Tuesday, January 31, 2012

エリア・カザン監督の「紳士協定」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.195

監督がエリア・カザン、プロデューサーはダリル・ザナック、主演がグレゴリー・ペックというハリウッド映画史上最強の黄金コンビによる堂々たるユダヤ擁護映画である。

すぐる大戦の前から私たちの先輩が故なく同じアジアの同胞をチャンコロとかチョウセンジンなどと嘲罵して故なき優越化に耽ったように、碧眼紅毛どもは短足黄班の私共をジャップと故なく蔑んだ。穢多非民部落民ユダヤ人アイヌイヌイットその他もろもろを問わず世界中で階級階層民族差別は古くから存在し、そしていまなお存続しているのである。

さうしてこの差別の真因がどこにあるのかは、その不条理を完膚なきまでに解剖し尽くしたこの映画を観終わっても、まだしかとは把握できない。非ユダヤの身でユダヤ人になりかわってその隠微な差別の根の深さを体験したグレゴリー・ペックのように、私たちも一生に何回かは民族や身分や地位を舞台衣装のように脱ぎ着できたら差月史観を肉体的に相対視できてよろしかろうが、眼前の人生劇場がそれほどドラマ仕立てに出来ていないのがまことに残念である。

新聞記者のペックの恋人が映画の最後でようやくおのが人種差別の当事者であったことに遅まきながら気がついてその差別に反対する行動を取るに至り、ついに価値観を共有するにいたった恋人がひしと抱き合うところで本作は終わるが、このいかにもヒューマニズムと理想主義の残滓芬芬たるカザンらしいエンディングを「甘い甘い」とせせら笑いながらも、かの鬼のザナックはフィルムに鋏を入れなかったのである。

ペックの恋人役のドロシー・マクガイアはつまらないが、母親役のアン・リヴィアの風貌が忘れ難い。この映画を観終わった私は、わが国が生んだ一代の梟雄豊臣秀吉が尾張名古屋の村落のしがない針売りであったことをはしなくも思い出した。

Monday, January 30, 2012

西暦2012年睦月 蝶人狂歌三昧

ある晴れた日に 第103回


正月や生死の際のひとやすみ

かのひとの縁の切れ目の年賀状

資本主義でもない社会主義でもない公正主義を空想す

二晩も塩見洋一の夢を見たり どうしているか塩見君

泣け笑え 歌え踊れ 汝幸なる魂よ

野薔薇咲く崖下の家に棲みにけり

鎌倉の改札口で美しき女性と接吻していた小泉画伯みまかりにけり

小泉画伯の遺体を乗せし霊柩車妻のカローラに別れを告げたり

倒れながらよくぞ電話をかけてきた正月6日義母92歳

この世の不条理と不如意に怒りの津波が押し寄せるとき

どこまでも君の欲望に寄生して死んでも離さぬドコモauソフトバンク

ブーと言えブーと言えこの阿呆めがとお前は今年も悪口を言うのか

不満あり無力なりされど英雄気取りのアンポンタンにわが命運をゆだねず

不満あり無力なりされどわが荷物を橋の下に投棄せず 

恋は狂気の沙汰にしてつける薬はないわいなあ

森既に黒けれど空まだ青しわれら日のあるうちに遠く歩まん

東大寺より西大寺が好きな人

ムラサキシジミとテングチョウが越冬していた枯葉となって

アラカシの枯葉に似せて横たわるムラサキシジミに幸いあれ

今日もまた貴兄のペニスうんと大きくしてあげるというメールあり

相変わらずお前はアメリカの属国だなイランの石油が要らんとは

全ての国に一個ずつ原爆与えてその直後一斉廃廃棄すればいかがでせう

光明寺に去りし隣の美女が来てナシの種呉れし満月の夜

わかりました行ってみますてふ息子の言葉を頼もしく聞く

病院に行けば病の人ばかり病ならずとも病みし心地す

「徳洲会は世界を癒す」というポスターの下でリハビリを受けている妻

リハビリは一生懸命やりなさいけどやってるうちに腱がピシッと切れる時もあると警告されている妻

なぜ樺太をサハリンなどと言い変える悪辣無法のソ連に奪われしあの島を

なぜビルマをミャンマー表記に改める軍事政権に屈した朝日とフィナンシャルタイムズよ

なにゆえに脳しょうぐあいの君だけにピアノが弾けるのとても不思議だ

お父さんドのダブルシャープはレだよとピアノを弾きながら教えてくれました

異国に咲きはかなく散った燃える恋百五十年後も匂いは失せず 

「毎日が日曜日」となっても忙しいのはなぜだろう

幸福は妻と並んで山崎のこもれびプールで平泳ぎする朝
 


墓地にあれば心慰む生きながら死につつある証か 蝶人

Sunday, January 29, 2012

黒沢明監督の「生きる」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.194


何回見ても志村喬の公園でのブランコと「♪命短し恋せよ乙女」には涙腺がぐちゃぐちゃになる。ガンに冒され余命数カ月に迫った公務員の胸中を黒沢は見事に劇化し感動的な名画を誕生させた。そこでは映画の主題とテーマ音楽「ゴンドラの唄」が絶妙な相乗効果をもたらしている。

しかし、ここからは映画の感想から逸脱するが、よく考えてみると市民課長の生涯最初にして最後の達成が、必ずしも公園の建設でなくとも構わなかったのではないかという気もしてくる。福利厚生が乏しかったあの時代に公園の存在は貴重かつ重要な意義を持っていたのかもしれないが、しかしもっと重要で喫緊の市政の課題が他にあったかもしれないな。よしんばそれが一部の住民の熱望であったとしても。

死にゆく課長にとって死力を尽くして実現した公園は、あの時点で市役所&市民課が市民の総意としてめざすべきゆいいつ絶対の理想ではなくて、課長さんの極私的な野望に突き動かされての独走暴走?であった可能性も排除できないな。

通夜の場面では助役以下の公吏が非人間的で非人情な存在として敵対的に浮き彫りされていたが、これは監督の恣意的な思い入れとセンチメンタリズムが少しくでしゃばりすぎているのではないか、というのが涙をぬぐって立ち上がったわたくしの感想でした。

どこまでも君の欲望に寄生して死んでも離さぬドコモauソフトバンク 蝶人

Saturday, January 28, 2012

ローラント・ベーア指揮スカラ座の「魔笛」を視聴する

♪音楽千夜一夜 第244回

2011年3月といえば大震災の頃だが、ちょうどその頃にミラノで上演されたモーツアルトの遺作オペラの録画を視聴。さすがはスカラ座という清明な音で序曲が始まったので大いに期待しました。

さてどういう大蛇が出てくるのかと楽しみにしていたが、結局造り物は登場せずアニメみたいな映画の初期の頃のようなあめふらしの映像が出てくる。こういうやり方は最後の最後まで変わらず、ウイリアム・ケントリッジという演出家がコンピューターを駆使した最新の3Dとかに熱意を燃やすその程度の下らない奴だと知れる。衣装だって男はみな普通のスーツ、女はカジュアルなドレスをぞろぞろきているので、せっかくパパゲーノとモノタノスが出喰わしても驚くことができない。ともかく昔の物を現代に塗り変えればよいと信じ込んでいる阿呆の仕事だ。

歌手もみな2流か3流どころで、ややまともに唄えていたのは夜の女王のただひとり。魔笛というオペラの背骨は彼女のたった2つの超絶アリアで成立しているので、これが壺をはずしていると最悪だが、その点ではまあ良かった。

そんな次第でようやく幕が降りるがまだしつこくCGのお絵描きゴッコをやっている。なんの霊感もないルーチンワークの下らない演奏にラアラアと歓声を上げているスカラ座の観客を見たら、死せるトスカニーニも激怒するだろう。墜ちるところまで落ちればいつか浮かぶ瀬もあるのだろうか。

この録画放送の案内をしている顔がグチャグチャになった作曲家が、最近の研究でモーツアルトの妻コンスタンツエと彼の弟子のジュスマイアーが不倫していたことが判明したと語っていたが、ほんとななあ。

出演:サイミール・ピルグ、アリビナ・シャギムラトワ、ゲニア・キューマイア他 
指揮:ローラント・ベーア 演出ウイリアム・ケントリッジ


アラカシの枯葉に似せて横たわるムラサキシジミに幸いあれ 蝶人

Friday, January 27, 2012

ジャック・リヴェット監督の「ランジェ侯爵夫人」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.193

ヌーヴェルヴーグの生き残りリヴェットの2007年の最新作をその翌年に37歳の若さで惜しまれつつみまかったギヨーム・ドパルデューが熱演しています。原作はバルザックの短編で、原題は「斧に触れるな」です。

彼が扮する19世紀のナポレオン軍の名将軍で軍務一筋の不器用な男が、妖艶な社交界の花ランジェ侯爵夫人(ジャンヌ・バリバール)の色香に迷ってたちまち恋に落ちる。ところが侯爵夫人は彼女が知らなかった荒鷲のように無骨な男に魅せられながら、その純情をもてあそぶ。ついに男の怒りの斧に触れたのです。

業を煮やした武人は彼女を拉致して強引に愛を迫るのですが、それがかえって逆効果となり酷薄な女の前から姿を消す。すると追えば逃げ、逃げれば追うのたとえどおり、今度は女の方が失った恋の大きさに耐えかねて恥も外聞もかなぐり捨てて男を求める。

命を賭けて無二の愛を求め、それが得られずに侯爵夫人が選んだのは海の彼方の絶海の孤島でした。そして映画は息詰まるような緊迫感を保ちながら悲劇の大団円に突入するのですが、これは見てのお楽しみ。それにして男女の愛の本質をぎりぎりと抉り取るこんな珠玉の名作を夢も希望もない平成ニッポンの私たちに贈ってくれたジャック・リヴェットには感謝の他はありません。


枯葉の中にムラサキシジミとテングチョウが越冬していた枯葉となって 蝶人

Thursday, January 26, 2012

溝口健二監督の「祇園の姉妹」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.192

1936年の製作。かなりの部分のフィルムが失われてしまったが鑑賞に差し支えは無い。京の祇園の芸者として生きる2人の姉妹の物語である。

梅村蓉子が演ずる姉は倒産して無一文になった木綿問屋の主人の面倒を見るという昔ながらの義理人情を大事にする古風な女だが、当時18歳の木暮三千代演ずる妹は正反対のモダンガール。姉の情人を手切れ金で追い出して別の男とくっつけ、自分は呉服屋の若い番頭、ついでその主人を手中に収めてしまう。

万事快調、妹の凄腕の細腕一つで色ボケ親父を完璧にぎゅうじったかに思えたが、それも一瞬のこと。好事魔多しとはよく言ったもので、妹は恨んだ番頭にさんざん痛めつけられ、そのうえ主人の秘密を呉服屋の細君に内報されたために「なんで芸者なんかがこの世にあるんやろ」と恨みながらよよと泣くのが全巻のおわりだが、おのれの悲痛と悲惨をそれまでとは打って変わって社会や世の中のせいにするのは脚本の甘さであり、この映画の唯一の弱さであろう。

されど山田五十鈴の美しさと溌剌とした物言い、彼女を借りて新しい女性の生き方を打ち出そうとした脚本と演出は素晴らしくこの映画に不朽の生命を、そして随所で多用される超ロングワンショットが、この物語を遠くから客観視する視点を付与している。最後から二番目のカットのその息を呑む長回しは、映画史上空前にして絶後であろう。

ああこれあるからこそ、世界の溝口なのだ!


東大寺より西大寺が好きな人 蝶人

Wednesday, January 25, 2012

アンソニー・マン監督の「シマロン」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.191

珍しやグレン・フォードとマリア・シェルをフーチャーし一風変わった西部劇。1931年版を1960年にリメイクしたものである。

開発途上のアメリカ・オクラホマ州などでは「ランズ・ラン」という名の早い者勝ちの土地獲得競争が行われたそうな。一獲千金を夢見る全米の老若男女やアウトローや喰いつめ者が号令一発せいので荒野に飛び出していくのであるが、新婚早々のグレンとマリアもその一員。新聞社を作ってこの地に基盤を築いたが生来の冒険心を自制できないグレンは平穏な生活を求める妻子を顧みず各地を放浪していたが、ようやく帰省して知事に任命されることになる。

しかしそれが先住民の自立を妨げ開発のお先棒担ぎへの加担を意味すると知ったグレンは潔く名誉あるポストを投げ出したが、マリアは怒り狂って夫と絶縁。やがて11年の歳月が流れてマリアは新聞社を大成功に導いたが、その時グレンの最初で最後のラブレターと共に、英国女王からの訃報が届くのだった。

波乱万丈の冒険野郎の生涯と米国の開拓史をシンクロさせて描く壮大なスケールが見もの。とりわけシマロンの時代にさきがけた公民権運動が印象に残る。

病院に行けば病の人ばかり病ならずとも病みし心地す 蝶人

Tuesday, January 24, 2012

ダニエル・ハーディング指揮スカラ座のヴェリズモ・オペラ二曲を視聴する

♪音楽千夜一夜 第243回

2011年1月にミラノ・スカラ座で上演された「カヴァレリア・ルスティカーナ」(マスカーニ)と「道化師」(レオンカヴァルロ)の衛星放送の録画を鑑賞しました。指揮はどちらもダニエル・ハーディング、演出はマリオ・マルトーネという人です。

このヴェリズモ・オペラの演奏で私の脳裏に焼き付いているのは、同じスカラ座をカラヤンが指揮した映像です。劇伴は同じ名門オーケストラですが指揮者が違えばこうも印象が違うものか。両曲ともカラヤンに比べて早い速度で、あの有名な間奏曲にしてもなんの思い入れもなくあっさりと通り過ぎていきます。

楽譜の意味を深く読むこともなく表層のカッコよさだけを追い求めるこの若者の音楽はわたしのような保守反動の徒にとっては唾棄すべき代物でしたが、伝統あるオケも観衆もブーの人声もなく唯々諾々と従っている姿には驚きを通り越してただただ情けない。死せる作曲家たちやトスカニーニが聴いたら激怒するでしょう。

歌唱陣も凡庸な指揮と似たりよったりの出来栄え。ドミンゴでは聴衆の涙を誘ったレオンカヴァルロの有名なアリア「衣装をつけろ」でしたが、今回のホセ・クーラでは嘘泣きしているのはクーラだけ。こんな下手くそにブラボーと叫んでいるミラノのお客は完璧な阿呆です。マスカーニをまずは無難に唄い上げたリチートラが不慮の事故で夭折したのは残念なことでした。

というわけで総じて評価するべきはマリオ・マルトーネの演出のみ。現代の高速道路下に芝居小屋を設営した意匠は卓抜なものがありましたが、ダニエルよ、お前さんはスカラ座で振るには30年早い。



歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」(マスカーニ) & 歌劇「道化師」(レオンカヴァルロ)
指揮:ダニエル・ハーディング  演出:マリオ・マルトーネ 出演ルチアーナ・ディンティーノ、サルヴァトーレ・リチートラ、ホセ・クーラ等。


なぜ脳しょうぐあいの君だけにピアノが弾けるのとても不思議だ 蝶人

Monday, January 23, 2012

ジーン・ケリー&スタンリー・ドーネン監督の「雨に唄えば」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.190
恋する男が降りしきる雨のなかを歌って踊るシーンが有名なこの映画だが、もっと印象的なのは主人公が美脚の持ち主シド・チャリシーと繰り広げる息を呑むようなダンスメドレーの連続シーンで、広大なスタジオ狭しと繰り広げられる歌とソロと群舞、照明と場面転換の見事さは、ドナルド・オコーナーのダンスの切れ味と相俟ってこのミュージカル映画に不朽の生命力を吹きこんでいる。

当時さしたるキャリアと技量を持ち合わせていたとも思えないジーン・ケリーとスタンリー・ドーネンがここで展開している演出も、見事な出来栄えで見る度に新しい発見がある。それにしてもジーン・ケリーの相手役の大女優リナ・ラモントを演じたキイキイ声のジーン・ヘイゲンはその後どうなったんだろう?


お父さんドのダブルシャープはレだよとピアノを弾きながら教えてくれました 蝶人

Sunday, January 22, 2012

「橋下主義を許すな!」を読んで

照る日曇る日第487回

大阪市民の絶大な支持を受けて市長に就任した橋下氏の政治手法について内田樹、香山リカ、山口二郎氏などがこもごも批判しています。

私は橋下氏が府と市の経費の重複を無くしようとしていることには反対しませんが、教育に偏屈な政治的イデオロギーを持ちこんだり、旧軍隊的規律と上意下達の中央集権的介入を強行したり、市場競争や経済効率論理を導入して大阪府・市の教育基本条例を改訂しようとするような独裁的で夜郎自大な手法には反対です。

我々がこよなく愛するこの自由な国家ではいつでもどこでも誰でも自由な見解の表明を妨げられず、時の権力者に反対したりげんざいの国歌や国旗に異議を唱えたり起立を強制されても罰せられるはずがなく、気に喰わなければ黙って座っていることも許されますし、それを非国民だと罵る人こそが本来の意味の非国民なのです。

橋下氏がしようとしていることについて内田氏は、宇沢弘文氏の「教育=社会的共通資本論」を引き合いに出し、共同体の存立にかかわる自然環境、社会的インフラ、教育、医療、司法、行政に対する政治の中央集権的介入を強く戒めていますが、これはイデオロギーの左右を超えた常識というべきで、政権が交代する度に学校のカリキュラムや医療システムがころころ変わっては国民はたまったものではありません。

政権が交代しても物事が劇的に改革改善されないために、早くも民主党に幻滅してとっくの昔に政治生命が終焉したアホ馬鹿自民党への回帰を妄想したり橋下氏一派を軸とした新政治勢力に過大な期待を寄せたりするドンキホーテな人たちがいるようですが、民主政治というのは膨大な討議と時間と経費を蕩尽し、果てしない議論と辛気臭い交渉と不条理な妥協と紆余曲折を経ててやっとこさっとことおちつくところに落ち着く誰もが不平と不満を抱かざるを得ない超不完全なシステムだということが戦後60年以上経過してもまだ理解されていないようですね。

これに激怒したり愛想を尽かしておのれの主体的な思考を放棄して、ヒトラーもどきのチンピラに運命の下駄を預けたくなる気持ちも分かりますが、なに2年もすれば化けの皮がはがれるはず。ハシズムなどと慌てず騒がず放置しておけばよいのです。


不満あり無力なりされどわが荷物を橋の下に投棄せず 蝶人

Saturday, January 21, 2012

吉川一義訳「失われた時を求めて2」を読んで

照る日曇る日第486回

はじめはどうということのない女(男)だったが、そのうちに妙に気になり、ある日ある時の四囲の自他の状況の偶発的必然性(後から考えた)の相対的因果関係にからめとられる形で、当該の男と女のいずれかが絶対的恋愛関係の磁場に吸着されることは往々にしてあるようだ。

本巻で開陳されるスワンとオデットの人情肉布団もまさにそれ。しかも当初は男性が優位に展開していたはずのインターコースが途中で完全に逆転し、男は女の思
いのままに翻弄トイトイされてゆく。昔風の差別用語を使うなら、誰とでも寝る裏社会の女郎風情に毎月五百万円!をみつぎながら社交界の人気ダントツ男が下賤のライバルに寝取られてコキュに甘んじるのだから世話はない。

 されどこれこそが現世の修羅場をあいわたるしがない渡世人の世は情け西洋人情裏話。何が何として何とやら。親の因果が報いたか。それとも前世の因縁か。天に唾すれど答えなく。地に尋ねてもいらえなく。夕べになるともい寝られず。懊悩転転朝が来て。悩みは深き恋の井戸。あれ聴こゆるはフランクの。ヴィオロンの音ではないかいなあ。テテツレテン。テテツレトン。テテツレテン。テテツレトン。ついに男は阿鼻叫喚、果てなき無限地獄へ堕ちるのじゃあ。はれ堕ちるのじゃあ……

     恋は狂気の沙汰にしてつける薬はないわいなあ 蝶人

Friday, January 20, 2012

フランソワ・トリュフォー監督の「突然炎の如く」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.189

久しぶりに見返したがやっぱり素晴らしい作品だ。トリュフォーは映像をスタッカートのように歯切れよく切り刻む。それがシーンごとの意味を切れる寸前に浮かび上がらせ、これを推力にして次のシークエンスへと自然につながるのだ。この自然さは完全に人工的にして計画的な手法であり、ゴダールなど他のヌーベルヴァーグの作家もよく使った。

 この演出に乗ってジュールとジムの物語とカトリーヌの狂熱の恋は猛烈な速度で前進し、戦争で急停止し、また再出発して蝮のように絡み合い、河の上の橋を落下する自動車と共に終わる。

はずだったが、それは普通の映画のやることで、トリュフォーは死んだ二人の棺桶が荼毘に付され、それが業火で焼かれて白い骨となり、骨壺に入れられて冷暗所に安置されるところまできちんと見届ける。この冷静な視線こそトリュフォーだ。

ジュールは2人の骨を混ぜてやろうと望み、カトリーヌは自分の骨を風に撒いて欲しいと願っていたが、この映画では出来なかったことがいまでは出来るようになった。40年間かかって、人類もそれくらいには進歩したといえるだろう。

余談ながら「突然炎の如く」なぞという軽薄で胡散臭い邦題を誰がつけたのか知らないが、今からでも遅くはない。これは原題の通りに「ジュールとジム」に即刻戻すべきだろう。

光明寺に去りし隣の美女が来てナシの種呉れし満月の夜 蝶人

Thursday, January 19, 2012

マイケル・ケイトン・ジョーンズ監督の「ジャッカル」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.188

1997年製作のハリウッド映画です。題名は「ジャッカルの日」をリメイクしたただの「ジャッカル」。その名で呼ばれる物凄い能力を持つ殺し屋が、チエチェンのテログループに大金で雇われて米ロ連合の捜索チームの追及をかわして大統領夫人を暗殺しようとするが……。

いつもは正義の味方のブルース。ウイルスがここでは札付きの殺人鬼に扮してどんどん刃向かう敵を殺していく。米FBIとロシア内務省の要請で牢屋から特別に出してもらったリチャード・ギアがかなり良い線までジャッカルを追い詰めたんだが……。

今日はなぜだか……が多いなあ。……が続く映画です。



なぜ樺太をサハリンなどと言い変える悪辣無法ソ連に奪われし島を 蝶人

Wednesday, January 18, 2012

ロジャー・ドナルドソン監督の「カクテル」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.187

除隊したあとグレイハウンドに乗って一旗揚げようとニュヨークに乗り込んできたトム・クルーズがお勉強を放棄して人気者バーテンダーになる。ジャマイカで運命の女性に出会ったのだが、運命のいたずらで運に見放されもう駄目かと思ったけれど最後に幸運の女神が微笑むという恋と成功のカクテルストーリー。

1988年現在の肩に力の入ったファッションや糞面白くもないダンスミュージックがてんこもり。若い2人を彩るMTⅤみたいな映画です。

師匠役のブライアン・ブラウンと組んで見せるフレアバーテンディングが笑えます。役者の演技はみな未熟、監督の演出も稚拙だがジャマイカのリゾートが出てきて懐かしかった。こういうアホ馬鹿時代はきっともう戻ってこないんだろうな。


リハビリは一生懸命やりなさいけどやってるうちに腱がピシッと切れる時もあると警告されている妻 蝶人

Tuesday, January 17, 2012

吉川一義訳「失われた時を求めて1」を読んで

照る日曇る日第485回

岩波文庫からプルーストの「失われた時を求めて」の全訳が出始めたので読んでみた。第1編「スワン家のほうへ」の第1部「コンブレー」が収められたその第1分冊である。

私は以前井上究一郎氏の旧訳でこれを読み、とても面白かった。眠れないままにかつて横たわったすべてのベッドやそこをよぎったすべての想念を思い出そうとする主人公はまことに親しい存在と感じられたし、マドレーヌに浸された紅茶の味から心中に湧きおこる過去の思い出、思いがけない場所から様々な姿を見せる教会の鐘楼、むせぶような薔薇色のサンザシの芳香、カシスの葉に放たれ生まれて初めての一筋の精液、そして一瞥しただけで美しい少女ジルベルトへの恋に陥る少年の感じやすい心が我がことのように思われたからである。

多くの読者がプルースト特有の長すぎるセンテンスに辟易して読書を放棄するようだが、それはじつにもったいないことだ。なぜなら「失われた時を求めて」は読めば読むほど下世話な意味でもおもしろくなり、失われた時も空間も当初の茫漠なありようから一転してリアルな像を結ぶようになり、最終巻を閉じる際には誰しも異様なぶんがく的感銘に圧倒されること請け合いだからだ。

吉川氏の訳は井上訳の文学的曖昧模糊とした香気には多少欠けるが、その代わりに語学的・史実的な正確さと現代感覚が読む者の理解を大いに助けてくれる。願わくばこの平成の大事業がつつがなく全14巻の大尾を全うすることができますように。

森既に黒けれど空まだ青しわれら日のあるうちに遠く歩まん 蝶人

Monday, January 16, 2012

津村節子著「紅梅」を読んで

照る日曇る日第484回

作家である夫吉村昭の発病から死までを、同じ作家である妻が、事実にもとづいた小説にしたもの。舌ガンの治療の途中で膵臓ガンが発見され、その手術が行われた結果膵臓全体と十二指腸、胃の半分を失った夫を懸命に看護する妻の真情が随所で伝わって来る。

その日録の通奏低音はマーラーの「大地の歌」の生も暗く、死もまた暗いという陰陰滅滅たる黄泉の国の調べ。この夫婦の周囲では多くの人々がガンで斃れているのだ。

終始冷静な筆致で描かれてきたこのドキュメンタリータッチの私小説は、最後の最期になって大きな衝撃と動揺と共に劇的な転調をみせる。突如夫は「もう死ぬ」と告げて胸に埋め込まれたカテーテルポートを引きちぎる。それはこれ以上の延命治療を拒んだ作家の決死的な行為、というよりどこか渡辺崋山を思わせる潔い侍の自裁であった。

完璧な遺書をあらかじめ用意し、自分の文学館を作りたいといって来たある町の役人に対して、そういう目的のために税金を投入するのは恐れ多いといって辞退するこの作家は、おのれの恣意で周囲に迷惑を及ぼすことを好まず、人並み外れた廉恥の心の持ち主だったのだろう。

 死を待つのではなくみずから死を準備し、実行し、無意識のうちに南枕を北に変えようと身をねじる夫の姿は壮絶なものがある。しかし「残る力をふりしぼって身体を半回転させたのは情の薄い妻を拒否したからであり、自分はこの責めを死ぬまで負ってゆくのだ」と書く妻は、少し自分を責めすぎではないだろうか。

わたしはあえて言いたい。「節子さん、それはあなたの考え過ぎです。ご主人は混濁した意識の中で誰の助けも借りずに死者になろうとしたのです。あなたは最後まで妻としての義務を果たしたのですよ」と。


幸福は妻と並んで山崎のこもれびプールで平泳ぎする朝 蝶人

Sunday, January 15, 2012

カン・ジェギュ監督の「シュリ」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.186

朝鮮半島の緊張が高まる中で北の工作員が南に潜入し、テロ活動を繰り広げる。そしてなんと両国共同開催の世界サッカー戦のさなかに両国首脳を暗殺しようというハチャメチャな話になるのだが、この国家テロルのスリルとサスぺンスに北の最強の美女と南のハンサム捜査員の運命的な恋がからんで、物語は最後のクライマックスを迎える。

んでもって、結局わがロメオは泣く泣く愛するジュリエットを葬り去るんですが、この映画は、酷薄な国家間の対立と戦闘が続く限り、個人のささやかな幸福など虫けらのように押しつぶされてしまうんだ、というひとつの事例を提出して、一日も早く憎悪ではなく愛を、戦争ではなく平和を、と願う反戦映画のようなスタンスをとってはいるものの、そのフィルムの下半身を染めているのは刺激の強い見世物、底の浅いエンターテインメント性ではないだろうか?

戦争以来両国激烈な対立が続いて多くの死者が出ているというのに、その一方の当事者が、この冷酷で悲惨な現実を、一種の見せもの、娯楽としての映画に祭り上げている図太い神経がわたしのような門外漢にはてんで分からない。見ようによっては図太い骨太の反戦映画なのかもしれないが、じっさいに両国の暴力装置が一触即発の国家的対決に明け暮れているさなかにこんな能天気な戦争映画を見物することには、超右翼で保守派の私にはちょっとした抵抗がありました。

わかりました行ってみますてふ息子の言葉を頼もしく聞く 蝶人

Saturday, January 14, 2012

トマス・ピンチョン著「ヴァインランド」を読んで

照る日曇る日第483回

マイケル・ティルソン・トマス指揮、サンフランシスコ交響楽団演奏会のFM放送を聴きながらこの駄文を書いているところ。ヘンリー・カウエル作曲「シンクロニー」の演奏が終わって、今度はクリスティアン・テツラフの独奏によるアルバンベルクのバイオリン協奏曲が始まったが、クールなくせに甘い素敵な演奏だ。いかにもサンフランシスコらしい渋い味を出している。

この小説の舞台は、その北米の都市の北に想定された古き良き時代の架空の街である。この逃げた女房に未練たらたらの子連れの住民ゾイドが、生活保護金めあてにショップのショーウインドウに突撃する1984年夏のシーンから始まって、物語は彼らが黄金色の革命伝説に青春を燃やした60年代、その幻想が露と消えたニクソンの70年代、国家主義が肥大してゆくレーガンの80年代を、その胸奥の苦い記憶を断ち切ろうとするかのように怒涛のように回想し、またしても酒歌女マリファナ乱交の悪夢を再来させながら、LAからハワイ、東京からヴェトナム、メキシコからハリウッド、ラスヴェガス、そしてまたヴァインランドへと登場人物たちを遍歴させ、ひと度は幻視した世界がよみがえる美しい夢を、自虐的に再生しようと虚しくも試みている。らしい。

 醜悪な現実が犯した途方もない愚行を、作者はおのれの大脳前頭葉が全面展開させたこれまた途方もない壮大な虚構と対比させ、「さあどっちが真実だ。ほらほらこっちの方がほんまもんの正史じゃろが」とすごんでみせているようだ。

ふと気が付けば、マイケルとサンフランシスコ響はベト5の太鼓を狂ったように乱打しているぜ。


全ての国に一個ずつ原爆与えてその直後一斉廃棄すればどうでせう 蝶人

Friday, January 13, 2012

東博の「北京故宮博物館200選」を見て

茫洋物見遊山記第76回

寒い寒い木曜日の午前11時に到着して長い列の最後に並びました。会場の入り口に到着するまでに1時間、次いで場内で立ちん棒となって時たまゆるゆると歩むこと3時間、2冊の小説を読了しつつ都合4時間かかって目視することができたのはこの博物館の至宝と称する「清明上河図巻」でした。

10メートルくらいの長さのこの墨絵の絵巻物は、精妙な筆致と巧みな造形で当時の北宋の商都の大川端のにぎわいを描いていましたが、人物も船も橋も街の甍も小さすぎていくらガラス越しに両目を近づけてもろくろく見えやしない。道理でその周囲には大きな拡大図が張り巡らしてありましたが、それとこの本物は色も違うしバランスも異なる。結局見たのやら見なかったのやら分からないままその特別室を出てしまいました。

張拓端筆と称されるこのどこかレオナルドを思わせる写実的な筆致には魅せられましたが、これが中国一の名品かどうかはうかつに語れない。同時代の本邦は平安時代の後期ですが「信貴山縁起」「伴大納言絵巻」「源氏物語絵巻」のようにもっと芸術的に価値の高い優れた絵巻物を輩出していました。

後代の南宋や元の図巻も並んでいましたが最近の琳派の絵画になじんだこちとらの心眼にはどうもしっくりこない。出品の3分の2くらいは清朝の絵や衣装や装飾品やインテリアなどでしたが、わたくし的にはこんなものは豚にでもくれろと言う代物でまったくつまらない。期待していた陶磁器もろくなものがない。多少とも評価できるのは北宋南宋から元にかけての行書のコレクションでした。

中国の国宝的逸物を200も選りすぐったという触れ込みですが、これではまるで羊頭狗肉。新年早々のワーストコレクション。もっともっと凄い作品がこの博物館には秘蔵されているはずです。もしそうでなければ……。

もしそうでなければ、唐天竺の影響を脱して見事に生まれ変わった本邦の諸芸術の価値は、わたくしが考えている以上に、天下無双のレベルに到達しているのでしょう。



相変わらずお前はアメリカの属国だなイランの石油が要らんとは 蝶人

Thursday, January 12, 2012

金子修介監督の「毎日が夏休み」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.185

どうにも会社の生活が性に合わなくなったリーマンと中学でのいじめで登校拒否状態に陥った娘が母親のとまどいや反対を押し切って「なんでもやりますお助け隊」を結成して自主独立していく愛と涙と感動?の物語。

大島弓子の少女漫画が原作なのでどうしても漫画的な描き方になってしまうが、金子監督は手慣れた職人感覚で山あり谷あり最後に栄光ありのハッピーエンディングストーリーを映像化していく。

父親役の佐野史郎もとぼけた味を出しているが、娘役の佐伯日菜子が可愛らしい。たまにはこういう毒気のない映画を見るのもいいものだ。

「毎日が日曜日」となっても忙しいのはなぜだろう 蝶人

Wednesday, January 11, 2012

ジャック・ドレー監督の「フリックストーリー」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.184

アランドロンが1975年に製作・主演した刑事ものサスペンスドラマ。フランスでは国家警察と警視庁の2大警察機構があって昔から仲が悪いそうだが、これは前者に属した実在の刑事が書いた実話を「ボルサリーノ2」の監督が映画化した。

ドロン刑事が追うホシは名優ジャン・ルイ・トランティニャンで、なんでも36件の殺人事件を起こした名うての凶悪犯らしいが、こいつはすぐに拳銃をぶっ放して人殺しをするくせにかっこいい。官僚組織の中でいつも上司のプレッシャーを受けているドロン刑事がいつしか共感を覚えるのも分かるような気がする。

レストランのピアノでピアフの曲を弾いているドロンの恋人役のクローディーヌ・オージェに近づくシーンなどもあやしい緊張感があり、彼女が犯人の眼が優しいと語る箇所もあってこの2人は以前関係があったのではないかという気もしたが、そういうあいまいな演出をしてみせたのであろう。

結局さしもの凶悪犯もドロン刑事の大陰謀にひっかかって捕えられ、死刑に処せられるのだが、全篇に流れるニヒルでアンニュイなモードが好ましい。大取りものとは関係なくキャメラが映し出すパリの街頭や路地やメトロの風景とゆるい時間の流れがかつてのフランス映画の魅力であったが、いまや絶滅に近い希少種となってしまった。ドロンもいつもと違ってあまりカッコつけずに駄目刑事振りを披露していて好感が持てる。


鎌倉の改札口で美しき女性と接吻していた小泉画伯みまかりにけり 蝶人

Tuesday, January 10, 2012

サンクトペテルブルク白夜祭のゲルギエフ指揮「春の祭典」「火の鳥」「結婚」を視聴する

♪音楽千夜一夜 第242回

これはロシアの指揮者ゲルギエフが創始したサンクトペテルブルグ白夜祭の2008年6月の公演で、ストラビンスキーの有名な3曲が演奏され踊られている。

さいきんいくつかのバレエ団の公演をビデオで視聴したが、いずれもその劇伴音楽がひどい。ともかく美男美女が上手に踊っていればいいという料簡がみえみえで、その結果総合芸術としては無惨な出来で終わっていたのに対し、ここで見られるヴァレリー・ゲルギエフの指揮とマリインスキー劇場管弦楽団、そしてマリインスキー劇場バレエ団の三位一体のパフォーマンスは素晴らしいというも愚かなものがある。

しかし「春の祭典」と「火の鳥」の演奏は思ったよりも大人しいもので、私はいつか耳にしたモントウーと作曲家ストラビンスキー自身による安定した演奏を思い浮かべていた。これはかつてブーレーズがCBSに入れたなにやら激烈なインパクトのある演奏とは対極的な解釈で、ブーレーズ盤では実際には踊れないのかもしれない。「春の祭典」の演出はなんとあの伝説のニジンスキーのものを復活したそうだが、そのどこか一九世紀風の長閑さも昨今の猛々しい物に比べると朴訥なロシアの村落の味わいがあって好ましかった。

「結婚」ははじめて映像で視聴したが、このバレエ団の女性は美人が多くてめっぽう楽しかった。やはりバレエも美形がよろしい。

今日もまた貴兄のペニスうんと大きくしてあげるというメールのみ 蝶人

Monday, January 09, 2012

アメリカン・バレエシアターの「ドン・キホーテ」を視聴する

♪音楽千夜一夜 第241回

2011年の7月23日に行われた文化会館での来日公演です。レオン・ミンクス作曲のこのバレエはセルバンテスが書いた小説に比べるとどうしょうもなくつまらないが、踊り手に人を得、オケと指揮者を得ればそこそこ楽しめるのですが、これはどこをどうとっても見劣りがします。

そもそもこのバレエ団は世界各国からの寄せ集めで、あまり団としてのキャラにきわだつ特徴や統一感がないので、プログラムと楽団によってはそれが強みにもなれば弱みにもなることちょうどジェームズ・レヴァインとメトロポリタンオペラのごとし。

この公演では幕ごとに加治屋百合子など別々のカップルがプリマを務めるというデタラメな配役をやっているが、チャールズ・バーカー指揮の東京シティフィルが劇伴をあいつとめておりますが、まことに凡庸雑駁そのもの。とかくバレエ愛好者の大半は音楽などどうでもよいのだろうが、見るのも聴くのも退屈で、時間の浪費でした。

30年前のバレエとは男性の踊り手が黒子となって徹底的に女子の美しさを見せつけることに本質があったのに、その後随分と様変わりしたことよ。当時は女子のアウターとパンティーのカラーコーデネートさえちゃんとできていなかったものだ。

それにしても男のダンサーの恥部の異様なまでにこんもりとした盛り上がりはなんとかならないものか。誰よりも愛と平和と民主主義、そして泰平の公序良俗を尊ぶ私などは、あんな醜くけったくその悪い猥褻物をずらずら陳列するくらいなら、いっそ男役はみなあそこをちょん切った宦官だけに限定してほしいと思うのだが、どんなものだろうか?


キトリ:加治屋百合子 バジル:ダニール・シムキン ドン・キホーテ:ヴィクター・バービー サンチョ・パンサ:フリオ・ブラガド=ヤング ガマーシュ:アレクセイ・アグーディン メルセデス、森の精の女王:ヴェロニカ・パールト エスパーダ:コリー・スターンズ 花売り娘:サラ・レイン、イザベラ・ボイルストン キューピッド:レナータ・パヴァム他アメリカン・バレエシアター

音楽:ルードヴィヒ・ミンクス 原振付:マリウス・プティパ、アレクサンドル・ゴールスキー 改訂振付:ケヴィン・マッケンジー、スーザン・ジョーンズ 管弦楽:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 指揮チャールズ馬鹿 会場:東京文化会館


小泉画伯の遺体を乗せし霊柩車妻のカローラに別れを告げたり 蝶人

Sunday, January 08, 2012

梶村啓二著「野いばら」を読んで

照る日曇る日第482回


これは日経新聞が公募したコンテストで見事グランプリを獲得した小説です。選者の中に縄田なんとかというひじょうにいかがわしいひょーろん家がいるので眉つばで読みだしたのですが、いまどき珍しい史実とロマンを表題の香り高い植物に結実させた秀作でした。なるほどこれならゆうに賞金1千万円に値する作物です。

私はよく知らなかったのですが、世の中には種子の遺伝子情報を売買する種苗産業が国際的なМ&Aを繰り広げていて、たとえば韓国では1990年代に財政破たんした際にキムチ用の固有の白菜、大根の遺伝子情報を持つ種苗会社が欧米系の種苗コングロマリットに買収されてしまったそうですが、そんなこととはつゆ知らず私たちはキムチを美味しく頂いているわけです。

沈黙の遺伝子帝国とも言われるそんな日本の種苗会社に勤務する商社マンが、偶然英国の田舎で日本風の庭園に出会い、庭園の女主人から手渡された150年前の先祖の古びた手記を開くと、そこに登場するのはアーネスト・サトウを思わせる英国の外交官と彼に日本語を教授する謎の美しい大和撫子……。幕末の動乱を舞台にした海を越えた激しく、そして清らかな恋の物語のはじまりです。

結局恋する2人には哀しい結末が待っているのですが、そのロマンスを折に触れて彩るのが本作のタイトルにもなった日本原産の野いばら(野薔薇)。春にはむせるような甘美な芳香と共に白く小さな無数の花弁を付け、秋には深紅の果実を付けるこの美しい植物は、ちょうどこのころに欧米に移植され、後にさまざまな交配を経て今日私たちが薔薇としてめでる華麗な飛躍を遂げるのですが、著者はそんな歴史的事実を踏まえつつ、いわばつぼみの時代の花と人間と国家の象徴としてこの海を渡った植物をいとおしく描写しています。

2人の主人公が囁いたように、あらゆる植物の中で小輪の野薔薇ほど美しいものはない。
それが毎年拙宅の壺庭の上に崖から咲き下る可憐な花をうっとり眺めている私たち夫婦の実感でもあります。

野薔薇咲く崖下の家に棲みにけり 蝶人

異国に咲きはかなく散った燃える恋百五十年後も匂いは失せず 蝶人

Saturday, January 07, 2012

小澤征爾×村上春樹著「小澤征爾さんと、音楽について話をする」を読んで

照る日曇る日第481回

クラシックとジャズに一家言ある作家だからこういう対話集を出してもおかしくはないが、それが小澤征爾とはちょっと意外だった。なんでも村上氏の細君と指揮者の娘さんが仲良くなって家族ぐるみの交際をするようになった副産物らしい。あんまり期待もしないで読み始めたのだが、これが意外なことにとてもおもしろく、あっという間に読み終えて、新年早々良い音楽を聴いたときのような軽い幸福感を味わうことができた。

対談と言ってもほぼ100%小説家が聞き手です。くだんの音楽家に3回ほど時間をとって比較的素朴な質問を発すると、それに音楽家が一生懸命誠実に答える。そのあとでテープの録音を小説家が丁寧にリライトしたものなのであるが、プライベートな時空間における対話であることと、聞き手の切り口が単純で明快で率直にして巧妙なために従来のインタビューや対談からはとうてい聞き出せなかった音楽家の偽らざる本音が、音楽と生活の両面にまたがってじゃんじゃんとこぼれおちる。私のように小澤の音楽をてんで評価しない冷たい人間にとっても望外の収穫がありました。

特に精気がみなぎるのはレコードやCDやDⅤDを視聴しながら2人で感想戦?を戦わせるくだりで、50年代にグールドとバーンスタインやカラヤンが入れたベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番のレコードを聴きながら、今は亡きグールドや現役の内田光子の天才やゼルキン父子の思い出を今ここに流れている音楽に即し、ともにスコアを見ながらあれこれ具体的に語るところはものすごく説得力がある。私も彼らと同じ音源を流しながら彼らの発言を読んだが、小澤本人はもちろんだが村上春樹の音楽の読みの深さには秘かに舌を巻いた。これあるから小澤も進んでみずからを開いたのだろう。

マーラーやサイトウキネンやウイーン国立歌劇場、スイスのロール(ゴダールの居住地!)で開催されている国際音楽アカデミーのマスタークラスについても知られざる情報がてんこもり。師事したバーンスタインやカラヤンとの生々しいエピソードはもちろんだが、世界中の行く先々でオーマンディーやベーム、クライバー、ルビンシュタイン、ヨーゼフ・クリップス、ポネル、パバロッテイ、フレーニなどの音楽の先輩たちから与えられた数々の無償の好意と友情を授かったアジアの音楽快男児の持って生まれた幸運を思わずにはいられない。

小説家が、自分は音楽を作曲するようにして毎朝4時から小説を書いているとふと漏らす言葉も意味深い。そういえば漱石、荷風、潤一郎にしろ春樹、光代、弘美にせよ優れた小説家の文章の芯にはそれぞれに固有の音楽が流れているな。


倒れながらよくぞ電話をかけてきた正月6日義母92歳 蝶人

Friday, January 06, 2012

橋爪大三郎×大澤真幸著「ふしぎなキリスト教」を読んで

照る日曇る日第480回

私の家はなぜかプロテスタントであったから、幼いころから教会に通わされて牧師の説教を聞いたり讃美歌を歌わせられたりしたものだ。それで大略キリスト教についてはわかったような気がしていたのだが、本書を読んでとそんなものは一知半解の胡乱な代物のであったとはじめてわかった。

新約聖書ではマタイ・マコ・ルカの共観福音書がメインであると勝手にかんがえていたのだが、その中ではマルコ伝の記述がいっとう古くて、それをもとにマタイ伝とルカ伝が書かれたとか、それに先立って決定的に重要なのはパウロによるローマ人やコロント人などへの書簡で、有名な12人の使徒でもなく、生前のイエスに会ったこともなく、キリスト教徒を弾圧していたこのローマ在住トルコ生まれのごりごりのユダヤ教徒徒が突如イエスは救世主であったと称してその要点をレポートしたのがこの新興宗教のはじまりであり、その後であわててイエスの思い出話をかき集めたのが福音書だったとは知らなんだ。いくつになっても恥はかくものです。

私自身はげんざいは汎神論的な無神論者であり、とりわけイスラム教やユダヤ教やキリスト教などの一神教にたいしてまったく好意を抱けないのだが、それにしても古代オリエントの砂漠地帯に出没した教義すらない超ローカルな宗教が、いつのまにやらこれほど巨大な世界宗教になりあがったことが不思議でならない。

個人的には人だか神だかよく分からないイエス・キリストという人物には興味があるが、神とキリストと精霊が3にして1であるという不可解な「三位一体」説だとか、聖書にはでてこないのに市民権をえた「煉獄」、教祖パウロの後継者と称するローマ法王庁だとか、多くの反対者を異端として弾圧する公会議というのも不条理な存在ではある。

しかしいかに怪しい宗教団体であろうとも、それが西欧世界の社会的文化的中心にあって人類の発展と進歩に絶対的な影響をもたらしてきたことも事実であるから、その正体を追及するこころみもあながち無駄ではない。
本書はそもそもキリスト教とは何か? イエス・キリストとは何者か? について論客の2人が縦横に質疑応答しながら論じた後で、西洋文明の中核を貫くキリスト教の本質について考察するというきわめて時議を時宜を得たハンドブックといえるだろう。


「徳洲会は世界を癒す」というポスターの下でリハビリを受けている妻 蝶人

Thursday, January 05, 2012

内田樹著「呪いの時代」を読んで

照る日曇る日第479回

本書が誕生したきっかけは、著者がある日編集者に「現代は呪いの時代である」と呟いたからだそうだ。これを切り口にして「婚活」「草食系男子」など「日本辺境論」以降の日本および日本人の動向や病根や震災や原発に関する著者独自の文明論が続々と繰り広げられていくのだが、それはぜんぶ本書を読んでのお楽しみということにしましょう。

それで最初に戻って現代は呪いの時代かと自問すれば、わが国は平城平安の時代からずずっと呪いを基軸にして社会全体が変転してきたのだと考えられ、平成の御代になって急に呪いが時代のキーワードになりあがったのではけっしてない。呪いとそのフォローがなければ古事記も日本書紀も源氏物語も平家物語も太平記も法隆寺も北野天満宮もけっして正史に登場しなかったし、本邦の光輝ある文化文明の本源はじつにこの呪いにあるのである。

翻って我が身を顧みれば呪いこそが知情意を牽引し、そのダイナモ役を仰せつかってきたことは火を見るより明らかである。胸に手を当てて静かに考察すれば、呪いの前には優秀な他者への絶望と羨望と嫉妬が先にたち、これの不可能を知るに及んでおもむろに恐るべき呪いの発動がやってくる。

呪いは人間として最悪最低の悪い意志、否定的な情動であるが、いちばんよくないのはその核心部分に他者の全面否定と破壊と殺意が内蔵されているからである。他者への憎悪と殺意は己自身を猛毒で傷つけるのみならず、未来への希望と世界への友愛を損傷し、その挙句に、人を呪わば穴ふたつ。呪う人はみずからも墓穴を掘るのである。

著者は本書で閉塞状態にある社会と暗欝な人心に光をもたらすものは、「おはよう!」「こんにちは!」など祝福の言葉の交換交流と、クールな市場の「交換経済」から友愛あふれる「贈与経済」への転換であると力説しているが、密室の奥でどす黒い呪いに自縄自縛されているわたくしの耳目には、それがどこか遥か彼方の夢物語のように響くのであった。


資本主義でもない社会主義でもない公正主義を空想す 蝶人

Wednesday, January 04, 2012

高橋源一郎著「恋する原発」を読んで

照る日曇る日第478回

なんでもそうだが、大事件のあとで国全体、国民全体が白一色、赤一色に染まるのはよくない。それは闇世界の平成大政翼賛会が推進する精神の自由と民主主義の危機の姿であるともいえよう。

しかし9・11のNYでは「これまで見た最も美しい光景だ」と正直な感想を洩らした建築家がいたし、今度の大震災では「ぼくはこの日が来るのをずっと待っていたんだ」と語った有名人もいるそうで、世間の顰蹙や指弾をものともせずに心中に抱懐した存念を大胆かつ率直に公開するのはとても大事な民衆的行為だと思う。

それを著者も本書でやった。福島原発の大爆発と放射能汚染が帝国とその人民を瀕死の瀬戸際に追いやっているというのに、この小説の主人公の頭にあるのは売れるAⅤのアイデアだけ。来る日も来る日も腐れちんぽとおまんこと最新型ダッチワイフをめぐる下らない性愛の下半身ネタがダダの漫画のようにただただ書き連ねてある。

ここに対比され交錯し衝突しているのは絶望と希望、悲劇と笑劇、知性と痴性、大脳前頭葉と末梢神経、聖と俗、形而上と形而下の世界であり、著者がここで期待したのは相反する要素の弁証法的な調和であったが、その勇気ある壮大な意図が所期の成果を収めることなく不完全燃焼で終わってしまったのは、あらかじめ予想されたこととはいえ、いささか残念なことだった。


この世の不条理と不如意に怒りの津波が押し寄せるとき 蝶人

Tuesday, January 03, 2012

サイモン・ラトル指揮・ベルリンフィルの「フィデリオ」を視聴して

♪音楽千夜一夜 第240回

2003年のザルツブルク復活音楽祭における演奏ですが、この頃のラトルの音楽は中途半端でいったい何を考え何をやりたいのかさっぱりわからず、せっかくベルリンフィルを起用しながら奏者にも戸惑いが感じられるベートーヴェンです。

演出は才人ニコラウス・レーンホフだが、どうってこともない。フロレスタンにジョン・ヴィラーズ、レオノーレにアンゲラ・デノケ、夫婦の危機をあわやというところで救済する大臣役でトーマス・クヴァストホフも出演しているが、だからと言って公演の熱がヒートアップする気配もなし。

こんな曇り時々小雨のような出しものを見せられる観客もかわいそうな気がするが、それでも終わるとブラボーなぞという手を叩いている。ブーと言え、ブーと言え、この阿呆めがと呟きながらわたしはスイッチを切りました。

ブーと言えブーと言えこの阿呆めがとお前は今年も悪口を言うのか 蝶人

Monday, January 02, 2012

ヤンソンス指揮・ウイーンフィル・ニューイヤーコンサートを視聴して

♪音楽千夜一夜 第239回


2012年の指揮棒を振るのはマリス・ヤンソンス選手。2006年に続く2回目の登場ですが今年の演奏はまことに聴きごたえがありました。前半はそれほどでもなかったが休憩後の「ピッチカート・ポルカ」は息を呑むような名演で、手あかにまみれたこの曲がこれほど新鮮に聴こえたことは一度もなかった。ついで「ペルシャ行進曲」の奇想、「うわごと」「雷鳴と電光」の動的精気、「チック・タック・ポルカ」の喜悦、そして「美しく青きドナウ」の淡麗優美までおもわず膝を正して聞きいるほどの素晴らしい名演の数々。
これまでメスト、小澤、メータ、マゼール、バレンボイム、アーノンクールなどの凡演に接してきたこのロバの耳が久しぶりにヒヒンと鳴いてよろこぶカラヤン、クライバー以来のウインナワルツの歴史的名演奏でした。

テレビの画面で見る限りちょっとやせ過ぎではないかと案じられましたがまだ68歳、バイエルン放響、ロイヤルコンセルトヘボウのシェフを務め、当代随一、現存指揮者世界最高のマエストロの治世は、これからも当分つづくのでしょう。


二晩も塩見洋一の夢を見たり どうしているか塩見君 蝶人

Sunday, January 01, 2012

ショルティ指揮・ウイーンフィルの「魔笛」を視聴して

♪音楽千夜一夜 第238回

懐かしや今は亡きゲオルグ・ショルティが91年8月8日のザルツブルク音楽祭に登壇してモーツアルトの名作オペラを振っています。

この人はいつもエネルギッシュに鋭角的な切り込みをしますが、序曲もかなりあわただしくはじまる。このぶんではどうなるのかなと危ぶんでいたら幸いにも終わった所で拍手が来たので、ショルティも思わずにっこり。ここからは落ち着きを取り戻した演奏に戻りました。彼の手兵シカゴ響と違って、名代の老舗ウイーンフィルは根拠もなく強引にドライヴされるのを本能的に嫌うのです。

全体的には無難なモーツアルトに終始しましたが、面白かったのはパパゲーノが鈴を鳴らすところで、御大ショルテイみずからがハープシコードで演奏していること。思いがけないサービスに観衆は大喜びです。

しかし演奏よりも見事だったのはヨハネス・シャープの演出、それよりも優れていたのは美術、照明、衣装のアンサンブル。特にアンリルソーを思わせる舞台美術が美しく、これまで劇場やメディアで見聞した様々な意匠を上回るその完成度の高さに驚くとともに、その後20年間の演出家や美術スタッフはいったいなにをしてきたのかと疑わしくなるほどでした。

しかしその演出にも問題があって、ラストの大団円になるとフィナーレの音楽を歌いながら登場したザラストロの僧侶たちの集団が主役のタミーノやパミーノたちを覆い隠して姿が見えなくなってしまう。意味不明のやりくちにいきなりブーが飛んだのは、けだし当然の反応でした。

出演 デオン・フォン・デア・ヴァルト(タミーノ)、ルース・ツィーサク(パミーナ)、アントン・シャーリンガー(パパゲーノ)、エディット・シュミット・リンバッハ―(パミーナ)、ルチアーナ・セーラ(夜の女王)、ルネ・ハーペ(ザラストロ)、フランツ・グルントヘーバー(弁者)、ハインツ・ツェドニク(モノスタトス)演出:ヨハネス・シャープ 1991年8月8日、ザルツブルク祝祭大劇場のライヴ公演

泣け笑え 歌え踊れ 汝幸なる魂よ 蝶人

ショルティ指揮・ウイーンフィルの「魔笛」を視聴して

♪音楽千夜一夜 第238回

懐かしや今は亡きゲオルグ・ショルティが91年8月8日のザルツブルク音楽祭に登壇してモーツアルトの名作オペラを振っています。

この人はいつもエネルギッシュに鋭角的な切り込みをしますが、序曲もかなりあわただしくはじまる。このぶんではどうなるのかなと危ぶんでいたら幸いにも終わった所で拍手が来たので、ショルティも思わずにっこり。ここからは落ち着きを取り戻した演奏に戻りました。彼の手兵シカゴ響と違って、名代の老舗ウイーンフィルは根拠もなく強引にドライヴされるのを本能的に嫌うのです。

全体的には無難なモーツアルトに終始しましたが、面白かったのはパパゲーノが鈴を鳴らすところで、御大ショルテイみずからがハープシコードで演奏していること。思いがけないサービスに観衆は大喜びです。

しかし演奏よりも見事だったのはヨハネス・シャープの演出、それよりも優れていたのは美術、照明、衣装のアンサンブル。特にアンリルソーを思わせる舞台美術が美しく、これまで劇場やメディアで見聞した様々な意匠を上回るその完成度の高さに驚くとともに、その後20年間の演出家や美術スタッフはいったいなにをしてきたのかと疑わしくなるほどでした。

しかしその演出にも問題があって、ラストの大団円になるとフィナーレの音楽を歌いながら登場したザラストロの僧侶たちの集団が主役のタミーノやパミーノたちを覆い隠して姿が見えなくなってしまう。意味不明のやりくちにいきなりブーが飛んだのは、けだし当然の反応でした。

出演 デオン・フォン・デア・ヴァルト(タミーノ)、ルース・ツィーサク(パミーナ)、アントン・シャーリンガー(パパゲーノ)、エディット・シュミット・リンバッハ―(パミーナ)、ルチアーナ・セーラ(夜の女王)、ルネ・ハーペ(ザラストロ)、フランツ・グルントヘーバー(弁者)、ハインツ・ツェドニク(モノスタトス)演出:ヨハネス・シャープ 1991年8月8日、ザルツブルク祝祭大劇場のライヴ公演

泣け笑え 歌え踊れ 汝幸なる魂よ 蝶人