闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.41
男のさすらいの人生の頼りの綱は女性です。もしも愛する女性に軽蔑されたら、男なんてどうやって生きていったらよいのか途方にくれてしまうでしょう。漂流しながらおんおん泣いて、ついでに海に飛び込んで死んでしまうしかないでしょう。これがこの小説の主題です。おそらくモラヴィアの実際の体験と女性観がこのテーマに色濃く反映されていることは間違いありません。 しかしこの軽蔑はいつ、どこから女の心の中にやってきたのか。それがいまひとつ最後まで読者にはよくわからない。というのは男自身もよくわからないからで、主人公がわからないのは作者がわからないからで、モラヴィアは別れた元女房の謎をわかろうとしてこの心理思弁小説を書いたのですが、苦労して書いてみても結局はよくわからなかったのではないでしょうか。 モラヴィアは仕方なくホメロスの「オデッセイア」におけるオデッセウスとペネロペの関係をフロイト的に論じ、この単純明快な問題をペダンチックに取り扱おうとします。つまりペネロペに言い寄る男たちに寛容な態度を示したオデッセウスをペネロペは軽蔑していて、それが嫌さに7年もの間故郷イタケに寄り付かなかった。夫が妻の愛を取り戻せたのは求婚者どもをオデッセウスが皆殺しにしたからだ、などと唱えるのですが、こういう暴力をこの小説の主人公が振るえるくらいなら、そもそもこんな哀れな境遇に陥っているはずもないのです。 実は主人公があまりにも草食系のインテリゲンちゃんであるために優柔不断過ぎて、妻の危機を体育会系の男からちゃんと守ってやらなかった、というよくあるとってつけたような解説も飛び出てくるのですが、どうもそれだけでは説明できない事情がどこの夫婦にもあるのです。ともかくこの小説の無残な失敗は、最後のおちの付け方を見れば一目瞭然でしょう。 このモラヴィアの原作を、1963年に映画にしたのがジャン・リュック・ゴダールです。悩める脚本家には名優ミシェル・ピッコリ、辣腕プロデューサーにゴリラ男のジャップ・パランス、フロイト流の「オデッセイア」を論じる映画監督には名匠フリッツ・ラング、そして単純な精神と見事な肉体の持ち主であるヒロインにはブリジット・バルドー、という豪華なキャステイング、それにカプリ島の風光明媚をあざやかに駆使して、彼一流のわかったようでわからない演出を繰り広げているのですが、これこそモラヴィアの世界にもっともふさわしい「絵解き紙芝居」だったかもしれません。 けれども今回この映画を再見して何よりも驚かされたのは、室内のインテリアのおしゃれでシックなデザインと配色の美しさでした。おそらくゴダールほどファッションに敏感な映像作家はいないでしょう。(かの「ドイツ零年」を見よ!)
カプリ島のロケにしても青い海と空、白と茶色の別荘の絶妙な対比がラングの幻の映画「オデッセイア」を立派に顕現させています。ブリジット・バルドーを容赦なく全裸にひんむいて当時の彼女の唯一の魅力であった桃色の尻をもっとも効果的な美術意匠として使い倒したのもゴダールのお手柄でしょう。
そして映画のラストで、この物語の定型的な落とし前としてやって来る自動車事故も、1971年のゴダールの運命的なバイク事故を予見しており、また1963年の「軽蔑」のラストシーンは、来るべき1965年の傑作「気狂いピエロ」のランボオ的終幕の穏やかな前章曲となったのでした。
ランボオが海の彼方に見つけた永遠をラング=ゴダールの「オデッセイア」に見る 茫洋
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