降っても照っても第59回
兄である画家ヴィンセントと画商である4歳年下の弟テオの双生児的・同性愛的関係を、テオにスポットライトを当てながらその全生涯を丹念に回顧したイストワールが本書である。
ゴッホ、ゴッホというけれど、長兄ヴィンセントが誕生したのは、あのペルリが黒船で浦賀にやって来た嘉永6年だからまあつい最近の話である。
そもそもゴッホ家は先祖代々の篤信家で、父親は新教の熱心な牧師であったが、その真似事までやった兄と違い、テオはキリスト教の教義を激しく疑っていた。
しかしこの兄弟はときおりの喧嘩や行き違いがあったものの、まさに一身同体の人生を歩むことになる。
兄弟は一族の遺伝である精神病を二人ながらに患ったこともある。また兄が一時画商の見習いを勤めたように、弟も画家を志した時期もあった。二人はまるでシャム双生児のように、分離される前のベトちゃんドクちゃんのように、心身ともに依存しあいながら、「ぼくらの作品」を共同で制作しながら病で倒れ、短かい生を激しく燃焼しつくして彗星のようにこの世を去ったのであった。
よく知られているように、兄ヴィンセントは1890年7月、37歳でオーヴェールでピストル自殺するが、その直接の死因はテオが毎月150フランの仕送りを保証できないと兄に告げたためだった。当時ヨハンナと結婚し愛児ヴィンセントが生まれたばかりの弟は、パリの画廊グーピル商会の支配人であったが、昇給を認めず、印象派の絵画に無理解で保守的な考え方の画廊経営者と激しく対立し、あまつさえ梅毒の後遺症が心身を蝕んでいく懊悩を抱えるなかで、兄の援助を放棄してグーピル商会を辞して独立しようとひそかに考えていた。唯一の庇護者である弟の窮状を察知した兄は、それが最善の方法であると確信してみずからの胸に弾丸を撃ち込んだのだった。
たつきを失い、最愛の弟をヨハンナとヴィンセントに奪われたと感じていた兄に残された選択は、自死しかなかったのである。兄の死に大きな衝撃を受けた弟の病状はいっきに悪化し、錯乱して妻子に暴力を振るうようになる。
1890年11月18日にユトレヒトの精神病院に入院したテオは、絶望に打ちひしがれた若き妻子を残して、あのフランツ・シューベルトと同じ31歳、同じ病(梅毒末期の全身麻痺)で翌91年1月25日に息を引き取った。
テオの忠実な友ピサロの嘆きの言葉や、めったに人を褒めないゴーギャンの「テオが狂った日に私も終った。私はもうどうやって絵を売っていいか分からない」という言葉が、数多くのヴィンセントの作品とともにあとに残された。
それにしても当時誰一人として認めようとしなかったゴッホの作品とその悲惨な生涯の意味と価値を、生前もうひとりのゴッホが、
「もう兄さんは治らないだろう。彼のした仕事は無駄にはならないが、実を結ぶことはないだろう。世の中が彼が絵の中で語っていることを理解するころにはもう遅いのだ。彼は最も先を行く画家であり、最も理解しがたい作家だ。彼の思考は世間の常人から遥かに隔たったところにある。だから彼の言いたいことを捉えるにはまず既成概念からすっかり解放されなければならない。理解されるとしてもずっと後世になってからだろう」
と的確に予言していたわけだが、その「理解の時期」はテオが想像したよりも意外に早かった。
ヴィンセントの真の復権と輝かしい栄光の日々は、1953年の彼の生誕100年を期してテオの息子ヴィンセント・ウイレム・ヴァン・ゴッホが祖父の作品展を開催した日にはじまったのであった。
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