Tuesday, October 05, 2010

新国立美術館で「没後120年ゴッホ展」を観る

茫洋物見遊山記 第40回


またゴッホか、と思いつつも、ゴッホと聞けば万難を排して駆けつけざるをえません。今回のゴッホはオランダのファン・ゴッホ美術館とクレラー・ミュール美術館からの貸し出しで油36点、版画・素描32点が同時代の有象無象と並んで展示されていました。

ゴッホといっても私は今回どっさり並べられていた初期の作品、たとえばミレーの農夫やジャガイモを食べる人なんかは見てもつまらないし、まったく評価もできません。
やっぱり凄いと思えるのはゴッホが狂ってからの最晩年の作品、具体的には1889年と翌1990年の画家の没年に、アルルとサンレミとオーヴェール・シュル・オワーズで怒涛のように制作された鬼気と生命力がみなぎる異様な作品群です。

気違いに刃物とはよく言ったもので、これらの遺作はすべて狂人の作品です。アルスの精霊が占拠した気違いの右手がキャンバスに激しくぬりたくったお筆先が、気違いにさえなれない私たち凡人の精神をこうまで揺さぶるのはいったいどうしてだろう、といつも不思議に思うのです。

今回まず私の眼と心をわしづかみにしたのはアルルで描かれた「ある男の肖像」でした。青緑の光彩を背景に大胆な黒で隈どられた暗黒街の顔役のニヒルな表情は、凶悪でありながらも美しい。こんな矛盾に満ちた肖像画を描いたのはゴッホだけでしょう。

そうして誰もが言葉を失って画面に魂を吸い取られてしまうほかにどうしようもないのがサンレミとオーヴェール・シュル・オワーズにおける恐るべき遺作です。

画家が退院を許されてはじめて筆をとった「サンレミの療養院の庭」に立つ樹木の奥には天使たちが乱舞しているように無数の色彩が氾濫していて、私たちの脳髄を直射します。ほら、あれらのお筆先の跡は、いままさにキャンバスに触れられた瞬間のようにキラキラと輝いているではありませんか!

そして「蔦の絡まる幹」「渓谷の小道」「夕暮れの松の木」「オリーブ畑と実を摘む人々」「草むらの中の幹」「アイリス」と続いて、どこか東洋的な諦観を感じさせる「麦の穂」で静かに告別の幕を閉じるこの偉大で異様なコレクションは、本展の圧巻でした。

美は恐るべきもののはじまり、とはまさにこういう一期一会の出会いについてのみ使うべき表現なのでしょう。没後120年だそうですが、ついさっき死んだばかりのゴッホは、いまも激しく生きているのです。


渓谷の小道をゆくは人か魔か げに美は恐るべきもののはじまり 茫洋

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