Monday, December 31, 2007

謹賀新年

謹賀新年

♪ある晴れた日に その19

こぞ今年生きてしあればそれでよし

元旦やわれよりもまず家族かな

在庫無く迎える朝に日が昇る

亡き父が釈迦の寝姿といいし山けふも静かに横たわるかな

なにごとのおわしますかはしらねども今年もなんとか生きていくよ

京大和の御節頂く寿福かな

本年もよろしくお願いいたします。

Sunday, December 30, 2007

さらば2007年 亡羊師走詩歌集

♪ある晴れた日に その18


満月やわれに二、三の憂いあり

土佐文旦優しき母の匂いなり

糞1個ひり出す午後の寒さかな

ベット・ミドラーのインタビュー アイアイアイと私が五月蝿い

イヴ・クラインの青切り裂くやF30

大空を2つに切り裂くF-4EJ

袈裟懸けに双子座より落つる流れ星

その縄跳びの輪にどうしても入っていけない自分がいる

沖縄スズメウリ繁茂す 沖縄独立せよ

グルダのヴェートーヴェンとモザールは良いがったく彼奴のジャズのどこがいいのだ

脳漿と精巣はどこかで繋がっているのであらうか

建長寺の若き僧侶の青頭

念仏は脱兎の如し若き僧

こもごもに短き詠歌となえつつ老婆が2人峠越えたり

一座建立一日一恕の幸せを君に

高窓の光のどけき冬の朝妻と並びて抜き手切りたり

当たりの悪き林檎買い来るごと障碍児生まれしかな

会者定離盛者必滅と鵺が鳴く

電車の中で彼女が生涯にわたって絶対見ないであろう部位をじっと見ている私

盲目の老人が独り住む家に今年もたわわに蜜柑つけたり

なにやらんこていな料亭ありしかど無残な更地になりにけるかも

秋晴れの丸一日を費やして描きし路線図を破り捨てたる息子

当たりの悪き林檎買い来るごと障碍児生まれしかな

百葉落ち死者に近しき夕べかな

戦友が放り投げたる赤ん坊をこう突き刺したんだとT氏語りき

あどけなき無言の挽歌うたいつつ小楢散るなり夕陽の丘に

窓際を流るる秋に呼びかけよ かのモルフォ蝶いずくにありやと

年毎に故人増えゆくアドレス帳

人生といふ棒を振ってしもうた男なり

朝な夕な新聞のページ薄くなりあと数日で年改まるか

来年も生きてしあればそれでよし

Saturday, December 29, 2007

空の空なる空はない

♪バガテルop32&鎌倉ちょっと不思議な物語94回

ひところの私の趣味はデジカメで毎日自分の顔と空の写真を撮ることだったが、最近は空を飛翔するものを撮影することに「固まって」きた。

飛翔するものならトンビでも烏でもスズメでもUFOでも何でもいいのだが、圧倒的に飛行機が多い。ジャンボやヘリやプロペラ機やいろいろな飛行機がだいたい5分か6分に1機くらいの頻度でいろいろな方向に飛び交っている。

部屋にいてどこかでブーンという音が聞こえると愛用のデジカメを持って道路や露台に飛び出して上空にキョロキョロ探し求め、ともかくその機影をとらえる。朝から晩までこれをやっているから夜中でもブーンという音が聞こえると目が覚める始末。まるでノーローゼである。

自宅の周囲はあまり空が広くないので、近所の神社や広場や空き地で空にレンズを向けているから、向う三軒両隣の人々はほとんど狂人扱いで、最近は朝晩の挨拶にも顔を背ける人が増えてきたような気が心なしかする。

それはともかく自宅の上空を、毎日毎日これほど頻繁にこれほど多くの航空機が往していようとは夢にも思わなかった。先日横浜の栄区にある栄プールの上空で1機を撮影していたら、もう一機が近接遭遇したので思わずあっと叫んだくらいだ。

鎌倉は最近米軍の陸軍第一軍団前方司令部が進出してきたキャンプ座間にも、同じく米海軍空母の母港である横須賀にも、自衛隊の厚木基地にも近く、おまけに羽田や成田を発着する民間航空機の侵入離脱航路にも近いので、軍民合わせて飛来する頻度がこれほどの数になるのであろう。

幸い大和市や厚木市などのように上空すれすれに巨大な戦闘機が耳を聾せんばかりの轟音をあげながら接近することはないから助かっているものの、一日中鳥しか飛ばないのんびりした空、無人の空、旧約聖書の伝道の書にいう「空の空なる」空はもはや1瞬も存在しないことがはじめて分かった。
航空機に許された飛行範囲がきわめて限定的なものであることを考えれば、いまや大空も陸地並みの交通ラッシュ状態に近づいているといえそうだ。


♪大空を二つに切り裂くF-4EJ

Friday, December 28, 2007

五味文彦著「王の記憶」を読む

照る日曇る日第81回&鎌倉ちょっと不思議な物語93回


京都、奈良、鎌倉、平泉、博多、鳥羽、六波羅、宇治、鎌倉などの都市の形成や発展にまつわる記憶を、それぞれの王権の成立と対置しながら描き出す著者の会心作である。

鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉

という蕪村の句は、西行が出家を願うために鳥羽上皇のいる鳥羽へ急行する有様を詠んだとされるが、鳥羽の離宮は摂関家によって整えられた宇治と同様、都市の別業として造営され「院政期と武士を象徴する場」として記憶されていた、と著者はいう。

発展する京のリゾートとして位置づけられた鳥羽離宮の中心には宇治の平等院を模した大伽藍が造成され、西行など鳥羽殿の御所の武士たちは天皇や上皇に城南寺で流鏑馬を披露した。

後に鎌倉の鶴岡八幡宮の放生会に召されて流鏑馬の芸を伝えた信濃の武士諏訪大夫盛澄もそのひとりだった。盛澄は鎌倉幕府への帰属が遅れたことで囚人とされていたのだが、関東の武士に流鏑馬の芸を伝授したために頼朝の計らいで赦されて幕府に使えるようになったという。頼朝は鶴岡八幡で放生会を行なうためにそのイベントとしての流鏑馬を必要としたのだった。ところが有名な熊谷直実は流鏑馬の的立ての役を忌避して所領を没収されてしまった。

それはともかく後鳥羽の近臣である藤原清範を奉行にして流鏑馬を名目に畿内近国の軍兵を募ったところ1700人の兵が集まり、これが幕府打倒の挙兵へと繋がったという。このように鳥羽は院政期の王権が武士の存在を意識しつつ鴨川の水辺に造った都市であったと著者はいうのである。

またここで話を鎌倉に転じると、鎌倉幕府を開いた頼朝の父義朝の拠点は現在の亀谷の寿福寺にあった。房総の上総の支援を受けた義朝は、水路六浦から私の家の隣を通って横小路を抜けて寿福寺に入った。これが鎌倉の東西を走る北部の交通路であり、南部には旧東海道があった。その途次の逗子の沼浜には義朝の御亭もあった。

また鎌倉にはかつて源頼義とその子義家によって由比ガ浜にもたらされた鶴岡八幡宮、甘縄神明宮、荏柄天満宮があり、この3箇所の宗教的拠点が中世都市鎌倉の宗廟を形成した。義朝の死後幕府を開いて鶴岡八幡宮を北側に転地した頼朝は、治承5年の正月元旦に八幡宮寺に詣でたが、これが後世の初詣のさきがけになった。

すなわち武家国家鎌倉はまず宗教都市として発展したのである。ちなみに由比ガ浜の海岸から北側を眺めた地形が鶴のようだったので「鶴岡」八幡と呼び、それに対して義朝の故地を「亀が谷」と呼ぶようになったという。

頼朝は父義朝を供養するために元暦元年に御所の南に勝長寿院を建てたあと、奥州藤原氏の菩提を慰霊するために平泉の二階堂を真似た永福寺(その名のようふくじは奈良の興福寺に因む)を造営し、妻の政子はその義朝ゆかりの地に寿福寺を立て、(いずれも福という字が使われていることに注意)、悲劇の三第将軍実朝の御願寺は、これも私の家の近くに聳え立っていた壮大な七堂伽藍大慈寺であった。(寿ではなく慈に力点が移行している点に注意)

このように鎌倉はますます宗教都市としての性格を強めていったが、関東長者の王権は脆弱なものであり、建久4年の「曽我兄弟の敵討ち事件」の真相は、頼朝に対する暗殺未遂であるという説もあり、実際に源家は北条氏をはじめとする御家人たちの一揆によって頼家も実朝も殺されてしまう。

鎌倉は王殺しの血塗られた記憶の地でもあると著者はいい、そのことは私の向う三件両隣で夜な夜な現れる血だらけの武者の亡霊たちが800年後も実証しているといえよう。


そして最後に、中世都市の3つの類型は、京都と博多と奈良であり、その類型は原理、基軸、性格の3つの構成要素で区分できると著者は要約している。

都市   原理    基軸   性格
京都   中央    ヒト   政治
博多   境界    モノ   港湾
奈良   異界    ココロ  宗教

これを図式化すると上記のようになる。例えば博多は列島の西に位置し、海の彼方の大陸との接点にあってモノが集まった。唐物と本朝のモノが交換される境界的な場に博多という都市は成立をみたのである。

では中世都市はすべてこれらの類型に収まってしまうのかといえば、そこまで画一的ではなく、同じ政治都市でもたとえば承久の乱以降の鎌倉ではおのずと異なる要素が編入されてくる、と述べながら、規模雄大な構想を持つ本書はあっけなく終わってしまうのである。

♪糞1個ひり出す午後の寒さかな 亡羊

Thursday, December 27, 2007

ジョン・アーヴィング著「また会う日まで」を読む

照る日曇る日 第80回

05年に出たジョン・アーヴィングの最新刊が本書である。上下2巻約2500枚の原稿は書くも書いたり、訳も訳したり、そして読むも読んだりの大長編である。それを簡単に要約すると、著者を思わせる少年がまだ見ぬ父に再会するまでのあれやこれやを例によって世界中を寄り道しながら半世紀にわたって旅する自伝的ビルダングスロマンというようなものであろうか。

しかし前半は刺青の話が延々と続くので消耗する。主人公の母も父もタトーをたしなみ、とりわけ母親は名だたる名人からも高く評価される腕前である。その刺青で客を取りながら自分を捨てて北欧へ行ってしまった主人公の父親を捜し求めるうらぶれた旅路が、これでもかこれでもかと描写される。

父親はオルガンの名手で教会の名オルガンを求めて放浪の旅を続けているがいたるところで女性とトラブルを起こしては追放されているらしいが、親子はついにめぐり合えないままで郷里に戻ってくる。

中盤は一転して主人公の故郷カナダのトロントにおける恐ろしく早熟な性体験と演劇クラブ活動などがアマルガムになった猥雑な小中高、そして大学までの奇妙な学校生活が執拗に描かれる。まことにシュトルムウントドランク、嵐のような青春時代である。

そしていよいよ後半は成人して俳優になった主人公がどういう風の吹き回しかオスカーを手中に収めて著名人となり、最後の最後に瞼の父と再会するのだが、このシーンはあらゆる予想と期待を上回る素晴らしさで、「さすがアービング!」と叫びたくなる。

気が狂う寸前まで本作と取り組んだ成果が、下巻第5部第39章に全面的に発揮され、540ページからそのクライマックッスが訪れる。どうか途中で投げ出さずにおしまいまで読んでください。

余談ながら主人公ときたら、「いつも」いろいろな女性に自分のペニスをつかまれながら、さまざまな映画を見ていたようだ。黒澤の「用心棒」で切られた片腕を銜えた犬が歩いているのを見た三船敏郎の怒った顔がかっこいいと述べているが、そのときだって美貌の女教師にそれをむんずとつかまれていて、「つい勃起してしまった」などと平気で書いているのだが、そんなことで真面目な映画鑑賞といえるのだろうか?
 
1985年のトロント映画祭では、なんと両サイドの美女から2本の手で陰茎をつかまれながら三島のドキュメンタリー映画「ミシマ」を見ていて、その映画館で「ゴダールのマリア」が上映されていると誤解した熱烈なカトリック信者からデモ隊の攻撃を受けているが、それくらいは当然のことだろう。喰らえ生卵!

ちょうどこの年のこの頃、私はパリのシャンゼリゼのたぶんバルザック座で同じ「ゴダールのマリア」を見ていたはずだが、いくら左右を見回してもちょっとでもペニスを触ってくれそうな女性はただのひとりもいなかったことを寂しく思い出したことだった。

♪イヴ・クラインの青切り裂くF30 亡羊

Wednesday, December 26, 2007

ある丹波の女性の物語 第38回 夫と父

遥かな昔、遠い所で第60回

 父と一人娘と養子、というだけでも仲々むずかしい人間関係であるのに、継母との関係もあり、父の積極的な性格に、養子タイプのおとなしい夫の性格は相反して、却って相性がいいのではと、私は思ったのであるが、綾部での同居の生活が始まってからは、それぞれに言い分があり、私にはそれぞれの立場が理解出来るだけに、むずかしい立場に立たされる事が多かった。

 丁度その時私は居合わせなかったので、直接の原因は分らなかったが、一寸したはづみで、夫はもう限界だからこの家を出て行きたいと、父に言う事件が起きた。夫は抑えに抑えて来た思いを抑えきれず、父に投げつけたのである。

 いずれそういう事もあろうかと思っていた私は覚悟はしていたので、父に「長い間お世話になりました。私も夫に従ってこの家を出させていただきます」と言った。
父はただオロオロするばかりであったが、平伏して、「ワシが悪かった。謝る。どうぞ出て行かんでくれ」と夫に詫びた。

その後も、夫は何度か口惜しい思いをしたであろうし、父も我慢出来ぬ我慢をしてくれたであろうが、そうした事は二度と起こらなかった。
 程なく、父は履物店の経営には全く口を出さず、経済的にも干渉しなかった。
 父は甥達2人と京都でネクタイの事業を再開したのである。


秋たけて ほととぎす花 ひらきそめ
 もみじ散りしく 庭のかたえに 愛子

弘安さん納骨の日
なき人を 惜しむように 秋時雨 愛子

Tuesday, December 25, 2007

ある丹波の女性の物語 第37回 大阪

遥かな昔、遠い所で第59回

 9月22日に次男が生まれた。産湯を使うと、一番大きい盥にいっぱいになるような大きな子であった。

 その後、商店街は次々店が開き、戦前の体裁がととのうようになった。
 我が家も夫の就職口もなく、店を再開しょうと私は父と大阪へ仕入れに行った。梅田の駅を降り、堺筋から難波まで市電に乗ったが、途中只1軒、山中大仏道という仏具屋の真新しい、大きな建物が目立つだけで、北から南まで一面の焼野原であった。
父がこの土地を今買っておきたいものだ、といったのを、大阪へ行くたびに思い出し今昔の感にたえぬ。

 一応商品が揃うようになってからと思ったので、他の業者より一歩おくれたけれど、履物店を再開した。おかげで、昔からの信用もあり、女の子1人をおいたけれど、花緒をたてるのが間に合わず、外へ出して頼む程よく売れるようになった。

 23年7月には長女が生まれた。父の思い通り、眞善美の3人が揃ったわけである。
 継母は相変わらず床に就く事が多かったが、夫は健康を取り戻し、店の仕事にも次第に慣れては来たが、初めての経験なので、父を頼りにし、自然父と娘が店の主流になる事が多かった。

露地裏に 幼子の声 ひびきいて
 心はずむよ おとろうる身も 愛子

戸をくれば きんもくせいの ふと匂ふ
 目には見えねど 梢に咲けるか 愛子

Monday, December 24, 2007

鈴木清順監督の家

鎌倉ちょっと不思議な物語91回

クリスマスイブイブの夜に義母と話していたら、彼女たちが昔住んでいた長谷の家は、映画監督の鈴木清順氏の旧宅だったというので驚いた。

そこは吉屋信子氏の斜め前にあって、私もある夏の日に一度だけ訪ねたことがあったが、いまは取り壊されてしまった。なんでも玄関までのアプローチが長く、前庭の左側に丈の高い竹が欝蒼と茂っており、蓋をした井戸があったような気がする。

義母の話では外側はおんぼろだが内部は広く、立派な茶室や映画の機材やフィルムの現像室など数多くの部屋があったそうだ。また鈴木監督が引っ越したばかりで郵便ポストには誰かからのラブレターが入っていたそうだが、どこに届けていいか分からないので結局行方不明になってしまったという。

後年あの傑作「ツイゴイネルワイゼン」でベルリン国際映画祭特別審査員賞に輝いた鈴木監督は、当時おそらく日活から解雇され仕事がなくなりつつあった時期だから、生活費に困って鎌倉の寓居を手放してしまったのだろう。

夜になると鼠が天井裏を走り回り、なんだか怪談じみた不気味な雰囲気をかもし出したというが、確かに真夏の昼なのに、長い廊下や納戸のあたりに暗き闇と中世鎌倉の地霊が棲みついていたような気がする。

鈴木監督の代表作には釈迦堂切通しや小町通りの奥にあるミルクホールなど鎌倉ゆかりの旧跡や隠れ家が登場するが、私は確か「ツイゴイネルワイゼン」で大楠道代が潜んでいた水の底のイメージは、この長谷の閉じられた秘密の井戸にあったのではないかと想像を逞しくしてしまった。

いずれにせよ監督の鎌倉滞在は彼の芸術に決定的な影響を与えたのである。

ところで私自身もこの海岸から遠からぬこの古びた家とその住人に大きな感銘を受け、その翌日生まれて初めてひとつの短歌を詠んだ。

♪鎌倉の海のほとりに庵ありて涼しき風のひがな吹きたり

当時私は神田鎌倉河岸のほとりにある小さな会社に勤務していたが、消費者から受けた苦情に対する謝罪文などを、「どうかご海容下さいませ」などと気どって書いて、それを総務のタイピストをしていた年配の小柄な女性に渡すと、彼女は「へええ、あんた若いのに海容なんて言葉をよく知ってるわねえ」と褒めてくれるのだった。

そこで歌が出来た翌日、早速彼女に私のそのつたない短歌を披露すると、彼女はしばらく考えてから「へえー、生まれて初めての歌にしては悪くないわね。でも最後の「たり」を「おり」にするともっといいわよ」という助言を受けた。

若く傲慢不遜だった私は、「いや、やっぱり「たり」がいいです」と言ってその場を立ち去った。それから間もなく、私はこの不可思議な趣のある旧家に住んでいた若い女性縁あって結ばれたが、その年配の小柄な女性が、俳人として知られる井戸みづえさんであることを知ったのはずいぶん後になってからのことだった。

Sunday, December 23, 2007

日曜日が待ち遠しい

鎌倉ちょっと不思議な物語91回

毎年恒例の市の健康診断を受けた後、横須賀線の鎌倉駅の裏駅のそばを自転車で走っていたら、線路際の料亭『吉兆』が営業を終了していた。この日本料理の店は私の近所の人が経営していて、一時はマスコミにも大きく取り上げられ、クロワッサンなどの雑誌を硬く握り締めたおばさん集団が門前市をなして詰め掛けていたが、好事魔多しでなにかまずいことがあったのだろう、広大な自宅もいつの間にか取り壊されていた。

そのほか鎌倉ではT工務店が倒産して一家が夜逃げしたという噂だし、日本経済の再びの地盤沈下と小泉格差政策の荒波をかぶってあちこちでよからぬ事件が起こっている。物言えば唇寒き師走である。

踏切を越えて小町に入ると、「Vivement dimanche!」なる喫茶店がある。最近世間ではこの「きっちゃてん」という立派な日本語をリストラして、得体の知れないカフェーという呼称に全面的に切り替えようとしているが、「Vivement dimanche!」というおふらんす語をつけていはいても、実態は普通の喫茶店である。店主がトリュフォーの大ファンらしく、店の外装や内装もカラフルで、とりわけ奇妙な看板が印象的である。

Vivement dimanche!というのはフランソワ・トリュフォーというフランスの映画監督の作品のタイトルである。邦題では『日曜日が待ち遠しい!』とネーミングされたこの作品は、前作の『隣の女』に続いて、彼の短い晩年の最後の恋人であったファニー・アルダンが主演し、共演がジャン・トランティニヤン、音楽はお馴染みジョルジュ・ドリリューのコンビによる小粋なサスペンスコメディであるが、何度鑑賞しても白鳥の歌とも思えぬその軽やかな疾走感が、残された私たちをかえって悲しませる。

当時トリュフォーはすでに不治の病に冒されており、翌1984年10月21日の日曜日に亡くなってしまうので、『日曜日が待ち遠しい!』は彼の遺作になってしまった。
私はちょうどその頃、彼を起用してテレビコマーシャルを製作しようと考え、すでにその了承ももらっていただけにこの突然の訃報はショックだった。

しかし幸い同じヌーヴェルヴァーグの監督ジャンリュック・ゴダールが、死せるトリュフォーに代わって私の「世界の映画監督シリーズ!」第1回の企画を救済し、2本のCMを作ってくれたことは大きなよろこびだった。1968年のカンヌ国際映画祭がきっかけで決別したこの2人の間を私が製作したCMがつないだことを思うと、その世にも不思議な奇縁に我ながら驚く次第である。

しかし思えばトリュフォーは、ジャン・ルノワール、オーソン・ウエルズ、ヒッチコックの剄い系譜を受け継ぐアレグロ・アッサイの演出家であった。餘りにも生き急いだ彼は、そのイストワールの余情や余韻をあえてかなぐり捨てて非情とも言うべき乾いた猛烈な速度で進行し、逆にかえってそのことが、観客に対して無上のリリシズムとあえかに夢見られた彼岸への憧憬をもたらしたのである。

Saturday, December 22, 2007

ある丹波の女性の物語 第36回 ズンドコ節

遥かな昔、遠い所で第58回


 そんな暮らしが2、3年も続いた。追々ヤミ商品が街に沢山並ぶようになり、古着も店につるされて売買されるようになった。お金さえあれば、何でも買えるようになったが、貯金は封鎖され新円に切り替えになった。

教会の礼拝に行っている留守の間に、その新円を泥棒にすっかり取られてしまい、当座とても困った。親戚から折角送って来た虎屋の羊羹も、ついでに持って行かれ、甘党の父はすっかりしょげてしまった。

 戦後の開放感が拡がっていった終戦後はじめての21年のお盆には、誰が始めたのか大通りに自然に盆踊りの輪が出来た。それが次第に当時はやりの「ズンドコ節」に変って行ったのである。タンスにしまいこんであった浴衣姿の若者、おじいちゃん、おばあちゃんまで加わり踊りは一晩中続いた。

 何かが爆発したような異常な興奮の渦が街中に広がって行った。その後も毎年盆踊りは続けられたが、ズンドコ節のあの激しさはもう無かった。
 
久々に 野辺を歩めば 生き生きと
野菊の花が 吾(あ)を迎うるよ  愛子

うめもどき たねまきてより いくとしか
 枝もたわわに 赤き実つけぬ  愛子

Friday, December 21, 2007

ある丹波の女性の物語 第35回 虚弱体質

遥かな昔、遠い所で第57回

 早々に復員が始まり、内地に配属されていた近所の人達も帰って来た。
暫くしてガダルカナルで戦死した番頭の兼さんの遺骨も帰って来た。父が引き取りに行き、夜おそく提灯をつけて兼さんの自宅に遺骨は帰った。

出征時おなかにいた末の子は、白木の箱を持ち先頭に立っていた私の父を見て、「お父ちゃん、お父ちゃん」と喜び、みんなの涙をさそった。真夏の事で供える花もないままに、私の庭の秋海棠の花を手折って供えた。秋海棠は、そんな想い出と共に悲しい花となった。

 うちでは夫には召集もなく、みんな揃って終戦を迎える事が出来たが、遠慮のない父は、「うちの輸入品は弱虫ばかりで困る」と、母や夫のことをなげいた。言われる当人達はそれ以上に、この上なく辛い事であったろうが、二人とも呼吸器が弱く、とても労働の出来る身体ではなかった。

私達も頑強ではなかったが、力を合わせて野菜作りにはげんだ。豆の季節には、豆の中にお米がまじっているような御飯、夏ならお芋や南瓜であった。戸棚にごろごろしている南瓜を見ると力強かったし、土間に拡げられたじゃが芋、さつまいもを見ると、心がゆたかになるような気がした。

 父は昔の知り合いを訪ねて、商品の残り物を食品に換えて来てくれたり、以前のお手伝いさんは、私の派手な着物類は農家の娘さん用に喜ばれると、お米と交換してくれたりした。 

水ひきの花枯れ 虫の音もさみし
 ふじばかま咲き 秋深まりぬ 愛子

ニトロ持ち ポカリスエット コーヒーあめ
 袋につめて 彼岸まゐりに 愛子

Thursday, December 20, 2007

より良い古典音楽演奏を求めて

♪音楽千夜一夜第30回

例えば下手な絵描きが描いた下手な絵が、3次元の絵画的空間ではなく、単なる絵の具の堆積として私たちの目に映ることがありますが、ジャンルは異なるとはいえそれとまったく同様な「展覧会の絵」現象がいま全国のコンサート会場で起こっているような気がします。

ではどうしてこういうことが起こるのでせうか?
部外者で素人の私にはよく分かりませんが、それは演奏家とりわけ指揮者の精神の内部に自分独自の音楽がないか、もしいくばくかのそれがあったとしても、それを楽員や聴衆に対して自信を持って的確に伝える能力が欠けているからではないのでせうか?

音楽の創造にとってもっとも重要なこと、どういう音楽を立ち上げ、それをどうやって外部に伝えるかということでせう。しかし現在の音楽教育や演奏の現場では、後者の音楽におけるHOWという機能を最優先するあまり、もっと重要なWHATの創造の課題がおきざりにされているのではないのでせうか。さうして苦労してせっかく手塩にかけて培養した幼く稚拙な創造の芽さえ効果的に周囲に伝達できないので、だからあれほどにつまらない演奏が日夜かくも膨大に流通しているのではないかと思うのです。

いろいろな努力と遍歴を重ねてはみたけれど、自己の音楽ヴィジョンをついに強固に確立できず、ただ楽員とのおためごかしの協調性と協奏のよろこびだけでその場しのぎの音楽をやろうとする指揮者たち(例えば小沢氏のウイーン国立オペラ就任記念演奏会におけるブルックナー9番の演奏やロストロポーヴィッチ氏との最後の「ドンキホーテ」のリハーサルにおけるテンポの設定不指示をカール・ライスター氏に指摘されても反省しない没主体的な指導性)が年々粗製乱造され、その成り行き次第のダルな演奏態度によって現代の再現芸術のレベルを日々劣化させているのではないでせうか?

この致命的な機能不全を解消する秘策はありませぬ。というのは音楽におけるWHATの創造は、音楽以外の暗黙知と広範な人生体験から生まれてくるからです。ひとりの人間としてより深く、より良く生きようとする不断の努力と研鑽からしか良き音楽家は生まれないと私は信じています。

いくら朝から晩までヤマハが買収したベーゼンドルファーを弾きまくっていても、あるいは神仏に祈って7度生まれ変わっても、所詮漢(おとこ)バックハウスにはなれないし、天才コルトーやリパッティには逆立ちしたってなれませぬ。けれどもたとえ永平寺で100年修行を積んだからと言っていい音楽家になれるとは限らないのです。

それではすべてお手上げかというとそうでもなくて、私たちは偉大な先人の音楽文化伝承の技術を丁寧に学ぶことによっていくらかはWHATからHOWへとつながるこの問題をキャッチアップできるはずです。

なぜなら演奏のエッセンスは、楽譜の解釈にあり、楽譜の解釈は楽譜の物語化、象徴化にあり、指揮者の仕事はこの独自な物語とシンボルの立ち上げと効果的な移植にあると考えられるからです。
指揮者(演奏家)は己の脳中と胸中に浮かんだ抽象的なWHATを、あれやこれやの具体的な指示へと置き換えなければなりませぬ。

いつか斉藤秀雄氏の弟子の飯森泰次郎氏が、死せる師匠の指揮法についてピアノを演奏しながら具体的に語っておりました。それは「タンホイザー序曲」の冒頭のシーンでありましたが、「ここは疲労困憊したローマの巡礼たちの思い足取り、ここは彼らにようやく希望の光が見えたかすかなよろこびの瞬間」というふうに、斉藤氏はまるで平家物語の語り部さながらに一小節ずつ弾き振りの指導を行なったといふのです。(ここでセルの演奏を参照してください)

また今は亡き朝比奈氏は、ベートーヴェンの第7交響曲の練習で、「ここは縦の線は無視してください。音は汚くても構わないから歌って、歌って、歌ってください」とまるでトスカニーニのように大フィルを叱咤しておりました。(なんというアバウト小氏との違いでありましょうか!)

さらにはクライバーやチエリビダッケやムラビンスキーやミュンシュやクーセヴィツスキーのリハーサルをご覧あれ。すべてがこの物語化と象徴化による音楽の結晶化作業の連続です。

さうして彼らが楽員に強烈に彼らの物語を解説し、象徴化へいざない、あるいは反抗する楽員を説得し、折伏する指導的言語と、その教育的指導を受けたあとの楽員による演奏は、その前後であきらかに顕著な違いがあるのです。音楽的境地の瞬間ごとの生成進化があるのです。

こうした音楽の物語化は演奏芸術における象徴化作業にきわめて忠実な手法であり、いまでもけっして古びてはいないし、教育的有効性を失ってはいないはずです。

最後に私は、楽譜と音楽は不即不離の関係にこそあっても、楽譜そのものは実は音楽演奏とも、ノイエザハリッヒカイトなんちゅう客体的な楽譜解釈による客観的な?演奏とも、さらには思い切って音楽の本質とも原理的には無関係ではないかと思うのです。

世間で信じているやうに、楽器の演奏ができることと、演奏された音楽の本質が理解されていることとはまるで関係がないので、かのジャン・クリストフではありませぬが、プロより頑是無い子供の素人のほうが演奏されたその音楽の本質を直観していることが多いように思われます。


盲目の老人が独り住む家に今年もたわわに蜜柑つけたり 亡羊

Wednesday, December 19, 2007

徳富蘇峰著「終戦後日記Ⅳ」を読む

照る日曇る日 第79回


徳富蘇峰は1863年熊本生まれで福沢の慶応を嫌って京都に出て新島襄の同志社に学び、1887年に民友社を設立して「国民之友」「国民新聞」などの有力メデイアを発行しいわゆる平民主義を唱道した。
明治、大正、昭和の3代を生き延びた言論人にして政治家の彼は、戦時中は大日本文学報国会会長、大日本言論報国会会長をつとめ、その天皇中心主義を生涯にわたって貫いた。

いわば筋金入りの保守であるが、言論人兼政治家という点では最近の読売社主兼主筆兼3流暗躍政治家のナベツネ、あるいはその先々代の正力と同類項の言行一致型の策士である。不仲であった松方、大隈の両領収手を握らせ、念願の松隈内閣を誕生させた影の立役者こそ誰あろう国民新聞社主の蘇峰だった。

蘇峰のみならず明治の御世には、尾崎行雄、犬養毅、子規の恩人日本新聞の陸羯南をはじめ数多くの新聞記者や社主が政界に進出し、彼らの理想を実行に移そうとしていたのである。平成の御世に生きる一新聞社主が自民民主両政党の連合を企むことはそのアイデアがいかに虚妄であろうともそれをやってはいけないと誰もいうことはできない。しかし彼奴がワンワン吼えても歴史は勝手に動くだけの話だ。

さてその蘇峰が書き継いだ日記「頑蘇夢物語」の完結編「終戦後日記」が本書である。日記といっても当時蘇峰は巣鴨に収容こそされなかったが立派なA級戦犯であり、進駐軍によって監視されていたから外部には公開されないままについに今日に至ったいわくつきの日記である。

本書の前半で、著者はなぜ日本が過ぐる大戦に敗れたか執拗に自問し、自答している。蘇峰が挙げるのはまずは人物の欠乏で、上は恐れ多くも明治天皇と昭和天皇、下は桂と東條、海軍の東郷平八郎と山本五十六、陸軍の大山、児玉と山下、板垣などの人物の出来具合を月旦する。

次はルーズベルトやチャーチル、スターリン、蒋介石とわが帝国首脳のスケールの大小、さらにわが帝国の東亜民族指導の資格欠如、大和民族の先天的後天的欠陥、戦争の構想の欠落、満州から中華事変への暴走起点となった盧溝橋事件の処理方法に言及し、中国の真価を知らずに蔑視して突入した支那事変を「世界戦史上最愚劣の戦争」であったと決め付ける。

ユダヤ人と並びおよそ世界で最強の漢民族と事を構えたわが帝国の無謀と愚劣を痛罵してやまないのだが、ではかつての日清、日露と同様にわが帝国の命運を賭けた大東亜戦争を肯定し、全面的に加担し、積極的に応援したご本人の立場との整合性はいったいどうなるのだろう。

結局は自分ひとりが賢くて優秀で、自分以外の日本および日本人はすべて阿呆であったとでも言いたいのだろうか? しかも日本がこの史上最悪の戦争に突入したすべての原因は、鬼畜米英と悪辣非道なソ連の陰謀にあり、わが帝国の落ち度は皆無であると他方では断言するのだから何をかいわんや。己の過去の言動を正当化する不敵な物言いとしか思えない。もしこの人が存命ならば己と帝国の無謬に乗っかったまんまで次の戦争の準備をするだろう。

しかし後半の「百敗院泡沫頑蘇居士」と題する失敗に満ち満ちた半生の記は、伊藤、井上、松方、大隈、陸奥などとの交友や人物像、東武グループの総帥根津嘉一郎の陰謀によって手塩にかけた国民新聞を追われたいきさつなどを赤裸々に描いてじつに興味深い。

また本書の執筆当時に急激に進行しつつあった米ソ冷戦の初期の動向の観察の鋭さ、その後の世界予測の正確さは、94年の生涯をしたたかに生き抜いた硬骨漢の真骨頂をものの見事に表現しているようだ。


♪ベット・ミドラーのインタビュー アイアイアイと私が五月蝿い 

♪高窓の光のどけき冬の朝妻と並んで抜き手切りたり

Tuesday, December 18, 2007

NHKは大好きなのですが、N響が

♪音楽千夜一夜第29回

先日の「第9」公演では、近くに座った中年男が演奏中にさかんに巨大な望遠レンズをつけたキャメラで舞台を撮影していました。鎌倉の芸術観ではよく頑是無い赤子を泣かす若い母親がいたり、いびきを立てて爆睡するリーマンがいたりしますが、東京では演奏中に携帯で会話する聴衆が後をたたず、マーラーの9番の消えゆく余韻を会場のみんながかみ締めようとした瞬間、突然狂ったようなウラアの蛮声を浴びせかける体育会系男が出没するのみならず、最近は客同士が乱闘したり演奏中に交尾するカプルまで出現したという話を聞くので、私は極力演奏現場から遠ざかってクラシックの演奏を録音や録画を楽しむことが多いのです。

前にも書いたように「NHK大好き人間」の私は、当然NHK交響楽団の演奏を視聴する機会が多いのですが、それにしても昔ながらに相変わらずなんと退屈でつまらない演奏が延々と続いていることでせう。

ケント・ナガノとか準メルクルなぞの日系の若者についてはこれまでは多少応援しながら聞いておりましたが、浦和の闘莉王の素晴らしい仕事ぶりに比べたらまるで月とスッポン、比較の対象ですらなく、さんざん聞いた私が馬鹿だった。もうとうに彼らの将来はあきらめております。

以前の首席のシャルル・デユトワさんも、首になったモントリオールのオケとデッカに入れたフランス音楽の光彩陸離の演奏があまりにも素晴らしかったので大いに期待していたのですが、音響最悪巨砲ホールでのあまりにも空虚な演奏は(最初と最後とその中間の元妻との競演を除いて)いちじるしく精彩を欠き、その跡を継いだアッシュケナダ氏は、力余ってルイ14世の宮廷楽長リュリのように指揮棒で右手を刺し貫いたときには、これからどう大器晩成してくれるかと一抹の不安とともにこれまた大きな期待を小さなこの胸に懐いた次第ですが、やはりその不安が現実のものとなり、哀れ安部首相ともどもシドニー響に転出となった模様です。

彼はバレンボイムと違って指揮よりピアノがやはり本領だったようですね。いっそプレトニコフかロジャー・ノリントンを招くという手もあるかと思ったのですが、アシュケにこりた当局はもはや首席をおかないことにしたようです。

ロバの耳を持つ私には、スクロバチエフスキー(読響にいった)もプレビンもマリナーもつまらなかったし、多少ともましなのはでぶでぶネルロー・サンティさんくらいでせうか。

それにしても近年N響に客演する多くの指揮者たちによる演奏を聞いて感じられることは、彼らの多くが、音楽ではなくて音符を精密機械のように音響工学的に、オートクチュールではなくてプレタポルテ風に、四輪の運転マニュアルのように安直に演奏しているように感ぜられることです。

それは確かに楽譜どおりの演奏なのでせう。しかしながら私個人にとっては音楽的感興に打ち震える瞬間なぞは微塵もないのがとても残念です。だから愛する超ローカルオケ鎌響にせっせと通っているのです。
蓼食う虫も好きずきとはいえ、高いお金を払いながらあの紅白歌合戦ホールに毎月通い続ける定期会員の方々の心根が、私にはてんで理解できまへん。


♪その縄跳びの輪にどうしても入っていけない自分がいる 亡羊

Monday, December 17, 2007

下手な小説のような松木武彦著「列島創世記」を読む。

照る日曇る日 第78回

石器時代から縄文、弥生、そして古墳時代に入るまでの、のちに日本列島と呼ばれることになる地域の歴史物語が、本書である。

あえて物語と書いたのは、この本が単なる石器や土器やらの物理的資料本位の考古学&歴史学概説にとどまることなく、「ヒューマン・サイエンス」とかいう現在欧米の人類学、経済学、歴史学などで大流行の最新型の学説を援用して、この父祖未生以前の時代の来歴について大胆な推理と解釈を施しているからである。

旧態依然とした考古学の分野に、人工物や行動や社会の本質を「心の科学」(認知考古学)によって見極め、その変化のメカニズムを真に迫って描き出そうという若き学徒の言うやよし。さいかしいざ読んでみると、「人間みな人類、我々はみなホモ・サピエンスの末裔であるからして、その心性は15万年間にわたって普遍的である」、と暗に仮定し、「新人も現代人もさぞや同じ知性と感性の働きをするに違いない」、という証明不能の粗放な科学的立場から、大昔の人々の生活と意見をさながら小説のように奔放に語るので迷惑する。
どだい嘘か真か誰にも分からぬ話を、その道の専門家から、いかにも本当でござい、としかつめらしくしゃべられても、こちとらは「ははあ、さようでございますか」、と黙って拝聴するほかないのである。
具体的には、著者は縄文や弥生の時代ごと、地域ごとに「物質文化」の変化の波が現れ、それは土器の過度の修飾などの人工物に「凝り」が盛り込まれる方向性に現れ、その方向性を読み取ると当時個人と集団のどちらのアイデンティティをより強く表現していたかが科学的に解明できる、とかなんとか講釈するのだが、私のみるところではそれこそ跡付けの見てきたような思い付きと主観的な思い込みと想像と予断の積み重ねに過ぎない。せめてそれぞれの講釈の根拠となった資料や引用箇所を網野氏のようにちゃんとそのつど表示してもらいたいものだ。

しかし梅原猛や網野善彦や岡本太郎や和辻哲郎などの思い付きと主観的な思い込みと想像と予断を笑って許せた私だが、著者のそれにはなかなか素直にうなずけなかったのはどちらの人(にん)の出来の所為だらうか。

ただひとつ確かなこと。それは著者もいうように、列島には約4万年前から1500年前までの間に列島が寒冷化していく時期が2回あり、(①第一寒冷化期=後期旧石器後半の約2万年前まで、②第一温暖化期=後期旧石器後半から縄文前期、約2万年前から7千、6千年前まで、③第2寒冷化期=縄文前期から晩期、7千、6千年前から2800、2700年前まで、④第2温暖化期=弥生前半2800、2700年前から紀元前後まで、⑤第三寒冷化期=弥生後半から古墳時代を経て奈良時代後半の紀元前後から後8世紀末ごろまで)この気候変動こそが、現代と同様、列島史を動かした最大の要因であるということだ。


♪脳漿と精巣はどこかで繋がっているのであらうか

Sunday, December 16, 2007

♪日本語で歌う「第9」演奏会を聴く

♪音楽千夜一夜第29回

最近ドイツの長老指揮者ハンス・マルチン・シュナイトを音楽監督に迎え、人気、実力とも赤丸上昇中のオケなのでとても期待していたのだが、結果は見るも、じゃなくて聴くも無残なものだった。

冒頭の「エグモント序曲」で最初の野太い音が出たとき、「ああ、さすがはプロだ。いつもの鎌響とはさすがに違う骨のある音作りだなあ」、と感嘆したのだが、うれしい驚きはそこまでだった。
あとはまるで中学校のブラバン(中学生とブラスバンドには大変申し訳ないのですがものの譬えなのでご勘弁を)のように健康的で、陽気で、元気で、単細胞な音楽が延々と続けられたのだった。

その演奏は精緻なダイナミクスの計算がなく、音色の繊細さや音楽の光と影の交錯に乏しく、それでいて正確無比で、細部が異常なまでに磨きぬかれ、私が評価しない、あるいはできない小沢やサバリッツシュやブロムシュテットやオーマンディやムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団の音楽作りに似ている。

例えば第9のもっとも美しい第3楽章では、なんの叙情も音色の自己耽美もなく音は国道1号線を疾駆するダンプカーのように走りすぎ、最終楽章のはじめのところで、チェロとコントラバスがひそやかに歌い始めた美しい「歓喜の歌」のメロディが2丁のバスーンなどによって同伴される箇所などは、凡庸な指揮者の演奏でも思わず息を呑まずにはいられない霊妙な音楽的佳境の瞬間であるはずなのに、彼ら演奏者は格別の思い入れもなく、淡々と通過してしまう。

それに続くバリトンの第1声がドイツ語ではなく、「わが友よ、歌うならもっと快い歌を歌おう!」という翻訳のゆるい日本語であったのには驚いたが、演奏自体はもはや私にとってなんの感動も伴わず、知性の陰りや理性のひらめきはおろか、ひとかけらの霊感すら天上から降臨しないまま、能天気な音符たちが1時間以上もえっちらおらっち眼前を軍隊行進していき、気がつけばすべてが終わってしまっていたのだった。

最初の「エグモント序曲」で野太い音が出たと書いたが、この音は20年以上も前に愛聴した新星日響の音だと演奏中に気がつき、あとで現田茂夫という指揮者の経歴を調べたらはしなくもこのオケの出身者であった。

あのころの新星日響はコンサートマスターをウイーンフィルのヘッツエルのように不慮の事故で失い、その悲しみを消去しようと毎回それこそ松脂から炎の出るような全都随一の激烈で悲愴な音楽をやっていたが、あれから四半世紀を経ていまや中堅の域に達したこの指揮者になんら進歩の形跡がないことに気づいた私は、「にんげんそう簡単に変わるもんじゃあないぞ」の思いを新たにしたことだった。

私は音楽の生命が光り輝く精霊の森に分け入りたかったのに、案内されたのは鳥も花も死んだ冷たい化石の森だった。嗚呼、冷感症の自称音楽家たちによってずたずたに傷つけられたベートーベンの名曲よ! こんな演奏は悪魔にでも食われてしまえ!と(私だけは)心の中で呪ったことであったよ。

老婆心ながらこれからベートーベンを演奏しようと思う若い人は、間違っても小沢など斉藤秀雄ゆかりの教師につかず、古い図書館の地下室に眠っているロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」を開いてほしい。そしてそのなかで、主人公の少年が生まれて初めて彼の交響曲のライブを耳にした瞬間に彼の魂を震撼させた音楽の圧倒的な素晴らしさ、また音楽が人生を変えることの恐ろしさ、その無上の快楽と毒性について知ってから指揮棒(楽器)を手にしてもらいたいものである。

指揮 現田茂夫 演奏 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
独唱
ソプラノ 亀田真由美
アルト 稲本まき子
テノール 小林彰英
バリトン 末吉利行
合唱 日本語で歌う「第9」2007合唱団
会場 鎌倉芸術館


♪グルダのヴェートーヴェンとモザールは良いがったく彼奴のジャズのどこがいいのだ

Saturday, December 15, 2007

坂口弘著「常しへの道」を読む

照る日曇る日 第77回

1972年2月19日のあさま山荘事件で警察官2名、民間人1名が射殺され、同年3月に群馬県の山林で12人、千葉県で2人のリンチ殺人が行なわれた。そしてこのすべての事件に直接かかわっていた坂口弘の2番目の歌集が、この「常しへの道」である。
その題名は、旧約聖書詩篇49章9節の「魂を購う価は高く、とこしえに、払い終えることはない」によっている。

坂口は、たしかにリンチに加担した。

途方もなきわれらの事件よ
主導者の独りよがりも
桁外れなりき

年雨量の三分の一が降れる日よ
銃撃ちまくれる
かの日思えり

腫れ上がる顔面といふより
膨れ上がる顔面といふべし
リンチの凄惨

坂口は、とても生真面目な性格の持ち主である。

新左翼運動を誰一人として
総括をせぬ
不思議なる国

人の為ししことにて
解けぬ謎なしと
信じて事件の解明をする

指導部の一員なれば
その罪を
組織に代わり負うべきと知る

坂口は、日々死におびえる死刑囚である。

おそらくは
妻子と離縁をせしならむ
苗字を変へて執行されたり

執行のありしこと知り
下痢をしぬ
くそ垂れ流し曳かるるはこれか

望みなき
わが人生の終点に
転車台のごときものはあらぬか

坂口には、愛する家族がある。

明日もしお迎えあれば
今際なる父の食みしごと
林檎食みたし

これが最後
これが最後と思ひつつ
面会の母は八十五になる

また坂口は、啄木を愛する詩人である。

気配せる
闇の外の面に目を凝らせば
ああ落蝉の羽撃きなり

屋上へ運動に行かむ
梅雨なれば
綾瀬川の水匂ひもすらむ

知らぬまに花茎を伸ばし
ふいに立つ
死神のごと彼岸花咲く

しかし坂口には、まだいうべきことがある。

かの武闘を
論外なりと言われしが
核心を衝く批判はされざりき

坂口の
死刑執行がまだされずと
不満を佐々氏が述べてゐるなり

死刑ゆえに
澄める心になるという
そこまでせねば澄めぬか人は

悪党といふ他はなき男はや
絞首刑されよ
とまでは言はずも

そして坂口は、昔のわたしに少し似ている。

演説のできぬ
左翼にありしかど
焚き付くるほどの怒りもなかりき



♪一日一恕の幸せを君に 亡羊

Friday, December 14, 2007

ある丹波の女性の物語 第34回 敗戦

遥かな昔、遠い所で第56回

 8月15日正午の終戦の放送は、ほんとにホットして開放されたという思いがした。
 灯火管制がなくなり、明るい電灯の下で、晴れがましいような思いで夕食を食べた。
 その記憶はこの間のように、ハッキリ思い出す事が出来るのに、その前後の事は、突然フイルムが切れて、何コマかがとんでしまったように思い出す事が出来ない。

 東京で一人で病んでいた夫を、父が迎えに行った事、大阪への転勤が決まり一時、東京の荷物を京都まで運び、その後綾部へ戻した事等が、どんな順序で、いつ行われたのか、どうしても思い出す事が出来ないのは、どうした事なのだろう。

 無我夢中の言葉をそのままに、とにかく長男を加えて、父、継母、夫、私の5人の、今までとは全然ちがった生活が始まったのである。

 そして食糧難時代もいよいよ本番を迎えた。食糧の配給はおくれながらも続けられたが、バケツ一杯の砂糖であったり、とうもろこし粉であったり、今までの主食の観念をまるきりかえてしまうような事もあった。

 それでも戦争に負けたのに、何の危害も加えられず、いままでの敵国から食糧が配給され、無事に日常生活が出来た事を、だれもが一応は感謝していた。

♪拡がれる しだの葉かげに ひそと咲く
 花を見つけぬ 紫つゆくさ


♪拡がれる しだの葉かげに 見出しぬ
 ひそやかに咲く むらさきつゆくさ

Thursday, December 13, 2007

ある丹波の女性の物語 第33回 戦後、幼い子供達

遥かな昔、遠い所で第55回

 昭和19年に入るとあらゆる物が統制になり、店の営業は殆ど出来なくなってきた。これからは食べる事だけのために生きているという時代になったのである。

 綾部のような田舎でも灯火管制が行われ、町内会で防空壕を掘り、飛行機の燃料にと、男の人達の松根堀りの奉仕作業も始まった。

 20年に入ると都会の空襲は激しくなり、舞鶴の軍事施設も爆撃されて、綾部からも夜空に燃えさかる火の手が見られるようになった。

 私は毎晩、赤ん坊の長男をいつでも背負って逃げられるよう、枕元に衣類や負い紐を用意して寝たものである。

 貸していた畑を返してもらい、春にはじゃが芋を植えた。父と二人でじゃが芋の芽を切り分け、灰をつけるのであるが、何分馴れぬ事で、二百坪の畑の畝に適当に並べているうちに日が暮れてしまい、土をかぶせるのは又明朝という事にして帰った。

夕食もすみ、お風呂に薪をもやしていると戸をたたく音がする。畑の近くの人がわざわざ自転車で「芋は上に土をかぶさないと芽がでませんよ」と知らせにきて来れたのである。親切は嬉しかったが、父と大笑いした。


♪炎天の 暑さ待たるる 長き梅雨

♪弟と 思いしきみの 訃を知りぬ
 おとないくれし 日もまだあさきに

Wednesday, December 12, 2007

ソープオペラ

♪バガテルop31&♪音楽千夜一夜第28回

さてお立会い。水はちゃらちゃら御茶ノ水、粋な姐ちゃん立ちしょんべん……
では皆さん、ここで小粋な住宅について考えてみると、縄文時代の早期はほとんど円形または楕円で、後期になると四角、弥生時代には竪穴から平床で西部では床が付きはじめる。んで、わが国に大きな影響を与えた大陸文化には床つきの住宅はなく、床は稲作と結びついて南方から入ってきた。平安初期までのお寺は土間に仏を祭っていた。しかし弥生中期に日本に渡来し国家統一を行なった北方系の……。

♪たりり、たら、たらん。
  頭の中で鈴が鳴る。

毎日毎日くだらない事件ばかりが続く。もういい加減にしてくれええ……

いきなり洪水のような下痢が一晩中続いたり、家族がそれに感染したり、でも面白くもない毎日を面白う住みなすことが人生だったりする、と高杉氏も遺言していたりするし、「たり」は繰り返して使います、とアホバカウインドウズが狂ったように警告したりするので、アホバカとは何ぞやとつらつら考えてみたりすると、馬を呼んでは鹿と呼んだり、鹿を呼んでは馬というたりすることらしいから、いよいよおいらはバガテル人間だあ。

ところで最近巷で極左冒険主義新聞という噂の某夕陽新聞を読んでいたりしたら、フィンランドでは通行証のことを「クルクルパ」というたり、あのルワンダでは唐辛子のことを「ウルセエンダ」と呼んだりするらしいので、おいらはフィガロの結婚の1幕だか2幕だかで誰かが「タスカリマシタ」と日本語で叫んだりしているのがいつまでも耳を離れなかった。

さて本日の結論
およそ現代のご立派な議論にあって、最後に誰かが「so what?」 と反問して一挙に崩壊しない程度にご立派な理屈は存在しない。

♪たりり、たら、たらん。
わが余生よ 安かれ!

so what?

Tuesday, December 11, 2007

ある丹波の女性の物語 第32回 継母

遥かな昔、遠い所で第54回

 私は翌年10月出産と分かり、夫を東京に残し綾部へ帰った。9月はじめと思う。

綾部へ帰れば食糧は何とでもなると安心していた私は、留守中の夫の為に、私の移動申告をしないで帰ってきたのであるが、帰る早々お米の配給がもらえぬと継母に非難され、ひどく困った辛い思い出がある。

なくなった母なら、古い馴染みを通して食糧の確保も容易であったろうが、来たての継母にはむずかしかったにちがいない。産み月せまった私にはどうしょうもなく、片身せまくみじめな思いをした。我が家でこんな思いをと情けなかった。

其の後、父も食糧係りとなり色々カバーしてくれたが、父をめぐる子と後妻との関係は、今まで経験した事のない感情だけに、そのむずかしさを日毎に痛感した。

 昭和19年10月16日、長男が誕生した。秋祭りの翌日早朝の事である。父の喜びはたとえようもなかった。私の3人の子供のうち一番華奢な体つきは胎内での食糧不足で致し方ないが、髪が長くて、女の子のような可愛らしい子であった。

 夫は交通事情も大変むづかしくなっていたのに、等々力で2人で作った大きい大根を土産に帰ってきてくれた。


♪くちなしの うつむき匂う そのさがを
 ゆかしと思ふ ともしと思ふ
                    (注「ともし」は面白いの意。)

♪おさな去り こころうつろに 夜も過ぎて
 くちなし匂う 朝を迎うる

Monday, December 10, 2007

ある丹波の女性の物語 第31回 本郷、青山、銀座

遥かな昔、遠い所で第53回

 日曜日には時々主人と共に本郷教会へ礼拝に出かけた。教会も階下は食糧倉庫になっており、礼拝を守る人数も少なくなっているので、会議室のような所で行われたが、安井てつ女史が黒紋付の羽織姿でいつも出席され、賛美歌の奏楽は大中寅二先生であった。

 昼食は牧師夫人が用意してくださる事もあり、青山5丁目の長兄宅に立ち寄りご馳走にもなった。長兄の家の隣に土屋文明先生のお宅があり、急に身近な人のように感じた。

 銀座へ廻る時もあったが、防空壕が出来るのか、舗道のところどころが掘り返されていた。綾部ではモンペ姿が通常であったが、道行く人は和服の着流しも多く、東京の人の方が余裕があるなとほっとしたが、レストランで出された大根葉のスープには驚いた。

 夫の長姉の夫は海軍主計中将であったので、お祝い事で水交社へ招かれた事がある。ここばかりは昔ながらのフルコースである。まだこんな世界もあるのかと、これにも驚いた。

或る日突然雀部の父が出張で上京し、歌舞伎座へ私達夫婦を招待してくれた。出しものは「菊五郎の襲」と「羽左ェ門の勧進帳」であった。幕際で六法を踏む弁慶の姿が忘れられない。戦前の歌舞伎座で今はない名優の芝居を見た。数少ない東京での豪華な思い出である。


♪十両、千両、万両  花つける
 我庭にまた 億両植うるよ

♪命得て ふたたび迎ふる あらたまの
 年の始めを ことほぎまつる

Sunday, December 09, 2007

宮本常一著「なつかしい話」を読む

照る日曇る日 第76回

民俗学者の宮本常一が生前行なったいくつかの対談のアンソロジーでどこからでも読めて、どれも題名どおりに懐かしい気分につつまれるいわゆるひとつの「珠玉の名篇」である。

とりわけ面白いのは歴史家の和歌森太郎との幽霊対談で、実際には会ったことのない2人が仮想対談する仕組みもユニークだが、中身も面白い。

和歌森が網野と同様、いやもっと昔から化外の民や海民の重要性に言及しているところや、宮本が指摘する「山人の海民化」も興味深い。例えば古代のカモ部は、当初京都賀茂神社や大和葛城などの山中に住んでいたが、次第に瀬戸内海の島々などに降りてきたとか、長野県安曇の山民が滋賀県の安曇川などに降りていって海人部を宰領するようになったという。

「中世雑談」における宮本の「昭和25年の対馬では時計もなく、1日2食で、1日の時間としては朝と夜があるだけで昼がなかった」、時間の経過におそろしく無頓着だったという話も興味深い。わが国の大事な祭りはすべて夜であり、たいまつを焚き、夜を徹して行なわれるお神楽が終わって白々と夜が明けてくるその瞬間に、祖先は一期一会という言葉を実感したのではないかと説くのである。

さらに半農半漁の村でも漁業の民家はすべて田の字ではなく並列型であり、農業はすべて引き戸であるのに対して、後者ではしとみ戸であると指摘し、「衰弱した漁村」と見えるものもその実態は「陸上がりした漁業」であることを、その漁民の間取りに即して具体的に説明しているところには、柳田國男などの前頭葉偏重学者にはないきめ細かな観察と生きた思索の真価がよく示されている。

著者によれば、昔は夕方のいわゆる逢魔が時にはお互いに必ず挨拶をする慣わしがあった。もしも向こうがこちらの挨拶に答えてくれなければ、それは魔物だとされたそうだが、私などは最近朝比奈の峠で多くの魔物に遭遇したことになる。

では最後に、本書で紹介されているなつかしい昔話から、福島県の出稼ぎのをひとつ。

かかあが言うには、「おトト、おまえさん出稼ぎに行くともう半年も会わねいから」というてね朝っぱらから重なった。そしたらそこへ子供が出てきて「おトト、おカカ何してるんだて」。それでおカカ「バカ、トトは出稼ぎいぐんだいや。おまえはあっちいってろ」「あっちいってい、いうたってこんなせまいとこ、どこいくわな」「ニワトリ小屋いってえい」。子供はニワトリ小屋いった。そしたらニワトリもまたチョコンと重なっちもうた。子供たまげてとんできて「「トト、カカ、ニワトリも出稼ぎに行く!」一期ブラーンとさがった。

♪年毎に故人増えゆくアドレス帳

Saturday, December 08, 2007

ある丹波の女性の物語 第30回 等々力

遥かな昔、遠い所で第52回

 父は私達の結婚に先立ち、園部の教会員の未亡人と再婚した。

 私の夫は水道橋にある統制会社につとめていたので、本郷などでは留守番をしてくれるならと、大きな家でも10円位で借りられたが、当時はもう疎開がはじまっており、安全な世田谷等々力に新居を構えた。六畳と四畳半に炊事場がついていて家賃40円であった。夫の月給80円也。家賃は綾部が負担してくれる事に決まった。

 等々力はオリンピックの開催地に予定されていた所だそうで、住居は万願寺玉川神社に近く、周囲には広々とした畑が広がっていた。近所には軍需会社の社長達の邸宅が並んでいたが、私達の隣組は同じような小さい家ばかり、組長さんの家だけは、信州のお殿様の執事だとかで、応接間もある立派な家で、品の良い老夫婦が住んでいた。

 綾部も主食には不自由になってはいたが、東京の食糧不足には閉口した。綾部から持ってきたものには限りがあり、馴染みの店は全くない、家の周囲は畑にかこまれてはいるが、どうして求めていいのやら。隣の奥さんに教えてもらい配給のお酒を手土産に、お芋や野菜を分けてもらう事にした。タンスに入れて持って来た衣類も、フル回転して食物に変わって行った。

東京空襲が近いと言う事で、庭に防空壕を堀り、空き地には大根等も作った。その頃は等々力にはガスも来ておらず、燃料不足で、夫は木場から一束ずつ材木の切れ端を運んでくれた。

銭湯も九品仏まで出掛けねばならなかった。等々力での楽しい思い出はあまりないが、近くの邸宅の垣根の殆どが沈丁花で、春まだ浅いうちから芳香を漂わせ、夜道を上がって来ると、むせぶような香りに包まれた。
夕焼けに空が染まる頃、万願寺さんの林に烏が群れて、やかましく鳴いた事等思い出す。


♪大雪の 降りたる朝なり 軒下に
 雀のさえづり 聞きてうれしも

♪次々と おとないくれし 子等の顔
 やがては涙の 中に浮かびぬ

Friday, December 07, 2007

ある丹波の女性の物語 第29回 谷中

遥かな昔、遠い所で第51回


父はその帰路、谷中の伯父の家へ連れて行ってくれた。そこは公然の秘密にはなっていたが、私の生母の兄の家であり、母の実家であった。

 上野の下町から坂を上がって行くと全くの住宅地があった。玄関をあけると「ガラン、ガラン」と大きな音がして驚いた。玄関の足元から各種の時計や美術品がいっぱいに散らばって並べてあった。

まるで骨董屋である。洋服屋と聞いていたが、まるきりそれらしいものは見当たらぬ。よくは分からぬが、ウェストミンスターと言うのか大きな時計が5分とか10分おきに、ちがった響きのある音で時をきざむので、その美しい音色には魅せられた。

広い庭は草茫々。小川が流れ、陶器を焼く窯があった。手彫りのテーブルの上に手焼きの食器が並べられ、そばをご馳走になった。

 伯父いわく「この戦争は必ず負けますよ。われわれはどうしても生きのびなければならない。私は洋服屋は止めましたが舶来の生地をシッカリ買いこみました。食料は勿論、ビタミン等の薬品類、それにダイヤ等も。あなたも有金全部払戻して必需品を買い込みなさい。」

私達はこの怪気炎にまかれて帰宅した。なかなかその真似事も出来なかったが、これが伯父と姪との最初で最後の出会いであった。


♪今ひとたび あたえられし 我が命
 無駄にはすまじと 思う比頃

注 谷中の伯父とは上口愚朗(作次郎)。明治25年谷中生まれ。小学卆後宮内省御用の大谷洋服店に弟子入り大正末期に「超流行上口中等洋服店」開店。江戸時代の大名時計の収集家としても知られる。旧邸跡地に現在大名時計博物館がある。

Thursday, December 06, 2007

ある丹波の女性の物語 第28回 結婚

遥かな昔、遠い所で第50回

 翌18年、京都のネクタイ工場は強制疎開でこわされてしまった。戦況は日に日に悪化していたが、国民には知らされていなかった。

 10月11日、東京本郷教会に於いて私は田崎牧師夫妻の媒酌により、根岸精三郎を養子として迎える事になり結婚式をあげた。

根岸家は倉敷市で古くから米問屋を営んでいたが、父は早死にし、店はすでに破産していた。

本人は兄弟姉妹合わせて11人きょうだいの七男であったが、その殆どが東京におり、元倉敷の牧師が仲人をして下さったのである。

精三郎のすぐ上の兄が綾部の丹陽教会へ伝道に来ていた事もあり、この話はスムーズにまとまったのである。結婚に先だって父は私をつれて上京、一応見合いをした。おとなしい養子タイプの人であったので、これなら父に従っていけそうだなと思った。


♪みんなみの 窓辺の床に 横たわり
 ひねもす雲の かぎろいを見つ

♪七十年 過ごせし街の 拡がりを
 初めて北より ひた眺めをり

Wednesday, December 05, 2007

ある丹波の女性の物語 第27回 母の死

遥かな昔、遠い所で第49回

 昭和16年3月、寒い日であったが父は丹陽基督教会の代表として、綾部警察署に留置された。

母は病床にあったが、みんなが私を力づけてくれた。毎日食事を差し入れに行くお手伝いさんの「おはようございます。」と言う大きな声に、どれほど勇気づけられたことかと父は後日話した。

 「天皇は神である」と言えと毎日強要されたそうである。父は牧師や信者が拷問に会い多数獄死しているので、万一の時の死をも覚悟したそうであるが、一週間程で釈放された。

 そのうち、主食を始めとして食料品が切符制となり、さらに金属回収も始まり、火鉢、銅の屋根、お墓の扉まで供出した。

 昭和17年9月10日朝、番頭の兼さんが出征した。兼さんは出発の直前まで母の枕元で別れを惜しみ、母も、もう若くない番頭さんの身を案じ共に泣いた。

 父が二十連隊まで送っていった留守に母は息を引き取った。看護婦さんが座をはずし私が1人付き添っている時であった。

 「9月10日風静かにして姉ゆきぬ」
母の弟儀三郎は色々のおもいと共に、棺の中にこの句を入れた。体中の腫れがすっかりひき、美しい母の顔に戻っていた。数えて58歳であった。

 両親、夫、弟妹、家族全員に力おしみなくつかえた一生であった。かつての店員、お手伝いさん達も心からその死をいたんだ。
 優しい母であった。


♪陽ささねど 四尾の峰は 姿見せ
 今日のひとひは 晴れとなるらし 

♪由良川の 散歩帰りに 摘みてこし
 孫の手にせる いぬふぐりの花

Tuesday, December 04, 2007

ある丹波の女性の物語 第26回 結婚前後 

遥かな昔、遠い所で第48回


 幼い日の思い出は私の心の中でもう風化しているので、それなりに美しくなつかしいものとして蘇って来るので、あまり考える事もなくペンを進めて来たが、結婚前後、苦しい戦時中の事となると、何となくためらいがちになるが致し方ない。

 昭和14年頃は、一応戦局は勝ちいくさという事になっていたので、そんなに悲壮感はなく、京都まで出ると、外映も2本立てで古い映画が見られた。「舞踏会の手帳」のように美しい映画も見られたし、コリエンヌリシェールとか言う知的な女優の「格子なき牢獄」も封切られ評判になった。

 店をまかされていた母は、若い店員が皆兵隊に行ってしまい番頭さん一人となったため、お手伝いさんにも店を手伝わせ、なかなか気苦労の多い毎日であった。母はいつも「うちの旦那さんは床柱になるように生まれたお方だ。」と言っていたが、父はいくら貧乏しても下積みの暮らしはした事がないので、思いやりには欠けており、連れそうには人に言えぬ苦労があった。癇癪持ちの父に対等にズケズケ話せるのは、私位しかいなかったのであるまいか。

 母は以前から糖尿の気があり、自分で検尿し、インシュリンを注射していたが、だんだん薬も入手出来にくくなり、腎臓炎を併発、血圧も200を越すようになり、臥せり勝ちになった。

 国民服と言うのが出来、ネクタイも贅沢品ということにはなったが、まだ製造はつづけており、自然私が履物店を守るようになった。

 大政翼賛会が発足し、公務についている人は入会し、川で禊をするような世の中になった。戦争をすすめて行く為には国粋主義を掲げ、国民の気持を一つにまとめて行かねばならなかったのであろう。思想、言論の自由は失われていった。時代の流れに押しつぶされてしまわない為には、一応時代の波に沈まぬよう、たゆとうて自衛するより外なかったのである。

♪師走月 ましろき綿に つつまれて
 ようやく棉の 実はじけそむ    「棉」は綿の木、「綿」は棉に咲く花

♪母の里 綿くり機をば 商いぬと
 聞けばなつかし 白き棉の実

Monday, December 03, 2007

網野善彦著「無縁・公界・楽」を読む

照る日曇る日 第76回

いまから四十年の昔、「なぜ平安末・鎌倉時代に限って偉大な宗教家が登場したのか?」と都立北園高校の1生徒に問われた著者は教壇で絶句してしまう。
しかしその難問に対するおよそ10年後の回答が、中世のみならず日本史全体の書き換えをうながす「革命的な」著作の誕生につながった。それがこの「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」である。

 著者はまず平安末・鎌倉は、非農業的な生業の比率が比類なく高まった時代であるという。供御人、神人、寄人など多様な職能民の集団が、天皇・神仏の直属民として、課税・関料を免除されて活発に活動し、天皇・神仏の奴婢と自称する彼らは、俗世の政治権力に対峙しつつ独自の「聖性」と権益を獲得しつつあった。

またそれと平行して、平民百姓の中にも海民、製塩民、鵜飼、山民、製鉄民、製紙民などの非農業的な生業をいとなむ人々が急増していた。

「百姓」とはその名が示すとおり、農人以外の商人、船持ち、手工業者、金融業者などの平民を多数含んでいた。彼らの多くが堺、中州、川中島、江ノ島などの都市に住み、交易、商業、流通、金融の経済活動を、時の権力から一定の距離をおきながら、独自の自由で平和で初期資本主義的生活を営んでいた。そして非農業的な彼らが生息していた場所こそが、世俗との縁が切れた「無縁」「公界」「楽」と呼ばれた空間であった。

彼らの生産物は、いったん聖なる場=「市庭」に投げ込まれてはじめて「商品」となる。そしてその商品が商品交換の手段としての「貨幣」として神仏に捧げられ、世俗の人間関係から完全に切れた「無縁」の極地とも言うべきその交換機能を果たすことになる。

わが国では、弥生時代以降13世紀までは米、絹、布など、13世紀以降は銭貨、米などがそのような貨幣の機能を果たした。
さらに貸付によって利子をとり、多くの職能民の労働力を雇用して建築土工事業をいとなむための「資本」も神仏の物として蓄積されていくが、そうした巨大な事業を推進経営できたのは中世では絶対権力から「無縁」の勧進聖、上人だけであった。

このように商業・金融などの経済活動はきわめて古くから人の力を超えた聖なる世界、神仏と深くかかわっていた、と著者はいう。

ちなみに、鎌倉時代の治承2年1178年に書かれた「山楷記」には銭を用いた出産時の呪法が紹介されている。
父親は手に99文の銭を持ち新生児の耳に「天を以って母とし、金銭99文を領して児寿せしむ」という祝詞を3度唱える。その後産婦がへその緒を切ると父親は児の左手をひらき、「号は善理、寿千歳」とまた3遍唱える。ここで乳付けが行なわれ父親はさきの銭袋を枕元において儀礼が終わる。
このように出産や埋葬に銭が使われるのは銭が生命を育む大地とつながっていた証であるという。

そして13世紀から14世紀にかけて、この「無縁」「公界」「楽」という舞台で銭貨の交換と資本蓄積によって大きな経済成長を遂げ、「悪党」や「海賊」とも蔑称された彼ら自由民たちの「重商主義」路線は、商業・金融を抑制しようとする権力者側の「農本主義」と政治的・思想的に鋭く対立することになる。

そうしてあくまでも自由を求めてやまないこの「悪人」を積極的に肯定し、自らもその渦中に身をおいた法然、親鸞、一遍、日蓮など鎌倉仏教の始祖たちがこの未曾有の乱世に陸続と登場することになった。

14世紀から15世紀にかけて禅宗、律宗は幕府と結びついてその立場を確立したのに対して、15、16世紀には真宗、時宗、法華宗もその教線を拡大し、とくに真宗は教団として大きな力を持つにいたり、都市型自由民の反逆の戦いとして知られる一向一揆の原動力となるが、最終的には「無縁」「公界」「楽」の重商主義の旗に結集した平民の初期資本主義的・原始宗教的エネルギーは、農本主義を旗印にした世俗権力(織豊政権と徳川幕府)のゲバルトによって圧殺されていったのであった。

私はこの本を読みながら、学問の厳しさを思った。
「武家と朝廷の専制と圧制と抑圧と課税にあえいでいたはずの農民に、いったいいかなる自由と平和があったのか? あれば教えてほしい」というほとんどすべての歴史研究家の嘲笑と否定的評価を、敢然と受けて立った思想家の孤独を思った。

しかし不撓不屈の独創的な反権力者によって営々と書き継がれたこの本は、「学問とは何か?」「学問には何が可能?」という私たちの問いかけに対するひときわ鮮やかな回答でありつづけている。

♪真夜中に武者共喚きて切りかかる物音がする谷戸の冬かな

Sunday, December 02, 2007

ある丹波の女性の物語 第25回 京都へ

遥かな昔、遠い所で第47回


 翌昭和13年春、綾部高女を卒業した私は、京都府立第一高等女学校補習科に入学した。
 
 一学期は銀閣寺近くの寄宿舎に入った。綾部からは薬屋さんの娘さんと二人であった。朝寝坊すると電車では間に合わなくなり、荒神口まで35銭也のタクシーをよく利用した。5人も乗れば市電並みであった。

 「柳橋をこきまぜて都ぞ春の錦なりけり」
春の京阪沿線の鴨川ぞいは和歌の通りに美しく彩られる。私は一寸心にいたみを覚えつつも京阪電車に乗って、実母の待つ桃山へ心はづむ思いで出かけたものだった。

 学校の選択科目には、裁縫、英語、数学、国語があった。私は無条件で国語をえらんだ。
私達4人は源氏物語、枕草子、万葉集などを膝を交えて学んだ。私は紫式部より清少納言に魅力を感じた。万葉集の大らかさに感動し、自然、明星の華やかさより、アララギ派が好きであった。墨汁一滴も輪読した。今の私には、明星の歌にも心ひかれるものが沢山ある。年を重ねた故であろう。

講師として京大から美術の源先生、心理学の岡本先生が出講されたがいずれも、ていねいな講義であった。法隆寺へも案内していただいた。玉虫の厨子はハッキリ覚えているのに、うす暗かった故か壁画が思い出せぬ。もったいないようなあの機会に、どうしてもっと真剣に学ばなかったのかと悔やまれる。

 戦局と共に軍の衿章作りの奉仕や、炊き出しの訓練も行われた。2学期からは父の紫竹のネクタイ工場から通う事になった。
 秋には九州への修学旅行があったが、母の病気の為私は綾部へ帰った。母は追々弱って行くのである。

♪築山の 千両の実の 色づきぬ
 種子より育てし ななとせを経て

♪手折らんと してはまよいぬ 千両の
 はじめてつけし あかき実なれば

Saturday, December 01, 2007

ある丹波の女性の物語 第24回 修学旅行

遥かな昔、遠い所で第46回


 そんな中でベルリンオリンピックがあり、日中戦争も激しさを加えて行った。

 昭和12年5月には、憧れの東京への修学旅行が行われた。あらたに、伊勢神宮参拝がプログラムの最初に加えられ、東海道線を横浜へと向かった。車窓いっぱいに迫って来る富士山に感激し、横浜港では外国航路の船に胸をときめかせた。

 山下公園では、この近くで私は生まれたと聞いていたので、特別のなつかしさを覚えた。
 東京駅へ向かうべく、桜木町駅で待っていたら、「どこから来た」と声をかけられた。「綾部」と答えたら、「大本教か」と云われて一同大憤慨したのを思い出す。

上野駅近くの旅館から夜の自由行動で、とにかく銀座へ行こうと地下鉄に乗ったのはいいが、何丁目で下りたらいいのか分らなくて困った事もなつかしい。
東京見物の後、東照宮、華厳の滝を見て中禅寺湖畔に泊まった。新舞鶴の遊郭の娘さんが、靴下の中に内緒で百円札を入れていたのには驚いた。舞鶴は軍港景気に沸いており、沢山の娼妓さん達からのお餞別との事だった。私も近所のお土産に木彫のお盆を求め、洗濯物にくるんで小包で家へ送った。
女学生らしい学校生活もそれまで位で、追々戦時体制へと移って行くのである。

♪老祖父と 共にくぐりし 古き門            
 想い出と共に こわされてゆく
♪暮れやすき 師走の夕べ 家中(いえじゅう)の
 あかりともして 心たらわん

Friday, November 30, 2007

♪2007年11月の歌

♪ある晴れた日に その17

学校の帰りの電車で歌いつつ踊る少女を好ましと見る
天高く鳥に告げたり残し柿
何事もなき一日ではなけれども何事もなく今日も暮れたり
斑鳩の法隆寺より柿届く子規が好みし美味しその味
柿食えど鐘は鳴らずに喰らいけりその法隆寺より送りこし柿
鐘ひとつ聴こえぬままに喰らいけりかの法隆寺より送りこし柿
バーキンにもらった飾りでクリスマス
大地震来たれば山のこの芝を燃さば大丈夫とわが妻は言う
よろばいて地低く飛ぶやヤマトシジミ
すれすれに籬の上を越えていくヤマトシジミの後姿よ
人知れず灰色の歌をうたうなりヤマトシジミとはよくぞ言いける
低き声で過ぎし昔を偲ぶなりヤマトシジミとはよくぞ言いける
ソット・ヴォーチェで過ぎし昔を歌うなりヤマトシジミとはよくぞ言いける
障碍者の介護に追われし三十年まだ海外に行けぬわが妻
プールには死体がひとつ浮いている
鎌倉や私の好きな古い家
鎌倉やカメラを禁ずる寺院あり
鎌倉や会うのは老人ばかりなり
瑞泉寺節子が棲みし庵あり
鎌倉や家建てる人こぼつ人
ジャックタチによく似ていた今は亡き僕の鎌倉の伯父さん
あらホントでもそんなことどうでもいいのよ
五の指を綺麗に伏せて眠る妻
人を怒鳴り黒き胆汁流れ出す
わが怒り黒き胆汁流れ出す
累々と死骸並ぶや秋の道
立冬や犬の絵を描く男あり
立冬の夜に死にたる屁こき虫
鳴きながら死んでしまった油蝉
油蝉ムンクのように叫んでいる
丸ビルをダイナマイトで爆破して元の姿に建て替えるべし
この色とこの形に惹かれてかすべての人は烏瓜盗む
何故にそなたは烏瓜に手を伸ばす橙色の卵に惹かれて
80にも90にもなりて自らを僕と書ける人の図太き神経
さびさびと霜月朔日にセミが鳴く
妻子去り寡暮らしの家ありて2階の窓にベゴニア咲きたり

Thursday, November 29, 2007

続・NHKが好き

♪バガテルop30

 昨日NHKには多少の知性があるが、民放にはそれもなくて痴性しかないと暴論を吐いた。しかしそれにはそれなりの原因がある。ドラマにせよ、ニュースにせよ、NHKと民放では制作費のスケール、そして制作費の大元である経営母体の売り上げが違うのである。

例えば民放首位のフジテレビの06年度の総売り上げは5826億、日テレ3436億、テレ朝2511億に対して、NHKは単体でも6432億、これに加えてNHK子会社は2310億の受信料収入予算をもって世間のよいこの皆さんに純良番組を提供している。
だから、その大半が民間企業からのCM収入に依拠している民放が、もしも本気でNHKの大河番組やスペシャル番組に挑んでも、はなから勝てるわけがないのである。

 もしも民放がNHKのような「世のため人のためになる番組?」を真剣につくったとしても、テレビを玩具にしながら自らも資本のペットと化しているあほばか大衆の視聴率は取れないし、取れなければ売り上げが減って会社がつぶれてしまうので、民放はますますあほ馬鹿番組の制作に血道をあげ、かくて我ひとともに文字通りの白痴となって亡国の道を疾走するしか能がないのである。

スポンサーと巨大広告代理店だけが神様である民放には、そもそも表現の自由も真実を追い求めるジャーナリズムもへったくれもはなから存在せず、普通の企業と同様の単なる熱烈な利益追求会社であるにすぎない。その点では、南京虐殺番組ひとつをとっても政府御用達のNHKのほうがまだましなマスメディアである。

聞けば、NHKの番組受信料が高すぎるからもっと安くせよ、と総務省の役人が迫っているようだが、私は年間1.5万円くらい払い続けても構わないからNHKはあまり視聴率を気にせず、いまのままでそれこそ粛々と番組つくりに精出してほしいと思っている。

問題は、あほばか番組に狂奔する民放である。

NHKは有料だが民放は無料だと思っている人がいるかもしれないが、トンでもない。06年度のテレビ広告費2兆円の実態は、すべてトヨタやサントリーや資生堂やソフトバンクなどの大企業の広告宣伝費であり、その膨大な経費の大半は、私たちが購入するカローラやウーロン茶や白つばきや携帯の価格に全額転嫁されている。

では具体的にどれくらいの金額なるのか計算してみよう。
さきほど述べたように06年のテレビ広告費はおよそ2兆円、これをわが国の総所帯数約5000万で割ると1軒当たりおよそ年間4万円を私たちは身銭を切って負担していることになる。ちなみに現在あほ馬鹿民放局は東京だと5局あるから、われらあほ馬鹿視聴者は、1局あたり年間8000円も投じてあほ馬鹿番組の制作に全面協力していることになる!

このように民放のあほばか番組は、私たちのとぼしい財布のお金を原資として、どこの誰とも知れないあほばかプロぢゅーサーとその奴隷的抑圧のくびきにあえぐ低賃金労働者たちがせっせせっせと製作しているのだから、私たち納税者ならぬ第1次スポンサーは、もっと声を大にして彼らの視聴率第1主義と拝金主義、ならびにその非人間性と低俗性と死に至るニヒリズムをテッテ的に攻撃し、「私たちが本当に見たい番組」をつくらせるようにダンコ要求するべきなのである。っっと。

もっとも「その私たち」が本当に見たい番組が、あの「オーラの泉」や「ズバリ!言うわよ」であるならば、それこそ「なにをかいわんや」なのですがね。


♪天高く鳥に告げたり残し柿

Wednesday, November 28, 2007

NHKが好き

♪バガテルop29

私は何を隠そう民放テレビ大嫌い、NHK衛星放送大好き人間である。その理由はいままでさんざん民放テレビで放送される番組、ではなくて、その番組のおまけで放映されるCMをさんざんつくってきたので、もうCMなんか二度と見たくもないからである。

CMのない番組といえばNHKしかない。そこで朝から晩までNHK、特に衛星放送のニュースと大リーグ野球と海外ドキュメンタリーとよいこの童謡とちりとてちんとFMと映画とクラシック番組を鑑賞し、あとの2種類についてはすべて録画してDVDに収めている。
恐らくその大半は墓場の中でゆっくり鑑賞することになるだろうが、それがまあ私の唯一の趣味といえば趣味である。

私はニュースもCMがみだりに乱入しないNHKの、とくに衛星第一放送の定時放送を好む。理由は第一に私の好きな冷たい美貌のひらゆき姫が出てくるからだが、美形の女子アナにかまけているのは民放も同様だから、この点ではあまり大きな違いはない。思えば80年代のテッド・タナーのCNNがこの素敵な悪趣味を先導したのだ。

理由の第二は、NHKが報道価値が高いと彼らなりに判断した価値観の順番にしたがって、つまり重厚軽薄の濃度の順に、それなりの報道人らしい秩序と規律をもって、事実だけをたんたんと普通の日本語でアナウンスするからである。

多くの民放テレビのように、ニュースと娯楽、犬と猫、味噌と糞とを混同したり、脳天を直撃するような金切り声(特にフジテレビの女子アナ)で絶叫したりしないからである。

番組の最中に食事をしたり、セックスしたり(はしないか)、実際にはその場にいないはずの人物の品格皆無の馬鹿笑いが聞こえたり、いったいどこが面白いんだか食えないメニューを美味そうに食うという虚偽を演出してぬか喜んだり、「実食!」などと奇怪で醜い造語を乱発したり、平気で漢字を間違えたり、それを絶対に訂正してお詫びもしなかったり、ナレーションの7割を体言止めにしたりしないからである。

そして第三に画面のレイアウトが、きれいとまでは言わないが、まずは普通でおとなしいからである。民放の白髪3千丈風の扇情的なテロップ、まずい食い物をマイウーとうなり、腹の中では驚いてもいないのに、ウソオーとおどろいて見せ、まともな情報は皆無でもこれでもかこれでもかと羊頭狗肉を叩き売り、朝のテレ朝の時刻表示の人を馬鹿にしているような異様な大きさを見よ!

民放のほとんどの番組は、私のような棺桶に片方の足を突っ込んでいる超保守的視聴者にとっては糞であり、奇体なガジェットであり、空虚なごらくであり、文字通り無意味な、死せる映像と音声の氾濫である。こんなもん全局今日の午後に突然なくなっても、おいらはちっとも構わないぜ。

ではあるが、しかし民放がぜんぜんだめかというとそんなこともなくて(笑)、先日ビートたけしが主演する松本清張原作のテレビドラマ「点と線」を見て、久しぶりに面白かった。

 昔原作を読んだときには1番線から15番線の間に4分間だけ見通せる時間帯があると思っていたのだが、13番線から15番線だというので、それなら40分くらい空白の時間があったのではないかと思ったりしたが、それもやはり私の寄る年波にせなのであろう。

しかし惜しむらくは演出がまるでゆるかった。音楽もおざなりであった。あれだけ制作費を投入するなら、せめて霊界で暇をもてあましているだろう野村芳太郎とか内田吐夢に演出させ、伊福部昭か武満徹に曲をつけさせたかったと思うのは、私だけだろうか。

Tuesday, November 27, 2007

吉本ばなな著「まぼろしハワイ」を読む

照る日曇る日 第76回

「だってさあ、天国に行っても、きっとお酒は飲めるし。でもそこにはきっと順番はないの。きっとさ、思ったことがさっと叶うんだよ。父さんと母さんはそういうところにいるの。きっと。まわりの空気がゆっくりと甘くて、包まれてるみたいで、ハワイみたいなところだよ。こんなところに行きたいと思ったらひゅっと行けるし、私たちの顔が見たいと思ったら、すぐに来れる。順番はないんだよ。そこには。靴をはくにはひもを結ばなくっちゃってことはないのよ。きっと。」
姉さんは言った。(同書p167)

著者の日本語は、いつものようにわれらにしみじみとした滋味豊かな世界を髣髴させてくれる。登場人物の表白のあとに、どの人物がその主体であるかをあえてことごとしく明示する文体もそれなりに個性的であり、最近朝日新聞での連載が終わった萩原浩?の座敷童子?やその後で始まった長島有?の(私にとっては)たったの1行すら読むに値しない小説の無残な出来栄えに比べれば、まるで月とスッポン、雲泥の違いである。


それはともかく、両親自殺や交通事故で奪われ、地上に残された子供たちが死者を忘れるために訪れ、しかし死者の思い出に引きずり込まれ、最後に再び死者たちの記憶から解放されて新しい人生に旅立っていく。それが常世の國ハワイである。らしい。

私はまだ一度も行ったことはないが、著者自身にとっても、ハワイはこの世の天国であり、もしかするとこの世とあの世をつなぐ生と死の通い路なのであらう。

たしかに南国には無数の精霊がいるだろう。しかし著者は1941年に死んだ真珠湾の兵士たちの亡霊の存在だけは都合よく忘れてしまっているようだ。

私はハワイと同様グアム、サイパン、ロタなど今なお祖霊彷徨う戦死諸島に、なんら心のひっかかりさへ感じないであほ馬鹿観光に行く日本人が大嫌いだ。

しかし、世の中にはいろいろな障碍があって海外旅行など一生できない数多くの人たちがいるというのに、思いついたらハワイへ「ひゅっと行ける」人が超うらやましいな。

それにしても、ばななはどうしてこうも親を死なせる小説を書くのだろう。もしかしてファーザーズコンプレックスの持ち主なのだろうか。

ふたたび本書の引用をして終わろう。

「飲みに行ったとしましょう。居酒屋に行く、座る、マスターに挨拶、メニューを見る、飲み物から決める、相手がいたら相手とおつまみを相談する、そして注文して、それがひとつずつ来て、食べる。それが生きてるってこと。死んだらできない唯一のこと、つまり順番を追ってきちんと経ないと進まないってことだけなのよ。現実は。」
姉さんは言った。

Monday, November 26, 2007

ある丹波の女性の物語 第23回 前田先生

遥かな昔、遠い所で第45回

若い日の私に一番影響をあたえたのは前田先生であろう。先生は日毎に軍国主義になって行く事への不安と批判を語られた。そして私が感じている家の宗教としての基督教への不満にこたえてくれる、唯一の人であった。

 作文は新任の横田先生が来られ、前田先生は本来の歴史の先生に戻られた。
 横田先生は前田先生のようには心酔出来なかったが、私がだんだん万葉集にひかれていったのは、この先生の影響であったろうか。時々先生は酔ったように万葉の歌を詠じられた。

 大本教弾圧につづいて、2、26事件、そして日中戦争と、大きな事件が一番感じ易い時代に次々と起こった。しかし私は幼い時からの基督教的な影響や、物事を冷静に正しく見る目を前田先生に養われていたから、時流に流される事はなかったと思う。前田先生に学ぶ歴史教室は一般教室から独立していたから、遠慮なく時局の動きに就いても正確に話してもらった。

 年号の暗記は意味のない事だ。教科書に書いてある事は自分で読めば分る。歴史の勉強とは、正しい目で事件の本質原因を究明し、結果を勉強する事だと教えられた。教科書問題を裁いた今の裁判官にもきかせてやりたい言葉だ。
その間には、京都でみて来た洋画の事や、新刊の本等の事も面白く語られ、いつも実に新鮮で興味深かった。先生の時間は楽しみで、みんな生き生きと、目をかがやかせて聞き入ったものだった。

 時局柄そうせねばならなかったのであろうが、校長先生以下国粋主義を高揚される先生方の中にあって、前田先生は全く異色の存在であった。
 先生は独身で長身、音楽が好きで、すべての点でみんなの憧れの的であった。時には孤独な身の上を語られた。また若い日に病を養いながら、日蓮宗に夢中になり、禅宗に凝り、
プロテスタントからカトリックへと動いた心の遍歴をも語ってくださった。

 信仰は与えられるものではなく、自ら求めるものであると思い、幼い日からの自分の信仰に贅沢な悩みを持っていた私は、かたくなな心がとききほぐされてゆくようなものを感じた。
先生は悩みを聞いて解決策をあたえるのではなく、聞く事によって心の重荷を軽くして下さる方であった。「病弱な自分は二十九歳まで生きられたら充分であると思っている。」等と話されると、同情も加わって、先生の人気は尚上昇した。


♪もみじ葉の 命のかぎり 赤々と
 秋の陽をうけ かがやきて散る

♪おさなき日 祖父と訪ひし 古き門
 想い出と共に こわされてゆく

Sunday, November 25, 2007

ある丹波の女性の物語 第22回 大本教弾圧事件

遥かな昔、遠い所で第44回

 一番小さい店員さんが、満豪開拓少年団に入隊していったのもその頃だった。
 女学校でも毎朝、朝礼で軍時色の濃い歌を斉唱するようになり、月の何日かは日の丸弁当を持参するようになった。日中戦争が進展し、占領のたびに提灯行列が行われた。

 しかし女学校時代の一番強烈な事件は、やはり昭和10年12月の「大本教弾圧事件」であった。
 夜明け前に突然物々しい警察の機動隊が大本教本部を襲った。町民は何の事かと分らないまま物すごい足音に目をさました。

 通常どおり女学校の授業は続けられたが、すぐ近くで行われるすごい破壊力には肝をつぶした。五重の塔の屋根も大音響と共にサカサにひっくり返り飛んでしまった。すべての建物はこわされて行った。私はその地響きと、恐ろしさを身近で体験した。

 その頃、大本教は本宮山に十字型の長生殿を建設中で、王仁三郎さんは駕籠で上がり下りしていた。教祖は市の瀬に土まんじゅうのような墓所にまつられていたが、不敬罪という名のもとに弾圧が行われ、教主、信者多数が投獄されていった。
あまりのすさまじさに、言葉もなかったが、何だかとても大きい権力が、おおいかぶさって来るような恐ろしさを感じた。

♪花折ると 手かけし枝より 雨がえる
 我が手にうつり 驚かされぬる

♪なすすべも なければ胸の ふさがりて
 只祈るのみ 孫の不登校

Saturday, November 24, 2007

ある丹波の女性の物語 第21回 金丸先生

遥かな昔、遠い所で第43回

 近くのお菓子屋さんに下宿していた作文の金丸先生は、ずんぐりしてみかけは悪かったが、私を可愛がってくれた。

作文の研究発表会というのがあり、府下の先生達の教材に私の作文が選ばれた。橋立への修学旅行の感想文だったと思う。私はその頃かぶれていた吉田絃二郎風に書いたので、テレくさくて「どんな気持で書いたか」と言う問いに、しどろもどろになり、何と答えたのか分らなかった。

金丸先生は一年の三学期の初めに、大阪城の資料館の館長になり綾部を去られた。ニコニコした丸い顔と、マグロのさしみのような唇が印象的だった。

 その後任に前田先生が入って来られた。初めての授業の日、教壇をうつむいて動物園の熊のように行ったり来たりされた。「この新米先生、テレてるな」小さくて前列に並んでいた私はそう思った。
 これが前田先生との初めての出会いであった。

 満州国の建国もあり、世の中は動き出しているのに、私達はあまり関心がなく、友達と宝塚に夢中で、福知山線で宝塚歌劇をよく観に行った。男装の麗人、小夜福子と葦原邦子が人気を二分していたが、私は一寸しぶい汐見洋子が好きで、当時騒がれたターキー等はわざと観にいかなかった。

 父はチャップリンの「街の灯」とか、新劇の「綴方教室」「オーケストラの少女」とか、話題に上がるようなものは京都へ観に連れて行ってくれた。またヘレンケラー女史の講演会にも、学校を早退させ大阪の扇町教会で一緒に聞いた。


♪なかざりし くまぜみの声 しきりなり
 夏の終はりを つぐる如くに

♪わが庭の ほたるぶくろ 今さかり
 鎌倉に見し そのほたるぶくろ

Friday, November 23, 2007

エドワード・ラジンスキー著「アレクサンドルⅡ世暗殺」を読む

照る日曇る日 第74回

ロシアを代表する人気作家エドワード・ラジンスキーが書いたロマノフ朝第12代ロシア皇帝アレクサンドル2世の治世とその暗殺を描いた、上下巻あわせて750ページのドキュメンタリー超大作である。

ロシア文学は好きだが、ソ連とかスターリンとか日ソ不可侵条約の侵犯とか、この國の暗くて寒くて陰湿きわまる国家社会の内幕には、ロマノフ朝も含めて興味も関心もなかった私だが、読んでみると非常に面白かった。

そもそもロマノフ王朝はそれまでの混乱と対立に終止符をうってかのピヨートル大帝が1682年に創生したというのだが、1725年大帝の死後この偉大なる王朝を継いだエカテリーナ1世の前身は、なんとバルト海岸に住んでいた美しい料理女マルタであるというから驚く。

エカテリーナ1世の死後、当時全権を掌握していた近衛兵に担がれて帝位を継いだのは、そのエカテリーナ1世の娘エリザベータであったが、彼女はピヨートル大帝の子ではなく、マルタの夫の子であった。
エリザベータは自分の甥を皇位継承者に任命し、このピヨートル3世に妻となるドイツの公女エカテリーナ2世を娶わせた。しかし勇猛な近衛兵アレクセイ(および近衛兵軍団)と結託したエカテリーナは、気弱な夫を暗殺して彼女の王朝を独占した。2人の間に生まれた皇子パーヴェル1世はエカテリーナの情夫アレクセイとの子供であったといわれる。

してみれば偉大なるロシア史に燦然と輝くロマノフ王朝には、じつは無名の料理女の好色な血が脈々と流れてきたことになる。ロマノフ王朝打倒を目指したデカブリストたちはこの王朝の世紀の秘密を知っていたのかもしれない。

それはともかく、この本を読むと、夭折した天才プーシキンをはじめ文豪ツルゲーネフオブローモフ、トルストイ、チエーホフ、そしてドストエフスキーが生きて愛して死んだロシアという國の文化的風土というものがなんとなく分かったやうな気になる。

さうして嘉永の黒船来航から明治維新を経て西南戦争後の、つまりは日露戦争にいたるまでのこのロシアという大國を覆っていた封建制、政治的専制、農奴制、社会的後進性などの重苦しい風圧を体感することができる。やうな気がするのである。

さらには、農奴制を廃止しただけではなく、憲法発布にも鋭意取り組んでいた「英明なツアーリ」アレクサンドル2世が、自らの保身のためとはいえ、なぜ自らの首を絞めるような進歩的な自由化改革を進めたのか、さうしてその結果ナロードニキの台頭を許し、彼らの決死的自己犠牲と革命的テロルの犠牲となって王座を血まみれにして哀れな最期を遂げるにいたったかが、私の黄昏色の薄ぼんやりした脳みそにもかすかに理解されてくるからまっこと不思議である。げに恐ろしきロシアン・ドキュメンタリズムの勝利というべきか。

アレクサンドル2世は、6度繰り返された暗殺の魔手をそのつど間一髪逃れてきたが、不撓不屈のテロリストの通算7回目の企てによって、占い師の不吉な予言どおり明治14年(1881年)3月1日ついに暗殺された。

その朝必死に外出を止める新婚で最愛の皇妃エカテリーナを「公邸で陵辱する」ことによって沈黙させ、彼は死出の旅に出るのだが、最初のダイナマイトの爆発からかろうじてまぬかれたにもかかわらず、他の複数のテロリストが待機している現場を立ち去ろうとせず、ついに2度目の爆発の犠牲者となってしまう道行は、さながら飛んで火にいる蛾のように不可解であり、もう少し賢明に振舞っていれば、隻脚を失ったとしても恐らく一命を取り留めていたに違いない。

この日皇帝のおびただしい出血で血まみれになった冬宮の大理石の廊下と階段を、靴やズボンを祖父の血で汚しながら連れてこられた13歳の少年がいた。
その少年ニキは、おびただしい血の中で皇太子ニコライとなり、成人して大津で日本の巡査のサーベルで血にまみれ、そして1917年に真っ赤な血の中でロマノフ王朝最期の皇統を絶たれるのである。

当時アリーヨシャがテロリストとなる「続カラマーゾフの兄弟」を執筆していたドストエフスキーは、アレクサンドル2世が暗殺されるわずか2ヶ月前に亡くなった。
書斎で落としたペン軸を拾おうとして重い書棚を強引に動かしたために血を吐いてその完成を見ることなく、あっけなく死んでしまったのである。
ドフトエフスキーの部屋の隣には、暗殺の実行犯たちのアジトがあり、晩年の作家はテロリストたちと交流しながら続編の想を練っていた、と著者はほのめかすが、それは恐らく眉唾だろう。

しかし著者が記録するドフトエフスキーの最期の姿は、皇帝アレクサンドルの最期と同じように私たちの胸を打つ。
死の当日、彼は流刑されたデカブリストの妻たちが昔彼に贈った福音書をアンナ夫人と息子のフェージャに差し出し、有名な「放蕩息子の寓話」を声を出して読むように頼んだ。   そしてそれが終わると、彼はこう言った。

「子供たちよ、ここでたったいま聞いたことを決して忘れてはならない。主に対する一途な信仰を守り、主の許しを決してあきらめてはならない。私はお前たちをとても愛している。しかし私の愛も、主がみずからおつくりになったすべての人々に対する無限の愛と比べると、無も同然だ。忘れないでほしい。お前たちが生きているうちに犯罪に手を染めることがあったとしても、それでも主に対する希望を失ってはならない。お前たちは主の子供であり、お前たちの父に対するように主に対してへりくだり、主に許しを乞いなさい。そうすれば主は放蕩息子の帰還を喜んだように、お前たちの悔い改めをお喜びになるだろう」

ドストエフスキーが死んだというニュースは、瞬く間にペテルブルグ中を駆け巡り、彼の住居はまさに聖地巡礼の場になった。さうして死んだ作家の顔に見えるのは死の悲しみではなく、よりよき別の生の曙光だった、と伝えられている。

Thursday, November 22, 2007

ある丹波の女性の物語第20回女学生時代

遥かな昔、遠い所で第42回
 
「大学は出たけれど」と言う言葉が、流行語になるような就職難時代がやって来たけれど、私は相変わらず暖かい家庭に包まれていた。お茶の稽古に行き、初釜と云うと訪問着や絵羽織を作ってもらって喜んだりしていた。

 春には両親と揃って醍醐の花見に行き、黄檗山で普茶料理をいただいて、夜は都踊りを楽しむような何年かが続いた。父には絶対服従の母の楽しみは十二月の顔見世見物で、昼夜通しで見たあと、翌日は岡崎へ文展を見に行くのが恒例であった。

 私は昭和8年4月、京都府立綾部高等女学校へ入学した。近在から入ってくるのは村長さんか、郵便局長さんの娘さん位で、小学校の同じ組からも10人もいなかった。
 後で知った事だが、同級生の中には500円で芸者の見習いに売られた子もあったという。その頃、女学校の授業料は年間35円位、寄宿舎は1ヶ月食事を含めて10円だったと思うが、授業料の催促で事務室へ呼ばれている人もあった。先生も余っていたようで、文系の先生は京大大学院出の優秀な先生であった。

 不景気風と共に軍国主義が徐々に強まって来たがまだまだのんびりした時代であった。夏休みには丹後の小天橋に学校の臨海学舎が開かれ、私も参加して泳ぐ事を覚えた。夜になると浜辺の松林をうなりを立てて風が吹き荒れた。生まれてはじめての親と離れての経験だったが、夜はキャンプファイァーに興じたりした。友達同士の1週間は楽しかった。

 12月23日は街に待った皇太子誕生で、みんな素直に喜び、行動で「皇太子さまあ、お生まれえなした」という歌を斉唱した。


万葉植物園にて棉の実を求む
♪棉の花 葉につつまれて 今日咲きぬ
 待ち待ちいしが ゆかしく咲きぬ

♪いねがたき 夜はつづけど 夜の白み
 日毎におそく 秋も間近し

Wednesday, November 21, 2007

長楽寺跡を偲ぶ

鎌倉ちょっと不思議な物語90回

長楽寺はかつて長谷211番地から225番地にあった廃寺で、文応元年1260年の大火事で焼けたそうだが、その場所は、つい先日まで中原中也展が開催され、その庭園に秋バラが咲き誇っていた鎌倉文学館のすぐ傍にあった。

『鎌倉志』によればこの寺には法然の弟子で隆寛という僧が住んでいたという。『日蓮聖人御遺文』『日蓮上人註画賛』に、日蓮が眼の敵にするかなりの高僧がこの寺にいた、とあるのは、この隆寛のことではないだろうか。

以上は主にわが枕頭の書『鎌倉廃寺事典』をからの孫引きだが、もっと耳よりな情報がある。それは昔むかし、この文学館の入り口の小さな寿司屋で、若くして亡くなった人気女優Nと流行作家のIが夜な夜な逢引していたそうな。

このI氏はまごうかたなき短編の名手であるが、長編は苦手である。というのは彼は一刻も早く連載を終えて賭け事や遊びに飛んで行きたいので、あまり長くなるとプロットを忘却してしまい、死んだはずの登場人物が突如現れたり、その逆がかなりの頻度で起こる。

これは実際私が週刊新潮の連載で体験したことであるが、読者はみんな忙しい。昨日の新聞や先週の週刊誌などをひっぱりだして再確認する暇人などおそらく1000人に一人もいないだろう。それに、そもそも小説など真面目に読む人などほとんどいないので、登場人物が死のうが生き返ろうがどうでもいいのである。

そんな次第でI氏には本人にも復元が難しい数多くの幻の長編小説があるらしい。廃寺事典ならぬ廃文事件である。

Tuesday, November 20, 2007

ある丹波の女性の物語 第19回

遥かな昔、遠い所で第41回

 座敷が新築されてから、基督教の伝道に来る先生方の宿を進んでするようになり、賀川豊彦先生は5、6度も泊まられ、その他本間俊平先生など多数の先生方が宿泊された。
 今の世も何かを求める時代と言われるが、当時賀川先生の講演会等は、公会堂も超満員で、その場で受洗希望者が聴衆の中から沢山進み出た。

先生は燃えるような人であった。胸を病んでおられたから、いつも柱にもたれていられたが、睡眠時間は短く、祈りの人でもあった。父は冷静な学者タイプの先生より、行動派の先生に傾倒したようである。
今の生協の基となった「生活協同組合、共益社」を作り、父は組合長になり、日常生活品や賀川服等も一時売っていたように思う。

 私には幼児洗礼を受けさせ、物心つく頃から日曜学校に通わされたが、いつも何となく批判的で、父の祈りにこたえる事の出来ないような子であった。何か悪い事をすると親に詫びる前に、祈って神に許しをこわねばならぬのには閉口した。教育にも熱心で、玉川学園の小原国芳さんの教科書を取り寄せたり、小学生全集も揃えてくれたが、病後ハネ廻って遊ぶ事の出来なくなった私は、自然隣の本屋に入りびたり、本屋の小母さんに可愛がられることを良い事に、列んでいる雑誌を興味本位に読みまくった。

少女の友、主婦の友、婦人倶楽部、婦女会等の小説それに新青年、宝石等のミステリー物が大好きであった。牧逸馬などが当時の流行作家で色々のペンネームを持っていた。とにかく手当り次第で、何かで見た中勘助の「銀の匙」に感激したり、吉屋信子は美文調で甘すぎる等言って小母さんを苦笑させた。芥川竜之介も大好きで、自殺に憧れたりした。

 履物店は製造を止めて母の仕事となり、店員5、6人、お手伝いさんは行儀見習いのお姉さんが1人か2人いてくれた。けれど仕入れだけは父の仕事で大阪の問屋へよく連れて行ってくれた。

日曜日に行くと、午前中は大阪の教会で礼拝を守るのには不服であったが、昼食はレストランやホテルでフルコースの食べ方を教えられる事もあり、心斎橋の洋服店のウインドに出ている流行の服も買ってくれた。

 戦争前の履物問屋街は、実にひどい所が多かった。今はすっかり焼けてその面影もないが、種類によっては被差別部落の問屋のある裏通りへも行った。父はどんな店へ行っても態度を変えず、パリッとした背広で、きたない座ぶとんに腰かけ、差し出されるお茶もおいしそうに飲み、私にも飲ませた。

♪かづかづの 想い出ひめし 秋海棠
 蕾色づく 頃となりたり  愛子

Monday, November 19, 2007

ある丹波の女性の物語 第18回

遥かな昔、遠い所で第40回

 4年生の頃と思うが、夏休みの後半の夜中から私は40度を越す高熱がつづいた。何人もの医師をかえても熱は下がらず、医師の合議の結果、腎盂炎らしいという事になり、頭とおなかを冷やし、絶対安静の一ヶ月を送った。

その頃は今のように抗生物質の薬品がなく、そうするより療法がなかったのである。窓に西日が射しはじめると、ああ又熱が出るのかと悲しかった。その後京都の病院で、自分の尿から自家ワクチンを作ってもらい、長い間注射に通った。二学期の殆どを休みそれ以後、急激な運動は出来なくなった。

 父は一日中忙しく過ごす人であったが、忙中閑ありと云うのか、若い頃から俳句をたしなみ、句会で選に入り碧梧洞の「槻(つき)(トネリコ)の根に巣立ちして、落ちている」という軸をもらっている。何だか変な句と思うが、前田夕暮さんに師事していた隣の本屋の小父さんも、字がサカサになったり、斜めになるような詩を作っていたから、そういう時代だったのかも知れない。

童謡を作る事もはやったようで、私も作文の後の頁に童謡らしきものを、よく書いた覚えがある。父は書画骨董にも興味があり、丹波焼をも収集し、佐々木ガン(我)流と称して投げ入れを楽しんだ。

謡曲、仕舞も宝生流をよくし、私と一緒に入浴すると、羽衣や西玉母をうたってくれた。私も仕舞の手ほどきを受けたが、父の多忙というより、私の不熱心でいつ頃か止めてしまった。先日テレビの「謡曲入門」で一寸真似てみたら、案外すらすらと自然に声が出るのには驚いた。

 父は政治運動にも感心があり、土地の民政党の代議士を応援し、選挙になると、町田さんとか若槻さん等に選挙資金をもらいに行った。金銭に対しても皆から絶対の信頼があったからである。 
当時、政友会と民生党が二大政党で、選挙に負けた方の違反が摘発され、警察署長もその結果で更迭された。昔の議員は井戸塀と言い、自分の全財産をなげうって選挙を戦い、私欲を肥やす事はなかったように思う。昔日の感がある。

犬養木堂さんも丹波へ来られたようで、自筆の額が今も家にある。
 父は自分自身も町会議員選に出、郡是社長、大本教幹部に続いて第3位で当選した。当選の夜の異常な興奮と華やぎを今も思い出す事が出来る。私は選挙の不思議さと面白さを、小さい時から冷静に眺めていたようである。

♪子らを乗せ 坂のぼり行く 車の灯
 やがて消え行き ただ我一人  愛子

Sunday, November 18, 2007

ある丹波の女性の物語 第17回

遥かな昔、遠い所で第39回

 父の訪米は父自身の人生の一大転機となった。機を見る事にさとかった父は、かねてから履物業には見切りをつけていたので、アメリカ人の家庭の洋服ダンスの中の沢山のネクタイ、婦人のかつら靴下等が、その時々の服に合わせて使用されているのに驚き、これからの自分の事業はこれだと決めたそうである。

 帰国後、直ちに西陣にネクタイの製織工場を作り、資本金の多くいる靴下は、関係のある郡是製糸で作るように提言し、塚口工場が出来た。色々の曲折はあったが、ネクタイ会社も郡是と同じ基督教精神を基とし、京都に工場、大阪に本社、東京八重洲口にも支店を、後には上海にも出張所を持つまでになった。

 翌昭和4年5月、家の改築をする事になり、裏座敷から始まった。座敷の天井は謡曲の声がやわらかく共鳴するようにと桐張りにしたり、炊事場は関西では珍しい板バリで、食料品の貯蔵庫として六丈位の地下室があり、水は日立のモーターで屋上のタンクに貯えられ、炊事場、風呂場、洗面所、二階のトイレ等にまで配水された。

炊事場の屋上はコンクリートの物干し場となり、当時の田舎では超モダンで、参考にと見に来る人が多かった。トイレ、風呂場のタイルも60年たった今も健在で、昔の職人の入念さが偲ばれる。
 三階建ての店舗の設計図も残っていたが、母がすっかり疲れ切ってしまい、中断のままになってしまった。

 その年にはアメリカから親善人形が送られ歓迎の学芸会が行われた。それぞれの生徒も市松人形を持ち寄り、西洋人形と一緒に飾り、その前で私もお遊戯をした。

 綾部にデパートが出来たのもその頃と記憶する。町の呉服店3軒が合併して出来たのである。鉄筋コンクリート三階建て、その上に展望台もあった。京都府下では最初の百貨店である。中々繁盛し、日曜日等には郡是製糸神栄製糸の女工さん達で賑わった。

三階には催場があり、何の宣伝だったか市丸さんも来て、歌ったり踊ったりしたのを思い出す。勢いにのって福知山にも、エレベーターのある支店まで作るようになった。

♪うっすらと 空白む頃 小雀たち
 樫の木にむれ さえずりはじむる 愛子

Saturday, November 17, 2007

ある丹波の女性の物語 第16回 小学校時代

遥かな昔、遠い所で第38回

 「しょうわあ、しょうわあ、しょうわのこどもよ、ぼくたちわ」

歌いながら一年生の私達は、運動会でお遊戯をした。
 昭和元年は年末の僅か6日間で、昭和2年になってしまったのである。

 その年に丹後大地震が起こった。丁度、店員さんに交じって夕食を食べていたら、電灯が「パタッ」と消え「グラグラッ」と大揺れが来た。気がついてみたらお箸をにぎったまま、番頭の兼さんにおぶさって新開地の方へ逃げていた。紫にピンクの椿柄のメリンスの羽織を着ていたから冬だったと思う。その晩は何回も余震があり、店の表にむしろを敷き火鉢を出して、大人は寝ずの番であった。

 城崎方面の被害は甚大で、家屋全壊の報が入り、丹陽教会では慰問品をつのり、父も大きな袋をしょって被災地へ出かけて行った。温泉にはいったまま死んでいる人もあったそうであるが、それについては父は多くを語らなかった。生まれてはじめての恐ろしい出来事であった。

 翌3年、春休みに両親と揃って別府温泉へいった。大阪の天保山から船に乗って出かけた。瀬戸内海の島々が見えかくれして絵のように美しかった。日本海は橋立とか高浜へ海水浴に行きよく知っていたが、陽光に光る瀬戸内の海の色や、松の美しさにどれほど感動した事か。温泉めぐり、砂風呂も楽しかったが盆地育ちの私には、船の展望台から見たあのきらめくような明るい瀬戸内の波の美しさが忘れられなかった。

 同年6月、父はロサンゼルスで開催される世界日曜学校大会に、友人と二人、丹陽教会の代員として、他の教会の信者と共に天洋丸に乗って渡米した。片道2週間位はかかったと思う。60年前の当地としては大旅行であった。

世界各国の人々と大きな輪になり手をつなぎ合ったそうである。会の後、ミラーさん等の招待で各地を見て歩いたらしい。いつ帰国したか覚えていないが、帰国後は各地で招かれて講演をした。高度な文明や、建築物の事などを語ったであろうが、ナイヤガラの瀑布、ヨセミテ公園の巨大な木の事など、神の御業(みわざ)の偉大さを話したように思う。

 私にはハワイが此の世ながらの楽園であった事を語り、是非ハワイに住まわせたい等と言った。ハワイで食べたアイスクリームやハネジューが如何に美味しかったか顔をほころばせて話してくれた。
 帰ってからは、朝はオートミルか食パン。パンも大阪の木村家から取り寄せ、M.J.Bのコーヒーをパーコレーターで沸かして飲んだ。母は、ぶどう、苺、いちじくでジャムを上手に作ってくれた。

 又、アメリカの野外礼拝堂のすばらしさに感激したようで、友人と協力して、山に大きな十字架をコンクリートで作り、その麓に基督教の共同墓地を作った。イースターにはその十字架の下で昇天祈祷会が例年行われた。今は周囲の木が茂り見えにくくなったが、当時は山陰線の車中から見える十字架は偉観であった。


♪あまたの血 流されて得し 平和なれば
 次の世代に つがれゆきたし 愛子

Friday, November 16, 2007

ある丹波の女性の物語 第15回

遥かな昔、遠い所で第37回

 大正15年4月、私は隣の本屋の幸ちゃんと綾部幼稚園に入園した。幸ちゃんは男のくせに色白で、よく風邪をひき、いつも着物で冬はくびに真綿を巻いていた。2人とも朝寝坊でよく遅刻した。誰も通らなくなった通学路の坂道を2人で上がっていった。坂を上りつめた所には大きな榎の木が二本立っていた。もう暫く行けば幼稚園なのである。

 2人とも教会の日曜学校へ通っていたので、その木の大きな根元に腰かけて「どうぞ幼稚園の時計がおくれていて、遅刻になりませんようお守り下さい。アーメン」とよくお祈りをしたものである。

 榎の枝の間から見える教会の十字架は、まるで額ぶちにおさまった絵のように美しかった。写生の良い材料になったが、その大木も、交互に植わっていた桜と紅葉の並木も、いつの間にか切り倒されて今はない。
 幸ちゃんも戦争に征く事もなく、20歳を待たずに急死した。

 坂の上から見晴らしのよくなった十字架を見るたびに、幸ちゃんと過ごした幼い日がよみがえって来る。

♪もじずりの 花がすんだら 刈るといふ
 娘のやさしさに ふれたるおもひ  愛子

Thursday, November 15, 2007

ある丹波の女性の物語 第14回

遥かな昔、遠い所で第36回

 叔母の夫は、結婚した当時から妾宅に子供があった。毎晩のように出かけて行く夫を見送り、夜中に迎えねばならなかったそうで、辛抱に辛抱を重ねた叔母の発病だったので、父は如何様にしてもいたわってやりたかったのであろうが、折角の新築の家に住む事もなく叔母は天国へ旅立ってしまった。

 それから後祖父は3、4年生きていたであろうか。目は全然見えなくなり、杖をつかねば歩けなかったが、芝居見物やラジオを聞くこと、レコードで義太夫を聞くことが楽しみで、娘義太夫をひいきにしていた。

「一太郎やあい」と言うのも良く聞いた。祖父は訪れた人には「家の嫁のような親孝行者はない。優しい嫁じゃ。新聞に書くように言うて下され」とよく言っていた。それが祖父の精いっぱいの母への感謝の表現だったのであろう。

やがて祖父も中風でなくなった。3、4日の患いであった。うわ言に「らいこや、らいこや」と私の名らしい事を言った。この祖父も私を心から愛してくれていたのだろうか。

 その頃、父は教会の役員になり、色々奉仕をしていた。結婚式の仲人も夫婦で何組もつとめた。私は銀行の役員の長男、小笠原和夫さんと2人で、花束を持って、新郎新婦を先導する役であった。真っ白い不二絹にレースと造花をあしらったワンピースを作ってもらい、得意になってその役をつとめた。

 銀行は勧業銀行、百三十七銀行、高木銀行等沢山あったが、家の近くの京都銀行はその頃何鹿(いかるが)銀行(何鹿郡綾部町であったから)と言い、綾部では数少ない鉄筋コンクリート造りであった。

町では一番の繁華街の四つ角にあるので、夜になると、バイオリン弾きが来て「枯すすき」等を歌って楽譜を売った。どういう訳か赤坂小梅さんが派手な着物で、レコードの宣伝に来て歌った事もある。今のようにテレビがないので、夜の街で子供達も遊んでいた。そんなコンサート?には大勢の人が集まったものである。

 何曜日かには救世軍がやって来て、太鼓をたたいて賛美歌を歌い、“あかし”(信仰告白)をした。子供達は「たあだしんでんが来た」とみんなで見に行った。夜までよく遊んだ昔がなつかしい。

 何でも珍しいものには興味があった。琴の稽古をはじめたのもその頃であろうか。小学校、女学校のお姉さんにつれられて警察の署長さんの奥さんのところへ通った。
 琴の前に座っても先まで手がとどかず、ざぶとんを重ねてもらってやっと弾けた。数え唄、松づくし等からはじまって黒髪なども習った。

「黒髪のみだれて一人ねむる夜はーーー」などと、幼い子供が無邪気に声に出して歌いながら弾じたのだからおかしくなる。署長の転勤でお師匠さんも変わったが、六段の調べや、お姉さん達の弾いた千鳥の曲など古典はいいな、と今も思う。

♪刈り取りし 穂束つみし 縁先の
 日かげに白き 霜の残れる    愛子

Wednesday, November 14, 2007

友達の友達

♪バガテルop28

14日附の日経朝刊によると、法務省は来日する16歳以上の外国人に対して、指紋採取と顔画像の提供を義務付け、来る20日より全国27空港と126の港湾で実施するそうだ。新システムは特別永住者や外交官、日本国の招待者を除く全員に適用され、この措置を拒んだ外国人は入国させないそうだ。

これは鳩山“喋蝶”大好き法相の“お友達のお友達”の侵入を水際で撃退するためらしいが、私は世界で米国についで二番目にヤマト国が誇らしげに導入したこの措置に賛成しない。
というのもこうした外国人への対応は、性善説ではなく、性悪説に立っているからだ。すべての外人は警戒すべき異人であり、犯罪予備軍であり、「人を見たら泥棒と思え」という考え方に結局は基づいているからである。

その性悪説が次々に新たな敵意と反発を、さらにはそれを抑止するために創案されたはずのテロと戦争さえも生み出すことは、かつての大戦やパレスチナ戦争、相次ぐ軍拡や原水爆保有競争、つい最近の9・11同時テロに続くアフガンやイラク戦争の成り行きを見れば火を見るより明らかではないか。
つねに最初に武装する者が、次に武装する者を生むのである。

2番目の理由は、私自身がヤマト国と同じような非友好で敵意に満ちた不愉快な対応を外国の空港でされたくないからだ。お見合い写真ならともかく警備員に顔写真を撮られたり、指紋を採取されたりするくらいなら私は死ぬまで外国に行かないことを選ぶだろう。それは個人の尊厳の侵害であり冒涜である。

そのうち成田や関空に行くと、彼奴らは私のちっぽけなおちんちんも「見せろ!」と言い出すに決まっているぞ。いくらちっちゃくてもおちんちんなら見せてもいいが、ついでにオシッコひっかけてもいいけれど、指紋と写真と貞操だけは許せねえ!

私が息巻いてそういうと、「ではお前の友達の友達の中にはきっと治馬敏羅人と知恵偈原がいるに違いない」と指摘する人がきっとでてくるだろうが、何を隠そう実は彼らは私の親しい友なのだ。
だからといってヤマトに芸者遊びにやってきた2人が、私の大好きな小林旭のように

♪ダイナマイトがよお、ダイナマイトが150トン!

などと歌うわけがないだろう。
ところで、あなたの友達の友達ってみんな悪い人ですか?

さて私の最後の反対理由は、今回の措置が世界中の人間の自由を貶め、人品を卑しめるからだ。最下層遊民の私は、ヤマト国がいくら貧しくなり、人口が減り、アジアの三等国いや最低国に成り下がり、経済成長がぱったり止まってもいっこうに構わないが、ヤマト人間の根幹の矜持が腐っては困る。

かの中原中也も歌っているではないか。

♪人には自恃があればよい!
その餘はすべてなるまゝだ……

自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行いを罪としない。(中原中也『盲目の秋』)

ところがヤマト国と米国は、またしても腕を組んで同伴出勤して、この人倫に悖る行為を世界で率先しようとしているのだ。この馬鹿たりが。 

テロは許されないし、容認すべきではないが、すべての外国人をテロリスト予備軍とみなすヤマト国の野蛮な措置に、私は寄る年波のその年甲斐も恩讐の彼方に投げ捨てて、断固抗議したいのですね。

さうしてヤマトは、世界の悪人と善人を等しく大切にする、世界で最も自由な國であり、できたら永世アジール夢共和国であってほしいな。

Tuesday, November 13, 2007

♪スキップする少女

♪ある晴れた日に その16

高い空から秋の夕陽が落ちてくる図書館前の路上で、少女が突然スキップしはじめた。

左、左、そして右、右
小さな足が交互に弾む
ワンツー、ワンツー、
あどけなく歌いながら蝶が舞う

そのとき、さっと母親の手を解き放った少女は、
両手を軽やかにスイングしながらイサドラのように踊る、踊る、飛ぶ、跳ねる――
御成小学校の交差点をスキップしながら走りぬけ、ほら、もう佐藤病院の前で母親が来るのを待っている。

左、左、そして右、右
小さな足が交互に弾む
ワンツー、ワンツー、
あどけなく歌いながら蝶が舞う

ジーンズのスカートに赤と黄色の刺繍が紅葉のように散り、おかっぱがつむじ風にはらはら揺れて――

そしてあっという間に、少女は江ノ電の踏み切りの向こうに消えた。
母親と一緒に見えなくなった。

私は思う。
やがて、少女は気づくに違いない。いつのまにかスキップをどこか遠いところにおき忘れてしまったことを……
そしてある朝、大人になった少女はしみじみ振り返るだろう。
その夕べこそは、生涯で最も幸福ないっときであったことを……

Monday, November 12, 2007

網野善彦著「中世東寺と東寺領荘園」を読む

降っても照っても第73回

著者の著作集第二巻に、1987年に初版が刊行された「中世東寺と東寺領荘園」が再録された。

題名の通り東寺の荘園制の歴史的変遷を、時代の推移を追って、客観的かつ実証的に執拗に追っていく。その圧巻は足掛け20年以上に及ぶ厖大な「東寺百合文書」の解読に基づく荘園内権力のありようの研究であろう。

東寺は、鎌倉幕府が成立し頼朝の支援を受けた文覚上人の活躍によってその荘園制経済と内部権力の基盤が確立された。しかし南北朝の争乱と室町幕府の成立を経て、幕府指名の守護地頭など公的権力が台頭し、かつては寺社や貴族が支配していた荘園のヘゲモニーを奪い、と同時に、荘園の内部で伸張していた供僧や農民などの下層階級の自由と権利獲得の戦いを抑圧する結果を生むことになる。

自らの立場に無自覚であった下層の民衆は、時の権力にある部分では鋭く抗いつつも、他の部分では無定見に妥協し、戦いを放棄してしまう。そのことが戦国大名による専制につながり、ひいては天皇制の存続を許す結果を生んだ、と著者はいいたいようだ。

また本書では、後醍醐天皇の建武の親政を支えた悪党たちがいつどのようにして歴史の舞台に登場したのかつぶさに知ることもできる。

例えば東寺の所領であった播磨の國矢野荘では「国中名誉悪党」と称された在地領主寺田氏が日本中に勇名を馳せ、時には東寺上層部、時には山僧とつながり、一時は貴族と肩を並べるほど成り上がりながらも、諸勢力との抗争に敗れてから姿を消していったありさまをうかがい知ることができよう。

さらに本書は、客観や実証よりもマルクスやエンゲルスのイデオロギーを盲目的に崇拝していた、かつての著者の徹底的な自己批判の書でもある。

客観的かつ実証的な学術研究を、それだけで果たして自立的な学と呼べるだろうか?
それは学問の重要な手段であることに異論はないにしても、その前提あるいはその同伴者としての主体的な思想的立場を不問にすることは許されるのだろうか? 

と、著者は今も私たちに鋭く問いかけているようだ。

Sunday, November 11, 2007

「ヒトラー最後の12日間」を観る

降っても照っても第71回

まずはブルーノ・ガンツの怪演に驚き、そのヒトラー以上のヒトラーさに俳優の業の凄まじさとえげつなさを覚える。

演技といえばゲッペルス夫妻の最後の姿に圧倒される。5人の女の子に睡眠剤を飲ませ、(実際にはもうひとり男の子がいたはずだがこの映画には出てこなかった)さらに青酸カリの液体を口唇に注ぎ込む悪鬼のような所業には思わず身の毛もよだつ。

ゲッペルスが出たからには我らがフルトヴェングラーもぜひ顔を出してほしいところだが、そのかわり?にヒトラーお気に入りの建築家のアルベルト・シュペーアが登場してくれる。 

シュペーアが国会議事堂を中心とした彼の世界首都ゲルマニア=ベルリン都市計画模型をヒトラーに見せると、この独裁者は、この壮大な建築物こそが、自らの死後も第三帝国の栄光について永遠に語るだろう、と奇怪な妄想にふける。そうしてその姿が、建築と権力者の関係を雄弁に物語るのである。

いずれにしても自国の歴史の恥部を深々と覗き込み、じっくりと正視する勇気を私たちももちたいものだ。

最後に、この映画を観ての私の感想は、「おいらも自殺用の拳銃が1挺欲しいよ」。

Saturday, November 10, 2007

大澤真幸著「ナショナリズムの由来」を読んで

降っても照っても第72回&勝手に建築観光27回

ファシズムはある過剰性を帯びたナショナリズムであり、その過剰性は通時的には一種の現状変革への熱烈な欲求として、共時的には過剰な人種主義の形態をとり、共同体への亀裂を嫌い、熱狂的な指導者崇拝を伴う。

しかしそのようなファシズムは、民主主義の理想的政体と称されたワイマール共和国の内部で生み出された。ファシズムは、きわめて現代的な現象である、と著者はという。

 さらに著者は、「高さへの意志」は、ナチズムあるいはファシズムの特質のひとつではないか、と指摘している。

事実常に高さを指向するヒトラーは、政務の中心をオーバーザルツベルクの山荘におき、建築家アルベルト・シュペーアにパリの凱旋門の2倍の高さを持つベルリンの凱旋門の建設を命じ、ナチスドイツは、ロンドン空襲に顕著に見られるように、高空からの攻撃に執着した。

ちなみにナチの軍需相で建築家のシュペーアは、映画「ヒトラー最後の12日間」でも顔を出していたが、国会議事堂を中心とした彼の世界首都ゲルマニア=ベルリン都市計画模型を見ながら奇怪な妄想にふけるヒトラーの狂気の姿がリアルに描かれていた。

 かのバベルの塔の神話はさておくとしても、安土城から天下を睥睨した織田信長、大阪城の豊臣秀吉はもとより、ニューヨークの摩天楼のペントハウスの住人たち、現代ニッポンの超高層ビルの最上階に陣取るわがヒルズ族まで、「高さへの意志」をあらわにする人々は跡を絶たない。

うぞうむぞうの民衆たちが蟻のようにうごめく下賤の巷を低く見て、みずからは超高層の高みにおき、エリートだけに許された超特権意識にひたりつづける非人間性と超俗性こそは、古くて新しいファシズムの根っこかもしれない。

またヒトラーは、シュペーアが唱える「新しい建築物は、幾世紀を経ても永遠の美に輝く廃墟となるように設計されなくてはならない」という“廃墟価値の建築論”に心酔していたが、汐留や品川や六本木ヒルズや東京ミッドタウンなど現代ニッポンの最新超高層ビルジングたちは、このナチス建築の理想の忠実な信奉者によっておっ建てられているともいえるだろう。
 
後者の建築は、幾百年の経過を待たずして、「すでにあらかじめ廃墟と化している」点だけが違っているとはいえ、ここにも“現代ファシズム萌え”がちらついているようだ。

Friday, November 09, 2007

ある丹波の女性の物語 第13回

遥かな昔、遠い所で第35回

 祖父が愈々目が不自由になった頃、舞鶴の酒屋に縁づいていたつる叔母さんが、肋膜炎になり帰って来た。嫁ぎ先では養生させてもらえず、父が見かねて、二男二女を残して離縁してもらったのである。うちで養生して全快後、将来の為何か身につけたいと、神戸の外人さんに洋裁を習いに行った。

 父は末の男の子を引き取り、叔母に洋裁店を開業させようと、目抜き通りに家を新築する事にした。私は板囲いのあるその普請場へ、毎日のように父と見に行ったものである。

叔母はどれ位修行したのか分らないが、次々私のために、別珍のワンピース、レースの洋服にお対の帽子、半ズボン、毛糸編のワンピース等を作ってくれた。家が立つ間、祖父と叔母が離れのコタツに差し向かいで当たっていた事やミシンを踏んでいる束髪の叔母の後姿が目に浮かぶ。洋服は色あせた写真でしか見ることができないが、神戸土産の西洋人形は、今もテレビの上から私にほほえみかけてくれる。
 
4歳位の頃かと思うが、苺の季節に叔母は亡くなった。折角の父の心づくしもすべてが無駄になった。臨終の後、私にも口をしめらせてくれた。亡くなる前日だったか、叔母が、苺を細い指でつまんで食べさせてくれた事が忘れられない。

 不幸な叔母の為に盛んな葬式が教会で行われた。私は大勢の人が集まるのがとても嬉しくて、火葬場で飛んだり跳ねたりしたようである。帰るなり母は、みんなの前で私の背中にお灸をいくつもすえた。泣き叫んだが誰も止めてくれなかった。

♪うちつづく 雑草おごれる 休耕田
 背高き尾花 むらがりて咲く  愛子

Thursday, November 08, 2007

ある丹波の女性の物語第12回 幼児期と故郷

遥かな昔、遠い所で第34回

 「山家一万綾部が二万福知三万五千石」と福知山音頭にうたわれているように、綾部は九鬼二万石の城下町である。田町の坂を上がると大手門跡があり、それからは上は家中(かちゅう)といって士族の住居地であった。

私の幼い時は、家のある本町通りとカギの手になった西町通りが商店街であった。そのカギの手の角の家がこわされ、駅へ行く新開地が出来たのはいつだったろうか。立派な家がこわされたのは覚えているのだが、私の幼い記憶は新しい新開地の思い出に飛んでしまう。
 
 田圃の中に道路が出来、秋になると田の中に番傘を広げていなごを取った。一晩糞を吐かせて佃煮にしてもらったが、美味しいものではなかった。広場にはすすきや野菊がいっぱい咲いた。

 サーカスも来た。ジンタの天然のしらべの音楽がはじまると何となくウキウキして、テントの前につないである馬などを見に行った。時々表のカーテンがあいてサーカスのショーの一部をのぞかせてくれるが、すぐにカーテンはしまって見せ場はのぞかせてくれない。次の瞬間をみんなで待った。サーカスの子供は売られた子だとか、人さらいにあった子だとか、私達はヒソヒソ話をしたものだった。

 衛生博覧会や見せ物が、次々に原ッパで開かれたように思う。テントの杭打ちが始まるとこんどは何が来るかと楽しみだった。

 そのうち道の両側に次々家が建ちはじめ、みるみる綾部駅まで家がつまってしまった。長楽座という芝居小屋も建った。廻り舞台、両花道、早替わりのぬけ穴、舞台の両側には、はやし方がすだれの中に座っているのがのぞかれた。

 歌舞伎も、天勝も、石井漠のバレエも来た。そのたびに中の桟敷も二階席も満員になった。トイレの匂いが気になったが、花道横の一段高い所に、お茶子さんにざぶとんを敷いてもらっておいて、見に行くのは楽しみであった。有名な演し物は母がいつも連れて行ってくれた。

今ふり返ってみると大正文化の華やいだ頃というのであろうか。福知山には歩兵工兵隊、舞鶴には要港があったが、戦時色などというものはなかったように思う。

 そのうち芝居小屋はだんだん活動写真を上映する事が多くなった。舞台の下にはオーケストラボックスもあり、ピアノ、バイオリン等の楽師さんが沢山いた。今から思うとずいぶん贅沢な事だったと思う。

 綾部の町にはもう一つ帝国館という映画劇場もあった。映画はあまり見に行った覚えはないが、「二十六聖人」というキリスト教の映画、それに「何が彼女をそうさせたか」という映画の及川通子という女優さんを、とても知的で美しい人だと思った覚えがある。

綾部の町を有名にしたものには大本教もあるが、町の発展に力があったのは、やはり郡是製糸であろう。綾部には本社と本工場があり全国に沢山の分工場があった。蚕種研究所には大学出の研究者も数多くいた。社宅の子供達は皆賢かった。

 郡是製糸は基督教の精神を基として設立されたので、波多野社長の所属する丹陽教会は、その社員も多く、会社の発展によって出来た金融機関等の人や文化人も集まるようになった。矯風会支部も出来、教会婦人会などは、インテリ婦人の社交場のような雰囲気さえあった。

 又、月見町という芸妓置屋の集まる町も出来た。玉ツキ、射的場、カフェー等も出来て行った。

 大本教も盛んになっていった。開祖の、お直ばあさんを父はよく知っていた。近所に住む紙くず買いであったが、時々気が狂って大声を出してあばれるので、よく留置場に入れられたそうである。

「予言者は故郷ではいれられず」の言葉があるが、土地の信者は殆どない。養子の王仁三郎さんが生神様扱いされるようになっても、父は普通の人・王仁三郎さんとしてつきあっていた。私達もその子、孫さんと通常のつきあいである。

♪谷あひに ひそと咲きたる 桐の花
 そのうすむらさきを このましと見る 愛子

Wednesday, November 07, 2007

11/8 ある丹波の女性の物語 第11回

遥かな昔、遠い所で第33回

 最後に私を生んでくれた母と父の事を少しのべたい。

父は前述の雀部の長男儀三郎である。姉も美人であったが、父も長身、秀才、美男であった。土地の京都三中、三高、東大独法科を卒業した。田舎では有名であり自慢の息子であった。「末は大臣か―――」等という祖父母の期待を裏切って、芝川という貿易会社に就職、横浜に住んだ。

当時は非常な好景気で、派手な贅沢な暮らしであったようである。この癖は終生つきまとった。会社が不景気風と共に破産、その後もやはり個人で貿易をしたらしい。その間に結婚もしているが、いろいろ就職しても昔の夢が忘れられず、その後京都での市の貿易協会に招かれ得意の腕を振るう事ができたのはしあわせであった。

 母美代は東京上野下谷の生まれである。長く京都に住んだが言葉の江戸っ子は死ぬまで直らなかった。親代わりの兄は外交官等の仕立てをする高級洋服店を営んでいた。本郷に下宿していた父と、どのようにして結婚したのか、とにかく福知山の祖父母をはじめとして、田舎の親戚は大反対であった。

そんな訳で夫が失職したり、困った時は全部兄に面倒をみてもらったらしい。不義理を重ねたこの妹夫婦には兄もあいそをつかしたらしいが、晩年は江戸時計博物館などを持っている兄を訪ね、一緒に焼物などを焼いて楽しんだと言う事である。

 母は大柄でどちらかといえば、不器量であったが、父には至れり尽せりの妻であった。京では毎日のように一流料亭にバイヤーを招いていた父を、いつも満足させる味の料理をつくり、針仕事も玄人はだし、綺麗好きで家中ピカピカであった。

私が似ているといえば不器量と、花作り好き位であろうか。それでも子供の話が理解出来るよう、ラジオで中国語講座を聞いたり、野球などのスポーツも理解した。伏見の家から京の街へもほとんど出たことのない、ほんとの家庭夫人であった。

♪山あひの 木々にかかれる 藤つるの
 短き花房 たわわに咲ける    愛子

Tuesday, November 06, 2007

ある丹波の女性の物語 第10回

それ以来、父は急に芸者にもてるようになり、つきまとわれだしたので、このままでは祖父の二の舞をやりかねないと、自分ながら不安になり尊敬する波多野社長の信ずるキリスト教は、禁酒禁煙だしそれを見習えば間違いなしと、動機はいささか不純で功利的であったが、キリスト教へと心を傾けていった。

教会通いをしているうちに、元来神信心のあつい父はキリストへの信仰に目ざめ、大正7年丹陽教会において洗礼を受けた。この頃から養蚕教師はやめていたらしい。

 そんな大きな動きのある最中、一文なしの祖父が師走の夜中に帰ってきた。前非を悔いて土下座して詫びる祖父を父は許さなかったが、母はやさしく迎え世話をする後家さんを見つけ、一緒に住まわせた。

70歳を過ぎる頃、祖父は一人になったので、家の離れに住まわせ緑内障でだんだん目が見えなくなっていく祖父の杖がわりになり、山の小屋に太鼓の響く日には、重箱にお弁当をつめて芝居小屋へ連れて行ったのを覚えている。

そんな母のやさしさに父もだんだん心がほぐれ、町では三番目にラジオも買い与えた。大阪から技師が何日も泊りがけで来た。当時のラジオは、夜になると近所の人が聞きに来るような珍しさだったのである。

 父は後年母に心から感謝し「おらが女房を誉めるじゃないが」と人によく話した。
 先になくなった祖母には誠意をつくして看護し、祖父には父の分まで孝養してくれた事を、妻のおかげで親不孝のそしりを受けなくてすんだ事は、最大の感謝であるといっていた。

♪あかあかと 師走の陽あび 山里の
  小さき柿の 枝に残れる  愛子

Monday, November 05, 2007

護良親王の首塚を遥拝す

鎌倉ちょっと不思議な物語89回

後醍醐天皇の皇子護良親王は、かの「建武の新政」で晴れて征夷大将軍となったのだが、父後醍醐のために、全知全能を傾けて、日本全国の戦場を駆け巡ったにもかかわらず、宿敵足利直義の手によって、鎌倉の大塔宮の石牢から引きずりだされて斬首された。

さぞや悔しかったことだろう。さぞや父を恨んだことだろう。

その護良親王の墓は、実朝の墓と同様、鎌倉に2箇所ある。1箇所はその大塔宮だが、もうひとつが今日ご紹介する「首塚」だ。

大塔宮(鎌倉宮)から浄明寺の第二小学校方面に迂回すると突然長大な石段が現れる。その急峻な長い長い石段を息を凝らして登っていく者は、次第に不気味な胸騒ぎを覚えるだろう。

晴れた日にも、雨の日にも、またうす曇りの日にも、春夏秋冬恒にここには「尋常ならざる何か」がある。絶対にある。あの「あほばかの泉」の水を飲んだこともなく、神仏なぞ信じたこともないこの私が言うのだから間違いない。

恨みを呑んで死んだ皇子の怨霊が800年経っても鬱蒼とした森林の中を彷徨っていることが肌寒いまでに実感できる。
さうして切り立った石段の頂上から下界を見下す者は、微かな眩暈を覚えるだろう。
そう、ここは明らかに異界である。

高鳴る動悸を抑えてさらに前進する勇気のある者は、頂上の神殿の裏手の奥を目指してみよ。
そこには、疑いもなく護良親王の生首が埋まっている。

ちなみに、鎌倉ならでは霊地はこの首塚を筆頭に、御霊神社や前にご紹介した妙本寺、北条高時腹切り矢倉など数多い。
死んだ作家の高橋和己は、余りにも短かすぎたその晩年を、あろうことか、この首塚のすぐ傍の、小さな小さな英国風の洋館で過ごしたが、幾夜どのような妖気に満ちた夢を見たことだらう。

Sunday, November 04, 2007

ある丹波の女性の物語 第9回

 そのような中にあって、祖母は胆嚢の手術をした。土地の医師を母が看護婦の経験を生かして助けたのである。妹のつる叔母を舞鶴へ嫁がせたが、金三郎叔父は職が長続きせず、しまいには朝鮮へ高飛びし、その間、三回もの結婚離婚を繰り返し、失敗する度に実家へ帰っている。

 その頃の綾部には産科の医師もなく、出産といえば取り上げ婆さんを頼む時代であったので、開業していない母なのに、むずかしいお産といえば無理に頼まれ遠い村からは駕籠が迎えに来たそうである。

 そのうち祖父は借金がかさんで綾部にいられなくなり、とうとう有り金をかき集め、若い芸者を連れて、隠岐の島に逃げてしまった。その後の両親の苦労は並大抵のものではなかったらしいが、店は母にまかせて父は養蚕教師をつづけた。

 大正の初め、土地の郡是製糸が大損をして株が大暴落し、会社の存亡が危ぶまれる事件が起こった。城丹蚕業学校の創立者であり、父を蚕糸業へ導いた大恩のある郡是の波多野鶴吉氏の窮乏を救いたい一心の父は、残されている唯一の桑園を売り、発明した蚕具でもうけた金を全部つぎこんで、どんどん安くなる郡是株を買いあさったのである。

ところが一年あまりでアメリカの好景気で郡是製糸は立ち直り、株価はどんどん上がった。義侠心でやった行為が父に大金を得させたのである。そのお陰で、払い切れぬ程の借財はすべてなしてしまい、何日も親戚、知友、隣近所を次々に招いて盛大な祝宴を開いた。母はその時買ってもらったダイヤの指輪、カシミヤのショールを終生大事にしていた。夫婦ともに33歳であった。

♪色づける 田のあぜみちの まんじゅしゃげ
つらなりて咲く 炎のいろに    愛子

Saturday, November 03, 2007

鎌響の「カルミナ・ブラーナ」を聴く

♪音楽千夜一夜第27回&鎌倉ちょっと不思議な物語87回

久しぶりの晴天の午後、鎌倉芸術館を訪れて、わが愛するローカルオケの演奏を聴いた。創立45周年記念第90回特別演奏会である。青い空に白い雲が浮かんでいる。私の好きなマチネーである。

 鎌倉交響楽団は昭和38年6月に創立され、一の鳥居の傍にあったいまは失われた旧中央公民館で第1回の演奏会が開かれたが、その日のメインであったシューベルトの未完成交響楽(曲と書かずにわざとこう書くその理由は賢明な諸兄ならお分かりだろう)が当日の2曲目に演奏された。
1曲目は例によって八代秋雄作曲の最高に素晴らしいヘ長調の鎌倉市歌である。(http://machimelo.web.fc2.com/kamakurasika.wmv

 シューベルトのこの曲D759は昔は第八番と呼ばれたが、現在では第7番で落ち着いたらしい。昔は未完成とハ長調の第9番D944の間に未発見の大曲ガシュタイン交響曲が想定されていたが、他ならぬそのガシュタイン交響曲が第9番であることがわかって、結局9番が最後の交響曲8番となった。

 それはともかく改めて聴く未完成は完全に完成した2楽章で構成されており、2つの楽章はまるでシャム双生児のようなネガポジの関係にある。主題自身もほぼ裏返しになっていて、展開方法もまるで同じ。2つの楽章というよりは自民・民主の大連立状態に陥っている。

第三楽章の冒頭でシュベちゃんは筆を投げたが、よほど意想外のメロデイーで開始しない限り、このシンフォニーは第9番と同じ泥沼ぬかるみ団子状態になったはずだ。
最後の大曲第9番も名曲であるが、もはや全身に梅毒が回った最晩年のシュベちゃんは、往年の流麗なメロディラインの在庫に底がつき、曲想の自在な展開を盛り込むことができずに、それでも根性でリズムとハーモニーの自同率のみで勝負してなんとか終らせてはいる。
レコードで聴くなら、フルトヴェングラーはハーモニーで、トスカニーニはリズムを強調した立派な演奏でモノラルながら両盤ともおすすめできる。そんな名曲の「未完成」だが、鎌響はまずはオーソドクスに破綻もなく演奏してのけた。

驚きは次の大曲と共にやってきた。カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」である。ドイツの作曲家オルフは、中世ミュンヘンの民衆が書き残した24の自由奔放な詩歌をサンプリングしてそれらにもっと自由奔放な音楽をつけた。

キリスト教の戒律によって縛り付けられていた中世の世俗の民が、飲んで騒いで恋をする。そのアナーキーで放埓な生き方を、オルフは現代音楽にも通じるような強烈なリズムと生命力が躍動するダンスミュージックを創造したのである。

ダンス、ダンス、ダンス!  恋せよ乙女、堕ちよ、人! メメント・モリ! 酒歌煙草に一時を忘れよ。それは中世と現代、宗教と無秩序、人と獣、愛と憎悪のアマルガムであり、世俗賛歌をつむぎだす壮大な錬金術であった。

若き指揮者星野聡に率いられた100名のオケと清冽なソプラノ松原有奈、バリトンの牧野正人、テノールの山田精一、そして100名の市民混声合唱団は、この狂気をはらんだ長大な難曲を、打楽器の強打を駆使しながら巧みに導き、全曲の最後の最後に素晴らしい音楽的法悦をもたらすことに成功した。

これこそが私たちが待ち望んでいた至高の瞬間であり、音楽が人間に対してできる最大の事業を見事にやってのけた奇跡的な瞬間でもあった。さうして私たちは、じつはこの瞬間の訪れだけのために長い年月を生きているといっても過言ではないのである。

超ローカルオケ、鎌響よ! 音楽を熱愛するすべてのアマチュア音楽家たちよ、永遠なれ!

Friday, November 02, 2007

ある丹波の女性の物語 第8回

 当時はまだ鉄道もなく、花嫁達は福知山街道を人力車にゆられて夕方、佐々木家についた。提灯の灯に浮かび上る母の姿を見て、金三郎叔父は「おお!きれいな嫁さん」と見とれて、大きなため息をついたそうである。

 売り出しには商いに店に立つ母の姿を、近在から見に来るほどであったらしい。私がそんな話を聞いて来て母にすると、困ったような顔をして、
「お父さんの所へ来たのが一番幸福だった。沢山の家からもらわれたが、他のどこの家へ縁づいても、めかけがいるような家ばかりやったから」
と心の底からそう思っているようであった。

 母が縁付いた頃は雀部家はすっかり傾き、商売がえをしてみてもうまくいかなかったが、何分ぼんぼん育ちの祖父の事で、お米はすし米、お茶は玉露というような日常であったので、使用人の多い佐々木家の大世帯の粗末な食生活にはびっくりしてしまったそうである。
麦の方が多い麦飯、それに大根も入る時があり、暫くは食べられなくて困ったそうである。

 その頃、父は養蚕教師となり、四国では日本一の成績をあげる高給取りであった。しかし借金の返済や商品の仕入れにすべてあてられ、その中でも祖父の女遊びや花札バクチが続き、いくら父が家に金を入れてもドブに捨てるような物であった。差し押さえにあい嫁入り道具類にまで札をはられた事もある、と母は言っていた。

♪梅雨空に くちなし一輪 ひらきそめ
家いっぱいに かおりみちをり  愛子

Thursday, November 01, 2007

田村志津枝著「キネマと戦争 李香蘭の恋人」を読む

降っても照っても第70回

最近は昭和史の本がたくさん出ているようだが、当時の日本と中国と「偽満州国」と日本統治下の台湾において、いったいどんな映画が、誰によって、どのような条件下で作られていたのかを知る機会がほとんどなかった私は、本書によってその渇を十分に癒すことができた。

当時、上海の租界には、抗日映画を製作する数多くの中国の映画会社があり、偽満州国には、大杉栄と伊藤野枝を惨殺した甘粕正彦が2代目理事長を務め、本書のヒロイン李香蘭を擁する国策映画会社の「満映」があり、日本軍が包囲する上海には川喜多長政が日本側代表を務めた日華共同出資の映画会社「中華電影公司」があり、華北にも同様の国策会社の「華北電影公司」があり、本土には戦意高揚国策映画を大量生産し続けた「東宝」や「松竹」があって、彼らは、映画というメディアを駆使しつつそれぞれの顧客たちに対して思い思いのプロパガンダを発していたようだ。

日本と中国と偽満州国と台湾という4つの国家(地域群)を舞台に、アジア全体を巻き込んだ巨大な「戦争」と、それが「映画」界にもたらした暗く不吉な影に、著者は丁寧にスポットライトを当てていく。

厖大な資料を綿密に読み込みながら、長年にわたってじっくりと進められたに違いない著者の精密な解読作業によって、満州事変から敗戦にいたるまでの戦争と映画史の相関関係が、はじめて白日のもとに晒されたといえるのではないだろうか。

このようなアジアの戦争と映画史の骨太のドキュメンタリーを後景に据えた著者は、その気宇雄大な舞台の前景に、若き二人の主人公を登場させ、「偽の中国人俳優」を演じる日本人女性李香蘭と、皇民化政策によって強制的に「偽の日本人を演じさせられた台湾人映画監督劉吶鷗」との間に演じられたサスペンスドラマの世界を描き出し、その大小2つの世界を頻繁にカットバックする手法を採用することによって、全編にリアルな緊迫感を盛り上げている。

かつてわが国にニュージャーマンシネマ、さらには台湾映画ブームを招来させた著者らしい「映画的な構成」といえよう。

急速に広がっていく戦火と、その未曾有の混乱のなかで、ほんらい平和のうちに映画創造に献身できたはずの若者たちが次々にテロルに倒れ、ほのかな恋の炎さえもあえなく吹き消されていった。

本書によれば、劉吶鷗は前途有為な台湾生まれの映画監督&製作者であったが、1940年9月3日、上海の目抜き通り四馬路のレストラン京華酒家で何者かの手で暗殺されてしまう。

著者がいうように当時は
「抗日戦争を巡る熾烈な戦いがあり、国民党の特務機関は対日協力者潰しに躍起になり、一方で日本側および汪精衛政権の特務機関は、抗日人士を標的にして逮捕・拷問・暗殺を繰り返し、また国民党残置機関の襲撃に暗躍していた」
が、にもかかわらず、戦乱の中国にはこういう能天気で純粋な青年はいっぱいいただろう。
いや一部の確信的行動主義者をのぞけば、民衆の大半が劉吶鷗のようなノンポリかオポチュニストだったのではないだろうか?

ところで劉吶鷗が暗殺されたちょうどそのとき、李香蘭は京華酒家から遠からぬパークホテル(国際飯店)で彼が来るのを待っていたのだという。

しかし著者の調査では、映画『熱砂の誓い』の北京ロケのために東京を発つ9月5日を目前に控えた暗殺当日の9月3日に、彼女がこの場所に居ることは不可能に近い。事の真相は、彼女が勘違いしているのか、嘘をついているのか、本当に待っていたのか、のいずれしかない。

「そしてもし本当に待っていたのだとすれば、劉吶鷗の知られざるもうひとつの仕事がそこから浮かび上がり、彼の暗殺の謎を解く重要な鍵のひとつが見つかるはずだ」

この謎のサスペンスドラマを解明しようと、著者は本書の最後で、李香蘭こと山口淑子に宛てた質問状を突きつけている。

この李香蘭こと山口淑子という女性について、私はこれまで何の興味を覚えたこともなかったが、本書を読んでどうも面妖かつ不可解な人物であるように感じた。

そもそも日本人なのに中国人に成りすまし、その二重国籍をケースバイケースで使い分けてアジア各国の舞台で媚を売るという了見がよく理解できない。暗殺された劉吶鷗との関係も曖昧だし、日本軍の満州&中国侵略のお先棒を担ぎ、時の政治権力に好きなように利用され、そのことにも無自覚に、ただ時流に流され続けた愚かな芸能人なのではないだろうか?

それに比べると、私は劉吶鷗のほうによほど親しみが持てる。台湾人でありながら日本国籍を強要され、民族の二重性に引き裂かれつつも、“イデオロギーとは無関係な自由な映画作り”にあこがれ、おのが才覚を存分に発揮しながら群雄割拠する中国各地を泳ぎ回っているうちに、結果的に日本軍の映画政策に取り込まれ、それが彼の若すぎた死を招いた。

当時同じ「漢奸」の汚名を着せられたヒーローとヒロインだったが、一方は無残に殺され、他方は故国に生還して“赤い絨毯”を踏んだりしている。もしも二人の間に燃えさかる恋があったと仮定すれば、山口淑子は著者の問いかけに無関心でいられるわけがない。 

しかし私はなぜかこの公開質問に対して永遠のヒロインは永遠に回答を留保するような気がしてならない。そしてそのことを著者はどうやら予期しているようでもある。

なぜならもしも本気で彼女の回答が欲しいのであれば、著者は万難を排して彼女に直撃インタビューを敢行しただろうし、それがドキュメンタリー作家の常道というものだ。
そしてインタビューが成就してもしなくとも、著者はその結果を読者に報告して本書の執筆を終えたはずである。

それをせずになんと本書の「あとがき」の文中において、彼女からの返答期し難い宙ぶらりんの質問状を挿入したところに、私は著者の微妙な心意を忖度したいのである。
同じ「あとがき」ではしなくも洩らしているように、著者は別に劉吶鷗と李香蘭の真実を究明するためにこの本を書いたのではない。

「私は台南で生まれた。歳を重ねるに従って故郷に強く惹かれる自分を意識する。できることなら台南で暮らしたい、と思う。劉吶鷗は上海で仕事に明け暮れながら、あの南島に帰りたいとの思いを心の底に抱いていた。亡くなったとき、彼はまだ三十五歳だ。生き延びたとしたら彼はどこで何をしたのかと、思わずにはいられない」

この短い文章を眼にしたとき、私はまだ見ぬ南の島を吹く一陣の爽風を心の中に感じた。著者の望郷の思いが、『李香蘭の恋人』という侯孝賢の『悲情城市』を思わせる透き通った叙事詩を書かせたのである。 

Wednesday, October 31, 2007

安藤忠雄の「歴史回廊」提言に寄せて

勝手に建築観光26回


最近ベネチア大運河入り口の旧税関跡美術ギャラリーの国際コンペに勝利して意気上がる安藤忠雄だが、この時流に敏感で商機に抜け目のない機敏な建築家が、東京に「歴史の回廊」を作ろうと提唱している。

「回廊」という言葉で誰もがすぐに想起するのは、最近亡くなった黒川紀章の未完の代表作である中国河南省都鄭州市の都市計画で、このコンセプトが「生態回廊」であることはつとに有名である。

これは北京から南西600kmの黄河流域にある人口150万人の古都に山手線内側の倍以上の広さの新都心を2020年までに造ろうという壮大な計画で、まず800hの人口湖「龍湖」を作って都心と結び、緑と水の生態回廊に基づいて各地域間に河川を巡らせ、超低層住宅群、水上交通、岸辺公園を随所にちりばめ、自然と暮らしの共生をめざそうとするものであるが、どうやら安藤の「歴史回廊」は、この黒川案の向こうを張ったとみえなくもない。

それはともかく、安藤は明治の代表的な建築物をつなぐプロムナードを東京駅周辺に作って、国際的にも世界の奇跡とされているこの黄金の時代の記憶を永久に後世に伝えようと、けなげにも提言しているのである。 

具体的には1931年吉田鉄郎設計の東京中央郵便局を破壊から守り、このたび晴れて復元&再建されることになった1914年辰野葛西建築事務所設計の東京駅と1894年ジョサイア・コンドル設計の三菱1号館を、1911年妻木頼黄建築の日本橋までつなげ、日本橋はソウル清渓川にならって高架道路を撤去しようとするそれなりに真っ当なプランであるが、このような“もっともらしい正論”をいまさらながらに提案するのなら、私はこの偉大なる建築家の驥尾に付して、ことのついでに丸ビルと新丸ビル、おまけに有楽町の旧都庁ビルと三信ビルの完全復活再生復元を提案したい。

近年三菱地所がおったてた「醜い巨大ガジェット」である丸ビルと新丸ビル、それに有楽町の「超モダンおばけ廃墟」東京国際フォーラムは、ダイナマイトでこっぱみじんに破砕しなければなるまい。

さうして丸ビルには高浜虚子が主宰するホトトギスの事務所もぜひ復活してほしい。銀座プランタン裏にあってドーリア調エンタシス柱が美しかった1931年徳永傭設計の「東邦生命ビル」と1929年完成の6丁目の交詢ビルジングも、だ。

それなくして安藤流「歴史の回廊」は画龍点睛を欠く。安藤が表参道ヒルズでお仕着せに試みた同潤会アパートの奇形的保存の反省を踏まえ、過去の偉大な建築物を、その地霊鎮魂を兼ねて徹底的に再建してほしいのである。

それあってこその偉大な明治の歴史的再生であり再現ではないだろうか。

Tuesday, October 30, 2007

♪ 07年10月の歌

♪ある晴れた日に その15

われもまた風狂の人になりたし
クワガタは樹液の近くに逃がしてやりぬ
私はとうてい大工にはなれない
鳥羽殿へ我勝ちに急ぐ参騎かな
夕闇に縄張り広げむ女郎蜘蛛
落石に注意といわれても具体的にどうすればよいのか
我君を食らふとも可なるか可也哉茸笑ふのみ
食らふとも可なるか茸笑ふのみ
男なら健女なら優と名づけむと語る甥に明るい未来を
君にもそして君にも安けき未来豊けき明日来たれ
露草を雑草とみなして焼く人をわたしは激しく憎んでいる
釣船草を船と知らずに雑草とガスバーナーで焼くな男よ
またしても君は雑草と口走る草それぞれに名はあるものを
鎌倉の横須賀線の踏み切りの傍に棲むとうかのウシガエル
踏み切りの主は幻のウシガエル心して過ぎよ横須賀線
自らの生の希薄に耐えかねてコッカコッカと鳴く自虐鳥
東京の出版社より来たりける月12万の仕事によろこぶ
キンモクセイ炎と燃ゆる秋深し
心中の業火燃やすか金木犀
わが魂を焼き尽くすや金木犀
人類は悔い改めよと金木犀日本全国激しく燃えたり
中原の中也展果てたあと大輪の薔薇静かの舞咲けり
カラス咲き、ジャクリーン咲くや薔薇の苑
油蝉10月20日に鳴いており
鳩さぶれー鳩の首から食べました
いい俳句をつくったのに忘れてしまった
人生は省略できないバイパスできない
次々に事件が起こるまず杉並一家惨殺事件から解決せよ
過ぎた昔が帰って来る日もあるだろう
なぜ1ドル117円が急に114円になったのかわからない
このキノコを喰わんとする男あり
いくたびも息子の名前をググりけり
首塚や皇子の怨念いまだ晴れず
首塚や人を呪わば穴ふたつ
ムクは死んだけどタロウはまだ生きている
十三夜愛する者より便りなし
十三夜希望の如く月は湧き
十三夜希望の如き月が出る
十三夜希望のやうな月が出て
カモはいいな真昼間から眠っている
おぼつかぬ右手でつかむケーキかな
障碍者たちがはたらくカフェで海を見ながらランチを食べた
一呼吸また一呼吸するうれしさよ
おろぬいたミズナを二人で食べにけり
俳句では言いたいことを詠むなかれ
我も人もすべての言説は生臭し
みそひとをむかえしむすこのたよりなし
人はなぜここまで自然を求むのか
偽りの自然を自然と読み直す姑息の智恵は愚かなるかな
偽りの自然も第二の自然なるかプラスティックの葉よ樹脂の樹木よ 
裏側の波の模様が美しい蝶なればこそウラナミシジミ
私はウラナミシジミのウラガワの紋が好きだ 
ユニクロで購いきたるカシミヤを身につけしきみはどうと訊ねる
ノバうさぎのCMをつくったやつは前に出よ
秋深し衆寡敵せず滅びゆく
秋深し友の寡なき男あり

Monday, October 29, 2007

ある丹波の女性の物語 第7回

 父は、女道楽の祖父を心から憎み、反面この上ない母思いであった。祖母がそこひの手術の為、京の眼科病院へ入院した時は、学校を休んで付き添いに行き、自分の眼片方と引き換えに母の目をよくしてくれと、病院内の神社に願かけをしている事が患者の中で評判になり、みんなで大きな数珠を廻して拝む念仏講を開いてくれたという。
院長も感動して精一杯の治療をしてくれ、目がみえるようになったと聞く。

 父と同い年の母菊枝は、福知山鍛冶町に雀部家の長女として生まれた。代々綿繰り機を商う家で祖父は九代伊右ェ門、幼名は庄之助、代々同じ名をついでいたようで、祖母みねも同じ福知山の彫り物師の娘で、生涯祖父を幼名の「庄さん」と呼び、色白で針仕事の上手な、まことに可愛らしい「おばあちゃん」であった。

 文明開化で紡績工場が出来てから家運は急速に衰えていったが、昔は丹波、丹後、北陸地方にかけて手広く商っていたらしく、母は庭にはまわりを子供が六人位手をつなげるような木があり、夜、燐がもえた事、米騒動の時の鍬の跡がいくつも柱に残っていた事など話してくれた事がある。

 母は20歳で遠縁に当たる佐々木家へ嫁いだ。郡立女学校の前身、香蘭女学校を出、神戸県立病院看護婦養成所を卒業、産婆の免状も持っていたが、幼い時から美人の評判が高かった。

福知山は芸事の盛んな土地で、雀部家代々のあるじも浄瑠璃が好きで、大阪の文楽から義太夫を招いて稽古をしたそうである。母も小さい時から舞や三味線を習わせられた。盆踊りも盛んな土地で、町々に連があり、母はその先頭に立って三味線をひいて町中を練り歩いた事、嫁のもらい手がふるほどあったとは、雀部の祖父のいつもの自慢話であった。

福知山音頭の優雅な調べに合わせて家々の娘は、きそうように美しく着飾って歩いたのであろう。

♪くちなしの 一輪ひらき かぐわしき
かをりただよう 梅雨の晴れ間に  愛子

ある丹波の女性の物語 第6回

 両親・祖父母のこと

 佐々木家は代々男の子に恵まれず、何代も養子を迎える家系であったようで、曽祖父には女の子もなく、祖父祖母共の両養子であった。

祖父春助は天田郡大原村の生まれ、安産の神大原神社近くの西村家に生まれた。父のいとこ達は村長や郵便局長であった。

私は一度秋の遠足で大原神社へ行った事がある。何廻りもして峠を超えて行った事がある。道々にりんどうが色濃く咲いていたのが忘れられない。とても山深くきたという思いがした。
祖母、婦美は隣村の山家の米屋から来ていたが、49歳でなくなっている。

 明治18年2月22日、父小太郎が綾部町の佐々木家に生まれた時は、何代目かの男子誕生でとても喜ばれた。しかし栄養不良のしわくちゃな赤ん坊だったそうである。

 家は屋号が示すように昔は寺子屋であったそうで、古びた槍も鴨居にあがっていた。桑園もあって養蚕もしていたが、祖父の代に職人をおいて桐下駄の製造をはじめた。

祖父は素人芝居の女形を演ずるのが得意で、女遊びの好きな道楽物であった。それでも父は当時尋常小学校、郡立高等小学校を経て、城丹蚕業学校創立初回の卒業生であるし、父の妹つるは郡立女学校を出ているから、金もうけにも長じていたのであろうか。
どういうわけかヤン茶坊主の次男金三郎叔父だけは、小学校をおえると京の呉服問屋へ奉公に出ている。

♪突然に バンビの親子に 出会いたり
こみちをぬけし 春日参道

Saturday, October 27, 2007

ある丹波の女性の物語 第5回

絢ちゃんの事

 絢ちゃんとは一卵性双生児の片われの姉の事である。

先に生まれたからか、後なのか、どういう訳か姉と言う事である。現在では妊娠中から男女の別も分かり、勿論双生児など初めから分かるらしいが、当時は異常にお腹が大きくなるまで分からなかったのではあるまいか。母は、後期にはふすまや柱を持たないと、立ち上がれなかったそうである。

何かにつけて絢ちゃんの方が秀れているので、私が妹でほんとによかったと思っているが、姉の絢ちゃんは、とてもひ弱で息もたえだえに生まれてきたそうで、遠くにやるなら元気な方をと私の丹波行きは決まったらしい。

ところがこの姉も、ひょっとすると立場が逆になっていたかもと、私の綾部行きには責任を感じているらしいのである。

私の名前は「神は愛なり」の聖句から決まったそうで、絢子は雀部では「あいこ」と呼ばれて育ったそうである。女学校4年の時、祖父の葬式で生まれて初めて、京桃山の雀部家を訪れ、その事を知った。生家でも私の事をいつも覚えようとしていてくれた事を複雑な思いで感謝した。

 絢ちゃんは大沢家に嫁ぎ、大学教授夫人、学長夫人となった。女としてはエリートコースにあるこの姉を羨む気持ちは少しもない。もう一人の私が受けている幸いを喜ぶ気持ちだけである。

私は一商人の妻として過ごして来たが、それなりの、幸せを感謝している。人には分からぬかも知れないが、普通の姉妹では感じられぬ特別の感情が、私達にはあるらしい。
こんな姉妹であって、こんな姉があってほんとに良かったといつも思っている。

♪ 直哉邸すぎ 娘と共に
ささやきのこみちとう 春日野を行く

Friday, October 26, 2007

ある丹波の女性の物語 第4回

裕兄さんの事

 裕兄さんは私のすぐ上の兄である。上に正という長男がいたので、この次男が生まれた時から、佐々木家へほしいと何度か交渉していたらしく、「幸太郎」と言う名前まで用意していたという事である。

本人は綾部の伯父が来るたびに外へ遊びに出てしまい、ある時は風呂桶の中に入り、ふたまでして隠れていたと言う笑い話まである。結局私達姉妹の誕生によりこの話は消え、裕兄さんは綾部へ来なくてもいい事になった。

 そんな訳で、私が遠い丹波の地へもらわれていった事を、子供心にも責任を感じていたらしい。後年、雀部の父が関西に住む事になり、当時中学の裕兄さんも転校した。その中学は教室に生徒の成績順に名札がかけられており、学期末には、トップにその名札がかけられたとの事であるが、転校生「雀部裕」の名が最後の席次にあるのを、その学期中悔しかったそうである。

雀部の子供の中では、なかなかユニークな存在であったようで、両親に無断で受験、大阪外語大の合格通知がきた時は、家中でびっくりしたそうである。当時は戦時色の強い時代であつたので、「中国語蒙古学科」に入学、卒業後は華北交通に入社した。

その当時の北京からの葉書が私の手箱の中に何枚か残っている。北京がどんなにすばらしいか、空がどんなに美しいか等したためてある。いろいろと人並みの青春時代の悩みを持っていた私には、「思い切ってこの新しい天地へ出てこないか」という葉書の文字が今も心に残っている。

その兄もビルマで戦死してしまった。中国語や蒙古語は軍ではとても重宝され、その人柄は誰にも愛されていたらしい。運動は万能選手、ほがらかで、心やさしかった。苦学している友達に物資のない時なのに自分の外套をやってしまったと、母がこぼしているのを聞いた事がある。

ほんの何度かしか会っていないこの兄の事が、しきりに思い出されるこの頃である。


♪なだらかに 丘に梅林 拡がりて
五月晴れの 奈良線をゆく  愛子

Thursday, October 25, 2007

大庭みな子の「風紋」を読む

降っても照っても第69回

先日この作家の遺著「七里湖」を読んだばかりだが、今度は別の版元から別の遺作(短編3本と6つの小さなエッセイ)が出版されたのでついつい手にとってしまった。

短編は「あなめあなめ」、「それは遺伝子よ」、そして表題作の「風紋」であるがいずれもこの世とあの世の中間部、あるいは仏教の用語で中有(生有から死有までの)といわれる父母未生以前の混沌とした時空において天人一体となって無意識裡において創造された玄妙にして摩詞不思議な作品である。

音楽で喩えると例えば往年のSPレコードでスクリャービンの「法悦の詩」をワインガルトナー指揮のヴィーン・フィルハーモニーで聴いたような、典雅で深沈とした陶酔的境地に浸ることができる。

「あなめ」は小野小町の髑髏の眼底から生えてきた薄を引き抜こうとすると小町が「あなめ、あなめ(痛い痛い)」と叫んだという故事を本歌取った夢幻譚だが、その最後は、主人公のナコ(みな子さん)が、

「両目を左右のこぶしで押さえて目から生え出ている薄を抜こうとしたが果たせなかった。「まあ、そのうち薄の方が枯れるよ」とトシ(著者の夫)は言った。

 というところで唐突に終る。この婦唱夫随の二人の魂はすでにして中有を彷徨っていることがわかる。

「それは遺伝子よ」では、著者に先立って死んだ米国の友人ヘレンの思い出が語られるが、「すべての善悪を呑み込んだ上でアラスカの原野にすっくと立った女神」を思わせる神話的な存在は、自由で放胆な生を生き切った著者自身を思わせる。

例えば次のような文章を見よ。

著者の目の前で全裸になってシャワーを浴び始めたヘレンは、

「もちろん立派な二つの乳房と高い腰を持っていた。私が息もつかずにレモネードを飲み干している間に、ヘレンはベッドルームに行き、大きなキングサイズのベッドにバタンと倒れるように横たわって、「ああフランクがいてよかったわ。一人で暮らせるのは女じゃないわね」と言うともう高いびきをかいていた。そして、眼を開けて、「フランクは暖かくて素敵だった」――次の瞬間また高いびきをかいていた。」

最後の「風紋」はこれも最近亡くなった偉大なる小説家小島信夫と著者との交情を赤裸々に、しかし、夢のような淡彩画のタッチで描く。

「信さんはもう意識もなくて植物人間のような状態だそうである。それでもナコは走って行って信さんに抱きついてキスしたかった。信さんがまだ元気な頃にナコは何回も信さんと抱きつけるほど近くに立って、キスできるほどの近さだったのに一度もそんなことをしなかったことが心残りに思われて、今は無意識の中で走ってゆき抱きついてキスしたかった。」

この文章が書かれたとき、まだ確かに生存していた信さん(小島信夫)も、ナコと自称する著者も、いまはこの世には存在しない。しかしこの夢のような話のなかに悪女と言われた著者のあどけない少女のような本当の思慕が真率に刻まれていることだけは疑えない。

しかし私がこれらの短編にも増して感動したのは、まるでささやかな香典返しのように巻末におかれた「逝ってしまった先達たち」での川端康成や佐多稲子、野間宏、藤枝静男の思い出話であった。

凝縮された見事な文章の中に、物故した作家たちの姿が、いまそこにあるかのように生々しく立ち上がってくる、それこそ文学の力には思わずギョッとさせられる。
著者によって一撃の元に拉致された彼らの些細な所作は、彼らの生の本質を的確に射抜かれ、永遠の相というタブローに磔にされたまま、浄土から差し込む微かな西陽を浴びている。

さうして最後にそっと置かれた僅か数枚のエッセイ、「あの夏――ヒロシマの記憶」こそは、あらゆる“広島文学”中の最高傑作であろう。

Wednesday, October 24, 2007

五木寛之著「21世紀仏教への旅日本・アメリカ編」を読む

降っても照っても第68回

「21世紀仏教への旅」シリーズの最終巻を読んだ。

「わがはからいにあらず、他力のしからしむるところ」と親鸞は悟り済ませた。悪者も善人もただ「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば極楽浄土へ行ける、という悪人正機説は、考えれば考えるほど、物凄い思想である。

しかし著者によれば、この有名な革命的宗教思想は、すでに法然以前の奈良仏教時代からその萌芽が生まれていて、平安末期に後白河法皇が集成した『梁塵秘抄』には
「弥陀の誓いぞ頼もしき 十悪五逆の人なれど 一度御名を称うれば 来迎引接疑わず」
というワンコーラスもすでにあらわれているという。

奈良仏教を経て鎌倉新仏教にいたる時代の変転が、ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、ヒンズー教も、そしてブッダの仏教自体をも驚倒させるに足る悪人正機説を誕生させたのである。

そして著者は、奈良から鎌倉までの悪人正機説の変遷を、

源信は「泥中にありて花咲く蓮華かな」、
法然は「泥中にあれど花咲く蓮華かな」、
そして親鸞は「泥中にあれば花咲く蓮華かな」

であると、巧みに評している。

世間ではゼニゲバ流行作家としてあまり評判がよくない五木寛之であるが、「以前から私は自分の個性などというものはないほうがいい、と思っている」と語り、「できるだけ近代的な自我というものを消去する生き方をしてきた」と自負するこのデラシネ男を、私はけっして嫌いではない。

Tuesday, October 23, 2007

ある丹波の女性の物語 第3回

 祖父も私を乳母車に乗せて歩きたいと、シキリに願ったそうであるが、早くから頭をゆさぶると頭に悪い影響が出ると許さず、余程してから籐製の大きな乳母車を東京から取り寄せた。ベルトで本体を宙吊りにしてあり、脳へ響かぬよう工夫した当時では最新型のものであったそうである。

不要になってからは倉庫の天井にぶら下げてあったが、戦時中、私の長男のために充分使用出来た程、頑丈な物であった。この乳母車を祖父が街々をひいて歩いてくれると、方々から沢山のお菓子をもらうのが例であったが、私は気に入った上菓子でないと、もらったその場で「チヤィ」といって捨ててしまうので祖父は非常に困ったそうである。

 その事も何となくおぼえているようにも思うけれど、幼い日の最初の記憶は、泣いている私をおんぶして夜の街を歩き回っている父の姿であり、おんぶされている私自身の姿である。
外は真っくら、街灯の明るさだけ、ガラス窓にうつる父と子の顔、ねんねこ半纏のオリーブ色の銘仙の色、黒いビロードの衿をハッキリ覚えている。冬の夜更け、夜泣きする私をしかたなしにおぶって歩いたのであろう。涙にうるんで見えるだいだい色の街灯の色、ねんねこ半纏のオリーブ色、私の最初の色への記憶である。

 いつ頃からか、タンスの上段の底に、赤いリンズに白のふち取りをした、よだれかけ、赤いちりめんのお守り袋がしまってあるのを見つけたが、その事にふれるのが何となくはばかれて、何度もソッと見るだけにしていた。

それは横浜の家から持って来たのだと、後で知ったが、母は大事にしまっていてくれたのだと、母の私への思い、心くばりを感じる。
 私が両親の実子でない事を、おぼろげに知ったのは、小学校低学年の頃かと思う。隣が伊藤という乾物屋で、そこの主人が「愛子ちゃんは東京生まれやから。」と何かの時にいったのを、何となく誇らしいような気持ちで聞いた覚えがある。
別に悲しくもなかった。前から何となく感じていたのかもしれないが、両親の愛にみたされていたからに相違ない。

♪五月晴れ さみどり匂う 竹林を
ぬうように行く JR奈良線    愛子

Monday, October 22, 2007

ある丹波の女性の物語第2回

 私は大正10年年6月26日、綾部市新町、丹陽基督教会に於いて、内田牧師より幼児洗礼を受けている。その何年か前に、両親は基督教に入信していたのである。

 現在になっては珍しい事ではないが、70年前、私には寝台が用意され温度計が付いていたそうである。部屋にも商品がいっぱい。若い店員が寝起きしていたので、当時は蚤にはずいぶん悩まされていたらしく、寝台の両ワキにはマッ白な寝巻きを着た両親が寝たそうである。蚤をたやすく発見出来る為である。

 粉ミルクは私の身体に合わなくて下痢が続き、牛乳にかえてからよく太るようになったそうで、最高1日八合の牛乳を飲んだそうである。私が大きくなっても配達してくれていた農園からは、毎年お歳暮に牛乳風呂にと、バターを取った後の脱脂乳が届けられた。
 余程大きくなるまで、毎年私の誕生日にはもらい乳をした二軒の家には、赤飯が配られたのを覚えているから今で言う混合栄養にしていたのであろう。

 そんなに細心の注意を払っていても、冬は寒い丹波のこと、とうとう肺炎になり、看護婦、産婆の免状を持っていた母ではあるが、他に二人の看護婦を雇い昼夜部屋をあたため、湿布、吸入などあらゆる看護をしてくれて、一命を取り止めたのである。

大きくなってもレントゲン写真に肺炎の後が残っているといわれたが、そんな昔に、しかも乳飲み子を肺炎から救ってくれた事は両親の献身的な努力と愛という他はない。

 そんな事もあって、両親の他は誰にも私を抱く事を許さず、只一人、一番番頭の藤吉さんだけが厚司のふところ深くに抱く事を許されたそうである。後年、もらい乳に行くのも、この藤吉さんの役目だった事を知った。

♪七十年 生きて気づけば 形なき
蓄えとして 言葉ありけり     愛子

Sunday, October 21, 2007

ピート・ハミル著「マンハッタンを歩く」を読む

降っても照っても第67回

アイルランドからの移民の子で、ブルックリン生まれのニューヨーカー、ピート・ハミルによる最新版ニューヨーク案内である。

ニューヨークといっても叙述はマンハッタンの西半分(地図では下半分)のダウンタウンにほぼ限定され、著者が生まれ育って喜びと悲しみとノスタルジーを共にしたこのエリアへのメモワールが縷々綴られる。

 あの01年9月11日の同時テロに遭遇した著者と妻の青木富貴子さんの危機一髪のてんまつや、著者の少年期や青春期の懐かしい思い出話も随所にちりばめられているとはいえ、本書の力点はこの小さな盲腸のような地域の歴史を厖大な資料を駆使して丹念に語りつくすことにおかれている。

まずは先住民、そしてこの地をニューアムステルダムと呼んだオランダ人、その後を襲ってニューヨークと呼ぶことにした英国人、さらにその後世界中から殺到した無数の移民たち……。私たちは後年なってニューヨーカーと呼ばれるようになった彼らが、この土地のどこにどんな建物や公園や教会をつくり、どんな人々がどんな生涯を送り、どのように生き、どのように死んでいったのかを、懇切丁寧に教えてもらうことになる。

例えば――、

オランダ人たちが入植地の先端部分を壁で仕切り、外界の脅威がなくなった段階で取り払った地域が、後年ウオールストリートと呼ばれるようになったこと。

1809年にオランダ系アメリカ人作家ワシントン・アーヴィングが採用したニッカーボッカーという名前が、そのまま彼らの呼び名になったこと。

そしてそのニッカーボッカーたちがセントラルパークを造園し、ニューヨーク公共図書館を建て、コロンビア大学を設立したこと。

1914年に日照権裁判が起こった結果、歴史上はじめて用途地域規正法が成立し、その結果その後マンハッタンに建つ高層ビルはクライスラービルのように軒並み尖塔をつけるようになったこと。

1948年カリフィルニアで金鉱が発見され「49年組」と呼ばれる多くの若者が西部に向かった、そのフォーティーナイナーズが、今も当地のフットボールチームの名前になっていること。

1889年のオーティス社製のエレベーターと同時期の鉄骨構造の開発こそがこの都市の高層ビルの建築をはじめて可能にしたこと。

1880年からの50年間にウールワース、シーグラム、クライスラービル、メトロポリタン美術館、カーネギーホール、ダコタアパートなど、この都市に重々しい壮観をもたらしたボザール様式の美しく装飾的なアメリカ・ルネサンス建築が続々誕生したこと。

だからこそ1965年にあの素晴らしいペン・ステーションが取り壊されたときに激しい抗議と怒りが湧き起こったこと、

等々の、忘れがたいこぼれ話の数々である。

ニューヨークとは切っても切れない関係にある有名百貨店や新聞社の歴史についても要領よくダイジェストしてくれている本書は、この街とこの街の住人とその歴史の光と影をを愛する人々にとって長く手放せないバイブルになるだろう。

ピート・ハミル著「マンハッタンを歩く」を読む

降っても照っても第67回

アイルランドからの移民の子で、ブルックリン生まれのニューヨーカー、ピート・ハミルによる最新版ニューヨーク案内である。

ニューヨークといっても叙述はマンハッタンの西半分(地図では下半分)のダウンタウンにほぼ限定され、著者が生まれ育って喜びと悲しみとノスタルジーを共にしたこのエリアへのメモワールが縷々綴られる。

 あの01年9月11日の同時テロに遭遇した著者と妻の青木富貴子さんの危機一髪のてんまつや、著者の少年期や青春期の懐かしい思い出話も随所にちりばめられているとはいえ、本書の力点はこの小さな盲腸のような地域の歴史を厖大な資料を駆使して丹念に語りつくすことにおかれている。

まずは先住民、そしてこの地をニューアムステルダムと呼んだオランダ人、その後を襲ってニューヨークと呼ぶことにした英国人、さらにその後世界中から殺到した無数の移民たち……。私たちは後年なってニューヨーカーと呼ばれるようになった彼らが、この土地のどこにどんな建物や公園や教会をつくり、どんな人々がどんな生涯を送り、どのように生き、どのように死んでいったのかを、懇切丁寧に教えてもらうことになる。

例えば――、

オランダ人たちが入植地の先端部分を壁で仕切り、外界の脅威がなくなった段階で取り払った地域が、後年ウオールストリートと呼ばれるようになったこと。

1809年にオランダ系アメリカ人作家ワシントン・アーヴィングが採用したニッカーボッカーという名前が、そのまま彼らの呼び名になったこと。

そしてそのニッカーボッカーたちがセントラルパークを造園し、ニューヨーク公共図書館を建て、コロンビア大学を設立したこと。

1914年に日照権裁判が起こった結果、歴史上はじめて用途地域規正法が成立し、その結果その後マンハッタンに建つ高層ビルはクライスラービルのように軒並み尖塔をつけるようになったこと。

1948年カリフィルニアで金鉱が発見され「49年組」と呼ばれる多くの若者が西部に向かった、そのフォーティーナイナーズが、今も当地のフットボールチームの名前になっていること。

1889年のオーティス社製のエレベーターと同時期の鉄骨構造の開発こそがこの都市の高層ビルの建築をはじめて可能にしたこと。

1880年からの50年間にウールワース、シーグラム、クライスラービル、メトロポリタン美術館、カーネギーホール、ダコタアパートなど、この都市に重々しい壮観をもたらしたボザール様式の美しく装飾的なアメリカ・ルネサンス建築が続々誕生したこと。

だからこそ1965年にあの素晴らしいペン・ステーションが取り壊されたときに激しい抗議と怒りが湧き起こったこと、

等々の、忘れがたいこぼれ話の数々である。

ニューヨークとは切っても切れない関係にある有名百貨店や新聞社の歴史についても要領よくダイジェストしてくれている本書は、この街とこの街の住人とその歴史の光と影をを愛する人々にとって長く手放せないバイブルになるだろう。

Saturday, October 20, 2007

ある丹波の女性の物語

第1回 誕生の頃
戸籍によれば私は大正10年2月22日、京都府綾部市西本町25番地に、父佐々木小太郎、母菊枝の一人娘として生まれている。両親共に36歳の時の初めての子供であるから、身分不相応に大事にされ、可愛がられていたようである。
その当時の家業は履物製造販売。祖父も含めて家族4人、職人、店員、お手伝い、合わせて20人近い人員構成であった。
店舗兼住宅と、一寸と離れて倉庫と職場があり、倉庫には北陸地方から貨車で仕入れた桐下駄の材料が、乾燥のためうず高く積み上げられてあった。
 

 私が母菊枝の弟、雀部儀三郎の三女として横浜市桐畑に生まれ、生後100日を経た日に佐々木の両親に守られて、東海道線を乗り継ぎ山陰線の綾部に貰われてきた事を知ったのは、ずいぶん後の事である。
長い間子供に恵まれなかった両親は、雀部家の二男一女のうち、次男をかねてから欲しいと希望していたが、なかなか思うようにならずにいたところ、下に女児の双生児が生まれたので、これ幸いとその一人を貰い受ける事にしたらしい。

それにしても、その頃の東海道線を、生まれて間もない赤ん坊づれ、母乳なしの長旅は夫婦づれとはいえ大変だったろうと思う。そして父は、自分の誕生日と同じ日付で、佐々木小太郎・菊枝の長女として出生届を出しているのだから、後々のためにも、すべてに万全を期していたのに相違ない。
この事に関しては両親は勿論、私も決して口に出した事はない。公然の秘密となった時も、両親のなくなるまで私達の間で話し合う事はなかった。

♪つたなくて うたにならねば みそひともじ
ただつづるのみ おもいのままに   愛子

Friday, October 19, 2007

鎌倉大町の常栄寺に詣でる

鎌倉ちょっと不思議な物語86回

日蓮は、文永8年1271年9月12日に鎌倉幕府の命によりとらわれ、龍の口刑場で処刑されることになった。

ところがその前夜、刑場で突然異変が起こったために刑の執行は不可能になり、上人は一命をながらえた。

その日、桟敷尼という老婆が捕縛された日蓮に牡丹餅を差し入れたので、上人はたいそう感激したという。

この桟敷尼の夫は京都から下ってきた将軍宗尊親王の近臣で夫婦とも法華経の信者であった。桟敷尼は龍の口の法難から三年経った文永11年1274年に88歳で亡くなったが、その法名を妙常日栄といいこれがこの寺の名前「常栄寺」になったという。

この頃から世間の人々は、老婆の牡丹餅の御利益をありがたがり、毎年9月12日には「御法難会」が催され、妙本寺や瀧口寺などの日蓮上人像に牡丹餅を供える慣しになっている。ちなみにこの夫婦の墓は現在も尚この常栄寺、別名「ぼたもち寺」にある。

 余談ながら大町近辺には日蓮宗の寺院が非常に多く、いかに鎌倉時代に日蓮が活躍したかを雄弁に物語っている。

もひとつおまけに、私は長らくこの常栄寺に行けばいつでもおいしい牡丹餅が手に入ると思っていたのだが、それが見物人に供されるのは年にたったの一度なのであった。
狭くて小さなお寺だが、可憐な庭に四季折々の花が咲く。

Thursday, October 18, 2007

アントニン&ノエミ・レーモンド展を見る

アントニン&ノエミ・レーモンド展を見る

鎌倉ちょっと不思議な物語86回&勝手に建築観光25回

今日も仕事の運びがいまいちなので、久しぶりに県立近代美術館で開かれているアントニン&ノエミ・レーモンド夫妻の「建築と暮らしの手作りモダン」展(21日迄開催)に出かけた。

うららかな小春日和である。修学旅行の生徒たちが八幡宮の参道に並んだ露天に群がっていた。

展覧会ではレーモンド夫妻がわが国に遺した数々の建築やインテリアがたくさんならべられていて、見応えがあった。というより、こんな家なら住んでみたい、こんな家具なら欲しいと思わせる作品が、次から次に現れるのである。
私が思わず「この人がまだ生きているならぜひ家の設計をお願いしたい」とつぶやくと、美術館の隅に座っている職員が笑っていた。

これまで安藤選手だの、磯崎選手だの、亡くなったばかりの黒川選手だの数多くの有名建築家の作品を鑑賞してきたが、そんな気持ちになったのはこれが生まれて初めてだ。もっとも1888年生まれのアントニン・レーモンドは、すでに1976年に亡くなっているので、それは望むべくもない空しい夢なのであるが。

1919年に帝国ホテルの建設のためにフランク・ロイド・ライトとともに来日、大戦をはさんで戦前戦後40年以上の滞日生活の中で、アントニンは欧米と日本独自の和の伝統をきわめてデリケートに調和させた、優しく、美しく、しかもシンプルで機能的な建築とインテリアを創造し続けた。

和洋折衷というととかく曖昧で芒洋としたイメージで捉えられるかもしれないが、彼が各地で手がけた数々のカトリック教会の構成に顕著に見られるように、彼の作風は両者の特性を鋭くきわだたせながら、しかも相反する2つの要素をきわめて合理的、理知的にまとめているのである。

とりわけ軽井沢の夏の家や新スタジオ、笄町にあった自邸、一ツ橋にあったリーダーズダイジェスト東京支社、横浜にできるはずだった超モダンなフォード社の工場、現存する南山大学や群馬音楽センターなどの、まったくけれんみのない、生きた人間の肌のぬくもりを感じさせる建築たちは、あの東京クソミソタウンや、かの六本木あほばかヒルズなどの金満ガジェット高層仇花建築が跋扈する当節にあって、まさに一陣の清風が吹きすぎるような爽やかさと安らぎを感じた。

 現代の売れっこ建築家に欠如していて、レーモンドにあるもの。それは秘められた輝かしい知性と人間と世界に対する慎み深さ、一言で言うと上品なたしなみのこころであろう。

特筆すべきは妻ノエミ・レーモンドの家具・インテリアの出来栄えで、昨今流行のイタリアもの、北欧ものとは一線を画する、そのモデストでいぶし銀のような意匠は、夫の同様のデザイン思潮と内なるアンサンブルを奏で、彼らが琴瑟相和してつくりあげた1軒の住居からは、さながらカレル・アンチェルがチェコフィルを指揮する舞曲のような精妙な中欧音楽が流れ出る。

私は、建築とは「凍れる音楽」ではなく、春の小川のように絶えず流れ込み、私たちの頑ななこころを溶かす音楽であると、はじめて悟ったのだった。

追記
昨日の中原中也の最後の詩の4行目が欠けていました。お詫びして再掲載させていただきます。

四行詩
おまへはもう静かな部屋に帰るがよい。
爆発する都会の夜々の燈火を後に
おまへはもう、郊外の道を辿るがよい。
そして心の呟きを、ゆっくりと聴くがよい。

Wednesday, October 17, 2007

鎌倉文学館の「中原中也展」を見る

鎌倉ちょっと不思議な物語85回

仕事が行き詰ってしまったので、気分転換のために、鎌倉文学館で開催されている中原中也展(「詩に生きて」12月16日まで)に行った。

前回ここで中也の特別展「鎌倉の軌跡」が開催されたのは1998年だからあれからもう9年も経ったことになる。ああ、歳月の流れのなんと迅速無常なることよ!

 中也についてはこの日記でさんざん書いてしまったので、もう付け加えることなどないが、今回もまた彼が27歳の折に山口であつらえた黒いコートとお釜帽子が出品されたのでとても懐かしかった。

あの黒ずくめのダダ・ファッションで、すぐに死んでしまう富永太郎や平成の御世まで長生きした長谷川泰子と連れ立って京都の河原町をランボウとヴェルレーヌ気取りでまるで風来坊のように遊び歩いたのだ。

ところがこのコート、実はもともと他の色だったのを中也が黒に染め直したらしい。また袖の長さが異様に短く、中也はこんなに小男だったのかと改めて思った。

中也は昭和12年1937年10月に30歳の若さで、私が贔屓にしている清川病院(旧鎌倉養生院)で亡くなったが、その直前彼が郷里の母親フクに書いた手紙は、すでに死を予感していたにも関わらず、愛する母親を悲しませないために、「これからの私はの運勢はとても良いそうです」などと空元気を装って綴られており、読むものの涙を誘うが、もしかすると、彼は最後まで自己の再生と復活を基督のやうに信じていたのかもしれない。

 会場には同年9月30日に寿福寺のいまは失われた小さな借家で書かれた中也の絶筆がそっと展示されていた。

      四行詩
おまへはもう静かな部屋に帰るがよい。
爆発する都会の夜々の燈火を後に
おまへはもう、郊外の道を辿るがよい。

Tuesday, October 16, 2007

八雲神社に詣でる

鎌倉ちょっと不思議な物語84回

平安時代の永保年間(1081~84)に新羅三郎義光が、兄の八幡太郎義家を助けて清原家衡を征伐する「後三年の役」で奥州に下るため鎌倉に立ち寄った。

当時鎌倉では悪疫が流行していたために、これを救おうと京都祇園社を勧請して祈願したところたちまち悪疫は退散し、住民は難を逃れたという。そこで元は社号を祇園天王社と称していたが、明治以降八雲神社となった。

関東大震災によって倒壊し、昭和四年7月に新規造営されたのが現在の社殿だがその割には神さびて見える。境内左手には江戸時代に造営された4基の立派な神輿が収められ、7月7,8,9日の例大祭にはにぎやかに繰り出す。

すっかり都会化された鎌倉だが、まだお祭りやおみこしというと、辻ごとに意外に大勢の老若男女が参加しているようだ。

Monday, October 15, 2007

マンションとファッション

ふあっちょん幻論第6回&勝手に建築観光25回

戦後日本のファッション史を振り返ってみると、60年代の高度成長期は国産のナショナル・ブランド、73年の第1次石油危機以降の低成長期からは、三宅一生、川久保怜、山本耀司などが主導したDCデザイナー&キャラクターブランド、85年の円高ドル安時代から現在までが、ルイ・ヴィトンやグッチなど外資系ラグジュアリーブランドの時代という流れになる。この見取り図に照らすと、マンション業界の消費者MDはアパレルに比べ約30年の遅れということになるだろう。

戦後日本人の飽食暖衣は驚異的な発達を遂げたが、「住」の進化速度は遅かった。衣食と比べて住宅はお金がかかる。デザインなんて夢のまた夢。「立って半畳、寝て1畳」、とりあえず雨露さえ凌げればいい、というウサギ小屋からわれわれは再出発した。
それからまずはファションのDCブランドに血道をあげ、高度成長の波に乗りながら、徐々にグルメ、インテリア、そして最近の建築・建築雑誌の人気、デザイナーズマンションブームへとその美的・感性消費の選択肢を拡張していった。

その結果、手近なミクロ環境は、現代ファッションの洗礼を受けた消費者の鋭い審美眼に晒されることになったが、界隈性や景観デザインなどのマクロ環境は、最近大流行の都市再開発地域を含めてまだまだ顧客のウォンツを的確に捉えたものとはいえないだろう。

しかしマンション業界もようやく長すぎた冬眠から目覚めつつある。03年に神田神保町にできた三井パークタワー(トーマス・ボルズリー氏がランドスケープデザイン、佐藤尚巳氏が外観デザインを担当)や六本木ヒルズレジデンス(テレンス・コンラン卿担当)の外装をとくと眺めて見よ。いままで無視されていた広大な領域、見ていても見ないことにしていた暗鬱な灰色の領域に、突然カラフルな光線が差し込んだのである。

過去の普通のマンションが、生地屋で買ってきたドブネズミ色のズボンを身にまとって立っていたとすれば、これらの最新ビルはパリコレの影響を受けた色彩豊かなオーダーメードのスカートをはいておしゃれに闊歩している。ような気がしないだろうか?
外装のカラーブロック柄という発想は、いったん実現してしまえば、当たり前田のクラツカー(古い!)。最近では同じアイディアのマンションがあちこちに乱立して、おやおやと首を傾げたくなるが、それはそれとして、そんなに好評ならどうしてもっと昔からやらなかった、と言いたくもなる。しかし、西洋デザイン後進国の私たちはずいぶん遠い地点からゆっくりここまで歩いてきたのだ。

機能が満たされ平準化された商品は、一部のデフレ商品は別にして、デザインと装飾性によって自らを差別化するほかはない。外資系ラグジュアリーブランドからは、彼らの生命線である、デザインの楽しさと深さを、成功しているアパレルメーカーからは、多様な諸個人にフィットする柔軟なパターンオーダー製法の知恵を学ぶことが、当面のマンション業界の課題だろう。

なにはともあれ、我々庶民は、「仕事が終わればまっすぐに帰りたくなるマンション」に、一日も早く住みたいものである。

Sunday, October 14, 2007

ガルシア・マルケス著「愛その他の悪霊について」を読む

降っても照っても第66回

1949年10月、母国コロンビアで駆け出し新聞記者として活躍していたガルシア・マルケスが由緒あるサンタ・クララ修道院の地下納骨堂で見たもの、それはシエルバ・マリア・デ・トードス・ロス・アンヘレスの頭蓋骨から伸びた22メートル11センチの長さの赤銅色の乱れ髪であった。

周知のように、人間の髪は毎月1センチずつ成長するもので、それは死後も尚続き、200年間で22メートルというのはごく平均的な数値らしい。聖トマス・アクイナスが書いたように「髪の毛は体の他の部分よりもずっと生き返りにくいもの」であるようだ。

マルケスは若き日のこの鮮烈な体験は、子どものころ祖母によって聞かされた「12歳で狂犬病で死んだ、長い髪を花嫁衣裳の尻尾のようにひきずる侯爵夫人令嬢」の伝説と重なり、神父と聖少女、聖霊と悪霊が熱に浮かされたように交わる異様な愛の物語を生み出した。

狂犬病に冒されたはずなのに死なない美少女シエルバ・マリアは、6度の悪魔祓いに耐え抜き、異端審問所で有罪判決を受けた永遠の恋人を「きらきら輝く目をして、生まれたばかりのような肌のまま」待ち続けながらみまかるが、「その剃り上げられた頭骨からは新しい髪の毛があぶくのようにふきだし、伸びていくのが見られた」のである。

当節のへなちょこ恋愛小説をあざわらう世紀の大恋愛意物語に、とくと耳を傾けよう。


金木犀業火盛んに燃ゆるごと 芒洋

Saturday, October 13, 2007

エリア・カザン監督の「エデンの東」再見

降っても照っても第65回

エリア・カザンがスタインベックの原作を映画化したこの作品は、カリフルニア州の景勝の地モンタレーを主な舞台にしている。

現在のモンタレーはリタイアしたアメリカの超大金持ちが優雅に暮らしている快適なリゾート地であるが、その岩礁に打ち寄せる荒波をただ延々と映し出す冒頭の序曲(オーバーチュア)が旧約聖書の創世記に記された人類最初の殺人事件を想起させる不気味な始まり方をするのである。

エホバによってエデンの楽園を追放されたアダムとイヴにはカインとアベルの兄弟が生まれる。2人は父なる神エホバに供え物をするがエホバはアベルの供え物を喜んで受け取ったが、カインのそれをかえりみなかった。それを恨んだカインは、弟アベルを殺してしまったので、エホバはカインを「エデンの東」に追放したのである。
兄弟の役割はさかさまになっているが、この創世記第四章の逸話がこの映画の物語の原点にあることを忘れてはならない。

エホバと同様に理不尽に父親への愛と尊崇の心を退けられたカインの怒りと悲しみは察するにあまりあるが、カイン役に全身全霊で共感したジェームズ・ディーンの演技が素晴らしい。

特にディーンが父のために稼いだお金を誕生日に贈り、それが父親によって拒否されるシーンの演技は迫真的で、最後に父との和解を遂げた病室のラストと共に涙をさそう。

しかし絶望に駆られて逃走した兄アロン(アベル)、その許婚は、それからどうなったのか、原作を読んだことがない私には気になるところである。

Friday, October 12, 2007

大庭みな子著「七里湖」を読む

降っても照っても第65回

10歳のときに父に死に別れ、12歳のときに日本を去り、アメリカに渡り、母が死んだときも帰国することなく学業を続け、長じて後も日米を行き来しながら齢を重ね、二人の娘もアメリカで暮らしている女性を主人公にした著者の未完の小説である。
日本人やアメリカ人や数多くの親族や友人男女が次々に登場し、ひとしきり思い思いのアリアを歌っては、舞台から退場してゆく。
その舞台では照明はひとつずつ消えうせ、セリフはもはや客席に向かっては語られない。言葉も、呼び出される記憶も、思い出も、やがてモノローグも遠くかすかなものとなり、人も、友も、家も、土地も、愛も、浦島草も、古井戸の死体も、幻の湖も、ありとあらゆるものが霧に包まれ、夢か現かもはや誰にもわからならい無明の闇に沈んでいくのである。

果たしてこれは小説であろうか? 小説だとしても、その物語は生者によって語られているのか、それとも死者が綴っているのだろうか? そうであるともいえるし、そうでないともいえよう。

アラスカに10年以上も住んだことのある著者は、本書の最後の最後に、アラスカで熊に食べられた星野道夫について、こう語っている。

「熊は相手をほふるとき、先ずその内臓に鋭い歯を立てる。それは食欲というよりは、相手と合体し、天地と合体しようとする夢の行為のように思われる。星野さんの写真や文章に現れていたあの奇妙なもの、この地球の軸を揺り動かすような衝撃は、その熊の夢だったと私は知った。(中略)ところで星野さんはなぜ熊に食べられたのだろう。そのような生き方をしていたからだ。文学に生きるのもきっと同じようなものだ。」

Thursday, October 11, 2007

鎌倉の東勝寺跡を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語83回

「本朝高僧伝」によれば、東勝寺は13世紀の前半に三代執権の北条泰時が創建し、開山は退耕行勇となっている。

はじめ禅密兼修で、のちに純粋の禅となったかなりの大寺であったが、元弘三年1333年、新田義貞に攻められた北条高時以下の一族郎党およそ800人がこの寺に立て籠もり、火をかけたのちに切腹して果てた。
これが有名な“いちみさんざん”鎌倉幕府の滅亡である。

頼朝一族をはじめ私の大好きな三代将軍実朝や名だたる名門氏族を次々に陰謀によって滅ぼした陰険で暗い北条政権は、今は、この谷戸のいちばん奥まった暗いやぐらの奥にひっそりと眠っている。

なんでもあの俳優の高倉健氏の先祖がこのとき滅んだ北条一族ゆかりの人らしく、年に一度は以前ご紹介した宝戒寺に詣で、このやぐらに卒塔婆を立てられるそうだ。
目を凝らすと本当に真新しい“高倉”の文字があったので驚いた。 

このようにいったんは破却された東勝寺だが、その後再建され、暦応五年1342年には関東十刹の第五位、至徳三年1386年には第三位の座を獲得している。

むかしむかしいずれのおほんときにか、この東勝寺の裏山には弾琴松という松があって、風に響くその松籟が尋常ではなかったという。私はぬかるんだ山道を駆け登っ東奔西走すみずみまでその名松を尋ねたが、ついに見出すことはできなかった。

参考「貫達人著鎌倉廃寺事典」

Wednesday, October 10, 2007

♪ザルツブルグ音楽祭2006の「フィガロの結婚」を観る。

♪音楽千夜一夜第26回

衛星放送で昨年のモーツアルト生誕250周年記念ザルツブルグ音楽祭のアーノンクール指揮、ウイーンフィルの「フィガロの結婚」を視聴した。最初FMで聴いた時は序曲の乗りの悪さや特有のぎくしゃくした運びに抵抗を覚えたが、そのときの演奏とは違うのか、今回はまずまずの出来栄えだった。正確には、モーツアルトの音楽の邪魔をしなかった、というべきか。

このザルツブルグ音楽祭では、スザンナを演じたアンナ・ネトプレコが指揮者のアーノンクール以上の話題になったようだが、それなりの美貌、それなりの歌唱と演技、ということで世間がわあわあ騒ぐほどのことはない。
いずれおちつくところに落ち着き、世界中のオペラハウスで稼ぎまわったあとで消えていくだろう。カラスのような、デヴァルディのような歌手の偉大さは微塵もなく、単なる消費財として使い捨てられて終るに違いない。

それでも強いて言えば、ネトプレコの唯一の取り得は美脚であろう。男たちはみな彼女の脚下に膝まずき、そのふくらはぎに口づける。そうしてクラウス・グートの演出は、この美しい足に対してこだわることで全編に偏執的な奇妙な味わいをもたらしているのだった。

というのも、この「フィガロ」では、クリスティーネ・シェーファーが演じるケルビーノをのぞいて、アルマヴィーヴァ伯爵も、伯爵夫人も、フィガロも、スザンナも、性愛への欲望をむきだしにしているのである。登場人物たちは彼らの空虚な生に耐えられず、やたらと舞台のフロアにごろごろ転がり、覆いかぶさり、ネトプレコなどは得意の騎乗位?まで見せつけるのだからたまらない。モーツアルトが見たらいったいなんと言うだろう。

ところが驚いたことに、グートの演出ではモーツアルトご本人が、舞台のいたるところにしょっちゅう登場して歌手たちと絡む。両肩に白い翼を乗せたアマデオ(天使)の姿をして……。こんなのありだろうか?

第四幕のフィナーレはどんな凡庸な舞台をいつ見ても感動的だが、グートは、愛とやすらぎのうちに結婚式に臨む三組のカップルのうち、バルバリーナとしぶしぶ組み合わされたケリビーノだけが天使モーツアルトの祝福を拒否して、彼の次のオペラ「ドン・ジョバンニ」の主人公として再来することを予告するなど、まことにこざかしい。また彼の今回の演出では、三幕までの室内を本来の舞台である庭園の代用にしようとする機能主義むきだしの精神がよくない。

それらを含めて、すべてにおいて己の頭の良さそうなことをひけらかしているようなグートの演出は、聴衆が純粋にオペラを楽しむことを妨げ、見た目にもわずらわしく、ちゃんちゃらおかしく、結局は霊感に満ちた天才の音楽の素晴らしさに泥を塗っている。シュトラウスではないけれど、やはりオペラは音楽第一、歌手第二、最後に演出、で願いたいものだ。

かく申す時代遅れの私は、J.Pポネル以降のオペラ演出がどうにも苦手です。当節ではそれが完全に逆転して世界中であほばか演出家が我が物顔に振る舞っているが、あんな見世物に大金を払うくらいなら、家でCDを聴くか、舞台形式での上演に行った方がよっぽどましである。

最後に、歌手ではアルマヴィーヴァ伯爵役のボー・スコウフスの歌唱と演技が見事。ケルビーノを演じるシェーファーは完全なミスキャストでした。

Tuesday, October 09, 2007

「オズの魔法使い」再見

降っても照っても第64回

不気味な小人たち(その多くが身体障碍者だろう)が続々登場してジュディー・ガーランドを取り囲むシーンはその起用の無神経さとヒュウマニテイの欠如にいつも胸糞が悪くなるのだが、吐き気をこらえながら気力を奮い起こして「オズの魔法使い」を衛星放送で再見した。

アメリカ幻想小説の祖L・フランク・ボームの原作を「風と共に去りぬ」のヴィクター・フレミングが監督した本作は、フランスの詩人ネルヴァルの「夢は第二の人生である」という考え方からの影響を受けていると思われる。弱虫のライオンが「お前さんはライオンじゃなくてダンデリオン(フランス語で“たんぽぽ”、直訳すると“ライオンの歯”)じゃねえか」とからかわれるところにも、監督と脚本のおフランス趣味が表われているような気がする。

(昨日久しぶりに見た私の夢は、ライオンともたんぽぽとも関係なく、私の口の中のすべての歯がぼろぼろ取れていくという不気味なものであった。これは夢判断だとどういうことになるのだろうか?)

さて、フランスで活躍したアメリカ人といえば、なんといってもフランクリンであるが、偉大な科学者にして政治家、外交官そして“ヤンキーの父”でもあったこの怪物こそは、この映画の隠れた主人公である大学教授こと“オズの魔法使い”のモデルであろう。
フランクリンは凧を揚げて雷雲が帯電することを証明したが、カンザス州の牧場を襲う竜巻からそのめくるめくファンタジーを開始するこの映画は、90年代に盛んに製作されたトルネード映画の草分けともいえる。

フランス社交界で活躍したフランクリンは、アメリカ伝統の典型的な“ほら吹き男”として、当時の欧州で好意的に認知されたこともつけくわえておこう。フランクリン一流の白髪三千丈的な素晴らしいホラ話が、この映画のベースに横たわっている。

平凡な日常ではモノクロ、夢の世界では華麗な色彩の対比は非常に鮮やかで、主人公「カンザスのドロシー」は皮相な現実と夢魔にみちた“虹の彼方”を行き来するなかで成長して大人になる。
ジュディー・ガーランドの大人とも少女とも見分けがつかない不気味な顔をよく見よう。これこそが当時の“アメリカ合衆国の顔”である。 

この映画が製作された1939年に第二次大戦が始まったが、この国は1941年に突如日本帝国の闇討ちによって真珠湾を攻撃されるまで“虹の彼方”の理想を求めながら独り世界をさまよっていたともいえよう。

そして映画は、There is no place like home(家ほどいいところはない)、という大合唱で幕を閉じる。ウッドロー・ウイルソンやその後継者のセオドア・ルーズベルト大統領以来、世界の警察官を自負して世界中を侵略し続けている米国だが、これは戦争に疲れた帝国主義者の本音でもあるだろう。

もともとはモンロー主義が専売特許であったこの國は、いずれわが帝国と同様、中華人民共和国との歴史的争闘に敗れて、可愛いドロシーちゃんが待つカンザスの片田舎に名誉ある帰還を遂げるに違いない。

ちなみに太平洋の孤島サイパンのスローガンは、There is no place like Saipanである。

Monday, October 08, 2007

五木寛之著「私訳歎異抄」を読む

降っても照っても第63回

浄土真宗の始祖親鸞が入滅しておよそ25年、さまざまな教説が登場して教線が大混乱するなか、異説の跋扈を嘆き、真の親鸞の教えなるものを唱導するために弟子の唯円が著わした「歎異抄」を著者が自分流にほんやくしたのが本書である。

「歎異抄」はこれまでも多くの人たちによって読解されてきたが、五木版のそれは知と情を兼ね備えた達意の名訳であると思った。

「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」という有名な悪人正機説のくだりも、「いわゆる善人、すなわち自分のちからを信じ、自分の善い行いの見返りを疑わないような傲慢な人々は、阿弥陀仏の救済の対象ではないからだ。ほかにたよるものがなく、ただひとすじに仏の約束のちからから、すなわち他力に身をまかせようという、絶望のどん底からわきでる必死の信心に欠けるからである。だが、そのようないわゆる善人であっても、自力におぼれる心を改めて他力の本願にたちかえるならば、必ず真の救いをうることができるにちがいない」
とじつにわかりやすく胸におちる。

悪人正機のみならず、念仏と往生、阿弥陀仏への帰依と絶対救済、他力本願など親鸞の基本的な考え方はなぜか不信者の私の心にも沁みとおった。

巻末に付された五味文彦氏の解説は短文ながら、南都北嶺の弾圧に耐えて関東、東国に力を伸ばしてきた法然、親鸞の布教活動を取り巻く承久の乱前後の情勢について私たちの理解を深めてくれる。

Sunday, October 07, 2007

加藤典洋著「太宰と井伏」を読む

降っても照っても第62回

何度も何度も作品を読み、考え、そして論理とひらめきの端子を辛抱強くつむぐことによって編み上げられた精巧な織物のような文芸評論である。

周知のように、太宰は1948年6月に玉川上水で山崎富枝と心中したが、それまでに都合4回の自殺未遂と心中を繰り返している。

しかしいずれの場合も左翼運動の行き詰まりや、生家からの除籍と結婚生活への不安、生家からの仕送りの打ち切り、妻の裏切りなどでその原因がはっきりしているが、唯一成功した最後の試みの原因だけが、以前深い謎に包まれている。

事実前年の「斜陽」で一躍洛陽の紙価を高からしめた太宰は、当時超人気の流行作家で、ひところの睡眠薬やアルコール中毒の後遺症からも脱し、少なくとも外見からは死ぬ理由などひとつもなかった。

それなのに太宰は「人間失格」を書いて死ぬ。そしてそれはなぜか?と著者は問うのである。

作者は「人間失格」をはじめ太宰治の当時の作品や生活、とりわけ恩師井伏との対立関係などを詳細に分析し、新しく敗戦が彼にもたらした戦争の死者への同情と後ろめたさ、またそれと拮抗するように再び呼び出された、「忘れたい、そして忘れがたい人間の記憶」が、彼を死に突き動かした最大の要因であると指摘している。

「ひとからなんと思われようと、おれは生きる」といったんは決意して小山和代と別れたはずの太宰は、しかし「純白の心」を持つ死者たち、すなわち

 大いなる文学のために、死んでください。
自分も死にます、この戦争のために。

と、太宰に書き遺して死んだ若き弟子たちとの約束を果たすために、あの三島のように潔く自死したのである。

この本では、太宰とその恩師井伏の晩年の角逐についても詳しく紹介されている。

どんなに汚れた心に身を堕しても、したたかに生き延びる頑強な生活者である井伏に多大の恩義を感じながらも、太宰は、最後の最後の瞬間に反旗を翻して、「家庭の幸福は諸悪の本」という純白の御旗を勇ましく打ち振りながら死地に乗入れた。

飼い犬に激しく手を噛まれた渡世の達人井伏は、内心忸怩とした気持ちで最愛の弟子を見送ったにちがいない。

さらに著者は、三島と太宰は同じ死に方をした、と本書で断じている。
彼らは、平和と民主主義と幸福と豊かさと醜い大人の処世術というものにまみれた彼ら自身の戦後の薄汚い生き方をどうしても許容できず、己の手で己を切断する道を選んだというのである。かててくわえて、三島の恩師川端までも、三島の「純白の心」からの糾弾を受けて後に自死を遂げている。

太宰の遺書と考えられる「人間失格」の丁寧な読み直しから記述されるこれらの考察はきわめて論理的で説得力に富む。

しかし、確かに太宰の晩年の心境が「ギリギリのところで正直に語られている」作品だとしても、その次に書かれた、太宰の本当の遺作にして絶筆の「グッドバイ」は、いささか「人間失格」の世界とは異なる心境が披瀝されているように私には感じられる。

太宰は「人間失格」においてドンズマリに陥った即死状態から懸命に身を起して、ふたたびこの汚れた人間共魑魅魍魎どもが跋扈する穢土に雄雄しく居直り、もういちど生き直そうとしていたところ、運命の女との突然の遭遇によって不慮の死を遂げたのではないだろうか?

成熟した大人がこの世で生きることの苦しさと馬鹿馬鹿しさとユーモアとペーソス……。太宰の未完の最後の作品「グッドバイ」は、ヴェルディの最後にして最高のオペラ「ファルスタッフ」に似た独自の世界の端緒を創造することに成功している。

もしも太宰が、彼一流のファルス、人間喜劇の新しい物語を見事に歌い終えていたならば、彼はもはやけっして自死への誘惑に身を任せることはなかっただろう。

とまあ、著者の驥尾に付して勝手なことを書き連ねてしまった私だが、本人ならぬ私たちが死んでしまった人の死因をあれやこれやと臆面もなく想像し、とやかく議論することなど不遜であるばかりか、そもそもその作業自体が不可能なのではないだろうか? 

もしそうだとすれば、本書の著者の最初の問いかけ自体が虚妄であるというほかはない。

Saturday, October 06, 2007

07年9月の歌

♪ある晴れた日に その14

海からの風はかすかに鼻をさし今年の夏はいま逝かんとす

梓川青き流れに座しおればマガモの家族餌をねだり来る

飛騨高山上三之町の軒下に咲いていたのは天青の花

ひともとの白き芙蓉の花残しきたみ工房引っ越しにけり

らあらあときょうも賛美歌うたいつつ白髪の老人橋上に立つ

イタリアの脳天気テノール死にたれば地球は少し暗くなりたり(パヴァロッテイ死す)


大本営の秘密漏らさず逝きにけり (瀬島龍三死す)

季語のない俳句をひとつよみました

叱られて今日はどこまでゆくのでしょう

天青のなかに海と空がある

どうしても好きになれない人がいる(安倍退陣)

須賀線に身を投じたるカンナかな

クワガタの肉に食い入る痛さかな

おタマより手塩にかけし蛙かな

名月や世に格別のこともなし

けふもまた蝶よ花よで日が暮れる

紋白蝶に纏わりつかれるうれしさよ

てふてふは未来のために生きている

マンジュシャゲに願を掛けるか揚羽蝶

Friday, October 05, 2007

鳥越碧著「兄いもうと」を読む

降っても照っても第61回

鳥越碧という作家が「兄いもうと」という本を書いたので、読んでみるとなんのことはない正岡子規と律の兄妹物語だった。

子規の壮絶な晩年を母の八重と共に、妹の律が献身的に支えたことは広く知られているが、その家族愛の根底に“秘められた男女の愛の絆”を想定したことが本書の大きな特色であろう。

確かに律の観点から兄の短すぎた晩年を描こうとすれば、“単なるきょうだい愛を越えた異性愛”という“いまどき風の異色のファクター”を導入したほうがドラマチックな展開になるのは知れたことだが、その根拠は、お話を面白おかしくしようとする著者の読者サービス精神以外のどこにあるのだろう?

律の性格や看護について「仰臥慢録」にいくばくかの記述は出ているが、自伝のどこにも立ち昇った形跡のない薄煙を、まるで業火のように針小棒大化して、さながら近代深層心理小説のようにとくとくと書き継ぐ著者の神経に私は疑問を抱いた。

もっともあの江藤淳だって、悪妻が漱石を毒殺しようとした、なぞと本気で考えていたわけだから、当たらぬも八卦かもしれないが、ともかく私はこんな妄想的想定自体が想定外に不愉快だった。そんな小手先のテクニックを使わなくても最後の第九章などは十分に感動的な読み物になっている。

余談ながら、私は子規の小説より、俳句より、短歌より、お得意の写生文よりも、彼が激痛の合間に描いた水彩画が好きだ。

草花を画く日課や秋に入る 子規

Thursday, October 04, 2007

藤原伊織著「遊戯」を読む

降っても照っても第60回

最近亡くなった藤原伊織の遺作「オルゴール」と同じく未完の短編連作「遊戯」全5編が収められているが、やはり後者の雄大な構想と読み進むにつれて高まるスリルとサスペンスが心に残る。

登場人物は人材派遣業種に勤務する30代の男性と、ネットで知り合った20代の女性、その二人を脅かす謎の中年男という設定だが、著者は得意とするインターネットや広告・モデル業界やテレビCM制作現場の知見をフルに活用して、平成十九年の御世に棲息する同時代人の、格別面白くもない日常を平凡に生きる喜びと悲しみを知的に抑制された筆致で淡々と描き出していく。

しかしそれだけではなく、この物語では、パソコンゲームや派遣ワーカーやワインや道玄坂のバーやホテルや冷たい拳銃や銃弾やバイオレンスなどの、いかにもありそうな道具立てが手際よく点描され、いまどきの若い男女がクールに交わす乾いた双方向コミュニケーションの情景が上出来の風俗画のように次々に繰り広げられ、読者の心をしっかり捉えて離さない。

恐らくは全編の半分の道程で静かなること山の如きこの見事なサスペンス心理大作が著者の死によって永遠に途絶してしまったことは、まことに残念至極である。

しかし旧弊な人である私は、この作家が叙述文の中で頻繁に使用する、「なので」といういまどきの話し言葉がとても気になった。やはり味噌と糞とは区別しなければなるまい。

Wednesday, October 03, 2007

マリー・アンジェリック・オザンナ著「テオ もうひとりのゴッホ」を読む

降っても照っても第59回

兄である画家ヴィンセントと画商である4歳年下の弟テオの双生児的・同性愛的関係を、テオにスポットライトを当てながらその全生涯を丹念に回顧したイストワールが本書である。

ゴッホ、ゴッホというけれど、長兄ヴィンセントが誕生したのは、あのペルリが黒船で浦賀にやって来た嘉永6年だからまあつい最近の話である。

そもそもゴッホ家は先祖代々の篤信家で、父親は新教の熱心な牧師であったが、その真似事までやった兄と違い、テオはキリスト教の教義を激しく疑っていた。

しかしこの兄弟はときおりの喧嘩や行き違いがあったものの、まさに一身同体の人生を歩むことになる。

兄弟は一族の遺伝である精神病を二人ながらに患ったこともある。また兄が一時画商の見習いを勤めたように、弟も画家を志した時期もあった。二人はまるでシャム双生児のように、分離される前のベトちゃんドクちゃんのように、心身ともに依存しあいながら、「ぼくらの作品」を共同で制作しながら病で倒れ、短かい生を激しく燃焼しつくして彗星のようにこの世を去ったのであった。

よく知られているように、兄ヴィンセントは1890年7月、37歳でオーヴェールでピストル自殺するが、その直接の死因はテオが毎月150フランの仕送りを保証できないと兄に告げたためだった。当時ヨハンナと結婚し愛児ヴィンセントが生まれたばかりの弟は、パリの画廊グーピル商会の支配人であったが、昇給を認めず、印象派の絵画に無理解で保守的な考え方の画廊経営者と激しく対立し、あまつさえ梅毒の後遺症が心身を蝕んでいく懊悩を抱えるなかで、兄の援助を放棄してグーピル商会を辞して独立しようとひそかに考えていた。唯一の庇護者である弟の窮状を察知した兄は、それが最善の方法であると確信してみずからの胸に弾丸を撃ち込んだのだった。

たつきを失い、最愛の弟をヨハンナとヴィンセントに奪われたと感じていた兄に残された選択は、自死しかなかったのである。兄の死に大きな衝撃を受けた弟の病状はいっきに悪化し、錯乱して妻子に暴力を振るうようになる。

1890年11月18日にユトレヒトの精神病院に入院したテオは、絶望に打ちひしがれた若き妻子を残して、あのフランツ・シューベルトと同じ31歳、同じ病(梅毒末期の全身麻痺)で翌91年1月25日に息を引き取った。

テオの忠実な友ピサロの嘆きの言葉や、めったに人を褒めないゴーギャンの「テオが狂った日に私も終った。私はもうどうやって絵を売っていいか分からない」という言葉が、数多くのヴィンセントの作品とともにあとに残された。

それにしても当時誰一人として認めようとしなかったゴッホの作品とその悲惨な生涯の意味と価値を、生前もうひとりのゴッホが、

「もう兄さんは治らないだろう。彼のした仕事は無駄にはならないが、実を結ぶことはないだろう。世の中が彼が絵の中で語っていることを理解するころにはもう遅いのだ。彼は最も先を行く画家であり、最も理解しがたい作家だ。彼の思考は世間の常人から遥かに隔たったところにある。だから彼の言いたいことを捉えるにはまず既成概念からすっかり解放されなければならない。理解されるとしてもずっと後世になってからだろう」

と的確に予言していたわけだが、その「理解の時期」はテオが想像したよりも意外に早かった。

ヴィンセントの真の復権と輝かしい栄光の日々は、1953年の彼の生誕100年を期してテオの息子ヴィンセント・ウイレム・ヴァン・ゴッホが祖父の作品展を開催した日にはじまったのであった。

Tuesday, October 02, 2007

杉本観音の自転車屋さん

鎌倉ちょっと不思議な物語82回&遥かな昔、遠い所で第21回

肌寒い雨の中を、神中運輸の産廃運搬車がぼろぼろになった自転車を運んでいった。

あれは確か25年前のことだった。2万5千円くらいしたブリジストンの最新型のかっこいいやつを杉本観音下の自転車屋で買ってやったのだが、少年が喜び勇んでどこかに乗って行ったら、いきなり誰かに盗まれてしまって、二度と出てこなかった。

それを知った自転車屋のおじいさんが、
「それはお気の毒だったネ。代わりにこれでも持っていきなされ」
というて譲ってくれたのがその自転車だった。

もとよりオンボロ自転車だったが、以来五年、一〇年、そして25年の歳月が流れ、少年は大きくなってとっくの昔に遠い町に行ってしまったので、もっぱら私が彼の自転車に乗ることになった。

私はいつも雨ざらしのために褐色にさびついたオンボロ車を駆って鎌倉中を疾駆し、いつでもどこでも鍵を掛けずに停めていたのに、今度は誰も盗まないのだった。たった一度だけ一晩放置していた間に消えうせたことがあったが、それは放置自転車狩りに遭ったとみえて東勝寺の脇の市の自転車置き場で見つかった。

おじいさんはその自転車がパンクしたり、ベルが取れたり、チエーンが外れたりするたびに何度も何度も無料で修理してくれ、よほど大きな修理でも200円を超えるお金はびた一文受け取らなかった。私が無理矢理500円玉をそのしわくちゃの手に握らせようとしても断固として拒否したものだった。

いつもきたない作業着を着て、無数の自転車や中古オートバイと油とゴミにまみれ、いつも腰を正確に45度に折ったまま、ビュンビュン車が走り去る道路の傍にしゃがみこんで修理していたおじいさん。
一日で幾らの収入があったか分からないけれど、靴屋のマルチンのごときその質朴で真面目で正直な仕事ぶりはいつも変わらなかった。
ある日のこと、またしても自転車がえんこしたので、私が杉本観音までえんやこら、えんやこらとひっぱっていくと、お目当てのおじいさんの姿はどこにも見当たらなかった。

店の奥から息子さん(といっても4、50代だが)が出てきたので、「おじいさんはどうしたのですか?」と尋ねると、「去年の2月に交通事故に遭って亡くなりました」という返事に、私は絶句した。

自転車を丁寧に診察してくれたその息子さんも、父親に似て質朴で真面目で正直な職人で、「これはすぐには直らないので修理が終ったら私がおたくまで届けます」と約束し、翌日修理の終ったボロボロ車をピカピカに磨いて自動車に乗せて玄関口まで運んでくれた。料金はたったの100円であった。

おじいさんが亡くなってしまったその自転車屋さんは、その息子さんとその息子さんの息子さんの2人が跡を継いで、いつも道路脇の溝の上に腰を下ろして夢中で修理している姿を見かける。

 けれども私の自転車は、今回はもう修理どころではなかった。チエーンが劣化してとろとろになり、走るたびに外れてしまう。いよいよこれで御用済みだと思い切り、ついに涙を呑んで廃車にすることにしたのである。

長い歳月を共にしたおんぼろ自転車を積んだトラックが、雨の和泉橋を右折して走り去るその後姿を、私はしばらく見詰めていた。

Monday, October 01, 2007

紅葉山やぐらと東勝寺橋

鎌倉ちょっと不思議な物語81回

宝戒寺の奥には昭和8年1933年に発見された「紅葉山やぐら」がある。

この附近のやぐらは鎌倉・室町の上層階級の墳墓と考えられているが、ここからは五輪塔、納骨堂、さらに海蔵寺と同様の十六井戸が見つかった。

そして平成11年1999年の大崩落の際に、神奈川県教育委員会の調査で、ここが北条執権ゆかりの納骨個所であることが確認された。

紅葉山やぐらに渡る橋から滑川の下流を眺めると、鎌倉で現存する最も古い赤くて瀟洒なな東勝寺橋が見える。

最近これを味けないコンクリート橋に架け替えようとする計画が発表されたようだが、四季折々の見事な景観を維持するために、どうかこのままにしておいてほしいものである。