照る日曇る日第186回
新進気鋭の科学者にして社会思想家による構想雄大、真率にして繊細、知情兼ね備えた詩人哲学者の清々しいエセーである。
「あらゆる人間の営為は、物質の動きによって表現される。
たとえば、愛。触れ合う唇の湿り具合。絡み合う指の温度。鼓動の響き。肌の触感。あどけない笑顔からこぼれる生えかけの小さな歯。抱いた時の心地よい重み。日向くさい頬に透ける血管。留守番電話に残された「お休み、いい夢を」という囁きを反芻するせつなさ。熱で苦しんでいると、ひたとも動かず凝っと見守り、時々冷たい手の肉球を唇や頬にあててくれて鼻先を近づけそっと嘗める猫の潤んだ瞳。
そういうものの積み重ねであり、個別の他者の持つ個別の記憶に支えられている」
という文章に接した人は、もうどうあってもこのあまりにも魅力的な詩文ファンタジーの世界の扉を押さないわけにはいかないだろう。
まず「なぜお腹が空くのか?」と考え始めた著者の夢想と空想は、次いで「なにが美味しいのか?」という考察に向かい、ここで突如「残飯をめぐる歴史的研究」に転身し、最低辺の貧民や女工がどのように悲惨な食生活を強いられていたかを一瞥し、さらに軍隊における軍用食の問題に潜入すると、ついに脚気と食物の因果関係を認めようとしなかった頑迷な陸軍軍医鴎外森林太郎が日露戦争で多くの脚気羅病者を出してしまったこと、「戦争をするために軍隊があるのではなく、膨れ上がり自国内部でもてあました空腹が他者を食いつぶすために戦争がある」と喝破するに至る。
餓島ガダルカナルにおける悲惨な戦闘と絶望的捕食に触れた著者は、さらに「食人」の問題に言及進み、我が国で古来幾多の大飢饉に際して食人が珍しくなかったにもかかわらず、わたしたちの現在の社会で食人が起こるとは想定されず、それを禁じる法律すらないという異常さを指摘する。そして「現在の地球人口と資源および生産形態から見れば、いずれ人体を食料資源として考慮に入れなければならないとする議論が確実に出てくる」とカッサンドラのように不吉な予言をするのである。
かつて学生時代のある時期に、動物実験で毎日のようにマウスやラットを数匹以上殺していたという著者は、養鶏場の近代的な工場で機械製品を作るように大量生産されるブロイラーや霜降り肉を生み出すために飼育されている大量の牛たちに対して、人間はいったいどのように向き合うべきか? 資本の論理に貫徹された食肉生産の現場において、人間が動物に対する優しさや残酷さとはいったい何か? と自問する。
最後に、飢餓をはじめとする「世界の貧困」について、その歴史的政治経済的分析を終えたあとで、著者は次のように述べる。
「慎ましくも必要とされるのは、道徳ではなく、倫理である。正義の軸を設定し神殿に納め、それに礼拝跪して異教審問の過程で排除項を生み出していくのではなく、不快さを不快であると叫び続けること。システム内に繋留された倫理=道徳から身をひきはがし、個人の身体感覚から不快を問い続ける倫理から想像を他者に投げかけること。そうしたエロスの投げる網によって他者の苦痛を新しく見出す営みを持続させること。それが知るということである。他者を理解することはできない。しかし他者を理解しようとするその試みこそが、人間の営為なのである」
このようにおぞましさと嘔吐と矛盾と困難と悲喜劇にみちあふれた、この毎日が世紀末の人の世を、著者は「生命体としてのわたし、身体をもつわたしに根ざしたこの倫理」をひしと抱きかかえ、冷酷非情の法-規範、道徳との狭間に立ちすくみながらも、「いま何をなすべきか?」とレーニンやハムレットのように胸に問いつつ、愛描綱吉と共に今日もけなげに前進しているのである。
♪人の世はさはさりながら愛ありて 茫洋
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