Tuesday, December 04, 2012
ヘンリー・ハサウェイ、ジョン・フォード、ジョージ・マーシャル監督の「西部開拓史」を見て
Thursday, November 29, 2012
西暦2012年霜月蝶人狂歌三昧
海に浮かんだ尖閣竹島
全部わたしに くださいな
二、やりましょう やりましょう
これから北の征伐に
ついて行くなら あげましょう
三、行きましょう 行きましょう
あなたについて どこまでも
仲間になって 行きましょう
四、そりゃ進め そりゃ進め
一度に攻めて攻めやぶり
つぶしてしまえ 北の熊
五、おもしろい おもしろい
のこらず四島攻めふせて
分捕物を えんやらや
六、万々歳 万々歳
お伴の犬や猿雉子は
Saturday, November 10, 2012
ルイ・マル監督の「好奇心」を見て
Thursday, April 12, 2012
内田樹&中沢新一著「日本の文脈」を読んで
新進気鋭、というよりは今や論壇の主流に躍り出て大活躍の「男のおばさん」によるアットホームな雰囲気の対談集である。
3.11の大震災が来るまでは「日本の王道」というタイトルで出版されるはずが、内田の提案でこともなげに急遽「文脈」に変更したというのであるが、ここら辺は「武士」への憧憬を隠そうともしない現役武道家の抜く手も見せぬ早業を感じさせる。
私はこの文武両道、日猶兼用の思想家が唱える師レヴィナス譲りの「始原の遅れ」哲学とか、「すべての人間的営為は「贈与と反対給付」よって構成されている」などという学説には俄かに同意できないが、彼が中沢選手と共に推奨している「廃県置藩」は大賛成だ。
官僚統治の効率化をめざして急速に膨れ上がる中央集権的共同体を破壊的に再分化して司法・軍事・行政区画を再び江戸時代の藩の状態に復元したり、あるいは吉里吉里国のように三三五五自立独立化すれば、昨近の無責任政治やアホ馬鹿白痴市民の大増殖にも少しは歯止めが掛かるだろう。
沖縄にしてもヤマト&アメリカ両国と一日も早く手を切って非武装中立の新琉球国を旗揚げすれば、彼らの米軍基地問題は速やかに解決するに違いない。もし衆議一決すれば、日本やアメリカや中国やロシアや北朝鮮やインドやイスラエルやイランと張り合って核武装するも諸君の選択肢の裡にある。
それはともかくこの座談の中でいちばん面白かったのは能の話で、バレエの主役が舞台で死んだら公演は中止になるが、能の舞台では最後までやる。シテが死んだら後見が死体を「切戸口」から出して代わりに舞うことになっているそうだ。
能は死霊たちが出現する芸術であるとは承知していたが、「切戸口」は老子のいう「玄牝の門」(子宮口)であり、その対極線にある目付柱がファロス(男性器)であるとは知らなんだ。これを要するに、能舞台とはラカンがいう穴のあいた三間四方の無限宇宙であり、生(性)が、死霊と激しく交感するエロスの殿堂なのであった。
桜万朶関東平野駆け巡る 蝶人
Saturday, December 24, 2011
よしもとばなな著「スウィート・ヒアアフター」
震災で亡くなった大勢の無辜の民を悼むために、この作家がみずからも亡き人の在ます世界に沈入して懐かしい人たちとの交わりを深めようとするのは善い事であるし、それは小説家だけに許された特権かもしれない。
京都に住むアーチストとヒロインが乗った車は上賀茂に帰宅する途中で交通事故に遭いあっけなくこの世をみまかる。フリーダ・カーロのように腹に鉄棒を喰らった彼女だけは一命を取り留め、最大の不幸と絶望の中から再生を試みようとするのだが、もしかすると彼女も彼と一緒に死んだのかもしれないし、生きていながら2つの世界を往還する霊魂の背負子のような存在なのかもしれない。
著者がそういう霊界の存在に寛容な人物であることは事実なのだろうが、ここで書かれているような生者死者を超越した父母未生以前の世界を、私は断固否定しようとはいまでは思わない。しかもそれは往々にして私に周辺でも実際に起こっているのだから、なおさらのことだ。
人世は死ねば終りではなく、あの世でかれらも私たちの身内も生きており、その気になればいつでも会って話してなぐさめあう事が出来るという考え方は、私たちにいわば2層倍のおおいなる精神の自由をもたらす。だからガリガリの無神論者たちも霊的なるものの存在を完全には否定したがらないのであろう。
けれども30年以上も前に同じ京都の比叡山ドライブウエイから谷底に転落した知人がたまたま車体頑強なボルボに乗っていたために九死に一生を得たことも知っておく必要があるのだろう。
午前二時また玄関の鐘が鳴る 蝶人
Monday, September 05, 2011
梟が鳴く森で 第3部さすらい 第15回
bowyow megalomania theater vol.1
12月7日 晴
見よ、東海の空明けて、あさき夢見し、酔いもせすん……
ぶどう色の朝やけを見ながら、僕はこの世に生まれてもっとも幸福な朝を迎えました。
太陽が空高く昇りきった頃、のぶいっちゃんはようやく戻ってきました。両手いっぱいのアジやイワシをかかえて……
なんでも眠れないまま砂浜を歩いていたら早朝の海で地引網を引いていた漁師がくれたそうです。
僕たちはさっそく雑木林の中で火をおこしてとれたての海の幸を焼いて食べました。
すぐに僕たちはお腹がいっぱいになりました。お腹の中にどんな怒りや悲しみが積み重なっているときも、お腹がいっぱいになれば次第にそれがやわらいでいくということを僕はいつの間にか学んでいました。
でも、きれいな顔をした洋子が、のぶいっちゃんのためにせっせとアジのはらわたをとりのぞいて、きれいな指先でよく焼けた肉をつまみあげ、のぶいっちゃんにああんと口をあけさせて食べさせているのを見ると、突然僕のこころの奥にねたましさが首をもたげてくるが分かりました。
健ちゃんにひわいな花だねといわれつつ今朝も咲きたり紅蜀葵 蝶人
Tuesday, May 24, 2011
梟が鳴く森で 第2部たたかい 第39回
公平君は「全員僕のまわりに集まれ」と鋭い声で命令を発して、たった一挺しかないピストルをバリケードの最前線のカシの木の上に、射的屋さんへ行った時にするように右ひじに乗せて、三三五五雨あられのように押し寄せてくる黒服の男たちの一人に狙いをつけました。
僕と洋子と文枝は恐怖でガタガタ震えながら、公平君の後ろで三人で抱き合って泣いていました。こわいおー、こわいおー、死んじゃうよー、と言いながら文枝はジャージャーおしっこを漏らしました。白いパンツがみるみる水浸しになってゆくのを、僕と洋子は息を呑んでみつめていました。
やがて、黒服に白い肩ひもを掛け、左手に警棒、右手に拳銃を握り締めた一〇名の特別攻撃隊が全速力でバリケードの正面に向かって駆け昇ってきました。
公平君は、それを見るとバリケードの上にすっくと立ち上がり、一番先頭のジャイアント馬場が僕たちからわずか三メートルの距離まで迫った時に、顔の真ん中めがけて引き金を引きました。
母親を救わんとして声掛ける娘の顔は険しく美しく 茫洋
Friday, April 22, 2011
ジョン・マッデン監督の「恋におちたシェークスピア」を見て
闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.118
監督や主演俳優についてはヒロインのバルトロウの乳房の尖り方が美しいという以外に格別言うべきことはないが、「未来世紀ブラジル」や「太陽の帝国」の脚本を書いたトム・ストッパードの卓抜な思いつきがことのほか素晴らしい。
シェークスピアの「ハムレット」に拠る戯曲も書いている彼は、本作ではわが偏愛の奇書「ソネット集」をひとひねりして、若き日の沙翁の恋愛譚をこしらえた。
沙翁の「ソネット集」は謎の美貌の青年貴族とこれまた謎の「ダークレディ」への愛を描いているが、ストッパードはこの映画のヒロイン、ヴァイオラを男装させることによって、沙翁の両性愛、バイセクシュアリティをビジュアライズしようとしている。
すなわち、あのオスカーワイルドが着目した「ソネット20番」の、
姿かたちは男だがすべてのかたちをうちに従えている。
だからその姿が男の眼をうばい、女の魂をまよわせる。(高松雄一訳)
の艶姿に翻弄される沙翁を描こうとしたわけだが、それにしてはバルトロウも、ましてやジョセフ・ファインズも明らかに役(者)不足で、この優れたシナリオでの再映像化を望むこと切なるものがある。
しかしながら、沙翁の恋が「ロミオとジュリエット」の戯曲&上演と同時並行で生き生きと進行していくことや、ロミオ上演の成功が同時に2人の現世の恋の終わりであり、それを次作の「十二夜」のプロットへと接ぎ木していく脚本家のアイデアはこれまた秀逸で、沙翁への永遠の愛を胸に秘めたヒロインが、未踏の荒野に歩み去るラストシーンは、ほとんど感動的でさえある。
一票を投じた党の無様さは我等自身の無様さでもある 茫洋
Tuesday, September 28, 2010
梟が鳴く森で 第2部たたかい 第30回
そうして、それから夜になりました。
ひとはるちゃんは、だいぶ発作が治まりましたが、いぜんとして熱が高く、あれからずっと洋子と文枝が看病しています。でもまだ意識は戻りません。
僕は一人で外へ出ました。おそろしいほど先端がとがった鎌のような月が銀河の無数の星星と一緒に西南の空を明るく輝かせています。冷たい大気が全身を包み、僕は思わずおちんちんがぎゅっと縮んでいくのが分かりました。
すると、昼間ススキの穂が動いていたあたりで、なにやら物音がしました。銀の波が大きく2つにぱかっと分かれ、高く茂ったススキの群れを踏みながら、黒い影がどさりと倒れました。
その黒い影のあたりから、なにやら奇妙なうめき声がしています。
僕は急いで小川を渡り、原っぱを走りに走ってススキの根元に駆けつけました。
公平でした。公平君は体中のあちこちが傷だらけでしたが、血まみれの左手にピストルをしっかり握りしめていて、僕がその銃身に触ると熱がほのかに伝わってきました。
ペルリでもやって来たのかフジテレビお台場お台場と毎日騒ぐな 茫洋
Thursday, May 13, 2010
梟が鳴く森で 第2部たたかい 第7回
bowyow megalomania theater vol.1
ああら、坊や初めてなのね。おやおや、もうこんなにおおきくしちゃって。
ねえ、どんな気分? いい? いいんでしょ? 分かってるんだから。隠さなくたって、分かってるんだから。
ほら、ここんところ、君のちっちゃなオッパイのとこ、しゃぶってあげる。 どおお? 気持ちいいか? いいか? いいでしょ? 男でも感じるとこなんだから? よーく分かってるんだから。
でも、どうして男の子にもオッパイがついているんだろうねえ。坊や、知ってる?
ほら坊や、ここをなめなさい。ここも、ここも、ここもよ。ほら、ほら、ぜんぶなめるのよ。
何してるの? ちゃんとやらなきゃ駄目じゃないの。よし、よし、よーーし。
上手、上手、上手だおおおー。なかなかやるじゃないの。ああ、とってもいい気持ち。
そう、そう、そうよ。ヨーシ、こんどはこっちをこうやって、こうやって、それからこうやるんだよ。
♪氷雨降る春の夕べの桜花光を待たで白々と散る 茫洋
Saturday, December 12, 2009
梟が鳴く森で 第10回
今日お父さんが外国人を家へ連れてきました。ジェーン・バーキンさんというきれいな女優さんとそのご主人で映画監督のジャック・ドワイヨンさんです。
ふたりはとっても仲が良くてうらやましいほどでした。僕もあんなきれいな女の人と結婚したいなあ、と思いました。
ジェーンさんは、まるで小鳥がさえずっているような不思議な言葉でずーっとしゃべりっぱなしでした。
お父さんからあとで聞いた話では、ジェーンさんのお友達の映画監督のウッデイさんという人は、ニューヨークというところに15人くらいの子どもと一緒に住んでいて、その子供というのは全部ウッデイさんの実際の子どもではないひとばかりで、その中にはベトナム戦争という大戦争でみなしごになった子どもや、僕と同じような子どももいるそうです。
お父さんは、それって、とってもすごいことなんだぞお、と教えてくれました。
ジェーンさんは、お母さんからスキヤキをどっさりごちそうになって帰るとき、僕のホッペにチュ!とキスしてくれましたが、そのときとってもいい匂いがしました。
お父さんの話では、あれはシャネルのエゴイストという名前の香水のせいなんだそうです。
エゴイストってどういう意味?と僕が尋ねると、自分勝手な奴だよ。そういう人間になったら人間終わりだよ、とお父さんがまた教えてくれました。
僕のお母さんはエゴイストではありません。生協のちふれです。
ジェーンとドワイヨンさんは、玄関口で、オ・ルボワールと言いました。
オ・ルボワールとは、フランス語でさよならという意味だそうです。そして、もう一度会おうね、という意味だそうです。
オ・ルボワール・ジェーン!
オ・ルボワール・ジャック!
と言いながら、僕はこの人たちにもう一度会えるだろうか、会えたらいいな、と思っていました。
♪鎌倉の谷戸に眠れるホロビッツそのCDは朽ち果てにけり
Sunday, April 06, 2008
春宵源語
源氏物語が書かれてからすでに1000年以上の歳月が経っているが、紫式部という女性はまあなんとすごい長編小説を世界にさきがけて書いたものだと思わずにはいられない。
紫の上、夕顔、空蝉、女三の宮、六条御息所、明石等々、とても魅力的な女性が次々に登場して、光源氏という絶世のイケメンの前にまるで人身御供のように惜しげもなく美しい裸身を投げ出すのである。
昔はこの貴公子に嫉妬して、こいつはドンジョバンニの大和版ではないか。お前は異常性欲者か。朝から晩まで女の尻ばかり追い回していないで、宮廷を代表する政治家なら、もすこし真面目に仕事をせよ。
などと軽蔑していたが、人生女色にはじまり女色に終わってなにが悪い。それでいいじゃあないか。上等じゃあないか、と悟ってからは、この色即是空、もののあわれを尽くした華麗にして空虚な王朝絵巻をゆくりなく楽しむことができるようになった。
ご承知のようにここではさまざまな魅力的な人物が登場するのであるが、私が好きなのは藤壷中宮と柏木、それに六条御息所などである。
父の后を母と慕い、年上のお姉さんとしてほれ込む少年の恋は、それが禁断の恋であるがゆえに一途に激しく燃え上がり、その不純なる純情に体が応えてしまう藤壷のおんなのさがが素晴らしい。
柏木は源氏の友人頭中将の子であるが、源氏の晩年の正妻である女三の宮を強姦してその罪の意識に恐れおののき、ついに窮死する。
しかしそのほんとうの死因は、源氏への自責の念からではなく、好きな女から愛し返されない孤独であることを、紫式部は痛切な筆致で描きつくしている点が非常にモダンである。
不条理に犯された女三の宮も悲劇であり、自壊した柏木もあわれであるが、もっと悲惨なのは藤壷中宮との過ちを、女三の宮で応報された光源氏である。
誰でも指摘することであろうが、このあまりにも有名な二つの不倫が、源氏物語の脊梁のツインピークスを構成している。彼女はこの二つの中点に支えられてはじめてあの巨大な物語を書くことができたのである。
六条御息所は怨霊になって葵上や紫上、さらには女三の宮にまで取り憑くのであるが、紫式部は、六条御息所と怨霊の関係を、彼女が冷静に第3者的に自覚しているように記述している。そこには現代流行のスピリチュアル世界のあいまいさはかけらもない。
また現代の殺人犯たちが、「殺せという声がどこかから聞こえた」などとバッハのカンタータのタイトルもじって口走る流行の台詞とはまったく無関係な、澄み切った理性の世界そのものである。
のみならず、御息所が源氏との関係において、好むと好まざるとにかかわらず不可避的に陥ってしまった愛憎の道行き、すなわち彼女の運命についてあまりにもクールに描いているので、私たちはまたしてもなぜかとてもモダンな印象を与えられるのである。
お前などに今日もお気持ち爽やかにお過ごしくださいなどど言われたくないわい 亡羊
Monday, December 10, 2007
ある丹波の女性の物語 第31回 本郷、青山、銀座
日曜日には時々主人と共に本郷教会へ礼拝に出かけた。教会も階下は食糧倉庫になっており、礼拝を守る人数も少なくなっているので、会議室のような所で行われたが、安井てつ女史が黒紋付の羽織姿でいつも出席され、賛美歌の奏楽は大中寅二先生であった。
昼食は牧師夫人が用意してくださる事もあり、青山5丁目の長兄宅に立ち寄りご馳走にもなった。長兄の家の隣に土屋文明先生のお宅があり、急に身近な人のように感じた。
銀座へ廻る時もあったが、防空壕が出来るのか、舗道のところどころが掘り返されていた。綾部ではモンペ姿が通常であったが、道行く人は和服の着流しも多く、東京の人の方が余裕があるなとほっとしたが、レストランで出された大根葉のスープには驚いた。
夫の長姉の夫は海軍主計中将であったので、お祝い事で水交社へ招かれた事がある。ここばかりは昔ながらのフルコースである。まだこんな世界もあるのかと、これにも驚いた。
或る日突然雀部の父が出張で上京し、歌舞伎座へ私達夫婦を招待してくれた。出しものは「菊五郎の襲」と「羽左ェ門の勧進帳」であった。幕際で六法を踏む弁慶の姿が忘れられない。戦前の歌舞伎座で今はない名優の芝居を見た。数少ない東京での豪華な思い出である。
♪十両、千両、万両 花つける
我庭にまた 億両植うるよ
♪命得て ふたたび迎ふる あらたまの
年の始めを ことほぎまつる
Tuesday, November 06, 2007
ある丹波の女性の物語 第10回
教会通いをしているうちに、元来神信心のあつい父はキリストへの信仰に目ざめ、大正7年丹陽教会において洗礼を受けた。この頃から養蚕教師はやめていたらしい。
そんな大きな動きのある最中、一文なしの祖父が師走の夜中に帰ってきた。前非を悔いて土下座して詫びる祖父を父は許さなかったが、母はやさしく迎え世話をする後家さんを見つけ、一緒に住まわせた。
70歳を過ぎる頃、祖父は一人になったので、家の離れに住まわせ緑内障でだんだん目が見えなくなっていく祖父の杖がわりになり、山の小屋に太鼓の響く日には、重箱にお弁当をつめて芝居小屋へ連れて行ったのを覚えている。
そんな母のやさしさに父もだんだん心がほぐれ、町では三番目にラジオも買い与えた。大阪から技師が何日も泊りがけで来た。当時のラジオは、夜になると近所の人が聞きに来るような珍しさだったのである。
父は後年母に心から感謝し「おらが女房を誉めるじゃないが」と人によく話した。
先になくなった祖母には誠意をつくして看護し、祖父には父の分まで孝養してくれた事を、妻のおかげで親不孝のそしりを受けなくてすんだ事は、最大の感謝であるといっていた。
♪あかあかと 師走の陽あび 山里の
小さき柿の 枝に残れる 愛子
Monday, November 05, 2007
護良親王の首塚を遥拝す
後醍醐天皇の皇子護良親王は、かの「建武の新政」で晴れて征夷大将軍となったのだが、父後醍醐のために、全知全能を傾けて、日本全国の戦場を駆け巡ったにもかかわらず、宿敵足利直義の手によって、鎌倉の大塔宮の石牢から引きずりだされて斬首された。
さぞや悔しかったことだろう。さぞや父を恨んだことだろう。
その護良親王の墓は、実朝の墓と同様、鎌倉に2箇所ある。1箇所はその大塔宮だが、もうひとつが今日ご紹介する「首塚」だ。
大塔宮(鎌倉宮)から浄明寺の第二小学校方面に迂回すると突然長大な石段が現れる。その急峻な長い長い石段を息を凝らして登っていく者は、次第に不気味な胸騒ぎを覚えるだろう。
晴れた日にも、雨の日にも、またうす曇りの日にも、春夏秋冬恒にここには「尋常ならざる何か」がある。絶対にある。あの「あほばかの泉」の水を飲んだこともなく、神仏なぞ信じたこともないこの私が言うのだから間違いない。
恨みを呑んで死んだ皇子の怨霊が800年経っても鬱蒼とした森林の中を彷徨っていることが肌寒いまでに実感できる。
さうして切り立った石段の頂上から下界を見下す者は、微かな眩暈を覚えるだろう。
そう、ここは明らかに異界である。
高鳴る動悸を抑えてさらに前進する勇気のある者は、頂上の神殿の裏手の奥を目指してみよ。
そこには、疑いもなく護良親王の生首が埋まっている。
ちなみに、鎌倉ならでは霊地はこの首塚を筆頭に、御霊神社や前にご紹介した妙本寺、北条高時腹切り矢倉など数多い。
死んだ作家の高橋和己は、余りにも短かすぎたその晩年を、あろうことか、この首塚のすぐ傍の、小さな小さな英国風の洋館で過ごしたが、幾夜どのような妖気に満ちた夢を見たことだらう。
Tuesday, October 02, 2007
杉本観音の自転車屋さん
肌寒い雨の中を、神中運輸の産廃運搬車がぼろぼろになった自転車を運んでいった。
あれは確か25年前のことだった。2万5千円くらいしたブリジストンの最新型のかっこいいやつを杉本観音下の自転車屋で買ってやったのだが、少年が喜び勇んでどこかに乗って行ったら、いきなり誰かに盗まれてしまって、二度と出てこなかった。
それを知った自転車屋のおじいさんが、
「それはお気の毒だったネ。代わりにこれでも持っていきなされ」
というて譲ってくれたのがその自転車だった。
もとよりオンボロ自転車だったが、以来五年、一〇年、そして25年の歳月が流れ、少年は大きくなってとっくの昔に遠い町に行ってしまったので、もっぱら私が彼の自転車に乗ることになった。
私はいつも雨ざらしのために褐色にさびついたオンボロ車を駆って鎌倉中を疾駆し、いつでもどこでも鍵を掛けずに停めていたのに、今度は誰も盗まないのだった。たった一度だけ一晩放置していた間に消えうせたことがあったが、それは放置自転車狩りに遭ったとみえて東勝寺の脇の市の自転車置き場で見つかった。
おじいさんはその自転車がパンクしたり、ベルが取れたり、チエーンが外れたりするたびに何度も何度も無料で修理してくれ、よほど大きな修理でも200円を超えるお金はびた一文受け取らなかった。私が無理矢理500円玉をそのしわくちゃの手に握らせようとしても断固として拒否したものだった。
いつもきたない作業着を着て、無数の自転車や中古オートバイと油とゴミにまみれ、いつも腰を正確に45度に折ったまま、ビュンビュン車が走り去る道路の傍にしゃがみこんで修理していたおじいさん。
一日で幾らの収入があったか分からないけれど、靴屋のマルチンのごときその質朴で真面目で正直な仕事ぶりはいつも変わらなかった。
ある日のこと、またしても自転車がえんこしたので、私が杉本観音までえんやこら、えんやこらとひっぱっていくと、お目当てのおじいさんの姿はどこにも見当たらなかった。
店の奥から息子さん(といっても4、50代だが)が出てきたので、「おじいさんはどうしたのですか?」と尋ねると、「去年の2月に交通事故に遭って亡くなりました」という返事に、私は絶句した。
自転車を丁寧に診察してくれたその息子さんも、父親に似て質朴で真面目で正直な職人で、「これはすぐには直らないので修理が終ったら私がおたくまで届けます」と約束し、翌日修理の終ったボロボロ車をピカピカに磨いて自動車に乗せて玄関口まで運んでくれた。料金はたったの100円であった。
おじいさんが亡くなってしまったその自転車屋さんは、その息子さんとその息子さんの息子さんの2人が跡を継いで、いつも道路脇の溝の上に腰を下ろして夢中で修理している姿を見かける。
けれども私の自転車は、今回はもう修理どころではなかった。チエーンが劣化してとろとろになり、走るたびに外れてしまう。いよいよこれで御用済みだと思い切り、ついに涙を呑んで廃車にすることにしたのである。
長い歳月を共にしたおんぼろ自転車を積んだトラックが、雨の和泉橋を右折して走り去るその後姿を、私はしばらく見詰めていた。
Thursday, July 26, 2007
レイモンド・カーヴァー著「ファイアズ(炎)」を読む
原作者のカーヴァーと村上春樹の翻訳の相性は抜群によく、本作のエッセイも、詩も、短編小説もついつい村上が書いているような錯覚に陥りそうになり、電車の中で読んでいても、枕頭で読んでいても、あまりの気持ちよさ、読書の快感のあまりついつい眠り込んでしまいそうになる。まことに不可思議なコラボレーションである。
ちなみに最近協業、協同、提携を意味するこの言葉を、コラボ、コラボと略称するようですが、フランスではコラボは「対独協力者」を意味するそうなので、教養ある良い子の皆さんは、極力コラボレーションまたはコラボラシオンと巻き舌で発音するようにしようではありませんか!?
それはともかく、この2人はさながらあの気色の悪い江原圭之と三輪明宏?のやうに琴瑟相和す深い運命的な間柄だったのであらうし、またさだめし入魂の翻訳なのであらう。
ただ最後におかれた珠玉の名編「足もとに流れる深い川」の村上版タイトルにはほんの少しだが異論がある。原題はSo Much Water So Close To Homeなので、例えば「我が家にひたひた寄せてくる大量の水」とか、「おらっち(家)に迫る奔流」あるいは大江健三郎風に「洪水はわが門前に及び」などのほうがよろしいのではないでしょうか!?
諸賢の所見をお伺いしたいものである。
強姦され殺害されていた少女を、真冬の氷のように冷たい川に放置したまま釣りを楽しんでいた夫に対する妻の不信の念が、その川の冷たさでひたひたと、ひえびえと押し寄せてくるこの恐ろしさは、やはりカーヴァー独自のクールな世界である。
なお本書のタイトルとなった「ファイアズ(炎)」は、カーヴァーが自らの文学上の恩師であるジョン・ガードナーについて書いた感動的なエッセイである。ジョン・ガードナーは、「作家を志すほどの者は、つねに心中に炎が燃えていなければならない」と説いて、そんな“めらめら”がない小説家志望の凡人どもに深々と止めを刺している。
Thursday, June 28, 2007
高田馬場駅前にて
何年ぶりかで下車したのは、知らない間にすっかり新しくなったJR山手線の高田馬場駅である。昔はもっと暗くて重くて澱んだ空気が流れていたが今ではあっけらかんとして他の駅とあまり違わない。
地方から東京に出てきた私は、ご他聞に洩れずアルバイトで生活していた。
毎朝この駅の売店(いまではキオスクとか呼んでいるようだが)でパンと牛乳を買って急いで腹に収め、当時内幸町にあったNHKで昼飯抜きで大道具の手伝いをしてから名物のチャーシュー麺をかきこみ(当時死んだ猫のエキスをダシにしているという根強い噂があったが非常にうまかった)、それから日比谷公園の傍らで徹夜の突貫工事を行っていた東京地裁の701号法廷などの地下増築工事現場に行って朝の5時まで働き、地下鉄で高田馬場までもどってまたアンパンと牛乳を飲んで下宿にもどって死んだように眠ったものだ。
地裁のアリバイとは階下でたっぷり水分を吸って固まったセメント袋を地下2階から地上まで運びあげる仕事で体力のない脆弱な私だけは肩に担いだ重荷もろとも転落してよく現場監督に怒られたものだった。
高田馬場の駅前に出ると昔と変わらず大学に行くバスが止まっていた。
私は学生時代にこの都バスの料金が交通局によって値上げされることになり、それがけしからんというので「徒党を組んで」このバスに乗ろうとする人間を「実力で阻止」していたことをはしなくも思い出した。
今考えると相当論理にも行動にも飛躍があるが、よくも多くの学生たちがバスに乗らずに素直に歩いてくれたものだ。今の私には到底こんな行動に出る勇気も気力も体力もないが、それでももし再びやらなければならないときには、けっして徒党は組まないだろうと思う。
Monday, June 18, 2007
ある丹波の老人の話(29)
父はもともと商売上手と人にも言われ、世間の評判もよく、金も相当もうけてきたんでしたが、なにぶんお人よしで勝負事をしても人に取られるばかりでした。
勝負事といってもおもに花札などで本バクチには手を出してはいませんでしたが、そのくせ大きなことが好きで、米や株の相場に手を出して、またしても大穴をあけ、金のかかる女出入りも絶え間がありまへんでした。
こんな始末ですからよい目の出ようはずもなく、母が真面目に守っている履物屋商売もだんだんさびれ、借金は増える一方で家計は一日一日窮地に追い込まれていったんでした。そうして明治四十三年その火の車の中で、私の母は四十九才で病気で死んでしもうたんでした。
気の毒な母! まるで父に殺されたような母! 母をいとおしく思えば思うほど、私は父への憎しみが深くなるのをそうすることもできませんでした。
「母のかたき!」と私の父を見る目は日増しに険しくなっていきました。
母の死後ますますやけになった父は、もはや我が家にも郷里の町にもいたたまれなくなって、前にも述べたように大正元年に五十八のよい歳をして世間には内緒で若い芸者を連れて隠岐の島へ逃げて行きました。
私は父を舞鶴まで送って行きはしたものの、父に対する感情はとげとげしく、別れを惜しむ気持ちなどさらさらありまへんでしたし、それは父も同様でした。
前に触れたように、父を送って帰ってきた夜から、早くも債鬼は我が家に迫り、私を借金地獄に追い込んで私は貧乏暮らしのどん底で這いずり回ることになったんでした。
しかし幸いにも私はこの危機を辛うじて潜り抜けて借金もすべて返済することができました。私は家業に忠実な妻と共に下駄屋の商売も従来以上に回復させ、生活も安定させ、郡是株の強行買いが当たってだんだん好い目が見えてきたんでした。
その間私は自分のことにかまけ、父のことなぞすっかり忘れておりました。もとより父からは一度も便りはなく、人の噂にも聞かず、その消息もいっさい分からず、思い出す隙もなかったんでした。
ところがその父がひよっこり帰って来ようとは! 夢にも思わぬことでした。
(第五話父帰る第1回)
Friday, June 15, 2007
ある丹波の老人の話(28)
このとき大勢の芸者を呼んだもんですから、私は急に芸者にもてるようになり、つきまとわれるようになりました。
当時私は三十三ですからまだ若かったし、うかうかするとこの誘惑に負けて父の二の舞になるんではないかと我ながら心配になりました。
次々に宴会に出たり、人を呼んだり呼ばれたり、押しかけ客もあったりして酒に接する機会が非常に多くなったもんですから、私は急に時間と金銭の浪費が恐ろしくなりました。
かねてから何事も波多野翁を目標とし、翁に倣っていけば間違いなしと信じていた私は、翁の信仰するキリスト教に心惹かれておりました。思えば翁が受洗されたのは今の私と同じ三十三の年でした。私もここで入信してしっかり身を固めようと思ってそれから教会通いを始めました。
私は波多野翁から洗礼を受けたいと無理をいうておったんですが、翁は突然大正七年二月二十三日に脳溢血で急逝されたんで、私はその直後の三月十日に丹陽教会の内田正牧師から洗礼を受けました。
ですから私はいわば悪魔よけにキリスト教に入ったといえばいえなくもありません。世間からもそのように見られていたようです。
思えば私は、十二歳のときに母の眼病を観音様に祈ったときから、苦しいときの神頼みさながら、稲荷様、金比羅様、座摩神社、北向きの恵比寿様と、種々雑多な神様、仏様を祈ったもんでした。
そしていずれもそれぞれ奇跡的な感応を受け、「祈らば容れられる」という私の幼稚なおすがり信仰が波多野翁崇拝と結びついて私をキリスト教に行かせたんでした。結局は行くべき時に、行くべきところに行き着いたんです!
これこそは神の摂理でした。
私は、信じることによっていかなる苦痛困難も必ずみなよろこびと感謝に代えてくださる神様のお恵みを思いました。そうして、ますます信仰から信仰へと勉め励み、取るに足らないこの身ながら、いささかでも神のご栄光を顕すことに精進し、神と人への奉仕に努力しようと決意しました。 (第四話 株が当たった話 終)