離れた非常な世界へと読者を連れ込んでそのまま放置する。これこそ当代一流の文学者の凄腕だろう。
その平成恋愛小説史上最高といわばいえるような、壮絶にして超クールなめくるめくラストシーンを引用するかわりに、ここでは小説のプロットとはあまり関係のないこまかな描写をいくつか書いておこう。
―「なに見てるの」卓哉が突然聞いた。
え、とのゆりは聞き返す。
「魚みたいな目をしてる」
さかな。のゆりはよく訳が分からないまま、卓哉の言葉を繰り返す。(中略)
さかなは、かわいいよ。夜中のしんとした部屋の中で、のゆりは声に出して言う。それから、頭をぶるっと振る。
―のゆりが取ったキスの天ぷらは、天つゆにつけたとたんに、しなりとのびひろがった。
―のゆりはその無言電話がかかる一瞬前に、電話がかかってくることを予見できる。音はまだ鳴っていないのに、空気が揺れたりするわけでもないのに、なんとなく電話全体がふくらむような感じに、なるのだ。
―「おいしそうだね」
のゆりが声をかけると、男の子は恥ずかしそうにうつむいた。それからすっと顔を上げ、「おいしいねん」と、はきはき答えた。
―ホテルに着いたのは午後遅くだった。(中略)部屋はシングルで、メネラルウオーターの瓶が一本、テレビの横に置いてあった。
―わん、という音がして、向かいのホームの前を下りの新幹線が通り過ぎた。一瞬、空気が大きくたわむ。
神は細部に宿り、作家はその細部を、神の降臨を待ち望みつつ永遠に紡ぎ続けるのである。
♪夢の中で眠りながら星のやうに美しい歌をうたっていた 茫洋
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