遥かな昔、遠い所で第69回
生涯病弱だった継母の死は、其の4年後の63年11月に訪れた。90歳を5日後にひかえた死であった。
夫の死後1年で創業100年余の店をとじ、殆ど床にある母と2人きりの暮らしが続いた。それでも気分の良い日には教会に出かける日もあり、継母は教会だけが生き甲斐であった。
継母も熱心な信者を父に持って教育されたが、家が仏教だったら、きっと熱心な仏教徒で終わったろうと思う。中々頑固な所もあったが、追々と私に心を開いてくれ、感謝して、生命の灯が消えるように召されて行った。
1人残された私も昔風で云えば古稀を迎えた。高血圧の私は、いつまで生かされるか分らないが、人に迷惑をかけぬよう終わりたいと願っている。
矢内原忠雄、内村鑑三等、本棚もあさってみたが、すでに老化した脳には消化する力はない。今は教理などどうでもいい。絶対者に全てをゆだねようと思う。私を愛してくれた天上の人々との再会も又、楽しかろう。
すべてが感謝である。子供達、孫達との想い出は、したためずとも、それぞれの心の中に沢山きざんでいるにちがいない。
私は父のように立派な足跡は残せないが、母のように、そして夫のように、いつまでも人の心の中に優しさを残す人になりたいと願っている。
衛星も はた関空も かかわりなし
狂える夏を 如何に過すや 愛子
草花の たね取り終えて 我が庭は
冬の気配 色濃くなりぬ 愛子
1995年4月
いぬふぐり むれさく土手を たづね来ぬ
小さく青き 星にあいたく 愛子
あとがき
ある丹波の女性、佐々木愛子は大正10年1921年2月22日に生まれ、平成14年2002年3月23日に81歳で亡くなりました。「ある丹波の老人の物語」は彼女の父の伝記でしたが、この「ある丹波の女性の物語」は1989年から1990年にかけて彼女自らの手で執筆された自らの半生記で、息子であるわたしが各回の文末に1975年頃から95年頃までの間に彼女が詠んだ80首余りの短歌と俳句をあわせて掲載しました。
母は、もちろん単なる下手の横好き、一介の市井の歌詠みでしたが、「歌は心が満ちればおのずから生まれるもの」というのが、生前枕草子や万葉集を愛した彼女の考え方でした。そのためか、どの作品も拙いながらも技巧にとらわれることなく、虚心坦懐に思ったまま,感じたままを素朴な調べに乗せて歌っている点が、身内贔屓の目には好ましく感じられます。
とりわけ最後の作品は、歳をとっても少女らしい夢を失わなかった故人の人柄が儚い虹のように美しくあらわれているような気がしてなりません。帰天した母もまた、きっと小さく青い星になって、いつまでも私たちを見守っていてくれることでしょう。
我が滅びのあと残されし子らのために何が出来るかを考えよ 亡羊
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