Thursday, January 31, 2008

小島信夫著「各務原、名古屋、国立」を読む

照る日曇る日第93回


小島信夫の小説は普通の小説とは違う。あきらかに違う。

では普通の小説なんかあるのかと聞かれたって、素人の私がここでにわかに普通の小説の定義をすることなんかてんでできないが、そもそも普通の小説は、作者の語りたいテーマが最初にあって、次にそのテーマをうまく展開するためのプロットがあり、最後に、そのプロットを木の幹に譬えると、その木をより立派に見せるための枝や葉っぱを周囲に廻らせる、という形式を選ぶのだろう、といちおうは考えられる。考えさせてもらってもいいのではなかろうかいな。

ところが小島氏の小説は、特に晩年の作品は、テーマだのプロットなどはほとんどない。

いや名古屋だの国立などといちおうあることはあるのだが、読んでみるとあまり名古屋や国立そのものの話ではないことの方が多い。それでも最初だけは題名で示されたテーマに沿って氏の小説はゆっくりと開始されるのだが、途中で必ず話が逸れ、あちこちで横道に入りこみ、横丁の長屋で大いに道草を食い、そのうちにテーマなんかあってもなくても構わないと不敵に居直り、当初はあったはずのプロットを大胆に投げ捨て、いわば無手勝流でわが道を猛進するところに彼の文学の真骨頂があると私は思う。

そのとき彼は、自分という小説家が小説を書いていることを忘れるはずがないにもかかわらずいつのまにやら忘れ去り、そのとき遅くかのとき早く忘我の境地に立ち至り、それこそ無我夢中になって細君のアルツハイマー症状やら自分の過去現在の交友やら郷里の記念碑やら文学館やら私も大好きなゴンチャロフやオブローモフや幕末の聡明な奉行川路聖謨やら「わが名はアラム」のウイリアム・サローヤンやらスターンの「トリストラム・シャンデイ」やら私の大好きな新橋の日本銀行に似た昭和7年製の堀ビルやら明治大学理工学部の授業で「具体的なことだけが生きるのだ」と語った話やら持病やら住宅問題やら身の回りの些細なトラブルやらについて忙しく思いをめぐらせ、その思いの丈をまるで牧場の牛が限りなくよだれを垂らすように、春の小川が、いな秋の小川がさらさらとさらさらとどこどこまでも流れていくように、美空のひばりがとめどなく高空でぴーちくぱーちく囀るように、果てしなく書き連ねるのだが、他の多くの小説や小説家と決定的に違うのは、その折に作家は彼の実存を全てさらけ出し開陳しつくしていることなのである。

「おおこの男は今全身全霊で生きている、その証がこの麗しき水茎のあとなのだ」ということを我ら読者は彼の一語一語が目に飛び込むその瞬間ごとにいやおう無く感得するのである。彼が死に損ないの蛾が卵を産みつけているようにいままさに命の残光を刻み付けていること、いわば遺言を書きつつあること、にもかかわらず今彼が激烈に自らの生を生きていること、そうして私たちもまた生きていること、を痛切に思い知らされるのである。

本書の最後はこんな風に終わっている。

「ちょうどテレビでは、ニューヨークの世界貿易センターに、ハイジャックされた満タンの第一の旅客機が激突し、おどろいて物をいえずにおるとき、第二の旅客機が音を立てぶつかるところで、『ハイハイ』とてっとり早くいっておいてテレビに戻った。
そのテレビは、ムスメが電気屋さんにいって、おくようになったワイドの実に大きなものであって、何週間めかに思い出したように、アイコさん(主人公の妻)が、『このテレビ前からあったかしら』と問いかけ、『前からのものではありませんよ。これの方がよく見えるから、少なくともぼくにはね』というと、『いいわねえ、これ。こんなものがあるのね』
『ここにあった小型のは、まだ性能がいいからいまの二階のあなたの部屋のものと置き換えようと思っているが、どうしてか、この頃あの電気屋こないな』
何ということが、テレビで起こっているのだ。それからあと二週間、たぶん世界中が何とかよい方法はないものかとこんなに真剣になっていることは珍しい、と思いながら、小さい小さいことだけれど、わが家も似ているといえばいえないことはない、と思っているような気がする」

あの9.11同時テロに驚倒しながらも、同時につまらぬこと、どうでもよいとも思える日常生活の些事にとらわれてしまう自分を見つめている人間、世界の一大事と自家の一大事をためらいながらも等しい重さで対峙させている人間。その愚直な誠実さが小島信夫なのである。

♪またひとひ無事生き長らえたり1億2600万分の1の小さき生を 亡羊

2008年亡羊睦月詩歌集

♪ある晴れた日に その20


おみくじは引かずに帰る鎌倉宮

なにごとのおわしますかはしらねども今年もなんとか生きていくよ

去年今年生きてしあればそれでよし

初日の出今年も市中に山居せむ

小便の泡で描きたる髑髏かな

父祖伝来暗黒面に光なし

粛々と死地に赴く銀の船

元旦やわれよりもまず家族かな

在庫無く迎える朝に日が昇る

冬の朝わが欲望の遠ざかる

どすこい6万6千ボルト君の傍にはあまり近寄りたくない

神田なるチャールズ・イー・タトル商会にあこがれし日もあり
 
こなくそと振り下ろしたる刀かな -偲龍馬

亡き父が釈迦の寝姿といいし山けふも静かに横たわるかな

真っ青に晴れ上がりたる冬空にわが初めて獣になりし日を思う

太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり

神実在森羅万象すべて不可知なり

大寒やわが欲望の小ささよ

新橋のポルノ雑誌屋とキムラヤクラシック売り場解けて流れて霞となりけり 

ひよめじろやまがらおながしじゅうからうぐいすみんなこいこいわがやのときわさんざしへ

正岡の子規が作りし月並みの句ほど好ましきものはない

果樹園で柚子を拾いき花いちもんめ

果樹園で彼女の屍体は見ざリけり

我もまた穴で春待つ土竜かな
 
一月も半ばになりて仕事来ず

今晩はどんな夢見るかなと笑いつつ疾く床に就くうちの善ちゃん

正月なし無用の用に精進する息子

わが息子寝る間惜しみて描きたる愛犬ムクの絵売れ残りたり

神仏に祈りし甲斐やムク売れる

はにかんで笑った顔がぶれていた月本氏死す弱冠四十七

ただ一人泣いていたりし通夜の客

莞爾たり無私たり自娯たりし月本氏死す享年四十七

我が滅びのあと残されし子らのために何が出来るかを考えよ
 
教壇のチョークの粉にまみれつつ白けた魂を熱く燃すべし –最終講義

あの世からの刺客のごとく手裏剣を生徒の胸にシュルシュルと刺す

わが実存かけて発する言の葉よ若き胸に落ち善き実を結べ

子規漱石もし今の世にありとせばいかに生きるやいかに死ぬるや

音程が悪いとわれが罵りしその流行歌手は左耳聴こえず –許せ鮎女

昼は尨犬のごとく街頭を彷徨い夜は鮪のごとく眠れり

闘争を紛争、敗戦を終戦と言い換える人が嫌いだ

道野辺の木の葉を拾いて河に捨つ愚かな人と蔑むなかれ

誕生日に息子が持て来しフリージア母の心に長く馨るよ

空に鳥万象すべて不可知なり

一月も終わりになりて仕事来ず

善きこと日々に滅びて悪しきこといや勝りゆく平成二〇年

Tuesday, January 29, 2008

ホッブズ・ファッションの時代

ふあっちょん幻論第7回

前回、私は80年代に女性の肩パッド入りジャケットがアウト・オブ・ファッションになると同時に婦人服の全体的なシルエットがよりミニマムで身体にきちんとフィットした細身のシルエットに変化していったこと、それからおよそ二十年近く遅れて紳士服のシルエットが同じようにスリムな形に変化したという記事を書いた。

ところがたまたま1月25日附の朝日新聞夕刊を見ると、スタイリストの原由美子さんが08年春夏のパリコレでイヴ・サンローランが発表した肩パッド付のネービーの袖なしジャケットを紹介していた。

そしてその記事の中で、原さんは「もう80年代のようなジャケットブームは帰ってこないと考えていたけれど、下に長袖を着てウエストにはベルトを締めたこの着こなしこそは今の時代に求められている新しいタイプのジャケットである」と断言し、ブームの再来の可能性を期待しているようにも見える。

ご存知のように、衣服と身体あるいは皮膚との間にはつねに鋭い緊張関係が存在しており、(皮膚は脳そのものだ)その感覚と懸隔はその時代とその時代を生きる人間との相関関係を微妙に反映している。

過ぎし高度成長の時代はまだ帝国の臣民の政治経済社会の意識は環境に対して鋭角的に鋭く対峙していたから、詰め襟の学生服や企業のお堅い制服に代表されるようにそのシルエットはぴたりと身体に密着していた。

ところがわが神国日本が大きく経済成長を遂げ、帝国臣民が総体として豊かなになり、肥え太った臣民たちの精神は著しく弛緩すると共にその典型としてバブルの時代が訪れると、前述の巨大なフィット&フレアのシルエットが畏れ多くも畏くも華麗に花開いたのである。

しかしその後のデフレ時代と世界的なテロと不安の時代が世界のファッションを再びスモール&ミニマム&ハードフィットネスの時代へと逆流させ、アホ馬鹿小泉がわが帝国において将来したいわゆる格差ふぁしずむ時代の登場が、「万人が万人に対する敵であり、衣服は潜在的な敵としての他者に対する最小の武器である」という前代未聞のホッブズ・ファッションの時代を招来したのであった。

このように重苦しい背景をひきずっているだけに、私はこのサンローランの新デザインは、原さんがいうように「肩パッド付きジャケットの再現」ではあっても、「21世紀後半のフィット&フレアのビッグ・シルエットへの大きな回帰」のさきがけとしての象徴的な意味を持っている」とまでは、まだ確言できないような気がするのである。


善きこと日々に滅びて悪しきこといや勝りゆく平成二〇年 亡羊

Monday, January 28, 2008

小島信夫著「暮坂」を読む

照る日曇る日第92回

この本にはさまざまな人物とそれらの人物がかもし出すさまざまな事件というか日常生活の断片が次々に描かれる、それはそれとして面白くないこともないのだが、読んでいて退屈になるどうでもいい挿話も続々と出現してきて、普通の私小説なら作者と作品の主人公はおおむねイコールであり、作者は読者を意識し、読者を楽しませることを主眼に物語を書き連ねるのだが、本書の場合は基本的にはその私小説という形式を踏襲しながらも、作者と同じ名前を持つ小島信夫という名の小説家を登場させたり、有名無名の作家や友人や宗教家などを無遠慮に出現させたり、小説のなかで彼らを狂言回しにして一種の哲学や考察を開陳したり、平板であるはずの私小説の世界を数多くの実在、非在の人物が暗に陽にうごめく奇怪なモノローグ詩劇のような異様な劇世界に仕立て上げてしまう結果となっており、そこが旧来の伝統的な私小説との違いであるとは分かってはいても、ではどうしてこのような奇妙かつリスキーな文学的な実験を敢行するのかと問えば、それは小島信夫という人間の謎を小島信夫という作家が完璧に解明しようとして自分が自分に仕掛けた生存の罠なのであり、多くの経験と蹉跌を経てそれ以上の血路を切り開こうとすればこうするほかはなかったとでも言うべき小説の方法的制覇への裏道、前途の勝利をまったく予測できない必然的な道行きであったとしかわれひと共にいえず、その結果作者自らがあとがきで述べるように美術評論家のU氏だの新興宗教の教祖的存在であるY氏だのZ氏だのが踵を接して登場し、それらのいずれもがきわめてうさんくさい存在のように見え始め、例えば書家井上有一の支持者であり彼の評価をここまでの高さに引き上げたといっても過言でもないU氏を作者が尊重し擁護すればするほど私たち読者の目にはそのU氏のみならずくだんの井上有一の芸術性すらも例えば白隠禅師の書の本物性に比較すればいささかどころか大いに遜色のある偽者性をその作品内部に含有しているのではないかとの疑念が湧くのをいちがいに押し留めることができないし、もっと言えばこのような怪しくうさんくさい人々との交友を深めていく作者自身に対するうさんくささもいや増すばかりなのだが、ほかならぬ作者が自らのうさんくささについて公言しており、またおよそこの世の中にうさんくさくない人間がたった一人でも存在するだろうか、文学とはそうしたうさんくささを徹底的に掘り下げることではなかろうかと考えるとき、もはや私たちにできることは外野席からとやかく批判する愚に陥る危険を避けて、この自己探求という名の泥濘に覆われた薄明の暮坂をどんどん下っていく気狂い老人の行方をただただ凝視するしかないのだった。


新橋のポルノ雑誌屋とキムラヤクラシック売り場解けて流れて霞となりけり 亡羊

Sunday, January 27, 2008

吉本隆明、梅原猛、中沢新一著「日本人は思想したか」を読む

照る日曇る日第91回

梅原猛、吉本隆明、中沢新一の新旧思想家による日本思想史の大総括書である。今から10年以上前の対談であるが、いま読んでも随所に斬新な知見がちりばめられており、再読三読の価値がある。

例えば次のような中沢などの指摘があって興味深い。
 
太閤秀吉の刀狩と喧嘩停止令が出されたために、平和な江戸時代になって博物学と物産、自然と性愛に対する興味と好奇心が高まり、その結果喜多川歌麿は当初の自然画から性愛画へと進み、西鶴の遊郭色道文学が流行し、本居宣長の性愛色道肯定の源氏物語論などが登場した。源氏物語とは、あるいは文学とは、つまりは「もものあわれ」なのだ。

また梅原は「古事記」は人麻呂によって書かれた歌物語であると断じる。「竹取物語」は天武帝時代の権力者へのカリカチュア、「万葉集」は柿本人麻呂や大伴氏への、「伊勢物語」は藤原氏に弾圧された在原業平への、「源氏物語」は源氏への、「平家物語」は平氏への鎮魂歌でありながら法然浄土教の宣伝の書であり、「古今集」は政治的生命を絶たれた紀氏の文学者独立宣言の書である。

吉本は「源氏物語」が日本の空間的な四季観を初めて確立したといい、中沢は反道長派の「枕草子」だけがこの空間化に対抗し反発したという。吉本は「新古今集」が古典的和歌リズムの絶頂と崩壊の始まりと見る。そして連歌だけは古今的で厳格な宇宙観、論理構造を受けついだとされる。

次は音楽と宗教についてである。

空也と一遍は踊る聖だった。行脚と踊りのダンスミュージックが日本芸能の発端としての縄文的&ディオニソス的音楽芸術となり、西行、芭蕉、山頭火あるいは近世の毛坊主たちによって大衆化されて、現代のストリートミュージックやフォークやロックに続いている。とこれは私の勝手な追加。

新宿角筈の地名は十二社の裏の熊野神社が毛坊主たち(浄土真宗などの信者で半僧半俗の有髪の人)の集落で、彼らが手にした「鹿の角の付いた杖」から来ていると中沢は言う。空也像もこの角筈を手に持っているが杖の脇には瓢箪がぶら下がっており、柳田國男はこの瓢箪は楽器だと書いている。

毛坊主たちは、近世のアホダラ教のチョボクレにみられるように、いつもパカポコパカポコお経をやっていた。かつて比叡山では声明をメロデイで歌っていたが、浄土宗の毛坊主たちのアホダラ教の音楽も基本はリズムである。

西欧のプロテスタントがキリスト教から美術や装飾を取り去ったためにバッハの宗教音楽のようなドイツ音楽が本格的に発展したように、仏教から美術と装飾を否定した浄土宗から、わが国の固有の音楽と文学が生まれた。(親鸞は景教の僧侶が漢訳したマタイ伝を読んでいたそうだが、もちろん浄土真宗=キリスト教ではない。表向きは一神教に見える浄土真宗も実際は選択的であり、いわば必修的な西洋一神教とは本来的に違う)

「新古集」の古典的な調和の美学は、中世の平家物語や太平記の音楽的文学、戦う武士を疾駆させる馬の蹄の跳躍の音、ギャロップのリズムによって置き換えられる。西方極楽浄土を揺るがす悪党たちの全身的破壊的ゲリラミュージックが日本の芸術に縄文的生命を注ぎ込んだのである。

そして結論。

人間と自然と神が三位一体で密接不可分であるというオリシア=基督教のコスモス思想はキリスト教内部のグノーシス派やマルチンルター、その後のヘーゲル、実存主義などによって崩壊し、予定調和的コスモスから疎外された個人と現代社会は孤独なままで漂流している。

その現代人と現代社会の「病気」を超克するには、一方では縄文、アイヌなど原始的な生命力の掘り起こしと同時に、革命的な科学技術の登場が必要である、と吉本は説くが、具体的な手がかりがどこかに転がっているわけではない。

ハイイメージ論以降の吉本の唯一の生産的な仕事は、近代詩の中心価値は比喩であり、直喩より隠喩を上手に駆使している詩のほうが文学的に上位にあると説く「詩学叙説」くらいのものではないだろうか。この対談においても発言内容、頻度ともに他の2人に力負けしているのは昔からの一ファンとして歯がゆい限りである。けれども、考えてみれば現代のアポリアについて白黒いずれか2分法の浅はかな回答を拙速に行なうことが優れた思想家の使命ではない。とすれば吉本氏はまことに賢明な不可知論者という道を選んだというべきだろう。

いずれにしても私は本書のタイトルではないがまったく思想などしないでただ生きている人間なので、激しく思想しているこの三人に大いなる知的刺激を受けた次第である。


空に鳥万象すべて不可知なり 亡羊

Saturday, January 26, 2008

ある丹波の女性の物語 最終回 

遥かな昔、遠い所で第69回

 生涯病弱だった継母の死は、其の4年後の63年11月に訪れた。90歳を5日後にひかえた死であった。

 夫の死後1年で創業100年余の店をとじ、殆ど床にある母と2人きりの暮らしが続いた。それでも気分の良い日には教会に出かける日もあり、継母は教会だけが生き甲斐であった。

継母も熱心な信者を父に持って教育されたが、家が仏教だったら、きっと熱心な仏教徒で終わったろうと思う。中々頑固な所もあったが、追々と私に心を開いてくれ、感謝して、生命の灯が消えるように召されて行った。

 1人残された私も昔風で云えば古稀を迎えた。高血圧の私は、いつまで生かされるか分らないが、人に迷惑をかけぬよう終わりたいと願っている。

矢内原忠雄、内村鑑三等、本棚もあさってみたが、すでに老化した脳には消化する力はない。今は教理などどうでもいい。絶対者に全てをゆだねようと思う。私を愛してくれた天上の人々との再会も又、楽しかろう。

 すべてが感謝である。子供達、孫達との想い出は、したためずとも、それぞれの心の中に沢山きざんでいるにちがいない。

 私は父のように立派な足跡は残せないが、母のように、そして夫のように、いつまでも人の心の中に優しさを残す人になりたいと願っている。


衛星も はた関空も かかわりなし
 狂える夏を 如何に過すや  愛子       

草花の たね取り終えて 我が庭は
 冬の気配 色濃くなりぬ 愛子


1995年4月
いぬふぐり むれさく土手を たづね来ぬ
 小さく青き 星にあいたく  愛子

 

あとがき

ある丹波の女性、佐々木愛子は大正10年1921年2月22日に生まれ、平成14年2002年3月23日に81歳で亡くなりました。「ある丹波の老人の物語」は彼女の父の伝記でしたが、この「ある丹波の女性の物語」は1989年から1990年にかけて彼女自らの手で執筆された自らの半生記で、息子であるわたしが各回の文末に1975年頃から95年頃までの間に彼女が詠んだ80首余りの短歌と俳句をあわせて掲載しました。

母は、もちろん単なる下手の横好き、一介の市井の歌詠みでしたが、「歌は心が満ちればおのずから生まれるもの」というのが、生前枕草子や万葉集を愛した彼女の考え方でした。そのためか、どの作品も拙いながらも技巧にとらわれることなく、虚心坦懐に思ったまま,感じたままを素朴な調べに乗せて歌っている点が、身内贔屓の目には好ましく感じられます。
とりわけ最後の作品は、歳をとっても少女らしい夢を失わなかった故人の人柄が儚い虹のように美しくあらわれているような気がしてなりません。帰天した母もまた、きっと小さく青い星になって、いつまでも私たちを見守っていてくれることでしょう。


我が滅びのあと残されし子らのために何が出来るかを考えよ 亡羊

Friday, January 25, 2008

ある丹波の女性の物語 第46回 

遥かな昔、遠い所で第68回

 父が召されて28年がたってしまった。時代は移り変わり、洋装の時代となり店は縮小していった。

 夫は父の死後、株に興味を覚え、ラジオの短波放送に聞き入る事が多くなった。そして1年後には持ち株の殆どをうしなってしまったのである。38年の大暴落をまともに受けた訳である。

 しかし、長い間養子として父に押さえられていた、若い日の代償と思えば、それは安すぎるものかも知れないと思う。
 その後、夫は教会に熱心に通い、父への墓参をかかさなかった。

 その間に、長男は早稲田へ、次男は府立医大へ、娘は同志社へと進学、揃って特別奨学金も受け、アルバイトもしてくれた。

 59年、夫の死は全く夢のような出来事であった。隣の街に入院している人に、とどけものをしようと、綾部駅へ急ぐ途中心筋梗塞が起こり、自分で近くの病院へ行き、そこで息がたえたのである。出かけてほんの僅かの出来事で、とても信じられなかった。

 夫は朝のジョギングを長年つづけ、自分の健康には自信があったので、医師になった次男にも脈をとらせた事がなかった。最後の脈も、とらせる事なく召されたのである。

 夫も教会の役員となり、社会奉仕にもつとめたが、目立つ事の嫌いな人であった。しかしその優しさは、人の心にうつるものがあったようで、死後、思いがけない人々から慰めの言葉を頂いた。



水無月祭
老ゆるとは かくなるものか みなつきの
 はじける花火 床に聞くのみ   愛子   (「水無月祭」は綾部の夏祭り)  

もゆる夏 つづけどゆうべ 吹く風に
 小さき秋の 気配感じぬ  愛子


打ちつづく 炎暑に耐えて 秋海棠
 背低きままに つぼみつけたり 愛子

Thursday, January 24, 2008

ある丹波の女性の物語 第45回 

遥かな昔、遠い所で第67回

 37年6月21日、その父が突然亡くなったのである。

 大津びわこホテルにおいて、信徒会の席上自分の抱負を語りつつ「イエス、キリストは………」の言葉を最後に倒れ、天に召された。

 父は自分の思う通りに生き、まさに天国への道をかけのぼっていったように思う。当時、中学2年の長女が、この祖父の死に就いて記しているが、この祖父の活きざまにひどく心を打たれたようである。

 「祖父の生涯は、祖父が好んでいた聖句―――我にとりて生くるはキリストなり、死もまた益なり―――そのもののように感じられた。」
 「私の心の中と写真の中の祖父は、今もなお、悲しい時にはなぐさめ、心配がある時には自信をつけ、嬉しい時にはいっしょに喜んでくれる。私は、永遠に、祖父の思い出、祖父の全てのことを、忘れる事はないだろう。」

父は生前好んだ白百合の花に、うずまるようにかこまれて葬られた。
 「血は水よりも濃し」というが、私は自分の生涯をふり返り、全然血のつながりのない父が、血縁のない私を心から愛してくれた事を感謝すると共に、血以上のものがあると思う。私がそう感じる一方、それ故に、父の死は夫に初めての解放感をあたえたと思う。

 父には何かの予感があったのか、死の前夜、私に色々と昔話を語り、「自分の一生は、時間に追われて暮らしているようなものだった。時間のかねが打つ度に、生命の縮まる思いで働きつづけた。お前達の一生暮らしていける貯えは充分してあるので、これからは自分達の生活を楽しみながら、ゆったりと過ごしてほしい」と語った。

 
登校を こばみしふたとせ ながかりき
 時も忘れぬ 今となりては  愛子

学校は とてもたのしと 生き生きと
 孫は語りぬ はずむ声にて  愛子

円高の百円を切ると ニュース流る
 白秋の詩をよむ 深夜便にて   愛子   (「深夜便」はNHKラジオ番組)

Wednesday, January 23, 2008

ある丹波の女性の物語 第44回 喜寿

遥かな昔、遠い所で第66回

 夫もボツボツ休みながら、仕事も出来るようになり、34年の問屋の招待旅行には、私に姉の絢ちゃんと2人で行くようにすすめてくれ、出雲大社への旅行に出かけた。
2月末なのにとてもあたたかくて、皆生温泉では私達姉妹には浜辺の離れをあてがわれ、松籟や潮騒の音をききながら、生まれて初めて、2人きりの夜を色々と話し合った。

 36年5月5日には、みんな元気で、父の喜寿を祝う事が出来た。

 父の甥や姪など大勢を招いて、由良川沿いの小高い山にある料亭で宴を開いた。庭には藤の花房もたれ、さつきも満開、由良川の小波も陽にかがやいて美しく、父も大満足で、鼓を打ち、謡をうたった。みんなも心から父の喜寿を祝った。

 夫は発病後、煙草も、好きな囲碁の夜ふかしも止め、毎朝ジョギングを始め、発病前より以上の元気を回復した。
 父も、もっぱら教会の事、ギデオンの事に一生懸命で、高校や、病院などの聖書贈呈にいそしんだ。


級会(クラスかい) 不参加ときめて こぞをちとしの
 アルバムくりぬ 友の顔かほ        「をちとし」は一昨年の意

萌えいづる 小さきいのち いとほしく
 同じ野草の 小鉢ふえゆく


藤山を めぐりて登る 桜道
 ふかきみどりに つつまれて消ゆ

Tuesday, January 22, 2008

ある丹波の女性の物語 第43回 夫の入院

遥かな昔、遠い所で第65回


 父が念のためにと、夫を京大病院の結核研究所へ連れて行った。開放性ではないが、肺炎と結核におかされているので、要入院との事で、直ちに綾部の郡是病院の結核病棟に入院した。

私はすでに覚悟はしていたけれども、入院準備はすべて終え、夫を1人ベッドにおいて帰ろうとした時、泣くまいと思うのに、涙があふれ出るのを止める事が出来なかった。しかし夫は、優等生と言われる程おとなしく闘病してくれたので、33年秋には無事退院する事が出来た。

 住み込みの女の子もよく慣れてくれていたし、父は夫の留守の間は手伝ってやると、がんばってくれた。私も皆が起きるまでに毎朝病院を訪ね、帰ってから店を開ける事にして、懸命に働いた。

 父も入院中の夫を聖書を持参してはげまし、他の患者さんにも伝道した。

 夫の退院祝に、鎌倉の兄からテレビを贈りたいとの申し出があったが、長男はすでに中学1年、次男も1年おいて中学生になるので、相談の上、毎日のお弁当作りに重宝なものをと、まだ田舎では珍しい電気冷蔵庫を、秋葉原から送ってもらった。
 子供達は3人揃って人が羨む程成績がよくて、全く心配がなく、その点ではとても恵まれていたと思っている。


浄瑠璃寺に このましと見し 十二ひとえ
 今坪庭に 花さかりなり 愛子

うす暗き 浄瑠璃寺の かたすみに
 ひそと咲きたる じゅうにひとえ 愛子

春あらし 過ぎてかた木の 一せいに
 きほい立つごと 芽ふきいでたり 愛子

Monday, January 21, 2008

ある丹波の女性の物語 第42回 旅行 

遥かな昔、遠い所で第64回

 翌32年も問屋の九州旅行に、私達は再び参加した。

2月は一番ヒマな時期なので、父達も心よく留守を引き受けてくれた。別府、阿蘇を経て、長崎から雲仙、三角港から熊本へと1週間の旅であった。阿蘇山上は一面の雪で、あのこおりつくような寒さは忘れられない。熊本でも積雪がある寒い冬であった。

 4月の末には倉敷の夫の実家に法事があり、兄弟姉妹、夫婦で全員集まれと言う事で、私達も店には応援の人を頼み、これにも参加した。私は倉敷へは初めての訪問であった。

鷲羽山の旅館で宴会があり、甥のバィオリンでダンスも始まった。和やかな楽しい集いであった。「春の海ひねもすのたりのたりかな」そのままに、瀬戸内の波はおだやかであった。そのベタ波を目のあたりに眺め、新鮮な魚に舌鼔をうった。夫も心からくつろぎ、みちたりたようであった。兄弟姉妹って、なんていいもんだろうと私も心から思った。

 その年の5月、高熱が出る風邪が大流行した。店もしめ、学校も休みになった。我が家も全員発熱。互い違いに、1週間程休んでおさまったのであるが、夫だけはいつまでもすっきりしなかった。





散りばめる 星のごとくに 若草の
 野辺に咲きたる いぬふぐりの花 愛子

この春の 最後の桜に 会いたくて
 上野の坂を のぼり行くなり 愛子

あらし去り 葉桜となる 藤山を
 惜しみつつ眺む 街の広場に 愛子

Sunday, January 20, 2008

モーツアルトの降臨

モーツアルトの降臨

♪音楽千夜一夜第31回&鎌倉ちょっと不思議な物語96回  
プラハの国立劇場オペラは、モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」や私が偏愛する「皇帝ティトスの慈悲」を初演したオペラハウスとしても知られている。先夜私は、この中欧の凡庸とは言わないまでもローカルな、ベテランのオケをバックにだいぶとうのたったまあ2流から3流の歌手たちが奏でる「フィガロの結婚」を聴きに行った。

指揮も演奏も演出も歌手たちも私の知らない人ばかりだったがまずまずのできばえで、小沢やアーノンクールの指揮と違ってモーツアルトの音楽を聴くにはまったく問題はなかった。4幕のゴルフのシーンや虫のすだきをBGMで聞かせる演出は良くなかったが、美しい色彩のドレープの衣装がことに印象的だった。

ご存知のように、この曲の最大の聴き所は序曲と終曲にある。そしてあらゆるオペラのうちで最もオペラ的な序曲がこれである。
「さあお待ちかね、皆の衆これから胸がわくわくするような素敵なオペラが始まるよ」、といわんばかりの冒頭の数小節が、流麗な旋律、沸き立つようなリズム、そして色彩豊かなハーモニーに乗って繰り広げられるやいなや、私たちの心は早くもモーツアルトの音楽のとりこになってしまうのである。

この序曲だけで優にオペラの全曲に比肩するだろう古今随一の名曲を、モ氏は初演間際に綱渡りのように書き上げたというのだから驚く。おそらくプラハに急行する馬車の中でペンを走らせたのではないだろうか、と私はメーリケが「ドン・ジョバンニ」の初演のためにプラハに急ぐシーンから始まる「旅の日のモーツアルト」を読むたびに思うのである。
ちなみにこの本ほど読む人の心をしあわせにしてくれる書物を私は知らない。そして読むたびに彼のピアノ協奏曲第15番の第3楽章のアレグロが胸いっぱいに高鳴るのを覚えるのだ。

モ史の最初と最後の交響曲がド、ミ、ファ、レの4つの音を使っていることは有名だが、その夜私は第2幕の終わりの有名な4重唱、5重唱、6重唱、そして大団円の7重唱の掛け合いのところで彼の「レクイエム」で使われた旋律が鳴り響くのに気づいてわが耳を疑った。長調なのに短調、短調なのに長調と聴こえ、喜劇という上部構造の下部でひそかに同時並行的に進行する悲劇という重層的な音楽ドラマは、天才モ氏だけが書くことができた。

しかしいつも思うのだがフィガロの音楽は猛烈な速度で進行するのに、その演奏時間は長い。この夜は2幕の途中などで相当カットしていたがそれでも20分の休憩を挟んで160分間かかり通常は優に3時間を超える。映画「アマデウス」では、フィガロの音楽が長すぎる、音符が多すぎると感じた皇帝ヨーゼフ二世があくびをもらしたので、かのサリエリがしめたとほくそ笑むところが描かれていた。

実際フィガロの結婚話を描いたこのたった1日の朝から夜までの喜劇を描いたポーマルシェの芝居の原作もダポンテの台本もけっして長いものではない。にもかかわらず本来もっと簡単に終わるべきオペラ・ブッファの1幕から2幕、そして3幕までを、モ氏は延々と音符の限りを尽くして引き伸ばした。

何のために? 長丁場に終止符を打つ第4幕大詰めの最後の最後のフィナーレに万感の祈りを込めるためである。

封建時代の遺制である初夜権を放棄したといいながらまだフィガロの許婚スザンナに未練たっぷりな封建貴族のアルマヴィーヴァ伯爵とその従者フィガロの新旧両勢力の権力闘争を色恋沙汰を交えて描くこのどたばた悲喜劇的革命劇は、保守的で頑迷な伯爵の妻への謝罪のシーンで終わる。

第4楽章のスザンナのアリアで泣きに泣かせ、伯爵邸の夜の庭を舞台に展開されるどんちゃん騒ぎをあおりに煽り立てたオーケストラが、夜のしじまの中で一瞬全休止するとき、世界は深い闇に閉ざされ、地球はそのゆるやかな回転を突然停止する。いまやなにか神聖な時の時が訪れたことを私たちは予感する。そして私たちはモールアルトの音楽とともに、あるいはフィガロの翌年に書かれるであろうドン・ジョバンニとともに、「世界の奥底、宇宙の果て」にまで降りていくのだ。

そのとき、伯爵夫人ロジーナの前に片膝ついたアルマヴィーヴァ伯爵は、

Contessa,perdonno.(許してください伯爵夫人よ)

と厳かに歌う。すると夫の心がもはや自分を去って遠くに行ってしまった孤独と悲しさに耐えながら伯爵夫人は

Piu docili io sono
E dico di si. (素直な私ですから「はい」と申します)
とけなげに答える。

けれどもそれは夫への単なる許しの言葉ではない。人間が、生きとし生ける者たちが犯すすべての罪科に対する大いなる許しの声である。その声はその罪を胸に懐くすべての者たちの奥の奥にまで届くモーツアルトの声であり、地上で争い、憎み殺しあう者たちへの「あらかじめの許しの声」であり、こういってよければ宇宙からの、天からの声である。

私たちはこれに似た声をしばらくしてから聞くようになるだろう。世界に恒久平和を願うベートーベンの第9交響曲である。しかしシラーの歓喜の調べが高らかな直喩で歌われたのに対してモ氏の平和の歌はもっと低くもっと小さく、ほとんど聞き取れないくらいの隠喩として囁くように呟くように歌われる。それこそがモーツアルトならではの平和への祈りであり、人類と神と宇宙に向けて発せられたかそけき希望の歌なのである。
それがフィガロでモーツアルトがやりたかったただひとつの事業だった。

そうして幸いなことに私はその夜、その声を確かにこの耳で聴いたのだった。その夜モーツアルトは私(たち)の両肩の上にさながら音楽の精霊のように降臨したのである。
今晩はどんな夢見るかなと笑いつつ疾く床に就くうちの善ちゃん 亡羊

Saturday, January 19, 2008

吉本隆明・大塚英志著「だいたいで、いいじゃない。」を読む

吉本隆明・大塚英志著「だいたいで、いいじゃない。」を読む

照る日曇る日第90回

「だいたいでいいじゃない」というタイトルは悪くない、いや素晴らしいかもしれないと思ったのには理由があって、毎日のマスコミをにぎわせている政治、経済、社会などの話柄とそれを巡るとかく重箱の隅をつつくようなミクロの決死圏で、食うか食われるか、倒すか倒されるか、己が勝つかお前が勝つか、それでは負けたら腹を切るか、的な議論を目にしただけで疲労困憊してしまうすでに半死状態の私は、テロ特がどうなろうが民主が政権獲得に成功しようがはたまた失敗しようが、温暖化ガスが100倍排出されて朝青龍がモンゴルまで吹き飛ばされようが(私はこう平気で言い切れるくらいには排外的なナショナリスト兼国粋主義者だ)もうどうでもいいじゃないか、ミジンコ世界を逸脱して巨視的マグロ世界に悠久の時空の消長がうるわしく語られているのではないかと妄想した吉本氏と大塚氏の対談集であったが、結論としてはそうねえ中身は題名ほどには面白くなかったのであったが、これをしも羊頭狗肉とまで酷評するのは言いすぎであり、例えば吉本氏の「子供を殺された親が、もう俺は我慢がならねえから殺したほうの子供を殺しちゃう、って言って親がどっかで待ち伏せして刺しちゃったとか、僕はそれについては肯定的なんですよ」という発言に対しては私は全面的に賛同するどころか、もし自分の子供がそういう悲惨な目にあったなら近代の法制度や正義がどうであれおそらく10中8,9そのような直接行動に出るだろうことを予感しているがゆえに「おお吉本、いい歳とってもちっとも変わっちゃいねえじゃんかよお」と思わずやんややんやの声援を送りたくなるし、「リストラされた会社員がやるべきことは、そのような事態をもたらした会社や経営者自体をリストラすることだ!」という斬新な切り口には思わずあっとうならされるし、(でも到底実行不可能だと思うけど)、明治以降のわが国の代表的知識人は柳田國男と折口信夫であるが前者は所詮は随筆家に過ぎず、後者が日本語の祖先まで遡って「国語学編」で比較言語学を敢行しているのは凄い、と喝破しているところなぞはふむふむそういうものですかと拝聴できるが、ジャック・ラカンの受け売りで「女性はみな気ちがいであり、男性の本質は女性になることです」とうわごとのように口走ったり、「新約聖書のキリストがちょっと触ったらハンセン氏病が癒えたという箇所は信じきれないが、立てと言って手をかざしたら足萎えが立ったり、足腰の痛いのがなくなったというのは完全にありうると思っている」と語ったり、「麻原彰晃でもそれはできるでしょう」と断言するのみならず、「消費は生産である」と軽ーく強弁し、あまつさえ「農業がなくなったら天皇制はなくなる」とのたまうにいたっては「もう結構です、だいたいでいいじゃない」と思わずゴッホの絵のように黄色い装丁のこの本を遠くに投げやってしまったのだった。 正岡の子規が作りし月並みの句ほど世に好ましきものはない 亡羊

Friday, January 18, 2008

網野善彦著作集第6巻「転換期としての鎌倉末・南北朝期」を読む

照る日曇る日第89回


安達泰盛といえば蒙古来襲のみぎりに自らの首を賭けてひたすら恩賞を求めて一所懸命に戦った竹崎季長に破格の待遇と恩賞を与えた剛腹な御家人だった。しかし霜月騒動によって当時の悪党どもによって暗殺される(私のご贔屓の)悲劇の政治家である。

著者は「関東公方御教書」という論文のなかで、この執権政治とその興亡を共にし、兼好法師が「道を知る人」と評した安達泰盛への共感と偏愛を隠そうとしない。無味乾燥に堕しがちな叙述の中に、私情と詩情を平然と持ち込んで語る勇気と才知を兼ね備えていた稀有な歴史家であったことが、喪ってはじめて分かる網野善彦の魅力だった。 

多くの歴史家が否定的に論じた「悪党」や楠正成、後醍醐天皇についても著者の切り口は鮮やかである。古来諸説飛び交う「悪党」の本質を、非農業的な生業と不可分な関係にあり、遍歴性を持つ「職人」的武装集団と喝破したのは著者だけであろう。楠正成がその典型であるが、原始的な「荒々しさ」と著しい「有徳さ」とが切り離しがたく結びついて現れる状態、それが「ばさら」なのである。

鎌倉末期、繰り返される幕府からの弾圧にもめげず、自らの結びついた権門寺社内部の対立をたくみに泳ぎ回る「ばさら」たち。その権門内部対立が頂点にまで達したとき、赤松円心、楠正成、名和長年などの悪党たちの鬱屈した怒りと革命のエネルギーを見事に束ねたのが後醍醐天皇と(私のご贔屓の)護良親王だった。

なお正成の祖先は不明だが、本拠地金剛山の近くに平安時代から天皇家直轄の金剛砂(エメリーという鋼玉)を売買する商人がいたのでこれを正成に結び付けたくなると著者は告白している。

覆面して笠をつけ下駄を履く異類の「ばさら」たちを皇居に出入りさせ、非人たちを軍事力として活用し、あまつさえ現職の天皇でありながら自ら法服を着けて真言密教の祈祷を行なった後醍醐は実に異様な異常な王であった。

彼は元徳元年1329年に「聖天供」の祈祷を行なっているが、聖天供の本尊「大聖歓喜天」は有名な象頭人身の男女抱合、和合の像であり、男天は魔王、女天は十一面観音の化身といわれる。後醍醐天皇はここで人間の深奥の自然であるセックスそのものの力を自らの王権の力としたのである。(「異形の王権」P366) 

そして著者は、非人を動員し、性そのものの力を王権強化に用いることを通して日本の社会の深部に天皇を突き刺した後醍醐が、「その執念で」南朝を存続させ、室町時代から現代にいたる天皇制の運命を決した、と謎のような言説を吐いて憂き世を卒然とみまかったのであった。
我もまた穴で春待つ土竜かな 亡羊

Thursday, January 17, 2008

ことばには意味がある!?

♪バガテルop37

最近岩波書店の広辞苑10年ぶりに改訂され、新聞をメインにした第6版新発売キャンペーンが展開されているようだ。

ビジュアルに手塚治や桑田投手など意表をつくキャラクターを起用しているのはいいとしても、キャンペーンテーマのコピーが「ことばには意味がある」というのは、はてこれにはいったいどういう意味があるのか?と頭をかしげてしまう。
もしも言葉に意味がなければ、出目金に目玉はなく狸に金玉もなくなる道理だ。余りにも当たり前すぎる。意味のない言葉もあるだろうと嫌味のひとつもいいたくなるほど平板なコピーにかえって驚いてしまう。

これは昨日の燦鳥さんと違っていわゆるひとつの広告の言葉ではない。宣伝部のコピーライターではなく総務のおじさんがコクヨの便箋にメモした単なる説明である。私は流行に敏感に対応できる他の版元よりも、そんな時代遅れの岩波書店と改訳しない岩波文庫が大好きだが、美辞麗句以前の名辞を堂々と並べて見せる老舗の顧客無視の大胆さにはわれらもはや脱帽するほかはない。

余談ながら、石山茂利夫著「国語辞書事件」によればたしか「広辞苑」の元本は岩波茂雄が博文館から超安値で版権を買った「辞苑」であり、その「辞苑」は三省堂の金沢庄三郎の「大辞林」などの完璧なパクリであり、広辞苑の編者の新村出が同辞典の出版に際していかなる創造的な編集作業を行なわずにそのまま洛陽に押し出したことは彼の息子の新村猛がつとに告白しているところである。

だからということもないが、その後の「広辞苑」が大野晋などによって全面的に改稿されたとはいえ、私はあまりこの“日本を代表する大辞典”にはいっこうに信をおかず、「大辞林」や小学館の「国語大辞典」や北原保雄の「明鏡」、さらにはあらゆる日本語辞書の親本である大槻文彦の「大言海」を愛用している。

ちなみに「大言海」では昨日の「すっくと」の原意は「すくすくと」であり、直ク立チ上ガル状ナドニイフ語、と書かれています。


偲竜馬
こなくそと振り下ろしたる刀かな 亡羊 

Wednesday, January 16, 2008

スクッと立つ?

♪バガテルop36

毎年「成人の日」にはサントリーの広告が出る。確か以前は山口瞳氏がコピーを書いていて、一読なかなかのものだった。氏亡き後は伊集院静氏が担当しているが、年々その中身も表現も、ビールにたとえるとコクが失せ、切れ味が鈍くなり、全体の味が軽く、薄くなったような気がするが、それは書き手の個性の違いである以上に、この間の時代の変化によるものだろう。

年々ますます生きにくくなる時代の竿頭に立って、一人前の大人が一人前になろうとする若者たちに対して何をどう助言すればいいのか? それは誰が書くににしても至難の技であるに違いない。

ちなみに今年は、「平然と生きる人であれ」「強いをめざす君に乾杯」という伊集院氏特製のキャッチフレーズが作家の万年筆の手書きでレイアウトされているが、後者はいわゆる広告のコピーである。この広告は確かにサントリーの新年広告ではあるが、わたしが思うに、「強い」をめざす、などという広告そのものの言葉を使ってはいけない。なぜならこの広告は広告言葉をあえて排除する場所でしか成立しない変態的広告であるからだ。
元は広告のプロであった氏がこのような初歩的なミスを犯すとは意外であった。

ボディコピーもそれなりのことが縷々書き連ねてあるが、さほど強烈な説得力があるわけではない。調子に乗ってさらに重箱の隅をつつけば、文中の「スクッと立っている」は副詞をカタカナ書きにした方言ないし口語的造語と受け取れば必ずしも間違いではないが、あまり耳慣れない日本語である。

スクッと立つのはさしずめレッサーパンダくらいなもので、一人前の人間ならば「すっくと立っている」「すっくと立っている」あるいは「すくと」または「すっくり立っている」の方が人口に膾炙していてモア・ベター?ではないだろうか。
ちなみに「すっくと」は立ち上がるさまを形容するのが一般的だが、堂々と立っているさまもあわせて形容する副詞である。


♪一月も半ばを過ぎて仕事なし 亡羊

Tuesday, January 15, 2008

行方不明




♪バガテルop35&鎌倉ちょっと不思議な物語95回

家で寒さに震えていたらピンポーンと音がした。出てみる毛糸の帽子を被ったひとりの男が立っていた。私の近所の住人だ。
「年明けの今月の7日から自分の70代の母親が行方不明になっている。もし心当たりがあったらどんなことでも教えてほしい」といって手製のチラシを置いていかれた。

当地の行方不明者でいつも思い出すのはおよそ30年前の鎌倉花火大会のときに姿を消した戸塚の女子大生だ。当時早稲田大学の文学部に在籍していた彼女は、たしか専攻が考古学で、鎌倉の歴史古道やハイキングコースを頻繁に訪ねていたそうだが、8月10日の夜に由比ガ浜の海岸からふっつりと姿を消し、以来その行方はピーター・ウエアの映画「ピクニック・アット・ハンギングロック」の少女のように杳として知れない。

こういう言葉を安易に使いたくはないが、いわゆるひとつの神隠しにでも遭ったのであらうか。私が近くの里山を歩いている折など、ふとこの事件を思い出し、もしやここらで暴漢に襲われて谷間に転落したのではなかろうか、などと本人はもとより母独り子独りの母親のその後とあわせていつも気になっていた。

今回も地元消防団や町内会の人たち30名ほどがすぐに近くの山や川辺を捜索したのだが見つからなかったという。私も早速近所のハイキングコースをそのつもりで歩いてみたが、やはりなんの手がかりも無かった。

本人は足が悪いのでそれほど遠くにはいけないはずだが、事件発生以来すでに1週間以上が経過しているのでその生死が危ぶまれる。だれか悪い人間に誘拐されたり広域犯罪に巻き込まれた可能性がある。もしこの顔に見覚えがあれば、ぜひとも鎌倉警察署に連絡していただきたい。


♪粛々と死地に赴く銀の船 亡羊

Monday, January 14, 2008

君の瞳は6万6千ボルト

♪バガテルop34&鎌倉ちょっと不思議な物語94回

去年の暮れに兵庫県川西市の住民が携帯電話の基地局から放射される電磁波で耳鳴り、吐き気、不眠などの健康被害が出たとしてNTTドコモを訴え、ドコモ関西が撤去したという記事が出ていた。

携帯電話と健康の相関関係については諸説ある。WHO(世界保健機構)は、電磁波を浴びると頭痛やめまい、吐き気などを訴え、皮膚に赤みやチクチク感を訴える人がいることを認め、その国際電磁波プロジェクトの中で、携帯電話などの高周波電磁波についての調査を行なっており、その最終報告を早ければ来年に出すそうだ。

ところがわが国で電波行政をつかさどる総務省は、これらの症状を疾患とは認めず、あまつさえ科学的な原因調査もせずに「証拠はいっさい確認されていない」とそらとぼけているが被害者や国民不在の「あいかわらずの官僚的な態度」はいかがなものだろうか?

かててくわえて、今年に入ってNOAA(米海洋大気局)は太陽が新たな活動期に入ったことを示す焦点を観測したという。太陽活動はほぼ11年周期で変動しており、活動が活発になる今後数年はGPSの混乱や携帯電話、ATMの停止などさまざまな電子・通信機器に障害が起こる可能性があると警告している。

太陽から放出される電子や陽子などの太陽風によって、地上の送電線や電子製品の回路などに異常な電流が流れ、そのような障碍が起こるというのだが、下手をすると電磁波を上回る騒動になるかもしれない。

私が毎日のように散歩するハイキングコースの途上にある高圧電線塔も、
「今年はちょっとやばいんでねえの。あんたもあんまりおいらに近寄らないほうがいいよ」
と、心配そうに警告してくれた。

♪どすこい6万6千ボルト君の傍にはあまり近寄りたくない

Sunday, January 13, 2008

ある丹波の女性の物語 第41回 大売出し

遥かな昔、遠い所で第63回

 31年2月の問屋の招待旅行には、両親のすすめで夫婦揃って、修善寺熱海旅行に出かけた。

東京の結婚式から綾部の披露宴に帰る途中、強羅ホテル、奈良ホテルに宿泊して以来12年ぶりの事であった。三津港から眺めた富士山の姿が心に残った。帰路、鎌倉材木座に兄達を訪ね、寒い風の中、江ノ島見物をした。ついでに足を伸ばして、東京自由ヶ丘の姉の所で、次の兄や、妹達とも久し振りにあい楽しい時を過ごした。

 同年6月、27、28の両日には、「開業80周年記念半額大売出し」を行った。開店前から列が出来、朝日新聞京都版に写真入りで報じられる程の大賑わいであった。今では半額売り出し等珍しくないが、40年程前では画期的な催しであった。

正札そのままを半額にするのでレジは大変で、沢山の人に手伝ってもらったが、大盛況裡に終わった。

カレンダー 最後のページに なりしとき
 いよよますます かなしかりける 愛子

虫の音も たえだえとなり もみじばも
 色あせはてて 庭にちりしく  愛子

(深き朝霧の中)11月27日 長男立ち寄る
ふりかえり 手をふる車 遠ざかり
 やがては深く 霧がつつみぬ  愛子

Saturday, January 12, 2008

藤原伊織著「名残り火」を読む

照る日曇る日第88回

藤原伊織の最後の長編が本書である。著者はいったん雑誌の連載を終えてさらに推敲中に没したそうで、ある意味では未完だが物語はいちおうの結末には達しており、その全貌をうかがい知るうえでの問題はないだろう。

仔細に点検すれば、殺人の動機、プロットの強引さなどの瑕瑾はあっても、登場人物の人間性は見事にえぐられているし、なによりもストーリの吸引力が抜群で、巻末まで一気に読ませてしまう筆力はただものではない。現代の代表的な企業物サスペンス小説であり、恐らくは彼の最高傑作であろう。

作者の最大の武器は、玲瓏玉のごとき音楽性に富む文体である。それは、

「口笛を吹いていたことはおぼえている。なぜ吹いていたかもおぼえている。オーティス・レディングの『ドッグ・オブ・ザ・ベイ』。危うく命をおとしかかった人物のもとに向かう途中、口ずさむものとしてふさわしいかどうか。それは考えもしなかった。自然に口もとから洩れていた。前夜にさんざ聞かされたのが、その理由だったように思う」

という冒頭を一読してもあきらかに感得できよう。

この小説の主人公は四ッ谷駅から医大病院に向かって歩きながら無意識に口笛を吹いている。さうしてその数分後には瀕死の重傷を受けた親友の死に直面し、そこからこの長編ミステリー説がおもむろにスタートするわけである。

口笛だのオーティス・レディングだのドッグ・オブ・ザ・ベイだを引っ張り出し、「さんざん」とは書かず、あえて「さんざ」といなせに記す著者のダンディズムに注目されよ。なにやら村上春樹か欧米の人気作家を思わせる、そのおしゃれで軽快な筆致が、いきなり読者を「ジャージーな」世界に引きずりこむ。

しかしそれはいいとしても、この文章はどこか嘘っぽくはないだろうか。どことなく空虚ではないだろうか?

なぜならわたしたちの人性的直観によれば、ふつうひとは無意識に口笛を吹くことはないし、仮にもしそそうしていたとしても、どういう因果関係でその日そのときその曲を吹いていたかを考察する切実さを持たない。万が一持ったにしても、そのことは人性上も小説のうえでもまったく重要性を持たない。

にもかかわらず、日常の生活感覚からは嘘であり、小説の登場人物の内面性とも無縁な単なる修辞を、著者が大長編の死命を制する冒頭の一文にあえて掲げた理由はなんだろう?

それはひとえに読者サービスのためである。この文全体のベクトルは、自己にも、愛犬ムクにも、飢餓と戦争に苦しむ世界にも、天にも向かわず、読者に向かっている。自分の小説を愛してくれる読者だけに一直線に向かっている。さうしてそのことが、(あらゆる大衆小説と同様の)一定程度の軽薄さと品性のなさにつながっているのであらう。

ちなみに作文のベクトルが自分自身に向かうものを私小説といい、読者に向かうものを大衆小説といい、犬猫座敷わらしに向かうものを童話といい、金に目がくらむものを金権小説、賞や名誉に走るものをリスペクト小説、労働者人民に向かうものを「ああ堂々の社会主義文学」、世界に向かうものを世界文学といい、最後に(なにが最後かは私にもあなたにも分からないが)宇宙もしくは「天」に向かうものを純粋文学という。

天の下に独り座し、天があなたに命じて筆を走らせ、書かせてしまう文章。そこには読者も金も名誉もない。これぞ天知る地知る純粋文学の境地であらう。

どの文学が高尚でどれが劣等という分別はできないにしても、私がもっとも好むものは
この純粋文学である。童話にして純粋文学(宮沢賢治、漱石の猫など)、私小説にして純粋文学(小島信夫など)は十分にありうると思うが、大衆小説にして純粋小説(大菩薩峠?)というのはあまりないようであるなあ。

閑話休題。急いで表題作に戻ろう。

地上から数センチではなく、数インチ浮いた国籍不明の中空の領域こそが作者の得意な、また少しく無理無体な居場所であるが、著者はこの宙ぶらりんの苦しさに耐えながらとうとう最終ページまでたどり着き、さうして結局07年5月17日に俗塵に塗れた生からけざやかに離陸したのだった。

特報「A@A アート・アット・アグネス アートフェア2008」本日6時まで開催中!

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地下のマーガレットホール「ART@BASEMENT FLOOR」「ギャラリー・カウンタック」のコーナーへ急げ!!

東京神楽坂「アグネスホテル アンド アパートメンツ東京」
〒162-0825 東京都新宿区神楽坂 2-20-1TEL: (03)3267-5505FAX: (03)3267-5513

→ART@AGNES事務局公式HP(http://www.artatagnes.com/)

♪ホテルアグネスのアート展愛犬ムクの絵売れ残りたり 亡羊

Friday, January 11, 2008

ポール・セロー著「ワールズ・エンド(世界の果て)」を読む

ポール・セロー著「ワールズ・エンド(世界の果て)」を読む

照る日曇る日第87回

生まれてきて済みません、だの、ここはどこ、私は誰?といった違和感、場違い感は誰しもが人生に懐く感慨だが、ポール・セローの場合は筋金入りだ。おそらくは生まれながらにこの世界に対する複雑なねじれを感じつつこれまで生き延びてきた人なのだろう。

アメリカのマサチューセッツに生まれ、1963年に良心的反戦主義者として平和部隊に入り、アフリカに派遣されてマラウィとウガンダで英語教師をし、ケニアで知り合った英国人女性と結婚して3年間シンガポールで教職についたのちにロンドンに住むという彼の経歴ひとつとっても、あるいは本書に収められた9つの短編のどれを読んでもそのことが強烈に感じられる。

表題の「世界の果て」ではアメリカを引き上げてロンドンのワールズ・エンド(キングズロードに実在する地名)に移住した夫がようやく見出したはずの安住の地で突然見舞われる身震いするような災厄が描かれ、「緑滴る島」では二〇になるやならずで妊娠した、させたニューヨークの若いカップルが、灼熱の地プエルトリコに逃げ出し、サンファンのホテルでボーイをしながら暮らすうちにお互いの愛もさめ、ますます深刻な事態に陥る話だし、「真っ白な嘘」はボストンからアフリカにやってきた男の全身の皮膚から新種のハエの幼虫がぞろぞろ湧いて出るという、まるで悪夢のような、しかも実話である。

このようにセローは私たちがなにかの拍子に陥るかもしれない日常生活の不気味な落とし穴や不条理の裂け目を恐ろしくリアルに描写するが、だからといってどうこうするわけではない。あたかも「とかく世間は昔からこんなものですよ」とでもいうように、主人公も読者もその絶望的な状況に置き去りにして、あっというまに悲喜劇の現場から立ち去るのである。

 ポール・セローほどクールな作家は珍しい。

暗黒層を掘れど光明現れず 亡羊

Thursday, January 10, 2008

メンズウエアの現在

ふあっちょん幻論第6回


現在の小売業の市場規模はおよそ133兆円、そのうちファッションの市場はテキスタイル、アパレル、身の回り品を含めて約11兆円である。

さらにその内容を見ると婦人6兆、紳士3兆、子供ベビーなど1兆円、という大雑把な比率であるから、やはり主力はなんといってもレディスということになる。それもマスコミなどで話題になるのは外資系の婦人服や雑貨、時計、アクセサリーなどに限られ、国産の紳士服などは長らく氷河期の低迷を続けてきた。

事実メンズ市場は15年連続の前年割れに喘ぎ、中長期的にはメンズ市況の展望は暗い。
国を挙げてのクールビズ、ウオームビズ運動は多少の需要増に繋がったものの、これから団塊世代の一斉退場がスーツの売り上げを大きく奪うだろう。

メンズ専門店のアオキは店名をメンズプラザ・アオキからAOKIに変更して婦人子供服を強化。家族連れの取り込みを図っているし、青山商事なども将来はメンズ比率を5割以下に引き下げようと計画している。

しかし最近の伊勢丹メンズ新館のリニューアルはメンズウエアの昨対300%増につながり、婦人服が不調のアパレル大手も樫山の紳士服売上が久しぶりに昨対増に転じるなど一定程度の回復を見つつある。レディスでヒットした美脚&脚長パンツなどのメンズ版投入がそれなりに実った成果であろう。

もうひとつの要因は、シルエットの根本的な変化である。婦人服では80年代に全盛であった肩パッドを基軸にしたゆったりシルエットが流行遅れとなり、90年代前半にはボディにぴったりフィットするスリムなシルエットの時代がとっくの昔に訪れていたのだが、メンズの世界ではそのシルエットの導入がおよそ10年の長きに渡って遅れ、(私はこれを「失われた阿呆馬鹿メンズの10年」と名づけている)遅れた代わりにナロウ&フィット革命の進行がレディスよりも激烈で、その余波はいまなおヤングからアダルトのシルエット転換に及んでいる。

80年代後半の偉大なるジョルジョ・アルマーニのタック入りのゆったりシルエットは、2000年代に入ってはじめて世界の大衆から否定され、と同時にメンズデザイン業界は大いなる構造変革の時期に突入したのだが、それはわが国ではかの悪名高きライオン丸内閣の成立と期を一にしていたのである。

日本アパレル産業協議会によると、現在の成人男性の保有スーツは平均10.9着で、うち4.2着が不要になったと回答しているが、実はこれこそが女性の肩パッド入りドレスと同様のアウト・オブ・ファッション(シルエット変化による時代遅れ)物で、この偽不用品を強引に電機業界にあてはめると薄型テレビに対するブラウン管テレビに該当するだろう。

従ってもしアパレル業界がこのメンズ不況期を絶好の新規需要転換期ととらえなおし、新しいデザイン企画による新しいマーチャンダイジングとマーケティング戦略を発動すれば、禍転じて福=服となる絶好のチャンスかもしれないのである。

♪千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり

Wednesday, January 09, 2008

ぐあんばれ野茂!

♪バガテルop33

長い長い蹉跌と雌伏と忘却の時期を経て、われらがヒーロー野茂英雄が大リーグのマウンドにまもなく帰ってくる。

1月4日の彼のホームページによれば、彼はカンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約を交わし、3年ぶりにメジャーリーグに返り咲く大きなチャンスをつかんだ。

ロイヤルズといえば昨年日本ハムを2年連続でパリーグ優勝チームに導いた有能なヒルマン監督が大リーグで初めて采配を執るチームである。万年最下位ではあるが、もう上を見上げるしかない絶望的希望のチームだ。思う存分腕を振るえるに違いない。

野茂は06年6月に右ひじを手術し、07年にはかの偉大なる文学王ガルシア・マルケスゆかりのベネズエラのチームに入団し、成績は悪かったが、黙々とトレーニングに励んでいた。最初のチャレンジャー野茂が、最後にメジャーで勝ち星を挙げたのはデビルレイズ時代の05年6月27日の対ブルージェイズ戦だが、あの火の玉竜巻投球で大リーガーをきりきり舞いさせた野茂のことだ。体調さえ良ければまだまだやってくれるだろう。

昨日の夕刊によれば同じ39歳の桑田真澄投手もパイレーツと正式にマイナー契約を交わしたそうだ。ロッテのエース黒木は去ったが、私の大好きな大洋ホエールズの斉藤もドジャースのリリーフエースとして健在だ。(岡島よりこっちの活躍のほうが凄かった!)

そして私は、松坂や両松井、イチロー、福留、黒田などの旬の選手よりも、一度、二度、そして三度と一敗地にまみれた超ベテラン選手たちが、一球入魂、今生の思い出のように死力を尽くして投げ込むその雄姿と、かなうものならその泥だらけの頬に光る一掬の涙を見たいのである。


闘争を紛争と言い換える人が嫌いだ 亡羊

Tuesday, January 08, 2008

ある丹波の女性の物語 第40回 家族の写真

遥かな昔、遠い所で第62回

昭和30年頃のアルバムの中に、京都岡崎動物園で2匹の象をバックに、私達親子5人を撮った写真がある。これが私達5人揃って外出した、最初で最後の記念写真である。
その頃の小さい個人商店では、家族揃って遊びに出る事など珍しかったのである。

 その年に、鎌倉に住む夫の兄夫婦が、綾部を訪問してくれた。私は留守居役にまわり、みんなで天橋立へ案内した。男の子達は土産物屋で、「岩見重太郎の刀」を欲しいとせがんだが、兄嫁は、平和日本には刀は不要と、買ってくれなかったそうである。如何にも東京女子大出の姉らしいと思った。

 私達夫婦は兄達を京都まで見送り、共に観光バスで京都見物をさせてもらった。土地の物は却って名所には不案内で、東本願寺、清水寺、広沢の池、嵐山の風物は、私達の心を和ませてくれた。

 その頃、店は順調に売上を伸ばし、暮れの31日には用意した商品が、すっかり売り切れるほどであった。


―リエちゃんと山新さんへ行く
病みし身も 次第にいえて 友とゆく
 秋の丹波路 楽しかりけり 愛子

山かひに まだ刈りとらぬ 田もありて
 きびしき秋の みのりを思ふ 愛子

雅子さんご成婚
いのちみち 着物の山に つつまれし
まさ子の君は 生き生きとして   愛子     

Monday, January 07, 2008

島田雅彦著「佳人の奇遇」を読む

照る日曇る日第86回&♪音楽千夜一夜第31回


「佳人之奇遇」なら明治時代に元會津藩士の東海散士が書いた金髪美人が大活躍する政治小説だが、島田雅彦のそれは金髪や黒髪の美人が大活躍しこそすれまったく非政治的な泰平の御世の音楽小説である。

その音楽とは、私も大好きなモーツアルトの、しかもオペラの傑作である「ドン・ジョバンニ」だから、これを読まずして「なんの己のお正月かな」である。

本作では一夜サントリーホール(コンサート方式のオペラ?)で上演される「ドン・ジョバンニ」の公演を巡る、指揮者や、ドン・オッターヴィオ役のテノールや、そのマネージャーや、会場に集う老若男女の聴衆たちを続々と登場させ、公演のライブ本番をピークとする同時多発的ラブストーリーをグランドホテル形式でいわば映画的に描いている。文体も形式も、小説というよりはまるでシナリオのように要領よく上手に書かれ、エンディングなども鮮やかな切れ味だ。

それでここからは私の想像だが、この作家は現在お金に困っている。あるいは、もっともっとお金がほしいのだ。そこで今回、恐らく著者は映画化とその著作権獲得を期待しながらこれを雑誌に連載したのだろう。

しかし不幸なことに、まだその企図は実現されていない。でももし実現されたなら、お手軽なB級恋愛映画がまたひとつ誕生することだろう。
本質的な紋切り型であり、クリシェであり、よく言えばウエルメイドの音楽ネタ、クラシックネタ、新のだめネタによるスノビッシュな恋愛譚なのだ。

島田はデビュー当初の小説でもこのオペラの登場人物ドンナ・アンナを取り上げたが、ドン・ジョバンニに犯されたドンア・アンナへの執着がこの小説でも継続していて2人のアンナを登場させ、あまつさえこないだのザルツブルク音楽祭で話題になったアンナ・ネトレプコに対しても鋭いふくらはぎフェチ視線を飛ばしているのが、いかにも、な感じだ。余談ながら、大江健三郎もこのふくらはぎフェチで、彼の初期の小説に「自涜型のふくらはぎ」へのこだわりが熱く表明されている。

登場人物のマエストロはどこかハンガリー人のゲオルク・ショルティを思わせる。シカゴ響を世界最高のオケのひとつに育てたショルティは、指揮も見るからに精力的だったがあちらのほうもお盛んで、ある日曜日に自宅にインタビューに来た30歳以上年下の美しいBBCの女子アナと一目ぼれで再婚し、たちまち子をなしたのだった。
また死ぬ前年にサントリーホールにやってきたカラヤンの知られざる姿など、クラシックファンを唸らせる数々のエピソードが、このブレヒト流三文音楽小説の気の利いたスパイスとなっている。

最後のおまけだが、島田は平成の芥川である。しかも芥川と違って長編が得意だ。
されど島田は、可哀相なことに平成の小説家としてはあまりにも知が勝ちすぎるので、偉大な小説家の要件である「小説馬鹿野郎」にはけっしてなれず、そのために一流作家になれず、またそのために血が不足していると誤解されているほどだ。

卒璽ながら、私は芥川は長編が書けない自分に絶望して自殺したと考えている。

左耳の聴こえぬその歌手を音程悪しと罵りしわれ 亡羊

Sunday, January 06, 2008

「A@A アート・アット・アグネス アートフェア2008」へのご案内

すでにご存知の方も多いと思うが、今週土日の12、13日に「アグネスホテル アンド アパートメンツ東京」で「A@A アート・アット・アグネス アートフェア2008」が開催される。
東京神楽坂の瀟洒なホテルの一室をギャラリーに仕立て、選りすぐりの現代美術作品が多数出品されるのだが、最近のブームを反映して毎回超満員の人気である。

4回目の開催となる今回は、コミッティーによる選考を経たベテランギャラリーをはじめ、 オープンしたての若手ギャラリストが運営するギャラリーが数多く出展し、これまでにないにぎやかで新しい顔ぶれとなっているようだ。

今回最大の目玉は、地下の「ART@BASEMENT FLOOR」で出展される「ギャラリー・カウンタック」のコーナーである。入場したらまずは地下のマーガレットホールを目指そう。

ただし入場料が1000円で、しかも入場するためには、前もって事務局のHPにネットで予約が必要なので要注意。当日いきなり現地に行ってもだめだそうです。

→ART@AGNES事務局公式HP (http://www.artatagnes.com/)


ART@AGNES アグネスホテル アートフェア2008 概要

主催:A@A実行委員会  共催:株式会社アグネス 協力:株式会社ライゾマティクス
コミッティー:オオタファインアーツ/ギャラリー小柳/児玉画廊/小山登美夫ギャラリー/シュウゴアーツ/タカ・イシイギャラリー/タロウナス/ヒロミヨシイ/山本現代/レントゲンヴェルケ

会場 東京神楽坂「アグネスホテル アンド アパートメンツ東京」
〒162-0825 東京都新宿区神楽坂 2-20-1TEL: (03)3267-5505FAX: (03)3267-5513
会期:1/12(土)11:00~19:00
   1/13(日)11:00~18:00
両日ともに受付は終了の15分前まで
入場料:¥1,000


♪小便の泡で描きたる髑髏かな 亡羊

Saturday, January 05, 2008

G・ガルシア=マルケス著「迷宮の将軍」を読む

照る日曇る日第85回

ラテンアメリカ諸国の統一を夢見て1830年、サン・ペドロ・アレハンドリーナの別荘で47歳の生涯を終えた偉大な革命家であり、軍人であり、政治家であり、詩人であり、歌手でもあったシモン・ボリバールが本作の主人公である。

現在のベネズエラのカラカスに新大陸でも屈指の名家の末子に生まれたボリバールは、その生涯の大半を国内の敵対者や占領者のスペインと戦いながら、1819年36歳の暮れには現在のベネズエラ、コロンビア、エクアドルを統合した大コロンビア共和国を創設し、国会によってグラン・コロンビア共和国大統領に選出される。

しかしスペインのみならずアメリカ帝国主義に対峙する巨大な南米共和国連合を目指すこの理想主義者の美しい夢は、相次ぐ内外の分離主義者の敵対と裏切りと反乱に遭遇して次第に蝕まれ、政治的にも軍事的にも後退を余儀なくされ、彼の孤独な死によってついに完膚無きまでに潰えたかに見えた。

しかしその後欧州連合の成功に刺激されたMERCOSUR(南米南部共同市場)の大同団結は、ある意味ではシモン・ボリバールの理念と理想の21世紀版ともいえるだろう。ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラで構成されたMERCOSURは、人口2億5千万、GDP1兆ドルの実力を備え、アメリカ、カナダ、メキシコのNAFTA(北米自由貿易協定)国と熾烈な競争を繰り広げているのだから。

1989年に発表されたこの小説において、マルケスは長期にわたる取材と膨大な資料の渉猟、研究をつうじて実在した英雄の生涯の最期に肉薄し、「なぜシモン・ボリバールが死に至る病に冒されていたとはいえ、過酷な政治と現実との戦いから逃避し、すべてを放擲するようにして自滅していったか」という謎を明らかにしようとしたが、その執拗なまでのエネルギッシュな追求が、将軍の心の闇に潜む迷宮の秘密を解明することに成功したとは言いがたい。

しかしながら、この小説の冒頭で、

「古くから仕えている召使のホセ・パラシオスは、薬湯を張った浴槽に将軍が素っ裸のまま目を大きく見開いてぷかぷか浮かんでいるのを見て、てっきり溺れ死んだにちがいないと思い込んだ。それが将軍の瞑想法のひとつだということは分かっていても、恍惚とした表情を浮かべて浴槽に浮かんでいる姿を見ると、とてもこの世の人間とは思えなかった」

というくだりを一瞬でも目にした読者なら、たとえ途中で日本列島に大隕石が激突し、関東大震災が再来し、悪夢の2党大連合が実現し、原節子と山口百恵が2人そろってカムバックして仲良く共同記者会見したとしても、最後の最後まで読み続けようと願うに相違ない。


♪道野辺の木の葉を拾いて河に捨つ愚かな人と蔑むなかれ

Friday, January 04, 2008

森見登美彦著「有頂天家族」を読む

照る日曇る日第84回

この人の小説は初めて読んだが、とても面白かった。

かつて私がケネディ大統領が暗殺された年に暮らしていた京都を舞台に、主人公である狸の一族と鞍馬に住む天狗と人間の3つの種族が、表向きは人間の姿かたちをしながら現実と空想が重層的に一体化された悲喜こもごも抱腹絶倒の超現実物語が展開されていく。

具体的には実際にぜひ手にとって読んでいただくしかないのだが、血沸き肉躍るカタリこそが小説の本来の魅力であることをこれほど雄弁に証明しているロマンは、この糞面白くもない平成の御世にあって数少ないのではないだろうか?

著者の内部に血肉化された古今の文藻や和漢の典籍の素養、1300年の古都の歴史や土地の記憶が、若き魔法使いの杖の一閃によって縦横無尽に出現し、またたちまちにして消え去る疾風怒濤のありさまを迎え入れ、うたた呆然と見送っているうちにこの奇跡の平安幻想ゴシック小説は大団円を迎えるのだが、とりわけ私は絶体絶命のピンチを脱した狸一族が、狸特製の「偽の叡山電鉄」にうちまたがって丸太町から寺町通りへと全速力で乗り込み、木屋町界隈を風神雷神扇子の暴風で吹き飛ばして金閣、銀閣一家をやっつけるシーンなどは思わず手に汗を握ったことであった。

ちなみにかつて京都の東大路には重厚長大な市電の6番が高野、北白川まで走っており、猛暑の8月には百万遍の交差点から叡電前辺りで鉄路がぐにゃりと曲がっていたことを覚えている。叡電はいまもなお出町柳から叡山に向けて走っているが、本書の内容には叡電よりもこの豪奢な市電のほうがふさわしかっただろう。

それはともかく、金曜倶楽部の面々や冷たい美貌のヒロイン弁天、主人公の恩師赤玉先生、元許婚の海星などなど、すべての登場人物の造型もくっきりと心に残る。作者がいうように、「ああ、面白きことは良きことなり」。小説を読む醍醐味が、ここには満載されている。 
この本の背後に古のカルガンチュアとパンタグルュエルやトリストラム・シャンディの面影を感じる読者も多いことだろう。


♪誕生日に息子が持て来しフリージア母の心に永遠に馨るよ

Thursday, January 03, 2008

ケルアック著「オン・ザ・ロード」を読む

照る日曇る日第83回

東京の明治通りの千駄ヶ谷小学校の交差点をビクターの録音スタジオ、明治公園方向に下っていくと左側の交差点に河出書房がある。じつはこの近所に私が勤務していたかなり大きな会社があって、よくここまでランチを食べに来たものだった。

さうしてこの一度つぶれて新社になって再出発はしたものの、はかばかしいヒット作を出せないでいるこの小さな出版社を、「いまにつぶれるだろう、そのうちつぶれるだろう」と思っているうちに、あにはからんや私の会社のほうがどどーんと倒壊してしまい、私自身も弾き飛ばされたばかりか、いまやその社屋の跡形もない有様を見るにつけ、人の浮世のはかなさと私自身の読みの甘さとおろかさをふたつながらに痛感する次第である。

その、小さいけれど不倒翁の如きその出版社から、2度目のジャク・ケルアックの代表作が出た。前回は福田実の訳でタイトルは「路上」、今度は青山南の新訳で題名が原題をカタカナに変えた「オン・ザ・ロード」になったが、訳者や全集編集者の池澤夏樹ががたがたいうほど大きな変化があるわけではない。中身はおんなじジャク・ケルアックのロード小説である。一人の海のものとも山のものともつかない若者がなにかに憑かれたように何度も何度も北米大陸を横断する話である。

「ディーンに初めて会ったのは、妻と別れてまもない頃だった。ひどい病気から立ち直ったばかりのときだが、その話はあまりしたくないので、くたくたに疲れた別れのごたごたと、なにもかもおしまいだというぼくの気分が原因の病だった、とそのくらいにしておく。ディーン・モリアティの登場で、ぼくの人生のもうひとつの章、路上の人生とでも言えそうなものが始まったのだ」という出だしの文章を読んだだけで、村上春樹じゃないが、「やれやれ」という気分に駆られるのはなぜだろう。

なんだか分からないけれどここに人生に行き悩んだ若者がいて、その仲間もいて、ワアワア騒いでいて、突然春が来て、モンシロチョウなんぞがひらひら舞って、「そうだ、京都行こう」ならぬ「そうだ、サンフラン行こう」と喚いて無一文でヒッチハイクの旅に出る。あとはお決まりの女と酒と大冒険という、それだけの与太話である。

誰だって旅には出たいし、世界一週旅行をやりたいし、実際にやるやつはやっただろうが、そのやったリアルな話が誰にとっても面白おかしいわけではありません。同じ旅行記でもスイフトや芭蕉ならホラも交えて面白く読ませてくれるが、自分の体験よりは友人の実体験をぐだぐだ書き連ねただけの実録メモランダムが、現代の大方の読者を楽しませてくれるとは私には思えない。

なんでも英語の原文で読めば珠玉の名文であるらしいのだが、全然外国語を解しない私にはこの小説めいた駄文に1950年代という時代に生きたビート世代の生の記録以外の文学的価値があるとは到底思えない。当時の「KY」という時代の空気が彼に書かせ、時代が支持しただけの吹けば飛ぶよな一過性の文章であるよ。

訳者のあとがきによれば、ケルアックはアレン・ギンズバークの詩集「吠えるHowl」やウイリアム・バロウズの「裸のタンチNaked Lunch」も「ビート・ジェネレーション」という言葉そのものも命名したそうだ。彼の最大の手腕は、本文そのものではなく、「On the Road」というタイトル作りに存分に発揮されたのである。


♪おみくじを引かずに帰る鎌倉宮 亡羊

Wednesday, January 02, 2008

神津朝夫著「山上宗二記入門」を読む

照る日曇る日第82回

お正月といえば、なんとなく初釜やお茶の会などを思う。

もうずいぶん昔になるが、私は東京の裏千家のお茶の会の末席を汚したことがある。どんなものかと興味津々だったが、しかしてその実態は、書画や茶碗を無暗に褒めたり、その凡庸な茶碗をひっくり返して無名の銘をしかつめらしく確認したり、飲む作法にもいちいち勿体を付け、あまつさえ主人のくだらない俗悪至極のいわゆるひとつの人生訓を長々と垂れ、さらには菓子の切り方だの座り方だの、手水の使い方だのの瑣末な規則が次々に東海の粗野な蛮人(私のことです)の前途に入れ替わり立ち代り登場し、文字通り痺れが切れた私はほうほうの体でその「こていなお座敷」を逃れ去ったのだった。
以来表も裏も真ん中の千利休も千昌男も忌み嫌って茶席をごめんこうむっている。

ところが、かつて私が憎み軽蔑していた某国のトーリー党党首の獅子のごとき髪の持ち主が、「お茶なんて自分流に勝手に飲めばいいんですよ」と豪語しているのを聞いて、彼の主張と政策に対する全面的な敵対者であった私も、そのときばかりは珍しくも共感したことを覚えている。

たかがお茶である。くだらない能書きや儀式なぞ実力で粉砕して、ただぐいっと飲んじまえばいいのだ。

と思いつつ、この本を読みました。

さて山上宗二は天文13年(1544年)生まれの堺の商人兼茶人で、師匠である辻玄哉から乗り換えて兄弟子の千宗易(後の利休)に師事した。信長、秀吉に重用され一時は千宗易、津田宗及、今井宗久など堺の10人の会合衆の上位にランクされる茶道の指導的な役割を果たしたが、秀吉の小田原北条氏攻めの際に気狂い太閤の常軌を逸した怒りをかい、鼻耳を削がれつつ哀れ非業の死を遂げた。尊師利休の死に先立つことわずか一年であった。

宗二はおそらく当時唯我独尊の境地に酔っていた秀吉の行き方を批判的に直言してこのような極刑を受けたといわれているが、幸いにも日本茶道の黎明のありかを伝える一冊の本を遺した。それが「山上宗二記」で、茶の湯の歴史や茶室の変遷、古今の茶人の来歴、茶道具名物のその所有者と伝来、茶人心得などについて書かれた本邦最初の書籍である。

私は立花実山が元禄時代に編纂した利休直伝の茶道書「南方録」を一読して、これぞ茶道の極意と勝手に考えていたのであるが、著者によればこれは偽書であり、茶道の始まりは「南方録」が唱えるように足利義政ではないというので驚いた。その義政にわび茶を伝授した村田珠光が元祖であり、そのあとが大名茶の武野紹鷗、そしてそのさらにあとを否定的に継承したのが辻玄哉や千宗易、田中宗二という流れになるそうだ。

また著者によれば茶の湯は禅宗とはまったく無縁の存在で、茶道中興の祖紹鷗は浄土宗だし、そもそも禅院茶礼では釜を据えて客の前でお点前が行なわれることはないという。
 おまけに、幕末の大老井伊直弼に「茶湯一会集」という茶道本があり、ここで直弼は茶の湯の交わりは一期一会と喝破したことで有名だが、この考え方は「山上宗二記」の引用によるとものだということを、私は本書によっておそまきながら知ったのだった。

♪初日の出今年も市中に山居せむ

Tuesday, January 01, 2008

ある丹波の女性の物語 第39回 菊人形

遥かな昔、遠い所で第61回

 25年春には長男が綾部幼稚園に入園し、秋には綾部商工会議所主催の「綾部菊人形」が始まった。会場は町はずれにあるので、行き帰りの客で商店街は大賑わいであった。

催し物として「宝塚少女歌劇」の公演もあった。あんなに街中が活気にあふれた事は無い。長女がバレエで出演した事もあり、十年程菊人形も続いたが、時代も流れ移り、風水害後、復興する事も無く終わった。

 追々物価も上がって、売上金の勘定に百円札の束がかさ高くて困ったが、その頃千円札が発行され便利になった。

 26年には長男は小学1年生、次男は2年保育の幼稚園に入園した。
 長男は女の子のように可愛く、どことなく亡き母の面影があった。父はこの子を格別可愛がった。女の子も生まれたので私にかわる愛する対象物も出来、次第にやさしく、おだやかなおじいちゃんに変わり、孫達を方々の旅行にも連れて行ってくれるようになった。

 29年には末の長女も幼稚園に入園、私も育友会、参観と3人分掛けもちで忙しく、夫も商店街や自治会の仕事に追われるようになった。

 丹陽教会も戦後の基督教ブーム到来で信者も増え、父は京都府下の信徒会とか、「ギデオン」という全国的な実業家の信徒の集まりにも参加して活躍、小康状態の継母をも同伴するようになった。

村雨は 淋しきものよ 身にしみて
 秋の草花 色もすがれぬ  愛子

実らねど  なんてんの葉も  あかろみて 愛子