照る日曇る日第466回
この人をマガジンハウスのパーティで見かけたのはいつのことだっただろうか。鍛え抜かれた巨大な体躯とは裏腹なその優しげな風貌の持ち主が入って来ると、当時の社長の木滑氏とブルータスの石川編集長がいそいそと駆け寄り、その肩を抱くようにして久闊を叙すありさまをまぢかに見て、私はこの作家がいかに彼らに愛されているかがよく分かった。
象というよりは犀のように優しく強い人間、というのがその時の私の印象だったが、そのような著者の優しく繊細な心と、強靭な体力と剄さが、この青春時代の回顧録にもくっきりと刻印されている。
この本を一言でくくれば「波乱万丈の人生を泳いできた著者の血湧き肉踊る熱血青春小説」ということになるのだろう。そこでは大学を中退した著者が、東京五輪景気に沸く東京の工事現場で日雇いの土方仕事に汗水を垂らしながら、「官能の肉塊」とでもいうべき謎のファム・ファタールをめぐってやくざと命の遣り取りをしたり、掃きダメに鶴のような美少女と遭遇して運命的な恋に墜ちたり、ふとしたはずみで流行作家になってしまう顛末が、心を明るく楽しく浮き立たせるような達意の軽妙な文章で550枚もの長きにわたってぐいぐいと書き続けられる。
しかも、これを時間軸に沿った小説の通奏低音としながら、80年代に著者が敢行した楼蘭やロブ・ノールやタクラマカン砂漠や零下50度のシベリアの最極寒地や、『北槎聞略』に出てくるアリューシャン列島の無人島や南米最南端の孤島や、世界辺境旅行の途方もない冒険譚が、その70年代の通史を鋭く断ち切るように幾たびもインサートされる。
そこでは「大過去」と「過去」という2つの時間が、たえず「現在」という同一平面上に召喚され、著者の自分史の巻物の中で精密に再現され、観察され、改めてレイアウトされていくのだが、それはとりもなおさず著者が自分の辿って来た数十年を、新しく現在の地点から生き直そうとする営為のように思えてくるのである。
そして気がつけば私たち読者も、著者と共に井の頭公園のベンチに腰掛け、未来の妻になるはずの美少女がつくってくれた小さめの海苔むすびを「ああ、みんなうめい。なにもかもうめい」と叫びながらほおばっているのだった。
そう、これは著者と一緒に若き日の見果てぬ夢を、人生の未踏のクライマックスを、ぜんぶ生き直すための書物だったのである。
自転車に乗っていると死んだ父になって走っていた 蝶人
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