Wednesday, January 02, 2008

神津朝夫著「山上宗二記入門」を読む

照る日曇る日第82回

お正月といえば、なんとなく初釜やお茶の会などを思う。

もうずいぶん昔になるが、私は東京の裏千家のお茶の会の末席を汚したことがある。どんなものかと興味津々だったが、しかしてその実態は、書画や茶碗を無暗に褒めたり、その凡庸な茶碗をひっくり返して無名の銘をしかつめらしく確認したり、飲む作法にもいちいち勿体を付け、あまつさえ主人のくだらない俗悪至極のいわゆるひとつの人生訓を長々と垂れ、さらには菓子の切り方だの座り方だの、手水の使い方だのの瑣末な規則が次々に東海の粗野な蛮人(私のことです)の前途に入れ替わり立ち代り登場し、文字通り痺れが切れた私はほうほうの体でその「こていなお座敷」を逃れ去ったのだった。
以来表も裏も真ん中の千利休も千昌男も忌み嫌って茶席をごめんこうむっている。

ところが、かつて私が憎み軽蔑していた某国のトーリー党党首の獅子のごとき髪の持ち主が、「お茶なんて自分流に勝手に飲めばいいんですよ」と豪語しているのを聞いて、彼の主張と政策に対する全面的な敵対者であった私も、そのときばかりは珍しくも共感したことを覚えている。

たかがお茶である。くだらない能書きや儀式なぞ実力で粉砕して、ただぐいっと飲んじまえばいいのだ。

と思いつつ、この本を読みました。

さて山上宗二は天文13年(1544年)生まれの堺の商人兼茶人で、師匠である辻玄哉から乗り換えて兄弟子の千宗易(後の利休)に師事した。信長、秀吉に重用され一時は千宗易、津田宗及、今井宗久など堺の10人の会合衆の上位にランクされる茶道の指導的な役割を果たしたが、秀吉の小田原北条氏攻めの際に気狂い太閤の常軌を逸した怒りをかい、鼻耳を削がれつつ哀れ非業の死を遂げた。尊師利休の死に先立つことわずか一年であった。

宗二はおそらく当時唯我独尊の境地に酔っていた秀吉の行き方を批判的に直言してこのような極刑を受けたといわれているが、幸いにも日本茶道の黎明のありかを伝える一冊の本を遺した。それが「山上宗二記」で、茶の湯の歴史や茶室の変遷、古今の茶人の来歴、茶道具名物のその所有者と伝来、茶人心得などについて書かれた本邦最初の書籍である。

私は立花実山が元禄時代に編纂した利休直伝の茶道書「南方録」を一読して、これぞ茶道の極意と勝手に考えていたのであるが、著者によればこれは偽書であり、茶道の始まりは「南方録」が唱えるように足利義政ではないというので驚いた。その義政にわび茶を伝授した村田珠光が元祖であり、そのあとが大名茶の武野紹鷗、そしてそのさらにあとを否定的に継承したのが辻玄哉や千宗易、田中宗二という流れになるそうだ。

また著者によれば茶の湯は禅宗とはまったく無縁の存在で、茶道中興の祖紹鷗は浄土宗だし、そもそも禅院茶礼では釜を据えて客の前でお点前が行なわれることはないという。
 おまけに、幕末の大老井伊直弼に「茶湯一会集」という茶道本があり、ここで直弼は茶の湯の交わりは一期一会と喝破したことで有名だが、この考え方は「山上宗二記」の引用によるとものだということを、私は本書によっておそまきながら知ったのだった。

♪初日の出今年も市中に山居せむ

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