Tuesday, October 23, 2007

ある丹波の女性の物語 第3回

 祖父も私を乳母車に乗せて歩きたいと、シキリに願ったそうであるが、早くから頭をゆさぶると頭に悪い影響が出ると許さず、余程してから籐製の大きな乳母車を東京から取り寄せた。ベルトで本体を宙吊りにしてあり、脳へ響かぬよう工夫した当時では最新型のものであったそうである。

不要になってからは倉庫の天井にぶら下げてあったが、戦時中、私の長男のために充分使用出来た程、頑丈な物であった。この乳母車を祖父が街々をひいて歩いてくれると、方々から沢山のお菓子をもらうのが例であったが、私は気に入った上菓子でないと、もらったその場で「チヤィ」といって捨ててしまうので祖父は非常に困ったそうである。

 その事も何となくおぼえているようにも思うけれど、幼い日の最初の記憶は、泣いている私をおんぶして夜の街を歩き回っている父の姿であり、おんぶされている私自身の姿である。
外は真っくら、街灯の明るさだけ、ガラス窓にうつる父と子の顔、ねんねこ半纏のオリーブ色の銘仙の色、黒いビロードの衿をハッキリ覚えている。冬の夜更け、夜泣きする私をしかたなしにおぶって歩いたのであろう。涙にうるんで見えるだいだい色の街灯の色、ねんねこ半纏のオリーブ色、私の最初の色への記憶である。

 いつ頃からか、タンスの上段の底に、赤いリンズに白のふち取りをした、よだれかけ、赤いちりめんのお守り袋がしまってあるのを見つけたが、その事にふれるのが何となくはばかれて、何度もソッと見るだけにしていた。

それは横浜の家から持って来たのだと、後で知ったが、母は大事にしまっていてくれたのだと、母の私への思い、心くばりを感じる。
 私が両親の実子でない事を、おぼろげに知ったのは、小学校低学年の頃かと思う。隣が伊藤という乾物屋で、そこの主人が「愛子ちゃんは東京生まれやから。」と何かの時にいったのを、何となく誇らしいような気持ちで聞いた覚えがある。
別に悲しくもなかった。前から何となく感じていたのかもしれないが、両親の愛にみたされていたからに相違ない。

♪五月晴れ さみどり匂う 竹林を
ぬうように行く JR奈良線    愛子

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