Wednesday, November 30, 2011

井上ひさし著「一分ノ一」上巻を読んで


照る日曇る日第468

アジア太平洋戦争に敗れた日本は、米英ソ中の四カ国に分断占領されてしまいます。

すなわち、北海道・東北はソ連、東日本主体の中央ニッポンは米国、西日本・九州は英国、四国は中国のようにバラバラにされたために、かつての国家と民族のアイデンティが日毎に崩れ去っていくのでしたが、かのとき早くこの時遅く立ち上がったのが主人公、サブロー・ニザエモーノ・ヴィッチ・エンドー、略称サブーシャでした。

サーシャは、なんと赤の広場の一分の一、すなわち原寸大の地図を作成して北ニッポン政府をあっといわせた伊能忠敬を思わせる地理学者ですが、国境のない統一ニッポンの版図つまり日本独立をめざして孤立無援に似たゲリラ戦を開始します。

主人公のまわりにつどうのは、天才少年や高校野球監督やヤクザや熟女歌手や主将犬などなど、さながら八犬伝に出てくるような一騎当千の少数の同志たち。粉雪舞う山形を脱走した彼らは、四つの占領国に必ず散在しているであろう革命的な愛国者たちを糾合するために、さまざまな困難と身内の犠牲、さらにはCIAFBIKGBMI5等々四大国の諜報機関や暴力装置の妨害と弾圧を乗りこえて、占領国が覇権を競いつつひしめく東京は六本木交差点にまで進出してまいります。

さあ、いよいよ血湧き肉踊る前代未聞の一大英雄冒険譚のはじまり、はじまりィ……

西陽差すしやうぐあい施設の六畳間息子を託し黙して帰りぬ 蝶人

Tuesday, November 29, 2011

ある晴れた日に 第101回


西暦2011年霜月 蝶人狂歌三昧

ゆく秋や横須賀線はみな昼寝

夕焼けやカバヤキャラメルなめたいな

鎌倉では生き残れなかったねラルフローレン

しょうぐあいしゃのむすこをもつきみがしょうぐあいしゃになってしょうぐあいしゃのははをかいぐおしているのはしょうぐあないことなのか

春は桜夏は朝顔秋は菊冬は水仙咲く陋居

表には野尻裏には大佛と書きたり大佛次郎旧邸

嫌な事は全部忘れてコンチエルト・ケルンの「フィガロの結婚」を聴いていました

音楽について語って音楽が聞こえてこない論者の至らなさ

見境なくアンコールを催促する卑しい聴衆どもよ

逝くときは私がいや俺が息子を道連れにと争う夫婦あり

ずっと鎌倉なら自殺はしなかったかいややっぱり死んだだろうな芥川

秋風に松寥々と聳えけり芥川が「鼻」書きし家の跡

江の電や虚子邸で咲くホトトギス

うるんだ羊の瞳だったよ国際免許の次男の写真

ウンコとオシッコはしようと思えば同時に出来るものなり

暖かな布団に包まれてぐっすり眠るほどの仕合わせはない

自転車に乗っていると死んだ父になって走っていた

日帝を制圧したりアワダチソウ

嫌嫌嫌嫌嫌嫌ああと叫んでいました

コラボとは対独協力者のことであるコラボコラボと連呼するな馬鹿者

今日こそは失いし夢を取り返す日愛する魂よ美しく装え

密教とかけてアッコちゃんと解くその心は秘密と魔法がいっぱい

汝等あらゆる宗教原理主義を廃しあたらしき自由の道を歩め

皇室の毒を身に受け御用邸に逃走せしや哀れ雅子妃

雅子妃よ愛児を連れて実家へ戻れ諸悪の根源は天皇制にあり

せっかく料理をお勉強したいと思っているのに細かいことをグチャグチャいわないでよ

年の瀬や我に仕事を与え給え妻と子供を喰わせるために

いつか来る枯れ木に桜の咲く朝が

羊雲綿雲鰯雲薄雲朧雲入道雲雲こそは天からの贈り物

よしだでらではなくてきちでんじいってみたいな吉田寺

良いことはなにひとつないけれどほらこの歌がひとつできました 蝶人

Monday, November 28, 2011

チャップリン監督・主演・音楽の「ライムライト」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.173

1952年製作のアメリカ時代最後の作品です。この映画を見る度に感動するのはライムライトの主題音楽です。プロでもかけないこのメロディを、本来は素人の茶プリンがよくも作曲できたもんだ、といつも感心します。

そしてもちろん映画のハイライトは、車椅子の中で息絶えたカルメロが見守る中でライムライトを浴びたヒロインが、その叙情的なテーマ音楽に乗ってするすると踊り出るところ。チャップリン一世一代のえぐい演出が見事に決まりました。

もうひとつは、なんといっても名優バスターキートンとの競演の場面です。バイオリンを弾くチャップリンとそれに合わせるキートンの息詰まるような対決は、何回見ても息が詰まります。

このシーンのシナリオを書いたのはチュップリンだったと思いますが、喜劇役者としての存在感で勝っているのは6対4でキートンだと思います。しかしよくぞこんな歴史的名場面を映画にしてくれた、と鑑賞するたびに感謝感謝の名画でありまする。

羊雲綿雲鰯雲薄雲朧雲入道雲雲こそは天からの贈り物 蝶人

Saturday, November 26, 2011

パーヴェル・ルンギン監督の「ラフマニノフ ある愛の調べ」を見て

パーヴェル・ルンギン監督の「ラフマニノフ ある愛の調べ」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.171&♪音楽千夜一夜 231

2007年のロシア映画で、ピアノの達人にして作曲家のラフマニノフの半生を扱っています。

父母の離婚、恩師への愛憎、揺れ動く女性関係、アメリカ亡命後の過酷な演奏旅行、作曲ができない苦悩、ライラックの花への偏愛等々さまざまなエピソードが時系列を無視してランダムに描かれている映画です。

貴族出身の彼は革命後に故国を亡命するのですが、この映画ではことさらソビエト政権への敵意と反感が露骨に打ち出されていて、旧ソ連と現在のロシアのイデオロギー的なへだたりが劇映画にも強烈に反映されているようです。ラフマニノフ親子は本作では彼の崇拝者で教え子の女性ボリシェヴィキの好意でかろうじて脱出を許されるのですが、これはもちろん恣意的な創作でしょう。

 ラフマニノフは強度のうつと神経衰弱に悩まされていたそうですが、その原因になったのが交響曲第一番の初演の失敗でした。作曲家のグラズーノフが、さして演奏困難とも思えぬ出だしで指揮不能に陥る箇所を、この映画は酔っぱらった指揮者が楽譜を譜面台から落としてしまう形で表現していましたが、後の有名なピアノ協奏曲とちがって、この曲はいまでも聴衆を選ぶ晦渋さを持っているので、当時正しく演奏されていたとしても拍手喝采を浴びたとは思えません。

ラフマニノフはいまレコードで聴いてもホロビッツと並ぶピアノの名人であると思いますが、結局作曲家としてはしょせん底の浅い2流の人だったのでしょう。

見境なくアンコールを催促する卑しい聴衆どもよ 蝶人

Friday, November 25, 2011

丸谷才一著「持ち重りする薔薇の花」を読んで


照る日曇る日第467

博学才知の文学者がものした最新作を、その思わせぶりな題名に誘われて読んでみましたら、なんのことはない私の好きなクラシック音楽の世界の話で、しかも東京カルテットに似たさる弦楽四重奏団の内幕、四人のメンバーの離合集散や栄光と悲惨を、面白おかしく大人の物語に仕立て上げました。

四人併せて一つの楽器と称されるカルテットを続けていくことは難しい。それは四人で薔薇の花束を上手に持つようなものだ、という苦労話が微に入り細を穿って延々と続きます。

しかしこの物語の語り手は、その名も「ブルー・フジカルテット」という世界的な弦楽四重奏団の名付け親であり後見人でもある財界の超大物で、彼が残り少ない生涯の思い出と抱き合わせに、このカルテットの誕生と栄枯盛衰の裏話を死後発表を条件に包み隠さず知己の編集者に物語る、というスタイルが、この表向きはポップなフィクションに微妙な陰影を与えているのです。

古典音楽に対する著者のうんちくや英仏独羅とりまぜた鼻もちならない弦楽ならぬ衒学趣味や、男と女の色恋沙汰やポルノまがいの下世話な人情噺も遠慮なく飛び出しますが、最後の最後はさすがに老成し達観した文化勲章受章者らしく、おもしろうて、やがて哀しき人世と芸術への感慨がふと漏れ出てくる。かのヴェルデイの最高傑作「ファルスタッフ」を見聞きした後に似た読後感でした。

惜しむらくは小説の中で著者がいくらボッケリーニやハイドンやモーツアルトについて語っても、吉田秀和氏のエッセイとは違って、肝心の音楽がちっとも聞こえても来ないことでしょうか。

音楽について語って音楽が聞こえてこない論者の至らなさ 蝶人

Thursday, November 24, 2011

クリスチャン・デュゲイ監督の「ココ・シャネル」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.170&ふぁっちょん幻論65


孤児院、修道院で育った彼女が悪戦苦闘しながらデザイナーとして女性として自立し、15年間のブランクを経て戦後初のコレクションの失敗にもめげず2回目のショウで見事カムバックし、87歳で亡くなるまで斯界の大御所として君臨したというサクセスストーリーを、彼女の運命の恋の哀しい結末と共に叙情的に描いている。

シャネルは帽子や服飾デザインについて抜群の感性を持ち、ファッションの歴史に偉大な実績を残したことは疑いのない事実で、紳士物の素材や意匠を婦人物に持ち込んで価値の転倒を敢行し、虚飾を排したシンプルな色柄シルエットで新しいワーキングウーマンの美学を創造したことは、この映画でもちゃんと描かれている。

とりわけドーヴィルのショップで隣の店のポール・ポワレに嫌味を言われて反撃するところは、事実かどうか不明だが面白かった。

しかしこの映画ではそういう陽のあたる部分だけを描いて第二次大戦中に彼女がナチの将校の愛人となって(いわゆる「コラボ」=対独協力者)として民衆と故国を裏切ったことには一言も触れていないのが気になる。じっさい彼女の戦後初のショウにプレスが猛反発したのは、その作品の内容ではなく、彼女の汚れた処世に対する敵意と反感からだったと思われる。

 

さらに重箱の隅をつつくようだが、この映画に出てくる「大成功した2回目のショウの作品」のひどいこと。シャネルのトレードマークのシンプルさのかけらもない重厚長大な修飾過多のデザインに、どうして万雷の拍手が浴びせられたのか理解に苦しむ。

なお若き日のシャネルをバルボラ・ボブローヴァ、老齢のそれをシャーリー・マクレーンが演じているが、どちらもミスキャストのように思えてならない。

愛のため生き抜くためにはファシストとも寝てしまうあっぱれシャネルの心意気 蝶人

Wednesday, November 23, 2011

さらにばかばかしいことを書いてみたくて


バガテルop150

こないだ朝から舌が痛くて痛くて仕方がないのであんぐり開いてみたら真ん中にオデキのようなものが出来ていた。てっきり舌ガンではないかとおそれおののいた私は早速中原中也が死んだ清川病院の隣にあるT耳鼻咽喉科まで自転車を飛ばしてかけつけた。

東急ストアで1万円で買ったこの紅い自転車は夕方になると電灯がつくので私はえらく気に入っていたんだが、先日彼女(自転車のこと)と共に細君が階段下に転落して骨を折ったり、その後も駅前のハックの前に停めておいたら違法駐車だというのでトラックで持って行かれ、北条氏終焉の東勝寺腹切り矢倉まで歩いて行って大枚1000円払って取り戻したばかりなのだが、自転車狩のおじさんにまた持っていかれては困るので、医院の駐車場に正しく駐車した。

医師いわく。ガンではないから安心しなさい。しかしこれほどひどいザクロのようにただれた舌は見たことがない。原因はおそらく慢性炎症か細菌かカンジタなどの真菌のせいだろうが、歯のかぶせの金属アレルギーによるものかもしれない。細菌検査をしておきますから1週間後に来なさい。金属アレルギーについては懇意にしている歯科医師に紹介状を書くからいってみなさい。というので大町のK歯科を訪ねた。

そこは完全予約制になっているのですぐには診ることができない。出直して夕方来なさいというので6時半に行くと余の歯が老朽化していてところどころギザギザがありこれが歯を傷つけている可能性がある。すぐに丸くしませうというので、ちょっと待ってくれ。T医師は歯のかぶせの金属アレルギーがあるやもしれぬと言うたのだから、その嫌疑を晴らしてほしいと要求すると、それは大きな総合病院で大がかりな検査をしなければできないというので、結講毛だらけ猫灰だらけと一礼してとっぷりと暮れた闇の中を自宅へ急いだ。

T医院で3千円余、K医院で2千円余、〆て6千円余のお金と晴天の丸1日を費やして余の得たものはわずかであったが、舌ガンの脅威が去ったのはなによりのことでした。

ウンコとオシッコはしようと思えば同時に出来るものなり 蝶人

Tuesday, November 22, 2011

もっとばかばかしいことを書いてみたくて


バガテルop149

朝パソコンをあけてみるとこんなメールが入っていた。

「実は私たち、お互いに別の母親を持つ腹違いの姉妹でして、幼少から複雑な家庭環境にストレスを感じ、次第にお互いを性的に癒すようになりました。

その関係はもう十年以上にも及ぶのですが、今回どうしても男性も交えて3人で性行為をしたいと姉の香那が言い出しましてお願いに上がりました。

口止め料とお手間賃を含めて現金であなたにお支払いしようと思ってます。
それに私たちとの関係が長く続けられるのであれば、とても嬉しいのですが

貴方の器で受け入れてもらえるなら上記条件で如何でしょう?
素敵な返答お待ちしています。」

私のパソコンには迷惑メール対策が施してあるので、毎日たくさんの勧誘メールが自動的にカットされているが、それでもその強固な防壁をかいくぐって上記のような魅力的なおさそいが飛び込んでくることも、あるのであるのであるん。

これらはすべて専門の業者が事あれかしと手ぐすねひいて仕掛けている営業用メールであり、これをクリックするとどういう事態が待ち構えているか知らない私ではないが、それにしてもなかなかよく出来た作文ではないだろうか?

特に「お互いに別の母親を持つ腹違いの姉妹」という枕には谷崎潤一郎的な隠微な小説世界が設定されており、おもわずぐっと生唾を呑んでしまう。さらに「お互いを癒す」「その関係はもう十年以上にも及ぶ」という前振りに続いて「今回どうしても男性も交えて3人で性行為をしたいと姉の香那が言い出しましてお願いに上がりました」とおずおず切り出す辺りは、ゴーストラーターの並々ならぬ文学的手腕を感じさせるではないか。

が、惜しむらくはその後の展開で、他の勧誘メールと同じような紋切り型に堕している。ことに「貴方の器で受け入れてもらえるなら」というフレーズは最悪で、この手だれ作家は、私のように思わずベルトの下をちらっとのぞいてがっくりしてしまう男性もいることをすっかり失念していたのであろう。

そんな次第で我知らず顔を赤らめ、それ以上の関係に猛進することが叶わなかった小心者のわたくしであったが、これに懲りず、もっともっとその気にさせる、さらなる名惹句を送って寄こしていただきたいものである。

ゆく秋や横須賀線はみな昼寝 蝶人

Monday, November 21, 2011

ばかばかしいことを書いてみたくて


バガテルop148

プロ野球の日本シリーズがとうとう終わってしまった。

落合ドラゴンズにも勝たせたかったが今回は選手層の厚い軟弱銀行が実力相応だろう。しかし監督力ではあきらかに俺流の方が上であった。大洋ホエールズを裏切って軟弱銀行に身売りした内川が汚らしくガムをぐちゅやぐちゃ噛んでいるのが不愉快だった。お前はロッテの選手ではないのだからやめれ。

もっと不愉快なのは今年のドラフトで日本ハムから指名されたのに辞退したあほばか選手で、独裁者ナベツネが絶対支配するあほばか読売軍団に留年してでも入りたいというその根性からしてもう腐っている。いくら金を積んで他球団から補強しても優勝できない虚人の時代はもうとっくに終わっていることが大学生のくせに分からないのか。来年は全球団がこいつを指名すべきだ。

そんな野球のテレビ中継を見ていると以前は「2ストライク3ボール」と言っていたのが、あべこべになっている(こういうときに「真逆」などという厭らしくて下品な造語を使用するのが最近の流行らしいが、これは清く正しく美しい正規の日本語ではなく愚かな造語であるから即やめれ)。アメリカの大リーグにならったそうだが、ストライクよりボールを重要視するとは愚かなことだ。政治経済のみならず野球までが、まっとうなやり方を放り投げて占領国の悪しき範例に盲目的に従うというのは敗戦国の負け犬だということがまだ分かっていないらしい、ワンワン。

しかしその野球中継が終わってしまったので、私がテレビで特に見たいものは皆様のNHKの「グッド・ワイフ2」くらいしかない。早く「サラリーマン・ネオ」を復活せよ。あれがわが国の全プログラムでもっとも面白い番組である。

それにしてもそのNHKのBSのロゴが大げさになったのは解せない。以前はBSpremiumだったのに、いきなりごっつい3がついて「BSpremium3」と右上にクレジットされるようになった。めざわりかつ鑑賞の妨げになるからすぐやめれ。

暖かな布団に包まれてぐっすり眠るほどの仕合わせはない 蝶人

Sunday, November 20, 2011

ステーブン・ソダーバーグ監督の「アウト・オブ・サイト」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.169

1998年に製作されたイケメン脱獄犯と超美人FBI捜査官が一目惚れ、追いつ追われつしながら超楽天的な結末に至るというこのいかにもなハリウッド映画が、なんと全米批評家協会監督賞を授与されているというので軽いめまいに襲われました。

アメリカがいくら凋落したからといって、美男(ジョージ・クルーニー)美女(ジェニファー・ロペス)が出演しているという以外になんの見どころもないこのアホ馬鹿電動紙芝居に、よりによってそれなりに権威ある賞を与えるとは、この国の映画人の脳味噌のなかに蛆虫が湧いているとしか思えません。

「セックスと嘘とビデオテープ」の監督も、ここではその才能の片鱗さえ窺えず、アマチュア高校生以下のダルな演出を見せつけています。それにしても久しぶりにどうしようもなく下らない映画を見たなあ。

しょうぐあいしゃのむすこをもつきみがしょうぐあいしゃになってしょうぐあいしゃのははをかいぐおしているのはしょうぐあないことなのか 蝶人

Saturday, November 19, 2011

「グレート・チエンバー・ミュージック~偉大なる室内楽集」を聴いて


♪音楽千夜一夜 230

これイタリアの放送局からオンエアされたアスコーナ、ルガーノ、ボローニャにおける室内楽のライブ演奏を10枚組のCDに収めた1枚100円弱の超廉価盤です。

グリュミオーとハスキルはかねてから定評がある名コンビですが、モーツアルの変ロ長調k378のソナタは素晴らしい。フィリップス盤よりちょっと早めのテンポで快調に飛ばしますが、ライブなのに技術的な破綻はいっさいなく驚くべき高揚のうちに演奏が終わります。

わが偏愛のイタリア四重奏団のモーツアルトのニ短調k421も絶好調。スタジオ録音を上回る名演を繰り広げ観衆を沸かせていますが、私がもっとも感銘を受けたのはウイリー・ボスコフスキーが指揮するウイーン八重奏団のシューベルトのオクテットとランパル&パスキエトリオによるモーツアルトのフルート四重奏曲集でした。ランパルの華麗でちょっとうら悲しい独特の音色を久しぶりに聴いて、やっぱり下町のゴールウエイより山手のランパルがいいなあと思わされた宵でした。

その他スメタナ四重奏団のシューベルトやジュリアード四重奏団のベートーヴェン、ミルシュテイン、フルニエのリサイタルなどなどスタジオ録音では聴けないライブの名演が続々登場。これを聴かない人は一生損をするでしょう。

春は桜夏は朝顔秋は菊冬は水仙咲く陋居 蝶人

Friday, November 18, 2011

椎名誠著「そらをみてますないてます」を読んで

照る日曇る日第466

この人をマガジンハウスのパーティで見かけたのはいつのことだっただろうか。鍛え抜かれた巨大な体躯とは裏腹なその優しげな風貌の持ち主が入って来ると、当時の社長の木滑氏とブルータスの石川編集長がいそいそと駆け寄り、その肩を抱くようにして久闊を叙すありさまをまぢかに見て、私はこの作家がいかに彼らに愛されているかがよく分かった。

象というよりは犀のように優しく強い人間、というのがその時の私の印象だったが、そのような著者の優しく繊細な心と、強靭な体力と剄さが、この青春時代の回顧録にもくっきりと刻印されている。

この本を一言でくくれば「波乱万丈の人生を泳いできた著者の血湧き肉踊る熱血青春小説」ということになるのだろう。そこでは大学を中退した著者が、東京五輪景気に沸く東京の工事現場で日雇いの土方仕事に汗水を垂らしながら、「官能の肉塊」とでもいうべき謎のファム・ファタールをめぐってやくざと命の遣り取りをしたり、掃きダメに鶴のような美少女と遭遇して運命的な恋に墜ちたり、ふとしたはずみで流行作家になってしまう顛末が、心を明るく楽しく浮き立たせるような達意の軽妙な文章で550枚もの長きにわたってぐいぐいと書き続けられる。

しかも、これを時間軸に沿った小説の通奏低音としながら、80年代に著者が敢行した楼蘭やロブ・ノールやタクラマカン砂漠や零下50度のシベリアの最極寒地や、『北槎聞略』に出てくるアリューシャン列島の無人島や南米最南端の孤島や、世界辺境旅行の途方もない冒険譚が、その70年代の通史を鋭く断ち切るように幾たびもインサートされる。 

そこでは「大過去」と「過去」という2つの時間が、たえず「現在」という同一平面上に召喚され、著者の自分史の巻物の中で精密に再現され、観察され、改めてレイアウトされていくのだが、それはとりもなおさず著者が自分の辿って来た数十年を、新しく現在の地点から生き直そうとする営為のように思えてくるのである。

そして気がつけば私たち読者も、著者と共に井の頭公園のベンチに腰掛け、未来の妻になるはずの美少女がつくってくれた小さめの海苔むすびを「ああ、みんなうめい。なにもかもうめい」と叫びながらほおばっているのだった。

そう、これは著者と一緒に若き日の見果てぬ夢を、人生の未踏のクライマックスを、ぜんぶ生き直すための書物だったのである。

自転車に乗っていると死んだ父になって走っていた 蝶人

Thursday, November 17, 2011

商標と「鎌倉エキスト」

広告戯評16&鎌倉ちょっと不思議な物語第251バガテルop147

横須賀の歯医者さんへ行く途中、鎌倉駅のホームで駅に付属している小さな商業施設の看板が目に入りました。鎌倉EKIST(エキスト)という名前ですが、これは悪いネーミングではありません。

恐らくは「絶妙な」という意味の英語exquisiteの転用をはかったのでしょうが、駅とストップ、出口のexit,eqip(必要な物を揃える)、equitable(公正公平な)という英語との連想もしぜんに湧いてきますし、「なになにイズト」というようなその道の専門家というニュアンスもそこはかとなく匂わせている。

さらに深読みすれば存在という意味の英語existがこの軽快な商標の基底部に鎮座ましまして、観光地の中心部に所在する商業施設の存在意義を自問自答しているような気がしてくる。簡明で覚えやすくてなおかつ深い含蓄に富む名称といえるでしょう。

余談ながらこの「鎌倉エキスト」の入口が鎌倉観光総合案内所になっています。当地に観光に訪れた人は必ずここに立ち寄って毎月発行されている「かまくら四季のみどころ」という無料の案内書(A3二つ折り)をもらいましょう。見開きが簡にして要を得た地図になっていて、これさえあれば他の観光地図やガイドブックなんて要りませんよ。

よしだでらではなくてきちでんじ いってみたいな吉田寺 蝶人

Wednesday, November 16, 2011

ハルモニア・ムンディ盤で「18世紀音楽輯」を聴く


♪音楽千夜一夜 229

またしてもクラシック愛好家に悲報が齎されました。とうとう英EMIが倒産してソニーに身売りし、CDの販売権はユニバーサルグループを傘下に持つ仏ビベンディに叩き売られたそうですが、昔から耳目になじんできたレーベルの解体は、私らが相亘って来た音楽渡世のはかなさと虚しさを象徴しているような気も致しまする。ああ資本主義の世の中の酷薄さよ!

さて本CDは哀れソニーGの軍門に降ったハルモニア・ムンディが特別編成した『啓蒙主義の時代~18世紀の音楽』の輝かしい76の作品を集めたもの。収録された30枚のCDをぜんぶ聴くとざっと33時間掛かりますが、これがもういわゆるひとつの至福の時。これくらい興趣と変化に富み音楽の全盛時代の精華を堪能させてくれるコレクションも少ないでしょう。

クリストフ・ルセの優雅なチエンバロ演奏によるラモー、クープランの組曲に始まって、ヘレヴェッヘ&シャペル・ロワイヤルによるカンプラのレクイエム、その後にはヘンデルのソロモンをベルリン古楽アカデミーの演奏で聴き、ヴィヴァルディやバッハの協奏曲、ハイドン、モーツアルトの交響曲、ラモーやグルックやモーツアルトのオペラをクリスティやルネ・ヤーコプスの指揮で楽しみ、おあとは古典派のピアノソナタと弦楽四重奏曲を東京カルテットの最新録音などで聴きまくる。

選曲に意外性があり、演奏も録音も抜群。しかもお値段は1枚当たり238円! 嫌な事ばかり続いた今年を滅却するクリスマスの贈り物にもぴったりの素敵な音楽玉手箱です。

 嫌な事は全部忘れてコンチエルト・ケルンの「フィガロの結婚」を聴いていました 蝶人

Tuesday, November 15, 2011

川上未映子著「すべて真夜中の恋人たち」を読んで


照る日曇る日第465

人気作家による最新作はなんと恋愛小説です。といっても正攻法というよりはちょっと設定に変化球を投げていて、内気で内向的な校正専門家の若い女性が、年上の自称高校物理教師にだんだん惹かれていく顛末をじわじわと描きます。

だから光とか物理の講釈が出てきたり、校正の仕事の実態がレポートされたりして恋愛一直線の単純さに陥る危険をあえて複合的に回避しようと努めているのですが、それがうまく行ったとは必ずしもいえません。

そもそも校正家なんて著者のすぐ近くにいる存在であり、これを主人公にするのは安直に過ぎます。ヒロインは恋人とカルチャーセンターで知り合うのですが、どうして彼女がそんな所へ行く気になったのか、またどうして彼女が急にアル中状態に陥ったのかもよく分からない。

が、二人の恋は、読者にとっても著者にとっても想定外に盛り上がります。けれどすべての物語には終わりがあるのです。助平な著者は、無理矢理終わらせようとしてヒロインの友人を突如乱入させたり、相手の男性ににわかにヴェールをかぶせて行方を晦ませようとしたり、気のきいたフィナーレにしてやろうと腐心するのですが、このやり方が最善だとは著者も思っていないでしょう。

さりながらこのようにいくつかの短所を内蔵していようとも、この本の276から278ページの文章は文句なしに素晴らしく、著者の努力と天稟が存分に発揮されています。ヒロインと心をひとつにして、一緒に呼吸し、泣きながら心をこめて描いたのでしょうが、ここには恋する人の真情が、痛々しくも美しく表現し尽くされています。

うるんだ羊の瞳だったよ国際免許の写真の次男 蝶人

Monday, November 14, 2011

中野雄著「指揮者の役割」を読んで


照る日曇る日第464

欧州の三大オーケストラ、すなわちウイーン、ベルリン、コンセルトヘボウを中心に指揮者に課せられた役割について論じる著者の言葉は、夥しいライブの鑑賞者、世界の楽壇との交流、そして長年にわたるレコード企画製作者ならではの実体験に基づいているだけに、凡百の音楽ひょうげものの言説と違ってきわめて含蓄に富む。

冒頭、筆者はマエストロ(巨匠)と呼ばれてその生涯を全うするためには、1)強烈な集団統率力2)継続的な学習能力3)巧みな経営能力4)天職と人生に対する執念の4つの条件が必要であると説くあたりは全く当たり前の話ではないかといささか鼻白んだが、個々具体的にオケや指揮者の実態を鋭く抉りだすに至って語りはぐんぐん熱を帯び説得力を増す。

上記の4つをクリアーしているからといって指揮者の音楽性の高さの証明には全然ならない。その好例が小澤征爾であり、彼がウイーン国立歌劇場の音楽監督に就任できたのはトヨタが毎年拠金している四十億円!の貢献への見返りではないかという説は、楽壇の裏事情に暗い私にも充分に頷ける。

彼のウイーンフィル新年コンサート上演に際しては、いくらあがいてもウイーン訛りの音楽が出来ず、リハーサルで某コンサートマスターに手取り足取り教えてもらった、という噂もむべなるかな。その無惨な演奏を記録したCDがわが国では何故かベストセラーになったそうだが、近来あれくらい凡庸なコンサートもなかった。

小澤の師は斎藤秀雄だが、彼の指揮法は父秀三郎の英文法解釈を音楽に適用したもので、音を名詞や動詞や形容詞などと同じように細分化された音素に還元し、その音素の特性を演奏に反映しようという要素還元主義に立脚している。だからひとつひとつの音は音符通りに正確無比に表現されるが、音素と音素が連鎖して展開する音楽の有機的な流れの精神的な意味は等閑視される。福岡伸一の生命論を援用すれば、音楽は流れの中の淀みにあり、その音楽を微分積分して分けることは、音楽を殺すことになる、のである。

もちろん小澤とて再現音楽の本質が指揮者の脳内に確立されたその曲のイデアにあることは熟知しているのだが、いかんせん彼の前頭葉で生産された音楽像自体が貧弱な代物なので、それをいくら世界一の音楽テクノクラート(例えばサイトウキネンやN響)が精巧無比に再現してもなんの芸術的感銘も放射せず、いたずらに空虚な音塊に堕すのである。

ああ、またしても脱線してしまった。が、本書は珍しくもメンゲルベルグの衣鉢を継いだコンセルトヘボウの名指揮者ベイヌムやハイテインク、そしてわが偏愛のコンサートマスター、ヘルマン・クレバースについて詳説し、彼らの音楽について新しい光を当てた労作である。

逝くときは私がいや俺が息子を道連れにと争う夫婦ありて 蝶人

Sunday, November 13, 2011

アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の「父、帰る」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.168

こちらは2003年に製作されたソ連ならぬ現代ロシアのカラー映画ですが、コッダックのフィルムを使っていながらモノクローム調の映像が素晴らしく透明で見事に調律された照明と相俟って独特の映像空間を造形することに成功しています。

母一人男児二人の母子家庭に突然長い間行方を晦ましてした父親が帰還し、なにやら不穏な雰囲気が漂う。やがてその謎めいた男が久闊を叙すべく、徒と父と子の絆を回復するべく二人の息子を連れて離れ小島で魚釣りをしに出発するのですが、ここからさまざまな行き違いが生じて、とうとう思いもかけぬ悲劇に発展してしまう。

幼い少年たちにとって初めての父親との水入らずの旅が、生涯で二度と忘れられない残酷な思い出を鋭いナイフのように刻むのです。それまで頼りなかった長男が不慮の事故で父を喪った直後から、あたかも父親に成り変わったように雄々しく逞しく変身するのがことのほか印象に残りました。

菊池寛の「父帰る」やバイブルの「父帰る」とはだいぶ違うお話でした。

嫌嫌嫌嫌嫌嫌ああと叫んでいました 蝶人