照る日曇る日第464回
欧州の三大オーケストラ、すなわちウイーン、ベルリン、コンセルトヘボウを中心に指揮者に課せられた役割について論じる著者の言葉は、夥しいライブの鑑賞者、世界の楽壇との交流、そして長年にわたるレコード企画製作者ならではの実体験に基づいているだけに、凡百の音楽ひょうげものの言説と違ってきわめて含蓄に富む。
冒頭、筆者はマエストロ(巨匠)と呼ばれてその生涯を全うするためには、1)強烈な集団統率力2)継続的な学習能力3)巧みな経営能力4)天職と人生に対する執念の4つの条件が必要であると説くあたりは全く当たり前の話ではないかといささか鼻白んだが、個々具体的にオケや指揮者の実態を鋭く抉りだすに至って語りはぐんぐん熱を帯び説得力を増す。
上記の4つをクリアーしているからといって指揮者の音楽性の高さの証明には全然ならない。その好例が小澤征爾であり、彼がウイーン国立歌劇場の音楽監督に就任できたのはトヨタが毎年拠金している四十億円!の貢献への見返りではないかという説は、楽壇の裏事情に暗い私にも充分に頷ける。
彼のウイーンフィル新年コンサート上演に際しては、いくらあがいてもウイーン訛りの音楽が出来ず、リハーサルで某コンサートマスターに手取り足取り教えてもらった、という噂もむべなるかな。その無惨な演奏を記録したCDがわが国では何故かベストセラーになったそうだが、近来あれくらい凡庸なコンサートもなかった。
小澤の師は斎藤秀雄だが、彼の指揮法は父秀三郎の英文法解釈を音楽に適用したもので、音を名詞や動詞や形容詞などと同じように細分化された音素に還元し、その音素の特性を演奏に反映しようという要素還元主義に立脚している。だからひとつひとつの音は音符通りに正確無比に表現されるが、音素と音素が連鎖して展開する音楽の有機的な流れの精神的な意味は等閑視される。福岡伸一の生命論を援用すれば、音楽は流れの中の淀みにあり、その音楽を微分積分して分けることは、音楽を殺すことになる、のである。
もちろん小澤とて再現音楽の本質が指揮者の脳内に確立されたその曲のイデアにあることは熟知しているのだが、いかんせん彼の前頭葉で生産された音楽像自体が貧弱な代物なので、それをいくら世界一の音楽テクノクラート(例えばサイトウキネンやN響)が精巧無比に再現してもなんの芸術的感銘も放射せず、いたずらに空虚な音塊に堕すのである。
ああ、またしても脱線してしまった。が、本書は珍しくもメンゲルベルグの衣鉢を継いだコンセルトヘボウの名指揮者ベイヌムやハイテインク、そしてわが偏愛のコンサートマスター、ヘルマン・クレバースについて詳説し、彼らの音楽について新しい光を当てた労作である。
逝くときは私がいや俺が息子を道連れにと争う夫婦ありて 蝶人
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