Tuesday, July 31, 2007

坪内博士記念演劇博物館とシェークスピア

坪内博士記念演劇博物館とシェークスピア

遥かな昔、遠い所で第16回&勝手に建築観光23回


私はずいぶん昔から、このあたりにちょっと気になる時代がかった建築物があることは知っていた。しかし実際にこの場所に足を運び、16世紀イギリスエリザベス朝時代の劇場「フォーチュン座」を模して今井兼次らにより設計されたこの素晴らしい博物館をとっくりと眺めたのははじめてだった。

この演劇博物館は、1928(昭和3)年10月、坪内逍遙博士が古稀の齢(70歳)に達し、その半生を傾倒した「シェークスピヤ全集」全40巻の翻訳が完成したのを記念して、各界有志の協賛により設立されたらしい。

正面舞台にある張り出しは舞台になっており、入り口はその左右にあり、図書閲覧室は楽屋、舞台を囲むようにある両翼は桟敷席になり、建物前の広場は一般席となる。坪内逍遙の発案で、このように演劇博物館の建物自体がひとつの劇場資料となっているということもはじめて知った。

中に入ると床・壁・天井の古い木目がしっとりして好ましく、アールデコ風のランプの照明も胸に迫って懐かしい。館内には小ぶりの演劇図書館もあり、古今東西の演劇関係の展示が所狭しと並べてあり、「古川ロッパとレビュー時代」や佐藤信の黒テントの回顧展、それに坪内逍遙の遺品なども展示してあった。

また入り口に向かって左手には坪内逍遙の銅像の下に
むかしひと こえもほからにたくうちて とかしし於もわみえきたるかも
という八艸道人の歌が刻まれていた。

その坪内逍遙のシェークスピア全集(第三書館から全37作の戯曲を1冊に収めた日英対訳版『ザ・シェークスピア』がたった4200円で出ている!)ほど私を楽しませてくれた翻訳はない。木下、福田、本多、小津、小田島、松岡と数多くの現代語訳が出版されているが、私がいちばん気に入っているのがこの逍遙版である。

最近の翻訳はやたら現代人に媚びるような言い回しをひねり回して巧妙である。しかしその言語生命は手垢にまみれ、すでに壊疽している、死んでいるのである。

ところが当時弟子筋の二葉亭四迷と共に近代のコンテンポラリージャパニーズを国民的に創生中であった逍遥は、その生命力みなぎる黎明期の手作りの言語を実験的に駆使しつつ、史上最大の戯曲家の世界を私たちに口述する。

さうして、その呪術的な言葉の混沌の中から立ち上がる沙翁のブッキッシュな語りが、私たちの疲弊した耳目になんと新鮮に響き渡ることだろう。

例えばあの有名はハムレットの独白、To be,or not to be, that is the questionがある日本人によってわが国ではじめて、「アリマス、アリマセン、アレハナンデスカ」(素晴らしい超訳!)と翻訳されたのは1874年(明治七年)のことである。(「ワーグマン日本素描集」岩波文庫70p)

 1933年、この古今の名文句を逍遥は、
「あるべきか、あるべきでないか、それは疑問だ」 
と訳した。そして私はこの二つの翻訳こそが沙翁の原義にもっとも近しい日本語ではないかと考えるのである。

ところがその同じ逍遥が1949年には、これを「長らうべきか、死すべきか、それは疑問だ」
という日本語に置き換えた瞬間に、この俗耳になじみやすい現代風の訳語が、
「生か、死か、それが疑問だ」(福田恆存1955年)
「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」(松岡和子2001年)
 などの妙に分かった風の一義的なフレーズに「回収!」され、同時に創世記時代の日本語の創造的混沌も完全に閉塞していったのである。

Monday, July 30, 2007

小澤征爾音楽塾の「カルメン」を聴く

♪音楽千夜一夜第23回

小田実の死と自公を葬送する嵐のような1日が終わろうとする夜、私は鎌倉芸術館へ行ってビゼーの「カルメン」を抜粋で聴いた。小澤征爾音楽塾オーケストラ&合唱団の演奏である。
はじめはひさしぶりに小澤の指揮に接することができると思っていたのだが、なんのことはない彼が指導する若手のスタッフによる演奏会であった。その代わりといってはなんだが、病気の癒えた御大が演奏の前後に元気にステージにあがって挨拶をするというサービス振りに満員の聴衆は熱狂していた。

小澤といえば今からおよそ20年前、ふぁっちょんビジネスとチンドン屋稼業に飽いた私が、再び中学生時代に好きだったクラシック音楽に夢中になっているのを知ったキャニオンレコードのクラシック担当のNさんが、畑違いの私を同社に引き抜うこうと画策されたことがあった。

説得されてだんだんその気になっていたとき、彼女が担当している小澤とキャスリーン・バトルの芸術家特有のわがまま?についてため息をつきながら語るのを耳にした私は、「こりゃ駄目だ。とてもついていけない」と痛感して転職を断念したのであった。周囲を攪拌し牽引する小澤の猛烈なエネルギーはいまも変わっていないだろうし、黒人であるコンプレックッスを裏返しにしたバトルの放恣な自己主張は彼女のメットからの永久追放という結果を生んだ。

さて昨夜の演奏の指揮者は鬼原良尚という87年生まれの若手であったが、まるで若き日の小澤そっくりのモンキースタイルで、前進するブルドーザー、戦うボクサーのように前奏曲に取り組む。

テンポが異様に速く、熱気であおられたオーケストラは、まるでブラバンのように咆哮する。こんなにうるさくてやかましい暴音はむかしモスクワのオケとロジェストベンスキーで聴いて以来だ。はるか遠くの3階席にいた私は、耳をふさぎながら思わず「おいおいオペラはスポーツではないよ」と言いたくなった。

「恋は野の鳥」、「闘牛士の歌」などの名アリアが続々登場するが、鬼原の指揮は師匠の小澤の悪しきエピゴーネンと化し、まるでヴェートーヴェンの7番を指揮するように、カルメンを指揮するのである。
しかし音楽のタテの線は常に正確無比に守られ、いかなる局面においてもいっさい破綻をしめさない。音楽の外面的な形式の平仄は終始合っているが、カルメンのドラマや内面性はどこにも感じられない。

だからあのフルートとハープで始まる第三幕への前奏曲のそっけないこと。これほど心に沁みないこの曲を私は生まれてはじめて聴いた。ビゼーが聴いたら「俺はこんな無味乾燥な音楽なんか書かなかったぞ」とさぞや嘆いたことだろう。

ビゼーの音楽とは無関係に怒涛のように流れていくおびただしい音符たち……、それは小澤の指揮するサイトウキネンなどと同じ性質のものだ。魔法使いの弟子はあくまで魔法使いと同じメロディを奏でることを知らされた私は、思わず慄然とした。

そして最後は皆様お待ちかね、カルメン(手嶋真佐子)とドンホセ(志田雄啓)の愛の破局である。猛烈にドライブされる最強音の頂点で花火のようにはじけ散ると、案の定超満員の聴衆は口をあんぐりと開き、滂沱の涙と涎を垂らしつつ爆発的な拍手を贈ったのであった。
どうにもこうにもこの発熱についていけない駄目な私を除いて……。

小澤の恩師である斉藤秀雄は「型より入れ。型より出よ」と小澤に教えた。
そこで私は鬼原にいいたい。「小澤より入れ。しかし一日も早く小澤より出よ」と。

Sunday, July 29, 2007

會津八一記念博物館にて

遥かな昔、遠い所で第15回&勝手に建築観光22回

昨夜は醜い國を代表する醜い男の連立政権に対し良識あるひとびとの鉄槌が下され、久しぶりにいい気持ちだった。

さて思いは現世を遠く離れてまたしても遠い昔をさまようのである。
たしかここら辺が早稲田大学の図書館だったとうろうろ探しているといつのまにやら會津八一記念博物館に変身していた。

ここはあの根津美術館で知られる今井兼次の設計である。1925年に竣工した大閲覧室部分は、自然光がさしこんでなにやら厳粛な雰囲気が漂っていたが、私は閉架式のこの図書館をほとんど利用したことがないが入ってみると統一のない雑多なコレクションが館内を埋めていた。そのすべてが會津八一の収集物ではないらしい。

會津八一は新潟市古町生まれ。長くこの大学の美術の教授をつとめ1956年75歳で死んだ。歌人としても知られている。

都辺をのがれ来たればねもごろに潮うち寄するふるさとの浜 八艸道人

なんでもこの大学は今年が創立125周年だそうで、それを記念して吉村某氏のエジプト展をこの博物館で堂々開催するらしいが、私はそういういかにも客寄せパンダ風の企画商売第一で考え出すこの学校がますます嫌いになる。

Saturday, July 28, 2007

秋山祐徳太子著「ブリキ男」を読む

降っても照っても第40回

今年72歳になった天才的アーチストの自伝である。最初の60年安保闘争時代のハチャメチャな回顧も面白く、二回の都知事選挙の話や新宿青線地帯の乱痴気騒ぎも抜群に面白く、終わりごろの「放尿論」なども抱腹絶倒ものである。(余談ながら作家の風人さんの名前が突然出てきてびっくりさせられる)

つまりどこを取り出して読んでも破格の面白さが満載の自叙伝であり、しかも著者がまったく受けを狙って書いてところが素晴らしい。この人こそ生まれながらのアーチストではないかと思われる。

 美大の卒業制作で最高賞に輝いた著者の彫刻「ブリキの飛蝗」は、後世に燦然と輝く不滅の名作であり、これが彼の芸術家としての出発点になった。

次はかの有名な「グリコのハプニング」である。これは著者がたまたま横須賀線に乗っていたとき、蒲田附近で大きなグリコの看板を見た瞬間に着想をえたという。

「看板に描かれた少年の格好で銀座通りを突っ走ったらどうだろう。グリコのおまけが街を走る…、これこそ私がいままでやって来たハプニングのなかでも代表作になるかもしれない」

そして事実その通りになる。

翌日ランニングシャツとパンツ1枚で両手を挙げながら銀座4丁目の角をまがり数寄屋橋公園を通り過ぎる著者の勇姿を見た大日本愛国党総裁赤尾敏氏は、その演説を中断し、「いま日の丸を背負った青年がここを通って行った。まだまだ日本にはいい青年がいる」と言ったそうだ。

赤尾敏氏と著者の出会いはさらに続き、東京都知事選でともに立候補し、ともに落選するのだが、候補者説明会のあとで著者が赤尾敏氏に銀座の不二家に拉致され、なんとチョコレートパフェをおごられるシーンも忘れがたい。

ちなみに今は亡き赤尾敏氏の兄上は長らく鎌倉御成で耳鼻科を開業しておられ、私のははも家内も何度か治療してもらったそうだが、(あまり腕前は上手ではなかったそうだ)入り口に数本の松が茂ったその昭和初期の古風な洋風住宅が先日無残にも取り壊され、今日も道行く人の涙をさそっている。
 
 それはともかく、本書の終わりに近いところに突然「放尿論」というのが出てくる。このなかで著者は、

「温泉でビールを飲んで尿意を催した私は大浴場の浴槽のなかでで突如尿意を催した。そこで突端を湯面から少し突き出して思い切り放尿すると、尿は噴水のように高く上がり、私は一人歓声を上げた」

と楽しげに書いているが、この楽しさに心から共感できる人だけが著者の友であり、本書の熱烈な愛読者であるといえよう。

Friday, July 27, 2007

気色の悪い日本語

♪バガテルop23

とかく最近の日本語は、私のような世捨て人には格別に不可解である。

その1 立ち位置
『ミラノの3Gと称されたジャンフランコ・フェレが亡くなったが、彼の「立ち位置」はジョルジュ・アルマーニやジャンニ・ヴェルサーチとは少し違っていた…』
などと思わせぶりに使われるのだが、活字の見た目も、発音もはなはだ気持ち悪い。
いっそ「立ちションの立ち位置」なら許せそうな気もしますが、それにしても昔から「立場」という立派な日本語があるでしょうに。

その2 読み解く
この奇妙なエセインテリ?言葉は、そもそも出版社の新刊書の腰巻惹句から始まり、つい最近まで乱用されていたが、さすがに少し下火になってきたようでほっとしている。
例えば、
『安いウナギ今年が最後か? マリアナ海溝に潜む生物の謎を本書が読み解く』
『あのアユが、森理世が、ほんとにほんとの日本の美女? 激変する美意識の真相を読み解く』
のように安直に使用されるので、私はこれを「腰巻汚染」とはらり読み解いている。

その3 回収される
回収されるのはペットボトルだけかと思っていたら、ツエムリンスキーまで回収されることになっていたとはついぞ知らなんた。とうとう
『当夜の公演を聴いて改めて感じたのは、ツエムリンスキーを「絶賛批評」的なレトリックへ回収する難しさである。』 
などと、したり顔で書く音楽学者が登場したのである。(7月27日朝日夕刊文化欄岡田暁生氏関西フィル演奏会批評記事より引用)
ひとあじ違う言い回しにひきつけられた私は、岡ちゃんのこの気持ちの悪い文章を仕舞いまで丁寧に読んだが、結局どこのどいつがツエムちゃんを絶賛批評的なレトリックから回収することに成功したのか、脳力に超弱い私にはついぞ分からなかった。
岡ちゃんが自力で開発した言葉なのか、それともどこから盗用したのか知らないが、岡ちゃんはきっとこの最新流行の言葉をどこかで1回使ってみて、それから回収してみたくて仕方がなかったのだろう。 どーだ、やったぞ、決まったぞ! ばんざーい! 
てなもんだろう。極貧にあえぐ三流ライターとはいえ、私だって筆1本で渡世を渡る文筆業者だ。岡ちゃんのそのうれし恥ずかしい気持ちは分からないでもない。
されどこんなちょいと気の利いた当節風の言葉は、あと三年もすれば誰も見向きもしなくなっていると、どうして批評家ともあろう岡ちゃんは気づかないのだろうか? 
もしかして岡ちゃんは、今を去る20年前に「おしゃれなこと」を「ナウイ」とか「イマイ」とか言い、つい先ごろまで「おされな」などと言い換えてマンネリに陥るまいとあがいていた人々を先取りじゃなくて、後追いする人ではないだろうか?

その4 指摘か主張か
作家の柴田翔氏が、最近若者よりも大人の言葉が劣化している証左として、ある新聞が「談合に天の声、検察指摘」と書いたのがけしからんと怒っている。(日経7/24夕刊)
もし新聞が中立不偏の立場なら、検察と新聞の立場を同一視してはならず、(その意見には賛成)、その見出しは「談合に天の声、検察主張」でなければならない、というのである。 
されど、もとより後者のほうが分かりやすいと私も思うが、前者の表現が新聞が検察に肩入れした証拠になるのかどうか。別に指摘と書いたってそれほどの大事とは思えない。
しかしなんといっても言葉の専門家がおっしゃることだ。きっと私も、さうしてくだんの新聞記者も、左脳が超超劣化しているのだらう。

Thursday, July 26, 2007

レイモンド・カーヴァー著「ファイアズ(炎)」を読む

降っても照っても第39回

原作者のカーヴァーと村上春樹の翻訳の相性は抜群によく、本作のエッセイも、詩も、短編小説もついつい村上が書いているような錯覚に陥りそうになり、電車の中で読んでいても、枕頭で読んでいても、あまりの気持ちよさ、読書の快感のあまりついつい眠り込んでしまいそうになる。まことに不可思議なコラボレーションである。

ちなみに最近協業、協同、提携を意味するこの言葉を、コラボ、コラボと略称するようですが、フランスではコラボは「対独協力者」を意味するそうなので、教養ある良い子の皆さんは、極力コラボレーションまたはコラボラシオンと巻き舌で発音するようにしようではありませんか!?

それはともかく、この2人はさながらあの気色の悪い江原圭之と三輪明宏?のやうに琴瑟相和す深い運命的な間柄だったのであらうし、またさだめし入魂の翻訳なのであらう。

ただ最後におかれた珠玉の名編「足もとに流れる深い川」の村上版タイトルにはほんの少しだが異論がある。原題はSo Much Water So Close To Homeなので、例えば「我が家にひたひた寄せてくる大量の水」とか、「おらっち(家)に迫る奔流」あるいは大江健三郎風に「洪水はわが門前に及び」などのほうがよろしいのではないでしょうか!? 
諸賢の所見をお伺いしたいものである。

強姦され殺害されていた少女を、真冬の氷のように冷たい川に放置したまま釣りを楽しんでいた夫に対する妻の不信の念が、その川の冷たさでひたひたと、ひえびえと押し寄せてくるこの恐ろしさは、やはりカーヴァー独自のクールな世界である。

なお本書のタイトルとなった「ファイアズ(炎)」は、カーヴァーが自らの文学上の恩師であるジョン・ガードナーについて書いた感動的なエッセイである。ジョン・ガードナーは、「作家を志すほどの者は、つねに心中に炎が燃えていなければならない」と説いて、そんな“めらめら”がない小説家志望の凡人どもに深々と止めを刺している。

Wednesday, July 25, 2007

五木寛之著「21世紀仏教への旅・中国編」を読む

降っても照っても第38回

紀元前5世紀ごろバラモンに対するアンチテーゼとしてインドで生まれたジャイナ教と仏教は栄えるが、次第に仏教それ自身が体制化するようになる。その一方で民衆の奥底に潜入したバラモンがふたたび活力を取り戻してヒンズー教となって体制仏教を弾圧する。

やがて仏教は衰え、再武装して立ち上がり彼らに闘争を挑む。それが大乗仏教である。

その大乗仏教は海陸2つの道を辿って中国に入り、朝鮮半島を経由してわが国に入った。
海を経由して広州に入ったインド仏教は、道教と習合しながら次第に地域性を強め、達磨大師が創設した中国禅として独自の仏教を確立するに至る。

「面壁9年」を敢行した達磨の教えが「以心伝心」と「不立文字」であることはよく知られている。インド仏教が我執を去り、自己滅却による悟りを獲得することを願ったのに対して、中国禅はおのれを凝視する座禅瞑想だけではなく、日常生活の中で自己の真の本性を見きわめる「見性」を重要視した。

達磨から数えて6代目の衣鉢を継いだのが慧能である。目に一丁字なき慧能は本能丸出しの庶民の心性の奥底から「本来無一物」こそが人間存在の、そして禅の本質であると喝破した。

しかし大陸性志向の北部中国に拠点を据えた「北宗漸悟派」の儒教的な青白きインテリ派と、慧能が海洋性志向の南部中国に拠点を据えた直覚現実本能把握を得意技にする「南宗派頓悟禅」との対立は、現在も北京・上海文化対広州文化の対立としていまなお継続されている。

その後栄西が移植した臨済宗も、道元の曹洞宗も、南宗派頓悟禅の流れを汲む中国禅であり、これが「只管打座」によるわが国の禅宗を生み出すきっかけになる。

しかし鎌倉幕府などの権力者によって腐敗堕落したわが国の禅宗に対し、江戸時代になって「渇を入れた」のはかの白隠禅師であった。白隠によって考案された「公案」は日本人による日本独自の禅修業として中国禅とはひとあじ違う三昧を開拓したのであった。

このように進化を遂げた日本禅は、明治に入って今北洪川、釈宗演、鈴木大拙、弟子丸泰仙などの努力によって海外、とくにフランスに新境地を開拓し、カトリックの限界を知った知識人や1968年の5月革命で挫折した学生たちによって新たな教線を拡大している。
以上、本書から私が学んだことども、でした。

Tuesday, July 24, 2007

小さな勇気と大きな偶然

鎌倉ちょっと不思議な物語68回

パタゴニア社の向かいに聳えるのが思い出深きH芸術学院である。ここは早い話が美容師さんを養成する専門学校であるが、美大受験生のための予備校でもあり、以前はスタイリスト科という講座もあった。

私は二〇〇〇年の1月に職を失って1匹の猫背のムク犬のごとく関東平野をさすらっていたのだが、ある日駅前から見えるそれなりに瀟洒なビルを発見し、「こはいかなる建物なるぞ?」と近付いてみると、それがH芸術学院であった。

八幡様の大通りや、駅のホームからも見えるそのビルは、駅前の醜悪な居酒屋「笑笑」と違って、少しくデザインのセンスが感じられたのである。

名前も「げーじゅつ」だし、こんな鄙びた学校ならもしや私のような風来坊にも講師の口があるかもしれないと思って狭い1階のフロアの傍の階段を昇って2階に至ると、そこは歯医者さんであった。

余は今日は歯医者に用はないぞ、とパスして、グングン3階に昇るとそこに受付があり、二人のおばさんが「あーた、なんですか?」と誰何したので、余があわてて用件を告げると、得たりやおうとばかりに、スピルバーグの映画「スターウオーズ」に出てくるヨーダそっくりの年齢不詳の女性が別室から出てきた。それがH女史であった。
 
私が「今日初めて知ったこのおされなげーずつぐわっこうで21世紀後半のスタイリストさんのためのふぁっちょん講座を開催したい。わたしは他にはなにもできませんが、ことふぁっちょんに関しては斯界最高の講義をちょう格安で提供いたしますぜ」

と単刀直入に申し入れると、お茶ノ水大にて日本服飾史を研鑽されたヨーダ、じゃなかったH女史は、「あーらまあ、ちょうどよかったわ。あーた、早速来週からメンズ講座をお願いできますか」とおっしゃるではないか! 

これはびっくり、門は叩いてみるモンだ。パンツははいてみるもんだ。しかしあまりに話がうますぎる。なにか裏があるのではないかと思ったが、実はかの有名な紳士服飾評論家のT氏がどういうわけだか講師を辞退された直後だったらしい。 

当時フリーターだった私が、“奇跡的一発逆転就活大成功”に興奮していると「ただし授業の前にあなたの大学の卒業証書を持ってきてください」とヨーダがいう。

私は「自慢じゃないがそんな陋劣なものは持ってはいない。されど卒業論文ならどこかにあるはずなのでお目にかけてもよろし」と答えると、「ではそれでも結構」とヨーダが鷹揚に答え、私はすぐに2000円で買った中古自転車で自宅にとって返し、書斎の奥から出てきた懐かしいP・ヴァレリー論!をヨーダに提出し、ヨーダの感動の涙、涙を誘い、かくて私は晴れてH芸術学院のひじょーきん講師に就任したのであった!!
ああ、なんとげーじゅつ的香気かんばしい逸話ではないだろうか?

かくして私は、小さな勇気と大きな偶然と親切なヨーダ女史のお陰で、鎌倉一おされな学校のおされなヒジョーキン講師を1年間にわたって勤め、かの悪名高き小泉政権が推進した下層超下流階級への脱落を、かろうじて崖っぷちすれすれで「自己責任!?」でくいとめることに成功したのだが、その翌年、不幸なことにわがスタイリスト科への入学者が皆無であったために、余はふたたびさすらいの自由業者となったのであった。

Monday, July 23, 2007

出てきた携帯

♪バガテルop22

これで通算4回目か、それとも5回目になるのだろうか? 先週工芸大からの帰途、たぶん新宿から戸塚間の電車内で携帯を落とした私に、およそ一週間経ってなんと小田原警察から拾得の通知があった。正確には小田原警察からの通知を受けたauから私宛に小田原警察へ出頭せよとの通知書が配送されてきたのである。

確か前回は新橋で落としたやつが三鷹で出てきて真夏の街道筋を汗だくでトボトボ歩いてはじめて三鷹警察まで行ったのだった。なんでも親切な若い女性が届けてくださってというので、その女性にひとめお会いしてお礼を言いたいと申し出ると、三鷹署員は私に不純の動機があると思ったのか、急に疑いの眼を向けて、「それは不可です」と冷たく拒んだことをはしなくも思いだした…。

ともあれ出てきたことは慶賀に耐えない。(なんでも2割の人が携帯を落とした経験があり、8割が本人に無事返っているそうだ)
それで昨日は新宿の文化の夏休み前の最後の授業が終るや否や湘南新宿ラインの小田原行きに飛び乗って小田原警察くんだりまで行って、平成十三年製造の苔むした携帯を受け取ってきたのである。

しかし、サラリーマンであった日の私ならばともかく、最近の私には携帯なんて無用の長物である。電車の中で携帯メールやゲームやワンセグにうつつを抜かす連中はほんとうにバカな亡国の民だと思っているので私は絶対にやらないし、電話だって妻以外にはほとんど誰からもかかってこないし、ましてこちらから掛けることもない。

ただ1)時計がなくても時間が分かる。2)以前母親が急死した折に役立ったことがあった。3)たった1度だけこの携帯に小学館から仕事の依頼があった 4)授業日に電車が事故に遭った場合、教務に連絡するには便利だろうと漠然と思っている…の4つの理由からなかなか捨てられなかった。

それで今回の紛失事件をきっかけに、百害あって一利しかないこの文明の利器を断固廃棄処分にしてもう携帯とは縁を切ろうと思っていたのだが、出てきたとなればまあ仕方ない。いちおうまた落っことすまでは可愛がってやろうと思った次第です。

でもよく考えてみれば今でもケイタイなどなくても構わないし、なかった時代のほうがはるかに良い時代だった。私はこんなくだらない玩具を発明して商売の具にした人を軽蔑こそすれけっして尊敬できない。私はケイタイ・ラダイストに賛同する。

Sunday, July 22, 2007

鎌倉ちょっと不思議な物語67回

前回紹介した鎌倉の農協連即売所のすぐ傍に、米国のアウトドアアパレルメーカーのパタゴニア社の日本法人がある。

この会社は世界で初めてすべてのコットン製品をオーガニック(有機栽培)に切り替えたり、他社に先駆けてペットボトルからの再生フリースを販売するなど品質と環境を重視する経営で知られるが、“勤務中好きな時間に社員をサーフィンに行かせる”会社としても有名だ。

1938年生まれの創業者イヴォン・シュイナード氏は、登山、サーフィン、フライフィッシング、ダイビングなどを楽しむために1年の半分は世界中を渡り歩いているが、その独特な経営理念はなかなか興味深いものがある。海とスポーツと湘南とファッションを愛する人にはお薦めしたい会社である。(詳しくは話題のフリーマガジン「オルタナ」のインタビュー記事などを参照のこと)

私の近所にもサーフィン大好き人間が住んでいて、台風が来ると水曜日でもないのに朝から海岸に出かけてビッグウエーブを楽しんでいるようだ。仕事なんか忘れて海と戯れる快楽の日々……とは超うらやましい話だ。

Saturday, July 21, 2007

瀬戸内寂聴著「秘花」を読む

降っても照っても第37回


世阿彌によれば、推古天皇の御世に、聖徳太子が渡来人の秦河勝に命じて天下保全と諸人快楽のために66番の遊宴を行わせ、これを申樂と称したのが能のはじまりとしている。

申樂はその後河勝の遠孫が相伝して春日・日吉神社の神職となり、和州・江州の輩が両社の神事に従うに連れて盛んになったと、当の世阿彌が「風姿花伝」に書いている。

当初は申樂よりも農事から発した田楽のほうが優勢であった。けれども足利義満公から肉体的・精神的な寵愛を受けた世阿彌は、父観阿弥のあとを継いでわが国の能芸術を大成し、あまたのライバルと闘って申樂と自家観世流の優位を確立したのであった。

しかし栄光の頂点にあった世阿彌は、72歳のとき、突如あの残虐非道の将軍義教によってなんの罪咎もなく都から佐渡に流された。ちなみに世阿彌同様の悲運を被った人々には、菅原道真、源高明、小野篁、在原行平、業平、光源氏(物語人物)、京極為兼、日野資朝、後鳥羽院、順徳院、崇徳院などがある。

後世の検証によって、世阿彌は翌73歳までは同地で生存していたと認められるが、その後の生涯は杳として知れない。この大きな謎に挑んだ著者が、この偉大な芸能感人の最晩年の足跡を「幻視」したのが、この小説である。

著者は資料や先学の研究・論文、現地調査に学びつつも、豊富な恋の遍歴と僧侶としての人生経験、そして作家特有の自由な空想のはばたきによって、「そうあったかもしれない能楽者の最後の軌跡」を、老成した筆致で、あたかも自作の謡をうたい、即興の舞いを舞うように、自在に書き連ねている。

またそのもっとも大きな創作の工夫は、老いたる能楽者に奉仕する若き女人を配したことであろう。彼女は一休に仕えた森女の如く落日の世阿彌の生と性をほのかに彩るのである。

Friday, July 20, 2007

鎌倉市農協連即売所にて

鎌倉ちょっと不思議な物語66回

ここは昭和三年、あの中原中也が亡くなった翌年に開設された鎌倉市農協連即売所である。

なんでも当時鎌倉にいた牧師から、欧州では農家の直接小売制度があると聞いた農家の人たちの有志がこの地で即売所をつくったらしい。もしかするとわが国で最初の地産地消システムかもしれない。

現在は平塚など鎌倉以外の農家も参加しているらしいが、四つのグループが四日毎に出店して正月の四日まで以外は連日8時から日没まで営業している。

終業時間が午後5時とか6時とかでなく「日没まで」というのが泣かせる。

天井には親ツバメが自分は絶対にえさを食べず、せっせと子供たちに運んでいた。これも当節の人間の親なぞが忘却してしまった真っ当な所業だと感涙を催す。

なお、よく東京のあほばかテレビがここを取り上げているようだが、すべての商品が他の八百屋より安くて品がいいとはいえないので要注意。

Thursday, July 19, 2007

モーリス・バレス著「精霊の息吹く丘」を読む

降っても照っても第36回&勝手に建築観光22回

1862年フランスのローレーヌ地方で生まれ、1894年のドレフェス事件ではゾラに反対し、1905年にはカトリック教徒と共に政教分離に反対し、20世紀初頭の青年層にアナトールフランスと人気を分かち合い、フランソワ・モーリヤックからポールニザンにまで大きな影響を与え、代表作「自我礼拝」で知られるナショナリスト作家モーリス・バレスの「聖なる丘」(1913年)が翻訳された。

バレスによればフランスには我々凡俗の民の魂を無気力から引き出す精霊の息吹く地がいくつかあるそうだ。

それらは、あの奇跡の地ルールド、サント・マリーの浜辺、ダンテやセザンヌが描いたサント・ヴィクトワールの山、ブルゴーニュのヴェズレイ、ピュイ・ド・ダーム、エージーの洞窟、カルナックの荒地、ブロセリアンドの森、アリーズ・サント・レーヌとモン・オーソワの岬、あの有名な教会があるモン・サン・ミッシェル、アルデンヌの黒い森、ドンレミーの丘にあるシュニューの森、三つの泉、ベルモンの礼拝堂、そして教会の傍のジャンヌ・ダルクの家などだが、この小説の舞台であるローレーヌ地方のシオン・ヴォデモンの丘も霊感がみなぎる精霊の地であるらしい。

そして本書では、ノートルダム修道会に所属する熱烈な孤高のカトリック三兄弟の不退転の宗教的闘争が描かれているのだが、それは読者が読まれてからのお楽しみとしておこう。ただ惜しむらく篠沢秀夫氏の逐語訳翻訳は、現代日本語としてまったく消化されていない。

この本でモーリス・バレスは言う。「どこからこれらの地の力は来るのか? その効力はこれらの地の栄光に先立ってあったし、その栄光が消えても生き残るであろう。ある森のほとり、ある山頂、ある泉、ある牧場…、あたかも誰もまだその偉大さに気づいていない隠された魂があるように、このような精霊の地は世界中に無限にある。それらは我らに思考を停止させて心の最深部に耳を傾けるように命じる」と。

そしてこれこそは古くからガリアの地、ケルトに伝わる地霊“ゲニウス・ロキ”の働きではないだろうか? 

『東京の地霊』の著者鈴木博之氏によれば、ゲニウスはラテン語で「産む人」、ロキはロコ、ロクスが元の言葉で、場所・土地の意であり、ひいてはその土地の守護霊を指すラテン語であるという。従って“ゲニウス・ロキ”とは「人を守護する精霊もしくは精気、人や事物に付随する守護の霊」ということになり、ある土地から引出される霊感やその土地に結びついた連想性・可能性を意味する。

この“ゲニウス・ロキ”という考え方が初めて文学に登場したのは、英国の詩人アレグザンダー・ポープの1731年の詩作品で、地霊は「土地を読み解くすべての鍵」とされ、それ以後英国18世紀の美意識に大きな影響を与えたそうだが、それが大陸に上陸してケルト=ガリア=フランス=ローレーヌ地方の愛国的カトリシズムと20世紀の初頭に合体したものがモーリス・バレスのこの作品ではないだろうか?

そして私は建築に携わる行政やメガデベロッパーは、今こそポープ=モーリス・バレス=鈴木博之流の“ゲニウス・ロキ”という考え方を取り入れ、当節流行のいんちきスピリチュアル流とは一線を画した“聖なる土地の霊の声”に謙虚に耳を傾けるべきではないかと思う。 

都市の歴史は都市計画や建築ヴィジョンの歴史ではない。その土地の固有の歴史である。土地をひとつのテキストとして、その土地の歴史的・文化的・社会的な背景と性格を読み解くことこそが21世紀建築の使命ではないだろうか?

Wednesday, July 18, 2007

江國香織著「がらくた」を読む

降っても照っても第35回

45歳の美術史専門の翻訳家の女性とテレビ番組を制作する50過ぎの夫や18歳の少女と建築家の父親と祖母などが登場し、海外のリゾートやビーチのパラソルやヴィラや透明なグラッパやアマレットやオマール海老や、サワークリームを添えたキャビアやミラベルというジャムにすると美味しい果物やボブ・マーリーやセルジオ・メンデスや、伊勢丹で買ったタイツや逗子葉山のサーフィン屋や車のヴォルヴォ!や、現代絵画や、動く彫刻やらも続々登場し、その合間を縫って、己の欲望や快楽をとてもとても大事にしている主人公たちが、たとえ彼らが夫婦であっても、そしてお互いに深く愛し合っていても、突如どこかで魅力的な男や女と遭遇すると、たとえそれが昼であっても夜であっても、たとえそれが海や浜辺や陸地であっても、それがマンションや浴室やキッチンであっても、迷うことなくめいめいの性的欲望を満たし、それでもって恬として恥じず、それをもってますます己は美しい桜であるとうにぼれ、それでもって気だるい寂しさとか悲しみとかを覚え、そんでもってとうとうこの小説の主人公のひとりである大人びた美少女までが、何故だか今まで好きだった同世代の少年を突然捨てて、テレビ番組を制作する50過ぎの魅力的な中年のおじさまに恋をしてしまい、どうした親の因果がこの子に報いたのかは分からないが、「ホテルとか、自動車のなかとか、裸になれる場所に行って性交をしてみたい。どうしてもこの男の人とそれをしたい」とはっきり思うようになり、それが嵩じて「不届きな真似をしてほしいの」とその男の耳元でささやくにまでに至り、そんな露骨なことを言う(言わせる?)ほうも言う(言わせる?)ほうだし、「よおし分かった」とばかりに大喜びする男も男だと思うのだが、♪アカシアの雨に打たれて♪夜霧の西麻布シテイホテルに連れて行かれてご希望通り初体験し、最後に「これがそれか。そう思うと、私はなんだかしみじみした。自分の身体が2時間前までとはべつの物になった気がして、はじめてのそれを、原さんとできてよかったと思った」とつぶやくという、わが国にも半世紀遅れでやって来たフランソワーズ・サガン風女史による夢見るシャンソン人形のような、金平糖のような、スイーツのような、触るとポロポロ崩れてしまうパフェのような、益体もないももんがあのような、著者が自称するとおりの三文がらくた小説である。 

Tuesday, July 17, 2007

ある丹波の老人の話(37)

「第6話弟の更正 第5回」

弟はそれから大阪へ戻り、親戚を頼って今度はお家芸の下駄屋の夜店を出し、少し儲かったんで手馴れたメリヤス雑貨に変わりました。

ここで嫁をもらったんで、ようやく今度はかたぎになるかと思ったら、またまた性懲りもなく道楽をはじめ、商売もめちゃくちゃになり、手形の不渡りなどでだいぶ良くないこともやったとみえて、警察から私のうちへ弟のことを尋ねてくるようになり、ずいぶん心配させられたもんでした。

ちょうどその時、父の病が篤く、電報で知らせたけれどなかなか帰ってこない。ようやく帰ってきて臨終には間にあったけれど、これがまた隠岐から帰ってきたときの父同様、着の身着のままのみすぼらしい姿でした。

あとで聞くと帰ろうにも旅費の工面がつかず、河内のほうまで行って友達に帯を借り、これを質に入れて旅費を作って帰ってきたということでした。

葬式のときは幸い私が夏と冬のモーニングをつくっていたので、夏の分を弟に着せ、ちょうど4月の花見時分やったのでどうにかカッコウがついたんでした。

Monday, July 16, 2007

ある丹波の老人の話(36)

「第6話弟の更正 第4回」

明治44年の退営後、私の弟は福知山の長町に家を買い嫁ももらって、なかなか盛大にメリヤス雑貨の卸売問屋をやっておりました。しかし、その資金をどうしたもんかは私にもようわかりまへん。

その頃の私の家は相変わらず貧乏だったはずなのに、父はトコトンまで貧乏するかと思うと、不意にまたもうけて盛り返し、七転び八起きしたもんですから、あるいは調子のよいときに弟に相当の資金を与えたのかもしれまへん。

ところが弟は女房運が悪く、はじめの嫁は離縁し、二度目のの嫁には病死され、それに腐ってひどい道楽者になり、芸者の総揚げなどという分不相応のお大尽遊びなどをやってとうとう福知山で食いつぶしてしまいました。

それから京都へ出て、西陣の松尾という大きなメリヤス雑貨問屋の番頭に住み込み、そこで成績を上げて主家に信頼され、間もなく自立しておなじ商売の店を持ち、なかなかいいところまでやっておったんですが、またもや酒色に身を持ち崩し、手形の不渡りなどでたびたび窮地に陥り、再三私のところへ無心にきよりました。

この弟には私には内緒で妻がだいぶ貢いだもんどした。結局京都の店は持ちきれずに東京へ逃げた弟は、ここでもひところはいちおう成功しておったようですが、あの大正十二年の大震災で焼け出され、一時は人力車夫までやったそうです。

Sunday, July 15, 2007

五木寛之著「21世紀仏教への旅・朝鮮半島編」を読む

降っても照っても第34回

インドと同様、いま韓国では仏教が熱いそうだ。

韓国の仏教はその9割以上が新羅の護国仏教であった華厳宗の流れを汲む曹渓宗だそうだが、奈良の東大寺がわが国の華厳宗総本山であることを思うと、改めてこの二つの国、地域の切断されえない「えにし」について認識を新たにせざるをえない。

ちなみに、かのスパルタに似た新羅の若衆宿花郎制度は、弥勒信仰で結ばれた熱烈な青年宗教教育軍事システムであり、そのストイックなライフスタイルは京都広隆寺の半跏思惟像のたたずまいや聖徳太子の倫理観にもつながっている。

しかし儒教、国家と一体になった韓国の仏教は、わが国の仏教やカトリックによくみられる“上からの規範に準拠する下々の信仰”とは形態を異にしていて、その大半が“民衆の主体的意思にもとづく信仰”である、と著者は指摘している。

幼年期を日本の植民地朝鮮で過ごした著者は、敗戦直後の平壌で母を喪い、ソ連軍による略奪、暴行、強姦の地獄をつぶさに体験する。
「ソ連軍が官舎に乗りこんできても虚脱状態に陥った父は両手を上げたままほとんど身動きもしなかった。母が悲鳴をあげるのを聞いてもそうだった」

そしてその父も、引き揚げ後の日本でうしなう。ここから「私たちはすべて一定、地獄の住人ではないだろうか」という著者の諦念にみちた人生観が生まれる。

「戦争中のみならず、私たちはいまも確かに地獄に生きている。しかしその一方でその地獄に差してくるかすまな光があることを信じる。現実に生きるとはそのような地獄と極楽の二つの世界を絶えず往還しながら暮らすことではないだろうか」

という著者の言葉に、私は共感を覚えた。

Saturday, July 14, 2007

梅原猛の「京都発見第9巻」を読む

降っても照っても第33回

読売新聞、途中から地元の京都新聞に連載された本シリーズの最終巻は「比叡山と本願寺」である。

比叡山延暦寺は、空海から密教を学びなおした最澄をはじめ、円仁、円珍、良源の手で天台密教の総本山となり、その後、法然、親鸞、道元、栄西、日蓮などの秀才を輩出し、浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗などの文字通り揺籃の地となった。

私はたった1年間だけ京都に住んだことがあるが、ある日友人と京福電鉄に乗って比叡山に登り、ロープウエイの終点にあったお化け屋敷に入って大いに肝を冷やしたあと、鬱蒼とした延暦寺の広大な領域をかすめて、下駄履きに徒歩で、坂本まで滑り降りたことがあるが、琵琶湖を直下に見下ろすその坂道の急峻さはいまも忘れられない。

またちょうどその頃、比叡山の夜のドライブウエイを疾走していた私の親戚が運転を誤って谷底に転落したが、たまたま乗っていた車が当時は珍しかったスエーデンのボルボで、恐らくはその頑丈な車体が彼らの生命を救った、という嘘のようなほんとの話を、直接耳にした覚えがある。

それはさておき、梅原氏の「京都発見」は私のような歴史と文学と建築好きにとってまことに重宝なガイドブックで、どのナンバーを何度読んでも興趣は尽きない。

最終巻の氏の最後の訪問地は、東西本願寺であった。

延暦寺を追われた蓮如と真宗徒は、拠点の本願寺を堅田から大津、吉崎、山科、大坂石山へと移動させながら教線を拡大し、仏光寺を経由して現在の六条堀川の地に落ち着くが、その間、応仁の乱や信長・秀吉・家康の相克、明治維新の動乱が彼らの宗教思想に大きな影響を与え、時代が下がるにつれて思想的なインパクトを失っていった。

そこで著者は訴える。

すべからく親鸞の「教行信証」に原点回帰せよ。そして「二種回向の思想」(南無阿弥陀仏を唱えれば念仏の行者は阿弥陀仏のおかげで極楽浄土へ往生することができる(往相回向)が、そこに安住してはならず、やがてまた阿弥陀仏のおかげでこの穢土に帰ってきて人々を救済しなければならない(還相回向)”という考え方)を再考せよ、と。

著者のこの言葉は、これからの真宗と日本仏教の行く手を1本のたいまつのように指し示しているように思われる。

さて、京都に一年住んだ私の印象は、「都人は京都の寺社仏閣に冷淡なまでに無関心である」ということだった。

金閣・銀閣のそばに居住しながら生まれてから一度も門を潜ったことがないという人も多く、観光客がお金を払って殺到するところには絶対にいかへん、と言い切る御仁もいたのである。

これはもしかすると、平安朝以降の歴史を生き抜いてきた聡明でケチな彼らが「名物に美味いものなく、名所に名宝なし」という不朽の真理を1200年前からとっくに見抜いているからかもしれない。

Friday, July 13, 2007

♪バガテルop22

先日の新聞報道によれば、東京都足立区の区立小学校が学力テストの集計から障碍者を除外して、健常者のみの成績を教育委員会に報告していたそうだ。

同区は学校選択制を取り入れており、成績上位校には入学希望者が殺到する。この学校では「学力実態」を知るためにそういうことをやったらしいが、「優秀な生徒」だけを集めようとこういうかさ上げ措置を行ったのではないのだろうか? 

まったくもって言語同断である。成績優秀者もそうでない者も、男も女も、そのいずれでもない者も、そのいずれでもある者も、日本人も外国人も、障碍のある者もない者も、宇宙人もネコも杓子もぎょうさんおって、それらを全部足して人数で割っての平均値であろう。

ところが足立区の教育委員会では、保護者に説明して了解を取れば校長判断で集計から除外することを認めているというが、これもおかしい。

この件に関して保護者に聞く必要などまったくない。それ以前の話だ。

実際にクラスのなかに存在している人間の能力を、その優秀さと無能さを含めて、ありのままに対象化すること。それが人間と教育の基本だからである。

障碍者を幻視しながら「なき者にして」でっち上げられた数値は、いくら高くともあのアウシュビッツでユダヤ人を「亡き者にしよう」と企てた「ナチ立純ゲルマン小学校」の通知表のウルトラスーパー偏差値にどこか通じるものがありはしないだろうか?

Thursday, July 12, 2007

河野多恵子の「臍の緒は妙薬」を読む

降っても照っても第32回

クラシック音楽の指揮も、純文学も、老境に入って死期が迫れば迫るほどその芸術表現に凄みと滋味が出るようだ。

河野多恵子による本作も、まさしくその典型である。全体的に著者は耄碌しかかっているが、それが武者小路実篤とはひとあじも二味も違った絶妙のボケ加減になっていて、賛嘆おくあたわざる風韻を醸し出している。

例えばデアル体とデスマス体の平気な混在については学ぶところ大であった。

最初の「月光の曲」では、国定の国語読本の引用で楽聖ヴェートーヴェンが登場して、盲目の少女のために即興でその曲を弾き始めるところが素晴らしくて、(かの千の風なんかを読み聞きしてもなんの感銘も受けなかったこのニルアドミラルの私が)思わず涙腺が緩むのを覚えた。

余談ながら、戦前の教科書は誰が書いたかかなりの名文で、われら帝国の小国民はここから国民文学精神を体得したのだった。

例えば人口に膾炙した
サイタ サイタ サクラ ガ サイタ
    コイ コイ シロ コイ
    ススメ ススメ ヘイタイ ススメ

この文章はなかなか素敵な日本語だ。見事に韻を踏んでいる。知的に過ぎる谷川俊太郎には書けない無意識の民族詩だ。

「星辰」は占いの話であるが、最後の1行が圧倒的な読後感を生み、またはじめに戻って読み直す仕儀に立ち至る。これぞ短編小説の極意である。

3作目の「魔」から相当不気味なん世界に突入する。コンスターチで生まれざりし子の彫刻を作るとは! 

そうして最後の表題作では、著者の尋常ならざるへその緒への執着!があきらかにされる。

最後の文章はこうである。
「そして……。だんだん怖い女になりつつある」

自分でもどうしようもない怖い人間に、河野多恵子はどんどんなって行く、らしいのである。

Wednesday, July 11, 2007

金原ひとみの「ハイドラ」を読む

降っても照っても第31回

 題名のHydraは9つの首を持つ海蛇であるが、この小説の主人公は二つの首しか持たず、しかもその2つがお互いにぐるぐる巻きになってしまって、どちらを主人公にしていいのか自分でもわからなくなってしまう「双頭の蛇女」である。

拒食症に悩む読者モデルやヘアメイク、ホモセクシャル、人気ロックミュジシヤンなどが続々登場するので、これはおしゃれな風俗小説かと思ってすいすい読んでいったが、なんととっても古めかしい三文読みきり小説でした。

しかもテーマが、古い言葉で恐縮だが、理想と現実、もしくは新しく危険な未来と勝手知ったる手馴れた日常、との対立、相克ときたもんだ。

さらにこの双頭の蛇女ときたら、なんだかんだがありながら後者の道を選びなおすというのだから、まるで話が面白くない。たかが小説でしょ。そんなに簡単に元のさやに戻らず、せめて新しい男との波乱万丈の共同生活の成り行きをしっかり描写してから、本書の筆をおいてほしかった。

Tuesday, July 10, 2007

ガルシア・マルケスの「族長の秋」を読む

降っても照っても第30回
 
言葉、言葉、言葉…。

大きく逸脱し乱反射する豊饒なビジョンを、酔っ払った大脳前頭葉が猛烈な勢いで追走し、追いついた時点で次々に自由奔放な言葉に置き換えられる…。それが「族長の秋」でマルケスが発明した書き方だ。

ここで100年を超えてしたたかに生き延びる現代のミノタウロスに成り変ったマルケスが見せ付けるのは、腐敗堕落した政治権力の、いや老醜無残な人間の生き方の末路そのものではないだろうか? 

最新流行のHOWについて喋喋せずに、太古から現代の人間史、宇宙史の根幹を貫くWHATについて滔々と語りつくす著者の力業にしばし心うたれる。

Monday, July 09, 2007

モーツアルトの1音符

♪音楽千夜一夜第22回 

先日音楽評論家の吉田秀和氏がNHKの教育テレビに出演してインタビューに答えていた。

そのなかで小林秀雄のモオツアルト論の衝撃について語りつつ、しかし小林は音楽の専門家ではないこと。また小林は直感と文体に優れてはいるが、彼の論理には前進がなく、周辺をうろうろ低回しながらその発展がなくてけっきょく元の木阿弥に戻ってしまう、という種類のことを自宅の緑陰のロッキングチエアに身をゆだねつつ語っていたのだが、それを聞いて私は「ああ、それはほんとうにそうだな」と思った。

もっとも頭の悪い私には小林の「本居宣長」などいくら読んでもなんのことやら、何をいいたいのだか、全然分からなかったから、余計にそう思ったのかもしれないが。

モーツアルトは生存中から音符が多すぎると非難されたが、吉田氏は彼のはじめての著書の「主題と変奏」のなかで、その数多い音符のなかの些細なたった1音符が他の凡庸な作曲家と鋭い一線を画していることを、実際に譜面を示しながら説いている。

しかし悲しいかな音符がまったく読めない私には、その真意が全然理解できなかった。
 
ところが幸いにもこの番組では作曲家の池辺晋一郎氏が登場して、モーツアルトのK505のピアノソナタのその個所を演奏しながら、その♯の1音のあるなしの意味について語ってくれたので、私は改めて批評家吉田秀和の批評の具体性に感動し、「ああそうなんだ」と心から得心したのだった。

もうひとつは吉田氏が日本にその真価をはじめて紹介したグレングールドについて、「彼はバッハを新しい叙情性でもって演奏した」と一言で要約したことだ。
私はこのときまたしても、「ああそうなんだ。グールドって新しい叙情的なバッハを弾いたんだ」と思って、心から得心した。

私にとって吉田秀和という人は、誰も何も言わなかったことに対して、「ああそうなんだ」と心から思わせてくれる世にも貴重な存在なのである。

Saturday, July 07, 2007

大隈講堂を仰ぐ

遥かな昔、遠い所で第13回&勝手に建築観光20回&♪ある晴れた日に12回

私らの頃からここには大隈講堂が建っていた。昔はもっとうす汚れていたと思うのだが、お色直しでもしたのだろうか? キャンパスを歩くといたるところで普請中であるが、この大学はずいぶん金があるのだろう。

1927年に完成した大隈講堂は1999年に東京都の歴史的建造物に指定されたゴシック様式の優美な7階建ての建物である。

内藤多仲(1956年に大阪通天閣、58年に東京タワー3を設計)、佐藤功一らが設計し、大隈重信の「人生125歳」説にちなんで高さ123尺(約37.8m)になっているそうだ。
全体の外壁のタイルは信楽焼でその滑らかな質感が高雅な情緒を醸し出している。

塔上には時計台がある。その時計台の4つの鐘が、英国のウエストミンスター宮殿と同じメロディで一日5回鳴るそうだが、私は一度も聴いたことがない。きっとそれどころではなかったのだろう。

内部の天井には宇宙を表現した楕円形の採光窓があるが、私はたしかこの天井の下で「劇団こだま」の公演に参加したことがある。友人がチエロを弾いていた大学オケを聴いたこともある。

私のささやかな音楽体験によると、いかなるプロのオーケストラよりも、たとえそれがベルリンやヴィーンのそれであっても、世界中のアマチュアオケ、とりわけわが国の大学や中小都市の群小オケのひたむきな演奏のほうに大いにぶがある。

技術的には数等劣る、吹けば飛ぶようなアマチュアオケの、たった1小節の演奏にも、いきなり人の心をわしづかみにし、不意の涙がちょちょぎれる一期一会の感動があり、それは例えば、かの足助名時が指揮する哀れ超凡庸なN響などに1000回足を運んでも、絶対に、絶対に得られないていのものなのですよ。

しかし頭の下に耳が、耳の真ん中に鼓膜がなくて銘柄にくるい、心に正義と太陽がないオタマジャク愛好者どもには、こんなみやすい道理が、こんな聴きやすい子守唄が、たとい7度生まれ変わろうとまったく見えども見えず、聴けども聴けないのだ。にゃろめ。

そして昔からバカダ、バカダと呼ばれ、なんのとりえもないこの大学にも、たったひとつ、世界に誇る素晴らしい学生オケがあるのである。

♪反歌
時おりは腐乱死体にて漂えり明大前の夜の鯉かな
明大前の最終電車は発車せり池の縁にてなおかがまれる一人
中秋の名月ひとり輝けり五分の叙情をわれに許す

Friday, July 06, 2007

カフェー・オー・ジャルダン

遥かな昔、遠い所で第12回&勝手に建築観光19回&♪ある晴れた日に11回

馬場下にあった「カフェー・オー・ジャルダン」という奥に庭園があったガラス張りの喫茶店はすでにこぼたれ、まさしくその位置に天丼屋の「てんや」が建っていたのはいっそ小気味よくもあった。

ここには幾多の思い出があるが、それには触れず静かに立ち去ろう。夏でも肌寒くなるほどガンガン冷房する奇妙な店であった。

竜泉院を下って大学本部に向かう。

余はかつてこの小道を、りゅうとした着流し姿の風人先生が、雪駄を地面にこすり合わせ、ハラハラと扇子を使いながら、教育学部前を悠揚迫らず闊歩された日の驚きを余は忘れることができないのである。

されど今やその教育学部は建て替えられ、小路に田舎食堂「おふくろ」なく、重心に低い「茶房」すでになく、高橋義夫先生が愛用されたおんぼろ学生会館も見当たらない。そのかわりにかつて我々がその建設に反対したかの第二学生会館が大隈講堂と向かい合うようにして轟然と聳えていた。

こいつは当節のバカダ大学を象徴するように下品で愚劣な建物である。どこから眺めても風流や文化というものが微塵も感じられない。やはりぶっつぶしておくべきろくでもないビルジングであった。

♪反歌
身丈に余る絹の三色旗うちふるいドラクロアのごとかくめい目指せり
日米の佐藤談判阻止せむと死地に乗り入る我ら七人
屈強な右翼学生殴りこみし朝のピケットラインわが不在を許さず

Thursday, July 05, 2007

文学部スロープ下にて想える

遥かな昔、遠い所で第11回&勝手に建築観光18回&♪ある晴れた日に10


穴八幡の丘を下れば文学部である。ところがいつの間にか文学部はもっと右側に移転したらしくここは大学院の看板がかかっていた。

かつてこのスロープの上に私たちが張り巡らしたバリケードがあり、バリケードの向こうに教室や生協や革マルが支配する自治会があり、このスロープの下には私たちの小さな部室があった。

部室はその大半が反革マル勢力の巣窟であったが、ミュージカル研究会などの寄り合いもあった。今から思えば噴飯モノであるが、私はこんな軽佻浮薄なプチブルジョワ的な輩はすべからく物理的に粉砕しなければならぬと半分本気で思っていたのである。

私はいつのまにか「03」という部室に出入りするようになり、遅まきながらマルエンだのレーニンだのを読んだ。気分はさながらダントンだった。

「大胆に、大胆に、なおも大胆に!」であった。

そうして無為で怠惰な日常を自らの手で断ち切り、あわよくば全世界を獲得せんと荒唐無稽の夢を白昼に見ながら、疾風度怒涛の日々に陶酔することになったのであるよ。

そんな次第で学校の授業には出なかった。

いや一度くらいは出たことがあった。それはHという教師のフランス語視聴覚の第1回の授業であった。

米国の大統領にも、当時流行っていた漫画の「イヤミ」にも似た顔をした新帰朝者のこの小男は、私たち新入生に向かって開口一番

「ここは日本ではありましぇーん。ここはTOKIOではありましぇーん。ここはフランスのパリなんざんす」

と言ったので、私はそれこそ「マジかよ」、と驚き呆れて以後授業放棄したのであった。
そうして、それ以来彼の言動は、文字通り私にとっての反面教師となった。



あれほどの美女をたちまち洗脳すされど革マルは醜女製造機なりき
松井照井高木天羽が書ける立て看の赤は彼らが血潮の滴り
鶴巻の安アパートの六畳間シーツを撃ちしわたしの精液

Wednesday, July 04, 2007

中央図書館にて

鎌倉ちょっと不思議な物語65回

鎌倉市は税金は高いが、そしていろいろ不満もあるが、市の図書館はとても充実している。
以前に比べると予算が減ったために他の図書館の本が回ってくることが増えたけれど、いまなお大量の新刊リクエストに応じてくれている。感謝感激である。

この図書官の司書サービスは充実しており、私は不慣れなアイテムの調べものではいつもたいへんお世話になっている。

そして写真のように、「利用者に対するカラスの襲撃」に対しても集団防衛権を気軽に発動してくれる親切な施設なのである。

由比ガ浜のお昼

鎌倉ちょっと不思議な物語64回

やっと賃労働が一段落したので、梅雨の晴間を縫って由比ガ浜の回転寿司「ととやみち」に行く。昔と違っていつも混んでいるようだ。

ここは1皿100円から200円、350円までで様々な魚貝を楽しめる。

近くの腰越港などから、獲れたての新鮮なシラシやアジやカツオなどをどんどんベツトコンベアで流しているが、私はいちいち板前さんに直接発注すると握りたてのを持ってきてくれる。

海老や魚のアラや野菜を入れた美味しくて栄養満点のアラ汁は無料で何杯でもお代わりできる。

私たち夫婦とははの3人がお腹一杯食べて〆て2621円であった。

Monday, July 02, 2007

穴八幡をのぞく

遥かな昔、遠い所で第10回&勝手に建築観光17回

戸塚を過ぎて早稲田に入る。かつて全線座があった向かいの丘に登れば穴八幡神社である。

ここは岩清水八幡宮から幕府が勧請した北の鎮護で、かつては能が舞われ、流鏑馬が走り、堀部安兵衛が有名な敵討ちをしたところである。

毎年冬至には一陽来復のお札が配られて善男善女が殺到するそうだが、そんなことはどうでもよい。おそらくこの地は縄文人の快適な根拠地だったに違いない。

貧相な私が憂鬱な心でこの無人の丘を登ると、いつも遠くの本殿の賢所の奥で1本の灯明が風に吹かれてゆるゆる光っていたものだった。

ところが今日は違った。もはや幽遠の趣など皆無であり、驚いたことに神寂びた神殿もなにやらカラフルに改造されていたので興ざめである。

隣の放生寺も工事中だった。

そのかみにいまして、私は学友諸君としばしばこの丘に集い、学費が上がって後輩が可哀相だからけしからん、とか、授業料が高い割には教師が旧弊かつ低能だから講義をボイコットしようとか、ともかく毎日が退屈で退屈でだからたまには平時に乱を起そうよ、とか、スカッと爽やかコカコーラ、てんでかっこよくやりたいな、などと三々五々語り合い、共同謀議をこらしてとうとうストライキにもちこみ、まるで毎日がお祭りのやうに楽しい日々を過ごしたことをはしなくも思い出した。

そういえば私らは徒党を組んでこの穴八幡の麓の馬場下派出所を襲撃し、たった一人の臆病な警官をおびえさせたこともあった。

Sunday, July 01, 2007

なおも戸塚近辺をうろつく

遥かな昔、遠い所で第9回

ここいらあたりは昔は戸塚1丁目と2丁目であったはずなのに、地名表示を見ると西早稲田に変わっている。いつ誰が勝手に変えたか知らないが迷惑な話だ。

東京の地名はすべからく戦前の呼称に復古してもらいたい。私はそーゆー構造改革には断固として反対する者である。

 戸塚町源兵衛ゆかりの名前を看板にした名物の焼き鳥屋はまだ頼りなげに残っていた。昔ながらのクリーニング屋やしもた屋も、数は少ないけれどもまだ残っておった。

一瞬うずたかく積み重ねた書籍の谷間から、文献堂の主人が額をテカらせたような気がして、私は、とある古本屋に入ったが、そこにはかの精悍な小男の顔は見当たらなかった。

私はこのささやかな、しかし豪奢な知の王国で、吉本隆明の「試行」を毎号買っていた。

ゴリゴリの古典派マルキシストと噂された主人は、おそらく店舗もろとも西方浄土に遷化してしまったのであらう。

しかしながらいくつかの古本屋はまだ健在であった。ある本屋では柳田國男全集が9800円であった。会津八一全集がべらぼうな値段であった。

私は早稲田の古本屋でアナトールフランスの全集やヴァレリーの翻訳などを買い揃えてはせっせと神田の古本屋で転売し、その金をすべて雀荘で浪費していたことを思い出した。

げに、言うも愚かで、貧しく、不分明な日々であった。