Sunday, October 31, 2010

モラヴィア&ゴダール監督の「軽蔑」を見る

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.41


男のさすらいの人生の頼りの綱は女性です。もしも愛する女性に軽蔑されたら、男なんてどうやって生きていったらよいのか途方にくれてしまうでしょう。漂流しながらおんおん泣いて、ついでに海に飛び込んで死んでしまうしかないでしょう。これがこの小説の主題です。おそらくモラヴィアの実際の体験と女性観がこのテーマに色濃く反映されていることは間違いありません。 しかしこの軽蔑はいつ、どこから女の心の中にやってきたのか。それがいまひとつ最後まで読者にはよくわからない。というのは男自身もよくわからないからで、主人公がわからないのは作者がわからないからで、モラヴィアは別れた元女房の謎をわかろうとしてこの心理思弁小説を書いたのですが、苦労して書いてみても結局はよくわからなかったのではないでしょうか。 モラヴィアは仕方なくホメロスの「オデッセイア」におけるオデッセウスとペネロペの関係をフロイト的に論じ、この単純明快な問題をペダンチックに取り扱おうとします。つまりペネロペに言い寄る男たちに寛容な態度を示したオデッセウスをペネロペは軽蔑していて、それが嫌さに7年もの間故郷イタケに寄り付かなかった。夫が妻の愛を取り戻せたのは求婚者どもをオデッセウスが皆殺しにしたからだ、などと唱えるのですが、こういう暴力をこの小説の主人公が振るえるくらいなら、そもそもこんな哀れな境遇に陥っているはずもないのです。 実は主人公があまりにも草食系のインテリゲンちゃんであるために優柔不断過ぎて、妻の危機を体育会系の男からちゃんと守ってやらなかった、というよくあるとってつけたような解説も飛び出てくるのですが、どうもそれだけでは説明できない事情がどこの夫婦にもあるのです。ともかくこの小説の無残な失敗は、最後のおちの付け方を見れば一目瞭然でしょう。 このモラヴィアの原作を、1963年に映画にしたのがジャン・リュック・ゴダールです。悩める脚本家には名優ミシェル・ピッコリ、辣腕プロデューサーにゴリラ男のジャップ・パランス、フロイト流の「オデッセイア」を論じる映画監督には名匠フリッツ・ラング、そして単純な精神と見事な肉体の持ち主であるヒロインにはブリジット・バルドー、という豪華なキャステイング、それにカプリ島の風光明媚をあざやかに駆使して、彼一流のわかったようでわからない演出を繰り広げているのですが、これこそモラヴィアの世界にもっともふさわしい「絵解き紙芝居」だったかもしれません。 けれども今回この映画を再見して何よりも驚かされたのは、室内のインテリアのおしゃれでシックなデザインと配色の美しさでした。おそらくゴダールほどファッションに敏感な映像作家はいないでしょう。(かの「ドイツ零年」を見よ!)
カプリ島のロケにしても青い海と空、白と茶色の別荘の絶妙な対比がラングの幻の映画「オデッセイア」を立派に顕現させています。ブリジット・バルドーを容赦なく全裸にひんむいて当時の彼女の唯一の魅力であった桃色の尻をもっとも効果的な美術意匠として使い倒したのもゴダールのお手柄でしょう。

そして映画のラストで、この物語の定型的な落とし前としてやって来る自動車事故も、1971年のゴダールの運命的なバイク事故を予見しており、また1963年の「軽蔑」のラストシーンは、来るべき1965年の傑作「気狂いピエロ」のランボオ的終幕の穏やかな前章曲となったのでした。


ランボオが海の彼方に見つけた永遠をラング=ゴダールの「オデッセイア」に見る 茫洋

Saturday, October 30, 2010

西暦2010年神無月茫洋花鳥風月人情紙風船

♪ある晴れた日に 第81回


渓谷の小道をゆくは人か魔かげに美は恐るべきもののはじまり

グーグルで検索すればわが家の玄関口に靴の並べる

10月の16日に蝉が鳴く誰かさんの誕生日を祝うがごとく

人格が毀損汚染されているからあらゆる制度が劣化する

とっくに括弧に入れられた純粋理性をゴキブリどもが喰い散らかしている

おシャモジは奇麗に洗ってくださいね何回言ってもあなたは聞かないけれど

台所の流しの隅の物入れに髪の毛が入った風呂水を捨てるのは止めてください

邯鄲鳴く桜ケ丘の駅前で旅行帰りの息子待ちおる

読んよし眺めてよし一粒で二度おいしいイソップ物語はいかが

読めども読めども滓ばかりこれがほんとの一巻の終わり

難しいことをもっと難しくその難しいことを浅はかにその浅はかなことを面白おかしくさわぐ世間よ

○○ちゃんほどいい子はいないと言ってみる

モーツアルトは何故殺されたのかとひと晩じゅう考えていた

胃にバリウムを満載しわれは真っ逆さまに墜落せんとする老戦闘機

バリウムを呑まされた蝙蝠の如く必死で鉄棒にしがみついている
あと何年こんな芸当に堪えられるのだろう

右からって言うとるのになして左から回るあんた日本語分かっとるんかね

胃検診上杉謙信遺賢臣意見親

白い庇に降る雪は過ぎし昔の思い出か

死に急ぐカマキリを道端に放つ

人間が2人居ればそれが演劇のはじまり

ああ人の世は魑魅魍魎の百鬼夜行

雲去領寂もう鳴かぬか蝉

一粒の栗の実の比類なき充実

小夜更けてここだも集く虫の音かな




仕事来い来れば困るでも来ないよりいい仕事来い 茫洋

Friday, October 29, 2010

ジャン=リュック・ゴダール監督の「ゴダール・ソシアリスム」を見る

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.40


今年12月に米寿を迎えるゴダールの最新作の試写を見ました。その原題が「FILM JLG SOCIALISME」というのだからちょっとした驚きです。

しかしゴダールに社会主義なぞというなまぬるいレッテルは似合わない。もしかするとはじめは資本主義に気押されて不人気な社会主義を応援しようとして企画されたフィルムかもしれませんが、この映画は、世界中で狂奔する金融資本主義の危機をアトランダムに摘出しながら、あらゆるイデオロギーを超越したゴダール哲学の詩的アフォリズムがさく裂します。

全体が3つの映像楽章にわかたれ、アレグロの第1楽章では、混迷する現代世界の住人たちをノアの箱舟のように満載したゴダールの「酔いどれ船」が、嵐の海に船出するという波乱の幕開けですが、その冒頭の海のシーンのなんという美しさでしょう!
今年のカンヌ映画祭の観衆の目をいきなりくぎ付けにしたというのもむべなるかな、です。

第2楽章は仏スイス国境近くのガソリンスタンドの周辺で生きる家族を主人公にして「EUの危機」がアダージオで歌われます。資本と労働、親子の世代対決はこんな寒村のすみずみにまで浸透し、私たちが慣れ親しんだ旧秩序を日々解体し続けているのです。

そして最後のアンダンテ楽章では、人類の始原を尋ねてエジプト、パレスチナ、オデッサ、ギリシア、ナポリ、バルセロナを放浪したゴダールの「酔いどれ船」が、さまよえるオランダ人船長になり変わって旧世界の死滅を宣言し、滅亡寸前の人類へのかすかな希望を表明しているような気がします。

「太陽を襲ってやる。太陽が襲ってくるなら」(本作品の箴言から引用)

頻出する美しい映像と世界を激しく定義する箴言は、あるときは異様なコラージュとして衝突し、またあるときは乱舞する音声と三位一体となって私たちの心身を直撃します。全篇これ箴言と映像のシュールなモンタージュ! これこそモラリストゴダールが、1988年から20年を費やした「映画史」で完成させた世界認識の弁証法なのです。

老いてますます意気盛んなJLG。次回作「Adieu au langage」に期待しましょう。


権力が法を蹂躙するなら、こっちが権力を蹂躙するまでだ ゴダール&茫洋

*「ゴダール・ソシアリスム」は、12月18日より東京有楽町TOHOシネマズシャンテで公開。11月27日からは「ゴダール映画祭」も開催されるそうです。

Wednesday, October 27, 2010

182人のイラストレーターが描く「新訳イソップ物語」を読んで

照る日曇る日 第384回

イソップ物語を手にするのはラ・フォンテーヌの「寓話」を読んで以来ひさかた振りのことです。しかもこの本には一話一話に東京イラストレーターズ・ソサエティに所属する有名な挿画家たちのイラストが添えられているので、それこそ一話一絵、読んでから見るか、見てから読むか、あるいは読みながら見るかという3通りの楽しみ方ができるというわけです。

イソップはキリストが生まれる600年くらい前の古代ギリシアのフリギアで奴隷として暮らしていた人ですが、彼が書き残したこの寓話を読むと、非常に教養があり人と世の中を見る目があったことがよく分かります。

中でも「「北風と太陽」(絵・水口理恵子)や「カメとウサギ」(絵・伊藤彰剛)、「セミとアリ」(絵・100%ORANGE)などは世界中であまねく知られていますし、マルクスが「資本論」の中で引用した「ここがロドス島だ。ここで跳べ」という名台詞が出てくる「ほらふき男」(絵・佐藤直行)や、毛利元就の3本の矢の教訓を盛り込んだ「兄弟仲が悪い息子を持つ農夫」(絵・成富小百合)、“パンドラの箱”の逸話の嚆矢となった「良いことが入った壺とゼウス」(絵・羽山恵)などは、文学史的にも意義ある記録といえましょう。

しかし著名な寓話といっても、要するに人間界に起こる悲喜劇を動物界に置き換えた「教訓話」なので、少し強引な例え話や意味不明な話も混じっています。
オオカミやヒツジやキツネやロバやカラスやイヌやウシやヤギやカエルたちが主人公のたとえ話を続けざまに読んでいくと、だんだん嫌になってくる。
そこで読み手を助けてくれるのがわが国を代表するイラストレーターのあの手この手のビジュアルである、ということもできるでしょう。

例えば、旅人が最初軍艦かと思っていたらなんと1本の流木だったという「旅人と流木」のイラストを担当した安西水丸さんは、「何ともつまらない話でしたが、少しでも面白くなればとおもいこんな絵にしてみました」と語っています。

 このように本書は、イソップ選手の調子が最悪のときでも、あんじょうエンターテインメントしてくれる素晴らしい絵本でもあるのです。


読んよし眺めてよし一粒で二度おいしいイソップ物語はいかが 茫洋

Tuesday, October 26, 2010

世界文学全集「短編コレクション1」を読んで

照る日曇る日 第383回

河出書房新社から出ている池澤夏樹個人編集にかかる文学全集の短編集を読んでみましたが、その大半が私にはつまらないものばかりなので、池澤という人はこれらの作品のどこがどのように面白くてピックアップされたのか尋ねてみたいと思ったほどでした。

しかし、全部駄目なぞという乱暴を言おうとしているのではありませぬ。

ノーベル賞作家、高行健の「母」は、功成り名をあげた作家が、海よりも深く、山よりも高い母親の恩義にいささかも報いることのなかったおのれの非道振りを鋭くえぐります。

作家はみずからの親不孝を、血涙を流しながら物語ります。

母親は遠い田舎で身罷り、息子はとうとうその死に目にも会えませんでした。しかしその冷酷で自己中な息子の態度は、私のそれの生き写しであり、他人事とは思えず読みながら亡き母を懐いて滂沱たりでした。

あとの19編から採るとすれば、金達寿の「朴達の裁判」、リチャード・ブローティガンの「サン・フランシスコYMCA讃歌」とお馴染みレイモンド・カーヴァーの「ささやかだけれど、役に立つこと」くらいのものでしょうか。

まことに期待はずれの情けない一巻でありました。


読めども読めども滓ばかりこれがほんとの一巻の終わり 茫洋

Monday, October 25, 2010

神奈川県立近代美術館鎌倉で「岡崎和郎展」を見て

神奈川県立近代美術館鎌倉で「岡崎和郎展」を見て

茫洋物見遊山記第43回&鎌倉ちょっと不思議な物語第230回


雨の日に無人の美術館で現代美術を眺めるのも乙なものだ。岡崎という人の経歴も作品歴も何も知らないままにしおだれる軒をくぐって古い建物に入ると、そこには純白の精神世界が沈然と繰り広げられていた。

壁面の至るところに真っ白な庇が築かれている。庇といっても家の庇ではなく、庇に似たような出っ張りである。そのあるものは人の眉のように見え、またあるものは鳥のように、またおできのように、部屋のフックのように、盲腸のように、しまいには不吉な生物のように思えてくる。白くシンプルな形状をした様々な庇が、多様で複雑な表情を湛えて看る人の心をあらぬところへいざなっている。

無意味の意味といえばダダイズムだが、実際にこれは一種の無意味な挑戦であり、らちもない夢魔であり、時流に無関係なアナーキズムでもある。よってそれらをじっと見ていると、次第に理性がかく乱され、気が狂いそうになるのが分かるが、その手に乗ってはいけない。平地に静かなる大乱を起こそうとするのが、つまりはそれが作者の狙いなのだろう。

そのくせ白い庇から眼を放せば、すかさず作者は見る者を突き放すからたちが悪い。庇コレクションに混じって、白いキューピーちゃんや怪獣ガメラが現れてホッとしたが、
「補遺の庭」と題された今回の展示会の意図など、私のような無知蒙昧の徒には七度死んでも分かるはずはないが、「庇シリーズに飽きたら、周りの美しい樹木と水をホイホイ見てね」というような意味でもあるのだろうか。

作者よりも、こんなチンプンカンプンの作品を私蔵する人物に興味を懐いた不思議な展覧会であった。


白い庇に降る雪は過ぎし昔の思い出か 茫洋

Sunday, October 24, 2010

神奈川県立近代美術館鎌倉別館で「保田春彦展」を見て

茫洋物見遊山記第41回&鎌倉ちょっと不思議な物語第229回


こないだ横浜で見たドガのデッサンは予想外につまらなかったが、鎌倉の別館で見た保田のそれはつまらないどころではなかった。

この違いはどこから来るのかと考えると、前者が制作の途次そのものの残骸としての未完成品であるのに対して、後者がまったき作品として見事に完成されている点にあるだろう。ドガは眼の修練ないし油彩への一課程、あるいは趣味の手習いとして踊子を凝視しているのに対して、保田の視線は女体を貫徹し、妻やモデルの頭や手足や胴体をバラバラに解体しながら、同時並行的にオブジェに再構築し、それらの部品を批評し、観賞し、スケッチし直しながら、ふたたび生身の女体に勢いよく回帰してくる。

かつてセザンヌやピカソが、このプロセスの往路に精力を注いだのに対して、保田は同じエネルギーを還路にも注いだ。だから彼の裸婦のデッサンは私たちをかくも惑わし、撹乱し、限りなく惹きつけるのだろう。その激烈な眼と精神の往還そのものが、保田芸術の真髄である。

最近の大病で死にかけた作者は、患者となった自分や医師や看護師などを同じやり口で荒々しくスケッチしている。これぞ恐るべき百鬼夜行のライブ・ペインテング。生と死と魑魅魍魎が手術室で乱舞している。


ああ人の世は魑魅魍魎の百鬼夜行 茫洋

Saturday, October 23, 2010

「井上ひさし全芝居 その六」を読んで

照る日曇る日 第382回


昔昔貧乏な学生時代の私は、主にNHKの舞台大工のアルバイトやビル建築の真夜中の肉体労働でかろうじて生活していました。NHKにおける泊まり込みの主な仕事は「歌のグランドショー」と「ひょこりひょうたん島」のスタジオのセッティングでしが、後者の人形劇の作家の一人が井上ひさしという人物であることを知ったのは私が見事リーマンになりおおせた後のことじゃった。

彼の本業である演劇はテレビでしか見たことがなかったが、宮沢賢治の父親を佐藤慶が演じた「イーハトーボの劇列車」や樋口一葉の薄幸の生涯を描いた「頭痛肩こり樋口一葉」にはいたく感動し、いずれは彼の劇作品をのこらず見物してみたいという希望を抱いていた矢先にこの春に急逝してしまった。

それでという訳でもないが先日は小説の遺作「一週間」を読み、続いてこの本をひもといてみたという次第です。

本巻に収められたのは「父と暮らせば」「黙阿弥オペラ」「紙屋町さくらホテル」「貧乏物語」「化粧二題」「連鎖街のひとびと」「太鼓たたいて笛吹いて」「兄おとうと」の八編であるが、どの作品も心血を注いで書きあげられた傑作ぞろいでありました。

この人の脚本は単に内容がすこぶるつきに面白いのみならず、舞台や人物の設定やセリフやら音楽の吟味が徹底的に具体的な上演に即して書かれていることで、これは普通の戯曲家が普通にやるレベルをはるかに超えている。小澤征爾が振る「白鳥の湖」ではプリマドンナがずッこけるが、これがモントーやゲルギエフならみんな安心して踊れるというようなことである。

「父と暮らせば」「紙屋町さくらホテル」は広島鎮魂劇であるが、いずれも丸山定夫や園井恵子のサクラ隊の全滅などを直接描かず、幕が静かに、あるいは急速に降りた直後に惨劇の実態がくっきりと像を結ぶ手腕は並みのものではない。

河上肇と吉野作造兄弟、林芙美子をそれぞれ題材とした「貧乏物語」、「兄おとうと」「太鼓たたいて笛吹いて」も内容豊かな力作であるが、私は敗戦直後の旧満州を舞台にした喜劇的な音楽劇「連鎖街のひとびと」がいたく心に沁みた。そこでは演劇が過酷な現実を無化しようとする途方もない夢が丸裸で転がっている。

思えばこの戯曲家は、むずかしいことをやさしく,やさしいことをふかく,ふかいことをおもしろく,おもしろいことをまじめに,まじめなことをゆかいに,ゆかいなことをいっそうゆかいに、という彼の願いどおりの作品を、後の世代のために書き遺したのであった。



難しいことをもっと難しくその難しいことを浅はかにその浅はかなことを面白おかしくさわぐ世間よ 茫洋

Friday, October 22, 2010

ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督の「イヴの総て」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.38

ベティ・デイビスとアン・バクスター火花が散るような競演に引きずられてあっという間の140分ですが、アメリカ演劇界の裏表と女の戦いをかくもスリリングに描きつくしたジョセフ・L・マンキーウィッツの脚本と演出が素晴らしい。

しかし恐らく背後でもっと大きな切った張ったの大芝居を演じているのが、20世紀フォックスに君臨した独裁的プロデューサーダリル・F・ザナックであることは、最初のクレジットの巨大さと、映画の中の「ザナックにやっつけられないように」というセリフひとつとっても明らかでしょう。当時のザナックは、マンキーウィッツの脚本を書き直したり、ジョン・フォードがせっせとつないだ映像をみずから切り刻んで平気で大幅に改編したりしていたのですから。

それにしても「8月の鯨」でリリアン・ギッシュと枯淡の演技を見せたベティ・デイビスの女に嫉妬丸出しの鬼気迫る怪演と、大女優役のベティ・デイビスを喰い物にしてのし上がっていくアン・バクスターの初めは処女の如く、終わりは脱兎の如き変身ぶりは見ごたえ十分です。

映画はそれだけでとどまらず、最後にかつてのアン・バクスターそっくりの女優の卵が出現して、はやくもその地位を伺うというきわめて印象的なシーンで終わるのですが、このときミルトン・クラスナーのキャメラは異常なほどの冴えを見せ、このワンショットだけでもこの映画は一見の価値があるでしょう。

もちろん私の御贔屓のマルリンモンローちゃんも、とぼけた味わいで友情出演していますが、しかしなんといっても「イヴの総て」は、「ザナックの総て」というべき映画だと私は思います。


胃検診上杉謙信遺賢臣意見親 茫洋

Thursday, October 21, 2010

バーンスタイン指揮NYフィルの「ベートーヴェン交響曲全集」を聴いて

♪音楽千夜一夜 第167夜

60年代にバーンスタインがニューヨーク・フィルハーモニックを指揮してCBSソニーに入れたベト旧録音です。

しかしどの曲をとっても、60年代のとれたての地生りのトマトのように新鮮で、滋味豊かな味わいがする。これならなにもやたらと重厚長大にもったいぶった後年のウイーン・フィルハーモニカーとの再録音をやたら尊ぶひつようはないのではないか、と、ついつい思わされました。

私がベト全でいちばん好きな8番と4番がいまいちなのは残念ですが、1番、2番、3番、5番、7番、9番などは何回聞いても心がジャン・クリストフになります。若くて元気が良い音楽なら誰でもやりますが、これは生きている喜びが感じられる音楽、未来を信じている人の音楽、そして聴く者にもそのように訴えかけてくるではないでしょうか。
晩年のバ氏には、もうそんな生命の躍動も未来の希望への幽かな架橋もありませんでした。

そのことは彼の最後の録音となった1990年7月のボストン交響楽団との7番(グラモフォン)を聴くとよくわかります。重病患者がぜいぜいと喘ぐような鈍重なリズムは、まるで指揮者があげる断末魔の悲鳴のようです。その音楽は、ゴルゴタの丘を重い十字架を背負ってよろめきながら登っていくイエスの姿と重なり、耳を覆いたくなるような痛ましさです。

1964年に高らかに奏でられたまぶしいほどの青春の輝きと、瀕死の音楽家がタングルウッドで歌った白鳥の歌の間に、一代の鬼才バーンスタインの生涯が凝縮されているのでした。

 
死に急ぐカマキリを道端に放つ 茫洋

Wednesday, October 20, 2010

ビリー・ワイルダー監督の「お熱いのがお好き」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.37


ビリー・ワイルダーの脚本と監督による快速調の喜劇です。貧乏ミュジシャンのジャックレモンとトニー・カーチスを女装姿にしたところが素晴らしい。芸達者なレモンとつい最近亡くなったばかりのカーチスの歯切れのよいやり取りが壺にはまって、われらただ口を開けて眺めているだけで面白いのです。

禁酒法時代のシカゴから、陽光まぶしいフロリダまでの女楽員同士の珍道中も楽しいが、そこへ到着してからの男女入り乱れての恋愛騒動とシカゴから追っかけてきたギャング一味とのすったもんだも見ごたえがあります。

いちばんの見せどころ聞かせどころは、女楽団のウクレレ奏者マリリンモンローがSome Like It Hotという唄をうたうシーンでしょう。今までのコミカルな流れが突然転調されて、なにやらしんみりした雰囲気に変わっていくのは、音楽のアドルフ・ドイッチの力というよりはモンローの不思議な存在感のゆえでしょう。

なんでも題名の由来となったSome Like It Hotというのはマザーグースの「エンドウ豆のかゆ」の一節,Some like it hot、Some like it coldから来ているそうです。エンドウ豆の熱いの冷たいのは人によって好き好きさ、という「たで喰う虫も好き好き節」ですが、これがラストのジョーE・ブラウン扮する大富豪がトニー・カーチスが男であってもわしゃ構わんよ、男でも女でもいいじゃんか、という当時としては革命的にアナーキーなオチにつながっていくわけです。

そんな次第なので、「お熱いのがお好き」は面白いは面白いが、脚本のタッチがいつもと違ってかなり強引かつヘビーで、正直見ていてちょっとゲンナリしてくる部分もありますなあ。


右からって言うとるのになして左から回るあんた日本語分かっとるんかね 茫洋

Tuesday, October 19, 2010

ポール・オースター著「オラクル・ナイト」を読んで

照る日曇る日 第382回

1990年の「偶然の音楽」、2002年の「幻影の書」と、作者の力量はますます上昇し成熟の度を強めてきたようです。ともかくどんな作品でもいっときも巻を措く能わざるプロットの面白さと思いがけない展開、そしてきわめて知的で上品で抑制された語り口、幅広い芸術と文化全般にわたる教養、ニューヨーカー風のユーモアとウイット、そして「いま、ここを」常に感じさせるコンテンポラリーな共生感覚こそ、この1947年生まれのアメリカ人らしからぬアメリカ人作家の特徴といえましょう。

オラクル・ナイトとは「神のお告げの夜」というような意味で、この小説はあちこちでただならぬ神託や神意の降臨の予感がうまく降って湧いてくるように仕掛けられています。

例によって内容に深く立ち入ることはしませんが、本作の主人公は、作者本人を思わせる作家です。そして第1の物語は当然この主人公の愛と仕事と生活をめぐって展開されていくわけですが、ここに主人公がポルトガル製の青いノートに書こうとする第2の物語が入れ子になって交錯し、読者は2つの物語をどうじに並行して享楽することができます。
 第2の物語の主人公は、ニューヨークの一流編集者に設定されていて、彼の元に届いた「オラクル・ナイト」という知られざる作家の作品が、第3の物語として他の2つの物語の基底に大きな影響を与えるとともに、本書の題名にもなっているのです。

そしてこの都合3つの物語の中に登場するのは、アメリカの有名作家や魔法の青いノートを売っている文房具屋ペーパーパレスの不思議な中国人、美しく知的なキャリアガール、薬にまみれた明日なきジャンキー、どんなインポも5秒でいかせてくれるハイチ生まれの絶世の美女等々。さらに頭上からなだれ落ちるコンクリート片、突然の愛、セックス、失踪、逃走、暴行、死そして詩等々。

この小説世界では、ないものがない、のです。


バリウムを呑まされた蝙蝠の如く必死で鉄棒にしがみついている
あと何年こんな芸当に堪えられるのだろう 茫洋

Monday, October 18, 2010

横浜美術館で「ドガ展」を見る

横浜美術館で「ドガ展」を見る

茫洋物見遊山記第41回&勝手に建築観光第40回


ポール・ヴァレリーの「ドガ、ダンス、デッサン」で知って以来、エドガー・ドガのデッサンをこの目でみることはわが年来の夢でしたが、ようやくその夢が横浜で叶えれらました。

1988年に丹下健三の手によってデザインされたこの美術館は、さながら巨大な石材置き場のように空虚で鈍重な建築物で、どこかオリエントの権力者の遺構を思わせるポストモダン風モダニスム様式は、当時の建築家と時代のあてどなさを雄弁に物語っています。

さてドガです。ドガはプロとしてはデッサンが下手なのです。下手と言って悪ければ苦手なのです。そして下手で苦手なくせにデッサンが大好きなのです。そのことは彼が好んで描いたバレリーナや浴婦の習作を見ると分かります。私に言わせれば、こんな悪戯描きは彼の手で廃棄すればよかった。少なくとも公衆の面前で公開する価値はありません。

むげに否定せずに拾い上げると踊子よりも裸婦の素描でしょうか。豊満な熟女が奇妙な姿勢で身体を捻じ曲げて背中を拭くポーズを背後からとらえた3つの連作スケッチは、彼の女性に対する異常な、あえていえば変態的な感受性を示すとともに、裸婦の具象が魔性を帯びた抽象に変異してゆくさまを期せずして記録していて鬼気迫るものがありますが、そういう恐るべきデッサンは他にはひとつとしてありません。

他の油彩、パステルはどうかと眼を転じてもほとんど観賞に耐えるような作品はなく、やはりあの有名な「エトワール」にとどめをさすということになるでしょうか。
この作品は他の踊子関連の作品と違って、登場人物の輪郭は完全に無視され、セピアを基調とするこの世のものとも思われない幻想的で美しい色彩の雲が、私たちをつかの間の夢想の彼方へと連れ去ります。
これはドガが固執するフォルムの正確さの追及を放棄した瞬間に誕生した奇跡的な抒情詩のようなもので、彼はその後「エトワール」を超える作品をついにキャンバスに定着することはできませんでした。

ではドガの最高傑作はどこにあるのでしょう?

それは会場の隅にグリコのおまけのように展示された躍り子と馬の彫刻のなかにあるのです。被写体に対して隔靴掻痒の状態でついに肉薄できなかったこの作家は、視覚が薄れゆく最晩年に至って、実物よりもはるかに美しく、生命力に満ち満ちた驚異的な芸術世界を完成していたのです。

会場の最後に並んだ15点の彫刻を目の当たりにして、私は、私のドガにとうとう出会ったのでした。

追記
ドガのアトリエに遺された彼の冬の帽子とスカーフとメガネのおしゃれなこと。これこそ古き良きパリの粋というものでしょう。彼の愛した踊子の小さなバレエシューズを見つめているとなんだかドガという男のことがはじめて分かったような気がしました。


ドガダンスデッサン ドガの愛したバレエシューズよ 茫洋

Saturday, October 16, 2010

カプシチンスキ著「黒檀」を読んで

照る日曇る日 第381回

アフリカと聞けば人類誕生の地と思う。エイズを思う。西欧の奴隷制と植民地主義の圧政を脱して60年代に活躍したガーナのエンクルマやコンゴのルムンバの雄姿を思う。パン・アフリカ主義とアフリカ合衆国構想、アジア・アフリカ会議を思う。

雄大な自然と野生の動植物たちを思う。キリマンジャロの雪に横たわる1匹のヒョウや百獣の王ライオンの恫喝にもひるまぬ真の密林の帝王ゾウの突進を思う。「アウト・オブ・アフリカ」で流れたモーツアルトのイ長調ピアノ協奏曲のアダージオを思う。

ランボーやニザンやカミュや、強烈な色彩と骨太の線で80年代のアフリカを象徴したムパタの絵を思う。そのムパタにあこがれてケニアに「窓を開ければジラフが見える」ホテルを建てた編集者を思う。彼は「君の息子もあそこへ行けばきっと良くなるよ」と言ってくれた。

アフリカはアルファでありオメガである。希望の端緒であり絶望の果ての地でもある。

そのアフリカを40年間にわたって駆け巡ったポーランドのジャーナリストがいた。
こよなく愛するアフリカについて、豊富な現地体験に基づいてルポルタージュしつくした本書には、そんな懐かしく、貧しく、残酷なアフリカの面影が、強烈な色彩のコントラストとともにくっきりと描き出されている。

ガーナ、タンガニイカ、ウガンダ、ナイジェリア、エチオピア、ルワンダ、スーダン、ソマリア、カメルーン、リベリア、セネガル、エリトリアを旅した大旅行家は、植民地支配にもとづく全体主義、人種差別主義、異質者への嫌悪、軽蔑、排除欲求は、西欧世界に登場する100年前にすでにアフリカで実行されていた、という。

そしてまた、「アフリカはなんて存在しない。国や地域によって全部違う」という。すぐれたリアリストの言葉だ。だから全体より細部が大切なのだ。
しかしにもかかわらず、アフリカという全体は存在し胎動している。
かつてのカダフィ大佐のよる「アフリカは一つ」も、岡倉天心による「アジアは一つ」も一つの大いなる虚妄であったが、では今日のEUやFTAやEPAはどうなのか。それは新たな戦いの始まりではないのだろうか?

世界は再び巨大な共同体へと再編され、過去のいずれの時代よりももっと巨大な相克が始まろうとしているような気がする。



10月の16日に蝉が鳴く誰かさんの誕生日を祝うがごとく 茫洋

Friday, October 15, 2010

小川洋子著「原稿零枚日記」を読んで

照る日曇る日 第380回



10月のある日の昼下がりのこと(金)

ちょうど私が小川洋子さんの「原稿零枚日記」の132ページを開いて、天然記念物の桂チャボが20メートルくらいは泳ぐというくだりを読んでいるときだった。

ぎゃあ、ぐああ、がああという、いままでに聞いたこともないけたたましい物音がした。バサバサという翼が空を切る音に混じって、グアア、グアアという凄まじい叫び声もしている。本から眼を放して東の窓を見ると黒い影が2つ3つ移動していた。急いで南のガラス窓を見ると、まっ黒な鳥が何匹も何匹も押し寄せては急降下していく。まるで戦闘機のようだ。

急いで隣の居間から外の道路を見ると、大きなトビがひとまわり小さいカラスの下腹部を鋭い爪で両側から挟みこみ、全体重を傾けて抑え込んでいた。そして急を知ったカラスの友軍が大声で叫びながら、次から次に現場に殺到してくる。その数は見る見る増えて都合4,50羽はいただろうか。川っぷちの狭い舗装道路の真ん中で時ならぬ禽獣の戦いが繰り広げられていたのだ。

下敷きになった漆黒のカラスは死んだように身動き一つしない。私が窓を開けると、トビはカラスの胴体に加えようとしていた嘴の一撃を止め、すっと伸ばした首を左に振って、鋭い目で私を見た。大きな黒眼が濡れたように光った。

そこへ黒の集団が右翼から全速力で突っこんだ。タカは獲物をあきらめて飛び立とうとしたが、右の爪が肉から抜けないので必死でもがいていたが、ようやく離陸に成功したところへ、今度は左翼から10数羽のカラスが急襲する。私と息子が呆然と見上げる秋の空で1対50の壮絶な空中戦が始まり、米艦載爆撃機ヘルダイバーと戦艦大和の戦いを思わせるそれは、たちまちにして終わった。

多勢に無勢のトビは東のひよどり山の杉林に逃げ込み、勝ち誇った濡羽色のカラス集団は霊園の小高い丘に陣取ってぎゃあ、ぎゃあ、ぐああと下品な勝鬨をあげている。

道端に残された薄茶色の羽根をつまみながら、私は思った。
弱肉強食は世の習い。いずれ人類が滅びた暁には地球はカラスとゴキブリの天下だろう。しかし私は、徒党を組んで敵に向かうカラスよりも、孤立無援のトンビを限りなく愛する。 

トンビはタカを生む。けれどもカラスはカラスしか生めないのである。(原稿零枚)



○○ちゃんほどいい子はいないと言ってみる 茫洋

Thursday, October 14, 2010

ミンコフスキー指揮で「ポントの王ミトリダーテ」を視聴する

♪音楽千夜一夜 第166夜


2006年8月、レジデンツホーフで行われたザルツブルグ音楽祭のモーツアルト生誕250周年記念のライヴ演奏です。

ローマと戦って戦死した、と聞いたポントの王ミトリダテスの2人の息子が戦場から飛んで帰って王妃に求愛し、王妃が長男とよろしくやっている最中に、ミトリダテスが「どっこい俺は死んじゃいないぜ」と帰国するところからこのオペラは始まります。 ラシーヌの原作からアイデアを得たトリノの田舎者サンティによる脚本はきわめてお粗末なものですが、天才の作曲の筆がそのイージーゴーイングさをどこか遠いところへうっちゃって、義務と愛との相克に引き裂かれた男女の苦悩を深々とえぐり出すにいたるさまはじつに聴きごたえがあります。  しばらく前に視聴したのはジャン-ピエール・ポネル演出、アーノンクール指揮ウイーン・コンツエルトゥス・ムジクスによる演奏でしたが、ポネルはモーツアルトの超若書きのこのK84の「オペラの試み」といってよい作品においても正統的な環境整備と劇的な表現を巧みに組み合わせて現代人の鑑賞に堪えるリアリザシオンを繰り広げていました。

今回はギュンター・クレマーという人の演出でしたが、ポネルとはまったく違うアプローチ。冒頭のギリシア演劇とモダンアートを融合させたパフォーマンスに見られるようにコンテンポラリーな今風の切り口が特徴です。お洒落な美術や照明や衣装とあいまってそれなりにこのオペラの持つ普遍的な悲劇性を温故知新しようと努力していたようです。


ミトリダーテがリチャード・クロフト、アスパジアがネッタ・オル、シーファレがミア・パーション、ファルナーチェがベジュン・メータ、イズメーネがインゲラ・ボーリンという中堅歌手たちもそれなりに健闘していましたが、特筆すべきは、ミンコフスキーの生き生きした指揮振りとそれに積極的に応えるルーブル音楽隊のモーツアルト演奏。
それはヘンデルを思わせるシーファレの第22番のアリア「恩知らずの運命の厳しさが」の長丁場のしのぎかたに端的にあらわれていました。

総じて中の上、あるいは上の下の部類に入る出来栄えといえましょう。

♪モーツアルトは何故殺されたのかとひと晩じゅう考えていた 茫洋

Wednesday, October 13, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第36回

bowyow megalomania theater vol.1


洋子と文枝はひきつった顔をして2人でひしと抱き合っています。僕も耳を手でふさいで

「こわいおう、こわいおう」

と叫びながら、不思議のお家のまわりを全速力で走りまわりました。

「よおーし、分かった。もういい。2人ともそこから降りてこいよ」

と公平君は、落ち着いた声で、興奮のるつぼで燃えたぎっていたのぶいっちゃんとひとはるちゃんに呼びかけると、2人は、かえでの巨木を両足でしめつけながら、ずるずると地上に降りてきました。

 やがて公平君は、大人のように腕組みをして、奥歯をぎゅっと噛みしめながら言いました。

「よおーし。じゃあこうしよう。みんなよく聞いてくれ。僕たちは、おまわりを傷つけるか、殺してしまった。おそらくはもう死んでしまっているだろう。でも僕たちは悪くない。あっちが先に攻撃してきたからこういうことになってしまったんだ。敵は今日から大部隊でこの不思議なお家めがけて押し寄せてくるに違いない。

 しかし僕たちは、ここでむざむざやられるわけにはいかない。僕たちは仲間をぜんぶここに集めて奴らと戦うんだ。のびいちとひとはるはもう一回星の子へ行ってみんなをここへ連れて来てくれ。岳と洋子と文枝は僕と一緒に警官隊を迎え撃つ準備をしよう。

さあ、かかるんだ!」




一粒の栗の実の比類なき充実 茫洋

Tuesday, October 12, 2010

サルトルの「嘔吐新訳」を読んで

照る日曇る日 第379回

昔この本を白井健三郎という人の翻訳で読みかけて、途中で放り出したことがありました。なんでも実存主義という哲学が大流行の頃でした。
今度手にとったのは鈴木道彦という人の翻訳ですが、こちらは当世風にこなれた訳語のせいもあってともかく最後まで読みとおすことができました。やれやれ。

しかしなんと評していいのかしらん、まったく訳の分からん変態的な小説です。
サルトル本人が色濃く投影されているロカンタンというやたら神経質な青白いインテリゲンチャンが、図書館のコルシカ人やスープの中の蟹を見ては吐き気を感じ、池に投じようとした小石に触り、公園のマロニエの根っこを見ては、そのガッツリとした存在感に圧倒され、自分自身のみならず外界、世界全体に大いなる違和と不条理(この言葉も大流行したな)を感じ、「われ思う故にわれ絶対的に存す」のデカルト的理解を脱却して、「われ存す、故にたまたまわれ存す」の実存的悟りに超絶的にエラン・ヴィタール(生命的飛躍)を遂げたと、まあ恰好よくいえばそういう哲学的小説なのでしょう。

しかし道行く人や下宿のおばさんやレストランのお姉チャンが己と異質な外部のモノに見えたり、都市や群衆やはたまた図書館の本をアイウエオ順に読んでいる孤独な独学者に吐き気を覚えたりするっていうのは、糞真面目な哲学青年の誰もが一時的に患う麻疹のような病理現象にすぎず、主人公がいったいどうして吐き気を覚えるのか誰にも分かりません。妊娠でもしているのでしょうか。

昔小林秀雄がこんな小説を書いたことがありました。小林を思わせる自意識過剰のインテリ青年が、川を渡るポンポン蒸気船に乗り込んだら、誰か同乗者がいて、自分も彼らも揺れている。それを見ているうちに、自分(小林)は彼らと自分が、同じリズムでポンポン揺れるのに堪えられなくなってきて、ヘドが出そうになる。

確かそういうくだりがありました。これを読んだ中野重治が「なにがヘドだか、全然分からない」と書いていましたが、当時のサルトルも小林とまったく同じ病気に罹っていたのでしょう。

だから私もこう言いましょう。サルトルよ、お前さんのもったいぶって繰り返す嘔吐とは何なのか、私には全然分からないよ、と。
嘔吐とは、高等遊民の唐人の寝言であり、世間知らずのぼんぼんの白昼夢に過ぎなかったことが、有名になってからのサルトルにはすぐに分かったはずです。

それゆえに、親の遺産で食べている30歳の青白きインテリ小僧ロカンタンは、フランスの小都市で大革命時代の貴族ロルボンの伝記を書こうとして果たせず、おまけに恋人アニーに振られて、Some of these days You`ll miss me honeyのレコードを聴きながらブーヴィルに別れを告げる。

というのが、この余りにも有名な実存主義小説のエッセンスなのです。



あにはからんやマロニエのぶっとい根っこに存在の実存を見つけたり 茫洋

Monday, October 11, 2010

月下美人のような妖しい芸術の花

月下美人のような妖しい芸術の花 「車谷長吉全集第1巻」を読んで

照る日曇る日 第378回

この巻では処女作「なんまんだあ絵」から平成年の「大庄屋のお姫さま」に至るまでの短編と中編をことごとく読むことができ、車谷長吉という不世出の作家の労作を読む楽しさというものを満喫させてくれます。

長編の代表作は「赤目四十八瀧心中未遂」と相場が決まっていて、それ以降の作品が生彩を欠くのに対して、短編と中編は予想に反して、近作ほど文学的価値がいや増していることに驚かされました。

著者が料理屋の下働きをしているときに知り合った青山さんの、恐るべき殺人の秘密を書きつづった「漂流物」や、著者の母親の人生観を赤裸々に描破しつくした「抜髪」における、さながら宮本常一の「土佐源氏」を思わせる一人騙りの名人芸は、2005年の「深川大工町」や、2006年の「大庄屋のお姫さま」において、一層豊かな広がりを見せながら、あらたな果実を収穫しているといえましょう。

「萬蔵の場合」「児玉まで」「神の花嫁」「忌中」「密告」における卓抜なストーリーテリングは、2005年の「阿呆物語」において、まるでシェークスピアの「ウインザーの陽気な女房たち」を思わせる極上の喜劇小説に結晶しています。

1992年の「鹽壺の匙」以来、長く苦しい創造の道を歩んできた車谷長吉は、ここに至って虚実皮膜の薄明の闇に誕生する月下美人のような妖しい芸術の花を、次々に咲かせようとしているようです。

虚心坦懐に本書を通読すれば、著者を指して平成のマンネリ私小説作家であるとする謬見なぞは、木端微塵に粉砕されることでしょう。

しかし作品を評するということのなんと軽薄にして残酷な営為であることか。作家が何十年も魂魄を禊ぎ、生身を削って彫琢した膨大な文字群をたった数日で速読して偉そうに断じるのですから。


       今宵咲く月下美人の彼方かな 茫洋

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第35回

bowyow megalomania theater vol.1

のぶいっちゃんとひとはるちゃんは、

「ちくしょう、おいらをあんなひどいめにあわせやがって。くそっ、皆殺しだ! 

だいたいわいらあを星の子みたいな地獄に入れっぱなしにしておいて一度も見に来ない親も親だ。

わいらあをトレーラーの中に3日間も放り込んでメシもろくろく喰わせなかった校長も教頭も主任も、みんなあろくでなしの連中ばかりだ。

あんな奴らは生かしておいても誰のためにもなりゃせん。あいつらもおまわりも大嫌いだ! 

みんなみんなぶっ殺してやる! 出てくる敵はみなみな殺せえ!」

と絶叫しました。

そうして公平君のベルトからピストルを抜きとると、2匹の猿のように真っ赤に紅葉したカエデのてっぺんまでするするとよじ登って、ドオーンと1発大空めがけてぶっぱなしました。

深い憎しみのこもった銃弾の轟は阿弥陀山の渓谷を殷々とゆるがせ、木々の梢を越え、上空をゆるやかに旋回する鳶を驚かせながら、三浦半島の彼方に消えていきました。



人格が毀損されているからあらゆる制度が劣化する 茫洋

Saturday, October 09, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第34回

bowyow megalomania theater vol.1


あっちか、こっちか、戦うか逃げるか、右か左か、そんなことどうでもいいじゃないか。無理矢理どっちかに決めるほうがおかしいんじゃないか。

それに右のほっぺたを叩かれたら、左のほっぺたをどうして叩かなければいけないのだろう。

誰かが殺されたら、その代わりに誰かを殺さなければいけないのだろうか。

もし僕が殺されても、死んだ僕が、僕を殺した奴を殺したいかどうかはわからないはずだ。まして僕以外の人間にそれがわかるはずはない。

もし殺したければ死んだ僕に殺していいかどうかをよく聞いてから殺せばいいのだ。

と僕はいつも思っていました。だから、その時も、

「そんなこと急に開かれても、どうしていいか、僕わかんないおお」

と公平君に答えました。そしたら公平君は、

「ふつうはどっちでもいいんだけどね。でも男ってもんは、一回は右か左かどっちかに決めなくちゃいけにときがあるんだよ」

と言いました。



とっくに括弧に入れられた純粋理性をゴキブリどもが喰い散らかしている 茫洋

Friday, October 08, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第33回

bowyow megalomania theater vol.1


「第7機動隊のおまわりさんは、きっと死んでしまっただろう。

だからきっと彼らは、もうすぐここまで攻めてくるだろう。

団体で徒党を組んでやって来るだろう。

だから僕たちも、ここで命懸けで戦うか、いったん退却するか態度を決めなければならない」

公平君は、厳しい顔つきで、そう言いました。それから突然、

「岳、これから君はどうするんだ?」
 
と公平君は、僕に向かって問いただしました。

しかし僕はどうしてよいのやら分かりません。
こっちへ行くのがいいか、あっちへ行くのがいいか、と聞かれても、僕はいつもどっちへ行ったらいいのかてんで分からず、いつも誰かのいいなりになってきたのです。つねに付和雷同してきたのです。

ふだんからそういう状態なのに、こんな非常事態になって、いきなり

「君はどうするんだ?」

などと聞かれても答えられるわけがありません。こんな僕はやっぱりうごうの衆なのです。



ふりさけみればいきなりいがぐりおちてめにささりしこせきくんどうしているか 茫洋

Thursday, October 07, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第32回

bowyow megalomania theater vol.1


11月5日 晴れのち雨

ひと晩たつと公平君ものぶいっちゃんもだいぶ元気を取り戻しました。

大勢の警官隊にふくろだたきにあっているののぶいっちゃんを見た公平君がピストルを振りかざして突入していったら、いまわりは一斉にあとずさりしてから、またじりじりと2人を包囲してきたので、公平君がピストルの安全装置をカチャリとはずし、

「くそっ、ばかあ、のぶいっちゃんをはなせ、なさなないと一発お見舞するぞ!」

と叫んだら、おまわりたちはたんなるおどかしだと思ってあざ笑っていよいよ包囲の輪をちぢめてきたので、あせった公平君は一瞬逃げ出そうかと思ったのでしたが、

「いやここで逃げ出したら男がすたる、男の一分に申し訳がない」

と思い返して、

「にゃろめ、おまわりなんか消えろ!」

とジュゲムジュゲム心に念じつついいかげんに引き金を引いたら、

「ズドン!」

という鈍い衝撃音が走って、いちばん先頭の「第7機動隊」とワッペンにかいてあるおまわりのそのワッペンのところからいきなり鮮血がほとばしり、若いおまわりが朱に染まって地面に倒れ、その他のおまわりたちは蜘蛛の子を散らすように阿弥陀山の急斜面を賭け下って雲を霞と逃げて行ったそうです。

「血まみれのおまわりは可哀想だったけれども、もはやどうしようもなくって、仕方なくのぶいっちゃんを助け起こし、うんとこさと抱きかかえて小川のところまでやってきたけれど、とうとう力尽きて倒れてしまったんだ」

と、公平君は弱しい声で物語りました。


小夜更けてここだも集く虫の音かな 茫洋

Wednesday, October 06, 2010

ビリー・ワイルダー監督の「情婦」を見る

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.36

「情婦」という映画を観ました。これはアガサ・クリスティ原作の探偵ものですが、原作のトリックも凄いが、どちらかというと脚本・監督のビリー・ワイルダーのほうがもっと凄い。

最初にてっきり悪人と思った奴が途中で善人に変わってしまい、そして最後に思いがけないどんでんがえしが待っているという立体的な仕掛けを、この才人はタイロン・パワー、マレーネ・デートリッヒ(驚異の2役!)という超大物俳優を「駆使して」、はじめは処女の如く終わりは脱兎の如く息もつかせずにエンジョイできる極上の娯楽映画に仕上げている。

特筆すべきは老弁護士ウィルフリッド卿を演じるチャールズ・ロートンで、この病み上がりの太っちょ弁護士のいかにもイングランドな人柄の描出や、老看護婦や執事とのユーモラスなやり取りが、殺人事件の奥深い暗闇を照らす鮮やかなコントラストをなしていて見事である。

こういうちょうど2時間の人情サスペンスドラマなら、映画でもテレビでも毎日でも見たいと思うのですが。




邯鄲鳴く桜ケ丘の駅前で旅行帰りの息子待ちおる 茫洋

Tuesday, October 05, 2010

新国立美術館で「没後120年ゴッホ展」を観る

茫洋物見遊山記 第40回


またゴッホか、と思いつつも、ゴッホと聞けば万難を排して駆けつけざるをえません。今回のゴッホはオランダのファン・ゴッホ美術館とクレラー・ミュール美術館からの貸し出しで油36点、版画・素描32点が同時代の有象無象と並んで展示されていました。

ゴッホといっても私は今回どっさり並べられていた初期の作品、たとえばミレーの農夫やジャガイモを食べる人なんかは見てもつまらないし、まったく評価もできません。
やっぱり凄いと思えるのはゴッホが狂ってからの最晩年の作品、具体的には1889年と翌1990年の画家の没年に、アルルとサンレミとオーヴェール・シュル・オワーズで怒涛のように制作された鬼気と生命力がみなぎる異様な作品群です。

気違いに刃物とはよく言ったもので、これらの遺作はすべて狂人の作品です。アルスの精霊が占拠した気違いの右手がキャンバスに激しくぬりたくったお筆先が、気違いにさえなれない私たち凡人の精神をこうまで揺さぶるのはいったいどうしてだろう、といつも不思議に思うのです。

今回まず私の眼と心をわしづかみにしたのはアルルで描かれた「ある男の肖像」でした。青緑の光彩を背景に大胆な黒で隈どられた暗黒街の顔役のニヒルな表情は、凶悪でありながらも美しい。こんな矛盾に満ちた肖像画を描いたのはゴッホだけでしょう。

そうして誰もが言葉を失って画面に魂を吸い取られてしまうほかにどうしようもないのがサンレミとオーヴェール・シュル・オワーズにおける恐るべき遺作です。

画家が退院を許されてはじめて筆をとった「サンレミの療養院の庭」に立つ樹木の奥には天使たちが乱舞しているように無数の色彩が氾濫していて、私たちの脳髄を直射します。ほら、あれらのお筆先の跡は、いままさにキャンバスに触れられた瞬間のようにキラキラと輝いているではありませんか!

そして「蔦の絡まる幹」「渓谷の小道」「夕暮れの松の木」「オリーブ畑と実を摘む人々」「草むらの中の幹」「アイリス」と続いて、どこか東洋的な諦観を感じさせる「麦の穂」で静かに告別の幕を閉じるこの偉大で異様なコレクションは、本展の圧巻でした。

美は恐るべきもののはじまり、とはまさにこういう一期一会の出会いについてのみ使うべき表現なのでしょう。没後120年だそうですが、ついさっき死んだばかりのゴッホは、いまも激しく生きているのです。


渓谷の小道をゆくは人か魔か げに美は恐るべきもののはじまり 茫洋

Monday, October 04, 2010

演劇集団「円」公演「シーンズ・フロム・ザ・ビッグ・ピキュチャー」を観て

茫洋物見遊山記第39回

ある国のある地方のある町村を描こうとするとき、その共同体や部落に住んでいるあれやこれやの任意の人物にフォーカスして、その人生の苦しみや喜びを伝えることができたら、私たちはその共同体や部落について少しは理解できたような気持ちになるのではないだろうか。

1961年に北アイルランドに生まれた劇作家オーウェン・マカファーティが「シーンズ・フロム・ザ・ビッグ・ピキュチャー」でやろうとしたのも、そういうことではなかったか。彼はおよそ10組20人余の老若男女を2時間の舞台に投じて、ベルファストといういささかややこしい町の24時間を群像劇で描こうとした。

たとえば小さな雑貨屋では老苦と病死が迫り、チンピラの万引きが老夫婦の頭を痛めているし、大きな食肉工場では労働者代表の青年と社長秘書が倒産におびえながら給料の工面で追い詰められている。

しかも青年はいわゆる良妻を持ちながらパブの女性オーナーと不倫し、社長秘書夫妻は(おそらくは宗教戦争の犠牲となった)息子の遺体を長年にわたって探し求めている。長引く不況で町に活気はなく、未来に絶望した若者たちの中にはコカインに手を出す者もいる。

そしてその薬で金儲けを企む怪しい組織の男たちや、愛と生きがいを求めながら虚しい心を抱いてひたすらパブでアイリッシュビールを飲み続ける男や女たちの切ない溜息は、ここベルファストのみならず、世界中の私たちのものであるだろう。

しかも向こう三軒両隣に棲息する人々の喜怒哀楽は、ワンシーン・ワンカットのドキュメンタリー映画のように非情かつ断続的に提示されるために、黄昏の町に生きる人々の陰影がよけいに深くなっている。そしてこの手法の開発にこそオーウェン・マカファーティの独創が発揮されているのだろう。

1組の男女が向き合えばそこには独自の言葉があり、次々に放たれるその言葉が切実な物語を紡ぎ、紡がれた小さな物語はまた別の物語を生み、ジャックの豆の木のようにつながり、やがて町を覆い、空の果てまでも連なり、いつのまにか誰も切断できない勁く温かい絆のような塊にふくれあがっていく。古くて新しい「演劇」がここにある。


朝日が昇って夜の闇が降り、やがてベルファストの1日が終わる。
明日は明日の風が吹くだろう。
これはもしかすると予定調和のハッピエンドを拒否する21世紀版「フィガロの結婚」なのかもしれない。



訳 芦沢みどり/ 演出 平光琢也 新宿紀伊国屋ホールにて10月10日まで上演中



人間が2人居ればそれが演劇のはじまり 茫洋

Saturday, October 02, 2010

塩野七生著「絵で見る十字軍物語」を読んで

照る日曇る日 第377回

ローマ史を完成させた著者が次に取り組んだのが十字軍物語です。

その予告編とでもいうべき本書ではギュスターヴ・ドレの精巧なモノクロ版画を紹介しながら、11世紀末から13世紀後半に至るまで聖地エルサレムの回復をめざして全8回にわたって繰り広げられた十字軍の歴史をかいつまんで紹介しています。

十字軍とは西欧キリスト教世界が総力を挙げて取り組んだイスラム教との武力闘争でしたが、彼らは一時は聖地奪還に成功したものの結局は全面的な敗北を余儀なくされ、暴に報いるに暴、狂信に報いるに狂信という非寛容の一神教のおろかさ、あほらしさを天下のもとにさらけだす結末を迎えたわけです。

しかし当の当事者たちはあれから何世紀も経過したというのにちっとも懲りずに、そのおろかさ、あほらしさの遺伝子をいまなお中近東をはじめ世界各地で引き継ぎながら果てしない死闘を繰り広げているといえましょう。


全8回の十字軍の姿形はそれぞれが異なっているのですが、やはり印象に残るのは隠者ピエールの「神がそれを望んでおられる」のキャッチフレーズのもとで開始された第一回の十字軍。ピエールに従って行軍するだけで「すべてを免罪にする」と請け負ったローマ法王の悪乗りがこの暴挙を後押ししたことは間違いないでしょう。

フランス国王ルイが捕虜になったり宮廷の美女がイスラム教徒に犯されたり、何百万の戦士が虐殺したりされたり、暴挙といえばこれほどの暴挙はありませんが、獅子王リチャードやサラディンの奮戦など数多くの英雄が大活躍したことも事実です。

回数のうちには数えられていませんが、第五次の前に実行された少年少女十字軍ほど悲劇的なものはないでしょう。フランスとドイツを中心に始まった自然発生的な子どもたちの大行進は南仏の港に向かうまでに生き倒れになったり、騙されて人買いに売られたりして悲惨な末路を迎えたのでした。

この人の日本語は相変わらずの悪文ですが、今回は短いので助かりました。


台所の流しの隅の物入れに髪の毛が入った風呂水を捨てるのは止めてください 茫洋

ステファヌ・マラルメ全集第1巻を読んで

照る日曇る日 第377回

マラルメの全詩集の邦訳といえば岩波文庫からでている鈴木信太郎訳が有名ですが、こちらは筑摩から出た松室、菅野、清水、阿部、渡辺氏の新訳です。なにせフランスの高踏派・象徴派の泰斗による超難解な詩ばかりなので、意味を取ることも解釈をすることも一筋縄ではいきません。例の「海の微風」の出だしの「肉体は悲し。万巻の書は読まれたり」のところを見ると「ああ肉体は悲しい、それに私はすべての書物を読んでしまった」となっているのでこの現代的な翻訳のやり方が分かるというものです。

一読して興味深かったのは「エロディアード」という舞台詩です。これはバイロンなどによって淫蕩な狂女として解釈されたサロメといううら若い乙女の精神を、手あかにまみれた通念を洗い流して、本来の処女エロディアードとして位置づけようとする試みで、エロディアードとその侍女による対話詩劇として構成されています。

マラルメがワーグナーとの交友を通じて音楽に親しみ、詩と音楽の親和性に強い関心を寄せたことはヴァレリーなどによっても証言されていますが、マラルメの「半獣神の午後」などを読むと、その調べのなかにすでにドビュッシーによって音化された「牧神の午後への前奏曲」が鳴っているようにも思えます。

さて本巻に収められたもっとも注目すべきは詩作品は言うまでもなく「賽の一振り」でしょう。人生と芸術の本質が「賽の一振り」のような偶然性によって支配されているがゆえにその偶然性から逸脱しようと絶望的な遁走を試みた詩人は、ここに詩の定型を大きく逸脱したフレームを構築し、旧来の詩集のレイアウト、デザイン、文字の大きさと余白の常識を打破した新しいメディアでもある詩的宇宙を創造することに成功したのでした。

見開き2ぺージを一単位として構成された詩編「賽の一振り」は、いわば「絵のない絵本」、「詩で綴られた創世記」であり、「賽の一振り」によって果てしない航海に乗り出した詩人の前に、前人未踏のめくるめく映像と高鳴る音楽が次々に繰り広げられるのです。


雲去領寂もう鳴かぬか蝉 茫洋