鎌倉ちょっと不思議な物語147
江の島は、片瀬との間をつながれたり海で切断されたりして長い歳月を送ってきた。
明治時代の江の島は、小泉八雲が「日本瞥見記」で記したように、夢のようにのどかな浅葱色の海だった。
「江の島の、ちょうど対岸にあたる片瀬という小さな部落で、われわれは人力車を乗り捨てて、そこから徒歩で出かける。村と浜のあいだに小路は、砂が深くて、くるまを引くことができないのだ。われわれよりも一足先に来ている参詣者の人力車も、幾台か村の狭い往来で待ち合わしていた。もっとも、この日、弁天の社に参詣した西洋人は、わたくしひとりだそうだ」
同時代の正岡子規は、あの短かすぎた悲壮な生涯で、2度も江ノ島を訪れているが、最初はたしか文科大学の一年生の頃で、当時落語と漢詩に打ち込んでいた漱石と一緒だったと記憶している。彼らは暴風雨を冒して八幡宮、大塔宮この景勝の地に渡ったのであった。
だから次ののどかな短歌は、その時ではなく二回目に病床にあった鎌倉の友人を見舞った折の歌に違いない。
江の島へ通ふ海原路絶えてみちくる春の汐の上の雨
寄せては返す波のうねりに乗って繰り広げられる美しく古式豊かな日本の歌の調べは、
中原中也が口ずさんだチャイコフスキーの「四季」の舟歌のメロディを思い出させる。
そしてその細やかで抒情的な音律は、3代将軍実朝による好一対の春秋の歌
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に浪のよるみゆ
にもどこか遠いところで通底しているようだ。
*資料提供は鎌倉文学館
♪生温し地震来るやうな風が吹く 茫洋
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