Thursday, March 31, 2011

吉田司著「カラスと髑髏」を読んで

照る日曇る日 第420回 「世界史の闇の扉を開く」という副題がついていますが、これは文字通り東西の世界史を、古代から現代まで牛若丸のように、ここと思えばまたあちらと縦横無地に飛び回って、私たちの立場を再確認しようとするサーカスの空中ブランコ芸人のような超軽業的な試みです。 著者によれば、第1部では天皇制と武士道という2つのイデオロギー怪物を解剖し、第2部では西洋思想の根幹となっているキリスト教と資本主義という2つの物神の怪物と戦うために聖母マリアの処女伝説を解体し、番外編では、フラットな世界を変えるための仮設の冒険を行うといい気宇壮大な思考冒険を敢行しています。 そしてそのドンキホーテ的な試行錯誤は、終章のアメリカ帝国初源の光景を幻視する箇所では急性インポテンツ状態に陥ったようになってあえなく頓挫してしまうのですが、そこに至るまでは、鋭い直観と精力的な博引旁証、力任せの三段論法をマサカリのようにぶんぶん振りまわし、ともかく大団円にまで漕ぎつける。その圧倒的な知の渉猟振りは、ほとんど感動的であるとすら言うてよろしいでしょう。 二〇〇六年九月にアメリカを訪れ、ボストンのハーバード大学の近所の公園で、当時イラクで戦争を続けていたブッシュ大統領を弾劾し、明治三五年頃に本邦で流行った「ワシントン」の歌を絶叫したというこの人を、私は♪てんで恰好いい奴だな、とすらひそかに思っているのです。 天は許さじ 良民の自由を蔑する 虐政を一三州の血は 滾りここに立ちたる ワシントン 死地に乗りゆくあほばか兄弟てんで恰好よく死にたいな 茫洋

Wednesday, March 30, 2011

西暦2011年弥生 茫洋狂歌三昧

♪ある晴れた日に 第87回  白き蛇緑の沃野を舐めつくす 猛る蛇人も大地も喰い尽くす みちのくのうみべのむらをさまよいてちちよははよとよばわるひとあり おおいなるよなとつなみにおそわれしわがはらからをたすけたまえ みちのくのうみべのすなにうちふしてちちよははよとよばわるむすめ ノーディレクション地方差別の無計画停電に私は到底同意できない 利幅薄き莫大小の商いで10億円を寄付したる人 我天に唾せしが天は我に罰を下したまえり 天に向かって唾したが天はなんにも言わなんだ 自らの傲慢強欲棚に上げ天罰を説く東京都知事  堕ちよ堕ちよダンダラ星堕ちよ 復興の祈りよ届け天に舞う四十四歳孤高のダンス 草木国土悉皆成仏東北大地震諸霊祈願成仏 本当に神を信じて信じきれば奇蹟は起こるとドライヤーは信じる 霊苑の線香消えて寒桜 たらちねの母はいつまで生きるやら 佐々木眞午後六時也薄日射す 卒塔婆一本先祖代々癌の家 肘は秘事カンヌの夜空に花火舞い散る 母さんがdecentな女になれというから悪女になりました 人間は性欲人間と非性欲人間および時独性欲人間の3種に分かたれる あほばかテレビに出るなリビアに行けあほばか戦争カメラマン われが掘り水を与えし池二つおたまじゃくしの卵浮きけり 大きな胸をゆさゆさ揺らして消えていった 猿になったともう人間じゃないと騒ぎしが尻から出たる回虫なりき 亡き祖母と生きてる母の念力で豚児のあの絵は売れたと思う けんちゃんのひゃくごうのえがうれたよるつまはなきたりわれはほえたり 今のところできる恩返しはこれだけと息子は母の全身を揉む 筆一本生きることの悲惨と栄光 われは聴く死にゆく白鳥の最期の一節 美しき歌声 文章も思想も無骨な文学者の作物のほうが値打ちがある この一蹴天に届けと叩き込む四十四歳ロンリーウルフ 茫洋

Tuesday, March 29, 2011

西村賢太著「苦役列車」を読んで

照る日曇る日 第419回 このように己が中卒であり、人生の敗残者であり、あまつさえ父親が性犯罪者であることを小説の中で暴露したり、卑下しているようで自慢したりする文学者はとても面白いと思うけれども、友人としては絶対に付き合いたくない。 芥川賞を受賞した表題作は、4帖半一間1万5千円のその日暮らしの若者が日当5500円の肉体労働にいやいや従事してやさぐれ、世間の成功者を妬み嫉み、そして鬱屈し、自涜し、たまに糞袋に精を遣りにいって身も世も呪いつつ自滅していく話で、底なしの自虐がいっそ心地よい60年代にはよくあった青春をコピーした私小説でどうということもないが、冒頭に「嚢時」なる旧弊の漢字をあえて使用したところに、著者の傲岸不遜さとあえかな矜持があらわれていると読んだは当方の僻目か。 そのようにいくぶん恰好をつけて書かれた「苦役列車」に比べると、同じ書物の後半にグリコのおまけのように収められた「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」では、著者のやけくその捨て身の私小説家魂が赤裸々に叩きつけられていて、妙に胸をつかれる箇所がある。 「彼は文名を上げたかった。(中略)名声を得たなら、彼を裏切り別の男に去っていった女のことも、たっぷりと後悔さしてやれる。自分の方がはるかに価値ある男だと云う事実を思い知らしてやるのだ」 「後悔させて」ではなく、「後悔さして」であり、「知らせてやる」ではなく「知らししてやる」と書いてしまうところにが、この人の本質がある。さうしてインテリげんちゃんならそう思っても絶対に書かないほんとうの本音を、この人はまるで芥川と対抗して都落ちしていた頃の菊池寛のように、マジで書いてしまうのだ。 復興の祈りよ届け天に舞う四十四歳孤高のダンス 茫洋

Monday, March 28, 2011

桐野夏生著「ポリティコン」下巻を読んで

照る日曇る日 第418回 ポリティコンとはソクラテスのいう「政治的動物」のことらしい。どんな高邁な理想を掲げた共同体のなかにもいつのまにか忍びこむ、政治的な思惑や経済的利害の対立、愛と協働の美辞麗句とはうらはらに、共同体の基盤を揺さぶる人間同士の羨望と嫉妬と憎悪と敵対……。それらが複雑に交錯しながら政治的動物の終わりなき悲喜劇が月山と鳥海山の麓で繰り広げられるのである。 先祖が立ち上げた理想郷「イワン村」の新理事長の高浪東一は、言いなりにならない初恋の人マヤをヤクザに叩き売って金をせしめ、親の威光を借りて「平成版農業ディズニーランド」として再編することに成功したと見えたが、それもつかの間、おのれの強欲と老・中・青の離反によって権力の座から転落してしまう。 上下巻を通じてもっとも興味深いのが、この軽薄で単純明快で粗野で生真面目な平成の「イワンの馬鹿」であろう。 一方東京・横浜のピンク街でホステス稼業に身をやつしていたマヤは、恩人の葬式で「イワン村」に戻るが、ついに中朝国境で脱北者の斡旋業をやっている母親との連絡がつき、、権力闘争に敗れて村から遁走する羽目になった「イワンの馬鹿」とのヨリを戻して、もういちど新たな人生を始めようと決意する。 まあざっとそういう話であるが、こう総括してみるとかなり竜頭蛇尾のロマネスク小説ではあったなあ。下巻ではもっと物凄い展開になるかと期待していたのに、参った、参った。あと5年掛けて続編を書くべし、書くべし。 けんちゃんのひゃくごうのえがうれたよるつまはなきたりわれはほえたり 茫洋

Sunday, March 27, 2011

桐野夏生著「ポリティコン」上巻を読んで

照る日曇る日 第417回 いつもながらこの作者は物語の設定がコンテンポラリーである。今回は庄内平野の奥の農村部に小説家羅我誠と彫刻家高浪素峰が創設した武者小路実篤の「新しき村」のようなコミューン「唯腕村」を舞台に、かつて高邁な理想を追った公共思想家たちの子孫や後継者たちの現実に翻弄されてゆく混濁を凝視している。 創始者の衣鉢を継いだ新理事長の高浪東一を軸にして、創始者の同世代の一癖もふた癖もある老人たち、インテリ崩れのいわくありげなホームレス、母親が北朝鮮でとらえられた美少女、アジア系の魅力的な女性たち、「唯腕村」の無機栽培のブランド品等を都会に流通させてひと儲けしようとたくらむ得体の知れないビジネスマンなどが次々に登場して、読む者の興味を強烈に惹きつける。希代のストーリーテラーの面目が躍如とした上巻といえよう。 私有財産と欲望を否定し、愛と平和と社会貢献の大義名分を掲げて突き進んできたユートピアの輝かしい理想が、容赦なく押し寄せる高齢化や過疎化、グローバル経済化の嵐の中で、どのようにサバイバルできるのか、またどのような思いがけない変異を見せるのか? 最近おおかたの関心を集めてきた「新しい公共」というトレンドと戯れるような著者の壮大な思考実験の行方やいかに。下巻の疾風怒濤の大爆発が待たれる。 お知らせ→「佐々木 健 スティル ライブ展」は好評につき4月2日まで会期延長です。画廊にコンタクトしておでかけください。                http://www.aoyamahideki.com/         http://www.yomiuri.co.jp/stream/onstream/sasaki.htm

Saturday, March 26, 2011

川西政明著「新・日本文壇史第4巻」を読んで

照る日曇る日 第416回

本巻では小林多喜二、中野重治と妹鈴子、壷井繁治・栄夫妻、徳永直、日本共産党のスパイМ、野坂参三夫妻などのプロレタリア文学関連の挿話がこれでもか、これでもかと盛りだくさんに登場して読者を圧倒します。

マルクス主義者による階級闘争は昭和の初期からだんだん過激の度を強めてきましたが、彼らに対する官憲の弾圧も熾烈を極め、昭和8年2月20日に築地警察署の拷問で惨殺された小林多喜二や中野重治、埴谷雄高など数多くのプロレタリア文学者が鮮血迸る拷問を受けています。

とりわけ小林の拷問は凄惨を極め、バットや木刀で全身をくまなく殴りに殴り、太腿に針や錐を打ち込み、腹の上に靴のまま全体重を掛けて腹を踏まれた内蔵は破裂し、内出血した陰茎や睾丸は二倍に膨れ上がっていたそうですが、当時の革命家はこのような暴力の試練に抗しておのれの思想を死守する覚悟をつきかためていたようで、鉛筆で指をへし折られそうになっただけで弱音を吐くわたしなどは、彼らのような過酷な拷問にあえばたちまち右にでも左にでも転向し、場合によっては味方を売ったりすぐにスパイになったりしてしまいそうです。

ところが本書によれば日本共産党を代表する英雄的存在であった野坂参三は自分の細君と姦通していた親友山本懸蔵をソビエト共産党の幹部に密告して死に至らしめている二重、三重、四重のスパイであったそうですから、人間とはわからぬものです。

もっと興味深い存在は特高の親玉であった毛利係長に拷問されもしないのに、みずからが田中清玄以降の日本共産党の幹部となって、おのれの思想と組織と朋友をすべて敵に売り渡してしまったスパイМこと松村昇こと飯塚 盈延で、これほど興味深い深い人物もそうはいないでしょう。

その他、これまで美しい政治的抒情詩とばかり思い込んでいた中野重治の詩「雨の降る品川駅」の初出形が、昭和天皇の暗殺を示唆する過激な内容を含んでいたこと、彼の妹鈴子や壷井栄がいかに熱情的に男と革命を愛したか、「太陽のない街」の徳永直がいかに女性にだらしないあかんたれであったか、などなど、まさに巻を措くあたわざる諸国文藝裏噺の傑作です。


亡き祖母と生きてる母の念力で豚児のあの絵は売れたと思う 茫洋

Friday, March 25, 2011

吉田秀和著「永遠の故郷 夕映」を読んで

照る日曇る日 第420回

本邦音楽界の巨星、吉田翁の遺著の最終巻が刊行された。

ここではベートーヴェンとラベルがほんの少し取り上げられているほかは、すべてシューベルトの歌曲についての鑑賞と思い出が縷々語られており、一曲一曲に手書きされた楽譜と、みずから訳したゲーテやハイネの詩が手織りの刺繍のように編みあげられている。

ハイネの詞につけた「白鳥の歌」の6曲が翁によって小声で歌われたあとに、あの懐かしい「菩提樹」が俎上に乗せられ、この不朽の名曲がトーマス・マンの「魔の山」の主人公によって、戦場の吶喊の中で歌われたエピソードを語りながら、翁は美しい夕映えの中を永遠の故郷に向かって静かに歩み去るのであった。


われは聴く死にゆく白鳥の最期の一節 茫洋

Thursday, March 24, 2011

「田村隆一全集第1巻」を読んで

照る日曇る日 第419回&♪ある晴れた日に 第86回

今年はじめて花粉症になってしまったので、目にはサングラス、鼻にはマスク、頭には帽子をかぶってハイランド坂上の西友で2個だけ並んでいた冷凍ブロッコリーを買い占めて家路に急いでいたら、舗道の右側に生まれたばかりのキタテハが垂直の柱を立てるやいなや別のキタテハが飛んできて、その隣にあざやかな黄色い翅を広げた。ああ、小さな帆掛け舟のようだ。

春の海帆掛け乗り出す二羽の蝶 茫洋

花村萬月著「百万遍流転旋転 下巻」を読んで

照る日曇る日 第418回

最後の最後に、美しくて純情なヒロイン綾乃が東京に向かう深夜特急バスを降りて、主人公のあくたれ小僧惟朔に私はここであなたと別れます。大好きなあなたと別れて、私なしには生きていけない嫌いな男の元へ帰ります、と宣告するので驚いてしまった。

これが奇をてらいたがる著者のフィクションでなく実話であるならば、惟朔はどうして彼女を無理矢理引き留めるか、一緒に降りて百万遍に百万遍でも戻らなかったのか理解に苦しむ。

まだ19歳の癖に惟朔は覚醒剤を乱用して性的快感を亢進しようとするのであるが、そんなことばっかりしていたから芥川賞が獲れたのであった。


   文章も思想も無骨な文学者の作物のほうが値打ちがある 茫洋

Tuesday, March 22, 2011

花村萬月著「百万遍流転旋転 上巻」を読んで

照る日曇る日 第417回

著者自身を思わせる東京生まれの未成年が、1973、4年の京都に滞在しながら、絶世の美女やら清純な高校生やら古本屋の人妻やら綾部出身の京大病院の看護婦やら、レスビアンの芸大生やらに寄ると触るとたちまち惚れられ、会うや否やただちに挿入し、また引っこ抜いて挿入し、窓のない下宿の六畳間でも電柱の傍でもトイレの中でも、連れ込みでも京都ホテルのベッドでも激しく突きあげ、あいともに声を上げ、のたうちまわって性交し、性交する度に極度の絶頂に幾たびも達し、そのことを決して忘れず、そのことが癖になってますます愛されるようになり、尻の穴にお互いにシャブを突っ込みあって全身ぞくぞく痙攣し、三白眼の人妻に首を絞められて半死半生になり、ヤクザの情婦の目の前で情婦をあちらの世界にいかせ、中卒なのに京大生を名乗っておばはんたちに尊敬の眼で見つめられ、千本通りを北上して北山通りから北白川を経て、市電の六番で左京区の百万遍界隈をぐるぐる回って出町柳のラ・ボエームでマリア・カラスの夢遊病の女を聴く。そういう長髪のヒッピーに私もなりたい。

人間は性欲人間と非性欲人間および時独性欲人間の3種に分かたれる 茫洋

フロリアン・ドナースマルク監督の「善き人のためのソナタ」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.113

1984年当時の東ドイツの恐怖と不自由の警察社会を赤裸々に描くヒューマンドラマです。東独の国家保安省という国民を監視する国家機関に勤務する一人のスパイが主人公で、反体制的と目された劇作家とその恋人の暮らしを盗聴している間に、おのれの所業を恥じ、体制に逆らってまで彼らを庇護しようとするのですが、そのきっかけになったのが表題の音楽でした。

 劇作家が先輩の反体制演出家から形見のようにしてもらった「「善き人のためのソナタ」を自分で演奏しながら恋人にこう呟きます。

「レーニンはベートーヴェンの「熱情」を真剣に聴き過ぎると「革命」に打ち込めなくなると言ったが、この「善き人のためのソナタ」を本気で聴いていると「悪人」になれなくなる」

そしてその意味ありげな言葉を、その音楽とともに盗聴していたスパイは、どういうわけか当初の悪人根性を捨てて、「善き人」になっていくのです。

目前に破滅が迫っていた劇作家は、この「善き人」の善き魂のおかげで一命を救われ、ベルリンの壁が崩壊して自由が回復された後で、彼へのその感謝を込めた「善き人のためのソナタ」という書物を書くというなかなかに感動的な物語です。肝心のソナタとその演奏が、ベートーヴェンの「熱情」ほど感動的な音楽ではないという一点をのぞけば。


悪き人が善くなれば善き人善き人が悪くなれば悪き人 茫洋

Sunday, March 20, 2011

松井今朝子著「吉原十二月」を読んで

照る日曇る日 第415回


この本の主役は吉原を代表する廓の主人舞鶴屋庄右衛門。彼が少女時代に発掘し手塩にかけて磨いた二人の花魁に焦点をあてて、彼女たちの紆余曲折に富んだ華麗なる半生をあざやかに描いています。

性格も容貌も対照的な主人公の生き方、彼女たちをとりまく富裕な商人や武家、そして「昼三」(昼間でも三両)といわれる花魁の膨大な収入に依存して生きる妓楼、引手茶屋などの生業の細部が正月に始まり師走に終わる12か月のカレンダーに沿ってきめ細かく描写したこの本は、吉原の光と影をたくましく生き抜いた薄幸の女性たちの人生ドラマであるだけでなく、吉原という江戸時代の巨大性産業のメカニズムを活写したソーシャル小説であるともいえるでしょう。

現在の吉原もトルコなどの性産業の一大拠点ですが、本書を手に取った人は、田沼時代から松平定信時代の吉原に実際に登楼した思いに浸ることができるでしょう。


*謹告「佐々木 健 スティル ライブ展」は、会期が終了しましたが、まだ展示されています。画廊にコンタクトしておでかけください。                  http://www.aoyamahideki.com/         http://www.yomiuri.co.jp/stream/onstream/sasaki.htm

レヴァイン、メト、ドミンゴの「シモン・ボッカネグラ」をみて

♪音楽千夜一夜 第183夜

 これは昨年2月6日、メトロポリタン・オペラ公演のライブ録画です。なんといっても聴きどころはファルスタッフそっくりのジェームズ・レヴァインの指揮と、なんとバリトンで歌うプラシド・ドミンゴの歌唱でしょう。

 前者については文句なし。いまや故セルのオペラ演奏もかくやという充実し切った音楽の洪水を熟練演奏家たちから自在に引き出しています。表題役のドミンゴのバリトンを聴くのは、これが初めてですが、テノールとは一味違った渋い喉をたっぷり聴かせてくれます。さすがに年齢を感じさせますが、彼の演技にはまだ見るべきものがたくさんあります。

 ドミンゴより年上なのに衰えを知らない歌いっぷりを披露しているのは、敵役フィエスコを演じる超ベテランのウイリアム・モリス。彼こそはメトの守護神的な存在ではないでしょうか。演出のジャンカルロ・デルモナコは音楽を破壊しない正統派の則を守っていて好ましい。

 シモン・ボッカネグラの娘役のアドリエンヌ・ピエチョンカ、その恋人役のマルチエロ・ジョルダーニも好演ですが、私は若い人には興味なし。まもなく死んでいく20世紀の大歌手たちの残んの声をば、貝の耳の奥底に響かせて終わりたいとひそかに考えているのです。

昔から政治も文藝も生活も大の保守派であった私には、再現音楽は1950から70年代まで、指揮者は新旧クライバー、ピアノはグールド、チエロはカザルス、お歌はカラスとデイースカウまででもう結構。いまどきの若いピアニストやバイオリン、チエロ、歌手の演奏などみんなまとめて犬に食われてしまえばよいのです。ワンワン。


今のところできる恩返しはこれだけと息子は母の全身を揉む 茫洋

Friday, March 18, 2011

梅原猛著「親鸞と世阿弥」を読んで

照る日曇る日 第414回

標題による最新の論文をまとめて読めるのかと期待したが、そうではなく、著者が東京・中日新聞に連載中の「思うままに」という週1回のエッセイの2007年から10年8月分をまとめた本であった。親鸞も世阿弥も同じような内容の書物を別の出版物で読めるので、あえてこんなまあ雑文集に目を晒す必要はないであろう。

それでも「教行信証」に見られる強烈な悪の自覚は、親鸞の母親が親殺しの源義朝の娘であることに因って来たっているとか、天台宗と真言宗を綜合した天台本覚論の「草木国土悉皆皆成仏」という思想は、先進国中国からの直輸入ではなく日本固有のオリジナルな思想である、などの指摘は、論証のきめは相当に荒いとはいえはなはだ興味深いものがある。

「太陽」が万物の創造主であるという視点を欠落したために腐敗堕落して完全に行き詰まった西欧のギリシア=キリスト教哲学を、太陽神ラーとアマテラス神話を導入した新しい哲学で革新し、化石燃料で行き詰まった環境問題を新しい太陽光発電で大転換せよという勇ましい提案などは笑って読み飛ばすとしても。


草木国土悉皆成仏東北大地震諸霊祈願成仏 茫洋

Thursday, March 17, 2011

レイモンド・チャンドラー著「リトル・シスター」を読んで

照る日曇る日 第413回


 これは村上春樹が翻訳したチャンドラー6番目の長編探偵小説で、以前は「かわいい女」という題名だった。

 しかし読んでみると、この女性は容姿や所作にかわいいところが少しはあるものの、腹黒く、とんでもない食わせものであるから、村上がいうように「末妹」というタイトルのほうが内容的にはよりマッチしていると私のような門外漢にも思われる。

 女2人、男1人の3人きょうだいが、長姉のハリウッド女優の卵をめぐってやくざがらみの犯罪を引き起こし、例によって美女の美脚に弱い私立探偵マーロウが、あれよあれよと巻き込まれ、命からがらロスの街をさまよい歩くというよくある話なのであるが、不思議なことにこの小説、誰の翻訳で、何回読んでも、いったい誰が、なぜ、誰を、どうやって殺したのかが五里霧中なのである。

 にもかかわらず、これほど読んで面白いミステリーもざらにはないというところが、本書のもっともミステリーな部分であろうか。翻訳がこれほどに拙劣で(彼のレーモンド・カーヴァーなどとは大違い!)プロットなんざそうとういい加減でも、探偵と犯人候補者たちが、いい文章で魅力的に描かれていれば、それで結構毛だらけ猫灰だらけなのである。

 このちょっと古風な探偵小説を読みながら、私はロサンジェルスを懐かしく思い出した。いくら近代的なビルジングが建ち並び観光客がうろついていても、サボテンの茶色い枯枝が空っ風に吹かれてベヴァリーヒルズの舗道を舞っているこの天使の街の中心は、やはり聖なる森であり、その森の下には、太陽に焼きつくされて白くなった大量の砂が、人類以前の古生代の夢を見ながらむなしく眠っているのである。

 そしてそんな面妖な街の片隅で、我らが主人公フィリップ・マーロウは、今日もブロンド女に32口径オートマチックの銃把で頭をぶん殴られたり、「モーツアルトはやっぱシュナーベルだな」とうそぶく警官に一晩中尋問されたりしているのだった。


 おおいなるよなとつなみにおそわれしわがはらからをたすけたまえ 茫洋

Wednesday, March 16, 2011

井上ひさし著「井上ひさし全芝居その七」を読んで

照る日曇る日 第412回

この最終巻に収められたのは、「夢の裂け目」「夢の泪」「夢の痂(かさぶた)」、「水の手紙」「円生と志ん生」「「箱根強羅ホレル」「私は誰でしょう」「ロマンス」「少年口伝隊一九四五」「ムサシ」「組曲虐殺」という著者最晩年を華やかに彩った戯曲たちである。

彼が一枚一枚、一字一字神田金港堂のモンブランで書き刻んだ戦中戦後の日本人の精神ドラマを雪降る春の夕べに読んでいると、わが心の裡なる幻のステージで、豪華絢爛な演劇メドレーが次々に再演されていくような錯覚に陥り、さらに親子二代に亘ったこの頑固な「共産主義者」が、革命家小林多喜二を扱った「組曲虐殺」で擱筆せざるを得なかった運命を顧みると、感慨無量のものがある。 


けだしこれほどに面白くて可笑しく、我等の生活と思想について深々と躓かせてくれる演劇作家の最新作ともはや対面できないという悔しさと哀しさがこみあげてくる全七四五頁というべきであろう。

「組曲虐殺」についてはかつてこのスペースで感想を述べたことがあるが、著者の最後から二番目の「ムサシ」と同様、敵味方の流血の争闘をアウフヘーベンする無類の「笑いを含めた許しの境地」にいたく感銘を覚えた。前者ではタイトルとはうらはらに「虐殺」の血糊をあえて見せず、後者では二人の剣豪は対決を中止してそれぞれの平和の道を究めることになるのである。

これらの宥和的な姿勢は、東京裁判を取り扱った「夢の裂け目」「夢の泪」「夢の痂(かさぶた)」の三部作や、広島の原爆投下の悲劇を主題にした「少年口伝隊一九四五」の糾弾的なスタンスとはかなり異なるもので、これをもって著者晩年の思想的進化と見るのか、はたまた退歩ととらえるのかは、観者によってそれぞれの感想があるだろう。

私が今回のベストに選んだのは、ロシアの文学者チエーホフの生涯を描いた2007年に書きあげられた「ロマンス」で、ここにはチエーホフの芸術と人生のエッセンスが、著者みずからの創作の喜びと悲しみと重ね合わせるようにして、ひそやかに歌いあげられている。死んだ日露二人の芸術家は、骨の髄までボードビリアンだったのである。


利幅薄き莫大小の商いで10億円を寄付したる人 茫洋

Tuesday, March 15, 2011

マリオ・バルガス=リョサ著「世界終末戦争」を読んで

照る日曇る日 第411回

19紀末のブラジルの辺境の地で実際に起こった内乱を元にして、ペルーのノーベル賞作家が築き上げた魅惑的な形而上の世界です。そこでは希望と絶望、現実と幻想がないまぜになり、密林の内部で異常な増殖を遂げながら、仰ぎ見るような巨大で荘厳なゴシック様式の教会がそそり立つのです。

物語は、内陸部を遍歴する狂人のような聖人の草の根運動から始まります。教会と国家の権威を拒否し、私有財産や結婚制度、階級格差に反対する清貧の放浪者コンセリェイロ。そして彼を慕う無数の社会的弱者、奴隷、ごろつきや犯罪者たちは、辺境の奥地カヌードスに根を下ろし、地下人どもの「愛と平和の理想郷」を構築することに成功します。

富や権力闘争にまみれた共和国ときっぱり絶縁し、ひたすら心の平安を目指す「精神の共和国」に生きる人々を描く著者の筆致は温かく、地上に天国をもたらそうとする不可能に挑んだ、名も無き人々への共感にみちあふれたものです。

日本と同じような西欧化・近代化を目指すブラジル共和国の政治家と軍部は、そのような過激な共同体を国家とカトリックへの反逆とみなし、山にそびえる砦に向かって最強の暴力装置である第七連隊を差し向けるのですが、英雄セザル大佐は無惨な最期を遂げます。

権力対反権力の武力衝突というこの構図は、期せずして本邦の天草の乱や西南の役の英雄的な戦いを連想させてまことに興味深いものがありますが、再三にわたる攻撃を退けたコンセリェイロ軍も、ブラジル国軍八千名の総攻撃の前に全滅し、都市対山村、冨者対貧者、白人対混血、近代対前近代の一代決戦は、前者の最終勝利で決着したように見えます。

けれども、その後のブラジルでは第二、第三のコンセリェイロが間歇的に登場し、依然として世界最終戦の最終ラウンドが終わっていないことを雄弁に物語っているのです。


自らの傲慢強欲棚に上げ天罰を説く東京都知事 茫洋

Monday, March 14, 2011

ジョン・シュレシンジャー監督の「真夜中のカウボーイ」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.112

1969年のアメリカでは、テキサスの田舎者がニューヨークのような大都会に出てきて、己の性的魅力というか男根陰茎動力だけで生活できるというドンキホーテ的な妄想がリアルに息づいていた。ともいえる。そういう思わず笑ってしまうように楽しいような、しかしどうにも物悲しいような、もはや遠い目でしか眺めることのできない、懐かしい映画である。

NYの冬は猛烈に寒い。そのNYで売春婦に事後に20ドル要求して唖然とされたジョン・ボイトが、避暑地のマイアミに逃れてそれを許す婦人に出会えたことは、自由を愛する青年と合衆国にとっての大いなる喜びであったが、その時遅くかの時速く、心友ダスティン・ホフマンは乗りあいバスの中で帰らぬ人となってしまった。

当初水と油のような関係と思われた2人の青年を死線を越えて結んだ絆の中身はいったい何だったのだろう。その、地上ではなかなかに得難い稀少な友愛を、うざったいとも、まぶしいとも思えてくる名匠シュレシンジャー心尽くしのラストは、人類史上稀有な暑い夏への挽歌でもあったのでしょうか。


みちのくのうみべのむらをさまよいてちちよははよとよばわるひとあり 茫洋

Sunday, March 13, 2011

マーティン・スコセッシ監督の「ノーディレクション・ホーム」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.111

1941年にミシガンの片田舎に生まれた音楽少年ロバート・アレン・ジマーマンが、いかにしてボブ・ディランという偉大なミュジシャンになりおおせたかを、マーティン・スコセッシがあくまでも音楽内容に則して悠揚せまらず跡付けしてくれた記念碑的な労作である。

冒頭からフィナーレまで何度も色々なアレンジで聴かせてくれる「ライク・ア・ローリングストーン」や「風に吹かれて」「はげしい雨が降る」などの名曲を、功成り名を遂げた現在の彼の解説で次々に聴かせてくれる趣向もうれしい。

 数多くのミュジシャンやディレクター、プロデューサーなどの証言もきわめて興味深いもので、とりわけ彼が敬愛したウディ・ガスリーやジョーン・バエズとの相互交渉と別れなど、この映画を観てはじめて得心がいった。

 とりわけ若き日のディランが街角の不動産屋のちらし広告のコピーを何通りにもアレンジしながら早口遊び言葉のように無限のバリエーションを繰り出す姿は、街頭の即興詩人そのものである。

 古今東西の文芸作品の影響を受け、意味深い歌詞をフォークギターやロックバンドの調べに乗せたボブ・ディランに私淑する山本耀司が、彼の歌唱スタイルを真似して東芝EMIから出した「さあ行こうか」というCDを聴いてみるとこれがほとんど聴くに堪えない代物で、彼我の芸術の落差に愕然とさせられる。友部正人や友川かずきなどは、かなりうまく行った例だろう。
 ともあれボブ・ディランのファンならずとも楽しめるマーティン・スコセッシの労作である。


ノーディレクション地方差別の無計画停電に私は到底同意できない 茫洋

Saturday, March 12, 2011

カール・ドライヤー監督の「奇跡」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.110


母であり妻であり嫁であり一家の太陽のような役割を果たしていた女性が、3番目の子供(しかも待望されていた男児!)の出産に失敗して胎児もろとも死んでしまう。

いよいよ棺に釘を打とうとしていたまさにその時、行方不明になっていた弟が帰ってきて周りのものの信仰の薄さを糾弾しながらキリストに代わって「インガよ起きなさい」と命じると、奇跡が起こる。

そんな粗筋の1955年製作のデンマーク映画の中に、なんという神聖で敬虔で高貴なものがいっぱい詰まっていることだろう。篤信の素晴らしさをこれほど自然に、美しく、感動的に描いた映画はないだろう。小さな奇跡は毎日至るところで起こっている、と説くドライヤーの信念が巧まずしてつくった、抹香くささの微塵も無い真正の宗教映画である。


   本当に神を信じて信じきれば奇蹟は起こるとドライヤーは信じる 茫洋

Friday, March 11, 2011

石牟礼道子著「苦海浄土」を読んで

照る日曇る日 第410回

第一部「苦海浄土」、第二部「神々の村」、第三部「天の魚」を収録した池澤夏樹編の河出書房新社版で読みました。

水俣湾はたった一度だけ鉄道で通過したことがありますが、それはまことにのどかな美しい海で、ここにチッソが有機水銀を垂れ流し、老人から胎児まで数多くの人々を毒殺し半死半生の目に遭わせた悲劇の海域とは思えないほどでした。

高度成長に必要なアセトアルデヒドを大量生産するために豊饒の海を徹底的に汚染し、己の排せつ物が魚類の摂取を通じて猫や人を狂わせつつあることを知りながらも、環境汚染をやめず、利潤の追求のために狂奔したこの企業を国家と国民は長期にわたって手厚く保護したのでした。

いつでも病者は弱く、健常者は権力に満ちあふれて強力無比な存在です。ダカラキミラハムダジニシテハナラナイ。シヌマデタタカワネバナラナイ。ボクラハキミタチヲイッシンニタスケルダロウ。

なにも悪いことをした訳でもないのに、魚を食べただけで狂い死ぬ人々を、当時厚生省の役人だった橋本という首相になった男は口をきわめて罵倒し、チッソの社員は「補償金で倒産させられる」なぞとほざき、善良なる水俣市民の多くも「一握りの患者のために市のイメージが悪くなって観光客が来なくなる」と総スカンだった。一方補償金をもらって人生を狂わせていく患者も現れるという具合に、悲劇が悲劇と笑えぬ喜劇も生みだしていくのです。

しかし完全な人災のゆえに身を滅ぼしていく悲運に甘んじる人たちの、なんと心優しいことよ。彼らに寄りそう著者の心のなんと驚くべき優しさでありましょう。社長との直談判で血書を書かせようと代表団は指を切ってちまみれになりなから、ついに社長の指は無傷である。社長に水俣の毒水を呑ませるといいながら、ついに一滴も飲ませられない。

そのうえ彼らは人世を達観し切った治者のように、黙々と死んでいきます。自らはチッソに毒殺されたことを重々知りつつ、彼らは「もう金もいらん。家もいらん。命もいらん」と言って果てていくのです。無垢の者の自己犠牲が、いつか殺人鬼を慙愧させる日が来ると信じているかのように……。

懺起懺起する患者も著者ももっと怒れ! 怒りを持続させよ! もっともっと憎悪をたぎらせよ! テンノウヘイカバンザイだと? これではまるで水俣病が彼らの天命といわんばかりではないか! 御詠歌なんかへらへら歌って事の本質を誤魔化すな!

そう怒鳴って、私はこの緑色のヒューマニズム120%の部厚い本を、無明の闇に向かって擲ったことでした。


猛る蛇人も大地も喰い尽くす 茫洋

ウォルター・ラング監督の「ショウほど素敵な商売はない」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.107

1954年に映画王ザナックが総指揮をとって製作した聖林映画の記念碑的な名作。ドサ回りのボードビリアンのドナヒュー一家が、全篇唄って踊るミュージカル映画の傑作です。

 テーマ音楽はあの「アレクサンダーズ・ラグタイム」。これを5つくらいのアレンジで踊りまくるシーンで、まずあっと言わせます。神父になった長男のゴスペル風宗教ミュージカルの熱唱、次男と娘のダンスの妙技、ドナヒュー夫妻、とりわけエセル・マーマンの素晴らしいボーカルは素晴らしい。超ベテランの年齢に達した彼女が、行方不明になった次男の水兵役の代役で歌って踊るシーンは、見事です。

 最盛期には5人組で全米にその名をとどろかせたドナヒュー一家でしたが、恐慌の到来や子供たちの成長にともなって、次第にてんでバラバラ状態に陥ってくる。

次男の失恋の原因はモンローのせいだ、とゴッドマザーのマーマンおばさんは憎んでいたのですが、さあそこはよく出来たありがちなシナリオで、ラストでマーマンおばさんひとりが心の痛手を押し隠して「「ショウほど素敵な商売はない」を激唱している(泣かせます)と、いつの間にか行方不明の次男も、次男を捜索していた父親も思い出の劇場に勢ぞろいしている!

そして父親が音頭をとって久しぶりに懐かしい「アレクサンダーズ・ラグタイム」を歌って踊るのです(また泣かせます!)が、画面が一転するとそこは20世紀フォクスの巨大スタジオになっていて、何百人ものダンサーをてんこもりにしたピラミッドの頂上からモンローを加えたドナヒュー一家が、あのラグタイムを歌いながら、こちらに向かって降りてくる。涙なしには見られない感動のフィナーレです。

こまかく詮索すれば冗慢な箇所も散見されますが、それも含めて、これは「古き良きアメリカ」という幻想をあざやかに体現した、ハリウッド浅草三文芝居の奇跡的な作品です。

それにしてもモンローの歌と踊りのセクシーなこと。あんな声であんな容姿で迫るミュージカルスターは、絶対にいません。あほばかをよそおう彼女の真価がはじめてわかる作品ともいえるでしょう。

霊苑の線香消えて寒桜 茫洋

Thursday, March 10, 2011

セルジオ・レオーネ監督の「荒野の用心棒」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.108

黒沢の「用心棒」を無断で盗用したマカロニウエスタンの代表作です。ご存知クリント・イーストウッドが2つの悪人グループが対立するメキシコの寒村で桑畑三十郎ばりの大活躍をするというきめの粗い作りの映画でした。
 
この映画で気になることは2つ。ひとつは酒場の親父(ジャン・マリア・ボロンテ)が悪い奴らにひどく拷問されても、ガンとしてイーストウッドの居所を明かさない根性。私にはとても真似ができないことです。

もうひとつは悪人に誘拐されている美女を逃がしてやる理由が、「昔の女を助けてやれなかったからよ」。その昔の女に似ていたのが女優をやめて現在はドイツでお医者さんをしているというマリアンネ・コッホ。あのコッホ博士の子孫ですかねえ。

あとはエンニオ・モリコーネの音楽が巧みなものであった。


    この捨てられた枯れ枝に桃の花が咲くといいな 茫洋

フッリツ・ラング監督の「メトロポリス」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.109

全体の1/4が失われたフィルムを最新技術で補って完成させた2時間ヴァージョンで鑑賞しましたが、アールデコの尖ったデザインを基調にした各ショットの造形美がことのほか見事で、これは動く美術品のような作品です。

地上には一握りの権力者、地下には大量の労働者という極端な階層社会の構図は、ちょうどいま亀裂が走って崩壊に近づいたカダフィ大佐独裁のリビアを思わせます。結局カダフィ大佐役の権力者フレーダーセンが、息子フレーダーの仲介で労働者代表と握手するところでこの映画は大団円を迎えるのですが、冒頭と結尾で特筆大書されている「頭脳と手を結ぶのは心である」というスローガンが、既成権力と大衆の中途半端な妥協の賛美で終わるようで、じつにけったくそ悪いフィナーレです。

この映画が公開されたのは1927年。「黄金の20年代」が終わり、ナチ党が着々と地歩を固めつつあった左右拮抗の時代です。翌々年には世界恐慌が起こって1933年にはヒトラーが政権を奪取するのですが、ラングが夢見たのは第2次ワイマール共和国時代のかりそめの「ヒンデンブルクの平和」だったのでしょう。

現実は映画を超えて、フレーダーセンの跡を継いだフレーダーがヒトラーになって、民衆の歓呼のうちにファシズムを鼓吹するのですが、そうと知ったラングは1934年に故国を逃亡したのでした。


天に向かって唾したが天はなんにも言わなんだ 茫洋


お知らせ→「佐々木 健 スティル ライブ展」 明日まで。
http://www.yomiuri.co.jp/stream/onstream/sasaki.htm

Tuesday, March 08, 2011

ウォルター・ラング監督の「ショウほど素敵な商売はない」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.107


1954年に映画王ザナックが総指揮をとって製作した聖林映画の記念碑的な名作。ドサ回りのボードビリアンのドナヒュー一家が、全篇唄って踊るミュージカル映画の傑作です。

 テーマ音楽はあの「アレクサンダーズ・ラグタイム」。これを5つくらいのアレンジで踊りまくるシーンで、まずあっと言わせます。神父になった長男のゴスペル風宗教ミュージカルの熱唱、次男と娘のダンスの妙技、ドナヒュー夫妻、とりわけエセル・マーマンの素晴らしいボーカルは素晴らしい。超ベテランの年齢に達した彼女が、行方不明になった次男の水兵役の代役で歌って踊るシーンは、見事です。

 最盛期には5人組で全米にその名をとどろかせたドナヒュー一家でしたが、恐慌の到来や子供たちの成長にともなって、次第にてんでバラバラ状態に陥ってくる。

次男の失恋の原因はモンローのせいだ、とゴッドマザーのマーマンおばさんは憎んでいたのですが、さあそこはよく出来たありがちなシナリオで、ラストでマーマンおばさんひとりが心の痛手を押し隠して「「ショウほど素敵な商売はない」を激唱している(泣かせます)と、いつの間にか行方不明の次男も、次男を捜索していた父親も思い出の劇場に勢ぞろいしている!

そして父親が音頭をとって久しぶりに懐かしい「アレクサンダーズ・ラグタイム」を歌って踊るのです(また泣かせます!)が、画面が一転するとそこは20世紀フォクスの巨大スタジオになっていて、何百人ものダンサーをてんこもりにしたピラミッドの頂上からモンローを加えたドナヒュー一家が、あのラグタイムを歌いながら、こちらに向かって降りてくる。涙なしには見られない感動のフィナーレです。

こまかく詮索すれば冗慢な箇所も散見されますが、それも含めて、これは「古き良きアメリカ」という幻想をあざやかに体現した、ハリウッド浅草三文芝居の奇跡的な作品です。

それにしてもモンローの歌と踊りのセクシーなこと。あんな声であんな容姿で迫るミュージカルスターは、絶対にいません。あほばかをよそおう彼女の真価がはじめてわかる作品ともいえるでしょう。

霊苑の線香消えて寒桜 茫洋

Monday, March 07, 2011

シドニー・ルメット監督の「オリエント急行殺人事件」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.107

江戸時代の赤穂浪士の敵討に似た復讐は姿形こそ変えながら、平成の太平の御代にも以前として生きながらえている好個の例を、たとえばアガサ・クリスティ原作のこの映画のスピリッツの中にも認めることができよう。

リンドバーグ愛児殺人事件に酷似したこの事件において、急行列車に乗り合わせた12人の関係者は、天人ともに許すべからざる凶悪犯にひとり一人が鋭いナイフを都合12回つきたてるが、それを知り、それを理解し、それを許した私立探偵ポワロ(すなわちアガサ・クリスティ)はその凶悪な犯罪をあえて闇に葬る。

驚いたことに、この映画の中では私憤と私的復讐が是認され、いわゆる法と秩序が徹底的にないがしろにされているのである。

しかし法による決着を私たちが大好きな警察や軍隊や国家権力にゆだねておけば、それで個人の恨みつらみが解消されるかといえば、てんでそんなことはない。

そもそも法の順守を強制する国家権力じたいが歯止めを知らない無敵の暴力装置であり、超法規的存在であり、ひとたび戦争状態に入れば他国の民衆を非合法に殺戮するのみならず自国民の法的保護すらガラガラッポンと放棄するのであるから、それを思い出し、これを思えば、平時における法と秩序の正当性の根拠などはなはだ脆弱かつ吹けば飛ぶようなものであろう。

国家や権力や秩序にとってはハタ迷惑でも、司法の埒外で罪と罰の私的な交換関係は持続している。私は、娘を暴行殺害された父親が憎き敵を殺害したり、交通事故で愛する人を奪われた家族が、犯人に対して眼には目、歯には刃で実力で酬いる習慣を、野蛮で動物的で前近代的ないし反近代的な所業として第3者的にあっさりかたづけることは到底できない。

たらちねの母はいつまで生きるやら 茫洋

Sunday, March 06, 2011

トマス・ピンチョン著「スロー・ラーナー」を読んで

照る日曇る日 第409回

「緩い学び手」とはまるでわたしのことではないかと、本書を読む前に笑ってしまったが、読んでしまってから、これは作者の自嘲の言葉と分かった。彼はこの本の中で若き日の短編を6本並べて、自らが書き下した序文で、それらに不平たらたらいちゃもんをつけているのである。

そうと知ればなおのこと、これらの若書きは読むに堪えない未熟な作品と思えてくる。いったいに小説は、その内容か文章のいずれかが多少とも面白ければ、それなりに楽しく読みとおせるが、「スロー・ラーナー」の場合は、そのどれをとっても面白くもおかしくもないから、これは典型的な駄書であり、普通なら到底読むに堪えない小説としてマントルピースに投げ入れられて焼却処分されることになるはずだ。

それがそうならないのは、ひとえに彼の文学が後におお化けしたからであって、後世の偉大さの源泉をさかのぼって発掘するという鬱屈した趣味を持たない一般的な読者にとっては、この種の本に目を晒す楽しみなぞひとかけらもない。私はいわば眼の苦行を強いられたわけだが、それにしてもこれほどくだらないテキストをいくらアルバイトとはいえ、いかにも意味ありげかつ権威主義的に翻訳した奴の顔を見てみたいもんである。

堕ちよ堕ちよダンダラ星堕ちよ 茫洋

Saturday, March 05, 2011

ルキノ・ヴィスコンティ監督の「若者のすべて」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.106


イタリアの南部の田舎から北部の都市ミラノへ上京してきた家族の若い男たちに降りかかる運命のいたずらを名匠がぐいぐいと描きに描きつくす人生映画の傑作です。

 美しい売春婦役アニー・ジラルド。そして彼女に魅了された次兄役レナート・サルバドーリと3男役のアラン・ドロンの因縁の恋と宿命の対決が見る者をくぎ付けにします。

己を振った女と弟が熱愛していると知ったサルバドーリが、ドロンの目の前でジラルドを強姦するシーン(脱がせたパンテイーを振りかざす!)や、大嫌いなはずのサルバドーリの強引な求愛に思いとはうらはらに身体が応じてしまう場面。

それとは対照的に、うぶなドロンの純情にほだされて堅気に戻ったジラルドが、生まれて初めての恋に身を焼かれ、2人でミラノの市電に乗る「映画史上もっとも美しい」数秒間。

ドロンから兄のために身を引くと告げられたジラルドが、絶望に駆られて走り去るドウモの屋根の大俯瞰。そして「死にたくない」と叫びながら川のほとりで死んでいくジラルドの哀れな姿……。

こうやって書き出していくだけで、それらの名場面が瞼の奥で次々に甦ってくるようです。後年の重厚長大なヴィスコンティやドロンから喪われた、映画の青春時代の匂い立つような若々しさがこの1960年製造のモノクロフィルムには流れているようです。


早くリビアに行くんだあほばか戦争カメラマン 茫洋

Friday, March 04, 2011

ヒッチコック監督の「引き裂かれたカーテン」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.105

いつのまにやらあっという間に消失してしまった鉄のカーテンやら東ドイツという社会主義国を巨大な敵として対象化している1966年製の総天然色映画を、その45年後にどんな顔をして眺めれば宜しいのか、といえば、黙って座って眺めていれば、見えざる敵はいずこにも存在し、いずれもひしひしと恐怖に満ち満ちておるのだった。

 いくらソ連や東ドイツやエジプトが滅びても、北朝鮮もイランもイスラエルもロシアも中国も、なんならアメリカも日本だって独裁者が棲むか、鬼が棲むか、天ちゃんが棲むのかは別にして、いっかなおっそろしい国であることは間違いないのだった。

で、映画はいわゆる西側に属する国際的科学者のポール・ニューマンとジュリー・アンドリュースが、いわゆる東側に亡命したふりをして機密を盗み出そうとする素人はらはらどきどきスパイ&恋愛物語であることだけは間違いないだろう。

「サウンド・オブ・ミュージック」の歌うおばさんと「ハスラー」のいなせなお兄さんが物理学の大学教授役なんてミスマッチもいいとこだが、案の定、逃亡の最中に突然出てきたポーランドの男爵夫人役のリラ・ケドローヴァの超絶演技技巧に完全に喰われてしまう。

ったく、ポールとジュリーってド素人だぜ。これじゃあ看板を「引き裂かれたカーテン」から「引き裂かれた三流役者」に描き換えてもらいたいもんだな。


   われが掘り水を与えし池二つおたまじゃくしの卵浮きけり 茫洋

Thursday, March 03, 2011

ヒッチコック監督の「泥棒成金」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.104

1955年のヒッチ作品で、ケーリー・グラントとグレース・ケリーが主演するサスペンス恋愛映画。作品の出来栄えは良くないけれど、ともかくエディス・ヘッドがスタイリストを務めた華やかなイヴィニングドレスなどを見ているだけで溜息が出るような美しさである。

「銀幕のスタア」とは、こういう人がこういう衣装、アクセサリーを身に付けた艶姿のためにとっておく言葉なのだろう。かくしてカンヌの夜空に打ち上げられる花火の下の暗闇で光る白銀のネックレスの輝きは、映画史上不滅のものとなった。

しかしロングでは眩しいまでのエレガンスをほしいままにするグレース・ケリーだが、顔のクロースアップになるといかにもヤンキー&ガーリーな、つまりフィラデルフィアの田舎もんの表情になってしまうあたりが面白い。

クール&キュートという相反する両面を併せ持つ彼女の魅力にモナコのアホバカ殿下は一発でやられたんだろうぜえ。

風光明媚な映画な地中海の海や別荘を背景に美男と美女が繰り広げる恋の駆け引きの中で、一度は男が女の肘を、もうひとたびは女が男の肘を強く引き、ぎゅっと握りしめるシーンが本作のキーポイント。異性が、あそこを、ああいうふうに触れると、どのような恋の異化作用が惹起するのか、この喰わせ者の監督はよーく知っていたんだ。


     肘は秘事カンヌの夜空に花火舞い散る 茫洋

Wednesday, March 02, 2011

ヒッチコック監督の「マーニー」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.103


母と子の幼児体験が成人してからも大きな傷跡を残すことをヒッチが声を大にして映像で解き明かす力作。と言うてもけっしてフロイトなどの学説の紙芝居になっていないところに、この監督のずば抜けた力量を感じる。彼はあくまでも頭ではなく、眼で見て感じ、かんがえる人なのだ。

フィラデルフィアから雨のボルチモアに急行した主人公の2人が、ヒロインの母親を追及するラストシーンは、画面がジンジンするほど緊迫しており、ここではサスペンス映画がドラマの領域を突破して、人間性の真実に肉薄する怒涛の推進力が見る者を圧倒する。

生涯で初めての恋を、生涯で最悪の恋人を死守しながら貫き通そうとする男を、若きショーン・コネリーがなんと英雄的に演じていることか。

そして前作の「鳥」で世界と人世の不穏さを象徴することに成功したティッピ・ヘドレンが、持って生まれた性癖に苦しむヒロインをなんとけなげに演じ切っていることか。バーナード・ハーマンの劇伴も素晴らしく、涙なしに見終えることのできない真の傑作である。

それにしても、エディス・ヘッドの見事な衣装にこれほど見事に映えるティッピちゃんなのに、どうして懇望されたヒッチ映画へのさらなる出演を弊履の如く投げ捨てて、あれらの下らないテレビ番組に憂身を窶したのであるか。惜しみても余りある女優人生の蕩尽だった。

 上品を意味するdecentという英語が、ここでは反語的に使われていることも興味深かった。


母さんがdecentな女になれというから悪女になりました 茫洋


本日の別冊付録

http://www.yomiuri.co.jp/stream/onstream/sasaki.htm

Tuesday, March 01, 2011

ヒッチコック監督の「鳥」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.102

1963年製作のユニヴァーサル映画はいまなお奇妙に色鮮やかで、サンフランシスコ近郊のボデガ・ベイ一帯の海や空や土地を鮮烈に染め上げている。風光明媚なこのリゾート地に別荘を持つイケメンロッド・テイラーを追い掛けてきたブロンド娘ティッピ・ヘドレン。お馴染みイディス・ヘッドの衣装に身を包んだ気まぐれな彼女が運んできた1つがいの「ラブバード」が、静かな町に思いがけない不幸と災難をもたらすのである。

登場人物たちの多くを殺したり、傷つけたりした様々な鳥たちが、主人公の家の周囲に磐居するこの映画の不気味なラストは、まるで地獄の黙示録のような凄味を湛えている。

世間では鳥は平和的な生き物と考えられていて、ピカソなぞは鳩をそのシンボルと心得ていたようだが、それはまったく事実に反する。その証拠に、私なぞは東京の渋谷区にある原宿外苑中学校の校門の前で、凶悪なカラスどもにあることか「2度までも」襲われているからだ。

彼奴等はいつも学校の前に植えられているイチョウの木の上に屯していて、(何が「これは」だかさっぱり分からないのだが、)「これは!」と思う人間を見つけると、ひとことの断りもなしにいきなり突撃してくるのである。

私は彼奴のぶっとい嘴で後頭部をしたたかに衝突せられたために、まさしくこの映画のティッピ・ヘドレンちゃんが体験したのと同程度の恐怖と被害を「2度までも」体感させられたので、それ以来ここを通行するときは、鎌倉小町のおもちゃ屋さんで購入した特製パチンコと鉛の銃弾30個を携行するようにしていたが、それ以来彼奴等は私を狙うのを躊躇するようになったから不思議だ。

このようにカラスひとつをとっても、鳥という生物はじつに凶悪で、人類に対して敵意と殺意を併せ持った存在であることが、少なくとも私なんかには得心できる。そういう意味ではヒッチはじつに先見の明のある映画作家であった。


大きな胸をゆさゆさ揺らして消えていった 茫洋