Saturday, May 31, 2008

2008年皐月茫洋詩歌集

2008年皐月茫洋詩歌集


♪ある晴れた日に その28


そんなの関係ねえとパンツ男が叫ぶたび叫ぶたびにぷつんと切れる世界とのつながり

自動的に人間にピントが合うという新型カメラを私は買うまい

まずは蝶、次には花と水と土この順番にフォーカスしなさい

講義ではスーツを着てくださいねと言われし真意を忖度しているこの1ヶ月

俳句は諦観とリリシズム短歌は小さな私小説であるよ 

またしても5月3日がやってきたとく天皇制を廃止せよ
 
善ちゃんから経済学部進学を相談されたときあまり親切ではなかったなあこの私

一晩中寝ながら短歌を詠んでおったが朝になるとすべて忘れてしまった

ふとしたはずみで喧嘩して、ふとしたはずみで人殺す それが世の常人の常
 
しつこく上空を旋回しているセスナ機を撃墜したくなる金曜の朝 

大阪の喫茶店の入口で接吻していたロダンの彫刻

心血を注いで描きし作品を二束三文で叩き売るかな

基次郎に触発されし檸檬の絵ドイツ人コレクター安く買いたり

ひとつ描きひとつ売れまた描き続く絵描きの暮らしは過酷なるかな

売ればもう二度とは返らぬ息子の絵命削りて今日も描きおり

道端のすべての塵を拾いあげ、ひとつずつ河に捨てているのはうちの耕君

道端のすべての塵を拾いあげ、河に捨ておるわが子いとおし

「どっちのイアリングがいい」と妻が息子に聞いている

階段を怒涛のように駆け下りる息子のせいで我が家が揺れる

「へーつと」とよく言いし祖父の言葉をいま孫が言う「へーつと」と

妻と子は横須賀の歯医者に出かけわたしは授業の準備をしている

気象庁も予報士もみなうそつきだお詫びと訂正くらいせよ

わがブログに死ねと書き込む人がいてその黒き心我をも黒くす

わがブログに死ねと書き込む人がいてかたじけないがまだその時にあらず

おやおやさかさに振ってももう一滴も歌が出てこないぞ

漆黒のアスファルトを突き破りドクダミの花今年も咲きたり

おそらくはカルバンクラインならむ香水を四囲に振りまく男を憎む

日本人に体臭無ければそとくにの強き香水身にまとうなかれ

10歳若き知り合いが社長になった人の才知は見抜けぬものよ

かつて愚鈍と思いし後輩が大会社の社長になる人の才知は見抜けぬものよ

妻はバタ私はヒラですれ違う横浜栄のプールの真ん中

母上がこよなく愛で給いたるライラックの花今年も咲きたり 

黒揚羽五月一日生まれなり

われに来てしばし物言ふ黒揚羽

今朝もまた鶯の歌で目覚めたり

いざともに交尾致さむ揚羽蝶 

翡翠の午睡を破る川下り 

逆さに振っても歌湧いてこず

耕は泣きムクは鳴いたよ神社の麓で

桐藤ラベンダーわれに優しき薄紫の花

流れよ みこし どんぶらこ

山で生まれたヤマカガシ
山から川へドドシシドッド
山で生まれたヤマカガシ
川から海へドドシシドッド

Thursday, May 29, 2008

1945年8月の鎌倉文士

鎌倉ちょっと不思議な物語130回

先日、鎌倉文学館主催の極楽寺・稲村ガ崎周辺の文学散歩の驥尾に付して歩きました。

長く鎌倉に住んでいますが、極楽寺を訪問したことはあるものの、その近辺を歩いたことなぞ一度もないので道々もの珍しいことばかり。あちらこちらをぶらついてきました。

なんでもかつて極楽寺界隈には、文学者の中山義秀、評論家の中村光夫、詩人の三好達治、田村隆一などが住んでいたそうです。針磨橋という橋を左に曲がってしばらく行くとあの「厚物咲」の作者中山義秀が、そして橋を過ぎてまっすぐ行くと三好達治と中村光夫が道路の左側に住んでいて、大岡昇平を交えた4名の交流がしばらく続いたようです。

中山の家に大岡昇平が遊びに行くといつも中山は熊の皮を敷いた六畳間で昼寝したいたそうです。朝寝して宵寝するまで昼寝して時々起きて居眠りをしていたんでしょうな。

1945年の8月、6日の広島に続いて9日に長崎に新型爆弾が落とされた日の翌日、中村光夫は田山花袋論を書いていると、昼寝から目覚めた中山義秀が白米2升を抱えてやってきました。

中村が感謝して受け取り「死ぬときは白米くらい食って死にたいからな」というと、中山は「まったく(日本は)ひどいことになったね。ソ連なんてなんだい。まるで火事場泥棒じゃないか」と非難しています。その前日の8月8日にソ連が満州に侵攻していたのでした。

♪ふとしたはずみで喧嘩して、ふとしたはずみで人殺す それが世の常人の常 茫洋

Wednesday, May 28, 2008

滑川に落ちた愛犬ムク 

♪バガテルop59&鎌倉ちょっと不思議な物語129回


きのう滑川を歩いていて、思い出したことがあります。

今を去る10年ほど前、愛犬を散歩させていた私は、ふと油断した隙に、年老いて既にそこひを病んで盲目になっていたムクを、あろうことか足元の滑川に墜落させてしまったのです。

ドさっと鈍い物音が聞こえ、あわてて下を見ると薄茶色の綿毛が浮いた人間に換算するとおよそ80歳になんなんとするその老犬は、固い岩盤の上に座り込んでおろおろとうろたえています。

「おい、ムク、大丈夫か」と声をかけましたが、ムクはワンとも答えず、がたがたと震えておりました。もしかするとどこかに大怪我をしてしまったのではないか? 突然の衝撃で、このまま死んでしまうのではないだろうか?

すまなさと自責の念に駆られた私は、きっと青ざめていたと思います。しかしこうしてはいられない。すぐに自宅にとって返して真鍮の梯子を持ってきましたが、短すぎて川底まで届きません。

仕方がない。えいやっと飛び降り、恐怖と不安で震えている盲目のムクを抱きかかえ、急いで手足を調べてみましたが、幸いなことにどこも怪我などをしていない様子。やれやれこれで命だけは取り留めた、と私は思わず天に感謝したことでした。

そうこうするうちに頭上が急ににぎやかになってきました。近所の住人たちが妙な場所にいる私たちを案じてのぞきこみながら、
「あら、まあ、ムクちゃんじゃないの。いったいどうしたの」
などと口々に声をかけてくれます。

事情を察した“しまわん”さんが、すばやく家にとってかえして、大きくて長い木の梯子を道端から川底まで降ろしてくれたので、私はムクをしっかり胸に抱えながら一段一段そろそろと上にのぼりました。長い間お風呂に入らないムクの体は思いのほか重く、獣のにおいがぷんとしました。

やっとの思いでガードレールを乗り越えると、私はムクと一緒にどうと道路に転がり落ちましたが、ムクはなんとか無事に生還したのでありました。メデタシ、メデタシ。
しかしその後、私が飼い主の健君と家内にひどくおこられたことは申すまでもありません。

その後ようやく元気を取り戻したムクは、どこからともなく現れた三毛猫子と同棲しておりましたが、それから数年経った2002年の2月に天寿を全うし、WANNG!と一声発して地上の星となったのでありました。



ひとつ描きひとつ売れまた描き続く絵描きの暮らしは過酷なるかな 茫洋

Tuesday, May 27, 2008

滑川を歩く

♪バガテルop58&鎌倉ちょっと不思議な物語128回

昨日の続きで極楽寺界隈の話を書かなければいけないのですが、今日の午後、滑川(なめりかわと呼びます)にハヤの群れが気持ちよさそうに泳いでいたので、それをデジカメで撮影しようと身を乗り出した途端に、ポロシャツの胸ポケットに入れておいた携帯が5メートル下の川岸に落ちてしまいました。

 幸い水中には落下しなかったので、飛び降りようとしましたが、足を折らずに着地したとしても這い上がるすべがなさそうです。やむをえずずっと上流の私の家の前の橋から降りて、うねうねと回流している川をおよそ500m下流に向かって歩くことにしました。あの十二所神社のおみこしを流したといわれている滑川を、です。

原稿の締め切りが迫っているし、草取りの後片付けもあるし、ははの家の電気工事の立会いもあったのですが、背に腹は変えられません。家からハシゴや長い布切れを持ち出し、ゴム長に履き替えて橋桁からえいやっと滑川に飛び降りました。

川幅は1mから3mくらいの狭さですが先日の増水で川の流れが速く、深さは浅いところで5cm、深いところで30cmくらいですが、ところどころに暗渠や小さな滝もあって歩きやすいとはお世辞にもいえません。道路の上では細君も心配そうに見守っていますが、こうなれば前に進むしかありません。意を決した私はどんどん川の中を歩き始めました。

 お日様が上空からかっと照りつけてはいますが、初夏の爽やかな風が全身を包んでくれるので意外に快適です。ゴム長でじゃぶじゃぶ前進していくと、驚いたハヤや藻屑蟹たちが急いで岩陰に姿を隠します。目の覚めるような群青色に輝く翡翠も敏捷な身のこなしを見せながら下流に逃げていきます。
私はだんだん愉快な気分になって大股に初夏の滑川を移動して行きました。

じつは私がもっとも恐れていたのはこの川に生息している蛇と蜂でした。アオダイショウやヤマカガシなどは、手にした木の枝で簡単に追い払うことができますが、産卵期のマムシはきわめて獰猛で、下手に向かっていくとまるで空を飛ぶように牙を剥きながら襲い掛かってくるので気をつけなければいけません。

またスズメバチも鬼門です。なぜなら既に2回彼らに刺されているハチ毒超敏感症候群の私は、3度目には生命の保証はできないと医師に警告され、エピペン注射液を処方されているからです。

しかさいわいにも1匹の蛇さんややスズメバチさんに遭遇することなく、目的地までたどり着き、携帯を拾って無事に元の地点まで戻ることができました。めでたし、めでたし。
最後に、いつもこのようなドジをやらかす私に対してホトホト呆れ返りながらも、仕方なく協力してくれるわが細君に衷心より感謝申し上げる次第です。

♪翡翠の午睡を破る川下り 茫洋

Monday, May 26, 2008

極楽寺を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語127回

極楽寺は真言宗の名刹である。正嘉年間1257-59にひとりの老僧が深沢に草堂を建て、阿弥陀如来像を安置して極楽寺と称していた。老僧亡き後正元元年1259年に北条義時の三男重時がそれを現在地に移したといわれている。

弘長元年1261年にその重時の子長時(六代執権)と業時兄弟が当時多宝寺に入山していた忍性を招いて開山した。忍性はここで施薬院、悲田院、施益院、福田院の四田院を設け、不幸な人を救済するための福祉事業に取り組んだ。人間だけでなく、病気や年老いた牛馬の面倒をみる病舎も建てるなど、ボタンティアの先駆者ともいえる徳の高い僧侶で、人々からは医王如来と崇められていたそうだ。さらに橋を架けるなどのト公共土木工事にも力を入れていたことはあまりにも有名である。

極楽寺は完成当時は七堂伽藍と四十九の塔頭を誇る大寺院だったが、いくたの自然災害や火事に見舞われ、現在残っているのは文久3年に建てられた本堂のみであるが、境内に残る製薬鉢や千服茶臼は鎌倉時代の遺物であり、往時をありありと想起させる。

以上お馴染みの「鎌倉の寺小事典」より引用しましたが、今から30年前に私が一目ぼれをした好個の木造家屋がこの近所にあり、諸般の事情で購入には至りませんでしたが、もしかするとこの近辺に住んでいたかもしれないと思うだに極楽寺は懐かしいお寺なのです。

山門を仰げば「芝棟」が。これは昔の日本の農家にあった茅葺の屋根の上にユリ、キキョウ、ニラ、アイリスなどの植物を茂らせるという植物と建築の一体化の手法ですが、これが極楽寺にもあったとは思いがけない発見でした。

本堂に向かう参道の右側には、薪をうずたかく積みあげた民家があり、電気に頼らずこれで暖房する心意気を感じさせてくれます。境内は狭いながらもどこか風雅で格調の高い古拙の趣きがそこここに感じられ、じつに心が休まるよいお寺です。境内が撮影禁止なのもわが意を得たりであります。


♪売ればもう二度とは返らぬ息子の絵命削りて今日も描きおり 茫洋

Sunday, May 25, 2008

萩原延壽著「自由のかたち」を読んで

照る日曇る日第125回

60年代のわが国にはまだ革新勢力が存在し、時折保守勢力を脅かすに足る活動を行なっていた。そしてここには、もしも彼らがもう少し政治家として有能で国民の心をつかむ技術を備えていたら、その後わが国は今日とは180度異なる道を歩んでいたかもしれないことを思わせる「古き良き時代」におけるいくつかのエッセイが並んでいる。

70年安保を実体験することなく英国の留学から帰国した著者は、英国労働党首のゲイツケルの政治哲学に感銘を受け、わが国の社会主義運動に対してもほのかな期待を寄せていたが、革新政党を名乗る彼らが、むしろ保守政党に比べても言葉の本質において革新的(ラジカル)ではないことを痛感して絶望し、次第に遠ざかっていくのだが、筋金入りの孤独な自由主義者が歩み去るその後姿は妙に寂しい。

当時著者は「中立主義」についても論じていた。著者によれば、中立主義とは敵と味方の間に存在する硬直した壁を取り払い、その空間に「妥協」という政治的果実を結晶させようとする不断の努力をいうのだが、この前途多難な中立主義こそが当時の革新政党ないし革新日本が目指すべき理想主義的な進路であったと振り返るのである。

爾来40有余年、日米同盟の鉄鎖で自らを縛りつけ、いまなおじぶん自身を定位させえず、ために他者他国からの自由と自立を獲得できないまま、いたずらにナショナリズムの炎を胸に熱く燃やし始めたこの国にとって、萩原流中立主義など夢のまた夢というべきだろうか。

私はこの頃の日本がますます嫌な國になってきたように感じられてならない。著者がいうように、わが日本国憲法の第22条には、国籍離脱の自由がうたわれている。私たちのほとんど大部分は、日本人であることを自覚的に選択したわけではない。出生という偶然によって日本人であることを余儀なくされているケースが大半ではないだろうか。

そこでこの際私たちの未来には、3つの自由の地平が広がっていると考えてもいいだろう。ひとつはいろいろあっても、なんとかやりくり我慢して改めてこの国に留まることである。二つ目は、かつて幕末の志士が藩という小国を飛び出したように断固国外のどこかへ出て行くことである。そして最後に、国内亡命という第三の道もあるのではないだろうか。

いずれにせよ、改めて日本を選びなおしてみたいと思う今日この頃である。

♪大阪の喫茶店の入口で接吻していたロダンの彫刻 茫洋

Saturday, May 24, 2008

めまぐるしい所有権者の変遷

鎌倉ちょっと不思議な物語126回 十二所物語その3

徳川時代の十二所の地主は誰だったのだろう。

再び「十二所地誌新稿」によれば、村高67貫181文のうち64貫156文を分けて十二所村および山之内の建長寺・東慶寺などの社寺領に寄付し、残る3貫25文を徳川氏直轄とし、代官がこれを管していたという。

嘉永5年1852年には、そこが彦根藩の井伊掃部守領となり、安政元年1854年には山口候松平大膳太夫、同6年に熊本候細川越中守、文久3年1863年には佐倉候堀田鶴之丞に移属し、慶応3年1867年代官所管、さらに廃藩置県の翌明治5年1872年にはいったん韮山県所管となり、同年12月にようやく神奈川県所管となった。

十二所神社の階段の上にある石門には文久3年の銘が刻まれているから、恐らく佐倉候の堀田氏によって建立されたものだろう。その十二所神社の社寺領は明治4年1871年になって国家に返上したが、その後地券交付によって戻されたという。

さらに第2次大戦の敗戦後は、農地は没収同様に買い上げられてしまい、昭和二十年1945年そこを農作していた者に払い下げられたというからかなりでたらめな所有権の移動だったに違いない。

♪妻と子は横須賀の歯医者に出かけわたしは授業の準備をしている 亡羊

Friday, May 23, 2008

ミハイル・ブルガーコフ著水野忠夫訳「巨匠とマルガリータ」を読む

照る日曇る日第125回

面倒くさいので帯の腰巻から引用すると、モスクワに突如出現した悪魔の一味が引き起こす謎に満ちた奇想天外な物語が本作である。さらに本屋の惹句によれば、20世紀最大のロシア語作家が描いた究極の奇想小説ということになっていて、まあ当たらずとも遠からずの迫力と読み応えがある。

捕囚のナザレ人ヨシュア、ユダヤ駐在ローマ第5代総督ポンティウス・ピラトゥスなどが紀元前後のゴルゴダの丘に登場するかと思えば、現代都市モスクワに歴とした悪魔やしゃべる黒猫共が出現し、お得意の黒魔術のショーや開催されて偽のルーブリ札が天から降り注ぎ、百鬼夜行の悪魔の大舞踏会やらがワルプギルスの夜に派手に挙行され裸の魔女が箒にまたがって夜空を飛んでいく。と書けばおおよその輪郭がつかめるだろう。

ワルプギルスといえばベルリオーズだが、その音楽家と同じ名前の作家の首がモスクワの市電に轢かれて道路をころころ転がっていくところからこの綺談は始まり、満月の夜に睡眠薬を注射されて眠る狂人イワンの夢で全巻が閉じられる。ドストエフスキーではないが、神が不在なら大審問官か悪魔か、はたまたただの人間がこの世を統治するしかないのだが、作者は悪魔による統治の壮大なシミュレーションを途中で放棄して、世界を再び人間の手に返還しようとした地点で擱筆している。

ヴォルテールは、「もし神が存在しないなら、神を創造しなければならない」、というたが、ブルガーコフは「神も悪魔も自分が創ろう」といい、いうただけでなく、実際にそれをこの小説でやろうとしたのである。その意図たるや天晴れ壮大ではないか。

最初から最後までが作者の無果てぬ夢であり、過去も現在も、現在も未来も、神も悪魔も、正義も悪も、過酷な現実も琥珀色の夢もすべての実在と非在を内包しながら作者の巨大な幻想が驀進していく。そしてその先には大いなる徒労と無限の虚無が待ち受けているのである。

♪道端のすべての塵を拾いあげ、河に捨ておるわが子いとおし 茫洋

Thursday, May 22, 2008

タベルナで食べた

♪バガテルop57&鎌倉ちょっと不思議な物語124回


今日も「イタリアン」の続きです。

海からの薫風に吹かれて極楽寺から稲村ガ崎まで歩いたあとで、タベルナ ロンディーノ(TAVERNA RONDINO)というイタリア料理屋さんで妻とランチをしました。TAVERNAというのは食べるなではなく、イタリア語で「大衆食堂」「田舎風の小洒落たレストラン」という意味です。RONDINOはたしかツバメではなかったでしょうか。ご存知の方は教えてくださいな。

ここはなんでも裏駅の江ノ電改札口の隣、御成商店街のたもとにあるCafe RONDINO のオーナーが1980年に国道134号線沿いに開いたお店だそうで、亡くなった詩人の田村隆一氏がかつてこの近所に住んでいて、よく食事に来たと聞いたので、散歩がてら足を伸ばしたのです。Cafe RONDINOは私がサラリーマン時代の最後の最後にニッポン放送の営業担当氏(彼も鎌倉在住でした)と打ち合わせをした思い出の場所なんです。

さてタベルナのお味ですが、私は人一倍味覚が鈍くて、なにを食べてもおいしく頂く人間なのですが、肉も魚もシラスパスタもリゾットもとても美味でした。今度は青池さんや健君も誘って訪れたいと思います。


十三秒間隔の光り       田村隆一

新しい家はきらいである
古い家で生まれて育ったせいかもしれない
死者とともにする食卓もなければ
有情群類の発生する空間もない
「梨の木が裂けた」
と詩に書いたのは
たしか二十年前のことである
新しい家のちいさな土に
また梨の木を植えた
朝 水をやるのがぼくの仕事である
せめて梨の木の内部に
死を育てたいのだ
夜はヴィクトリア朝期のポルノグラフィーを読む
「未来にいかなる幻想ももたぬ」
というのがぼくの唯一の幻想だが
そのとき光るのである
ぼくの部屋の窓から四〇キロ離れた水平線上
大島の灯台の光りが
十三秒間隔に                 『新年の手紙』より


♪「へーつと」とよく言いし祖父の言葉をいま孫が言う「へーつと」と 茫洋

Wednesday, May 21, 2008

ドナ、ドナ、どーなの

ドナ、ドナ、どーなの

♪バガテルop56

昼前に中野坂上の学校に行く。駅前のドナという名前のパスタ屋に入って790円のパスタセットを食べていたら、隣の客が煙草を呑みだした。あわてて店長に禁煙席はどこだと聞いたら、「んなものありません」とかなんとか小さい声でむにゃむにゃ言いつつ蟹のように横歩きしながら消えていく。

そのうちに反対隣の客まで煙草を吸い始めたので、息を止めながらサラダとパスタとコーヒーを一気飲み喰いしてレジに直行、「もう君の店には二度と来ない」と告げて近所の公園に逃走した。

久しぶりの快晴である。やれやれと深呼吸したら、またしても煙草の煙を吸い込んでしまった。あたりを見回すとまたしても喫煙者が……。
私は学校めがけて一目散に走り出した。

ロンドンのパブも、サンフランシスコのレストランも、パリのカフェですら禁煙になったのは、喫煙が立派な病気であり、ニコチン中毒を経て多くの人の健康を損ない、死に追いやる災厄であるばかりか、その被害が周囲の非喫煙者をもまきこんでしまうからだ。

喫煙者は緩慢な自殺を実行しているわけだが、それは本人の自由だとしても、他人を巻き添えにすることだけはやめてほしい。それは緩慢な他殺行為であるからだ。そうした事情を知りつつ禁煙席すら設けないでいるとしたら、ドナは殺人に加担しているといえなくもない。


♪「どっちのイアリングがいい」と妻が息子に聞いている 茫洋

Tuesday, May 20, 2008

哀悼 ニコルの松田さん

ふあっちょん幻論第20回&遥かな昔、遠い所で第71回

ビルマではサイクロン、中国では四川大地震で多数の死傷者が出ている。亡くなられた方々には謹んで哀悼の意を表すとともに、なんとか一人でも多くの人命が救われるようにと祈っている。そして狭量で独善的な政治権力が、自己保身のために国際的な救助の手を拒否して自国民を人身御供にすることだけはやめてほしいと願わずにはいられない。

 地震や災害がなくとも人間はどんどん死んでいく。そして人の死は生きているものになにがしかの思いを形見のように届けながら冥界の彼方へと没していく。

昨日の夕刊にニコルのデザイナーの松田光弘さんが肝細胞ガンで亡くなられたという訃報が出ていたのを目にして、私ははしなくも松田さんの謦咳にただ一度だけ接したことがあったのを思いだした。

もう数十年も昔のこと、私が原宿にあった会社で広報活動を担当していたとき、突然「ミセス」という雑誌の編集長のHさんから電話がかかってきた。「今から5分後に松田さんからあなたに電話が入るからよく話を聞いてください」というので「分かりました」と答えて待っていると、すぐにニコルの松田さんから電話がかかってきた。やわらかくソフトなバリトンだった。

用件というのはちょっと風変わりで、当時私の大嫌いな読売巨人軍(だいたいスポーツ団体に軍隊の名前をつける人間の脳髄自体が狂っている)を解雇されたばかりのクロマティという三振ばかりしてぶんぶん黒丸みたいなアメリカ人の巨砲選手が、どういうわけだかファッションビジネスに関心があり、近くクロマティ・ブランド?を立ち上げるので、その相談に乗り、できたら協力してあげてほしい」というのであった。

そういうことなら専門家であるあなたの方がよほど適任であろうといいたかったが、これにはなにか事情もあるのだろうと思った私は、とりあえず松田さんの要望に応えてクロマティ氏に会うことになった。何を隠そう、当時の私はニコルのメンズのスーツが好きだったのである。

「ありがとう。じゃあ、よろしく」というすっかり肩の荷を降ろした氏の声を電話越しに耳にしたのが、それこそ一期一会、今生の別れとなったのだから、面白うてやがて哀しきは人生の常であろうか。

翌日ジェーン・マンスフィールド似の美人秘書を従え、アルマーニの高級スーツに身を包み意気揚々とわがプレスルームに乗り込んできたクロマティは想像以上の巨漢であったが、この国においてクロマティ・プレミアムブランドを成功させるのは至難の業であることを1時間半に渡って縷々私が説くと、黒い大男は額から玉のごとき大粒の汗を流し、時折諾諾と肯いつつ、最後には鄭重な謝辞と共に去っていった。

爾来幾星霜、ジェーンとクロマティの行方は、杳として知られない。



♪おそらくはカルバンクラインならむ香水を四囲に振りまく男を憎む 茫洋

Monday, May 19, 2008

鎌倉の1000年

鎌倉ちょっと不思議な物語123回 十二所物語その2

十二所の上古の事蹟ははっきりしないが、奈良時代の聖武天皇の御世に藤原鎌足の子孫染谷太郎太夫時定がここ鎌倉に居住し、のちに平貞盛の孫上総介直方がここに住み、源頼義が相模守となってこの地に住した。その子の直方が女を娶って道家を産み、その後子孫がこの地に代々住むようになり、鎌倉は源家相伝の地となったのである。

下って平治元年1159年に源義朝が相模守となり、治承4年1180年に頼朝が大蔵に幕府を開いたが、元弘3年1333年には新田義貞の手で瓦解して朝廷に返上、建武2年1335年には足利尊氏がこの地を占拠して、正平6年1351年に足利基氏の領地となるのだが、彼の幕府は浄明寺と十二所の中間地点にあった。自宅から歩いて数分の距離である。

その後数世紀にわたって関東方の領地となった鎌倉は、後には山の内上杉氏に属し、さらには三浦義同の治下となり、義同が小田原の北条早雲に滅ぼされてからは北条氏(後北条)の支配下に置かれることとなった。

 天正18年1590年、その北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされてからは徳川家康の領地になったことは関東地方と同断である。


階段を怒涛のように駆け下りる息子のせいで我が家が揺れる 茫洋

Sunday, May 18, 2008

どくだみの花

♪バガテルop55&遥かな昔、遠い所で第70回

日経の「私の履歴書」に谷川雁の実兄で民俗学者の健一氏がたいへん興味深い回顧録を連載しておられる。

氏は熊本県水俣に生まれ育ったが、3歳のときに近所の寒村からやってきた田上トセという当時12歳の子守の思い出を後年になって振り返り、彼女が80歳を越える年齢で亡くなったときに、次のような心に残る歌を詠まれた。

幼き日に乳母に背負われ嗅ぎたるは洗はぬ髪の燃えたつ匂ひ

どくだみの花揉みしだかるるゆふやみの庭の匂ひに乳母恋ひにけり

乳草の葉より滴る白き汁をてのひらに受け乳母と遊びき

乳草の愛を習ひし乳母ひとり身まかりゆきし夜の果てのこと

どくだみの花や乳草の汁のしたたりは、私の少年時代の生と性のくらがりの奥でも、いつも懐かしくひっそりと匂っていた。

そういえば、私の生家でもトセさんのような存在があった。小学生の頃、バスで1時間以上も奥に入った上林村から女中さんを迎えて家族と共同生活を送っていたのである。
私たち3人のきょうだいは、年上の彼女と一緒になって家事や家業を手伝ったり、児童公園で野球をして遊んだりしたものだ。

ある日の食卓で、おりょうさんというその女性が、たぶん私の両親の仲の良さについて何気なくからかうと、普段はおとなしい父が、「こら、おりょう!」と強く叱りつけたことがあった。

思いがけない叱責に驚き、首をすくめたおりょうさんの顔が突然真っ赤にあからみ、耳や首のつけねまでもがみるみる充血していくさまを、私たち3人のきょうだいはびっくりして見つめていた。

おりょうさんは私の実家に5,6年いたはずだが、おそらく私の祖父の口利きでお見合いの話があり、結婚して幸せな家庭を築いたようにぼんやり記憶しているが、おりょうちゃん、今頃どこでどうしているだろう。


♪漆黒のアスファルトを突き破りドクダミの花今年も咲きたり 茫洋

Saturday, May 17, 2008

期間限定ワグナーセット

♪音楽千夜一夜第35回

たまにはコンサートに行きたいと思うのだが、「音楽の友」などを眺めていてもろくなものがないし、あってもべらぼうな値段であるからしてルンペンプロレタリアートの私にはとうてい懐にそんな余裕がないし、よしんば無理に出かけて行っても右隣の男性の体臭や鼻息やら(一息ごとにフガアア、ムガアアと破裂音をあたりに発してやまぬ煙草臭いオヤジの首を絞めてやりたいとこれまで何度思ったことだろう)、左隣の若い女性の醜からぬ容貌やら立ち昇る香水の匂い(ちなみに体臭の薄いか皆無に近い日本人に油くさい西欧人のワキガ消し用に開発された濃厚な香水なぞサントリーホールでも電車でもはたまたフランスベッドでもまったく無用の長物、臭覚に敏感な男性は必死で吐き気とめまいをこらえているのだよ)やら、時折演奏中になり始める携帯の呼び出し音などが絶対に気になるし、期待して行っても大半のコンサートは感銘率1%以下であることがあらかじめ統計的に分かっているし(小沢とN響はゼロ%)、どうせあとで録音や放送やDⅤDになるだろうし、そんなことなら近所で一生懸命に歌う鶯のさえずりを聞いたり、朝比奈峠でようやく成熟のときを迎えたオタマジャクシと遊んだり、太刀洗の渓流でたわむれるモンキアゲハの飛翔に見入っていたほうがよほど清涼されるに決まっているので結局は出不精を決め込んでいる私だが、たまたま新宿のタワーを覗いてみたら、偉大なるワグナーの代表作品を33枚に収めたデッカのCDコンピレーションセットを9000円で売っていたので,愛用の赤くて小さな手帳を取り出してちびた鉛筆をなめなめ割り算してみたら、なんと@272円と判明したのですぐさま懐中の全財産をはたいて買って家に帰って開いてみたら、これみなバイロイトフェスティバルのライブ録音ばかりで、ベーム翁の指輪やトリスタンとイゾルデを目玉に、レバインのパルシファル、サバリッシュのオランダ人、ローエングリン、タンホイザー、バァルビゾのマイスタージンガーのいずれもが全曲録音で揃っていたので、クラーバーを凌ぐ名演奏・名録音のトリスタンだけは手持ちとダブリになってしまったが、それもよくあること、モーツアルトほどではないにせよ私が愛してやまないリヒヤルトの傑作をこれから1枚1枚なめるように聴いてやろうと思っただけでもうれしくなって、窓を開ければまたしても鶯が「ホーホケキョ」とうれしそうに鳴いたのであった。

善ちゃんから経済学部進学を相談されたときあまり親切ではなかったなあこの私 茫洋

Friday, May 16, 2008

レーモンド・カーヴァー著「英雄を謳うまい」を読んで

照る日曇る日第125回

村上春樹氏が翻訳するレーモンド・カーヴァー作品は、いずれも面白く読ませてもらったが、その最終巻であるこの本は、初期の短編や詩、挫折した長編の断片や書評やエッセイやスピーチ原稿などのいわば壮大な寄せ集めで、であるがゆえの面白さももちろんあったけれど、やはりいささか物足りなかった。

格別の感想はないが、以下印象に残ったくだりだけをメモしておこう。

カーヴァーのみならずエリオットやウイリアムズやへミングウエイやイエーツの文学上の師であったエズラ・パウンドは、「叙述の根本的な正確さ、それこそが文章における唯一無二の道義である」と述べたそうだが、なんとなく分かるような気がする。

その正確さの水準器を作家が持ち合わせていれば、の話だが。

聖テレサという373年前に生きていた傑出した女性は、こう語ったそうだ。

「言葉とは行為を導くものです。言葉は魂に準備をさせ、用意を整えさせ、そしてそれを優しさへと動かすのです。(Words lead to deeds----they prepare the soul,make it ready,and move it to tenderness.)」



♪講義ではスーツを着てくださいねと言われし真意を忖度しているこの1ヶ月 茫洋

Thursday, May 15, 2008

♪山から海へドドシシドッド

鎌倉ちょっと不思議な物語122回 十二所神社物語その7


十二所神社の境内には、山ノ神を祀った石祀がある。

右側の祠のものは宇佐八幡で、以前林相山の宇佐の宮にあったもの、その左は疱瘡神を祀ったものである。村人たちは疱瘡にかかることを恐れていた。

その左にある比較的新しい一祠は神社のこの土地を寄進した大木市衛門、すなわち地主神を祀った。

私が現在住んでいる場所も、昔はこの大木一族の土地であり、元は鎌倉石を切り出した跡を田圃にしていたところに小さな家を建てたのであるが、整地をしている大工は、岩場の穴からうじゃうじゃ現れる無数のヤマカガシを取り除くのに大童だった。

さしものヤマカガシも、最近はようやく姿を消してしまったが、新築当初は私たちがネンネグーしている枕元にも現われ、私の好きなエルガーの「愛の挨拶」を歌ったのであった。

ヤマカガシたちは愛犬ムクの遊び相手になったり、健君のマフラーになったり、大木一族の跡取りの格好のおもちゃになったりしてから、家の前を流れる太刀洗川にドボンドボンと捨てられ、下流の滑川にぷかぷか浮かびながら由比ガ浜の河口までゆるやかに南下して、次々に相模湾に流れ入り、ついには広大な太平洋へ乗り入れたのだった。

そうして十二所村の悪がきたちは、ノドチンコもあらわに声をそろえて歌ったものだ。

♪山で生まれたヤマカガシ
山から川へドドシシドッド
山で生まれたヤマカガシ
川から海へドドシシドッド

あれら無数の蛇たちの霊よ、安かれ!


♪いざともに交尾致さむ揚羽蝶 茫洋

Wednesday, May 14, 2008

神社と力士

鎌倉ちょっと不思議な物語121回 十二所神社物語その6

「十二所地誌新稿」によれば、むかし葉山の森戸神社の祭りに呼ばれた力士が、ついでにわが十二所神社にやってきて相撲を取ったそうだ。

そのとき、力士の一人がひよいと手を伸ばしたら稲荷小路(十二所神社から相当離れた一角)まで届いたという伝説がある。まあそれはまゆつばであるとしても、大正時代には子供たちが境内で相撲に興じていたというから、神社と相撲は浅からぬ縁で結ばれていたとみえる。

その証拠に、十二所神社の境内には、百貫石と呼ばれる重さ28貫(112キロ)の卵石があり、それを担ぐのを村の青年たちが自慢したそうだ。

地元の力持ちの伊藤源五郎さんは、なんと48歳まで担ぐことができたというが、軟弱な私などほんの1寸すら持ち上げることができない。


♪逆さに振っても歌湧いてこず 亡羊

Tuesday, May 13, 2008

♪流れよ みこし どんぶらこ

♪流れよ みこし どんぶらこ

鎌倉ちょっと不思議な物語120回 十二所神社物語その5


神社では当番を決めて毎晩灯明をあげていた時期があったそうだが、その札がいまなお伝えられているそうだ。町内会長さんのお宅にでも保管されているのだろうか?

しかし私はなにを隠そう、町内会長も町内会も苦手だ。このゲマインシャフトは、そのほとんどが旧住民の絆によって結ばれていて、たかだか30年の浅い町民歴しかない私などにはとうてい入り込めない古参連中の寄り合いだ。なにせその源流は、鎌倉時代にまでがさかのぼるのだから。

きっとかういう旧態依然たる村落共同体が江戸時代の封建制度を支え、すぐる大戦中の銃後の大政翼賛制度をがっちり支えたし、来るべき平成帝国ファシズム体制が確立されたあかつきにも、定めしけなげに支援するのであらう。

いかん、遺憾、またしてもあらぬ方角に筆が滑った。早く本題に戻ろう。

先日祭りとみこしのことを書いたが、十二所神社には昔はいまよりもずっと立派なみこしが備わっていたが、維持が大変なので川に流したそうだ。

それを大町の八雲神社で拾い上げて祀った。それで両神社の関係ができて、八雲神社の神職が十二所神社を兼務することになったという。また一説には小町妙隆寺前にあったテンノウ畑に埋めたともいう。

去年この二つの神社と寺院について書いたときには、そんな逸話は知らなかった。
確かに八雲神社には豪奢なみこしがたくさん安置されている。ある時期まで八雲神社の神職が十二所神社を兼務していたのはほんとうのことで、どうしてだろうといぶかしく思っていた私だが、なるほどこれで得心がいったが、待てよ、あんな小さな滑川に重いおみこしを放り込んで、下流に流れるものだろうか?

猛烈な台風のときだって到底無理だろう。では、村の名士である大木利夫氏の証言は虚偽であろうか? いや江戸時代以来の名代の庄屋がそんなでたらめをいうはずがない。

と、私の心は春の嵐のやうに乱れに乱れるのであった。


10歳若き知り合いが大社長になった 人の才知は見抜けぬものよ 茫洋

Monday, May 12, 2008

兎とバラモン

鎌倉ちょっと不思議な物語119回 十二所神社物語その4


神社のきざはしを昇って向拝正面を遠望すると、そこには1匹の兎が彫られているのだが、この兎について「十二所地誌新稿」は中村元氏の「東西文化の交流」に出てくる次のような説話を引用して解説している。

インド説話に出てくるお釈迦様の前身の菩薩は、実は兎であった。菩薩は兎の家に生まれて森の中に住んでいたそうだ。

兎には猿と山犬とかわうその3匹の友達がいて、この4匹はいつも仲良く暮らしていた。めいめい自分の猟場で食物をとって夕方にはみな1つところに集まるのが常であった。
賢い兎は、3匹の友達に、「われわれは施し物をし、戒律を守り、身をつつしんで正しく作法を行なわなければならない」といつも説くのであった。

ある日1人のバラモンが来て「食物をください」と言うた。しかし兎は施す食物を持っていなかったので、「私の肉を火で焼いてそれをあなたにあげるからゆっくり森にいてください」と言うた。

さうして燃え盛る薪の山の中に飛び込み自分の体を犠牲にしようとしたのだが、不思議なことに兎の体は焼けなかった。というのは、そこに来ていたバラモンは、実は帝釈天というインドの神で、兎を試すためにそのような姿にやつしていたのであった。

帝釈天は、「賢い兎よ、お前の天晴れな行いは広い世界中に知らせてやらねばらぬ」と言うて1つの山を押しつぶして、その山から出た汁で月の面に兎の姿を描いた。そうして兎を藪の中のやわらかい草の上に寝かせてやって、自分は天の世界の宮殿に帰っていった。

月の中に兎がいるというのは、ここから出た話であるが、この説話は日本に入ってさまざまな物語を生んだ。

「十二所地誌新稿」の著者は、「神話に兎が慈悲深いものとして出てくるのも、これに起源を有するのではあるまいか。そうとすれば十二所権現の建設者は偉大なる人である」と結んでいるが、けだし至言である。

わがブログに死ねと書き込む人がいてかたじけないがいまだその時にあらず 茫洋

Sunday, May 11, 2008

川尻秋生著「揺れ動く貴族社会」を読む

照る日曇る日第124回

17年間千葉博物館で学芸員を務めていた元昆虫少年によるこの平安時代概説は、貴族たちの和歌を歴史資料として活用したり、当時の天変地異の影響を論じたり、武士の残酷さを実証したり、考古学・歴史地理学・民俗学・植物学などの学識を自在に駆使しておもちゃ箱をひっくり返したような意外さと楽しさがいっぱい詰まった型破りの通史である。

9世紀末から10世紀はじめにかけて、天皇の朝政の場が公的な場から私室に移行する。それと期をいつにして貴族のイエが成立し、「族」から「氏」、「公」から「氏」へと社会の構成原理が移動するにつれて、権力が公正さを失い、やがて日本および日本社会に根強くはびこる公私混同の源泉がそこに生まれた、と説く著者の説は、なかなか興味深いものがある。

藤原氏と血縁関係のない宇多天皇が彼らを排除して政治の事件を握ろうと天皇の子飼いの近臣を周辺に集めようとしたが、そのホープであった菅原道真が宇多を欺き、宇多の子である醍醐天皇を廃そうと暗躍したことが、結局道真の大宰府左遷に繋がったことも、著者によって私ははじめて知った。なんのことはないアマちゃんの道真は、自分で墓穴を掘ったのである。

著者はまた、平安時代は遣唐使がつかわされ、唐風文化が吹き荒れた時代であるが、それは天皇の服装にも露骨に表われ、聖武天皇と光明皇后は神事には伝統の白服でのぞむが、重要な儀式では中国皇帝を真似たカラフルな皇帝色の衣冠を身につけるという使い分けを余儀なくされるようになった、ともいうのである。

その他、興味深いさまざまな知見がてんこもりである。

御霊信仰に篤い日本は、弘仁元年810年から3世紀半にわたって死刑が執行されなかった奇特な国であること、源氏の祖先である源義家はきわめて残虐な性格であったこと、万葉集の梅は古今和歌集で桜に変わったこと、寝殿造りの内部は昼なお暗かったが、逆に部屋からは外部がよく見えるので、このことが貴族たちを四季の移ろいに敏感にさせ、それがまた「古今集」や「源氏物語」の成立に大きな」影響を与えたこと、藤原道長の栄光と御堂流の成立は大いなる偶然の産物であること、秦氏の氏神である松尾社の祭礼では田の神を祀るための呪術的なパフォーマンスである田楽が催され、このいかがわしい田楽師たちは諸国を放浪し遍歴していた自由民であったこと、平安京は戦乱や災厄、伝染病による死者に満ち溢れ、そのためにケガレという観念が生まれたこと、と同時に天皇が支配する領域の外はケガレに満ちた空間である、というグローバルなケガレ観も誕生し、それは新羅など朝鮮半島の国々に対しては適用されたが、唐や宋など超大国中国に対してはついに適用できず、そのトラウマが現代にまで及んでいること、しかしながら悪化する新羅との緊張関係が、平安時代の王権に「日本=神国」なる奇怪な幻想を生み出し、ついに神功皇宮・応神天皇と八幡神を同体とみなして「八幡神=皇祖神」というでたらめな神国日本イデオロギーを早くもこの段階で用意していたこと、そして最後に、承和5年838年最後の遣唐使である円仁の波頭を超えた求法の旅……、

などなど、少々選択と集中性には欠けるかもしれないが、無風の時代とよく誤解される平安時代への、大胆かつ博物学的なアプローチを随所で楽しめる好著である。

♪桐藤ラベンダーわれに優しき薄紫の花 茫洋

Saturday, May 10, 2008

十二所神社物語その2

鎌倉ちょっと不思議な物語118回

さて十二所神社は、神を祭る本殿と拝殿から成り、鳥居・神楽殿も備えたこぢんまりとした神社である。境内は森の麓にあり、春夏秋冬お宮としての感じが好ましい。

鎌倉石によって築かれた神寂びたきざはしも格調があるが、その下に据えられた2基の灯篭も恐らく江戸時代の造りだろう。じつに立派で趣がある。

もうだいぶ昔のことになるが、我が家の耕君がこの近所で遊んでいたとき、どうしたはずみだか、向かって左側の灯篭の笠石の上に乗っているこの重い玉石が、彼の左足の上に落下して大怪我をしたこともあった。

さぞや痛かったであらう。きっとワンワン泣いたことであらう。愛犬ムクももらい泣きしてワンワン鳴いたことであらう。

往時茫茫、その苔むした鎌倉石を見上げながら、いつも想うのである。

神域は明治初年の神仏分離の際に、いったん国有地として召し上げられたが、大日本帝国の敗戦後に無償払い下げを受けて神社の所有地になった。神社仏閣は明治前には神仏混淆、つまり権現であり、神職も社僧として両者を兼務していた。したがって明王院の恵法法印がその職にあったとしてもおかしくはなかった。

しかし御一新の神仏分離によって社と寺とははっきり区別されるようになり、かくて十二所神社は独立をとげたのであった。

♪耕は泣きムクは鳴いたよ神社の麓で 茫洋

Thursday, May 08, 2008

祭礼の夜

鎌倉ちょっと不思議な物語117回

十二所神社を現在地に移す仕事をしたのは、明王院の住持恵法法印で、神社棟札は明王院に伝えられている。

例祭は毎年9月8日から10日にかけて行なわれる。祭日には大人と子供のおみこし2基が出た。私は神社の隣の借家に住んでいながら、いつも不参加だったが、妻が二人の男の子にかわいらしい法被を着せて付き添い、みなと一緒に町内をワショイ、ワッショイと練り歩いたものである。

夜になると、神社の参道の入口にはいつも子供たちが描いたあどけない雪洞の絵が夜風によろめき、境内では綿飴やヨウヨウや焼き玉蜀黍や林檎飴などが売られ、舞台ではコロンビアレコードの新人だとかいう誰も知らない演歌歌手が、あまり上手ではない演歌を夜遅くまで歌っていた。

敗戦までは十二所部落の氏神として各隣組が順番に担当して祭典を行ない、祭礼に四斗樽3、4本を抜いて道行く人を接待したそうだ。またその年にとれた大豆で豆腐を作ったので、「豆腐祭り」とも称したと伝えられている。

祭りの前夜にはすべて祭礼の準備が整った神社の真ん中に一人の男が寝ずの番をして夜明けを待っていた。神社のきざはしの隣には幅7m、高さ3mの掲示板が組みあげられ、氏子一同の寄付金が高い順番に書かれていた。

私は氏子ではなかったが、いっとう安い口である千円を寄付していたので、念のためにそれを確認に行くと、墨黒々と「あまでう殿金1千円也」と書かれていて、それを見るとなぜか徒世の義理を果たしたような気になってほっとため息をついたものだった。

しかしその奉納帳である掲示板に異教徒であるはずのカトリック教会が5千円も寄付しているのを見ると、この国ではゼウスの神も国津神も並び立つのかと名状しがたい困惑を覚えるのが常だった。

祭礼に神前に供える日本刀は、山口義高翁の知己で当時二階堂の瑞泉寺にいた刀剣鍛冶師が奉納したものであるというが、今は十二所神社のすぐ近所になんとみこしの製作家が住んでいる。これもなにかの縁だろうか。


♪母上がこよなく愛で給いたるライラックの花今年も咲きたり 茫洋

Wednesday, May 07, 2008

十二所神社物語その1

鎌倉ちょっと不思議な物語116回


十二所神社はもとはおなじ十二所の光触寺の境内にあって、十二所権現と称していた。

紀州熊野神社本宮に宗祖一遍聖人がおこもりして宗旨を開いたので、時宗寺院では本宮を勧請して祀った。その一遍ゆかりの光触寺の十二所権現の十二所を取ってわが村の地名としたのである。

ところがなにかわけがあったのだろう、十二所権現は天保9年1838年に大木市冴左衛門が寄付した現在地に移され、明治の神仏分離のときに名を十二所神社と改め天地7代、地神5代をもって祭神としたのであった。


♪そんなの関係ねえとパンツ男が叫ぶたびぷつんと切れる他者とのつながり 茫洋

Tuesday, May 06, 2008

十二所物語

鎌倉ちょっと不思議な物語115回


私が住んでいる鎌倉の十二所は、鎌倉時代には「山之内庄」「大倉郷」などと称したこともあったらしい。里人たちによると字の家数がたまたま12だったので十二所となったとか、当所の小字に和泉谷、太刀洗、七曲、タタラヶ谷、宇佐小路、明石、積善、二ヶ橋、稲荷小路、番場ヶ谷、吉沢、関ノ上の12箇所があるのでこの名がついたとか諸説ある。 ちなみに私は最後の関ノ上に30年近く住んでいる。

この十二所の地名がはじめてものの本に登場するのは、応永23年1416年に刊行された「鎌倉大草紙」である。

下って「新編鎌倉志」巻二に「十二所村は報国寺の東の民家なり。十二郷谷ともいう。里人云う。『家村十二ヵ所ある故に名づく。今は僅かに三、四ヶ所あり』」とあるが、これは十二所ではなく現在の青砥橋の十二郷のことで、わが郷里とは異なる。

十二所の地番は泉水橋の右岸からはじまり、川岸をさかのぼって峠に至り、左岸を下ってまた泉水橋にきて1013番地となる。昨日紹介した大江稲荷は少し飛んで1014番、私の家は299番である。

気象庁も予報士もみなうそつきだお詫びと訂正くらいせよ 茫洋

Monday, May 05, 2008

鎌倉ちょっと不思議な物語114回

十二所の「大江稲荷社」拝観

これは前回に紹介した大江広元邸の屋敷神であったものがのちに近所の稲荷小路に移転してここに安置されたと「十二所地誌新稿」は伝える。

大江広元は、自らの出身地である京都ゆかりの伏見稲荷を自邸に祭り、初午の日に祝っていたのである。

灯篭は地元の大地主である山口家の寄進によるもの。石の祠の中にはご神体として丸い石が入っている。私はなぜか福沢諭吉の少年時代の故事を思い出した。

稲荷社の前に狐が安置されるのは神様の使いと考えられたのであるが、この山腹の奥にひそりと眠る稲荷は、平成の御世にも近所の伊藤氏などによって手厚く保護されているようだ。


♪今朝もまた鶯の歌で目覚めたり 茫洋

Sunday, May 04, 2008

サガン著「悲しみよ こんにちは」を読んで

照る日曇る日第123回

ここにやや通俗的ではあるがお洒落でダンディな中年の独身男がいる。そのばついちのパリジャンは次から次に女を取り替えてきままな第2の青春を満喫しているのだが、彼には目の中に入れても痛くない一人娘がいて、2人は親子の域を超えた愛と友情をわかちあっている。

父親にも少女にも恋人がいるのだが、そこに少女の親代わりの美貌と知性を兼ね備えた女性が現れ、2人は結婚しそうになる。父親との理想的な関係を壊され、父親を奪われたくないヒロインはここで一計を編み出し、それまで父親の恋人であった若い女と自分の恋人をそそのかしてお熱いところを父親に見せつけるといい加減な父親は昔の女にむらむらとなって手出してしまい、それを知って絶望したヒロインの未来の義母は自殺してしまう。

そこで、「悲しみよこんにちは」というのがこの18歳の才媛によって書かれた本作のあらすじである。

あらすじもまるで人形劇の書割みたいな荒唐無稽なものだが、もっとひどいのはそれぞれの人物のうすっぺらな造型であり、彼らがパリのカフェで茶を喫しようが、夜の酒場でダンスを踊ろうが、真昼の海岸で砂に頬を埋めようが、はたまたフレンチキスをしようが、血の気の通わない人形たちがまるででくのぼうのようにぶらぶら宙釣りになって、おされでシックなおふらんす小説の真似事をしているだけのことだ。

 だいたい「その夏、私は17だった。そして私はまったく幸福だった。私のほかに、父とそのアマンのエルザがいた」などといういかにもの1行にいかがわしさを感じなかったとしたら、その人には文学的感性がないと断言したって構わないような代物なのだ。いくら18歳の若書きだって、だめなものは、いつまで経ってもだめなのである。

この小説で、ゆいいつ素晴らしいのは、「悲しみよこんにちは」という題名だが、その肝心のタイトルですらこの作品で献辞としてとりあげられているポール・エリュアールの「直接の生命」という詩のフレーズなのだから、もはやなにをかいわんやである。

♪赤青黄3色で威嚇する夜光虫のごとく3機の航空機夜空を行く 茫洋

Saturday, May 03, 2008

デュラス著「愛人 ラマン」を読んで

照る日曇る日第122回

「太平洋の防波堤」が著者の心のポジ小説であったとすれば、これはその同じ小説のほぼ同じシーンをもういちどえぐった自伝的ネガ小説とでもいうべきものだろうか。

ふたたび仏領ベトナムの地にさすらう孤独な母と二人の兄、さうして作者を思わせるこの小説のヒロインが登場して、17歳の少女の中国人との愛が語られる。

17歳といえばさかりのついた犬のような年頃で、少女は年上の金持ちの中国人に彼が娼婦と寝るときのように荒々しくやってほしいと頼み、その切なる願いはたちまちかなえられる。

この年代では、女も男も、彼らの内なる欲望は現実のものになるか、それとも実現されずに闇の溝水のなかに排泄されるかのどちらかなので、どちらかといえば、実際に夜な夜な愛し合い、性交を繰り返すほうがあらゆる意味で望ましいのである。

やがて南国の真昼に果てしなく燃え上がる激烈な恋の物語は、実際に著者を訪れた現実と同じように突然の終局を迎え、サイゴンから地中海に向けて大型客船は出航し、あとには愛を失った男とひとすじの煙が残された。

少女はなにせ作家の卵だったから、「18歳で年老いた」と抜かすのだが、尻こだまが抜けて廃人同様になったのは、もちろん男のほうだった。いずれにしても、書いた方が勝ち、書かれたほうが負けである。そのうえこんな話を映画にするやつがいるのだから、どうしようもない。

またしても5月3日がやってきたとく天皇制を廃止せよ 茫洋

Friday, May 02, 2008

デュラス著「太平洋の防波堤」を読んで

照る日曇る日第121回

どことなくブロンテの「嵐が丘」を思わせる小説である。ただ「嵐が丘」がヒースが冷たい風に吹かれる荒涼たる北の国を舞台にしていたのに対して、こちらはモンスーンとタイフーンが太平洋から押し寄せるインドシナ半島の南の国の物語という違いはあるが、どちらも神話的な男と女が登場する愛の物語であることに変わりはない。

老母と2人の兄妹が壊れかけたバンガローに住んでいる。そこは毎年必ず海から押し寄せる高波のためにあらゆる家も田畑も耕作物も根こそぎ押し流されてしまう。にもかかわらず年々歳々稲を植えては流されてしまうフランス移民のその老婆の孤立無援の戦いは、さながらシジフォスの神話である。全財産をはたき、100人の百姓を指揮して構築した巨大な堤防が田んぼに棲む蟹に食い尽くされてあえなく崩壊してしまうさまは、悪意ある天地と大自然に挑む勇気ある人間の蟷螂さながらの不屈の戦いを象徴しているようだ。

ここは貧困とコレラと死と闘争に覆い尽くされた不毛の干拓地である。たえず生まれてはたえず死んでいく子供たち、永遠に君臨する太陽、水浸しの果てしない空間。そこに登場するヒースクリフのような老母の息子やキャサリンのような娘、町からやってくるリントンのような、アーンショウのような男たちとの間で繰り広げられる荒々しい、また純な恋。

荒蕪地にすっくとそそりたつそれら人物の造型は、輪郭がくっきりとしており、皮膚の隅々にまで熱い血がいきわたっており、新しい読者の共感を呼ぶことだろう。えぐいぞ、デュラス。

♪自動的に人間にピントが合うという新型カメラを私は買うまい 茫洋
♪まずは蝶、次には花と水と土この順番にフォーカスしなさい 茫洋

Thursday, May 01, 2008

♪ある晴れた日に その27

朝比奈峠で春型のクロアゲハがたくさん飛翔していた。春風に乗ってやわらかく飛んでいた。

♪黒揚羽五月一日生まれなり 茫洋


♪われに来てしばし物言ふ黒揚羽 茫洋